平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
2014年、最後の富士山
(2014年最後の富士山。12月30日、息子が富士川河原で撮影。)
もう除夜の鐘がテレビから聞こえている。今年の書き込みはここまでとする。
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年に一度のすき焼きパーティ
年も押し詰まった今夜は、我が家、年に一度のすき焼きパーティである。夕方の開宴を目指して、3家族が集ってくる。名古屋のかなくん母子はもう何日か前に帰って来ている。パパは名古屋から夕方5時半には到着する。まーくん一家は4時過ぎにやって来て、かなくんを交え、ゲームに興じている。息子は今朝から正月用の富士山の写真を撮りに行ったが、5時40分には戻ってくる。富士の写真はうまく撮れたようで、このブログにも拝借する積りである。3家族11人の役者はそろった。
川根のAさん(男性)は、我家の入り口に畑を借りて、川根から通ってきて野菜を作っている。時々野菜を頂くこともあるのだが、今朝、玄関先へ来て、しばらく畑には来れないから、畑に残った野菜は全て採ってくれてよいと言って行かれた。奥さんの介護で苦労されているとは聞いていた。近所の方にも分けてあげてくれと言い残して帰られた。畑を見に行くと、大根、正月菜、春菊、白菜などが立派に育っている。正月前で、青菜の高直の時期だから、大いに助かる。少し気は引けるが、早速、今夜のすき焼き用に春菊を少し頂いてきた。
今年は予定外に頂いた商品券もあるので、財政に不安はない。アピタに女房と出掛けて、いつもより多めに、上肉と具材を買ってきた。
ムサシの散歩から戻って来る頃には、女房とかなくんママの手で準備が進んでいる。幼児が4人いるとはいえ、11人が全員ダイニングに入るには少し無理がある。まずは子供たちから食べさせようと、声を掛けるが、ゲームに夢中で、まだお腹が空かないという。作り始めれば匂いに釣られて集まって来るだろうと、鍋奉行の自分が鍋に牛脂を溶かして、肉を焼き始めたら、たちまち子供たちも集ってきた。すでに食べる気満々である。
我家のすき焼きの味付けは、砂糖と醤油だけの関西風で、割下は一切入れない。ようやくこの味にも皆んな慣れてきたようだが、子供もスタンバイしているので、まずは味を薄めに作った。子供たちの箸が意外と進む。特に牛肉を美味しいとパクパク食べる。もっと野菜も食べろと言っても、肉を選んで食べている。彼らに関西風のすき焼きの味を印象付けたから、彼らは一生すき焼きを関西風の味で覚え込んだはずである。すき焼きを食べる度に、鍋奉行の祖父のことを思い出してくれるならば大成功である。
味が濃いと言われるから、今日は、全体に味をやや薄めにした。その為かどうか、用意した材料の野菜まで気持良くはけた。一寝入りしてやゝ腹が減った。汁だけでも残っていれば、うどんを入れて夜食にしようと思う。
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古文書解読の履歴
昨年の4月より、古文書の解読を始め、今日までに26冊の古文書を読んできた。以下に、その古文書名を示してみよう。それはあたかも、山行の夕刻、尾根上にて、一日縦走してきた尾根の連なりを振り返って眺めるようなもので、はるばる来たものだと思う。蟻の歩みも積み重ねで、驚くような距離になると感じている。まだまだ解読上で未熟な面も多く、間違いも多いと思うが、解読の力はかなり付いて来たと実感している。日付はその文書の解読を書き込むブログの初日を示す。クリックでその日のブログに飛べる。
