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「竹下村誌稿」を読む 299 教育 2

(散歩道のアキノベニバナサルビア)

午前中、渋柿をまた買いに行く。最初の物は完成して冷蔵庫に入れた。今日は全部で22個購入、21個を干柿に加工した。

午後、芋ツルのレシピ、三作目、「芋つるの塩昆布いため」に挑戦する。ちょうど、賞味期限切れの塩昆布が冷蔵庫にあったので、それを利用した。おかずとしては、これが一番好評であった。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

      第二節 明治維新前に於ける寺子屋教育

大凡(おおよそ)寺子屋教育は、主として僧侶、神官、浪人など、多少文字ある郷党父老によりて教授せらる。師匠は重(お)もに習字を教ゆるが故に、手習い師匠と云い、学童を筆子とも云えり。因って児童の学に就くを寺入りと云う。この寺子屋は寺院などの広き家にて、長机を排(配)列し男女席を別にして稽古をなせり。
※ 郷党(きょうとう)- その人のふるさと。また、ふるさとに住む人々。
※ 父老(ふろう)- 村の主立った老人。また、老人に対する尊称。老翁。老爺。


就学児童は七、八才より始め、十二、三才に至るを永きものとし、去就は任意なるを以って、女子に至りては就学するもの極めて少なし。授業は始終の時刻を定めず、ほとんど朝より夕に及び、要事あるの外、席を離るゝを許さざる規定なり。毎月二十五日は天神祭とて稽古を休み、その他、歳首、年末、五節句などは休業せり。
※ 去就(きょしゅう)- 去ることと留とどまること。
※ 要事(ようじ)- 重要な事柄。また、必要な事柄。
※ 歳首(さいしゅ)- 年の始め。年首。年頭。


教授の方法は人別教授にして、読書よりも習字を重んじ、主として百姓町人の日用生活に必須なる読み書きにして、卑近なる教育を施し、手本は師匠の肉筆のものを与え、平かな、片かな、十干十二支より、名頭、国尽、百官名、往来物(商売往来、百姓往来)などの類いを用い、毎月一、六などの日を定め、清書を行ない、師匠は朱書して、拙字、誤字を正し、併せて筆意を教え、読み方は板本にして、古状揃実語教千字文庭訓往来孝経など、女子には百人一首、女大学なども授けたれども、ただ素読のみに留まり、解釈に亘(わた)らず、所謂、「読書百遍、義自ずから通ずる」ものとし、児童は暗記的に、これらの書物を通読せり。
※ 名頭(ながしら)- 源・平・藤・橘など、姓氏の頭の字を列記したもの。江戸時代に寺子屋などで書き方を教えるのに用いた。
※ 筆意(ひつい)- 筆を運ぶときの気構え。ふでづかい。
※ 板本(はんぽん)- 彫った版木で印刷した本。整版本。木版本。
※ 古状揃(こじょうぞろえ)- 手紙文例集。
※ 実語教(じつごきょう)-平安時代末期から明治初期にかけて普及していた庶民のための教訓を中心とした初等教科書である。
※ 千字文(せんじもん)- 子供に漢字を教えたり、書の手本として使うために用いられた漢文の長詩である。1000の異なった文字が使われている。
※ 庭訓往来(ていきんおうらい)- 1年各月の消息文を集めた初学者用の書簡文範。擬漢文体で書かれ、武士・庶民の生活上必要な用語を網羅する。江戸時代には寺子屋の教科書として広く用いられた。
※ 孝経(こうきょう)-儒教経典の一つ。孔子が曾子に孝道を説き聞かせる形をとり、天子・諸侯・大夫・士・庶人の孝を説いて、孝を徳の根本とする。
※ 女大学(おんなだいがく)- 江戸中期以降広く普及した女子用の教訓書。女子の修身・斉家の心得を仮名文で記したもの。
※ 素読(そどく)- 書物、特に漢文で、内容の理解は二の次にして、文字だけを声に出して読むこと。
※ 読書百遍、義自ずから通ずる - 文意の通じないところのある書物も、百遍も繰り返して熟読すれば自然に明らかになる。乱読を戒め、熟読が肝心であると説いた言葉。
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「竹下村誌稿」を読む 298 教育 1

(庭のヒメツルソバ)

