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「竹下村誌稿」を読む 156 竹下村 16

(散歩道のアジサイ6)

夜、金谷宿大学の第一回理事会に出席した。良い雰囲気で終ることが出来た。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

これによりて見れば、検地に於いて前年に比し、ほとんど六割を検出せられしものなり。されど、従前の取米三つ五分を減免して、三つ取りとなせしと、日損引きの多きとにより、結局、約一割四分の増税となりしものなり。爾来本村の税率は漸次増額となり、百九十六年後、掛川藩たりし慶応元年(1865)免定を閲(み)れば、次の如し。
※ 爾来(じらい)- それからのち。それ以来。
※ 免定(めんじょう)- 納租額を記して領主から村方に交付する文書。免状ともいう。


       丑御年貢免定の事
一 高二百五十三石二斗     遠江国榛原郡竹下村
  内一石一斗九升五合     田方溝代堤敷引き
   二石五斗三升       田方庄屋給
   一斗一升二合       畑方郷蔵敷引き
   五石五升七合三勺三才   田方去る午、深堀石砂入り、去る子より巳年まで六ヶ年鍬下。
   二石一斗六升       田方去る午、深堀石砂入り、去る亥より卯まで五ヶ年鍬下。
   一石二斗         田方去る戌、石入、来たる寅まで五ヶ年鍬下。
     小以十二石二斗五升四合三勺三才
  残二百四十石七斗六升五合六勺七才
      この訳
  百八十二石一斗九升三合三勺     田方
   この取米七十九石七斗五合     定免四つ三分四厘
  三十九石六斗一升七合三勺四才    田方減免
   この取米十一石五斗二升八合    用捨引き
  十八石九斗五升八合         畑方
   この取米六石四斗六升五合     定免三つ四分一厘
  納合せて九十七石六斗九升八合
  右の通り、御取箇、去る酉より当丑まで五ヶ年、免定相極候条、村内大小の百姓、入作の者まで残らず立合い、この免定を以って得失なく割賦せしめ、極月十日已前、急度皆済すべきものなり。
    慶応元年十一月 日         山岸左膳   ㊞
                      青木大助   ㊞
                      山角安左衛門 ㊞
                      和田治部助  ㊞
                      渡辺義右衛門 ㊞
                      波多野半蔵  ㊞
                      林源吉    ㊞
                  在江戸 福島直馬   ㊞
                  在江戸 山田舎人   ㊞
                      若林求馬   ㊞
                      甲賀糺    ㊞
                  在江戸 須貝三郎兵衛 ㊞
                      福島幸右衛門 ㊞
                      太田主殿   ㊞
                      河野十郎右衛門㊞
                      太田織部   ㊞(渡辺氏記録)

※ 用捨(ようしゃ)- 容赦。手加減すること。控え目にすること。
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「竹下村誌稿」を読む 155 竹下村 15

(散歩道のアジサイ5)

青い紫陽花は酸性の土壌に咲き、赤はアルカリ性の土壌に咲く。自然界のリトマス試験紙である。従って、ここは酸性の土壌と云うことになる。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

大凡(おおよそ)検地の事たる、主として賦租の公平を期し、民に労逸の偏(かたよ)りなからしむるに在り。而して賦租の厚薄は民力消長の係る所なれば、当局の主宰たるもの、寛厳その宜しきを察せずんばあるべからず。然るに口碑に伝うる所によれば、寛文の検地は代官所々在地近傍に寛にして、他地方に厳なりしと。兎角の非難ありしが如し。思うに武断政治の時代に在りては、奉行、代官など勝手なる振舞も少なからざりし如くなれば、或るは伝うるが如き事実なきを保(たもち)せず。
※ 労逸(ろういつ)- 苦労と安逸。骨折りと楽しみ。
※ 寛厳(かんげん)- 寛大なことと厳格なこと。
※ 武断政治(ぶだんせいじ)- 武力をもって行う政治。特に江戸初期、三代将軍家光までの政治支配のありかたを指す。


