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はまつゝ羅抄 安倍紀行 36 東、天神鈴石、肥え付石

(日加美神社)

安倍紀行の解読を続ける。靜岡市葵区東に日加美神社がある。産土神天王社とはこの神社のことに違いないと思い、立ち寄った。社の名前は変わっているが、村の産土神としての格を感じた。解読していくと、不思議な石が二つ、語られている。

・東村 産土神天王社あり。ここの沢に一町許り入り、松樹下に、高さ三間、横二間許りの巨巌石あり。面に一寸許りの小穴二つあり。右の側を廻り見れば、地下より五、六尺許り上に、経尺ばかりの穴あり。穴中を望み見るに、蟻通しの如きまかれる穴、奥に深し。いにしえは西の小穴より銭を投ずれば、鳴り渡りて底に落ち入る音ありと云う。今は穴中埋りけるにや、伝の如くは鳴らず。この石、天神鈴石ととなえぬ。天神七代の御神を齊(まつ)るところといえり。
※ 蟻通し(ありどおし)- アカネ科の常緑小低木。山地の樹陰に生え、高さ30~60センチ。細い枝が変化した1~2センチの針が多数ある。初夏、白い漏斗(ろうと)状の花をつける。岩に明いた穴をこの花の形状に例えたものと思う。

こゝを去って、なお山の腰に沿いていたれば、一間許りなる板橋あり。ここの左の丘に洪鐘の如く、黒漆の色したる一片石あり。里人にとえば、肥え付石とて、毒石とて、この毒気にあたるもの、足のふとくなれる病を生ずといえり。いかさまこの石の毒にや、或は沼田の中に毒気あるにや、この辺の農夫は多くはこの病あり。
※ 洪鐘(こうしょう)- 大きなつりがね。大鐘。巨鐘。

30日の取材では何とかこの二つの石、「天神鈴石」と「肥え付石」を見てみたいと思った。現在も存在していることは、ネットで確認できていた。「肥え付石」はある場所も判ったが、「天神鈴石」は山を15分ほど登った先にあるというだけで、見当が付かない。ただ「肥え付石」からそれほど遠くないところに登リ口があるらしい。


(肥え付石)

日加美神社から1キロ余り南へ下った山の端に、麻機園という特養の老人ホームがある。その入口近くの道路端に「見通塚地蔵堂」という祠がある。実は「駿河百地蔵巡り」のとき、この地蔵堂に参っている。「肥え付石」はそのすぐ右隣にあった。地蔵巡りのときは、汚い石があるくらいにしか思わなかった。おそらく、実際にあった場所から、この道路端まで下ろして、お祭りされているのであろう。


(天神鈴石)

次に、探したのが「天神鈴石」である。少し北へ戻って、家庭農園にいた老人夫婦に聞いた。この地に住むようになって40年経つと話すご夫婦は、丁寧に教えてくれた。山際に上水道の大きなタンクが見えた。その少し北側に山に向かって付けられている農道を登って行った先にある。昔は下の道から見えていた位で、歩いてもそんなに時間は掛からないという。農道を行くと、登りになる手前で、頑丈なゲートがあり、車は入れない。歩いて標高を稼ぎながら、左回りに登ったところで、道路の左下に「天神鈴石」が見えた。二つの小穴は確認できなかったが、一尺許りの径の穴はあった。10円玉を放り込んで耳を澄ませたが、わずかにちゃりんと聞こえただけであった。

ともあれ、目的の二つの石は確認できて、満足して次に進んだ。
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はまつゝ羅抄 安倍紀行 35 有永、羽高、北

(有永村、聖楽寺)

安倍紀行の解読を続ける。安倍紀行も昨日読み終えた。このブログで残り4回となった。今日、晴れたので最後の取材に行った。

「はまつゝ羅抄 安倍紀行」の後は、何を読もうかと考えた結果、「遠州濱松軍記」という、軍記物を読もうと決めた。これは解読文がないので、実力が試される。

・有永村 済家聖楽寺、山上に観音堂あり。本尊は行基の作にて、佛体の後に梅若丸の母、智常比丘尼の守り本尊と彫り付けあり。この里、川津氏藤吉という人を訪いて、ここの佐藤伊八と云う者のこと尋ねけるに、先祖は武田氏の家臣にて、佐藤加賀守某とかや。勝頼主、没落の後、父子当里に蟄居しける。父は法名、一叟浄見と号す。天正十九卯二月三日没。武田氏の判形ありしが、今は失いて伝なし。高野山文殊谷法泉院の旦那にて、かの寺に先祖の位牌等存せりと云う。
※ 梅若丸(うめわかまる)- 中世・近世の諸文芸に登場する伝説上の少年。京都北白川吉田少将の子で、人買いにさらわれ、武蔵国隅田川畔で病死したという。謡曲「隅田川」、浄瑠璃などに作品化されている。


