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「竹下村誌稿」を読む 384 風俗習慣 25

(散歩道のセグロセキレイ/27日撮影)

これで、散歩道で近所の見掛ける、ハクセキレイキセキレイ、セグロセキレイの三種のセキレイをカメラに収めたことになる。

今日は久し振りの雨模様。関東では夜になって雪になっているようだ。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

       一 忠右衛門の太皷破り

口碑に、八木忠右衛門は嘗(かつ)て久しく本村の庄屋役を勤めたりし人なりしが(年暦未詳)、事故ありてその職務を辞することとはなりぬ。依って、後任者たる下島八左衛門に事務の引き渡しをなす場合に当り、公有書類は勿論のこと、その他総ての引継ぎをなし、余す所、唯々村太皷一個のみとなりしが、心中に不快を感じたりしことありしと見え、何を思いけん、可惜(あたら)太皷を引き破り、その輪金を残して、胴と皮のみを引き渡し、残したる輪金は辞職の紀念として自家と分家に分かちて、平常用ゆる茶釜の釣手に用いしめ、後世に至るまで長くこのことを忘れざらしむと云う。

この輪金の一分は、現に村内八木勝平氏の茶釜の釣手となりて存在せるを以って、その事実なることを推知すべし。因みにこの忠右衛門は久しき以前に絶家となり、今は屋敷跡さえ何れにありしか認識するものさえなしといえども、この屋敷跡は一旦田となりしも、今は渡辺乾作氏の宅地なりし処ならん、と思い当たらしむるものあり。

そは元禄二年(1689)、大代川内外堤長調べによれば、内堤長三百四間、但し忠右衛門裏より三右衛門下田境までとありて、地勢よりみるも、この宅地裏は内堤の起点たりしことを推想せしむるのみならず、享保十七年、忠右衛門と隣村横岡平左衛門と、この内堤の内、長八間の境界を争いし訴状中(村の条参照)にも、「堤長百十間拙者地付の内」とあり。依って、その争いに係わる地(内堤長さ八間)の実況に據(よ)るも、この宅地の前に続きて、竹下と横岡(今、横岡新田)と両村の土地入り交じり、一見して係争地たるを知るに難(かた)からず。

しかも、この宅地は十年前までは、八木勝平氏が累代占有し来たりしのみならず、茶釜の釣手も享保の訴状も、同氏の什蔵せしなどを総考すれば、忠右衛門と八木勝平氏とは元来本分(本家と分家)の間柄なりしことを推定せらるべく、要するにこの忠右衛門は何れの時代の人なりしか明らかならずといえども、元禄已前よりすでにその名ありて、享保の頃に亘りて村内に相当の土地を所持したることは、前記訴状中、堤長百十間、拙者地付の内とあるにても知るべし。されば元禄以前より享保の頃までは、村内に重きをなし、この間に於いて庄屋も勤めたるものなるべしと推測し得らるべし。
※ 什蔵(じゅうぞう)- 自家のものとして蔵していること。
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「竹下村誌稿」を読む 383 風俗習慣 24

(散歩道の菜の花/27日撮影)

金曜日、駿河古文書会の発表当番で、前回に引き続き、相良藩の本多越中守、延享4年の所替え関連文書を読む。すでに資料は提出してあり、発表するばかりなのだが、二、三疑問点があって、相良の図書館に午后出掛けた。図書館がどこにあるか分からずに、目に入った牧之原市資料館に入り、図書館の所在を聞いた。女性の職員が、分りにくい所だからと案内してくれ掛けたが、目的を聞いて、それなら資料館の学芸員でお答えできるかもしれないと、呼んでくれた。

若い学芸員のHT氏は丁寧に話を聞いてくれて、相良町史を出してきて、相良には、地方文書しかなくて、御城側の文書は残っていないから、地方文書から類推するしかないが、本多越中守の所替えの原因は、相良町史には、地方文書から類推して、断定はできないけれども、恐らく日本左衛門の事件によるのではないかと書かれている。地方文書に、日本左衛門の被害を訴える延享三年(1746)の文書や、日本左衛門の一派が、江戸から出張ってきた捕方によって、延享三年十月に捕らえられたという風聞書などが残っている。

日本左衛門に付いては、延享三年に、掛川藩主の小笠原長恭(ながゆき)が日本左衛門の跳梁を許したとして、この不始末の責任を取らされて、陸奥棚倉に転封となったことが知られている。一年遅れではあるが、この所替えが同じ理由であったことは十分考えられる。