22日に加工した、今年第一番の干柿、もう食べられるようになって、干し終えた。これ以上干すと固くなってしまう。良い天候が続いて、出来が随分早い。

昨日、今日と、芋つる(サツマイモの枝)を料理してみた。昨日は「きんぴら炒め」、今日は「わさび醤油漬け」。春に11本の苗を植えたところ、サツマイモがたくさん出来た。まだすべて収穫したわけではないが、芋つるを棄ててしまうのは残念で、ネットで簡単レシピを調べ、作ってみた。意外とおいしく出来た。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。今日より「教育」の項である。

    第五章 教  育

     第一節 総  説


我が国古代教育の事たる、詳らかならずといえども、大要忠孝主義の教育を施したるものの如し。後、儒道も行われ、仏教も伝えられ、また隨唐の文物も輸入せられ、教育のこと頗る観るべきものありしが、鎌倉以降、干戈相踵(つな)ぎ、民間文字あるもの、少し京都、鎌倉五山の僧侶に於いて、僅かにその命脈を維持せしに過ぎざりし有様なり。
※ 干戈(かんか)- 武器。また、武力。戦争。

見るべし。承久の役、北条泰時に賜いし院宣を読み得しものは、鎌倉五千人中、ただ藤田三郎一人ありしのみと、歴然東鑑に明記するに非ずや。また後醍醐天皇、隠岐に潜幸あらせらるゝ途中、児島高徳の車駕を奪い奉らんとして果さず、夜中桜樹を削りて、一首の詩を題し、所意を天皇に奏せしも、警固せる関東の武士、詩意を解するもの、一人もなかりしと、太平記に見るも、当時の状況を推知するに難(かた)からず。
※ 院宣(いんぜん)- 上皇または法皇の命により、院庁の役人の出す公文書。
※ 歴然(れきぜん)- まぎれもなくはっきりしているさま。
※ 潜幸(せんこう)- 天皇がひそかに行幸すること。
※ 所意(しょい)- しわざ。ふるまい。
※ 推知(すいち)- ある事実をもとにおしはかって知ること。


故に教育のことたる、殆んど僧侶の手に帰したるものゝ如し。当時の文学を習わんとするには、寺に就くを常とせるを以って、教えを受くるものを寺子と云い、物を習う家を寺子屋と称する習慣も起こりたり。寺子屋は鎌倉の末、天台の僧玄慧が庭訓往来を著して、京都、鎌倉の五山などにて、山内の童子に教習せしめしに起れりと云う。その名、後には市井にて手習師匠をなす所にも適用したるものなりと。
※ 玄慧(げんえ)- 南北朝時代の天台宗の僧。京都の人。禅宗・宋学にも通じ、後醍醐天皇の侍読をつとめた。後、足利尊氏に用いられ、建武式目制定に参画。「太平記」の作者ともいわれる。

兎に角(とにかく)、寺子屋の昔時よりこれありしことは、現今、世に残れる悲劇、菅原伝授手習鑑などにて、これを考うるを得べし。室町時代より桃山時代に至り、漸く発達し、江戸時代に至りても、専門家を除くの外、殆んど部門の家庭に於いて、武士道鼓吹的(仁義忠孝、正直、質素の諸徳)教育の存するのみ。八代将軍吉宗、教育の普及に尽瘁し、六諭衍義大意を都下の手習所に頒布せしことありしも、国民教育の方法、定まらざるを以って、所謂寺子屋は民間教育の教授所と見做すこととなれり。
※ 鼓吹(こすい)- 意見や思想を盛んに唱えて、広く賛成を得ようとすること。
※ 尽瘁(じんすい)- 自分の労苦を顧みることなく、全力を尽くすこと。
※ 六諭衍義大意(れい)-明の太祖朱元璋が民衆教化のために作った心得6ヶ条「六諭衍義」を、吉宗の命で、教育書として荻生徂徠が訓点を、室鳩巣が要訳をした書。


読書:「夏の雪 新酔いどれ小籐次」 佐伯泰英 著
老いていよいよ壯ん。酔いどれ小籐次は我ら高齢者の羨望の的である。
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「竹下村誌稿」を読む 297 助郷 19

(大井川鉄道五和駅そばの案山子たち)

皆んな、大井川鉄道の方を向いていて、五和バイパスには背中を向けている。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

