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犀ヶ崖の「肥後守本多君戦歿地の碑」を読み解く その3

(大代川のシラサギとカルガモ/27日夕)

「肥後守本多君戦歿地の碑」の解読を続ける。

一向賊の乱、徳川氏世臣多く叛く。黨(なかま)の君、人に謂う、曰く、皆な累世恩を蒙り、一旦叛き去る。その故を細かく繹(たず)ねるに、一、愚。二則、不忠。三則、無道。四則、義を知らず。五則、家を敗(つぶ)し、身を喪う。六則、節を失い、名を汚がす。七則、祖徳を辱める。八則、臣礼に悖(もと)る。九則、友にあらず。十則、信ならず。利を見て叛き、利あらずして降(くだ)る。その、弁を待たざるなり。
※ 世臣(せいしん)- 代々その主家に仕えている家来。譜代の臣。
※ 渠(キョ)- かしら。首領。
※ 則(そく)-(助数詞)列挙したきまりなどを数えるのに用いる。
※ 無道(むどう)- 人の道にはずれること。
※ 祖徳(そとく)- 祖先の徳。
※ 逆(ぎゃく)- 道理や道徳に反すること。また、そのさま。


今観、この言、君の卓識、高操、尋常に非ず。武人のこれなり。君、子嗣無く、その戦いに絶える。歿の地、未だ碑を建てず。今、茲(ここ)に、明治二十四年、中務君十七世孫、正五位子爵本多君、卜地し、浜松城西、犀上に、上将に石勒を建たんとす。
※ 今観(こんかん)- 今の見方、考え。
※ 卓識(たくしき)- すぐれた判断力や考え。すぐれた見識。
※ 子嗣(しし)- 跡取り。跡継ぎ。
※ 卜地(ぼくち)- 土地の吉凶をうらなうこと。また、土地を選定すること。
※ 犀(さいがけ)- 犀ヶ崖(さいががけ)古戦場。浜松市中区鹿谷町にある、三方ヶ原の古戦場の一つ。
※ 石勒(せきろく)- 文を刻んだ石碑。


銘、不朽の命を以って、恥叟これを撰ぶ。乃ち謹んでその略を叙す。併せて、三世殉節の状を録す。これを繋ぎ、以って銘々曰く、
※ 殉節(じゅんせつ)- 節操を守って死ぬこと。


 撥亂反正 孰致此功 維君維臣 克孝克忠 孝以報祖 忠以殉公 嗟本多氏
 一門驍雄 忠臣孝子 三世継隆 免君於難 殞身於 況君一言 佳俗正風
 孫子彰徳 地勝碑豊 垂之萬世 感化無窮


※ 撥乱反正(はつらんはんせい)- 乱れた世を治め、もとの正しい状態にかえすこと。
※ 戎(じゅう)- いくさ。


(銘の意訳、七五調で)
乱れた世の中正しくす、誰かこの功致すべし、この君にして臣ありて、よき孝忠が相まって、孝を以って祖に報い、忠を以って公に死す。ああ本多氏の一族は、一門上げて雄たけし、忠なる臣と孝なる子、三世継ぎて隆くあり、君免がれしこの難に、いくさの中で身を落す。況や君の一言は、良俗にして正しかり、子孫徳行世に知らせ、良き地に美なる碑を建てて、これを知らしむ万世に、永遠無限に感化せん。


       帝国大学教授兼陸軍教授、正七位、内藤恥叟謹撰
                       中根聞敬書 村石旭陵鐫
※ 内藤恥叟(ないとうちそう)- 水戸出身。明治時代に活躍した歴史家。本名は正直。後期水戸学の思想と学風を堅持し、提唱し続けた。
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犀ヶ崖の「肥後守本多君戦歿地の碑」を読み解く その2

(犀ヶ崖資料館)

犀ヶ崖には宗円堂と呼ばれたお堂があって、以前に行った時には犀ヶ崖の紹介と、遠州大念仏の展示がしてあった。その後、宗円堂に地震対策がないとの理由で、保存を要望する声もあったが、毀されて、現在の資料館が建てられた。

