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明治の大井川川越し その3

(大井川の本流、川越し地よりもかなり下流)

(昨日の続き)
大井川渡船が開かれて、同時にいくつか御触れが出ているが、「歳代記」にはそれらも記録されている。

東京駅逓御役所より
右は大井川会所へ御書下げ左の通り。

※「右」は「東京駅逓御役所」で「左」は以下の御触れを指している。

東海道島田金谷の間、大井川は従前歩行越のところ、旅人難渋少なからずに付き、別紙の通り、当分相定められ候条、この旨、相心得うべき事。
辛未四月   太政官

※「辛未」-明治4年

大井川渡船は当分左の通り相定め候条、水主のもの船賃の外、酒手等乞い請け候儀、これ無き様、地方(じかた)に於いて取締り致すべき事。

※「水主」-ふなのり、船頭。

船賃の儀、当五月朔日より賃銭表の通り相定め候事。
一、行幸、行啓、その余、非常出兵などの節は別段の御所置これ有るべき事。
一、並びに出船は暁六つ時より夕六つ時まで限るべき事。
但し、急用の者は刻限に拘らず出船致すべし。もっとも夕六つ時より暁六つ時まではすべて定賃銭へ五割増の事。
一、常水弐尺五寸へ三尺の増水にて馬越し相留め、四尺増より通船相成らず候事。
右の通り相定め候事。
辛未四月     民部省

※「行幸」は天皇の外出、「行啓」は太皇太后・皇太后・皇后・皇太子・皇太子妃・皇太孫の外出。
※「暁六つ時より夕六つ時まで」-午前6時より午後6時まで

例外として「非常出兵」が挙げられている。明治になって「出陣」から「出兵」に変わっている。

大井川賃銭
一、銭百弐拾四文   乗合     壱人
一、銭三百七拾弐文  乗馬     壱疋 但し口附共
一、銭五百文     長棒駕籠   壱挺
一、銭三百七拾弐文  引戸駕籠   壱挺
一、銭弐百四拾八文  垂・山駕籠  壱挺  
一、銭百八拾四文   両掛・分持共 壱荷
一、銭六百弐拾四文  大長持    壱棹
一、銭三百七拾弐文  長持     壱棹 
右の通り相定め候事
辛未四月     驛逓司

※「両掛」-挟箱や小形のつづらを棒の両端に掛け肩に担いだもの。
※「分持」-1つの荷を二人で分けて持つこと。
※「驛逓司」-明治初期、交通・通信をつかさどった官庁。

両所川越の救済の義は萩間村または日坂御林済美地より開墾地を下され、極く難渋の者は右地所へ引越し申上げ、このものには農具料として金七両ずつ御手当下され、それぞれ元手として外稼ぎ仕り候。


これは渡船で職を失う川越人足の救済措置を記録したものである。農業に転業を勧めたものである。川越人足たちが、その後、どうなったのか、興味を引かれるが、以後触れられた記事はない。

宿に人力車を御開きに相成り。
東海道ではそれまで交通手段として車は許されていなかった。人力車は初めての車である。渡船の開始と同時というのが意味がありそうである。(続く)
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明治の大井川川越し その2

(大井川谷口橋辺り)

(前回の続き)
明治三年の暮れの27日、島田御役所より船方元締佐塚佐一郎、川崎源五郎、右両人元締役、同手代大石林八、狩野安太郎、川合小才次、中村源三郎、右六人へ諸役の義、仰せ付けられ、御請け申し候。との記事がある。いよいよ東海道本道にも船渡しを認める準備が始まったのであろう。そのための船方元締や手代の任命なのだろう。

正月元日より川方故障、川越一同惣代川会所へ願い出る。もっとも去る午年の暮れ、米、金貸付けなどこれ無きに付き、右は諸勘定差引見届けたく願い出る。もっとも川越一同惣代に仲田源蔵殿頼まれ、川役人共に諸勘定致し候ところ、川庄屋六人の内壱人贔屓などこれ有るに付き、取扱人両町地方役両三人にて取扱に相成り、河村惣右衛門殿より金八百両出金に相成り、川越人数へ割り渡し申し候。三月八日故障漸々相治り申し候。