HT氏とは一時間以上お話して、帰ってきた。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

     第十一章 伝  説

      第一節 総  説

古来、話柄喧伝し、若しくは人口に膾炙する物語、草子の如きものにして、丹彩を施し悉く信じ難しとするも、なお人文発達の跡を見るべく、人世興廃の径路を察すべく、史乗闕文を補うこと少なからざるべきを以って、好古学者は重きをこれに置くと云う。而して、この章、考古の資料を補うに足るべきに非ずとするも、古老の物語りたる新拠すべきこと実譚なれば、兎に角、往時率直なる人心状態の一班を窺うに便せんとす。
※ 話柄(わへい)- 話の種。話題。
※ 喧伝(けんでん)- 盛んに言いはやして世間に広く知らせること。
※ 人口に膾炙する(じんこうにかいしゃする)- 世の人々の評判になって知れ渡ること。
※ 丹彩(たんさい)- 赤い色。
※ 史乗(しじょう)- 歴史上の事実の記録。歴史書。
※ 闕文(けつぶん)- 一部分抜け落ちたところのある文章。また、 その抜けた部分の句や文。
※ 好古(こうこ)- 古い時代の事物を好むこと。
※ 新拠(しんきょ)- 新しいよりどころ。
※ 実譚(じつたん)- 実際の物話。


読書:「鳥居の密室」 島田荘司 著
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「竹下村誌稿」を読む 382 風俗習慣 23

(大代川のコガモ/一昨日撮影)

コガモはつがいではなく、二羽ともメスであった。

夜、金谷宿大学教授会。三月の発表会についての打ち合わせ。

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       児 守 歌
ねん/\ころ/\ねんころよ、泣くと長持しょわせるぞ、おこるとおこもに呉れてやる、だまると団子を十(とお)くれる。

よい児(こ)の守(もり)やはどこいった、浜松海道へとゝ(魚)かいに、とゝを幾疋買ってきた、とゝを三疋買ってきた、守やに一疋児に二疋、あしたのまんまの菜(さい)ぐさに。

お月様いくつ、十三と七つ、まだ年は若いに、ねんねをうんで、だれにだかしょ、おちょぼにだかしょ、おちょぼはどこいった、油買いに茶買いに、油屋のせどですべってころんで、油一升こぼいた、その油どうした、太郎どんの犬と、四郎どんの犬と、みななめてしまった、その犬どうした、たゝき殺してしまった、その皮どうした、太鼓にはって、たゝき破いてしまった。
※ 十三と七つ - 十三夜の七つ時(4時ごろ)の、出たばかりの月のことで、まだ若いの意。
※ おちょぼ - 江戸時代、かわいらしい少女につけた名。また、かわいいおぼこ娘。
※ せど(背戸)- 家の裏口。家の後ろの方。裏手。


(もり)というものつらいもの、お母さんにや叱られ児(こ)にゃなかれ、近所の子供にゃいじめられ、お父さんにゃ横目でにらめまれ、早く節季がくればよい、風呂敷包みに下駄さげて、永々おせわになりました。
※ 節季(せっき)- 盆や年末。

おらがこの子はよい子だよ、よい子だ、きな子だ、豆の子だ、豆で育てたお子だもの。

       茶摘及茶揉歌
お茶を摘むなら根葉からお摘み、根葉にや目のある芽がござる
お茶師さんとは承知で居たが、下揉みさんとは知らなんだ
お茶のでんぐりもみは小腕が痛い、もませたくない我がつまに
宇治の新茶と川根の古茶と、出合いまするよ横浜で

       田 植 歌
赤いたすきを掛けたはよいが、坪へはいるのおかしさよ
歌い舞いするつゞみの音(ね)する、あいにや殿(との)さの声もする
五月三十日は泣く児がほしや、畦へ腰かけ乳(ち)をくれる
ほれちゃこまるがあの声お聞き、おらが女房の田植え歌