さて、助郷村々は人馬の課役を負担せしのみならず、東海道駅路の掃除をも課せられしと見えたり。延享四年(1747)本村名細帳に、

一 往還掃除丁場、長さ三十間  これは金谷町八軒屋と申す処に御座候。

かくて助郷勤役中の高当りは年々一定せずといえども、郡志の云う所を抄録すれば、

嘉永元申年分助郷、盆前、高当り高百石に付、
  人足 二百五十三人五分七厘
  馬  二十二匹二分
  銭  五貫五百十六文一分九厘     日詰会所入用定式物、惣代手間代とも
  銭  五貫七百三文三厘        農中馬打銭、その外、馬入用
  銭  一貫五百九十三文        向い川原、賄い入用

※ 馬打(うまうち)- 馬に乗って行くこと。

同盆後、高当り高百石に付、
  人足 百三十一人厘
  馬  三十二匹五分
  銭  四貫弐百六十六文四分三厘    日詰会所入用定式物、惣代手間代とも
  銭  五百十八文           向い川原、賄い入用
  銭  三貫三百三十九文五分      馬入用
  銭  三貫五百一文一分        詫び入用、年中取替金利、庭帳写し入用
   外に銭二貫三百九十五文       当正月より、庭帳一件に付、入用割

※ 庭帳(にわちょう)- 年貢を納入する現場で、その出納を記載登録した帳簿。

とあり。

されど、明治初年に在りては、高壱石に付、金弐両内外の出額に及べることあり。詳しくは本稿、村の条、参照を要す。然るに、世の推移に伴い、列藩参勤の制は廃せられ、慶応三年(1867)に至り、各駅助郷、及び当分助郷の課役を解き、平等に一人毎に銭七百文、昼食三百文を払わしむることとなり、明治元年、海内一般に助郷を勤むべきこととなし、東海道各駅に更に五万石の助郷を加属せしむ。
※ 海内(かいだい)- 四海の内。国内。

翌年四月、駅逓司を設けて、駅伝の制を定め、同四年、各駅伝馬所を廃すると共に、付属の助郷を解き、助郷惣代の名称を廃し、毎駅に通運会社を設けしめ、貨物の逓送とともに人馬の供給の方法を立て、総て相対(あいたい)を以って人馬を雇わしむ。また飛脚継ぎ立ての制度を改め、各駅に郵便事務所を置き、公衆の書信逓送の途を開き、郵便切手を発行し、量目など一の書信をして、里程の遠近に拘わらず、普く国内に通信し、同一の郵税を収めしめ、国家的経営事業の端緒を開けり。
※ 駅逓司(えきていし)- 明治初期における交通通信をつかさどる官庁。
※ 逓送(ていそう)- 宿場などを次々に経由して送ること。


兎に角、前代の制度たりし助郷の徭役百八十年、全く廃せらる。これに於いて、助郷村々は堵に安んずるを得たり。以後、人馬の継ぎ立ては専ら個人の営業となり、人車、馬車など盛んに起こり、鉄道も開け、且つ旅舎の整備も著しく進歩し、警察の制度も備わり、旅行の安寧、通信の便利、貨物の逓送、凡て遺憾なく新生面を発展せり。(大正五年十月稿)
※ 徭役(ようえき)- 国家によって人民に強制された労働。
※ 堵に安んずる(とにやすんずる)- 安楽に暮らす。また、安堵する。


これで、「竹下村誌稿 助郷」の項を終る。明日より「教育」の項となる。
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「竹下村誌稿」を読む 296 助郷 18

(稲刈り後の田んぼのカラス)

夕方、散歩途中に、稲刈りを終えた田んぼに、群れるカラスを見た。十数羽もいただろうか。何かをついばむようであったが、落ち穂を拾うのであろうか。

朝、思い付いて、天竜の道の駅「いっぷく処横川」まで行く。片道50キロ近い道を車で走って、600円の渋柿24個を買ってきた。大いなる無駄であるが、なぜか満足しているのが不思議だ。午後、干柿に加工する。これで干柿加工の合計が75個になる。

その後、大井川まで、一時間ほど散歩した。大井川の土手で、腹具合が悪くなり、後半は必死であった。何とか間に合う。歩くと通じが良くなるものである。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

一 丸尾、吉永、村松、永井、桜井、塚田、都合六人、取締役格として、賄い金取替方、相頼み候事。但し、取替金一人に付、千両に満たざるの内、利足、相当に相定め、郡中へ割り出し、返済致すべく候事。