「肥後守本多君戦歿地の碑」の解読を続ける。

弟、即ち肥後守君なり。君、諱忠真。小豆坂の役、年甫(はじ)め、十五。勇しく戦い、衆を駭(おどろ)かす。永禄二年、東照公、大高に糧を納む。衆を択(えら)び、四将を遣わす。君、その一人なり。
※ 小豆坂の役(あずきざかのえき)- 岡崎城に近い小豆坂で行われた戦国時代の合戦。三河側の今川氏・松平氏連合と、尾張から侵攻してきた織田氏の間で、天文11年、17年の2度起こる。
※ 大高(おおだか)- 大高城。桶狭間の戦いの前哨戦として、当時今川義元の配下であった松平元康(徳川家康)が「兵糧入れ」をおこなった。


(永禄)四年二月、我が兵、水野信元と尾張石瀬に戦う。君、を接し、敵にすること、六度、創(きず)を被むれど屈せず、将(ま)た復び進み、敵兵と戦い、披靡して去る。世にその勇を称(たた)えて曰く、六度半槍。
※ 鋒(ほう)- きっさき。ほこさき。
※ 郤(げき)- 接近すること。
※ 披靡(ひび)- 壊走すること。敗走すること。


七月、今川氏の将、小原鎮実来たり戦う。君、槍で一人を刺し、(甥)中務君を顧みて、を挙げよ。中務君曰く、吾れ豈に人力に因(よ)らん。敵中に馳せ入り、自ら一級を獲る。六年、一向徒、乱を作(な)す。君と中務君、屡(しばしば)賊を破り、功有り。
※ 姪(めい)-(中国では)兄弟姉妹の息子、つまり甥のこと。
※ 中務君 - 本多平八郎忠勝。官位が中務大輔であった。本多忠高の息子。徳川四天王の一人。忠高の弟忠真は甥の忠勝を庇護して育てていたから、ここで、初首を甥に譲ろうとした。
※ 級(きゅう)- 首。
※ 一向徒(いっこうと)の乱- 三河一向一揆。三河国で、徳川家康が一向宗寺内町の不入特権を侵害したことが発端で、矢作川流域で蜂起した一揆。


元亀三年十二月、武田信玄率いる大兵、浜松城へ来攻し、東照公、三方原に出戦す。君、旗奉行を以って従う。我が軍不利、君二柱を樹(た)て、旗を支えて動かず。敵兵、君と従者に(むらが)り、槍把を投(あわ)せ、乃(すなわ)ちして進み、三人を殺す。而(すなわ)(本多忠真)歿時年三十九。
※ 麕至(きんし)- 群がりくる。
※ 槍把(そうわ)- 槍のとって。


中務君また力戦す。殿退き、従士荒川甚太郎、本多甚六郎、河合又五郎、多門越中など皆死ぬ。これ、この役(えき)なり。敵衆、而(しかれ)ども銃勢我が士に当るべからず。殊死戦、敵敢(あえ)て城を攻めずして去る。初め中務君の器、父、年甫(はじめ)て二歳の君、鞠養の成立を遂げ、徳川氏の功臣として第一者と称す。蓋しまた君の力なり。
※ 殊死戦(しゅしせん)- 斬り殺しの戦い。
※ 鞠養(きくよう)- 養い育てること。養育。
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犀ヶ崖の「肥後守本多君戦歿地の碑」を読み解く その1

(浜松犀ヶ崖の肥後守本多君戦歿地の碑)

お昼、富士屋で山の会OBの忘年会。10名出席あり。中で今建さんが亡くなったと聞いて驚いた。ほぼ同じ歳で、会社の寮で暫く同じ釜の飯を食べた。組織の中ではなかなか収まり難い男だったけれども、自分とは気が合った。永く連絡も無かったが、病に倒れたという。もう、十分そんな年頃なのである。

忘年会を早めに切り上げて、午後「古文書に親しむ」講座に出席した。3月の発表会をどうするか。「古文書の解読」を、一般の人に分るような発表にしたいとの意見が出て、次回(来週)資料を持ち寄って、検討することになった。

掛川文学講座の文学散歩で、浜松に行き、写真を撮ってきた「肥後守本多君戦歿地の碑」を読むことにする。徳川四天王といえば、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の四人を示す。井伊直政を育てた母代わりの井伊直虎は、再来年の大河ドラマになるというが、この碑が顕彰する本多肥後守忠真も、兄忠高の死後、その息子忠勝(四天王の一人)を育てたという。井伊直虎も本多忠真も、自分の子は持たなかった。「肥後守本多君戦歿地の碑」は犀ヶ崖資料館の左手奥に建っている。

