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知的冒険 天正の瀬替えの真実(3)

(稲刈りが終った田んぼ)

晩稲の田んぼなのだろう。ようやく稲刈りが終った。天日でこのように干すのは今では少なくなってしまった。しかし、天日で干す方が太陽の恵みを最後まで頂き、きっと一味も二味も旨くなって仕上がるはずである。

午後、会社勤めの頃の先輩、U氏が見える。古文書解読のお礼を頂く。こちらが楽しませて頂いたのに、恐縮した。牛尾のU氏の実家へも解読したものを届けて、大変喜んで頂いたという。そんなお話を聞くだけで、十分であった。明後日から、いよいよU氏の古文書がこのブログに登場する。

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 知的冒険 天正の瀬替えの真実(つづき)

目から鱗が落ちるとは、こんな思いを言うのだろう。受講後、自分なりに考えてみた。世は、天下分け目の関ケ原の戦いの10年前、まだ戦国の世の色濃い時代である。着任したばかりの中村一氏が、民政のために、こんな大工事を企てたとは、とても想像できない。

今まで「天正の瀬替え」の講演を聞いて、どうにも納得できない疑問が幾つかあったが、どの講演も、その疑問に答えてくれるものではなかった。講演される先生方も、当然そんな疑問を感じておられるはずであるが、そこへは言及を避けておられるように思われた。

それらの疑問は、
1.中村一氏にとって、大井川は領国駿州の西の端で、隣国の掛川(山内一豊の領国)との境あった。未だ戦国の火種があちこちのくすぶるこの時代に、そんな遠隔地で、微妙な地域に、大河の瀬替えという大工事を発案した動機が想像できない。

2.工事をすれば、志太郡の水害は少しは減るかもしれないが、決定的な対策であったとはとても思われない。現に慶長の大洪水(1604)で、島田宿は壊滅する。

3.瀬替えにより、牛尾山5町歩の畑は山内一豊の領分となり、新たに新田開発が可能な五ヶ村も山内一豊の領分となり、中村一氏には何もメリットはない。

4.どうして、中村一氏の功績を記す文書が全く見つからないのか。多くの史書が論拠に置く「掛川誌稿」も、言い伝えとして記しているにすぎない。

天正の瀬替えについて、もう一つ注目すべき、「大井川町史」の記述がある。どの講師であったか、それに言及された方がいた。「大井川町史」は、天正の瀬替えについて、まずは通説の通り、前述の「掛川誌稿」を引用して述べたあと、次のように記されている。

中村一氏の駿府在城期間は、天正十八年(1590)八月から慶長六年(1601)二月まで10年余のことで、年次は明らかでないが、この間に相賀山と牛尾山(駿河山・弁天山)の間の凹地を開鑿し、旧河流を堤防を築いてせきとめ、河道を現在のように変えたのであろう。

右岸は山内一豊領であったが、一豊にしても旧河道開発の便があり、事実これによって横岡・牛尾・竹下・番生寺・島の五か村の誕生を見、また左岸を領する一氏にとっても、潮山が山内領に入ることとなるものの、河流が島田河原を直撃するのを防ぐという利点があって、両者の利害の一致がこの大工事を成し遂げることができたのであろう。

当時野田村に居を構えていた、家康の代官長谷川藤兵衛長盛も、この事業に協力し、恩賞として八倉山を一氏より下賜され、伊太村共有林として与えたという。


つまり、天正の瀬替えの後、江戸時代になって、その工事を完成させた人として、長谷川藤兵衛長盛を挙げている所が、他のものに無い記述であった。(つづく)
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知的冒険 天正の瀬替えの真実(2)

(大代川土手のススキ)

台風が去り、北風を呼んだ。快晴だったが、寒い日になった。東京、大阪では「木枯らし一番」だという。ススキは次々に穂を出して、土手を覆う。これぞ日本の晩秋の風景である。

干柿、21個を加工したが、内2個は熟し過ぎて、加工をやめて、熟柿として頂こうと思う。で19個を加え、今年の干柿、79個となった。最初の60個はこの雨の一日、3分の2は冷蔵庫に入れておいた。廊下に置いた3分の1からは、少し黴が出て、早速焼酎で処置した。しかし、冷蔵庫に保管したものは黴も出ずに、一緒に日に当てた。あと3日ぐらいで出来上がるだろうか。

