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事実証談 神霊部(上) 17 御継目費用に鳥居松を与えた下諏訪社の神

(磐田市立野、諏訪神社)

アベノミクス、自民参院選大勝、景気上向きなど、明るさを持ったニュースもちらほらあるが、世の中の行き詰まり感は払拭できない。まだまだまともに向き合うと滅入ってしまうニュースが多い。大震災はまだまだ後を引きずっているし、大量殺人、スポーツ界の不祥事、記録を書き換える豪雨、猛暑と熱中症、言いたい放題、やりたい放題の中韓。いずれも日本の国力の衰えがベースになっている。日本再生の秘策はあるのであろうか。

最近は、このブログも古文書一色で、読む気にならないという方々が多いと自覚している。暗澹たる世の中から目を背けて、古文書の世界に没入しているというのが実際のところである。「事実証談」の世界には、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が暗躍しているが、人々は決してめげないで、それらと共存しているようにみえる。そんな馬鹿なと思いながらも、次は何がと読み進めるのが楽しい。一つ一つが個人的には大事件であるが、社会を大きく揺るがす話にはならない。それは気の毒にと、同情しこそすれ、滅入ることにはならない。だから、しばらくはこの世界に身を置こうと思う。

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事実証談 神霊部(上)第17話である。豊田郡立野村は現在の磐田市立野で、7月25日の昼下がりに現地に取材に行った。諏訪神社は、JR東海道線の豊田駅の北300mの住宅地の中にある、こじんまりとした社であった。鳥居の脇に松の木が1本立っている。御継目を身を捨てて助けた松の、何代目かの松であろう。

天明年中、寺社御朱印御継目ありし時、豊田郡の内にて、最寄なる小社の鍵取り三人打ち寄りて言いけるは、誰々も小社にて御継目の入用難儀なれば、社木を売り払い、その価を以って雑用とせばやと言いけるを、立野村下諏訪社の鍵取り、大橋助右衛門という者言いけるは、社領少なしとて、社木を以って入用とせん事は有るまじき業なりとて、下諏訪社のみ伐り荒さずして、かの三人一同、御継目に江戸に下りしに、ある夜風もなく長閑なる下諏訪社の鳥居木と言いし松の大木倒れし故、助右衛門の家族甚だ怪しみ、如何なる凶事かあらん前兆なるべしと思い煩いしに、事なく御継目済みて帰りし事を悦びしとなん。
※ 鍵取り- 村落の旧家などで、鎮守の社殿の鍵を預かって祭りのときに扉を開閉したり、賽銭の保管をしたりする役の者をいう。
※ 御朱印御継目 - 寺社が御朱印状により幕府より年々石高の寄進を受けていても、将軍が変わるとその御朱印状は無効になる。寄進を継続する場合は、江戸に出向いて、新たに御朱印状を頂かねばならない。これを御朱印御継目と呼ぶ。


さてかの倒れし木は詮方(せんかた)なく売り払いしに、その価、御継目下向の雑用と等しかりしは、神の下し給いしにやと、助右衛門の物語なり。
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事実証談 神霊部(上) 16 矢奈比売神社祭礼と祟り

(見付天神)

事実証談 神霊部(上)第16話である。矢奈比賣神社は磐田市にある見付天神のことである。見付天神といえば、天下の奇祭、裸祭りが有名で、前半にその祭りのことが紹介されている。自分は見たことがないが、祭りの様子は今も変わらずに守られているのであろうか。

7月21日に見付天神を訪れた。そばにツツジ公園があって、花の時期には賑わうが、夏の昼下がりには訪れる人も僅かである。

磐田郡見付驛、矢奈比賣神社(この社何時の頃よりの事にか有りけん。世の人、天満天神の社と思い誤りて祈願するに、幸いありて、やがて天満宮の社の如くなれり。この故に近き年頃より、天満天神の御霊をも並び祭りて、菅原神の遠忌の御霊祭もこれ有るなり)の祭礼は、八月十一日なり。