肥後守本多君戦歿地の碑           従三位公爵、徳川家達篆額
※ 篆額(てんがく)- 石碑などの上部に篆字で彫った題字。この碑には「表忠彰義之碑(忠義をあらわす碑)」と書かれている。

徳川氏参河より起き、東照公に至り、天下を一定す。当時、忠勇義烈の士、雲従霧集して、以って本多氏最たり。本多氏の、先ず、平八郎君、諱(いみな)助時、始めて徳川氏に仕え、その子、諱助豊また平八郎と称す。孫、諱忠豊、吉左衛門と称す。天文十四年九月より大納言を(ぞう)
※ 義烈(ぎれつ)- 正義を守る心が強く激しいこと。
※ 雲従霧集(うんじゅうむしゅう)- 雲や霧が集まりわくように、多くのものが集まって従うこと。普通、「雲合霧集」という。
※ 贈(ぞう)- 死後に官位をさずかる。


(松平広忠)安祥城を攻め、兵銃甚だしく、君(本多忠豊)、公を諌(いさ)め、避け去らせ、(忠豊)独り留りて歿す。公因って免(まぬが)る。君、二子有り。兄、諱忠高。平八郎と称す。十八年二月、安詳を攻め、奮勇先登、将に牙城にて、矢に中(あた)りて歿す。時に年二十二。
※ 安祥城(あんしょうじょう)- 愛知県安城市にあった中世の平山城。4代にわたり松平氏の居城であったが、織田氏と松平氏・今川氏との間で城をめぐる攻防(安城合戦)が繰り広げられた。
※ 奮勇(ふんゆう)- 勇気を奮い起こす。
※ 先登(せんとう)- まっさきに敵の城に攻め入ること。一番乗り。さきがけ。
※ 状(じょう)- ありさま。ようす。
※ 牙城(がじょう)- 城中で主将のいる所。本丸。
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関川庵の「桜井君碑」を読み解く

(関川庵の桜井君碑)

島田市博物館近くの関川庵という小寺の境内に「桜井君碑」が建っている。撰は先賢碑と同じ、置塩藤四郎である。桜井秋圃は明治の人で、現在、その屋敷は島田市博物館別館(海野光弘版画記念館)として、一般公開されている。

桜井君碑
君諱(いみな)正蔵、秋圃と号し、姓桜井氏。駿河島田の人、(父)の諱(いみな)蘓十郎、石屏と号す。詩及び書を能くす。母桜井氏、君その長子なり。資性温良、人に接し謙譲、その服事なり。勤勉、労を厭わず、その名誉職を以って、町政の参与と能(よ)く称す。
※ 考(こう)-亡くなった父親。
※ 資性(しせい)- 生まれつきの性質や能力。資質。天性。
※ 温良(おんりょう)- 性質などがおだやかで、すなおなこと。
※ 服事(ふくじ)- 仕事に従事すること。
※ 参与(さんよ)- 物事にかかわり合うこと。相談などにあずかること。また、その役の人。


その職、かつて荒し(嵐)に備え、積塵會を創(つく)り、以って凶荒に備うと稱(い)う。邑(村)人、その恵みを稱(い)う。君、神仏を崇敬し、資を損じ、以って詞殿を修築す。尤も、水防の事に力を用う。その歿(ぼつ)の日、また堤上に在り、工事を督(ただ)すと云う。
※ 積塵會(せきじんかい)- ここの積塵會がどういうものか、不明であるが、みんなで少しずつお金を貯めて、凶作時に備えようとする、一種の講組織のようなものか。名前の由来は「塵も積もれば山と成る」
※ 凶荒(きょうこう)- 農作物の出来が非常に悪いこと。凶作。(大井川の氾濫による凶作か)
※ 詞殿(しでん)-「祠殿」のことではないか。社殿。


明治三十九年七月十七日、遽然、疾を得て、起距ならず。その生、元治元年正月廿八日に得、年四十有三、関川庵の原に葬る。釈諡(戒名)曰く、常心院實道秋圃居士。三橋氏、名、由久と配(つれあ)う。前衆議院議員三橋四郎君、次女なり。一男を挙げ曰く、久彦。
※ 遽然(きょぜん)- にわかであるさま。突然。
※ 起距(ききょ)- 起居。立ったり座ったりすること。立ち居。


(よ)き家、邑(むら)人、君の遺徳の歿すべからずと念じ、これを謀り、立石を欲す。以って、年月を記し、余、文を請く。余と君、旧い乃(なにがし)有り。辞(ことわ)れずして、その行い、略(あらまし)を叙す。係るを以って、銘銘曰く、