(聖楽寺観音堂)

麻機街道から細い道を山側に入った所に聖楽寺はある。少し登った先に本堂があり、本堂の屋根よりも更に高い山の中腹に記事通りの観音堂が見えた。観音堂脇には、石の大きな聖観音像が立っていた。

・羽高村 洞家福成山朝楽寺と云うあり。寺後山上に、むかし吹鳴の松とて、名高き松ありけるが、今は枯れてその跡もなし。里人の伝に

   しづはたの あさばた山の あふの池 いづくの風も 吹なりの松

また歌枕に、

   夜とゝもに あさばた山に お(織)るものは 木々の紅葉の 錦なりけり

すべて、平ヶ谷より東村まで七ヶ村を麻服(あさはた)の郷と云う。かの村里の後の山つづき、皆、麻服山と総名せり。


・北村 産土神、浅間社。この社地は村落を通りぬけて、北東の際、奥の方に入ること三町許りして、谷川を渉り越えて、大なる杜に入る。すなわち神社あり。社内一町許り、里人の伝には小梳(おけづり)神社の旧地はこの地なりといえども未詳。


(北村、浅間神社)

北村の浅間神社は、周囲が宅地化が進んで、昔の様ではないが、現在もあった。境内に巨木が何本も立っている所から、往時と場所は変わっていないと思った。

この社に向い、左の谷に一里許りも入りては、黄檗宗に滝谷山光明寺と云うあり。本尊不動の石仏にて、弘法大師の作という。開基は竜堂和尚。龍爪山の南麓より、神満の瀧とて、一より二、三の瀧あり。この支流を、きよき川と呼ぶ。下流、ありなが(有永)をへて、麻服沼に落つ注ぐなり。また神社の右の方に入れば、竜爪権現へ登山の道あり。およそ五十町の登りと云う。
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はまつゝ羅抄 安倍紀行 34 丸山、福田寺から臨済寺まで四寺

(丸山町、安西寺、流れの井)

安倍紀行は浅間神社を跡にして、賤機山の東側の麻機街道を北へ進む。

左の丘にのぼれば、秋月山福田寺とて、時宗の寺院あり。御朱符寺田八石。開山中興一寮。その(本尊)阿弥陀。開基は後藤庄三郎良重なり。寺中に流れの井とて、傍に碑石を建てたり。慶長庚子九月十三日、神祖この辺御遊びありて、京師の丸山に似たりと仰せありしより、丸山と称す。さて寺に入らせ給いて、
※ 京師(けいし)- みやこ。

   まつたかき 丸山寺の 流れの井 いくとせすめる 秋の夜の月

と詠み給いしとなん。


明治30年、福田寺は山崩れで大破し、その本寺であった安西寺も間を明けず、火災で全焼した。その後、この2寺は合併して、安西寺として、丸山のこの地に再建された。「流れの井」は古い碑石とともに、安西寺の境内にあった。


(大岩本町、松源寺)

・瑞原山松源寺、済家の法幢寺なり。開山英宗禅師、天正十四年丙戌七月十一日寂。この院はじめ有渡郡大和田新田にありしが、易地せり。寺後山上、小野朝右衛門高寛母の塔あり。
※ 易地(えきち)- 取替え地

・湯光山天沢寺、済家法幢寺。御朱符寺田五石。開山大原和尚。、開基天沢寺殿秀峯哲公大禅定門、今川治部少輔義元朝臣御事なり。永禄三年五月十九日、尾張国桶狭間にて、織田信長公の為に戦死なり。家臣岡部五郎兵衛直幸、大剛の義士にて、鳴海の城守衛にてありけるが、かの城を退かず、織田氏に弓を引けるを、信長公義心を感じて、和を入けるに、岡部主君義元の遺骸を申し請けて、本国に立ち帰りける。