その月の七日には氏子残らず浜おりとて、海辺に行き身禊し、穢れ有る者(死の穢れ、月役のけがれある者なり)はその日より神事終るまでは、所縁をもとめ他所にしりぞけ置きて、家々を祓い清め、十日の夜五つ時頃より、町毎小路/\一組限りにダシという物を持て、ヱンヤサモンヤサと言いつゝ、社の御前に至り、九つ時過ぐる頃より、数十人(この人数、定例にて出る者と、また立願有りて出る者とありて、年毎にその数定まらず)裸身に腰蓑をまとい、草鞋のまゝにて、拝殿に登り、なおヱンヤサモンヤサと言いつゝ、踊り上り、踏み轟かす事、半時ばかりなるに、踊る者の汗の気の立つ事、恰かも蒸し物の湯気のごとく、その物音、方二三十町に響きわたりて、いみじき事にて、これを鬼踊りと言えり。

※ 浜おり(浜降り)- 海浜や河辺に行ってみそぎをすることをいう。水には一般にいっさいの罪や穢(けがれ)を洗い流す浄化力があると考えられ、とくに塩を含有した潮水は強い浄化力をもつとされた。祭りや神事を前に神官などの祭りの奉仕者が浜降りをしたり、潮水で家の周囲や神棚を清める風習は各地にみられる。


(淡海国玉神社)

さて月の入りを待って、およそ十町ばかり西なる淡海国玉神社(この社を惣社と言えり)に神輿を遷し奉るに、その時は往来の人を止め、犬猫までも追い退け、家々門戸を閉じ、火を滅し、物音を禁じ、家族残らず慎みうづくまり居るに、闇夜に神輿を舁(か)き行く事、鳥の翔(かける)が如し。この故に、ひさまりの祭とも、犬追い祭とも言えり。

かくて還御は十一日昼七つ時頃、神輿の前後に氏子列(つらな)りて駅内御行ありて、静かに御帰坐なし奉るなり。

この神事の時は、往来の旅人も尋常の者は下馬下乗して通りけるに、寛政の中頃、東海道土山駅金兵衛というもの、江戸に下るとて、神主の家に立ち寄りて言いけるは、寛政の初めの頃、御祭礼の日、急用有りて早駕籠にて通りしに、社前の大路を過る時、駕籠の上に大なる石にても打ち付けられし如く覚えて、駕籠の棒、真中より折れし故、怪しみ見るに棒の折れしのみにて、聊か損じたる所もなかりしかば、乗り打ちせし御咎ならんと思いしかど、急用なれば御社の方を遥拝したるのみにて行き過ぎしを、年月経れども畏(かしこ)さ忘るゝ事なかりしに、またこの度江戸に下る故、御社に詣でしを、なお旧年の御咎を和(なご)め祭りて給われと、金百疋奉納せし故、然有りし事を知れりと。則ち神主斎藤監物菅原春雄の物語りなり。
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事実証談 神霊部(上) 12~15 各地、往来者に崇る社の諸の対策

(第13話 八王子社)

事実証談 神霊部(上)第12話から第15話までは、社の前を往来する人に崇る神社で、人々の諸々の対策の話である。敬意を表して通れば崇ることはないが、乗馬のままであったり、笠を被ったままであったり、立ちションをしたりすると崇るという。

第12話
周智郡宮代村に真砂社とて、小国神社(この国の一の宮にて宮代村に坐せり)の末社あり。この往昔より、本社へ往来する道より凡そ一町ばかり隔てりて、西なる山際に東向きに宮所有りしが、いかなる故にや、宝暦年中に至りて、その道を往来する者、かの社の東に来たれば、馬に乗れる者は落馬し、笠着て行き過ぐる者といえども、忽ち障りあるゆえ、かの社の崇りならんと和(なご)し祭れども、止まざりければ、為方(せんかた)なく、その社を南向きに引き直せしより、その崇り止みにしとなん。そのこと取扱いし前神主、鈴木弾正貞実の物語りなり。