 温良謙譲 常敬佛神 恵備凶荒 會名積塵 吁若而人 不多其綸

(銘の意訳、七五調で)
おだやかにして控えめで、常に神仏敬いて、凶作備え恵みあり、会の名前は積塵会、ああ若くして人死ねば、その言葉また多からず。

  明治四十五年六月十五日
          正六位君五等、置塩藤四郎撰並び篆額
                      小泉松塘書
                      村本一無刻
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上越秋山紀行 下 21 六日目 屋敷 2

(挿絵、赤倉山と伐られた大木)

「上越秋山紀行 下」の解読を続ける。
(以下は挿絵の中の詞)
「上越秋山紀行 下」の解読を続ける。この図は屋敷村の出離れ、暫し往きて赤倉山を臨み諏(はか)るなり。諸峰、手に取る如く見え、時既に晩秋ゆえ、紅葉一面に峰の麓を染めなし、適々(たまたま)松桧の類交り、木毎に皆な鮮やかにわかるを過ぎて、遠山に画(えが)きたり。依ってこの次に絵画を書す。またこの立ち枯れの木は、畑にせんと木の皮を剥き、或は根に斧を以って伐りつけ枯らし、大樹の辺の小木はその場に伐り捨て、夏二、三ヶ月も過ぎて、風ある日を見立て、風上より焼き払い、その灰をこやしに致し、種もの蒔くとかや。「上越秋山紀行 下」の解読を続ける。

秋山第一の霊山には石鉾と唱えて、末ほど尖く、本は三抱えばかりなる奇石、峰より少し下りて聳えたる巌の、横に斜めに立ってあり。殊更、長(た)けも七、八間とかや。九州霧島山の伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冉(いざなみ)の二た尊(みこと)の天の逆鉾(さかほこ)の評を橘南溪先生も一覧して、著述に人作のようにも疑うて書きしが、これは自然の真石出頭せし事は、実に奇鉾にして、その峰々は絵に見し廬山の双剣峰などの類に比すべきと、暫し煙草吸いながら、磐石に腰かけて、
※ 橘南溪(たちばななんけい)- 橘南谿。江戸時代後期の医者。文をよくし、紀行『東遊記』、『西遊記』と随筆『北窓瑣談』が知られる。
※ 廬山(ろざん)- 中国、江西省北部にある名山で仏教の霊地。中国屈指の景勝地で、香炉、蓮花、双剣、天池、石耳、擲筆、鶴鳴などの諸峰が林立する。


赤倉臨石鉾出頭     赤倉の石鉾(いしほこ)の、頭出ずるを臨み、
望裏分是天浮橋     裏の分るを望み、これ天の浮橋、
否二柱現此墳      否な二柱、この墳現わる、
巍々天外赤倉山     巍々天外の赤倉山。
村落纔営畫軸間     村落纔か営む、画軸の間、
仙客斫開指線路     仙客(き)り開く、一筋の路を指す。
擔笠曳杖試躋攀     笠を担い、杖を曳き、躋攀を試す。

※ 巍々(ぎぎ)- 高く大きいさま。
※ 天外(てんがい)- 非常に遠い所,高い所。
※ 仙客(せんかく)- 仙人。
※ 躋攀(せいはん)- 高い所によじのぼる。


倩々(つらつら)、越し方の、予が西遊して三十三ヶ所の霊場の長途を考るに、この赤倉山の風景は見ず。またこの山のうしろ、西の方はこの辺の諺に十三万仏山と呼んで、山上山下すべて石巓にて、これを臨めば、皆な大小岩仏、菩薩に似て、立地蔵居り、地蔵、或は大日、寝釈迦と、取り分け大なる岩の仏像は、その心で拝めば、皆な仏の名指しに似たり。
※ 石巓(せきてん)- 石のいただき。
※ 名指し(なざし)- 名前を言ってそれとさし示すこと。


この霊山に上るは、如月の頃、凍(し)み渡りの雪を踏まねば、常は嶮岨に到りかぬるとかや。昔時、水沢村富井喜右衛門と云うもの、この奇景を探る実物語を、ここに混雑して見ぬ。佳境なれども荒増(あらまし)を記す。
※ 如月(きさらぎ)- 陰暦の二月のこと。
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上越秋山紀行 下 20 六日目 屋敷 1