   唐崎の は奉行に さも似たり 直せとすれど 曲がらぬはなし

などあるにても知るべし。
※ 唐崎の松(からさきのまつ)- 近江八景の一つ「唐崎の夜雨」で知られる、滋賀県大津市にある唐崎神社の松。

因って、左に検地前後両年に亘る年貢免定を掲げて参考となすべし。これ他山の石として玩味すべき事ならずや。
※ 年貢免定(ねんぐめんじょう)- 日本の近世において、領主が農民に課する年貢、諸役を、村ごとにまとめて提出すること。
※ 玩味(がんみ)- 物事の意義をよく考え味わうこと。含味。


       竹下村、納むべき酉の御年貢米の事
一 高百五十三石二斗八升四合      田畑共
    内
  一石二斗六升四合          堤敷水代引き
  四十三石二斗四合          当酉の日損穂枯れ引き
   小以四十四石四斗六升八合
  残り百八石八斗一升六合   有高  この取米三十八石八升六合  三つ五分(三割五分)
右の通り、当成箇想定候。郷中大小百姓残らず寄合い、高下らざる様に免割致し、極月(12月)十日已前に、急度皆済すべく、この割符、写しをいたし、庄屋判仕り、手代に加判仕らせ、小百姓、中間へ渡し置くべきものなり。
  寛文九年(1669)酉十一月十五日    長谷川藤兵衛 ㊞
                          庄 屋
                          小百姓  中

※ 小以(こい)- 検地帳で石高を集計して、その小計。
※ 成箇(なりか)- 取箇。江戸時代、田畑に課した年貢。
※ 免割(めんわり)- 納租額を領主から村方に交付する文書を免定と呼び、また各百姓への割付けを免割と称した。
※ 割符(わりふ)- 後日の証拠となるもの。
※ 手代(てだい)- 江戸時代、郡代・代官・奉行などに属して雑務を扱った下級役人。
※ 中間(ちゅうげん)- 江戸時代、武士に仕えて雑務に従った者の称。


       竹下村、納むべき戌の御年貢米の事
一 高二百四十五石四斗八升七合     田畑共
    内
  但一石二斗六升四合         永川成り、当戌開発起し
   九十二石二斗二升一合       当戌御検地出高
  内七十五石一斗五升八合       当戌水損日損引き
  残り百七十石三斗二升九合   有高 この取米五十一石九升九合  三つ取り
(奥書前文書同断、略す)
  寛文十年(1670)酉十一月十五日    長谷川藤兵衛 ㊞
                          庄 屋
                          小百姓  中

(以上、下島氏記録)


読書:「夫婦笑み 父子十手捕物日記18」 鈴木英治 著
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「竹下村誌稿」を読む 154 竹下村 14

(散歩道のアジサイ4)

借りてあった明治32年の掛塚の商家の主人の「日誌」を漸くコピーを取り始めた。今回はコピーに繰り返しで、画像劣化するのを防ぐため、スキャナしてデーターで取り、加工して使うことに、始めてチャレンジした。何とか曲がりなりにも出来ることが試せた。早速、金谷の講座のテキストとして使ってみることにする。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

これに口米と云って、取米(取箇)壱石に付、弐升八合を増し、取米三斗五升を以って一俵に換算し、これに延米と云うて、取米の一割八分六厘(取米一俵に付、六升五合一勺)を加え、四斗一升五合一勺を一俵納めとなす。(元和二年定め)外に石高一石に付、庄屋給壱升、組頭給三合三勺を加納せり。而して、本村の定免は、田方は始め三つ取りなりしが、後増率して三つ七分となり、また四つ三分四厘となる。減免三つ四分七厘あれども、これは水不乗と称する小字四反島、反別一町四反六畝廿七歩の田地に限り適用せしものなり。畑方及び屋敷は始め二つ八分五厘なりしが、後三つ四分一厘となる。
※ 口米(くちまい)- 江戸時代、米納の本租である年貢米のほかに加徴された税米。年貢の減損などを補うためのもの。
※ 延米(のべまい)- 江戸時代、田租に対する付加税の一つ。年貢米運搬の際の目減りをあらかじめ補うもの。
※ 庄屋給(しょうやきゅう)- 江戸時代、庄屋の職務に対する報酬。
※ 組頭給(くみがしらきゅう)- 江戸時代、組頭に支給する給料。
※ 三つ(みっつ)- 三割。