解読の方法は、先ず文字をそのまま解読する。次に読み下して文章を理解する。送り仮名、てにをは、仮名遣い、旧漢字などを、現代のものに直す。仮名ばかりで読みづらい所は一部漢字に直す。ブログに紹介するのはその状態で、読みやすく文や言葉を直したり、意訳したりはしなかった。読む人に少しでも古文書の感触を味わってもらうためである。その分、言葉の読み方や注記をたくさん付けた。(今の方法に整ったのは3冊目の「盛りの花の日記」ぐらいからで、それまでは試行錯誤している)
1 25.04.08 日光山善光寺参詣道の記 梅さんの旅日記
2 25.04.28 大井河源紀行-はまつゞらの抄
3 25.06.16 盛りの花の日記
4 25.07.16 事実証談 神霊部(上)巻之一
5 25.08.24 田子乃古道
6 25.09.17 はまつゝ羅抄 安倍紀行
7 25.11.05 遠州濱松軍記
8 26.11.30 松木新左衛門始末聞書
9 26.01.25 秋葉街道似多栗毛
10 26.02.23 宗祇終焉記、宗祇臨終記
11 26.03.02 東海道山すじ日記
12 26.03.22 小夜中山夜啼碑 鈍亭魯文
13 26.04.14 事実証談 神霊部(下)巻之二
14 26.05.11 遠州見附宿日本左衛門騒動記
15 26.06.01 駿河土産
16 26.07.15 やをか能日記(八日記)岩雲花香著
17 26.07.22 秋葉山鳳来寺一九之紀行 上編 十返舎一九著
18 26.08.07 秋葉山鳳来寺一九之紀行 下編 十返舎一九著
19 26.08.24 ぢんてき(塵摘)問答
20 26.09.24 遠州高天神記巻之壹
21 26.10.11 遠州高天神記巻之弐
22 26.10.18 世話字往来
23 26.10.31 遠州高天神記巻之参
24 26.11.10 遠州高天神記巻之四
25 26.12.01 富士能人穴物語
26 26.12.22 安鶴在世記
気になる古文書があったら、日付をクリックして読んでみて頂きたい。誤読に気付かれた方はコメントに書き込んで頂ければ幸いです。
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安鶴在世記(7) 沖津川を逆立ちして渡る事(終り)
(挿絵 - 安鶴、逆立ちして、沖津川を渡る)
年賀状をようやく出し終えた。枚数は年々減って行くのは仕方がない。それでも何人かは古文書の関係で増えるものもある。
安鶴在世記の解読を続ける。
○ 沖津川を逆立ちして渡る事
相州坂(酒匂)川と駿州沖津(興津)川は、十月五日より、翌年三月五日まで、御年貢米運送のため、橋を架け旅人の渡るを許し、平常は徒歩(かち)渡りにて、川越し人足、旅人を渡して生活とす。
ここに、天保三年十月三日、安鶴、所要ありて、沖津川に至り、橋は架けあれども、いまだ旅人を渡さず、川の浅瀬も知りつれば、自らかち渡りせんと、会所をうち過ぎ、川辺に到る。川水は殊に浅ければ、石伝いに渡らんと思い、そこよ、ここよと、眺め居たりしところへ、川越壱人来たり。
若蔵、川を渡し参らせんという故、いや/\この川は越してもらうに及ばじと言えば、川越し、これ貴様たちにただ越されては、この方どもの口がぬれぬという故、会所の札通り、廿四銭遣せしが、さらに聞き入れず、四十八銭ならでは越す
事ならず。早々立帰れという。
様々言いなだむれど聞き入れざれば、安鶴大いに怒り、此奴(こいつ)川むしめら、これらの川水は、酔い醒めならば飲みほすべし。新たなる草鞋ならば、湿すにもたらず。足も濡らさず越すも易し。なんぞ四十八文とはふとき奴かなと言えば、川越し、此奴大胆不敵の事をぬかしおる。この川、足も濡らさず越すとぬかす故、皆々出て来れ/\という聲に、たちまち川越人足二、三十人ほど出来たり。