※「故障」- 異議、苦情。

明治四年になって、川方から苦情が上がり、川会所へ持ち込んだ。どんな問題だったかは判らないが、川庄屋の一人にえこひいきがあったようで、お金で解決した。その際、河村惣右衛門という人が金八百両のお金を出している。河村氏が贔屓した本人なのか、どうかははっきりしない。揉めごとは船渡しへの移行に絡んで起きたのかもしれない。解決を急いだ様子もうかがえる。

正月頃、島田御役所より仲田源蔵殿義も船方手代仰せつけられ、御請け印を仕り候。

     御書付
申し渡しの義、これ有るに付き、明後晦日、朝四つ時罷り出ずべきもの也。
  正月二十八日 島田御役所       
     金谷宿 松浦幸蔵
     差添人 下嶋弥八郎
右御役所へ罷り出で候ところ、船方手代仰せ付けられ候に付き、則ち御請け印形を差上げ申し候。


船方手代の追加があったようで、筆者(松浦幸蔵氏)も任命を受けている。

二月朔日より再勤仕り候。
    船頭人数  四拾人  弐拾人金谷町  弐拾人河原町
右は元締手代船頭の取極の義は両町より人数半々に人選致すべき事。両町地方へ替えさせられ、議定書致し候。

※「地方(じかた)」- 江戸時代、町方に対して、農村のこと。転じて、農村における民政一般をいう。

ここで「再勤」というのは、川会所の職は一度任を解かれたのであろう。

当五月朔日より
東京駅逓御役所より靜岡様へ仰せ渡され、即、島田郡政御役所にて両宿川方役人共へ仰せ渡され、御請け仕り候。当大井川渡船を御開き相成り申し候。


そしてついに明治4年5月1日より渡船が開かれ、大井川の徒歩渡りの制度は終焉を迎えた。(続く)
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北川正恭氏講演会

(北川正恭氏講演会)

午後、S銀行の新春講演会で、浜松に会社のK氏と出掛けた。会場は浜松駅前の浜松名鉄ホテルである。講師の北川正恭氏はかつて三重県知事としてユニークな活躍をして知られている。と言いながら、北川氏の知事としての活躍を十分理解しているわけではなかった。演題は「トップの決断~持続可能な地域・組織~」である。

1944年生まれの64歳、自分より二つ年上である。S銀行の頭取の後に出てきて、銀行のお偉方がまた出てきたと勘違いしたほど、バンカーだと聞いても納得してしまうような風貌であった。

組織のトップは時代の転換期に当っては、日常的な改善ではなくて、非日常の決断をして、断固たる決意で事を進めなければならない。明治維新、敗戦後の復興期、そして100年に一度といわれる経済的な危機の今が、明治以降の三大転換期である。

敗戦後、日本のトップに立ったのは、現首相の祖父の吉田茂首相である。吉田茂が考えたことは、東西陣営の内、西側の欧米を選択して戦後復興をはかった。経済に重きを置き、軍備は軽くして日米同盟で補うと決め、一時は中央集権、傾斜生産方式で、少ない資源を集中的に活用して、復興をはかると決断した。その後、アメリカの援助とその後に起った朝鮮戦争の特需で一気に経済復興へと進む。その中では、吉田茂-岸信介と続くこわもての首相の断固たる政策遂行が大きな効果をあらわした。ついにプラザ合意という円相場の切り上げで一ドルは240円から120円さらに79円まで切りあがる。このプラザ合意は敗戦国の日本とドイツに、戦勝国が頭を下げた瞬間であった。

現在の危機に際して、麻生首相も安心できる年金や介護、医療などを維持しながら、子や孫にその付けを回さないために、決断をして政策を決めたら断固として推し進めることが必要である。どちらにしても三代続いて首相が国民の信を得ていない今の状態では何も出来ない。政策をマニフェストにまとめて早急に総選挙を行い、国民の信を得なければ、どんな政策も実行できないのが当然である。

もっともな話であったが、この講師は麻生首相にどのような決断を迫っているのだろうか。それについての発言が一切なかった。口ぶりでは消費税の増税を勧めているようにも聞こえた。