この年貢米は、毎年庄屋に於いて取立て郷蔵に貯え、十二月中、代官の検米を受け、その運搬は居村より五里までは町村の義務とし、代官の指定により、その幾分を川崎または相良まで搬出せしこともありし。またこの検米は頗る厳重にして、若し一個の籾、粉米など検出せらるゝことあれば、米主は青竹にて閉門に処せられ、庄屋は譴責せらる。
※ 郷蔵(ごうぐら)- 江戸時代、農村に設置された公共の貯穀倉庫。
※ 譴責(けんせき)- しかり責めること。不正や過失などを厳しくとがめること。


さて、その後、数回の改めありて、元禄六年(1693)に至り、左の如く定まる。

反別二十四町三反九畝三歩           田畑屋敷共
 高二百五十三石二升
        内  訳
  高百十八石八斗五合    本田 元和七酉年(1621)代官中野七蔵検地
                  寛永六巳年(1629)駿河大納言検地
   内 十八石四斗三升三合    前々志戸呂村高へ組入収納これ有り候分、竹下村地に付、今般検地の節、本村高入れとなる。
  高三十四石四斗七升九合  出高 正保三戌年(1646)代官長谷川藤兵衛検地
  高九十二石二斗三合    出高 寛文十戌年(1670)代官同人検地
   内 高二十一石七斗八升五合  前々志戸呂村高へ組入収納これ有り候分、竹下村地に付、今般検地の節、本村高入れとなる。
  高九斗六升        新開 延宝四辰年(1676)代官長谷川藤兵衛改め
  高一斗一升一合  郷蔵屋敷高入 元禄元辰年(1688)代官同人改め
  高五斗八升四合      新開 元禄五申年(1692)代官野田三郎左衛門改め
  高五石八斗七升七合 屋敷三十三軒分 元禄六酉年(1693)代官同人改め
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「竹下村誌稿」を読む 153 竹下村 13

(散歩道のセイヨウキンシバイ)

別名、ヒペリカムヒデコートという。今、散歩道にたくさん見ることが出来る。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

寛文五年(1665)、幕府令して絹布の長を定め、二丈八尺を一反となす。(大平年表)

(寛文)十年(1670)二月二十九日、代官長谷川藤兵衛、再び検地あり。この検地帳、今五和村役場に保存す。地人これを長谷川様の水帳と云う。按ずるに水帳とは御図帳の謂れなり。郡書一覧に、日本春秋巻五、大化二年、新たに国郡境を定め、図帳を造る。僧顕曰う、今民間、田藉簿と称す。曰く水帳、蓋し御図帳の訛りなりとあり。また職原抄に図帳あり。国郡榜示載せ、以って明白にこの民部省図帳を謂う、と見えたり。
※ 水帳(みずちょう)- 江戸時代、村ごとに行われた検地の結果を記録した土地台帳。検地帳。
※ 榜示(ぼうじ)- 杭や札を、領地・領田などの境界の目印として立てること。また、その杭や札。


この検地帳の奥書に、

 反合せて二十四町三反五歩
    この訳   上田六町一反四歩          十二
           分米七十三石二斗一升六合
          中田六町八反三畝二十九歩      十一
           分米七十五石二斗三升六合
          下田八町五反一畝二十二歩      十
           分米八十五石一斗七升三合
          上畑三反六畝十六歩         八つ
           分米二石九斗二升三合
          中畑五反二畝十六歩         六つ
           分米三石一斗五升二合
          下畑九反九畝二十七歩        五つ
           分米四石九斗九升五合
          屋敷九反五畝十一歩         八つ
           分米七石六斗二升九合
   分米合せて二百五十二石三斗二升四合
      内   六石八斗三升七合          屋敷分引
           屋敷二十七軒分   庄屋屋敷とも
           これは中野七蔵殿御代官所の時より引き来たるに付、かくの如し。
 残二百四十五石四斗八升七合                高辻
      外   常安寺これを除く  前々より、かくの如し
  寛文十年戌二月十九日         長谷川藤兵衛内
                      飯塚市郎右衛門 ㊞
                      岡村伝兵衛   ㊞