安鶴を中に押っ取り込め、これ若蔵、速やかに足を濡らさで越さばよし。越さねば打ち殺すぞと、腕を引くもあり、胸元をとるもありて、しばし取り合いしが、安鶴たちまち、身を翻して大音上げ、川むしめらとく見物すべし。足を濡らさで越し見せんと、肌打ち脱ぎ、袖を手拭いにてくくり上げ、川端に到り、我れ越さば何とすると言えば、
川越し、それはまた奇々妙々、足を濡らさず川を越すとは、神武この方例なし。こは珍しき見物なり。いざ渡れ/\と言い掛けられて、心に思うよう、浅瀬には石に苔あり。もしや滑らば見苦しゝ。人足繁き所よからんと、まず足に風呂敷包みを結び付け、逆に立ち、ざわ/\と難なく向うの岸に着き、腕拭きながら大音
声にて、
川越らよく聞け、我はこれ府中安部川のほとりに住む安鶴なり。身一つにて八人の芸徳を兼ねて、諸国を遊歴し、これらの戯れ何かあらん。ふしぎの芸術様々あり。汝らわれに随身なさば、望みの術を教え遣さんといえば、川越ら言(もの)をも言わず。ただあきれたる様なれば、
川越しの 口もぬらさで 風呂敷に
御足を入れて 手にて越し行く
かく打ち興じつゝ、足装いして、あとをも見ず薩埵を指して急ぎ行きぬ。
安鶴在世記初篇畢(おわ)んぬ
以上で「安鶴在世記」を読み終える。初篇と云い、末尾に続編の予告もあるが、続編が出された様子はないようだ。
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安鶴在世記(6) 狐の証文の事(六)
(挿絵 - 駿河国安部郡芦久保郷、真九郎狐の手跡)
安鶴在世記の解読を続ける。安鶴在世記は短くて、明日には読み終る。
久蔵らこれを見て、あっぱれの能書なり。筆力文言ともに、皆々奇異の思いをなせり。さて名宛はあれど、その方の名なし。名を書くべしと言えば、女、なか/\私事は、いまだ四歳にて、たゞ小僧/\と呼ばるゝものにて、名も無きものなりと申せば、久蔵、かく読み書きを為すことを知りながら、名も無きとは偽りなり。まず己れが生まれは何処なるや。
※ 能書(のうしょ)- 文字を書くのが上手なこと。また,上手な人。能筆。
※ 筆力(ひつりょく)- 筆の勢い。
女、我は当国安部郡芦久保の産にして、両親は猟師にうち殺され、私は、祖父祖母の許に居れど、日々の食物に困りしゆえ、川を越えて龍爪山に移り、山続きに浅間山まで参り、市中へ食物を求めに出で、中の店問屋の橋下を過ぎ、呉服町の裏辺に住い居り、ある日唐木屋背門(うら)に仮寝して、安鶴になやまされたるなりと云う。
久蔵、汝四歳なりというは偽りなるべし。先だってより、三十年も前の事など話し致し、己れが云うこと皆嘘の皮、狐の化け損ないめ。疾(と)く/\いう。名を書くべしと、言われて女、その御不審ごもっともに候。狐の一年は人間の十年なれば四十年なり。祖父母は九十九才なれば、八百九十歳なり。祖父の話に、昔語り聞きしが、誠に珍らしき事ども草々あり、この後来り、物語りすべしという。
※嘘の皮(うそのかわ)- うわべを取り繕った全くの嘘。嘘であることを強めて「獺(うそ)の皮」にかけた語。
皆々、そは願わしき事なれど、まずは名を書くべしと促せば、女、さらば名を書くべけれど、皆々には決して見せ給わるなとて、名を書きしその上に、張り紙して差し出し、若し外の人々に見せなば、また/\立ち帰り来るべしという。久蔵、そは心安かれ、余の人には決して見せまじとて、書付引替え、女に渡せば、女大いに喜び、書付をこよりにして、指の血の通わぬほどに結びつけ、浅間の辺まで送り給われ、立ち去るべしという故に、その夜皆々送り行く。
※ こより - 細長く切った和紙を糸のように撚ったもの。