第13話
山名郡鎌田、神明社の末社に八王子社とて、高き岡に社ありけるが、往昔その社より見えわたる村里を往来する者、馬に乗れる者は落馬し、社の方に向いて小便する物あれば、崇り有るによりて、遠近の人、これを患(うれえ)歎きて、東の方にかの社を見隠くすばかりの山を築きたりければ、その崇りは止みにしとなん。その山を今も目隠山と言えり。(近き年、この同村孫兵衛とかいう者、目隠山の上に行者堂建立せり後、伝え誤らん事計り難し)

第14話
豊田郡大谷村、若宮八幡の社は道より川を隔て北の方にあり、その南なる道を乗り打ち、または笠着て行く者は俄かに崇り有るにより、これも社を八丁ばかり西に遷しければ、その崇り止みにしが、そは永禄年中の事なりと言い伝えたり。

第15話
また、城東郡中村郷大石村、天王社は四箇(しか)郷の氏神なりけるが、これも等しき崇り有りし由。今泣(いまなき)宮と言えり。海戸(かいと)村アダバチの社も同伝あり。また岩滑(いわなみ)村に青木観音堂とて、往来の辺にあり。これも等しき伝あり。みな同例なる故、省きつ。



(八王子社の目隠し山、円墳)

興味深いのは、第13話で、見えないように目隠しの山を築いた八王子社の話である。25日に現地を見に行った。磐田市鎌田に鎌田神明宮という立派な神社がある。周囲は小高く、うさぎ山公園という家族連れで憩える森になっている。鎌田神明宮の二の鳥居から少し東に入った所、住宅地の中に末社の八王子社がある。古墳丘と円墳の間に小さな祠があった。案内板では円墳が「目かくし山」となっていた。はっきりと円墳の形を残していながら、隙間なく果樹(梅の木か)が植えられている。

近所の人家から奥さんが出て来たので、少し話した。確かに「目かくし山」はその円墳で、以前に発掘調査がされたことがあると話す。

目隠山と目される小山は古墳だった。変わった地形から「目隠山を築いた」というお話が創られたのであろう。古墳の上まで登ってみたが、行者堂の痕跡らしきものも見当たらなかった。
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事実証談 神霊部(上) 11 天宮社の灯篭の火と怪しい物音

(改修なった天宮神社本殿)

事実証談 神霊部(上)第11話である。天宮神社は、著者中村乗高さんが神主をしていた森町にあるお宮である。

周智郡天宮郷、天宮御社にて、天明年中の頃、ある日七つ時頃、神主中村豊隆(乗高の父)物する事有りて、御社中に行き見れば、御社内の灯篭、数多灯(とも)し有りけるを見驚き、駈け行き、戸を開け見るに、御祭礼の夜の如く、灯篭立ち並べて、灯し有り。

怪しみて隅々まで見廻せども、人の入りし様にもあらざりければ、社家乗松衛門を聞き糺さしむれども、その由を知らず。なお氏子に告げて、とかく糺しけれども、その由を知る者なかりし故、氏子皆怪しみ、いかなる事かあらんとて、氏子残りなく参籠所に寄り集り、その夜、通夜せしかども、その後は怪しき事もなかりしと言えり。

また明和の頃、神主中村暉意、明六つ時、社参せしに、社中に物音有りしぞ事もありつと言い伝えけるが、これもその由縁を知る人なしと言えり。


今日の午後、森町の天宮神社に行ってみた。確認したいのは点灯したという灯篭のことである。境内には左右に石の灯篭が一組、木製の灯篭が一組しかなかった。改修中で足場に囲まれた拝殿を覗くと、左右一組のぼんぼりに灯火が点いていた。戻ってから読み直すと、灯篭に火の点ったのは社(やしろ)内の灯篭であったが、拝殿内には灯篭と呼ぶものは見当たらなかった。文明開化の時代とは、灯りの点し方も違うのだろうと思った。