       臼 挽 歌
臼のかるさよ相手のよさよ、相手替るなあすの夜も
今としゃ豊年穂に穂がさいて、桝(ます)じゃまだるい箕ではかれ

       地 突 歌
めでた/\の若松様よ、枝も栄える葉も茂る
今度見て来た名古屋の城を、金のしゃちほこ雨ざらし

       婚 礼 歌
さいたさかずきゃ中見てあがれ、中にゃ鶴亀五葉の松
お前百までわしゃ九十九まで、ともに白髪のはえるまで

       酒 盛 歌
伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ
目出た/\が三つ重なりて、庭にゃ鶴亀五葉のまつ


読書:「痩せ神さま 大江戸落語百景」 風野真知雄 著
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「竹下村誌稿」を読む 381 風俗習慣 22

(散歩道の白梅/昨日撮影)

午前中、磐田市歴史古文書館に、NS氏を訪ねた。一つは、「松山源八の記録」の最後の一冊、「金銀出納帳」のコピーを渡す目的で、今一つは、企画展の「寺谷用水」の展示を拝見するためである。ただ本心を云えば、多分、NS氏と古文書に付いてお話して、色々情報交換がしたかっただけだったのかもしれない。時間を忘れて一時間半、気付けばお昼を廻っていた。NS氏には招かざる客で、ご迷惑だったかもしれない。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

      第七節 俚  謡

       手 鞠 歌

一ツーでは乳を呑み候(そろ)、二ツーでは乳にはなれてなきー候、三ツーではお祖父(ぢゞ)さまにも御祖母(ばゞ)様にもお茶の給仕をしそめて、四ツーではよりこより候、五ツーでは糸をとり候、六ツーでは木機おり候、七ツーでは管(くだ)をまき候、八ツーで錦を織りー候、九ツーでは小嫁に取られて、十では殿ごを見そめて、十一では花のようなるお児を設けて、連れて春日(かすが)へ参らせる、春日のお山は高いお山で低いお山で、お手にお豆が九―つ、九つのお豆を見たれば、親の在所が恋しいや恋しかござれ恋しかござれ、恋しやの向こうの二丁目の茶屋で、おすだれおろした門の内。

正月おかざり、二月二の午、三月ひいなで、四月お釈迦で、五月田植えで、六月ぎおんで、七月七夕、八月八朔、九月九日で、十月恵比須講で、霜月、師走の八日で一年よ。

おん白々の白木屋の、お駒さん、才三(さいざ)さん、店にすわるは番頭さん、お煙草もてきなおかぐらさん、隣りのおばさん一寸おいで、何の御用でござります、お芋のにころでお茶あがれ、あとでおならは御免だよ、フウミイヨウイツムウナヽヤアコヽトウ。

嫁っ子嫁入りにや、おはぐろつけて、お紅をさいて、お白粉けば(気張)って、お前髪なでゝ、お鬢(びん)をなでゝ、おたぼをなでゝ、お勝山なでゝ、お櫛をさして、おかんざしさして、呉絽の襟(えり)で、緞子の帯で、うしろへまわって、やの字にむすんで、ちょい/\/\。
※ たぼ(髱)- 日本髪で、襟足にそって背中の方に張り出した部分。
※ 勝山(かつやま)- 吉原の遊女、勝山が結いはじめたという。勝山髷。
※ 呉絽(ごろ)- 近世舶来のごつごつした毛織物。帯地・カッパ地などに用いた。


うらが隣りの、またその隣りの、お夷子講によばれて、鯛の吸いもの、巻絵(蒔絵)のお膳で、巻絵のお椀で、柳のお箸で、一杯吸いましょう、ツエッ/\二杯吸いましょう、ツエッ/\三杯目のお酒でよいました。

一に水仙、二に英子花(かきつばた)、三にさがり藤、四に獅子牡丹、五ツいやまの千本桜、六ツ紫、七ツ南天、八ツ山吹、九ツ小桜、十で殿様葵の御紋で、関所にせがれて、五六八茶碗で、四五六杯、八五六杯。

しんこ新田、上下町で、寺は大寺、和尚さんはひとり、姉じゃ/\とかこっておけど、姉じゃござらぬ妾(めかけ)でごさる、妾その名を、おつやというて、末代そわば、けさも掛けまい、衣もきまい、二十三夜の勤めもせまい、やがて秋が来る、あきやの麁物、布が三反染め賃が五百、何に染めよと、おつやに聞けば、肩から裾まで藍紫に、菊に紅葉に、雪ふり牡丹を、染めやんせ。
※ 麁物(そぶつ)- 盆、暮に主人から奉公人に与える衣類などをいう。