(庭のシャコバサボテンの花)

「上越秋山紀行 下」の解読を続ける。

この夜も暁を急ぐ鶏の声、諸共に起き上り、温泉に暖まり、朝飯も静かに過して、親子三人(みたり)、再びこの地へ悠々と湯治に来たらんと、口には云えど、心は頓(やが)て夕日の齢に及ぶ。何をかゝる辺地は思いも寄らず。流石(さすが)この湯はこの世の名残りと、転離別の情、頻りに主親子も名残り惜しみ、暫く見送りくれぬ。

これより西の山際なる道は、すべて、下結東までは東秋山と違い、道も殆んど佳(よ)くなり、また奇樹、怪石筆に尽しがたしと云えども、読む人必ず倦(う)むならんと略して、その内、見捨てがたきをのみ記し侍りぬ。



(挿絵、聳えて見える赤倉山の図)

(以下は挿絵の中の詞)
この図は赤倉山、路傍に近く、聳えて見える図。また新たに畑伐り広げるは、二、三月の頃、凍(し)み渡りして、雪の上より大樹を伐り倒し、雪消え払わば、丈余りの皆大樹の本にて、最初の図の如く、小木の伐り捨て乾く頃、風上より焼き払えば、倒れし大木の枝まで、共に焼いて、のたわりたるを、そのまゝにいたし、寝木や磐石の合い/\を畑にいたし、場処上の上下に寄り、十年乃至(ないし)十六、七年も畑にいたし、終には土疲(痩)せて、実りあしければ、荒し置くと己(おのず)と終りには茫々たる茅野となる。


さても湯本を立ちてより、やゝ一里ばかりも過ぎて、森と欝々たる古木路傍に、露茫々たる茅原広野に靡(なび)き、或は、その中に大樹を、八、九尺乃至(ないし)(じょう)余りの上より伐り、小枝葉などのなき、丈より上より伐り倒せし木、横竪てに蟠龍の如く、凄冷(すさまじ)く、これより少し過ぎて、屋敷と云う村、十九軒あり。高低の処に抹踈(まばら)に家見え、信濃の国、箕作り村の庄屋、三左衛門支配とかや。
※ 蟠龍(ばんりゅう)- とぐろを巻いた龍のこと。地面にうずくまって、まだ天に昇らない龍。

この村端にて四方を眺望するに、頃日、川東の秋山にて詠めし赤倉山は、この屋敷村の持山にて、に当り、万仭の嶮、巌尖に壁は上毛の榛名の奇峰の如く聳え、すべて群峰、韻を押すが如く、時しも紅葉の盛りにて、若干の松、桧の類、その中に常盤の、色を争う。
※ 頃日(けいじつ)- 近ごろ。このごろ。
※ 乾(いぬい)- 戌(いぬ)と亥(い)の間を示し、方角では北西の方角になる。
※ 万仭(まんじん)- 非常に高いこと。また、非常に深いこと。
※ 巌尖(がんせん)- 尖ったいわお。
※ 若干(そこばく)- いくらか。たくさん。
※ 常盤(ときわ)- 木々の葉の色が一年中変わらぬこと。また、常に緑色を保つ木。常緑。
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上越秋山紀行 下 19 五日目 湯本 11

(庭のシャコバサボテンの花)

掛川のまーくんの家から追加で届いた渋柿25個を干柿に加工して干す。先日竿が届かなくて取り残してきたものを、まーくんのパパがチエンソーで渋柿の上部を伐り落して、収穫してくれたと聞いた。これで合計412個になった。今年は3ヶ所から渋柿を戴き、たくさん出来た。冷凍庫も準備したから、一年通して楽しめそうである。

「上越秋山紀行 下」の解読を続ける。

この入山より草津の間、難処もなく行程二里となん。また獣取る事も承りたしと乞うに、獣は、夏はヒラと云うを掛け、このヒラと云うは、三尺位の高さに二本の復木を立て、桁を掛け、九尺位の直なる桁を、また上の桁の下に渡し、何本も枝木の上に並べ、本の鼻を下の桁に掻い付けるは藤蔓ようのものにて、そのつる三角形になる小屋の下へ仕掛けして、これを蹴綱と申し候。またヒラの上に大石を幾つも置き、草木を伐り蓋して、石の見へぬようにいたし、獣の通り途とてあり。