一 右名前の仁、毎月晦日、その掛り、役人立合い、精算並び給分渡し方、立合いの事。附り、給金手当など致さざるは、袴代として謝義致すべし。もっとも、丸尾、吉永両人は御役儀これ有るに付、別段の事。

※ 仁(じん)- 人。

一 日々、人馬賃銭並びに諸入用指引勘定取調帳面、翌日朝四つ時限り、その掛りより重役へ差し出すべき事。

一 惣入用の儀、決算割合出金、七月、十二月両度に致すべき事。

一 諸御役目命じられ候者、万一不行届きの儀これ有り候わば、衆評の上、役目御免に相成るべき事。

一 合併に相成り候上は、都て役人駅郷の隔心を捨て、睦み合い肝要の儀に候間、庄屋談判に及ぶべき事。

※ 隔心(かくしん)- 打ち解けないこと。相手に気がねする気持ち。隔意。

一 年寄役一人、月給金三両年一人扶持位にして、精勤致さすべく候事。

一 帳付役一人、月給金二両二分、当番月金壱分位にして、精勤致さすべく候事。

一 馬指配役一人、月給、当番は銭一貫五百文位にして、精勤致さすべく候事。

※ 馬指配役(うましはいやく)- 馬指。荷物を人馬に振り分ける役。

一 帳付役一人ずつ御伝馬所へ詰め合い申すべく候事(以上渡辺氏記録)


読書:「梅安冬時雨 仕掛人・藤枝梅安」 池波正太郎 著
7冊目の梅安は唐突に終わった。池波正太郎氏が亡くなったからである。1990年のことであった。これで、梅安は永遠に生きることになった。そのまま進めば、早晩、梅安は、作者に依って殺されたであろうことは、何となく想像された。
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「竹下村誌稿」を読む 295 助郷 17

(霧の牧之原)

午前中、雨模様。牧之原が霧に覆われる。この地では珍しい光景である。

午後、「古文書に親しむ」講座。講座の後、少し時間をもらい、色々な分野で、目立たないけれど、面白い活動をされている人々から、話をきくという会の立ち上げについて、講座の皆さんに意見を聞いてみた。なかなか皆んなの興味を引くのは難しいけれど、やってみる意義はありそうである。提案書のようなものを作ってみようと思う。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

この時に方(あた)り、国内隠(穏)やかならず。元治元年(1864)正月、将軍家再び上洛あり。東海道を通行する人馬絡繹として織るが如し。従いて助郷の課役、益々多く、負担愈々(いよいよ)加わる。因って金谷宿助郷一同協定せしもの、左の如し。
※ 絡繹(らくえき)- 人馬の往来などの、絶え間なく続くさま。

一 付属村々の内、重立(おもだ)つ者の内、一人ずつ御伝馬所に詰め合い、評議取り扱い致すべき事。但し御通行に携わらざる事。

一 助郷人足宿を廃し、何れかよき地を撰(えら)み、郷方人馬屯所取立て申すべき事。

※ 屯所(とんしょ)- 兵士などが詰めている所。ここでは、勿論人馬の詰所である。

一 御伝馬所帳面  上下御先觸帳二冊、人馬取払賃銭請取帳一冊、人馬賃銭払方帳一冊、金銭出入帳一冊、惣入用勘定帳一冊、人馬觸当並び着到帳一冊、〆て七冊を以って、都て取り賄い、その余、帳面、相用いざる候事。

一 御伝馬所より触れ出し候人馬は、勿論、出金、員数、並びに名寄せなど日限の通達、失い致すまじき事。

一 御伝馬所、夜番の儀、年寄役以下一役一人ずつ、急度詰め合い申すべし。且つ費用、別に相掛けず、弁当は手前より持参致すべく候事。但し御通行の有無により、重役の存意に任すべき事。

※ 存意(ぞんい)- 考え。意向。存念。

一 役人打ち寄せ、酒宴催し候儀は致さざる様、心掛け、相互に吟味致すべし。仮令用向きにて打ち寄せ候とも、右様の儀、一切致すまじき事。

一 役々向き、今般命じられ候上は、掛り訳け、並びに日割り、衆評の事。

※ 衆評(しゅうひょう)- 多数の人々による話し合い。大衆の評定。

一 役々給分相定め候事。但し、帳付以下役人給分手軽に致し、勤め日手当として別段相渡し、精勤致させ候事。
※ 給分(きゅうぶん)- 給料。

一 総て給分の儀は、月給に相定め、毎月晦日(みそか)、御伝馬所に於いて、相渡すべく候事。附り、上下役に拘わらず、精勤の功に仍(よ)っては、相談の上、別段手当致すべき事。