こんな風にまとめて書くとすっきりするけれども、講演はいろんなところに話が飛び、言いたいことを理解するのに難しい講演であった。

最後に県議や知事の時代の話になると、話が具体的でわかり易くなった。金を中央に握られている結果、地方役人は国の方ばかり見ていて、国の意向を絶対的なものとして、住民をそれに従わせることしか考えていない。県知事時代に言っていたことは、立ち位置を住民側に変えて、国に物申す地方役人になろうということである。

住民側も公からむしりとる事ばかり考えていては駄目で、私の努力と公の努力で、国の都合に引きずられない、自発的な持続可能な改革が出来るという。

北川氏は次期総選挙に打って出るのであろうか。
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明治の大井川川越し その1

(大井川、横岡辺りから上流を望む)

「越すに越されぬ大井川」といわれ、江戸時代には徒歩渡りしか許されなかった大井川の川越しであるが、明治になって大きく変わった。仕事を失った川越し人足は牧之原の開拓に入る。そんな大まかな話は知っていたが、具体的どのように切り替わったのか。お馴染みの「歳代記」の記事の中からその状況を見てみよう。筆者の松浦幸蔵氏は当時川会所の役人だっただけに、川越し制度の推移には詳しい。

明治になっても、明治三年頃まではまだ徒歩渡りしか許されていなかったことが窺えるが、川越し制度は江戸から靜岡へ移封された徳川藩によって徐々に崩されることになる。

同年(明治三年)四月頃より、徳川様御藩松岡萬(つもる)様御付属山内へ、通船を御仕立て候。おもむき仰せ付けられ、両所の川方役人、川越に至るまで種々嘆願致し候へども、御聞き済みこれ無く、島田向谷村へ御役所建て、弥々山内へ上下とも通船に相成り、西側村前横岡東側は向谷村より山内へ通船、都合拾五艘ほど御仕立て、両宿商人山内へ送り候米その外。運賃下値に付き、船積に相成り、山内産物とも積み下り、両所山内へ駄賃取候人員は大迷惑致し、渡世に別れ候ものもこれ有り候。


徳川藩によって、東海道の川越しよりも1.5kmほど川上の横岡東側や向谷から、山内へ15艘もの通船が通うようになる。この「山内」は山の方、つまりはそれより上流の地域を指している。結果、上流へ荷運びをしていた人達が暮らしが立たなくなった。ここではまだ大井川の渡河には手は付けられてはいない。

当年(明治三年)四月十三日 靜岡御藩庁
徳川亀之助様、御領分中御順見にて、(東海道の)本通り御渡川のところ、俄に掛川宿の御泊りより御先触れ到来にて、矢口村前御越立に相成り候に付き、川庄屋、川役人、川越召し連れ、矢口村前にて歩行(かち)越し御越立て仕り候いて、御目録金千両下され置き、有り難く頂戴奉り候。以上。


徳川藩の藩主が、東海道の川越しよりも下流の、現在の谷口橋辺りで、徒歩渡りをされたという記事である。これも江戸時代であれば異例のことである。渡河の場所を変えることにどんな意味があったのか、記事だけでは判らない。

その後、四月二十日頃より靜岡様御藩松岡萬様、島田先三軒家村棒鼻へ「是より矢口村鎮座水神」と書き記し候棒杭を御建てに成られ、矢口村前にて御同人様水除御普請中に御用に成られ候、石取船、これを用う。もっともこれは御普請御仕立中に限る様、仰せ聞かされ候ところ、矢口村役人共もっての外の心得にて、出水の節は往還旅人に莫大の賃銭取の越立致し、間道越し専らに相成り、宿中旅籠屋、茶屋又ハ棒鼻ニ住居致し候ものまで難渋致す。数度島田郡政御役所へ嘆願奉り候えども御取上げこれ無く、日々難渋に陥り申し候。


東海道から5kmほど下流の矢口村で、最初は水防工事の間だけの特例として、石取船の使用が認められた。それが既成事実となって、心得違いにも矢口村役人が増水した時など、法外な賃銭を取って旅人を船で渡し、間道越しが専らになってしまった。川越し制度の中で生計を立てていた人々も、世の中が変わっていよいよ追い詰められていく。(続く)
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橋下大阪府知事の支持率

(今日の夕焼けー実際にはもう少し明るかった)