譬えば、一方巌しく聳え、また辺りも大岩石累々として、一條の通り路あるを見立てるは、最初噺の内の漁小屋の遠ち近きに、幾つもかけ置き、ヒラの下、蹴綱の蔓に足少し障りても、桁にはかけてあり、一度獣の上に落ち押し殺し、その肉は三時の食事にいたすとなん。

幸いにこの程得たる猿の皮二枚あり。望むならばと申すを幸いに、取り寄せけるに、價も安く、求めるに羚羊(かもしか)の角二本と山鼠(りす)の尾を只に呉れけるは、奇なる鼠尾にて、いかにも真平らに幅廣く、故にこの奇鼠の様子を問うに、常の鼠より甚だ形大にして、足の早きこと箭の如く、多くは椌木などを栖として、容易に索(もと)め兼ねしとかや。
※ 椌木(こうぼく)- 洞(うろ)のある木。

さても終夜の噺、更に秋田在の訛りも交らず。言葉鮮かなれば、一つも繰返して聞き直す事なく、持参の煎茶に、貯え置きし菓子筥を開き、たん冊数葉出し呉れ、なお時宜の挨拶に、以後三国海道行くもあらば、緩々(ゆるゆる)止宿の事など契り、再会の期を待って別る。
※ 三国海道(みくにかいどう)- 中山道の高崎から分かれ、北陸街道の寺泊へ至る街道で、関東と越後を結ぶ街道である。

   恰何猟師逢温泉     恰何(おりよく)猟師(かりうど)と温泉(いでゆ)に逢う。
   長夜煎茗慰徒然     長夜、茗(ちゃ)を煎じ、徒然(つれづれ)に慰む。
   住居信中湯守宿     住居は信中(しなの)湯守の宿。
   生國羽州秋田邊     生国は羽州秋田の辺(ほと)り。
   熊皮袖無着勇猛     熊皮の袖無し、勇猛(たくましく)着る。
   鐵張烟筒置膝前     鉄張の烟筒(きせる)膝の前に置く。
   山々狩噺忌々敷     山々の狩りの噺、忌々しく
   左右翌懷立出延     左右(ともかくも)(あす)は懷(胸中)立ち出で延さん。
※ 忌々しい(いまいましい)- けがれを避けて慎むべきである。遠慮すべきである。

次第に夜もいたく更け行くまゝに、寝臥(ねふせ)しても敢えて夢だに結ばず。

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上越秋山紀行 下 18 五日目 湯本 10

(駿河古文書会の現地見学会 / 昨日)