氏真朝臣、こゝに於いて、この所に遺骸を葬送、御菩提寺を建立ありしなり。かゝる御廟院にも似ず、近頃まで無住にて、かの伽藍も打こぼされて、今はあともなく、ただ御廟塔に少しの雨覆堂を造りてありけるのみ。盛者必衰の世の中は、かくもあさましきものかなと思いやれば、盛るも衰るもただ夢幻の世の中なりと、恐れおおき事なれと見るに、涙をそゝぎけり。

・大竜山臨済寺、済家京妙心寺末、法幢寺にて、御朱符の寺田百石を賜う。開山勧請円満本光国師二世宝珠護国禅師、すなわち雪斉長老の事なり。弘治に遷化の僧なり。開基臨済寺殿用山玄公大禅定、天文五年丙申四月十七日卒去、今川上総守氏輝朝臣なり。すなわち義元朝臣の同腹の兄にて、早世の人なり。また天正年中、国守中村弐部少輔一氏卒して、この院に葬る。大龍院殿一源心公大居士と称すなり。その外今川氏、武田氏の牌あり。伝に云う。後奈良院の勅願にて勅書を給う。四辻大納言の添え文あり。勅願寺となる。神祖台命にて伽藍諸堂御建立ありしと承りおよびぬ。
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はまつゝ羅抄 安倍紀行 33 浅間神社 2


(八千戈神社 - 摩利支天社)


(少彦名神社 - 神宮寺薬師社)

我が家も築四十年近くたって、改築などで手を入れていない居間と廊下がぶかぶかしてきたために、大工さんに改良工事を頼んで、今日から大工さんが入った。居間には光り回線が入り、パソコンが置かれ、テレビもある。昨日は一日掛りでその移動を行った。今はダイニングでパソコン入力をしている。隣にはムサシが丸くなって寝ている。そう、ダイニングは夜のムサシの寝所なのである。しばらくは、ムサシも寝不足になるかもしれない。

   *    *    *    *    *    *    *

安倍紀行は浅間神社の記述が続く。上の写真は浅間神社の八千戈神社と少彦名神社の写真である。八千戈神社は家康が合戦で常に奉持した念持仏の摩利支天を祭ったことから江戸時代までは摩利支天社と称されていた。また、少彦名神社は江戸時代までは神宮寺薬師社と称され、薬師十二神を祀っていた。いずれも明治の廃仏毀釈、神仏分離で、仏像、神像は臨済寺に移され、社殿の名前も変えられた。

安倍紀行の解読を進めよう。

当社宮殿、その上代の造営、荘厳の事、詳らかならず。鎌倉の時、平(北条)泰時、貞応二年造営あり。東鑑に云う。貞応三年(1224)二月廿二日、駿河国進使者申し云う。一昨日、廿日丑刻、当国惣社並びに富士新宮等焼失、神火云々、如様に出たり。
※ 神火(しんか)- 落雷などの自然現象、その他人為をこえた怪しく不思議な火。

その後、国守今川氏の時、造営。然れども、今に於いては、その荘厳のよしあし不詳。天正年中、東照神君御造営の後、寛永十一甲戌年(1634)、大猷院殿(家光)御上洛の時は、城代松平豊前守へ台命にて、社中再御造営あり。本社拝殿、舞台、回廊、楼門、仁王門、以下摂社、諸堂に至るまで、棟梁彫刻荘厳抜群なりぬ。その神宝、祭器、装束等に至るまで、美麗に建立ありし。御城代、大久保玄蕃頭、町奉行、土屋市之丞等これを承り、奉行せり。
※ 台命(たいめい)- 将軍または三公・皇族などの命令。

然るに、安永二年癸巳(1773)、正月十二日夜、材木町より出火、西北風烈しくて、山宮へ火移り、それより浅間惣社一宇も残らず炎上なり。天明八年申(1788)十一月六日、片羽町より出火、西南風烈しく、仮殿へ火移り、浅間惣社をはじめ、摂社仮殿、癸巳年焼け残りたる奈古屋の社まで、悉く炎上しける。その後、仮拝殿にてありしを、享和三年癸亥(1803)、御再建の官命ありて、今年文化乙亥(1815)御造営、あらましにて、荘厳美麗なること、古えに同じ事なりと承る。