女房が名古屋へ出かけているので、今夜はカレーライスである。午後帰ってから作ると話して出掛けたが、仕事が長引いて帰るのが夕方になった。昨日、今日とまーくん一家が泊まりに来てくれているので、電話で準備を頼んだ。五時前に戻って刻んであった材料で仕上をした。隠し味にいつもオリジナルジュースのベースになる、昨年初夏に冷凍した甘夏の実を放り込んでみた。加えてある砂糖が効いて、少し甘いカレーになってしまった。それでもまーくんのパパは美味しいと言ってお代わりしてくれた。

    *    *    *    *    *    *    *

読売新聞の世論調査で、就任一年目の橋下大阪府知事の支持率が82%だという記事があった。オール野党だった議会も含めて、支持率90%を越えている東国原宮崎県知事には及ばないが、82%はすごい数字である。与党の自民党支持者の92%もすごいが、民主支持者の83%、共産支持者の5割という数字には舌を巻く。

橋下知事の発言を見ていくと、総額1100億円の削減を目指した2008年度予算も実際には18億円の削減に留まったとか、センセーシュナルに言い出した話が次々に撤回されるなど、ブレまくっている。決して公約を実施出来ているわけでもなく、東国原知事のように、大阪府を売り込むセールスマンに徹しているわけでもない。そんな橋下知事の支持率がどうしてこんなに高いのか、一見不思議である。

借金は5兆円といわれる大阪府の財政を、過去の知事が結局は何も手が付けられなかった事実を府民は見てきている。5兆円というのは880万人の人口で割ると一人当り568,000円の借金がある計算になる。この財政の非常事態に、いろんな問題はあっても橋下知事なら何かやってくれそうだと、府民は期待しているのであろう。激しい抵抗勢力の発言がありながら、府民の支持が緩んでいない。

例えば、魔物が棲むといわれる大阪府庁がある。大阪府の職員にとっては、営々と獲得してきた既得権の中で、悠々と税金を食んできた、この状態が永遠に続くことが望ましいのであろう。しかし、前述のように、いまや大阪府は倒産寸前なのである。突然の不況で派遣切りになった人たちも、望んで切られたわけではない。一人大阪府の職員だけが今のままで優遇されていい訳がない。強烈な抵抗は覚悟の上で、知事は取り組んでいる。それを府民の支持率が援護しているという構図なのであろう。もちろん、橋下知事がこのまま何も出来なければ支持率は地に落ちるであろう。

麻生首相も消費税を挙げることには執心しているようだが、国民には首相が何を考えて政策を進めているのか、さっぱり見えてこない。麻生首相に確固たる信念があって政治を行っている形が見えてくれば、その一環としての消費税の改定を言っても、国民の支持が20%を切るなどということは有り得ない。日本国民はどうしてなかなか賢明である。
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キンカンと朝青龍の復活

(キンカンを頂く)

昨年の6月に続いてO氏からキンカンを頂いた。去年より半年早いが、O氏は少し青いが十分美味しいという。ところで去年の6月に裏の畑にキンカンが植えた事を思い出した。午後帰宅して畑に行ってみた。ほとんど放ったらかしで、半年振りに見るわけであったが、下の写真のようになっていた。

 
(植えたキンカン、左-植えた当初の昨年6月、右-今日)

左が植えた当初で、右が現在である。冬だからであろうか、葉っぱが見るからに元気がない。枝を少し伸ばしているが、茎だけで葉っぱが付いていない。消毒もしていないから、新芽は皆んな虫に食べられてしまったのだろうか。そんな訳で、花や実をつけるような様子は全くない。復活させるには少し肥料をやらなければ駄目なのだろう。まあ枯れてはいないから、手の打ち様はある。ところでキンカンは何年ぐらいで実を付けるようになるのであろう。

頂いたキンカンを齧ってみた。甘みがあって食べれそうである。今朝、女房は名古屋の娘の家へ二晩泊まりで行った。一度戻って次に行くときは出産本番になるであろう。キンカンは女房が戻って本格的に加工することになる。バタバタするけれど、まだ少し青さの残るキンカンは、日持ちするとO氏も話していた。