おらが隣りの松次郎さんは、江戸へ下りてキンゴにまけて、一両二両なら取替えてあげるよ、小判三百両に小袖が七ツ、七ツ小袖を桔梗に染めて、染めて仕立てゝお袖に着せて、きせて詠(なが)めてあとから見れば、お袖すがたは百合の花。
※ キンゴ - カルタ賭博の一種。持ち札とめくり札の合計が一五に近い数になった方を勝ちとするもの。
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「竹下村誌稿」を読む 380 風俗習慣 21

(庭のトウキンセンカ)

頂き物の苗から始めて咲いた一輪である。存在感のある花である。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

十一月 霜月と云う。一日は神迎えと称し、赤飯を神前に供す。十五日は三才または九才に当る子供のある家にては、七五三の祝いとて、晴れ着を着して子供を氏神に詣でしめ、親戚、近隣などを招きて祝宴を開き、赤飯を贈る。招かれたるものも相当の祝儀物を送る。この日、地の神祭りとて赤飯を地神に供う。二十三日は新嘗祭。昔はこの日、大師講とて牡丹餅にて入口の戸に大の字を書き、元三大師を祭ると云う。今は廃せり。
※ 元三大師(がんざんだいし)- 平安時代の天台宗の僧、良源のこと。第18代天台座主。比叡山延暦寺の中興の祖。また、「厄除け大師」「角大師」など独特の信仰を集める。

三十日は粒はたきと称し、農家にては予(かね)て拾い貯えし落ち穂を餅につきて食す。これを粒餅とも云う。また稲刈り上げ、扱(こ)ぎ上げ、籾の挽き上げなどには、牡丹餅を製し、鎌、稲扱ぎ、唐臼などに供す。この月の末より翌年二月の頃まで、火災予防のため火の要心と称し、毎戸順番に二、三人づつ組み合わせ、毎夜十二時より翌暁まで柝木(ひょうしぎ)を打ちて村内を巡警す。これを夜廻りとも云う。

十二月 は師走と称す。八日、山の講とて、二月八日と同じ行事なり。冬至は年中昼間の最も短き日なり。昔はこの日、寺子屋にては年中習得したる文字の暗書をなし、師弟一堂に会して放楽の晩饌あり。二十五日は耶蘇教家はクリスマス祭りあり。男女奉公人の出替りは、出るものは二十五日、入るものは二十八日に交替す。
※ 暗書(あんしょ)- 手本の字形、筆使いを覚えてから、手本を見ずに空で書くこと。
※ 放楽の晩饌(ほうらくのばんせん)- 楽しみの晩餐会。


かくて歳暮に近付けば、煤を払い、餅を搗き、歳暮品の贈答もあり。三十一日は大晦日とて、諸取引の勘定をなし、迎年の準備に忙がわしく、除夜には家族打ち寄り、年越し蕎麦を食し、福茶を呑むもあり。これ翌年無事長久にして幸福ならんことを祈るなり。寺院にては百八の梵鐘を撞きて夜を徹す。鐘の響きの尽きるとともに、年の名残りは次第に消えて、希望に輝く新年は東天紅より将に来たらんとするなり。
※ 福茶(ふくちゃ)- 正月や節分、大晦日などで飲まれる茶。
※ 東天紅(とうてんこう)- 夜明けを知らせる鶏の鳴き声を表す語。
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「竹下村誌稿」を読む 379 風俗習慣 20

(庭の気の早いコブシの花)

今日はこの冬、最強の寒気で、列島は雪だらけである。しかし、当地に雪は舞うことすらない。午後、冬の日差しの中、散歩に出たが、風が寒くて10分ほどで帰って来た。庭にはこの寒風の中、コブシの花が一輪開いていた。

夜、テレビ観戦、ちょっとはにかみ顔で、世界一になってしまった。こんなことが起きるのである。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