御瑞籬を出て、東に過ぐる。右には神官、社家の人々の宅地、また定光院、玄陽院など云う社僧あり。左には惣社別当、惣持院と云うあり。この院には東照大権現の御宮あり。

※ 御瑞籬(みずがき)- 神社や皇居などの周囲に設けた垣根。また、神霊の宿ると考えられた山・森・木などの周囲に巡らした垣。たまがき。かみがき。いがき。
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はまつゝ羅抄 安倍紀行 32 浅間神社 1

(浅間神社大拝殿)

安倍紀行では、いよいよ靜岡浅間神社に至る。さっそく解読を進めよう。

・片羽町 浅間惣社の領なり。毎年五月節、白瓜を上に献ずる。


(奈古屋神社-大歳御祖神社)

・宮内村 奈古屋神社あり。祭神未詳。後水尾院御製、

   しづはたの 山もうごかぬ 君が代に なびくなごやの 森の松風

摂社、荒神社、宗像社あり。


奈古屋神社は現在の大歳御祖神社のことで、浅間神社境内の南の端、赤鳥居の先にある。元は、奈古屋神社と大歳御祖神社は別であったが、いつの頃か、両社が一つになり、大歳御祖神社と呼ばれるようになったようだ。

惣社の御神は大己貴命、相殿瓊々杵尊、拷幡千々姫命なり。摂社七社あり。また出雲社、八幡宮、虚空蔵、神宮司、薬師、宗像、荒神などあり。神官は惣社中務志貴氏なり。むかし今川氏の時代に、三条内大臣実望卿の歌に

   心なき 身をしら霧の おきもせず ねもせで祈る 国のすえ神

国史には祭所の神、相殿の二座のみに、嵯峨帝弘仁三年、また仁徳帝四十年、天武帝十二年、陽成帝元慶二年など、惣社の御事について諸説あれど、ここには略す。風土記にも思津機神社の説を載せたり。

浅間の御神は祭神、木華開邪姫命(このはなさくやひめのみこと)、相殿、瓊々杵尊(ににぎのみこと)、万幡姫命なり。伝に云う、醍醐天皇勅願により、延喜年中、当国富士本宮浅間より勧請なり。よって新宮、天満宮、諸神、稲荷社、荒神社等なり。今川氏親朝臣の歌に、

   今日よりは さしてぞ祈る 夏衣 賤機山の 神の榊に

また氏真朝臣の歌に、

   賤機や 曇らぬ花の 神垣の 春に柔らう 光添うらん

この二歌は、浅間歌といえるにもあらず。総べて当社さしての歌なれば、こゝに記しぬ。浅間神官は新宮兵部村主姓なり。



(浅間神社楼門)

駿河惣社(神部神社)と浅間神社は、石鳥居から入って、総門、楼門、舞殿、大拝殿と一直線に並び、大拝殿の奥、石段の上に、駿河惣社と浅間神社の本殿が並んで建っている。

大歳御祖神社、駿河惣社、浅間神社の三社を合わせて、靜岡浅間神社と呼ぶ。地元では親しみを込めて「お浅間さん」呼ばれている。

山宮といえるは、風土記には麓山の神社と書きたり。社内より石燈、五十歩の登山上にあり。祭神は大山祗命、相殿日本武尊にてまします。摂社、岩戸、荒神等なり。すべて賤機山南麓に御鎮座なり。

三社とは別に、山中に麓山神社がある。大歳御祖神社と、駿河惣社・浅間神社の間にある高い石段を登って、賤機山の展望台に行く途中にある。

御朱符社頭二千六百十弐石余。神官、社人、社僧など百三人。年中祭礼弐百余度、大礼の神事は、二月廿日会、三月会、四月、十一月両度の初申、五月、六月両度の流鏑馬等なり。
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「風に立つライオン」 と 安倍紀行 31 井宮

(旭姫の墓)

午後、島田のおおるりで、堤可厚(つつみよしあつ)医師の講演会があった。義弟から入場券を頂いて、女房と二人で出席した。

堤医師は永年アフリカの医療に現地へ飛び込んで従事し四十年、現地で医師の育成に貢献されたという。まるで、「風に立つライオン」の世界だなと思ったのが、最初の印象であった。さだまさしの「風に立つライオン」は、アフリカの医療にたずさわる日本人医師が、日本の元恋人に送った結婚の祝福と別れの手紙という内容であるが、実話だと聞いていた。あとで、「風に立つライオン」は堤医師のことで、歌詞の内容の70%は自分が書いたものだと司会者と、本人から明かされた。