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大相撲初場所は昨日14勝1敗の朝青龍の復活優勝で終った。白鵬と両横綱が最後まで優勝を争って、久し振りに視聴率も上がり活況を呈した。横綱の品格に欠けるという批判が多いけれども、あの気迫に満ちた朝青龍の相撲には、日本人の相撲取りが失って久しいものがある。栃若時代まで遡らなくても、例えば千代の富士の全盛期の気迫に匹敵するものがある。

駄目を押すような相撲、張り倒す勢いの空振り、敗者に配慮のないガッツポーズ、殺すというような口汚い発言など、確かに品格云々といえば問題があるかもしれない。しかし彼は外国人で違う文化の中で育った人である。外国人を弟子に取った以上、ある程度日本人の感覚から逸脱するものがあっても仕方がないのかもしれない。大相撲ファンは朝青龍の一挙手一投足も含めて、大相撲を楽しんでいるのであろう。この初場所でそのことがよく判った。

品格云々を口にする横綱審議委員の面々は、横綱の品格云々と批判する前に、日本の礼儀をわきまえた日本人力士をどう育てていくかを真剣に考えるべきだと思う。
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読書疲れに読む本

(“みんくる” そばの街路樹、クロガネモチ)

昼、大阪国際女子マラソンで渋井陽子が優勝した。2時間23分台の好記録であった。とばし過ぎてスタミナ切れになったり、スローペースに返って消耗してしまったり、何度も期待を裏切ってきたが、今日の走りはじっと自重し、残り10数キロで一気に出て独走した。ゴールして飛び跳ねるパワーをまだ残していた。ペース配分がうまくいくと、そんな風になるのかと感心した。

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読書に疲れた時に読む本は何ですか? 読書を趣味にする人にそんな質問をしてみたい。おいおい、読書に疲れたら身体を動かしたり、音楽を聴いたりするのが普通であろうといわれるだろう。ところが自分の場合、昔から読書に疲れた時に読む本があった。内容が軽くて、何も考えなくても良い、楽しいだけの本である。自分が今まで読んできた本の中から、そんな本を挙げてみよう。

第一は、北杜夫のどくとるマンボウシリーズである。最初に「どくとるマンボウ航海記」を読んだときは、昭和40年、書き出しから抱腹絶倒で、こんな面白い本が世の中にあるのかと、読書経験の浅いその当時には思ったものである。だから、その後「どくとるマンボウ」と名が付くと、必ず買って読んだものである。もっとも面白さは後になるほど薄れてしまったけれども。

第二に、山口瞳の男性自身シリーズである。週刊誌に連載されていたものだが、週刊誌を買う習慣はなかったから、本になると買って読んだ。男というやつの性(さが)に共感を呼ぶものがあったのだろうが、内容は今ではすっかり忘れてしまっている。

第三に、畑正憲のムツゴロウシリーズもよく読んだ。一、二時間も読めば一冊読めてしまう。何も考えずに散歩してくるようなものである。自然や動物と本の中で、いうなればバーチャルに触れ合ってくることが出来た。畑正憲はどこかで北杜夫の文章から書き方を学んだと書いていた。

第四に、椎名誠のあやしい探検隊のシリーズなどのエッセイである。著者と仲間たちのハチャメチャな活動ぶりが、自分には出来ないだけに大変面白かった。それも著者が若いころの作品の方がたわいがなくて楽しい。年を重ねるにつれて少しずつ重くなってきた。

そして、今はどんな本が読書疲れに読む本になっているのだろうか。一つは阿川佐和子のエッセイをよく読んでいる。女性の日常生活を書いていながら、どこか発想が男性的である。だから読んでいて内容が重くならずに楽しい。もう一つは、三谷幸喜のありふれた生活シリーズである。三谷幸喜についてはかつて書いた。

まだまだ読書の間口が狭いのであろうか、最近それに近い本を探し得ていない。
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「安倍七騎」を読む

(浅羽克典著「安倍七騎」)