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 知的冒険 天正の瀬替えの真実(つづき)

「島田市史」の史料的な根拠としては、「掛川誌稿 巻11牛尾村(1839)」がほとんど唯一のものである。「掛川誌稿」には次のように書かれている。

潮山  山上、方五町、五十石余の畠あり。これは昔、相賀村より続きたる駿河方の山なり。昔は大井河、この山に衝き当りて西に折れ、山と横岡の間を流れ、南、金谷の河原町を経て、東南、島田の方に流れしを、直に北より南に流さんために、この山を切り割りて、遠江方に属せり。それより山と横岡の間に堤を築き、大井河の跡を開鑿して、遂に五ヶ村の田地と成せり。或る云う、この山を切り割りたるは、天正十八年の事なりと。

按に、この年八月、東照宮、江戸の城に移らせ給い、豊臣家の中村式部少輔一氏、駿府に移り住して、大いに外堀を広うし、また種々力政を勤む。因って意に、この山の切り割りは、中村氏の手に成りし故に、その府城に移れる年を以って言い伝えたるなるべし。


「掛川誌稿」には、よく読むと、瀬替えを天正十八年と聞いたことが書いてあるだけで、中村一氏の名前は、「天正十八年」から著者が推測したことに過ぎない。だから、「掛川誌稿」は中村一氏が瀬替えを行ったとする証拠の史料にはならない。つまり、この日の「駿遠の考古学と歴史」講座の論旨は、「中村一氏による『天正の瀬替え』は無かった」という、今まで誰も述べなかったものであった。

中村一氏は天正十八年、駿河一国を領国としたが、駿河を4つに分けて、三枚橋城/中村氏次、興国寺城/河毛重次、田中城(藤枝)/横田村詮とそれぞれ重臣を置き、分割支配した。現在、中村一氏の発給文書は10点ほどしか伝わっていないが、横田村詮の発給文書は100点を越える。それらの文書から判断して、志太郡の領国支配は、ほぼ横田村詮に任されていたと思料される。しかしそれらの文書の中に、「天正の瀬替え」を匂わせる文書は皆無である。「駿遠の考古学と歴史」では、山内一豊と中村一氏の生涯についても解説された。その生涯は「天正の瀬替え」とは全く接点のない生涯であった。

最後に、曽根辰雄氏は、地元から決定的な古文書が出て来れば、歴史が書き換えられるのだがと、それを期待する言葉で今日の講座を終えられた。
(つづく)
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知的冒険 天正の瀬替えの真実(1)

(法要のあった寂照寺/伊勢市中之町)

長兄の嫂(あによめ)の49日の法要で、夫婦で伊勢に行った。先週に続く台風22号の動きを気にしながらの伊勢行であった。朝、五時半に出て、雨の中を走り、八時半には伊勢に着いた。3時間、新東名、湾岸道、東名阪、伊勢道と、ずっと高速道路を走って、無駄がない。

帰りは台風と追っ掛けっこの、豪雨の中を帰った。カーラジオで、10分置きくらいに臨時天気情報が入り、進行の前後を、大雨、雷雨、洪水、竜巻の警報が追っ掛けてきて、気忙しく走った。午後一時前に伊勢を出て、午後4時には帰宅した。夜には、台風は東海地方の南岸を東へ抜けた。

昨夜、朝が早いからと、早めに床に就いた。ところがなかなか寝られず、思いが色々と廻った。その一つが、わが郷土史の通説を覆す、歴史的発見についてで、しばらく前から調査をしていたのだが、おかげで、ブログにまとめてみようと、決心がついた。素人の考えなど、歯牙のも掛けられないだろうが。

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  知的冒険 天正の瀬替えの真実

先だっての土曜日(10月14日)、金谷宿大学の「駿遠の考古学と歴史」講座に出席した時の話である。

講座の前に、会社勤めの頃の、町内牛尾出身の先輩U氏が、その会場にひょっこり顔を見せた。U氏は毎月同じ時間に、同じ会場の別の部屋で、墨絵の講座を受けている。前回の講座の時に顔を合せ、U氏家蔵の古文書を解読して貰いたいとの依頼があった。近頃はそんな話が多い。頼まれれば、勉強にもなるから、必ず受けて、報告書にまとめ、御返しすることに
している。