※ 高辻(たかつじ)- 江戸時代の石高合計。

とありて、この反別の下の数字は石盛なり。石盛のことは本稿租税の条に記したれば、これを省く。今、本村に於ける旧幕時代の徴税法を述べんに、総て反別へ石盛を乗じたるものを、分米と云う。即ち石高なり。また分米へ定免を乗じたるものを取米とも取箇ともいう。即ち、年貢米を云う。
※ 石盛(こくもり)- 検地における田畠屋敷の法定の段あたりの見積生産高(斗代)のこと。これに基づいて全体の石高を算定した。
※ 定免(じょうめん)- 江戸時代の徴税法の一。年貢高を固定し、ある一定期間、豊凶にかかわらず納めさせる方法。年貢高は、5年・10年・20年など、ある期間の平均をとって定められた。


読書:「カットバック 警視庁FCⅡ」 今野敏 著
古文書解読で、一つ山を越して、少し気持に余裕が出来て、午後、一気に「カット~」を読んでしまった。
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「竹下村誌稿」を読む 152 竹下村 12

(裏の畑のアマリリス)

夜、金谷宿大学学生代表会に出席する。昨年と比べて、会議は和やかに終わった。今年の学長、T氏は楽しい大学にしようと発言される。細かいことをつつくよりも、「教える喜び、学ぶ楽しみ」を前面に出した、大らかな大学にしようという話は、大いに賛成である。人生をここまで重ねて、今さら目くじらを立てゝいては、時間の大きな損失である。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

万治二年(1659)二月九日、本村の芝切り下嶋八左衛門(初代)亡す。年六十二。八左衛門は隣村志戸呂下嶋源吾の分家なり。源吾はその出自を詳らかにせずといえども、初め篠島(今、尾張国)に住し、後、志戸呂に移住す。当時世を憚(はばか)り、本姓を称せず。先住地の音便により、下嶋を氏となすと云う。掛川志、志戸呂村の条に、
※ 音便(れい)- 日本語の歴史上において、発音の便宜によって語中・語末で起こった連音変化のことをいう。ここでは、「しのじま」→「しもじま」への変化を指す。

下嶋源吾、旧家なり。観音寺の東に住す。北条氏掛川城主の時の大庄屋なり。今、清五郎と称す。その門前に平らなるあり。昔の門の跡なりと云う。墳上古松樹あり。
※ 北条氏 - 北条氏重。江戸時代前期の大名。慶安元年(1648)~万治元年(1658)掛川城主。嗣子なく改易となる。(本稿、本文と城主年数に相違あり)
※ 墳(ふん)- 盛り上がった土。堤や丘。(ここでは墓ではない)


とあり。この北条氏重は、慶安元年(1648)より明暦二年(1656)まで、九年間掛川(三万石)の城主たり。また、この松形、丸く扁平にして四抱え許りありて、三十年前までは存在せしが、今は枯れて薪となり、僅かにその墳跡を存するのみ。この松の、大木に至らしめたるは、頗る保存に勉めたるものゝ如し。安永中(1772~1781)、当主に於いて、一旦売木せんとしことありしが、縁故者に於いて、これを代償して保存せし書付あり。次の如し。

          覚
 一 米二斗六升
 一 米二斗六升
 一 金壱分也
右は、この度、私代々源吾門松売り払いたく候に付、当村善六様、竹下八左衛門様、金谷町竹下屋様、御三人へ御相談相掛け候処、右の次第、御相談の上、書面の通り、御米、金子とも、源吾門松代金として、御了簡に預かり、慥(たしか)に請け取り申し候。然る上は、向後に至り、門松伐取申しまじく候。後日のため、書付、よって件の如し。
   安永七年(1778)戌三月          清五郎  ㊞
          善六様
          八左衛門様
          竹下屋様            (下島氏記録)