一昨日の書込みで少し触れた、浅羽克典著「安倍七騎」(靜岡新聞社)という小説を今朝、図書館から借りてきて日向ぼこ書斎で読んだ。

戦国時代、安倍川とその支流に住んだ七騎の武将たち、後世の諸本に「安倍七騎」の名で記されている。その七騎には諸説あるらしいが、この小説では、安倍川本流沿いの村岡村の末高石見、俵峰村の杉山小兵衛、望月四郎右衛門、安倍川支流の中河内川沿いの上落合の大石五郎右衛門、西河内川沿いの腰越村の長嶋甚太右衛門、中河内川と西河内川の合流点の落合村の狩野弥次郎、足窪川沿いの足窪村の石貝重郎左衛門の七名を「安倍七騎」としている。

戦国時代の習いとして、戦に手柄を立てて小さくても城持ちになるのが夢である。後の時代のように主君とのつながりは希薄で、自分たちが付く戦国大名は十分吟味して、しかし必ずしも旗色の良い方に付くとは限らない。自分たちの手柄が評価されるのは旗色の悪いほうかもしれない。常に天秤に掛けることは忘れないで、小説では「安倍七騎」は終始武田方に付いた。戦いに望んでは勇猛果敢に突進し、味方が崩れかかると退却も早い。目的は手柄を立てて論功褒賞を得ることで、戦死してしまっては意味がない。

武田方が今川に組する北条を攻めて、城が落とせずに帰還する途中で、7人は北条早雲に習って、自らを「安倍七騎」と称して行動を共にするようになる。その後、大回りし、信州から兵越峠を越して遠州に攻め入る武田軍に従って、三方ヶ原の戦いに参戦し、高天神城攻めや、長篠の戦いにも加わっている。

「安倍七騎」はさしたる功名もあげられなかったが、長篠の戦いに破れ、落ち目になった武田方に、家康が盛り返した小山城攻めに際しては、浪人やならず者を集めた武田軍の中で、唯一歴戦の兵として籠城し、大活躍して家康軍を退却させた。この効により、念願の城持ちになれるかと期待したが、頼みの武田氏も滅亡し、徳川の時代となって、戦の場もなくなってしまった。

「安倍七騎」は身内に殺されるものもいたが、徳川に仕官する者、帰農する者など、それぞれに天寿を全うしたようだ。

一昨日のブログに書いた旗指で起きた戦いは、「安倍七騎」の中には出て来なかった。あちこちであった小競り合いの一つだったのだろう。また武田軍は「甲斐から安倍峠を越えて安倍川に沿って駿河に入った」と想像したが、そんな様子も無かった。「安倍七騎」は戦いのあるところに出向いていく、いわば出稼ぎであった。安倍川流域がすべて武田に組した訳でもなく、安倍峠を越えて安倍川に沿って進むというのは難しい。やはり普通に甲斐から富士川に沿って駿河に進出したコースが順当であろう。そう考えると、旗指に徳川軍が居て、奥の千葉山辺りが主戦場となった戦いのイメージがもう一つ湧かない。また調べることが増えた。
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明治の養豚とペット事情

(ムサシと正対する)

書くテーマが底をついて来ると、書き始めが遅くなり、当然書き終るのも遅くなって、次の日が出勤日でないと、書き終わるのが深夜2時、3時となる。その結果、寝るのが3時、4時となり、次の日は午前中寝ている破目になる。つまり目が覚めると次の書込みが待っている訳で、昨日無かったテーマが寝ている間に湧き出して来るわけが無い。また、苦しんで書込みが夜中まで掛かり、そんな悪循環が続いている。どこかで断ち切らないと参ってしまう。書込みを休めば楽になるのだが、それはそれで目標を失いかねない。ならば、明日は早起きしてネタを探しに出かけようか。

愚痴を言っても何も進まない。最近は、困ったときは古文書に種を探すことになる。他の人はあまり興味を引かれないことは承知していながら、今日もテーマを古文書へ求めた。例の「歳代記」を読んでいて、気になる記事を見つけた。

明治五申年秋頃より、東京にて豚が大はやり。追々当所(金谷宿)でも何処となくはやり。豚壱疋代金百円位より三拾円または拾円位の値段。往還には登り下り豚ばかり。明治六酉年春より夏までには、金百円位の豚が金弐円位へ下落致し、大損耗致し者の多人数これ有り候。