その場で、パラパラと見せて頂いた。大正時代に記された、U氏の系図と地元の歴史を記したもので、筆書きながら楷書でしっかり書かれている。B5の用紙で40枚ほどのコピーであった。そんなに難しいものではないと思って預かった。今や、大正時代の文書も、100年近く経つわけで、立派な古文書である。

その日の、曽根辰雄氏の「駿遠の考古学と歴史」講座のテーマは、「山内一豊と中村一氏」、副題として「豊臣系大名の治政と『天正の瀬替え』をめぐって」となっていた。「天正の瀬替え」は、当地、金谷にとっては、町の成立にもかかわる重要な歴史で、今までに、歴史や郷土史の先生方に、何度か講演などでお話を聞いていた。このブログ上でも、その講演内容を何度か取り上げた記憶がある。

「天正の瀬替え」の通説は、「島田市史 中巻 1968年」の記載の通りで、次のようなものである。


(「天正の瀬替え」関連地図/掛川市パンフより)

大井川の流路は昔は横岡と相賀の間を流れ、牛尾山(相賀山または駿河山ともいう)へ突き当り、西へ折れ、横岡と牛尾山の間を流れて、河原町(金谷町)を経、持淵山に当って北に走っていた。このため持淵山の東地続きである鎌塚村の大井川に沿った平坦な山裾は耕地であったけれども、天正18年(1590)、この流路が変った。

その理由として、‥‥中村式部少輔一氏が駿河の国を領有するに当って牛尾山(駿河山)を開鑿して河道を変更したといい、また相賀山と牛尾山との間に低窪の場所があり、その東に当って大きな池沼があったので、大雨や大水の時にはこゝが流路の一筋となっていたといい、さらにこの場所へ人為を加えて分流したのを広げたものであるともいわれ、一方ではその場所が自然欠(決)壊して河道となったとも伝えられている。

(つづく)
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「事実証談巻4(人霊部上)」 31 第22話、第23話、第24話

(散歩道のホトトギス/昨日撮影)

今日で、「事実証談巻4(人霊部上)」の解読を終る。続いて「事実証談巻5(人霊部下)」を読むつもりであったが、別のものに変える。

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「事実証談巻4(人霊部上)」の解読を続ける。

(第22話)
〇城東郡笠原庄、中山家の妻、久しく口中の病ありて、物食うこと煩わしく悩みけるを、隣家の者訪い来て言いけるは、口中の悩みにてあらば、高橋村の了巴(りょうわ)様に祈願せば、速(すみ)やかに全快すべしというまゝに、神とも仏とも聞き糺しもなくて、手洗い口すゝぎて、かの了巴に祈願するに、それよりかつがつ悩み薄らぎ、全快したりけるを歓びて、
※ かつがつ(且つ且つ)- どうにか。ともかく。

了巴の方へも参詣に行くべしとて、かしこに尋ね行きて、所の者に尋ぬれば、高橋村福蔵院の境内に有るというにより、さては仏にて有りけるかと
行きて見れば、墓所の中に夢窓了巴大姉と法名彫(え)り付けし石碑なり。怪しみその由を問うに、昔、寺に庫裡婆つとめし者の墓なる由。在世の時、口中を悩む者あれば、咒(まじない)たりしに、皆な全快せしを、
※ 庫裏婆(くりばば)- 住職の妻。梵妻。

死後その伝えを受けしものなき故、詮方なく婆の墓に祈願するに、その験(しるし)有るによりて。人皆な尋ね来たり祈願すとの物語りなりし由。則ち、中山氏の物語りなり。

(第22話おわり)

(第23話)
〇豊田郡池田村、宇右衛門という者の話に、痔疾を悩む者、常に秋山自雲居士といふ法名を念じ、毎朝、題目十遍づゝとか唱うれば、験(しるし)有りとの物語なりしを、聞き伝うれば、江戸浅草の辺(ほと)りに、痔神とて、昔、痔疾に悩み死にたりし者、今はの際に、我れかゝる難病にて悩み死せば、我れ死にて後、我が墓に祈願する者あらば、痔疾の悩みを退(しりぞ)くべしと云い置いて死にたりし由。こゝを以って、人皆な痔神と称して祈願春ると聞き伝えしが、その法名にや。未だ詳(つまび)らかならず。
※ 今はの際(いまわのきわ)- 臨終の時。

(第23話おわり)