九月 長月とも云う。九日は重陽の節句とも菊の節句とも云いて、菊花の酒を酌み、老を忘れ、齢を延ぶと云う。その起源は類書纂要に「九は陽数なり。九月と九日並び応じ、故に重陽と曰う」とあるなるべし。古くは禁中にて重陽の宴を張りて、群臣に菊酒を賜わりしが、今は観菊の催しあれども、必ずしもこの日に限られず。従来はこの日、本村氏神の祭礼なりしが、明治四十三年頃より、十月十七日に改む。陰暦十三日は後の月見、また芋名月とて、栗、芋をゆで、月前に供す。昔はこの夜を幸い引と称し、果物、野菜など自他の区別なく、勝手に取り来たりて食せし習いもありしと云う。
※ 後の月見(のちのつきみ)- 陰暦九月十三夜の月見。八月十五夜の月見に対していう。
※ 芋名月(いもめいげつ)- 正しくは陰暦八月十五夜のことを芋名月という。陰暦九月十三夜の月見は、「栗名月」「豆名月」と呼ばれる。「幸い引」が許されたのは、陰暦八月十五夜の話のようだ。


秋分は秋の彼岸の中日にして、行事は春分に同じ。秋の彼岸には遠江順礼とて、榛原、小笠、周智、磐田の各郡に亘りて散在する、遠江三十三所の札所観音を巡拝するもの少なからず。これらは仏教崇拝と災厄祈祷とに基く信仰より出たるものなり。順礼はもと神社仏閣を巡拝するを云い、仏法の信仰盛んなるに伴い、霊場巡拝のこと流行し、後に三十三所観音巡礼のことあるに至る。而して西国三十三所観音順礼は平安朝時代より初まりしものゝ如くなれども、遠江三十三所順礼の始まりしは室町中葉時代にありしと云う。

農家は日を逐(お)うて秋収に忙しく、夜業をなすに至る。夜業の期間は秋の彼岸より翌年春の彼岸に至る間と定め、この期間は何れも夜業に従事するを常とす。この月は天候不穏にして、暴風襲来の時期とて警戒を加え、特に二百十日、二百二十日、陰暦八朔などを厄日と称し、農家はこれを厭う。もしこの日静穏なれば休業して祝う。
※ 陰暦八朔(いんれきはっさく)- 「八朔」は、八月朔日のこと。旧暦8月1日。

十月 神無月と称す。一日は神送りとて、赤飯を神前に備う。第一の亥の日は玄猪(げんちょ)の祝日にて、亥の子餅とて牡丹餅を神仏に供す。十七日、神嘗祭。二十日は夷子(えびす)講とて、商家にては種々の馳走を備え、福神を祭る。三十一日、天長節。この月、禅宗に達磨忌あり(五日)。浄土宗に十夜講あり(六日より十五日まで十夜間法要)。法花宗に御影供(みえいく)あり(十三日)。真宗に報恩講あり(二十八日)、俗にこれをお取越と云う。十一月に行うべきものを拾月に取り越すを以ってなり。
※ 玄猪(げんちょ)- 亥の子の祝(いのこのいわい)。収穫祭の一。
※ 天長節(てんちょうせつ)- 大正天皇の誕生日は8月31日であったが、酷暑の時期のため、10月31日にずらして実施されることになったという。


読書:「猫見酒 大江戸落語百景」 風野真知雄 著

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「竹下村誌稿」を読む 378 風俗習慣 19

(散歩道で見つけた、名前の分からない花)

この頃、サッカー、テニス、テニス、サッカーとテレビ観戦が続いている。近頃の若者たちの世界での活躍は目覚しいものがある。昭和も遠くなったと感じるこの頃である。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

七月 文月と云う。一日は地獄の釜の口を明くとて、団子を仏前に備う。七日は七夕祭り、または乞巧奠と云う。子供は五色の式紙短冊へ詩歌を書き、新竹へ結び付けて庭前に建て、赤飯、時果などを供え、書法及び裁縫の上達を祈る。農家はその前日までに作田の畦草(あぜくさ)を刈るものとす。この日を怠れば秋穫に不作ありと云う習わしあるによる。
※ 乞巧奠(きっこうでん)- 陰暦7月7日の行事。女子が手芸・裁縫などの上達を祈ったもの。もと中国の行事で、奈良時代、宮中の節会としてとり入れられ、在来の棚機女の伝説と結びつき、民間にも普及して現在の七夕行事となった。
※ 時果(じか)- その季節にとれる果物。


