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宗祇終焉記1 文亀元年/はじめに-鎌倉

(「宗祇終焉記」本文)

今日より、「宗祇終焉記」を解読し始める。テキストは「駿河古文書会原典シリーズ(4)」である。

宗祇(そうぎ)は、室町時代の連歌師。号は自然斎、種玉庵。姓は飯尾(いのお/ いいお)というが定かではない。応永二十八年(1421)生まれ、文亀二年(1502)七月三十日死去。生国は、紀伊とも近江とも言われている。
最晩年の文亀元年、旅の途中で死亡し、駿河の桃園(裾野市)の定輪寺に葬られた。

「宗祇終焉記」は、駿河の宗長が越後の国に滞在する宗祇を訪ねてゆくところから始まる。越後から駿河に戻る旅に同行した宗長が、師の死に至るまでの様子を、京の人たちに知らせるべく、一文にしたため、京へ登る人に持たせたものである。元々題名はなかったので、それを書き写した人々が、思い思いに題名を付けたので、宗祇臨終記、宗祇道記など様々な標題が付けられている。

テキストにしたものは、戸田本といわれるもので、定輪寺に所蔵されていたものを、幕末の文久三年(1863)に書写されたもので、外の系統の書写本と違って、書写された時期は新しいが、宗祇の菩提所保管の書写本として、写し間違いなどが少なく、宗長の書いた原本に最も近いものと評価されている。なお原本は残っていない。

テキストには、内閣文庫本(宗祇臨終記)が添付されていたので、戸田本で不明瞭な部分は、内閣文庫本と照合しながら、解読を行った。しかし、あくまでも戸田本を主に解読した。同じ旅を扱ったものながら、「秋葉街道‥‥」とは一転して格調の高い文となる。では解読を始めよう。

宗祇老人、としごろの草庵も物憂きにや、都の外のあらましせし、年の春のはじめの発句に、
    身や今年 都をよその 春霞
※ あらまし - 概略。

その秋の暮、越路の空に趣き、この旅は帰る山の名をだに思わずして、越後国に知る頼りを求めて、二年(ふたとせ)ばかりを経られぬと聞きて、文亀はじめの年、六月の末、駿河の国より一歩を進め、足柄山をこえ、富士の根を北に見て、伊豆海沖の小嶋に寄る波、こゆるぎの磯をつたい、鎌倉を一見せしに、右大将家のそのかみ、また九代の栄えをも、ただ目の前の心地して、鶴ヶ岡の渚の松、雪の下の甍は、げに石清水にもたち勝るらんとぞ覚え侍る。

※ 文亀はじめの年 - 文亀元年(1501)。
※ こゆるぎの磯 - 小余綾の磯。(歌枕)神奈川県大磯付近の海岸。こよろぎのいそ。
※ 右大将家 - 源頼朝の家系のこと。鎌倉幕府の征夷大将軍は、形骸化していたが、九代まで続いた。
※ 雪の下 - 鎌倉鶴岡八幡宮一帯の地名


このあたりは、宗長が越後の国に宗祇を訪ねてゆく途中のありさまである。
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