(第24話)
〇周智郡蓮華寺村に、咳漱(せき)の婆という墓所あり。これも同じ物にて咳漱(せき)を悩む者祈願するに、その験(しるし)有りとて、人皆な祈願するも同じ例にて、かゝる類い、こゝかしこに有るなりけり。微弱者(おじなきもの)の霊にても、末の世までも、その功業(いさお)を残し、人に敬い祈願せらるゝ由を以って、根津権現、宇和明神、惣五明神など祭らるる人の功徳(いさお)を思いはかるべし。
※ 微弱者(おじなきもの)- 意気地なし。おくびょうもの。

人の功業(いさお)は勝り劣りこそあれ、そのほど/\の功業はありぬべし。たゞ大なると小なるとの差別有るのみ。なればこの書の事実を證(あかし)として、万づに思い比べて、顕世(うつしよ)にあらん限りは、万づ勤(いそ)しみ努むる事、あらまほしき事なりけり。

(第24話おわり)
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「事実証談巻4(人霊部上)」 30 第19話、第20話、第21話

(夕方のうろこ雲)

明日はまた雨らしい。台風22号も心配である。

藤枝のまんさいかんに久し振りに行った。大変なにぎわい方であった。脇に専用の立体駐車場が出来ていた。渋柿21個を1000円で買って来た。

明日で「事実証談巻4(人霊部上)」の解読を終える。続いて、5を読むつもりでいたが、内容が内容祟りの話ばかりで、少し疲れた。気分を変え
て、毛色の違うものを読もうと思っている。

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「事実証談巻4(人霊部上)」の解読を続ける。

(第19話)
〇豊田郡、山田喜右衛門という者の家は、六代ばかり先、同郡三つ家村より引っ越し来たりしよし。その頃、居屋敷求めし所に、もとより住居せし老女ありしを、その居屋敷、立ち退きて行くべき方もなき者故、その所に家作して住みけるまゝ、老女は先より住みし者なれば、つれなく追い立てんは、情なき業(わざ)なりと、居屋敷の片端に藁屋を作りて、養い置きし由。かゝれば、死にて後も祭るべき者なければ、為方(せんかた)なく祖々(おやおや)の霊屋に並べ祭りけるが、法名妙鎮とか号したり。

然るに年経て、次男を分家すとて、近きわたりに居屋敷を求め、新家を造りて分地するに、祖々の法名をば、新家にも遷し祭れども、妙鎮の法名のみ遷さゞりしによりてか、新家に移りしより、その新家に病絶えず悩みけるを、物の祟りかと占(うらな)わせけるに、こは死霊の祟なりと言うにより、如何なる死霊の祟りぞと糺しけれども、思い当たりし事なき故、

妙鎮のことに心付き、祖々の法名をば遷し祭れど、妙鎮は本家の屋敷にこそ縁有りて、祭りもすれ、他に出ては祭るべくも覚えずとて、遷し祭らざる故、その祟りにやとて、僧を頼みて遷し祭るに、その妙鎮の霊を新家にては、円室美鏡大姉という法名を贈りて祭りしより、家族の悩み速やかに鎮ずまりにしと、新家の主の物語なり。

(第19話おわり)

(第20話)
〇またその隣村に常右衛門という者あり。この家も二、三代以前に、老女一人住居せし屋敷を求め、居屋敷としたりけるに、その時、老女立ち越すべき方なき故、傍らに藁屋を造りて養い置き、死後三十三年の霊祭まで、型の如く取り行いて、

寛政初年(1789)の頃、老女は元来、居屋敷に住居せし者なればこそ、三十三年までは祭りもしつも、早や年経ぬれば、祭るべきにあらじと、その祭りを止めたりければ、それよりその家に病い起り、悩むこと絶えざりける故、老女の祟りならんとて、また祭りたりければ、その祟り速やかに止みにしと言えり。

(第20話おわり)

(第21話)
〇同郡池田庄に、彦十という者あり。寛政年中、天龍川出水の時、流木を拾い取るとて、船に乗りて流木(古破枝(こわし)と云えり)を掻き寄せけるに、その中に一つの位牌有りけり。彦十思いけるは、こは川上なる家流れ失せて、家人ともに亡失(うしない)つらん。我手にかゝりしも不思儀の縁なり。祭りて得させんと、