十三日、各戸、精霊棚を設け、夜は門火を燎(や)く。これを迎え火と云う。精霊を迎うるの意なり。十四日、于蘭盆(略して盆と云う)と云う。于蘭盆は梵語にて、倒懸を解くことにて、即ち供養によりて亡霊の地獄の苦を救うの意なり。俗に十四日を本盆とし、二十四日をうら盆と云うは于蘭盆の意を誤解せるによるなるべし。
※ 精霊棚(しょうりょうだな)- 日本の習俗的行事、お盆において先祖、精霊を迎えるための棚。盆棚とも。
※ 門火(かどび)- お盆に、死者の霊魂を迎え送りするために門前でたく火。迎え火と送り火。
※ 倒懸(とうけん)- 人の手足を縛ってさかさまにつるすこと。また、 非常な苦しみのたとえ。


この日は粥、餅、団子、素麺、飯、菜など、麻木(麻殻)の箸を添え、果物、野菜を併せ供え、香花を手向け、また茄子、瓜にて牛馬の形を作り、銭を負わせて棚に置く。寺院はその前日までに施餓鬼会あり。新仏のある家にては盆祭をなし、軒先に美しき灯篭を飾り、または百八の明松(かがり)提灯を点じなどして、殊にこれを鄭重にす。近親のもの、新仏ある家を訪い、霊前に供物を捧ぐ、これを盆見舞と云う。晩方は家族打ち連れて墓参をなす。これをおたっしょ参り(お塔処参り)と云う。寺院は旦家を廻りて棚経を読む。これは江戸時代、切支丹ならざりしやを視察のためなりとも云う。

十五日、この日を中元と云う、中元とは善を積むの日にして、正月十五日を上元、十月十五日を下元と云うに対するなり。十六日朝、棚を撤し川に流す。これを精霊送りと云う。土用の入り後、三日目は土用三郎とて、農家にては晴雨によりて、その年の豊凶を卜す。また土用中の丑の日は鰻を食する習いあり。土用中晴れたる日を撰み、毎戸、衣服、図書などの虫干しをなす。昔は土用前後に旱魃続けば、村人打ち集り、鉦太鼓を打ち鳴らして神仏に雨乞いをなせしも、今は廃せり。

八月 葉月とも云う。昔はこの月(陰暦七月)を秋の始めとす。敏行の歌に、

  秋きぬと 目にもさやかに 見えねども 風の音にぞ 驚かれぬる

十五日、陰暦十五夜には、新米の粉にて餅を製し、月前に供す。これを月見餅、または臍餅とも云う。風流人士は観月の宴を催すもあり。故に月見月とも云う。また陰暦の二十六夜は月が三体表わるゝと云い伝え、山寺などにて月待する人もあり。
※ 敏行(としゆき)- 藤原敏行。平安時代前期の貴族・歌人・書家。三十六歌仙の一人。
※ 月が三体表わる - 月光の中に弥陀・観音・勢至の三尊が現れると言い伝え。
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「竹下村誌稿」を読む 377 風俗習慣 18

(散歩道のノゲシ/一昨日撮影)

雑草で、季節を問わず咲いていて、普段は目立つことの無い花だが、花の少ない今の季節、けっこう目立ち、写真に撮ってみると見栄えもする。

長兄から電話で、インフルエンザの予防注射の話が出た。打ったことがないと聞いて、強く勧める長兄に、今は病院に行くことが一番危ないから、余程のことがない限り行かないと話す。最大の予防法は人混みに出ないことであろう。長兄は勧めながら、一度、皮下注射すべきものを、間違って血管に打たれて、則、インフルエンザの症状が出たことがあると、体験を語った。どっちなんだ。ともあれ、インフルエンザの流行が下火になるまで、年寄は人の集まる所へは出ないようにしようと思った。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

五月 または皐月(さつき)という。立春より八十八日目を八十八夜と云いて、霜漸く降り止むを以って、草花の種を蒔くに宜し。八十八夜前後より一番茶の摘み初めあり。

五日は(重五)端午(たんご)の節句、また菖蒲の節句とて、王朝時代よりの習いとて、擔前(丹前?)に菖蒲を挿み、柏餅を祝う。端午はもと端(はじめ)の午の日を用いたりしものなりと云う。昔はこの日より帷子を着るを例とす。男子ある家にては、冑(かぶと)人形、座敷幟を陳列し、村内の青年より大凧を贈りて凧揚げをなし、受くる家にても酒肴を饗して、その労を犒(ねぎら)いしが如きは、所謂有難迷惑のことなるべしとて、今はこの風も衰えて、近親より布、または紙にて製したる鯉の吹き流しを送り、竿頭に掲げ、門前に翻えさしむるに止まる。鯉は出世の魚なりと云う諺により、祝意を表するなり。
※ 重五(ちょうご)- 陰暦5月5日の節句。端午のこと。
※ 帷子(かたびら)- 夏の麻のきもの。