(助郷一同の協定、明日へつづく)
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「竹下村誌稿」を読む 294 助郷 16

(大代川のハクセキレイ)

かなり距離があり、ひょこひょこ動くので、デジカメで撮るのは至難である。近辺でよく見かけるのは、セグロセキレイ、キセキレイ、ハクセキレイの三種だが、セグロセキレイは背の黒いのが特徴、キセキレイは胸の黄色が目立つ。だから、このセキレイはハクセキレイである。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

その後、嘉永年間(1848~1855)に至り、米国使節の来航せしより、大勢(たいせい)(とみ)に一変し、物情紛々、従って海道の行人多く、駅務益々繁く、駅吏怠慢に流れ、事務挙がらず、駅政大いに紊(みだ)る。従って助郷の負担益々加わる。幕府は寛政以来、駅政に関する法令を出せし事屡々(しばしば)なれども、その効果を収むること少なく、助郷の課役に困苦するもの、常に絶えざりき。
※ 行人(こうじん)- 道を行く人。通行人。また、旅人。

常時、金谷宿助郷は、古助郷あり、新助郷あり。勤番も一様ならざりしが、勤番村に於いて、課役に堪え難きにより、文久三年(1863)九月に至り、勤番村と休番村と、左の通り協定せり。

        金谷宿助郷申し合わせ、議定取り結びの事
一 高一万二千二百十二石             金谷宿助郷惣高
     内
  高六千百七十三石               当亥勤番
  高六千三十九石                来子勤番

右助郷勤番の儀は、前々より古助郷隔年勤め、新助郷、年々勤めに仕来たり候処、近年追々御用御通行多く、一同困窮の折柄、当亥年二月中、御上洛、還御、御用物御継ぎ立て仕り、然る所、お供立て、並び諸家様方御通行相嵩み、日々雇い揚げ賄い人馬買い入れの内、損夥しく、当番限りにては進退相成り兼ね候に付、勤番助郷村々申し合わせ、示談の上、睦み合い取り極め、左の通り。

※ 還御(かんぎょ)- 天皇・法皇・三后が出かけた先から帰ること。その後、転じて、将軍・公卿が出先から帰ることも云う。

一 高千六百七十三石               当亥勤番村高
 亥年勤めより、差賃として、
一 金千両なり。                 来子年勤番村々より出金
  亥年の儀は右の通り示談の上、当番へ請け取る。
一 高四千五百石                 当亥勤番より
                         来子年勤番へ助高分
一 高六千三十九石                子年勤番村高
  〆高一万五百三十九石             子年勤番
一 高六千百七十三石               亥年勤番村高
一 高六千三十九石                来子年勤番村高
  〆高一万二千二百十二石            来子年惣高

前書の通り示談相調い、当年の儀は、休番村々高割に相抱えず、金子にて差し出し候上は、その外御手当金、賃銭とも、休番へ御下げ渡し分、当番へ請け取り、賄い金に相成り候とも、助郷一躰に相成り候上は、村々とも、人馬の儀は惣代より触れ当て次第、聊(いささ)かも差支えこれ無き様、差し出し申すべく議定、就いては何村より惣代罷り出で相勤め候とも、会所賄い方、逼素(質素)倹約、諸村、専一助郷筋のため、永続相成るべき様仕り、万一当方より違変に及び候わば、右受け取り置き候金子相返し申すべく候。右の通り双方睦み合い、不服村御座なく候。これにより議定取りかわし、村々連印仕り候処、よって件の如し。
   文久三亥年九月七日           当番村々
                         庄屋名  ㊞
        休番村々
          役人中

読書:「すずらん通りベルサイユ書房リターンズ」 七尾与史 著
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「竹下村誌稿」を読む 293 助郷 15

(秋空に張る)