駿河区片山公民館で、熱心に地元の古文書を読む会員の皆さん。

午前中に、A3まで印刷でき、コピーも出来るプリンターを買ってきた。エプソンのPX-M5041Fという型番である。

「上越秋山紀行 下」の解読を続ける。今日の所は、秋田の狩人が語る、方言の話である。


ここの異なる言葉も些(いささ)か慰めに噺し申さんと云うを、予はその様に一遍ばかりの夜話、胸に留めかね、一筆に記す。左の如し。

外より来たる人を、改めて上の言葉は貴丈様と申す。
※ 貴丈(きじょう)- 二人称の人代名詞。相手の男性を敬っていう語。近世、手紙文などで用いられた。

寺院方を影にてその名を唱(とな)うに皆な殿付けなり。

目下のものを呼ぶには、にしと云う。

子供の隠れんぼうを、かくねつとうと申す。

人より物貰う時、おいたましいと申す。

父を旦那と云い、母をかゝあさまと云う。

親の事を子が、こなた/\とも云う。他人の事もかくの如し。

祖父の事を、ぢっさまと云う。

上の内を云うを、上しょうと云い、中の内は中しょう、下の内は下しょうと申す。

沢山の事を、でいぶていたくかとうと云う。
※ かとう -「過当」ならば、「適当な度合を超えているさま。過分」

こわい事をなつねいとも云い、いぶせいとも申す。
※ いぶせい -「鬱悒い」ならば、「恐ろしい。気味が悪い。」の意あり。

逃げたる欠落の者を、ちんりんと云う。
※ 欠落(かけおち)- 江戸時代では、無断でその住居を去り行方不明になることをいい、欠落防止のため厳罰をもって臨んだ。

下さりませと云うを、くんなさろと申す。
※ くんなさろ -「呉れなされ」が訛ったものであろう。

地爐(いろり)ちろりと云い、爐の上座をこざと云う。

衣類帯のるい美しきをかざると云う。

用心の事を、目上へ申すには御用じょう、目下へ申すには用じょうめされ

貴様と申す事を、こなつしょうと云う

椀 親椀をてゝと云い、次ぎをこしる椀と云い、祝儀などに酒を、右の椀にて呑む。盃などは更になし。

谷のつまり、沢のつまり、野の果てを、くつじと云う。

下々のものや童をしかるに、だぼうめと云う。
※ だぼうめ - 「駄坊め」なら、「あほうめ」の意。

静かなる事、静かに行く事を、ようよつと云う。

神仏に物を供える事をしつぜると云う。

童を呵々は、このうづめと云う。十人か九人まで、空歌うたうなり。
※ 呵々(かか)- 大声で笑うさま。

来たる人に挨拶終り、また帰るを見送るに、おさらばと云うて四、五間外へかけ出すなり。

鹿の事を、かのうと云う。

次の間をでいと云い、蕗のとうをさみじと云う。

男女のしやれた形(かたど)りを、しゅちょうらくと云う。

男女のうつくしきを見ては、みぼらしいと云う。

山の峰の事はこの山のてつき、あの山のてつきと云う。

久しくして逢わぬ人に、遥々と云い、久々とも云う。

人の足の早きを、だつじと云う。

飯の事をごこうと云う。

餅又は焼餅をぼちと云う。

右の外、家作り、髪形、風俗は、秋の夜の長しと云えども、夜も更け行くまゝに聞き洩らしぬ。
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大井神社の「先賢碑」を読み解く その4

(駿河区の片山廃寺跡)

朝、早起きして、駿河古文書会の現地見学会に出掛ける。駿河区大谷の片山地区の増田家文書を見せて頂けるとのことで、現地集合であった。日曜日で、道は空いていて、思ったより早く着いた。すぐ脇に駿河の国分寺とも言われている片山廃寺跡があり、東名の直下に礎石だけが残る廃寺跡も見学した。その後、片山の公民館で古文書を一時間半ほど見せて頂いた。みなさん、その場に座り込んで古文書を読み始めた。本当に古文書が好きなんだと、改めて感心するばかりであった。

「先賢碑」の解読の続き、今日で読み終える。

大正十三年一月二十六日、東宮册妃大礼有り。乃(すなわ)ち町会に謀(はか)り、三賢三碑を為し、その行を記し、矜式後昆に略(はか)るを欲す。また大禮記念の為を以って、静岡縣知事道岡秀彦君、及び長谷川氏後裔、長道君、資を捐じ、その譽れを助く。
※ 册妃(さくひ)- 勅命により后妃をたてること。
※ 大礼(たいれい)- 国家・朝廷の重大な儀式。
※ 矜式(きょうしょく)- つつしんで手本にすること。
※ 後昆(こうこん)- のちの世の人。子孫。
※ 道岡秀彦(みちおかひでひこ)- 鹿児島県出身。警察官僚。後に、青森県知事、静岡県知事を歴任。
※ 資を捐ず(しをえんず)- 寄付をする。


- 大井神社神苑、東北隅の地、以ってこれを建つ。予以って、承乏の町長、かつ二家の義のため、故に碑文の責め、誼(よしみ)に辞(や)め得ず、乃ち援筆これを記す。各系(家系)以って、銘銘曰く、
※ 承乏(しょうぼう)- 乏しきを承く。適当な人がいないので、代理として自分がその役目をやらしてもらう。任務につくことを謙そんしていうことば。
※ 援筆(えんひつ)- 操筆。行筆。筆で文字を書くこと。

   
  仁而且勇 多才深籌 爰築大閘 灌漑以周 民蒙其澤 惟三百秋 嗟此父子 功業相
  齋糧載筆 十年一日 國志以成 其文縝密 實事是求 作者 爰刻豊碑 永莫遺逸

※ 深籌(れい)- れい。
※ 縝密(しんみつ)- つつしみ深く、慎重であること。
※ 入室(にゅうしつ)- 学芸の道の奥義に到達すること。
※ 豊碑(ほうひ)- 功徳をほめたたえて建てた大きな石碑。
※ 遺逸(いいつ)- わすれること。


(銘の意訳、七五調で)
寛容にして勇ましく、才能多く思慮深く、ここに築きし大水門、灌漑をなし周(めぐ)らして、民その沢を蒙りて、三百年の秋思い、ああ!この父子を外にして、誰かてがらに等しからん。
糧(かて)を揃えて筆に乗せ、十年一日如くして、国志を以って成し遂げて、その文慎み深くして、本当のこと求めつつ、作者奥義を窮めたり。ここに刻んだ豊かな碑、永く忘れることなかれ。