六日は菖蒲酒を祝い、菖蒲風呂に浴し、悪気(あっき)を祓うと云う。下旬は養蚕の上簇期にて忙がわし。
※ 上簇(じょうぞく)- 成熟した蚕を、繭を作らせるため、蔟(まぶし)に移し入れること。

六月 水無月(みなづき)と云う。十日前後より入梅と云いて、毎日雨降り続き、梅の実も黄色を帯ぶ。採りて塩漬けとして梅干しを作る家多し。入梅とは太陽経度が八十八度の日を俗に入梅と云う。農家にては入梅前より麦を刈り田植えを始む。初嫁は里方より送れる色襷(たすき)を近所の家に配る。これを農襷と云う。田植え終われば農休みとて、三日間の休業をなして、自家の饗応あり。これを早苗饗(さなぶり)と云う。

農家にては,常に忙しく時間を惜しむを以って、田畑に出るにも殆んど緩歩するものなき程なり。就中(なかんずく)、旧五月は麦刈り、田植えにて、特に多忙を極むる時なれば、田畑に出歩くにも急歩するもの多し。故に諺に急歩することを五月歩みと云う。

十五日は祇園祭りあり。二十二日頃は夏至となる。この日は太陽と地球と最も遠ざかりて、年中、昼間の最も長き日なり。
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「竹下村誌稿」を読む 376 風俗習慣 17


(賑わい交流拠点工事始まる)


(新東名高架下は駐車場に)

午后、散歩に出て、久し振りに新東名の北側へ行くと、新東名金谷インターのそばに出来ると聞いていた、賑わい交流拠点の工事が始まっていた。どんな施設が出来るのかは詳しくないが、この歳になると、便利になって賑わいを増すことが、そんなに嬉しいことではない。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

三月 弥生とも云う。三日は上巳(じょうし)の節句と称す。俗に桃の節句、雛の節句と云う。節句とは節日の称にして、この日並びに、人日(正月七日)、端午の節句(五月五日)、七夕(七月七日)、重陽(九月九日)を五節句と云いしが、明治六年、廃せらる。上巳はもと三月上の巳の日を云う。然るに後世いつとなく三月三日を指すこととなれり。

この日を祝することの史に見えたるは、顕宗天皇元年(487)三月上巳、後苑に幸(いでま)して曲水宴ありしを始めとす。当才の女児ある家にては初節句とて、内裡雛(だいりびな)一対を送り、その他親戚などよりも送り来るあり。依って階段を設けてこれを飾り、桃花、菱形の草色、及び黄白の色餅、白酒を供う。これを雛祭りと云う。
※ 曲水宴(きょくすいのうたげ)- 清涼殿に曲がった溝をつくって水を流し、上流から流される酒の入った杯が自分の前を流れ過ぎぬうちに詩歌を詠む儀式。

春分には仏家にては彼岸の中日と称し、その前後三日合わせて七日間、仏事を勤む。これを彼岸会と云う。彼岸とは波羅蜜多の訳にして、煩悩を解脱して彼岸に到ると云う意なりと云う。俗に「入り摺り焼餅、中日牡丹餅、明け団子」とて、これらを作りて仏前に供し、墓参、寺詣をなす。

春分とは太陽の直体が地球の赤道と黄道との交叉点にありて、昼夜の時間に長短の差なき場合を云う。これより夏至に至るまで昼は次第に長く、夜は次第に短し。秋分に至れば、また昼夜平分となり、それより冬至まで、夜は次第に長く、冬至は太陽が南緯二十三度三十一分の処まで進みて、全く夏至とは反対の点にあるを以って、冬至の後は夜は次第に短くして、遂に春分に皈(かえ)す。
※ 黄道(こうどう)- 天球上における太陽の見かけ上の通り道。

彼岸中には祖先の仏事を営むもの多し。陰暦三月三日及び十五日は、海岸に潮干狩りに行くものあり。

四月 卯月と云う。一日は更衣(衣更え)とて、古くはこの日、冬着を夏着の衣裳に着替えたりしが、今は時候の寒暖によりて、多くは五月に行う。三日、神武天皇祭。八日、釈迦誕生の日とて、真宗の外、各寺院は草花にて小なる花御堂を作り、その中に誕生物を安置し、参詣人をして甘茶を灌(そそ)がしむ。これを灌仏会、仏生会、浴仏節とも云う。昔は卯の花を戸外に挿み、仏に供す。