ジョロウグモは孤高である。「女郎蜘蛛」などと名付けられても、決して怯むことはない。

デジカメに捉えるのはなかなか難しい。何度かチャレンジしてピントが合わず、今回ようやく、その姿をとらえた。

金谷宿大学事務局のT氏と午後話をした。金谷宿大学に講座を一つ作り、複数の講師がシェアするという案をぶっつけてみた。島田市には、自分なりにテーマを持って研究、調査、勉強、行動などし、しかし、発表の場を持たない多くの人が隠れている。そういう人の話を聞いてみたいという思いを話したところ、金谷宿大学に限らなくても、公民館で行っている「市民学級」「親父の井戸端会議」「もみじ学級」などの場に入り、そういう要望を出して見たらどうかという意見をもらった。しかし、それぞれ、行政が行っている物は、公募して多くの人の参加を願うために、一般受けするようなテーマで、自分には、一つとして聞いてみたいものがない。

それなら、地域の人には公民館は無料で場所を提供しているから、自分で組織を立ち上げ、そういう講師を呼んでやってみたらどうか。うまく行けば行政から予算を付けてもらう道もあると聞く。なるほど、そんな方法もあったか。それが一番よさそうだと思った。そんな方向で、何人かの人に相談してみようと思った。T氏には貴重な時間を、個人的な話に費やさせて、申し訳ありませんでした。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

従前より、助郷のため、幕府または領主より金銭を借用せしことは、助郷村のみならず、各宿駅に於いても、伝馬助成として永借金を許されたる事ありしと見えたり。そは天保八年(1837)十一月、本村に於いて、掛川宿伝馬助成金の内を、預りたることありて、代官所へ呈出したる証書あり。
※ 呈出(ていしゅつ)- 差し出すこと。提出

         預り申す御公儀金の事
  合せて金拾両は         但し、江戸小判なり。
右は、享保十年(1725)巳春、御公儀様より、掛川宿御伝馬、永々助成仰せ付られ候。金子の内、当村百姓、慥(たしか)に預かり申す処、実正に御座候。則ち質物、田地高拾石目、別紙名寄目録代付致し仕り、差し上げ置き申し候。右田地、何方へも質物入れ置き申さず候。利足の儀は年壱割、来末十一月廿五日、元利とも急度差し上げ申すべく候。勿論、急に御取り立て遊ばされ候わば、差し上げ置き申し候質物田地、売り払い代金を以って、返納仕るべく候。その節に至り一言の御訴詔申し上げまじく候。自然、御役替え、御所代り、その外、如何様の儀御座候とも、村中へ引請け、少しも違変仕るまじく候。後日のため庄屋・組頭・百姓連判手形差し上げ申す所、よって件の如し。
  天保八酉年十一月二十五日      御領分竹下村預り主
                         庄屋   八左衛門 ㊞
                        同村証人
                         百姓代  斧右衛門 ㊞
                        同村証人
                         組頭   権右衛門 ㊞
                        掛川肴町証人
                              与次右衛門㊞
    河野茂介   殿
    和田弾右衛門 殿
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「竹下村誌稿」を読む 292 助郷 14

(今日の夕焼け)

干柿加工する。600円/10個。900円/27個。但し、27個中、1個は柔らかくなっていて潰れ、加工できなかった。また6個は吊るすための枝が取れていて、加工に苦労した。一つ二つ取れていることは、ままあるが6個(二割強)はひどすぎる。女房が「まんさんかん」に、納入者名とともに、クレームの電話を入れた。納入者の猛省を促すつもりであった。

農家直売とは、農家が商人も兼ねることで、品質チェックは農家みずから行わなければならない。生産者の名前を出すのは、その責任を持つということである。ところが、もし他に売れないものの捌け口位にしか思っておらず、粗悪品を良品の中に隠して売るような農家があるならば、それは自らの首を絞めることになってしまう。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

(昨日の古文書の続きである)
右に付、五穀は勿論、食に相成るべき雑穀までも、皆式高直これまた前代未聞の次第にて、末々の者ども儀は、親族扶助も礑(はた)と差し支え、当時(現在)渇命に及び候程の義に付、領主、地頭より、それぞれ御救い手当など下し置かれ候えども、格外の違作に付、当座の凌ぎにて、村役人に於いても、この上取り計らうべき手段御座なく、恐れ入り奉り候御義には御座候えども、助郷御役、人馬勤め方、必至と差支え、殊に雨天続きにて、大井川、天竜川並び三日野川支えにて、御諸家様方御往来打ち重なり、人馬格別失墜相嵩み、なおまたこの節、御国替え専ら御通行御座候ても、飢渇の上相歎き、人馬の手操り出来兼ね、難儀至極仕り、
※ 皆式(かいしき)- すべて。まったく。かいもく。
※ 高直(こうじき)- 値段が高いこと。また、そのさま。
※ 失墜(しっつい)- むだな出費。浪費。
※ 手操り(たぐり)- 手繰。物事をそれからそれへと引き出す。一つ一つもとへたどる。