※ 了簡(りょうけん)- 処置。とりはからい。


読書:「逢魔が時に会いましょう」 荻原浩 著
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「竹下村誌稿」を読む 151 竹下村 11

(散歩道のニワゼキショウ)

かっては、庭の芝の中から沢山出て、細かい花を咲かせていたけれども、いつか見なくなった。

午前中、掛川のまーくん(四年)、あっくん(二年)の小学校の運動会を一人で見に行く。途中で、カメラが電池切れになり、しかも朝早く起きたのが応えて、身体がだるく、二人の徒競走が終ったところで帰ってきた。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

正保二年(1645)十月、本村の地図を代官所へ録進す。蓋し、正保国図の資料たりしなるべし。この地図は村内を四字に区分したる見取図にして、字毎に、一の坪または二の坪として、字内にある田畑、宅地の反別を記入せしものなり。これより先、幕府、諸藩に命じて、郡村山川石高諸藩城図を製せしむ。これを正保の国図と云う。また元禄中(1688~1704)改定図を作らしめ、寛政中(1789~1801)に至り、伊能忠敬をして日本輿地実測図を製せしむ。これを伊能図と云う。十八年にして成る。世人始めて自国の真形を見ると云う。天保中(1831~1845)、諸国の図を改定す。これを天保図と云う。元禄、天保の二図、全く(完全に)存すと云う。

(正保)三年(1646)十二月二十日、代官長谷川藤兵衛検地あり。反別未詳、高百五十三石二斗八升四合となる。これより先、幕府諸国の田を検し、石高帳を録申せしむ。これを正保の検地と云う。また元禄年間に至り、田園高帳を定む。これを元禄の高帳と云う。

(正保)四年(1647)頻年、諸国豊作打ち続き、米価大いに下落し、金拾両に遠州米百十五俵となり、再び、翌、慶安二年(1649)には騰貴して、九十五俵となる。(熙庵遺書)
※ 頻年(ひんねん)- 毎年毎年。連年。
※ 熙庵(きあん)- 山下煕庵。江戸時代、前期-中期の医師。明暦3年生まれ。遠江横須賀藩の典医香取自庵に学ぶ。医業のかたわら「古老物語」などを著した。


慶安三年(1650)六月二十日、遠駿の地、大震あり。

(慶安)四年(1651)七月、江戸剣客由井正雪、反逆を謀る。こと発して、静岡に自尽す。与党三十余人、品川に磔(はりつけ)せらる。このこと直接本村に関せず焉(えん)といえども、一時世人の注目を引きしものなれば、特に記するのみ。
※ 関せず焉(かんせずえん)- 関係がない。(漢文的な読み方。焉は通常読まないが。)


読書:「流転の虹 沼里藩留守居役忠勤控」 鈴木英治 著
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「竹下村誌稿」を読む 150 竹下村 10

(散歩道のサルビア・ミクロフィラ)

午後、静岡南部生涯学習センターの古文書講座、第一回を何とか終えて来た。ほぼ、予定した部分を解読したが、集まったメンバーが南部郷土史大学のグループで、それぞれテーマを持って活動されているようで、郷土史には興味があるが、必ずしも古文書の解読に興味があるグループということではなかったようであった。一回にこなす量が半端ではなかったので、かなりスピードを挙げて解読したけれども、解読についての反応はなかった。本当は古文書を解読する楽しさを伝えたいのだが、考え方を変えなければならないのだろうか。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

(寛永)十四年(1637)、本村常安寺を建立す。(本稿寺院の条参照)

この年八月、大坂の遺臣、芦塚忠右衛門など、天草の天主教徒を煽動し不軌を謀り、島原城に拠(よ)る。幕府、板倉重昌、松平信綱などをして、これを討たしむ。賊軍猖獗、重昌戦死す。信綱持久して年を踰(こ)え、城を屠(ほふ)り、乱を平(たい)らぐ。世に謂う天草騒動にして、これより幕府国内に令して、切支丹宗を厳禁す。これを訴人懸賞令と称す。寛永十五年(1638)九月十三日なり。幕府、天主教を称して切支丹宗と云う。
※ 不軌(ふき)- 謀反を企てること。反逆。
※ 猖獗(しょうけつ)- 猛威をふるうこと。
※ 訴人懸賞令(そにんけんしょうれい)- キリシタンを訴え出た者に、一定の賞金を与える制度で、この懸賞令を記した高札は「切支丹札」と呼ばれた。