この日「一膳めし」と書きて、倒(さかさま)に膳棚に貼り、げじ/\除けの呪(まじな)いとなし、また「千早振る 卯月八日は 吉日よ かみさげむしの 成敗ぞする」と書きて、倒(さかさま)に便所に貼りて、不潔の虫類を拒(ふせ)ぐと云う。これらの呪いは今行なわれず。この月下旬より農家にては苗代の播種、製茶、養蚕の作業、一時に起こり繁忙を極む。
※ 播種(はしゅ)- 作物の種をまくこと。種まき


読書:「たぬき芸者 大江戸落語百景」 風野真知雄 著
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「竹下村誌稿」を読む 375 風俗習慣 16

(散歩道のモズ/昨日撮影)

午后、証券会社の担当が来て話をして行く。ついつい、話を古文書解読に誘導して、ひとしきり古文書の話をする。担当は大いに迷惑だったかもしれない。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

二月 如月とも云う。一日は二(次)郎の朔日と云う。また棚納とて歳神棚を撤す。二日は二日灸とて、点灸すれば、その効、他の日に倍すと云う。節分(立春の前日、年越とも云う)には年男(一家のことを執るもの)「福は内鬼は外」と唱えて、桝に入れたる熬(いり)豆を室ごとに撒き、悪鬼を攘(はら)い、小児など喜んでその豆を拾う。これを鬼の豆と云う。拾いし豆にて、福茶、晴雨占いなどの余興となすものあり。
※ 福茶(ふくちゃ)- 正月や節分、大晦日などで飲まれる茶。

またこの日朝、竿頭に籠と柊(ひいらぎ)と樒(しきみ)の枝を付けて門前に立つ。これを鬼劫(おにおどし)と云う。古き習わしなるべし。土佐日記に、小家の門になよしの頭、柊云々とあるにても知らる。また山椒の木にて造りたる箸にて夕飯を食し、その箸と樒の葉、葱、鰯にて案山子(かかし)を作り、火に炙(あぶ)り大声にて「焼き案山子の候、なが/\おわします隣の婆が、屁をひって、しゃらくさい、ふゝらふうん」と呼ばりつゝ案山子を家の入口に挿む。これを焼き案山子と云う。その意味は年中神事に関し、清潔を欠くことあるも、神罸(罰)なからんことを祈るものなりと云う。
※ なよし(鯔魚)- ボラの幼魚で、全長三〇センチメートルぐらいのものをいう。いな。

この鬼の豆は今より大約三百五十年前より始りしものにて、元亀三年(1572)十二月二十七日夜(節分の日)武田信玄、徳川家康と三方ヶ原に戦い、家康敗れて浜松城に退きし時、その臣鳥井元忠、場内にある桝の熬(いり)豆を城門外の甲軍へ、鬼は外と投げ掛け、「隣の婆が屁をひって、しゃらくさい、ふゝらふうん」と、大声にて武田氏を侮辱したる粗語なりと。「隣りの婆」は隣国の武田の参謀馬場美濃守にして、「屁をひって」は兵を引いての訛(なま)りたるものなりしと云う。
※ 粗語(そご)- 粗末なことば。無礼なことば。粗言。

またこの日割木に一ヶ年の月数、即ち十二月と書し、閏年なれば十三月と書し、門前に立つ。これを追儺(おにやらい)と云う。鬼劫、追儺の行事は王朝時代より始まりし如くなれど、今は行われず。

八日、山の講とて餅を山神に供え、山に行かず。第一午の日は初午とて、稲荷の祭りあり。第二の午の日は二の午とて、また稲荷の祭りあり。十一日紀元節。十五日涅槃会、即ち釈迦入寂の日とて、真宗の外、各寺院は涅槃像を掲げ法要あり。善男善女これに詣づ。涅槃とは梵語にて、菩提、無為、真如、滅度、寂滅、円寂、仏性、心地、清浄、と訳し、生死輪廻の域を脱し、永遠の生命に入りたる妙所にして、死滅の意味には非ずとなり。
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