家に持ち帰り、祖々に並べて祭りしより、家族変わる/\悩みありて、出生の子数多ありしも、三年ばかりの間に、皆な病死せしにより、神仏の祟りもやあらんと、占わせ見るに、縁無き死霊の祟りなりと云いける故、よく/\思い廻らすに、縁なきとはかの位牌ならんと、僧を頼みて施餓鬼という事を行わしめて、かの位牌を天龍川に持ち出して、流し退(や)りたりければ、その祟り、速やかに鎮まりしと云えり。

(第21話おわり)
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「事実証談巻4(人霊部上)」 29 第17話、第18話

(散歩道のチョウセンハギ)

雨の降らない日が十日ぶり位だという。今朝から快晴、雨の心配は全く無かった。

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「事実証談巻4(人霊部上)」の解読を続ける。

(第17話)
〇また、笠原庄にも同じきことあり。或る家の主、病死の後、妻一人年老いて有りしが、これも花を好みて、琉球躑躅(つつじ)というものを植え置いて、春ごとの詠(なが)めとせしを、

文化初年(1804)の頃、老女も病死して、空家となりて有りし故、その本家の主、そのつつじを我が庭に移し植えたりければ、それより家内に病い発(おこ)りて、代わる代わる悩み絶えざりける故、物の障りもやあらんとて、占(うらな)わせたりければ、

死霊の祟りなりというに心付き、主(ぬし)知らぬ花と思いて、移し植えしが、しかせしより病あれば、正しく新家老女の祟りかとて、分家の庭にまた移したりければ、本家の人々の悩み、速やかに全快せりとの物語なり。

(第17話おわり)

(第18話)
顕世の人の心と、霊の上とは同等(ひと)しからぬ事も多かるにや。或る家の主、家宅の古く荒れし事をいぶせみ、寛政初年(1789)の頃、新たに造り改めしが、もとの家には勝りて麗しく造りなしけるに、
※ 顕世(うつしよ)- 現世。この世。

祖々(おやおや)を祭る霊屋の、古く損なわれしのみか、松、杉の木の類い取り集めて、麗しからぬに、年久しく経たりければ、鼠など咬み散らし、いと/\見苦しきを見て、主、密かに思いけるは、住家を改め造らんには、祖々を祭る霊屋を先とこそ、造り改むべきを、前後せりと思い、
※ 霊屋(たまや)- 死者の霊を祭って置く建物。

俄かに樫(けやき)木を求めて、霊屋を造らしめ、春慶塗にして、その年の七月盆祭りの時、遷し祭りけるを、その家に常に出入者見て、さて/\よき仏壇かな。今よりこの中に遷し祭り給わば、祖々たちも歓び給わん。かく遷し祭り給えば、古き仏壇は取り捨て給わん。荒れたりとも、我々などの草屋に置かん仏壇には、相応の物なれば、我らに下し給われと乞い受けて、持ち帰りしより、

新しき霊屋にて盆祭りしたりけるを、怪しくも主、俄かに狂乱して言いけるは、昔より祭り来たれる霊屋を、他人の方に送り、何とてかゝる霊屋には遷し祭るぞ。とく/\取り戻し遷し祭れ、と怒り罵りけるを、人皆な狂気と思いて、なだめけるれども、聊か鎮まらず、躍(おど)り上り/\て怒りけるに、余(ほか)のことをば更に言わず、明け暮れその事をのみ口走りて、怒りける故、

さては祖々の霊の心に違(たが)いしにや。さるにても、古きを改め、新しく麗しく造りて遷せしを、祟り給うべくも覚えねど、ともこうも、古きを取り返し見よとて、乞い返したりければ、主の狂乱、忽ちに鎮まりしとなん。

寛政後年の頃、そのわたりに行きしまゝ、その家にも立ち寄り窺い見しが、後には新しき方にて祭りすと見えて、位牌数多(あまた)並べ、物奠(たむ)けてはありしかど、古きもまた捨て難く祭ると見えて、新しき霊屋の傍らに、三尺ばかり離れて、横様(よこさま)に向けて、茶碗一つ丸き台に居(すえ)て有りしのみ。外に物なく、ただ傍らに居(すえ)置くのみと見えたり。

(第18話おわり)

読書:「軍鶏侍」 野口卓 著
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「事実証談巻4(人霊部上)」 28 第16話

(大代川の河原のカルガモ)

夕方、大代川の河原に、カルガモが五羽、頭を羽根の中に納めて、休んでいる。台風以後、流れが強くてのんびり泳いではおれないようだ。今日も一日雨で、この頃の天候は、まるで故郷、裏日本の天気のようである。