口下手だからと、講演は写真と元島田市教育長の松田宏氏との対談という形で行われた。堤医師は70代の後半位の歳だろうか。情熱の塊のような医師で、自分は頭が悪いから現場を自分の目で見ないと理解が出来ないと、徹底した現場主義で、数々の国を巡ってきた。

1965年、国連の現地研究員として、シュバイツアー病院で90歳近いシュバイツアー博士に会って、その下で、アフリカの医師になることを決め、シュバイツアー博士の第一の弟子になった。だから、堤医師のアフリカの身元引受人はシュバイツアー博士であった。

1985年、ザンビア大学医学部教授時代に、国民の半数はエイズといわれ、エイズの母が産後に多く亡くなり、残された子供たちを育てている、孤児院「カシシ子供の家」の存在を知り、その活動に加わってきた。

スマトラの大津波、東日本大震災もそれぞれ現地で遭遇し、医師として援助活動に加わってきた。その東日本大震災の津浪で、自分の弟子の、アフリカからの留学生四人を亡くした。ジンバブエ、ナミビア、アンゴラ、モロッコの留学生で、日本での研修を終え、帰国直前の遭難であった。生きておれば、それぞれの国で医療の中心として活躍する人たちだったので、無念という外はないと話した。

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安倍紀行の解読も少し進めておく。井宮の記述で三ヶ寺が紹介されている。松樹院西照寺と泰雲山瑞竜寺はあったが、籠鼻山浄功院は見つからなかった。


(松樹院西照寺)

浄土宗に井宮の松樹院西照寺とて、法地あり。開山大誉光公上人、天正九年遷化の僧なり。地内に竹中半兵衛が孫、竹中定右衛門の墓あり。本尊崇峰大禅定門、寛永十九年八月廿一日没すとなり。

同宗に籠鼻山浄功院、開山定誉蓮随上人、当山の起立は、神祖の御姫君一照院殿、乳母の庵室の地にて尼公姫君の御周忌に当り、御菩提のため、心願によりて台名を蒙り、慶長十六年二月、有渡郡平沢村の浄光院をこゝに移し、伽藍御建立と聞きし。御尊牌等あり。



(泰雲山瑞竜寺)

洞家に泰雲山瑞竜寺とて、法幢地、御朱符寺田拾六石を賜う。開基瑞竜寺殿光室綱(総)旭大禅定尼と申し奉る。豊臣秀吉公御姫(妹)君、旭姫駿河御前と申し奉る姫君、有馬御湯治、かの地にて逝去ありし。御分骨を当地に蔵(葬)するなり。寺内、恵心僧都の作、金像の観音を安置の堂あり。

井宮の賤機山沿いにお寺が並んでいる。県道から横道に入ると、すれ違いが難しいほどの細い道になる。まず松樹院西照寺に参った。地蔵巡りのときに訪れて、記憶にまだ新しい。続いて泰雲山瑞竜寺では、墓地に入って旭姫の墓を探した斜面の墓地の中腹に、遠目にお墓を示す立て札を見つけた。
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はまつゝ羅抄 安倍紀行 30 門屋、菖蒲ヶ谷、井宮

(今も変わらぬ釣堀の鯨ヶ池、ただ新東名で風景が一変)

台風27号、28号のダブル台風が太平洋にいて、日本中が何やら騒々しい。幸いにも二つともに、日本列島への上陸は免れそうで、幸いである。当地は明日の午後には天気が回復に向かうようである。今夜は、時折り激しい雨が屋根を叩いている。

安倍紀行の解読を続ける。

・門屋村、鯨ヶ池山際にあり。開田八町ばかり。干魃の時は、牛の頭を入るゝ時は忽ち大雨すという。

鯨ヶ池という地名が出てきたので、21日の取材の最後に、鯨ヶ池へ寄ってみた。久し振りに見る光景は、一見して昔と変わらない佇まいに見えるが、すぐ北側に新東名の橋桁が並び立って、廻りの景色を一変させていた。

・菖蒲ヶ谷、松富の下組なり。里長源左衛門、酒井氏なり。今川氏の判形家蔵す。これを閲するに、享禄四年辛酉三月廿三日、酒井惣左衛門殿と宛たり。この宗祖は酒井下総守ヨリイリ(文字不明)とて、今川氏の家臣たる。この辺は賤機山の城墟の麓にて、地名に町屋、或は功名坂など云う処あり。菖蒲ヶ谷と云うは、むかし花菖蒲名産ありけるにて号とせり。