(寛永)十六年(1639)、これまで本村は中泉代官の支配なりしが、野田代官長谷川藤兵衛(長親)支配所となる。因って云う、長親は長盛の子なり。長盛はその先、伏見の人、天正中(1573~1593)、徳川氏に仕え軍忠あり。子孫、擢(あげ)られ代官となる。長谷川氏は父子三世(長親、長勝、長春)藤兵衛と称し、相継ぎその職を襲い、元禄中(1688~1704)に至り旗士となる。初め長谷川氏志太郡大草村に住し、後、野田村に転じ、また島田町に移る。その所内、駿遠(大井川両岸)に亘りて、大凡三万五千石を支配し、頗る勢力あり。
※ 軍忠(れい)- いくさの折に示す忠節。軍功。
※ 旗士(きし)- 旗持ちの兵。旗卒。


当時人口に膾炙せしと云い、伝うる俚謡に、「藤兵衛さまの御屋敷御覧、店から奥まで嫁入りの仕度、嫁入りの仕度に何々御座る、長持七棹、箪笥が八棹、十二の手箱が光り候、十二の手箱が光るぢゃないか、御門に御馬が四十五匹、四十五匹の御馬でやるか、御駕籠でやるか、さらば御駕籠に致しましょう」以ってその一班を推想すべし。
※ 膾炙(かいしゃ)- 世の人々の評判になって知れ渡ること。
※ 俚謡(りよう)- 地方で歌われる唄。さとうた。民謡。
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「竹下村誌稿」を読む 149 竹下村 9

(二階の戸袋に巣作りしたムクドリ)

しばらく前から気付いていたことだが、二階の戸袋にムクドリが巣作りした。長い間、雨戸の開け閉めをしなかったから、絶好の巣が出来たのだろう。頻繁に、オスメス交替で餌を運んでいる。雛の声は日毎に大きくなり、間もなく巣立ちの時が来るだろう。

明日の南部生涯学習センターの予習をした。ニ、三ヶ所誤りに気付き、資料はもう渡っているので、明日の講義で訂正しなくてはならないと思う。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

以上に於いて、既に本村草創の大要を記したり。これより以下に記述する所は、すべて一地方の行政に関し、区々たる事項多きも、本村に最も適切なるものなれば、年序を逐(お)うてこれを記する。左の如し。
※ 区々(くく)- 小さくてとるに足りないさま。
※ 年序(ねんじょ)- 年月。年数。歳月。


(そもそも)本村創始の当時は遠江宰相(徳川頼宜)の封内なりしが、宰相転封(元和五年)後幕領となり、元和七年(1621)、始めて代官中野七蔵(中泉)の検地あり。反別不明なるも全部畑請にて、高五十四石五斗六升六合、外に屋敷二十三軒分(一軒三畝歩)の地子を免除し、専ら開墾を奨励せらる。地人、七蔵様の御竿と云う。因って云う、検地に新検、古検の別あり。慶長以前のものを古検または古新田と云い、以後のものを新検と云う。
※ 遠江宰相(とおとうみさいしょう)- 徳川頼宜。徳川家康の十男で、紀州徳川家の祖。常陸国水戸藩、駿河国駿府藩を経て、紀伊国和歌山藩の藩主となった。八代将軍徳川吉宗の祖父にあたる。
※ 畑請(はたうけ)- 畑として検地帳に記載されていること。
※ 地子(じし)- 室町時代以降、都市の屋敷地に対する宅地税。原則として銭納。
※ 地人(ちじん)- 土地の人。


寛永元年(1624)八月、駿河大納言(徳川忠長)の領地となる。同五年、本村芝切りたる下島八左衛門、家屋を建つ。これ本村家屋建築の嚆矢なりと云う。(下嶋氏記録)
※ 嚆矢(こうし)- 物事のはじまり。最初。