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「事実証談巻4(人霊部上)」の解読を続ける。

(第16話)
山名庄に、年老いたる婆一人侘び住いしてありしが、常に草花などを好み、聊かなる軒端の辺(ほとり)に植え置きて、春秋の詠(なが)めとせしよし。文化初年(1804)の頃、近隣の人々の計らいにて、養子を迎え、また嫁をも迎え取りてより、老女遁世の思いをなしてや、常より殊に花を愛しけるを、近きわたりなる人々、身にも応ぜぬ老女の物数奇(ものずき)など、噂(うわさ)せしとぞ。
※ 山名庄(やまな庄)- 現、静岡県周智郡森町に在った庄。
※ 遁世(とんせい)- 隠棲して世間の煩わしさから離れること。


さて、ある時、隣村の人来たりて、軒端なる霧島躑躅(つつじ)を見て、主に乞いけるを、主言いけるは、安きことには侍れど、老母常に愛し侍れば、贈り難しと断り置きしを、老女世を去りて後、文化三年(1806)、またしも、かの隣村の者来たりて、軒端なる霧島を乞いけるにぞ。主も今は否み難く、老母世を去り給えば、誰かは花に心を寄すべき、進(まいら)すべしと言いけるまゝ、かの者喜び、家に移し植えけるが、

その程より、花の詠めも他所にて、時々熱気起りて、常に安からざりけり。また贈りし方の主も、それより病ありげに覚えて、ただうつ/\と家業も怠りて有けるが、
※ 熱気(ねつけ)- 熱がある感じ。体温が平常より高い感じ。
※ うつ/\(鬱々)- 心がふさいで晴れ晴れしないさま。


冬、春の頃は、綿打つことを家業の助けとしけるにより、空しくあらんよりはと、綿を出し打ちけるに、常に変わりて、弓弦に綿付きまとい、打ち難かりしを、強いて打ちきらんとするに、その綿一群れに弦に纏(まと)い付きたり。如何なる故とよく/\見るに、怪しくも綿は綿ながら、濃き薄き綾透けて、老母の面影に等しく覚えて、あるに耐えず、そのまゝ捨て置き、菩提所の寺へ仏参に詣でたり。

その留主(るす)へ、霧島を乞いて持ち行きし者の方より、在りしつゝじを持ち来たりて言いけるは、老母在世の時、深く愛し給えりしもの故、外に移しては世を退(さり)給いても、なお惜しみ給えるにか、移し植えしより、家に病ありて煩わしきことのみ多かれば、送り返し進(まい)らすなりとて、返しければ、
※ 在りし(ありし)- 以前の。昔の。

かの方にても何か崇りもありしにやと、思われしかど、尋ねんも如何と、それはそのまゝにて、元の所に植え置きしより、双方の障り、速やかに治まり、そを以って老女の祟りなりしとは知られつと言えり。

(第16話おわり)
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「事実証談巻4(人霊部上)」 27 第15話

(近所の柿の木上のヒヨドリ)

裏の畑の柿の木をねらって、ヒヨドリが来るので、柿の木をすべて収穫してしまったところ、ヒヨドリは近所の柿の木へ移動した。一枚撮って見たが中々難しい。

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「事実証談巻4(人霊部上)」の解読を続ける。

(第15話)
〇或る家に、浮波の皿とて、無地の中皿あり。底に波の紋ありて、清水を入るれば、その紋、水上に浮くを以って、浮波の皿と号(なづ)けて、重器と持ち伝えけるよし。また、錦手の中皿も有るよし。その家は由緒有る家柄にて、いつの頃より持ち伝えしかは知らざりけるが、昔に変わりて、今は侘しき暮しなれども、その皿ばかりは失わず、重器として持ち伝えけるよし。
※ 重器(ちょうき)- 貴重な器物。大切な宝物。重宝。
※ 錦手(にしきで)- 白釉を施した磁器に、不透明な赤釉を中心に、緑・黄・紫・青などの透明釉で上絵をつけたもの。古伊万里などに見られる。