とても当時の姿にては、なお以って明年御参觀(参勤)の節、御役人馬相勤め難く、難渋困窮相逼(せま)り、御差支え顕然、如何様御咎め請け奉るべくも計り難く、甚だもって恐縮奉り候間、止むことを得ず、助郷人馬へ御救い拜借願い上げ奉り候処、困窮難渋の義は申し立ての通り相違これ無く候えども、御救い拜借願いの義は容易ならざる旨、精々御利解仰せ付けられ、黙止難く引き取り、勘弁仕り候処、とてもこの姿にては取り続けべき様御座なく、助郷人馬役御差支え顕然、往還御継ぎ立てに拘わり、遑(ひま)あらざる御儀と、一同当惑難渋の余り、恐れも顧みず、なお又御歎訴申し上げ奉り候。
※ 黙止(もくし)- 黙ったままでいること。

当御役所御取り扱い、御貸付け相成り候、琉球人御手当元利金、三千七百九十六両三分、永百十四文は、助郷村々の分に御座候に付、右元利金御立て替え、御下げ金成し下され候わば、貧民それぞれ手当て方仕り、御役出精相勤め候様仕り候。返納の儀は、御貸先元利御取り立て次第、返上納仕るべく候間、何とぞ格別の御慈悲を以って、急場御取替え、危急の極難、御救い成し下し置かれ候様、御憐愍の御仁恵、幾重にも願い上げ奉り候、已上。

  天保七年申九月              東海道金谷宿
                           助郷総代名
                          日坂宿
                           助郷総代名
                          袋井宿
                           助郷総代名
                          見附宿
                           助郷総代名
                          舞阪宿
                           助郷総代名


右の通り、去る九月中、中泉御役所へ御歎訴申し上げ奉り候。その後度々御伺い罷り出で候えども、今に御下知これ無く、最早年内余日これ無く、当暮れ人馬賃、その他諸入用割り出し候ても、格外の違作に付、助郷村々一統、売米などは一円これ無く、金才方、手段尽き果て、差支えは眼前の儀に御座候。然る所、明年将軍様御宣下大礼に付、夥しき御通行と承知奉り、平年の世柄になお御継ぎ立て容易ならざる御義、殊更、前代未聞の年柄、御賄方当惑仕り候に付、今般藤川宿より金谷宿まで、中泉御支配所十ヶ宿助郷一同、出府仕り、道中御奉行様へ御歎訴申し上げ奉り候積りに取り極め申し候。
※ 下知(げち)- 上から下へ指図すること。命令。
※ 将軍宣下(しょうぐんせんげ)- 朝廷が宣旨を下して、 征夷大将軍を任命すること。
※ 大礼(たいれい)- 国家・朝廷の重大な儀式。特に、即位の儀式。


これにより私ども助郷村々惣代として、島村組頭儀八、来る八日出府仕り、御願立て仕りたく存じ奉り候間、何とぞ格別の御慈悲を以って、御添え状頂戴仕りたく願い上げ奉り候。右願いの通り、御聞き済まし成し下され候わば、御領分村々は勿論、助郷一同、有り難き仕合わせに存じ奉り候、已上
  天保七年申十一月          御領分村々惣代
                        竹下村庄屋  八左衛門 ㊞
                        牛尾村庄屋  惣右衛門 ㊞
     織本兵八様
                   (下島氏記録)
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「竹下村誌稿」を読む 291 助郷 13

(日曜日に見学した、島田市博物館分館のマキノキ、樹齢300年)

朝、まんさんかんに行き、渋柿を買い求める。加工は明日の予定。

午後、遠州焼畑関連の古文書をスキャナーでコピー、汚れをパソコン上で消し込む作業をする。けっこう手間取る。金谷宿の講座に使用の予定である。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

また、天保七年(1836)九月、金谷宿外四宿助郷より、幕府へ拝借金を哀訴せしことあり。その文案は、
※ 哀訴(あいそ)- 同情をひくように、強く嘆き訴えること。哀願。