(ちなみ)に忠長は徳川三代将軍家光の同母弟にして、初め甲府に封ぜられ、権中納言に任じ遠駿二国を賜り、甲斐を併せて五十五万石を領せしより、駿府を以って居城となし、従二位権大納言に遷(うつ)り駿河大納言と称す。常に先考の寵を恃(たの)み、驕縦にして不法の行為多く、これに至りて遂に罪を得、甲斐に幽せられ、明年高崎に自尽す。
※ 先考(せんこう)- 死んだ父。亡父。ここでは二代将軍秀忠のこと。
※ 驕縦(きょうじゅう)- おごりたかぶり、勝手気ままであること。
※ 自尽(じじん)- 自殺すること。自害。


読書:「雪の重み」 松田宏 著
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「竹下村誌稿」を読む 148 竹下村 8

(散歩道のオオキンケイギク)

キバナコスモスに似ているが、葉の形状がコスモスとは違う。北米原産の花である。繁殖力が強く、カワラナデシコなどの在来種に悪影響を与えるとして、栽培禁止になっているというが、野生化して土手などでよく見られる。花の色はキバナコスモスよりも薄くて、咲き揃うと、なかなかきれいである。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

初め斉藤氏が開墾をなすに当たり、下井用水(隣村牛尾地内)より用水路を開設して、墾田に灌漑す。これを横井川と云う。本村の地内にして、この川によりて灌漑を需(もと)むる、石高三十六石の田地は、皆な同氏の開墾せし所なりと云う。また斉藤島の近辺に籾蒔島と云う所あり。同氏が開墾をなせる当時、整地の出来ざる場所は、石河原のまま籾を蒔き付けたるを以って、その名ありと云う。また郡志に、

斉藤左衛門三郎 これ素より如何なる出自の人なるか、明らかならざれども、強いて類似の名字を求むれば、貞和年中(1345~1349)、斉藤左衛門太夫と云うものあり。勝間田氏とともに、直義のことに従い、また応安、永和の頃(1368~1379)、斉藤三郎左衛門と云う人ありて、毎(つね)に勝間田氏と同列にて、将軍義満に供奉し、八幡宮社参、及び将軍の初参内などに、その名を列すること、勝間田氏の項に挙げたるが如し。而してまた「今川記」の著者、斉藤道斎(駿河蒲原住人)が自家のことを叙したる記事中、
※ 直義(ただよし)- 足利直義。南北朝時代の武将。尊氏の弟。室町幕府成立に伴い、尊氏を補佐して政務を担当、守護級の足利一門や寺社本所勢力の支持を得たが、急進派の高師直と対立、尊氏とも袂を別ち、鎌倉で尊氏に討たれた。(観応の擾乱)

(そもそも)、我らが父祖の古え、勿論人の数ならねども、元は京都に祇候し殿中にまじわり、番役なども勤仕せしが中頃、所領につき、遠江に下りし後は、京都も乱れ、公方にもたびたび、御没落の御事なれば、おのずから奉公の望みも絶えしにや。この一、二代は今川殿の被官と成りて在園せしなり。さるから駿遠参州のことは、よく知れる事なれば云々。
※ 人の数ならねど - 人数に入らない。一人前の人として数えられない。
※ 祇候(しこう)- つつしんでお側に奉仕すること。
※ 勤仕(ごんし)- 務めにつくこと。勤務。
※ 被官(ひかん)- 中世、上級武士に仕えて家臣化した下級武士。


となせり。この書、何れの頃に成りしものなるか、明記なけれども、記事の末尾は、延徳三年(1491)伊勢長氏が伊豆の茶々丸を討ちたるまでにて、その後のことを記さゞれば、大要今川時代の人なることは、推せらるゝが如し。而してその斉藤左衛門三郎と如何なる関係を有するかは、素より不明に属すれども、或るはこれら皆な同族の人々には非ずやと想像せらるゝのみなり。
※ 伊勢長氏(いせながうじ)- 北条早雲。室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖。早雲が堀越公方足利政知の子茶々丸を襲撃して滅ぼし、伊豆を奪った事件は、下克上の嚆矢とされ、戦国時代の幕開けとされている。
※ 大要(たいよう)- あらまし。概要。