天明年中(1781~1789)の頃よりは、老母、娘唯二人、侘しく年月を過しけるを、同家縁者の計らいにて、寛政初年(1789)の頃にか、一里ばかり遠き方より、聟を迎えたりしが、その聟、常によしなき遊びに金銭を費しける故、離別ともなるべかりしを、隣家の人々の取り成しにて、年月を重ねしほどに、老母、娘二人とも病死して、聟一人となりしより、いよよ、益々よしなき遊びに浮かれければ、
※ よしなし(由無し)- つまらない。くだらない。よくない。

同家縁者の計らいにて、その聟を離別し、隣村より家守を雇いて守らせ置きけるに、始めのほどは怪しき事もなかりしを、程過ぎて、夜な/\更けゆく頃に、皿をおこせ/\と言う声聞えけるを、家守思いけるは、こは我一人あるを以って、若者どもの驚かさむとての戯れにこそあるらめ、と聊か恐るゝ心もなくて有りけるを、
※ おこす(遣す)- よこす。

雨降る夜も、風吹く夜も、怠ることなく、皿を乞いける故、さては狐狸どもの欺くにやと、或る夜、い寝がてに窺い聞くに、外の方にはあらで、竈炉辺のわたりに、声のみ有りて、形なきに驚き怪しみしかど、よく思うに、亡霊ならんには姿を現わすべきを、声のみなるは、狐狸床下にありての業(わざ)ならめ。仮令(たとえ)亡霊なりとも、身に咎なければ祟るべき由もなし。夜明けなば、同家に告げて糺すべしと、聊か怖るゝ心無くい寝て、
※ い寝がてに(いねがてに)- 寝られないで。寝られないままに。

翌日、同家にそのことを告げけるに、同家の主、甚く怪しみ、皿を乞うのみにて、外に何も沙汰のなきは、重器とせし皿に心残りたる故にやと、同家の主、その者諸ともその家に至り、糺し見るに、重器とせし皿二枚とも無きに付いて、いよゝ怪しみ糺しけれども、知れざるにより、近隣にもその由を語りて糺しければ、離別せし聟、聊かなる銭の代(しろ)に、一里ばかり遠き方に質物に預け置きし由。驚き、人を馳せて取り戻し、家に納め置きたりければ、

夜な/\皿を乞いしこと、速やかに止みにしとなん。こはかの老母の霊か、祖々(おやおや)の霊かは知られねども、後によく思い巡らせば、家守の耳には、かの老母の声かと聞えしとあれば、老母の霊なるにや。かの老母、在世の頃、縁者の方にての噂にも、萬ずにつけて心強き老母なりと言いしを以って、思い合わすれば、世を去りぬれども、重器の失いしを糺せしならんとは、推し計られつ。

(第15話おわり)
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「事実証談巻4(人霊部上)」 26 第14話の4

(故郷の渋柿を干柿に)

故郷から送られた来た渋柿60個を、本日加工し、天日に干した。加工に午前から始めて、午後4時まで掛かった。一週間ほどで干柿になる予定。

未明、衆議院選挙速報をみていると、台風21号で荒れていた外が、急に風雨ともに静かになった。与党で2/3を超える312議席まで見て休んだ。その後、また少し荒れたようだが、当地は大きな被害もなく済んだ。あとで考えて見るに、あの静かになった時、当地は台風の目の中いたようだ。未明、御前崎に上陸した頃は、台風の目も緩んで大きくなっていた。

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「事実証談巻4(人霊部上)」の解読を続ける。

その頃、又いづくの者にてありしか、そのわたりに来たり、足を留めて、こゝかしこの日雇いの働きして有りける者ありけり。そは住所なき者にて有りければ、その男を頼み相続させんことを言い出て、談じけるに、皆なもっともと、一同はせしかども、

死後空家にて、聊(いささ)かの家財とてもなければ、家事食用の設(もうけ)をなして、頼まんにしかじと、その所の家々に米銭を取り集め、家事食用の料(りょう)を積て、かの男を呼び寄せ、村中の人々挙(こぞ)りて、深く頼みけるを、思い設けぬこと故、疾く(うべな)う事なく、とかく断りけれども、人皆な強(しい)て頼みけるまゝ、為方(せんかた)なくてや、かの男、ともかくも人皆なの頼みに任せんと言いけるによりて、
※ しかじ(如かじ)-(…に)及ぶまい。(…に)まさるものはあるまい。
※ 思い設けぬ(おもいもうけぬ)- 予期しない。前もって心の準備をしていない。
※ 疾く(とく)- すぐに。