そもそも賤機の城址は、守勝某の住居せしと云うこと、さだかならざれども、ある説によれば、今川没落の後、永禄十二年、岡部、安倍、小長谷、酒井、その他、かれこれ、こゝに籠城して、武田の二度の乱入に、信玄入道の矛先をうけて、弓鉄砲を打ち出したりと、甲陽軍鑑などには、今川殿の館の焼趾とはあれど、この城地なると言い伝えたり。既に惣社神司の祖、遠山新蔵某は、この城にてその時討死せしと云う。然れども是非未詳。


鯨ヶ池から浅間神社まで連なる賤機の尾根のどこかに城址があったはずなのだが、この尾根は縦走もしたけれども、城址には全く気付かなかった。

・井宮神社、内津山の地内にあり、祭神、市杵嶌姫と瀬津姫とを祭る処なり。風土記に見えたり。

・井宮村、妙見社が祭神、破軍星なり。むかし当山に於いて唐櫃を堀り出す。内に宝釼(つるぎ)ありし。今本社に蔵す。その処を地主、権現の塚と呼ぶなり。

※ 破軍星(はぐんせい)- 北斗七星の第七星、柄の先端にあたる星。陰陽道では、その星の指し示す方角を万事に不吉として忌んだ。


(井宮村、妙見社)

井宮神社の所在はつかめなかった。ただ妙見社は、妙見下交差点の表示も見つけて、近くにあるに違いないと見当を付けて行った。妙見下交差点を素通りしてしまい、戻ってきて細い路地に入り、近所の人に尋ねたところ、妙見下交差点から妙見社へ登る道があって、車で上まで登れると教えてくれた。入口が余りに狭くて、再び通り過ぎ、鳥居が見えたと思って、引返して鳥居を潜った。細い道を上って小広い駐車場まで行けた。

拝殿前にでると、井宮・白山神社、内津神社の二つの額が掛かっていた。案内板には、徳川家康が妙見菩薩(北斗七星のひとつ破軍星)を祭ったので、妙見山の方が有名で、昔から妙見さんと呼ばれている、とあった。井宮神社も妙見社も同じ社だったのだろうか。どうも、明治以降の神仏分離や合祀が事をややこしくしているようだ。
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はまつゝ羅抄 安倍紀行 29 俵沢、俵峰、郷島、牛妻

(牛妻、福寿院)

安倍紀行の解読は続く。残すところあと10回くらいで読み終えると思う。

・俵沢村、産土神、山神社。天文十七年勧進請なり。天満宮古社なり。勧請不詳。村中に大なる銀杏樹あり。こゝに西国の三十三所の観音石仏を安置す。里長大村氏にやどる。この家の先祖、永禄の頃、今川氏の時、大村彦六郎家重という、土着の士なり。今川家の朱印二通、蔵す。天正二年、武田氏の朱印壱通あり。

・俵峰村、この処の長、杉山氏は安倍七騎の内なり。照応三年、今川氏親朝臣の時、杉山太郎右衛門という宛の朱印一通。天文廿一年、今川義元朝臣の判形一通。永禄年中、氏真朝臣の朱印一通。一通には杉山小太郎殿、望月次郎右衛門どの、二連名なり。また武田の朱印、天正年中の分、二通、今に家蔵す。

・郷島村、この里紙を漉き出せり。里長海野惣左衛門が家に、武田家の文書を蔵せり。


俵沢、俵峰、郷島と、それぞれの集落まで車を進めてみたが、ターゲットを定めずに走ってみても、昔ゆかしい場所に行き当たるものではない。どんどん下って、牛妻の集落では、県道から少し登ったところに、福寿院というお寺を見つけた。

・牛妻村、福寿院、曹洞宗なり。本尊千手観音。異人行翁の手刻なり。行翁はいかなる人にや、と問わば、これより十八町許り登りて、龍爪山の麓に行翁山と唱う処に洞窟あり。この処、むかし貞観年中、一人の異人窟中に静座し、常に千手千眼の神咒を唱えけること久し。所の者、是を呼びて帰依し、折々参りて拝しける。その後、翁この地を去りけるとて、鉄の足駄携し、鉄杖を老樹の本に弃(棄)て置き、既に去らんとせし時、槙部の某、袂にすがり、名残りを惜しみしかば、かの翁、則ち料帋を取りて、名号を書きて与え、立ち去りけると云う。
※ 神咒(しんじゅ)- 霊妙な呪文。神霊な呪文。