またまた南京鼠がはやり、壱疋金五拾銭にも相成る。うさぎがはやり、壱疋白黒ぶちで金百円位に相成る。九かん鳥と申す鳥がはやる。弐羽で金二十円位に相成る。シャモと申す鶏がはやる。この鳥は大金を掛合い勝負出来る。
※「南京鼠」はハツカネズミの飼養白変種。


日本では明治になるまで、四足の動物を食べる習慣は無かった。明治2年に、早くも明治政府は、富国強兵の体力づくりのために、食肉を奨励し、東京府下青山北町に家畜指導所と種豚飼育場を設立した。「歳代記」の前半は、明治5年にすでに養豚が流行して、金谷宿の往還を豚が沢山上り下りしていたという記事である。車が無い時代、豚を運ぶには街道を歩かせるしかなかったのであろう。養豚で大儲けするつもりが、食肉文化が広まるにはまだまだ時間が掛かり、生産過剰になって暴落し、損をした人が沢山いたという話である。食肉の需要が高まってきたのは、明治中期以降である。

後半は南京鼠、うさぎ、九かん鳥、シャモなどが飼われるようになったという話。シャモは少し違うが、明治になって、犬猫以外のペットを飼う気持ちの余裕が地方にまで及んで来た。それにしても、いずれも値段が高い。

こんなところで今日は予定に達したか。背中では、NHKの舞台中継「女一人、ミヤコ蝶々物語」を流していたが終った。沢口靖子の蝶々は似合わないけど面白い。
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「旗指」という地名

(旗指インター)

午後、靜岡に健保の理事会があって出掛けた。車で国道1号線バイパスを東京方面に向かって、新大井川橋を渡ると向谷インター、旗指インター、野田インターとインターチェンジが続く。中で昔から気になっていたインター名に「旗指」がある。「はっさし」と読むが、どういういわれのある地名なのだろう。「旗指」を辞書で引くと、戦場で、主人の旗を持って供奉する武士。旗持ち。または 「旗指物」そのものを示すとあった。

確か、年末に旗指インターを通って、案内板を見つけ、車を止めて写真を撮っていた。おそらく「旗指」の謂れが書いてあったと思って取り出した。

史跡 権現森
永禄十一年十二月(1568)の末ごろより天正年間(1572)にかけ、徳川・武田の両軍は、千葉山智満寺を中心に、猛烈な兵火を交え、この付近の社殿・仏閣多数を廃墟と化した。
そのころ徳川の軍勢は、この旗指の地に陣営を布き、幾本もの旗幟を風に靡かせて、武田の軍勢に対抗した。家康公は、この山腹の小高い丘の森陰に本営を置いて全軍を指揮した。家康公は肌身離さず奉持していた守護神を、今の三寸神社に奉納して戦勝の祈願をしたと伝えられている。
当時、大井川の流れの一筋が、向谷水神社の山鼻から伊太口を洗い、三寸神社前から、旗指の山裾を浸し、大沢谷川と合流して、大きな淀となって東へ流れていた。家康公はこの戦勝祈願のために、桶舟を造り、これに乗って往復したという。斯様なことから天下平定の後、この地を「権現森」と称して保存されてきた。昭和の終戦後まで樹齢数百年という樅の大木が存在したが、惜しくも落雷で焼失した。現在その所在地は、この真上の国一バイパスの用地となっている。
平成四年二月吉日 旗指郷土愛好会


徳川家康と武田信玄は今川領を分割支配するに際して、大井川を境にして東の駿河を武田領、西の遠江を徳川領とする密約を結んでいた。しかし武田信玄が約束を破って、永禄11年(1569)、重臣の秋山信友に信濃から遠江へ侵攻させた。この時は失敗に終ったが、その後信玄と家康は敵対関係となった。

案内板に書かれたのと同じ時代である。戦いは遠江だけではなくて駿河でも起っていた。駿河の武田軍はどこを通って来たものだろう。南アルプスという山塊があるから、甲斐から安倍峠を越えて安倍川に沿って駿河に入ったと考えるのが妥当だろうと思う。まだ読んだ訳ではないが、浅羽克典著「安倍七騎」という小説がある。安倍川沿いに住み、武田方に組した武将たちの物語である。当然彼らの手助けも受けながら駿河に進出したものであろう。

この辺りの状況ももっと詳しく調べてみたい。
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