奈吾屋の前なる橋の上に至りて、諸人へ暇を告げ、そのまゝそこに倒れけり。須臾(しばらく)ありて引き起し見れば、指に結びし証文は失せて、女は夢の覚めたる心地して、原(もと)の如くに変りなければ、家路に伴い帰り、かくて皆々証文の名書見たしといえども、なおまた立ち帰るとのことなれば、そのまゝ久蔵持ち来たり、安鶴へ渡すにぞ。
※ 須臾(しゅゆ)- 短い時間。しばらくの間。ほんの少しの間。
張り紙除き去り見れば、真九郎とあり、誠に未曽有(みぞうう)の不思議と言いつべし。安鶴、幼稚(おさな)かりし時より、力技を好みし故、深く摩利支天を信仰せし故になり。かゝる通力を得し狐も、恐れをなせしは、これまさに尊天の加護ならん。尊むべし、仰ぐべし。
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安鶴在世記(5) 狐の証文の事(五)
(挿絵-真九郎狐、契書(しょうもん)を書きて、安鶴に与(わた)す。)
挿絵の挿入句
変化とは 何の住処(すみか)ぞ 風の音 はせを(芭蕉)
昼間、片雲さんに頂いたビオラを地植えする。夜、名古屋のかなくん一家が帰って来る。いよいよ正月モードである。
安鶴在世記の解読を続ける。
まず家に立ち帰るべしとて、伴い帰り、その証文は如何なる文言にて宜しきや。女、今よりは四つ足あるものは、生涯打擲(ちょうちゃく)致すまじという証文をとり下されという。
久蔵、皆々に語らい、安鶴方へゆき、一伍一什巨細に物語り、女、壱人助かる事なれば、枉(まげ)て証文出しくれよと頼みければ、安鶴、始終を聞き終り、そは気の毒なる次第なれば、証文出し遣わし申すべし。さりながら、また先方より一札を乞うに、互いに取り交わせ致すべしとて、
※ 一伍一什(いちごいちじゅう)- 一から十まで。初めから終わりまで。一部始終。
※ 巨細(つばら)- 詳しいさま。十分なさま。つばらか。つまびらか。
安鶴は花井昌齊先生方へ至り、委細の様子物語り、証文の案文を頼みければ、先生申さるゝには、狐狸の類いに文字の読めるもの、多くあるものなればとて、残らず文字にて認(したた)め下され、それを久蔵に渡せば、久蔵持ち帰り、女に向い、願いの通りり書付け相渡し申すべき間、その方よりもこの方へ、取替(とりかわせ)証文渡すべしと言えば、
女、承知致し、一間に入り、黒髪を根元よりふつと断ち切り、おの/\の前に差し出だし、私元来無筆(むひつ)にて、文字を書くことあたわず。これにて御聞き済み下され給えかしという。久蔵、髪にては証文の代りにならず。無筆とは言わせまじ。何事も人にも勝れたる智恵ありながら、かく言うは偽りなり。いざ書くべしと言い詰められ、
さあらば、いと悪筆ながら認め申さんと、腕まくりして、筆を握管(わしづかみ)に持ちて、すでに書かんとせしが、まず安鶴より参りし証文を、見せ下されとて打ち開き、
証文の事
一 去年九月十一日、唐木屋普請所にて、打擲仕り候事、あやまり入り候。然しながら、人は天地万物の霊なり。以来、人に憑き崇り候わば、我一拳(ひとこぶし)を以って、汝等一類を打ち殺し申すべく候。相慎しみ候わば、決して打擲仕るまじく候、以上。
天保三辰年
十月九日 鶴蔵
請け人 華井昌齊
あさりや
おしんどの
と、さら/\と読み終りて、筆を取り、
一先年、呉服町唐木屋裏に、風與(ふと)遊歩(あそび)候処、鶴様に朴疾(うちなやま)され、痛く難儀に相曁(および)候間、よんどころなくこの戸(いえ)に憑き申し候。その後、鶴様打ち申さず候わば、速(すみやか)に帰穴申すべく候。その上、国府(すんぷ)には徘徊申さず候。
天保三辰年
十月十日
安西五丁目
重右衛門様
と、書き終り差し出す。(宛名の重右衛門は安鶴の通称なり)
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安鶴在世記(4) 狐の証文の事(四)