        恐れながら書付をもって願い上げ奉り候
一 三千七百九十六両三分、永二百十四文      金谷宿外四ヶ宿助郷村々
御立替拜借願い
       この訳
 元金千五百九十六両一分、永百九十四文五分
辰より未まで十六ヶ年
 この利金二千五百四十九両二分、永十一文二分   但し、一ヶ年、金百五十九両一分
                            永九十四文四分五厘
 滞利金二千二百三両二分、永十九文五分
 外金八十五両一分、永百四十六文一分       竹垣庄蔵様御支配の節
                         御取立相済み、請け取り奉り候分
  金二百六十両二分、永九十五文六分       当御支配中、御取立相済み、
                         請け取り奉り候分

右は当御代官所、東海道金谷宿外四ヶ宿、助郷総代ども一同、申し上げ奉り候。近年違作打ち続き、助郷村々一統、困窮候処、当年の儀は二月中旬より雨天続きにて、麦作実法(みのり)悪しく、当夏中夫食(ふじき)難渋ながら、田畑仕付け、作立て出精仕り候処、これまた天候不順にて、畑方雑穀に至るまで、皆な不作、種毛失い候程の年柄、もはや田方のみにて他念なく、いよいよ豊熟の程、相祈り、耕作出精罷り在り候処、不時の冷気にて、出穂(しゅっすい)遅滞致し、時候後れにて、中、晩稲とも出穂真っ最中、

※ 種毛(たねもう)- 収穫の内、翌年の種にする分。
※ 他念(たねん)- ほかのことを考える心。余念。
※ 不時(ふじ)- 予定外の時であること。思いがけない時であること。


当八月十三日、古来稀なる大風、大木根返り、或るは半ばより吹き折れ、家々破損は申すに及ばず、民家、竈(かまど)を吹き倒し、潰れ家夥しく、怪我人数多く、村方により即死の者も間々これ有り、その上南風強く、潮吹き上げ、田方出穂残らず白穂と相成り、畑方諸作皆損致し、誠に耕以来昼夜艱難丹精を凝らし、作り立て相励み罷り在り候処、前書きの姿にて、必至と当惑仕り、何を以って露命取り続け申すべきや。百姓一統、悲歎仕り候。
※ 白穂(しらほ)- 実らずに枯れて白くなった稲穂。

(この古文書、明日へつづく)
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「竹下村誌稿」を読む 290 助郷 12

(今年最初の干柿加工)

昨日、試しにと思って、島田の「まんさんかん」で渋柿を購入した。15個で750円。今朝干柿に加工した。雨の多かった初秋であったが、今日あたりからお天気が続くとの予報に、タイミングが良かったと思う。昨年は最初に故郷から送られてきたものを、10月23日に加工しているから、ほぼ同じ時期である。15個ではいかにも少ないから、明日にも買い足しに行こう。この頃は当地でも、渋柿が手に入れやすくなった。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

爾来(以来)、交通の頻繁に伴い、助郷増課となり、文化三年(1806)、琉球人参府の際、東海道を通過せし時の如きは、高百石に付、人夫十人を増課せられし程のことなれば、自然助郷の件に付、経費を要せしことありしと見えたり。天保二年(1831)十二月、金谷宿助郷たる隣村志戸呂外三ヶ村に於いて、支配所の裏印を得て、他より融通を求めしことあり。

        金子証文の事
一 金七拾両なり     但し、来辰年より十ヶ年済
右は今度助郷一件、無拠(よんどころなく)入用に付、貴殿へ御頼み申入れ、書面の金子借用申す所実正なり、利足の儀は年一割一分勘定を以って、元金一割相添え、来辰十二月十五日限り、元利ともに急度返済致すべく候。その為、御支配所御裏御印證文、相添え申す処、くだんの如し。
   天保二卯年十二月           下菊川村預り主
                          庄屋    八左衛門 ㊞
                      倉沢村 同断
                          庄屋    平兵衛  ㊞
                      志戸呂村 同断
                          庄屋    彦右衛門 ㊞
                      上菊川村 同断
                          庄屋    古三郎  ㊞
                      阿知ケ谷村庄屋
                          御用達証人 権右衛門 ㊞
                      上湯日村庄屋
                          御用達証人 三郎一  ㊞
         掛川宿
           市右衛門殿
   表書の通り相違これ無く候、已上。
        小野良右衛門  ㊞   
        (渡辺氏記録)
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