と云えり。兎に角土人が斉藤殿と称し、遺物に鎗のあるのみならず、その分家たる斉藤代次氏の家に伝わる、長さ一尺五寸五分、兼定の銘のある一刀は、分家の際、紀念として与えられたるものなりと云うを見るも、斉藤左衛門三郎は素(もと)武人にして、村内に右族たりしものゝ如し。
※ 右族(ゆうぞく)- 勢力ある家柄。名門。


読書:「天の梯 みをつくし料理帖」 高田郁 著

江戸時代の料理の解読をしなければならないと、和食料理人の甥っ子に話したところ、参考に、と本を提供してくれた。さらに「みをつくし料理帖」という小説を読むと良いと教えてくれた。「みを~」はこれで全十巻を読了した。面白くて熱中して読み終えたが、参考になったかといえば、あまり参考にはならなかった。同じ江戸時代でも、精進料理はまた違う料理のようだ。
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「竹下村誌稿」を読む 147 竹下村 7

(散歩道のサルビア・ガラニティカ)

午前中、アクアの車検、一時間で終る。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

強いてその類例を索(もと)むれば、明応五年(1496)、今川氏親の長松院寄附状に、遠江国金谷郷内東深谷と書せしものと、略(ほぼ)同筆法なるべし。この東深谷は古えより金谷郷にあらずして、質侶郷なりしことは左出によりて自明なるべし。

掛川誌に 質侶郷に志戸呂村あり。金谷以北、横岡、大代、牧野原、菊川、東深谷、石神などの諸村、質侶郷なり。また金谷は古え質侶郷中なり。然るに後世、質侶を庄と称し、金谷を郷と称す。

とあるのみならず、金谷町志に、

按ずるに、金谷は古昔、志戸呂、牧之原、菊川などの諸邑と共に質侶庄と称す。
※ 古昔(こせき)- むかし。いにしえ。

とあり、この庄は世の推移により郷名を変じたるものなれば、金谷は質侶郷なることを町志は裏書したるものと云うべし。然るにも拘わらず、前記寄附状に質侶郷と云わずして、金谷郷と書したるものは、思うに明応の頃(1492~1501)には、世は乱れて郷庄も錯雑して弁え難く、質侶郷の名を称するものさえなければ、東西にその名の知れ易き金谷を冠(かぶ)らして、金谷郷とは称したるに過ぎず。要するに、金谷より多く開きたるを以って金谷新田と称したるに非ざるべく、時代の趨勢によりて書したるものに外ならざるべし。されば本村と金谷と何ら没交渉なりと知るべし。
※ 錯雑(さくざつ)- まとまりがなく入りまじっていること。錯綜。

また掛川志竹下村の条に、

斉藤左衛門三郎墓 村の東、斉藤島と云う所にあり。松を植えて標(しるし)とす。左衛門三郎は百姓政八が先祖なり。土人斉藤殿と称す故に、その宅地の辺りを斉藤島と呼ぶ。来歴詳らかならず。遺物、鎗一本を蔵せり。

とあり。この斉藤左衛門三郎はその来歴不明にして、如何なる縁因を有し本村に土着し、開拓に従事せしものなりや、詳らかならずといえども、大阪落城後来着せしものなりとの伝唱もあれば、或るは豊臣氏の遺臣なるが如し。されば、前に掲げし竹之下信勝と、何らかの縁故を辿りて来たりしには非ざるか。

而して、本村の芝切り、下島氏と相下らず。故に、同氏の開基に係わる常安寺境内に、墓地を設くるを欲せず、別に兆域を立ちたるもの、即ちこの墓なりと云う。この墓地、二十年前までは、斉藤松と称する松と共に存在せしが、今は犂(す)きて田となり、松は摧(くだ)けて薪となりしも、遺物の鎗は、なお当主五助氏に伝う。
※ 相下らず(あいくだらず)- 引き下がらない。へり下らない。
※ 兆域(ちょういき)- 墓地。墓所。
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