昨日、所要で島田に出たついでに、市役所に展示されている、旧海軍牛尾実験所のジオラマを見に行った。工業高校の学生が製作したものという。跡地は先日見に行ったが、ジオラマにすると施設の様子が良く解る。
安鶴在世記の解読を続ける。
然るに第三日目、また/\立ち帰りたりとて言いけるは、人に打ち悩まされ、命にも関わるべき程なるを、たゞ帰りしとて、仲間中大いに怒り、そ(れ)よりは仲間を省くべしとのことなれば、よんどころなく立ち帰りぬ。この義よろしく御推察給わるべしと申すゆえ、弁舌よき者を撰み、掛け合い致し、いろ/\利解を聞かせけれど、中々聞き入れざれば大いにいらち、刀を抜きひらめかし、威しかくれど、女自若として驚かず。
※ いらち(苛ち)- いらいら、せかせかとして落ち着かないこと。
※ 自若(じじゃく)- 落ち着いていて,物事に驚いたり慌てたりしないさま。
それらの事に恐れる狐にあらず。わが身体は外にあれば、切殺すともこの女の身ばかりなり。勝手次第にすべしと罵るゆえ、近所の者立ち入り、切
殺す事は止むべき間、一つの頼みあり、かく長く憑き居られては、家業もなしがたく、終には家内の者を養育(はぐくむ)こともなし難し。この処を良く聞き分けて、立ち去りくれよと云いければ、
女、しからば我がまた願いも御聞届け給わるべし。安鶴は我が敵なれば、みな/\我れに替りて、存分に安鶴を、打擲なされたまわらば、早々立ち去るべしと、云われて、皆々その義は如何にもなし難しと、返答に手間取りしを、女、この事皆々御聞き入れなくば、我も決して立去り難しと、云いつゝ立ち出で、同町なる久蔵方を指して行かんとす。
折しも久蔵門口に来れば、女、見るより言葉をかけ、汝(いまし)に願いたき事あり。いま皆々の衆へ、我が敵(かたき)を撃ち下されと申せども、さらに返答なきゆえ、おまえ様、何とぞこの義御仕遂げ給わるべしと、言われて、久蔵、そはいと安しと承諾し、さらば安鶴方へ同伴すべしとて、女を引き連れ、宮ヶ崎町瓦屋小路を過ぎ、安西指して急ぎ行きしが、
※ いまし(汝)-(上代語)二人称。なんじ。あなた。
女、しばらく彳(たたずみ)ければ、久蔵、何をうか/\しておるなり。早速安鶴方へ行き、敵討の助太刀致しくれん。急げ/\と促せば、女、されば政蔵近辺の歴々方すら承け引かざるに、おまえ様御壱人、御承知下され候は、誠に有難し。然れども、もし先方へ参候上にて、安鶴と心を合わせ、返り討ちに致されなば、この身一つにて詮方なし。それ故いろ/\と考え居り候。
※ 承け引く(うけひく)- 聞き入れる。承知する。
とても敵討ちは難しく思い候へば、これは思い留まり、確かなる証文にても取る方、然るべしという故に、久蔵、さあらば如何様にも取り計らい遣わすべし。
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安鶴在世記(3) 狐の証文の事(三)
(挿絵 - あさりや政蔵妻、於信、安鶴を見て泣き叫ぶ。)
安鶴在世記の解読を続ける。
かくて、一年(ひととせ)あまりも経ちて、宮ヶ崎辺に所要ありて、政蔵の門辺りを通りし故、前年の約定も打ち忘れ、立ち寄りて政蔵とよもやまの物語りいたしおりしが、彼の妻、安鶴を見るより、たちまち前年のごとく、高声にて泣さけぶ故、俄(にわか)に去年(こぞ)のことを思い出し、早々暇乞いして立ち帰る。
その後にて政蔵は妻に向い、もはや壱年も過ぎ去れども、安鶴を見れば、なお狂人の如くになりしは、如何にも子細あるに相違あるまじ。いち/\つぶさに語られよ。もし明白に告げざるときは、離縁いたすべしと責め問えば、その御疑いは御もっともながら、いまゝで夫婦の中も良かりしに、今もし離縁になりもやせず。乳のみ子と老人を残し、あとにて御難儀もあるべければ、これらの事を御察し給われかし。