村中の人々寄り集い、俄かに空家を取り片付け、聊かの雑具、何くれと、こゝかしこに求め、かの男を空家の相続(よつぎ)人と、固めをなして、朝夕二女の霊祭怠りなく、祭らせたりければ、それより出火の騒ぎ、忽(たちま)ちに鎮まりし由は、その頃、その所の人々に正しく聞き証(あか)して、疑いなき事実にしあれば、
※ 固め(かため)- かたい約束。契り。

證しともなるべき事と、より/\人に語るを、人皆な怪しとするのみにて、怪しき知らぬ世の風儀(ならわし)に、実(まこと)しからぬ噂話と、肯(うべな)う人なけれど、実(まこと)に正しき事なれば、心有らん徒は人霊の奇しき事を思うべし。

(いにしえ)の、女の霊火、大城(おおき)を焼払いしこと、大槻大鵬撰とかいう書に見えし。そも実(まこと)、しか有りし事にや。これらを證(あかし)として、霊火の忌々(ゆゆ)しき祟りあることをば、思い計るべし。

※ 大槻大鵬撰(おおつきたいほうせん)- 正しくは「見語大鵬撰」。加賀騒動を扱った実録本。大槻は加賀騒動の首謀者とされる。成り上がり者の大槻は、亡くなった藩主前田吉徳の側室、真如院と情を通じたとされて、それぞれ自害する。真如院との情は、でっちあげともいわれ、11年後の宝暦9年に、金沢の大火が起き、自害した側室真如院の霊火された。
(第14話おわり)

読書:「心あかり 小料理のどか屋人情帖11」 倉阪鬼一郎 著
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「事実証談巻4(人霊部上)」 25 第14話の3

(散歩道で咲き出したコギク)

台風21号がまっすぐ静岡県に向かっている。明日未明、静岡県のどこかに上陸するかもしれない。雨風がようやく強くなってきた。

衆議院選挙、前評判通り、自民、公明の現政権の圧倒的な勝利になったよだ。希望の党も急に勢いを失い、絶望の党になってしまった。誰かが発言したように、与党は、野党の敵失で勝ったようなものかもしれない。

故郷但馬より、干しカレイをたくさん送ってもらった。早速、昼に焼いて食べた。ああ、日本海の味がする。

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「事実証談巻4(人霊部上)」の解読を続ける。

怪しみて卜者に占(うらな)わせけるに、死霊の祟りなり、霊火なりなど言えども、占方を以って実(まこと)とする者もなく、神仏の咎(とが)かと怪しみ思うのみなれども、さすがに卜者の教えも、また捨て難くや。寺院を頼み、大般若経を転読し、施餓鬼などいう事までも、怠る事なく祈願すれども、聊か、その験(しるし)なくて、
※ 卜者(ぼくしゃ)- うらないをする人。占師。
※ 占方(うらかた)- 占いの結果。
※ 転読(てんどく)- 経典などの初・中・終の数行だけを略読すること。大部の経典、特に「大般若経」600巻について行われる。
※ 施餓鬼(せがき)- 盂蘭盆に寺などで、餓鬼道に落ちて、飢餓に苦しむ無縁仏や生類のために催す読経・供養。


時々出火の騒ぎ有りし事、三年ばかりが程にてありし故、始めの程は、遠き村々にても驚き駈け寄りしかど、度重なるまゝに、人皆な常の騒ぎと言いなし、たま/\もその辺なる村にて、過(あやま)ちし出火ありし時だにも、例の騒ぎと怠りし事も有りしよし。
※ 常の(つねの)- いつもの。

されども、その所は家並み続きし所にて、直(ただ)ちに人寄り集りて打ち消しければ、何時とても聊かの騒ぎにて、鎮まりしかど、怪しかりしは、その町内に限りて、隣り町に障りなきを怪しみ、誰とはなしに、かの二人の霊火なりと風説しけるにより、
※ 風説(ふうせつ)- 世間にひろまっているうわさ。とりざた。

人皆な心付きて、俄かに二女の霊を祭りなどしけれども、とかく鎮まらざりければ、なお怪しみ、かく祭れどもその験(しるし)なきは、在りし家にて朝夕の祭りせざる故ならんとて、又しも急に相続(よつぎ)人を尋ね求めれども、かゝる騒ぎを誰知らぬ者もなく、皆な聞き怖(お)じして、誰れ相続人となる者もなければ、人々思い煩いけるに、
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