按ずるに、京、清水寺いまだ精舎とならざる以前、行叡と云う異人、二百年の年月を経て、千手千眼の神咒を持し、報恩沙弥の来るを訪ね得て、我は東州に行くなり。吾に替ってこゝに棲めと、東に向って去ると、元享釈書に載せたれば、若しくはこの行叡ならんか。

かの洞の辺りより、また十八町ばかり登りて、道白平と云う処あり。天文年間、道白という道徳明智の活僧にて、この所の平山に閑居し、草花を植え、酒を好みてありけるが、黒牛常に来りて、庵室の軒に臥す。師に仕えて、人のごとく、国府に出て諸用を足してかえり来るとかや。この僧は後に有渡郡今泉村の楞厳院の開山なり。また当里の民、助右衛門が居屋敷は、むかし大永年前、今川家幕下に、荻野伊豫守と云う武人居住の地なり。五輪の石塔存せり。福寿院に位牌を建てたり。


(牛妻、白澤神社)

・森谷沢、十五六軒ばかり、皆、紙を漉き出す。左の谷に社あり。白澤神社とて、安倍郡七社の内、延喜式に載りたる或社なり。文和風土記には、所祭伊弉冊尊(いざなぎのみこと)なり。豊国成姫天皇三年庚戌、添え祭る諏訪神社と書きたり。

尋ね尋ねて至った白澤神社は住宅団地のところから、県道より少し賤機山側に入った所にあった。神社の案内板には御祭神として、伊邪那美命(いざなみのみこと)と記されていた。男神がどこで女神に変わってしまったのだろう。
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はまつゝ羅抄 安倍紀行 28 有東木、村岡

(「わさび栽培発祥の地」の碑)

藤泰さん一行は、梅ヶ島から安倍川に沿って下って行く。安倍紀行には大井河源紀行の時のような、旅の厳しさについて、記述がほとんど無い。それだけ、安部川筋の方が開けていたのだろうと想像できる。

安倍紀行の解読を続けよう。有東木については、記述がただ一行だけで、藤泰さん一行は足を延さなかったのだろうと思う。有東木は安倍川端から枝谷を上り詰めたところにあって、集落は現在も斜面に段々状に集っている。

・有東木、谷川に山葵多く佳品なり。


(有東木の山葵田)

有東木橋手前の駐車場のすぐ目の前に、「わさび栽培発祥の地」の碑がある。

碑文を要約すると、

山葵(わさび)は、ここ有東木沢の源流である「山葵山」に自生していた。約四百年前、慶長年間に、村内の井戸頭という湧水地に植えたところ、よく成長繁殖した。村人達はこぞって栽培を試み、やがて栽培法は各地に広められた。慶長十二年七月(1607)駿府城に入城した家康公に山葵を献上したところ、家康公はその珍味を大変喜び、山葵が葵の紋と符合することもあって、山葵を有東木から門外不出の御法度品とした。

ところが、延享元年(1744)、伊豆天城の住人、板垣勘四郎が椎茸栽培の師としてこの地に派遣され、任務を終えて帰国に際し、そのお礼として、庄屋が弁当籠に忍ばせた山葵の苗を、密かに持ち帰り栽培した。これが伊豆の山葵栽培の始まりとなったという言い伝えがある。今では伊豆が山葵の一大産地となっている。

・村岡村 むかし、末高石見守と言う、安倍七騎の内の武人、居住の地なり。今、山畑の上段に古墳存す。子孫は半左衛門とて、将軍家御籏本に、六万五十石賜るという。
※ 六万五十石 - 六百五十石の間違い。正徳六年(1715)に知行六百七十一石という記録がある。(駿河記)


(末高氏一族の墓地)

村岡村というのは、現在の葵区平野である。ネットで末高氏一族の墓地があるという情報を見付けて、現地を訪れた。西岸に大河内小学校、大河内中学校が並んであり、中学校の北側に不動の滝がある。かつて、その不動の滝を見に来たことを思い出す。墓地は不動の滝のある山から出た尾根が、安倍川に向けて延びた先の尾根上にあるのだろうと見当は付いたが、尾根に登る道が見出せない。正面から駄目なら背後から取り付けばどうだろうと、県道(梅ヶ島街道)に戻り、尾根の北側に回ると、小さな案内板を見つけた。