事の訳はつぶさに申し上ぐべしと居直りて、先年私は、唐木屋の普請場にて、安鶴に打悩まされ、危うき場をようやく逃れ、それ故に安鶴を見るごとに、そら恐ろしく思いはべりぬと語るにぞ。政蔵いよ/\疑い、何故に唐木屋の裏にて、打悩まされたる、次第詳しく語れと言い詰めければ、その御不審御もっともに候。
私は元来唐木屋の背門(うら)に住む狐なりと言えば、政蔵大いに驚き、何故にまた我が家に来たりしやと問いければ、悩まされしその日より、如何にもして鬱憤を晴らさんと思えども、安鶴が勇気烈しくして、その透きを得ず、諸方憑き歩き、伝馬町まで来り、政蔵宅に至り、門辺にて別るゝ時、詮方なきゆえ、この家に留まり居るなりといへば、
政蔵不審に思い、打ちし人には憑かで、何ゆえに我が家に居るぞと申せば、安鶴が勢い凄まじく、とり憑くべき隙を得ず、それゆえに暫らくこの家に留まり居り、心許せし時節をうかゞい、とり憑かんとて、永く御世話に来たりしなり。この家に宿意あらざるゆえ、少しも障りをなさず。男子をも安産致し、御母子ともにつつがなし。
※ 宿意(しゅくい)- かねてから抱いている恨み。宿怨。
もはや立ち去り申しべければ、御夫婦中相変わらず、御睦まじくなされ候様に、願い侍りといへば、政蔵、しからば早々立ち去るべし。立ち去らば地神に祀り遣わすべしという。女、なか/\左様なる官位のあるものにあらず。その儀は御許し給わるべしという。政蔵、さあらば汝の好むことの、何なりと振る舞い遣わすべし。
それにて早々立ち去れよといえば、女、一つの願いあり。これまでのこと、安鶴には御知らせ下されまじく様に、と繰り返し頼み置き、永く世話になりしとの礼を述べ、暇を告げて門辺に立ち出で、たちまち倒れ、人事を知らざる様子なりしが、しばらくのうちに、平日(つね)の如くになりければ、近所親類も、大いに喜び合えり。
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安鶴在世記(2) 狐の証文の事(二)
(挿絵 - 真九郎狐、唐木屋の普請所に睡眠(うたたね)して、はからず、安鶴に打たる。)
安鶴在世記の解読を続ける。
その日、伝馬町大和屋半兵衛方にて、庚申祭ありて、我と政蔵両人呼ばれければ、夕方より八人芸道具等を持ち出で、宮ヶ崎町へいたり政蔵を連れ立て、半兵衛方にいたり、いそ/\芸をいたし、その夜九つ時に立ち帰り、熊鷹橋御城端を帰り、政蔵が門口まで同道いたし、ここにて別れ、我一人家に立ち帰り、
その夜は過ぎ、また翌日仕事に参りながら、政蔵方に立ち寄りしが、不思議なるかな、政蔵女房おしん、我が顔を見るより、大音上げてたちまち座敷に駆け込み、早くもふとんを被り、泣叫びしゆえ、何ごとやらんと政蔵に問いけれど、事の様子、一向何やらん訳の知れざれば、我はそのまゝ唐木屋へ参り、仕事いたし、
また暮れ方に見舞がてら、政蔵方に立寄りしが、また/\大音あげて泣きいだし、あわてふためくゆえ、我もいよ/\不思議に思い、早や/\医者にも見せしかと問いければ、先刻見せしに、この病いは血の病いにして、狂人になりたると申す事ゆえ、まず薬を用いおるなりと云わるゝゆえ、我も見舞を云いつゝ、いとま申し立ち帰りけり。
その頃、江戸出生にて、袋物師久蔵と申す者、同町に住居して、これも昔噺しなどいたし、芸友達なりしが、ある日手紙を送られ、一両日のうちに参られよとの事なれば、安鶴早速久蔵方へ参り、何やらん用事の様子承わらんと云いければ、久蔵曰く、余の義にてはこれなし。何時ぞや政蔵方へ行かれしとき、何か不思議なる事はなかりしやと問いければ、