大正十三年閼逢困敦三月   静岡縣志太郡島田町長、従五位勲五等、置塩藤四郎撰並び書  邨本伊之助鐫
※ 閼逢困敦(あつぼうこんとん)- 甲子(きのえね)。十干十二支の別名。
※ 置塩藤四郎(おしおとうしろう)- 志太郡島田町(島田市)に生まれ、生家は江戸時代には本陣を務めた。本名は維裕、幼少より漢学・国学を学び、棠園と号して、漢詩・書道を嗜んだ。伊勢神宮に奉職し、神宮皇学館講師を兼任後、大正6年(1917)、島田町長に就任、8年間町政に尽力すると共に、郷土史の編纂等、文化高揚にも功績を残した。
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大井神社の「先賢碑」を読み解く その3

(大井神社で孫の七五三)

午前中、大井神社で孫のあっくん(5歳)、えまちゃん(2歳と何ヶ月)の七五三に立ち会った。リハーサルで着物を断然拒否した、えまちゃんも、どう納得したのか、進んで着て、今日は脱ぐのを嫌がったらしい。特に草履が気に入ったようだ。今は衣裳一色、写真屋さんで借りるようで、便利なことである。

「先賢碑」の解読の続き。

(桑原黙斎)夙に邑乗殘闕を概(なげ)き、この編成を欲す。州内を巡り、各邑(むら)の、その制置沿革、山川形勢、田園物産、神祠仏宇より、橋梁、堤防、古蹟、伝説に至るまで、洪繊(わ)け遺(のこ)し、また別掲、国史大要、その記述、七郡、七百十八邨(村)、十二驛、三城に係わり、また別記、大井川總合二十巻を、文化六年に起筆し、その十五年に脱稿す。題して曰く、駿河記。また浜葛籠(はまつづら)著す。
※ 夙に(つとに)- ずっと以前から。早くから。
※ 邑乗(ゆうじょう)- 村の歴史。
※ 殘闕(ざんけつ)- 一部が欠けて完全でないこと。
※ 神祠仏宇(しんしぶつう)- 神社仏閣。
※ 洪繊(こうせん)- 大きいものと小さいもの。大小。


国史の逸を補い、君これ諸邑を巡るなり。僕に糧を齋(そろ)えさせ、風餐露宿備嘗辛苦、人以為(おもえらく)幕吏、民情を偵察するものと疑うに至る。君少しも屈せず、遂に能く業を終える。
※ 風餐露宿(ふうさんろしゅく)- 風にさらされ、露にぬれて寝ること。野宿すること。
※ 備嘗辛苦(ぶしょうしんく)- ことごとく辛苦をなめること。艱難辛苦。


(そもそも)駿河の地志、君の先に成るもの有り。植松修道、駿州名勝志。榊原長俊、駿河国志。而して、大略を記す所のみ。共に数巻に過ぎず。阿部正信、駿国雜志。新宮高平、駿河志料。その書為らず、備わらずして、皆な駿河記の数年後。然らば則ち、君の著、駿河国志の嚆矢たり。
※ 嚆矢(こうし)- 物事のはじまり。最初。

君、天保三年八月十四日以って歿す。釋諡(戒名)曰く、澗底涼松居士。伝心寺に葬る。先塋の次に、大久保氏に配(つれそ)い、二子を擧ぐ。長子由之、観齊と号す。幼くして聰慧、神童の称あり。先父歿して、次子また僅かに有りて夭す。後を承(う)ける者、その祭祀を奉るのみ。駿河記、その自筆に係るもの、今、三部存す。梨棗に上げ、以って世に伝う。その責、郷人に在り。
※ 先塋(せんえい)- 先祖の墓。
※ 擧ぐ(あぐ)- 数える。(子供を二人授かった)
※ 聰慧(そうけい)- きわめてかしこいこと。聡明。
※ 夭す(ようす)- 若死にする。
※ 梨棗に上げ(りそうにあげ)- 〔梨(なし)も棗(なつめ)も、その材が板木に使われることから。〕上梓(じょうし)する。出版する。
※ 郷人(きょうじん)- 同郷の人。故郷の人。

明日へ続く。
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