尾根に立つAUのアンテナ(下からは見えない)への点検路をたどって登り、アンテナの背後から少し下って、放置された茶畑の斜面の上に、墓地が見えた。茶畑を掻き分けて、なんとか墓地までたどり着けたが、このままではやがて放置茶園に埋ってしまうのではないかと思った。

末高氏一族の墓地は、ブロック塀で囲まれた中に宝篋印塔が二基並んで立ち、古い墓石もいくつか見られた。
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はまつゝ羅抄 安倍紀行 27 梅ヶ島

(梅ヶ島温泉、湯之神社)

藤泰さん一行は、井川から山を越えて梅ヶ島へ下ってきた。安倍紀行の解読を続ける。

・梅ヶ島、山中の溪に紫石多し。その所、長州の赤間石に似たり。日蓮宗連久寺、開山日吉上人、永禄二年寂。公林、天神森、荒智山、仏山と云う。古えは御巣鷹山なり。小里は大代、戸持、草木、藤代、日蔭沢なり。この処、湯の権現とて三社あり。温泉二ヶ所、古老の傅と云う、むかし八の宮尊賀日延上人、悪疾をうけ給いけるが、地神の霊夢によりて、甲斐の国よりこの温泉四方に聞えて、近頃は多く、当国、他国の人も来たり、浴しける。第一、疽瘡揚梅瘡の類いによろしと言う。
※ 疽瘡(そそう)- 皮膚のできもの。
※ 揚梅瘡(ようばいそう)- 梅毒のこと。



(梅ヶ島温泉、湯滝)

梅ヶ島の最奥に梅ヶ島温泉がある。車で、その最奥まで行った。朱塗りの橋を渡り、かつて共同浴場のあった敷地(現在小公園となっている)から、石段を登って、湯之神社に参る。神社の右下が梅ヶ島温泉の源泉で、作業の人が点検をしていた。源泉のすぐ右に、湯滝が急斜面を下り落ちていた。この滝にはわずかに白い濁りも見える。どこかで湯成分が混じっているのであろうか。ちなみに、梅ヶ島温泉は単純硫黄泉である。

案内板によると、梅ヶ島温泉と湯之神社には、安倍紀行の記述とは別に、次のような話が語り継がれている。

正保二年(1645)初夏の頃、甲州天目山に治療中の良純親王は、西方に霊泉ありとの夢のお告げで、それを尋ねて安倍の峠へと辿った。重い足を引きずり、峠に近い逆川のほとりで休憩していると、赤い三匹の小蛇が現れて、親王を導いて、やっとのことで温泉にたどり着いた。この温泉に浸かると、三日で痛みもとれ、十数日で難病もすっかり快癒した。親王は御仏が仮の姿で、赤い三匹の小蛇として現れて、お救いになったと信じ、守り刀の備前長船祐定、紺紙金字の願経、水晶八房の御数珠を捧げられ、三蛇大権現としておまつりした。

全く別の伝説として理解していたが、ネットで調べたところ、実は「良純親王」と「八の宮尊賀日延上人」は同一人物であった。

後陽成天皇の第八皇子として誕生され、慶長十九年(1614)に親王宣下を受けて直輔親王と名乗られ、翌元和元年(1615)に徳川家康の猶子(義子、養子)となった。元和5年(1619)16歳の時、出家、得度して良純と名乗り、後に知恩院初代門跡となった。ところが、寛永二十年(1643)に突如、甲斐国天目山に配流された。理由としては色々語られるが、江戸幕府との確執が原因と思われる。万治2年(1659)に勅許によって帰京するが、もう知恩院に戻ることはなかった。良純親王は通称「八宮」と呼ばれていた。

梅ヶ島温泉の話は、八宮が甲斐国天目山に配流されていた時代の話である。結果として、二つの伝説の違いは、「三社」と「三蛇」の違いだけとなる。

安倍紀行を続ける。

また金山多き処にて、金砂を堀り出せり。この所にて吹き分けて、円金となし、郷に納めて価(あたい)を賜うとなり。金掘りける古穴より、鍾乳石を産す。その外、物産、諸材木、雑穀の類いを出す。この里より甲斐の國南部へ三里。身延山へ五里。いずれの方へも山越し、嶮岨の立つ路なり。
※ 金砂(きんさ)- 砂金のこと。
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