別段不思議はなけれども、政蔵妻女、我が顔を見て、たちまち泣き叫びしが不思議なりと申せば、久蔵ひそかに問いけるは、汝かの妻に心を通わす事にてもありしやと云う。安鶴、意外の事にて、我決してその様なる姦淫(みだり)なる事なしと答えけれど、久蔵はなお疑い、もとよりかの女は気の小さき者なれど、まさしく訳ありて、汝打擲にてもなしたるに相違あるまじ。汝の顔を見るごとに、泣き叫ぶは、如何にも不審なりと詰(なじ)り問う。
安鶴もとより秋毫(すこし)も身に覚えのなき事なれば、如何なる詮議に及ぶとも、潔白に言解(とか)んと答う。久蔵いさゝか疑いひらけ、然らば如何にも不思議なり。汝を見るごとに泣き叫び、見ざるときは、生常(つね)の如くなれば、蜜(ひそか)に情由(わけ)にてもある様子に思われ、政蔵よりも頼まれし故、云々(しかじか)なり。
※ 秋毫(しゅうごう)- きわめてわずかなこと。少し。
然れども一向身に覚えのなきよしなれば、久蔵も詮方なく、然らば暫くの間、政蔵方へは遠ざかり、行かざるようにとの頼み、安鶴許諾し立ち帰り、そののちは音信(おとづれ)もなさで打ち過ぎけり。
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安鶴在世記(1) 序、狐の証文の事(一)
次に解読するのは、何にしようか。考えた末に、文久二年(1862)発刊の「安鶴在世記」という本に決めた。駿府を舞台にした本で、そんな本があるということは聞いていた。読み始めてみると、それほど長いものではなく、しっかり刻まれた版で大変読みやすい。「富士の人穴物語」で解読に苦労した後なので、こういう本も悪くない。
それでは早速解読を始めよう。
安鶴在世記 序
栄寿軒安鶴主(ぬし)は、若きときより種々の技(わざ)に心を尽くし、世にあらゆる細工ものなど、学ばずして心のまゝに造りなし、ある時には、八人芸、昔噺し、手品、軽業、力持ち、角力、行司などまで、草々の技をなし、諸人たちの耳目を喜ばしめ、または、風流の友が歳(才)に交わり、彫物、印刻、画なども能くし、自ずから遠州国々までも名の響くこと、名にしおう鶴の声と等しく聞こゆめり。
※ 八人芸 - 寄席演芸の一。足でささらを摺り、片手で太鼓をたたき、同時に横笛を吹くなど一人で八つの楽器を操ったり、八人の声色を出したりする芸。
こたび(此度)在世記と云える文を書かれしは空言(そらごと)を言わず、正言(まさごと)をのみ選(え)りいたし、先ず初篇とし、世の人のよく知るところを綴りしものなり。いささかその万(よろず)の由を、文久二戌年十月、記す。
翠屋閑人誌す
小原竹堂書
安鶴在世記 初篇
駿府 栄寿軒安鶴著
○ 狐の証文の事
我れ元来左官渡世なりしが゛、天保年中、この頃専ら八人芸世に行われしゆえ、我も深くこれを学び、ある時、江戸より錺屋職人政蔵と申す者、駿府鍛冶町錺屋方に罷り居り、その人、昔噺しをよくして、所々へ招かれなどいたし居りしが、不思議なる縁にて、その年の秋、宮ヶ崎町あさりや萬兵衛方の聟となりしゆえ、その家内とも入魂にいたし、朝夕遊びにまいりしが、
※ 入魂(じっこん)- 親しく交際していること。懇意。昵懇。
この頃、呉服町四丁目唐木屋は、我が出入場所なれば、土蔵の普請につき、札の辻扇屋油店の土蔵と、四五尺のひやわいにて仕事いたし、その狭き所に、古き家(屋)根板積み重ね有りしが、その間より何やらん、怪しきもの飛び出でしかば、我れ持ちたるこて板にて、力に任せ打ち付けければ、いづこともなく逃げ失せけり。
※ ひやわい(庇あわい)- くっついている家と家との間のせまい通路。
※ こて板(鏝板)- 左官が壁などを塗る時,壁土・漆喰などを盛って手に持つ板。
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