写真を何枚か撮り、社務所の窓口に案内パンフが見えたので、一枚頂くと奥へ声を掛けた。それが切っ掛けで、出て来た若い神主さんとお話をした。

森町の蔵展で版木を見学したのが切っ掛けで、今、御先祖さんが書かれた「事実証談」を読んでいる。それで天宮神社に参拝に来た。定年後、古文書解読の勉強をしているけれど、「事実証談」は振り仮名も振ってあるから、けっこう読みやすい。内容的には崇りの話が多いけれども、昔の人には恐ろしいものが沢山あったのだと思う。今のように科学が発達していないから、解明出来ないことが多くて、神を祭った多くは、崇りを恐れてだったように思う。現代は幸せを求めて神社にお参りようになった。そんな感想を話しながら、この神主さんも「事実証談」は知っているけれども、ほとんど読んでいないのだろうと思った。

若い神主さんは、現在、本殿、拝殿を改修していて、ほとんど工事が終わり、拝殿の足場が取れる八月には完成すると話す。銅板葺きだった本殿は、銅板をはがすと元は杮葺きだったことが分かった。銅板葺きにしたのは明治時代の改修の際で、今回の改修は江戸時代の姿に戻すことを心掛けた。「事実証談」に載っている絵図なども参考にして改修した。


(取り外された、明治の千木。鰹木)

千木や鰹木などは江戸時代にはなかったので、今回取り外した。それらも銅板で包まれていて、明治の改修の折りに付けたものと思われると説明し、休憩所に案内して、展示物でさらに説明を加えた。杮(こけら)は台風で倒れた桧を使って葺いた。朝日が新しい本殿の杮葺きの屋根に当たると、白く光って美しい。
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事実証談 神霊部(上) 7~10 各地海辺、寄木大明神の社

(袋井市同笠の寄木神社)


(大野の寄木神社)


(中新田の寄木神社)

午前中に雷雨で30分ほど稲光と雷鳴、そして驟雨。午後は静大公開講座で靜岡へ出かけたが、金谷では再度雷雨に襲われたという。おかげで涼しい夜になった。

事実証談 神霊部(上)第7話から第10話までは、各地の寄木大明神の話である。

第7話
榛原郡相良湊に寄木(よりき)大明神という社有り。これは往昔(むかし)浜辺に打ち寄せし木の有りしが、やゝもすれば崇り有りし故、神と斎(いつ)き祭りしと、その村の言伝えなり。

第8話
山名郡浅羽庄同笠村というも、海辺の村にて、氏神、寄木大明神社あり。これも同例の社なり。

第9話
城東郡沖須村も、海辺にて寄木大明神の社あり。これも同例か。

第10話
また、常陸国鹿島郡磯浜村の浜辺に、長さ三、四丈ばかり、囲い八、九尺ばかりなる楠木を打ち寄せしに、その木に近寄る者には、必ず崇り有りし故、その村の氏神大荒井大明神の社に、その楠木を堀り埋ずめ、その端の出しに、覆いを造り寄木明神と祭りしといえり。これは乗高(著者)旅行せしおり、かの国のその辺なる者と、四、五日同道せしにより、委しくは聞き伝えし。安永年中の事なりとの物語なり。


地図でそれぞれの場所を調べていると、袋井市同笠に「寄木神社」の表示を見つけた。第8話に関わる神社だろうと思った。さらに地図を良く見ると、国道150号線沿いに「寄木神社」が三つも並んでいる。そこで、目標をその三つの「寄木神社」に定めて、十六日に女房と取材に出掛けた。

最初に、同笠の寄木神社、次に大野の寄木神社、最後に中新田の寄木神社の順に巡った。三つの内、中新田の寄木神社が一番立派で、由緒の案内板が出ていた。

案内板の要旨は、この神社の名称となっている「寄木」とは、海の彼方に実在すると考えられていた常世(天国・浄土)から、神仏の依代(よりしろ)として流れ着いた霊木のことである。太平洋沿岸には漂着した寄木を祀る神社が特に多く見られる。中新田の寄木神社はこの漂着伝承の代表的な事例といえる。

中新田の寄木神社に伝えられている、元禄十三年の年号が入った「縁起書」に拠ると、本来は中新田・大野・同笠の三ヶ村全体の氏神として、常世から漂着したという観世音菩薩の木像を祀り、その神名を寄木大明神と呼んでいた。この尊像は横須賀藩の役人であった牧野氏が、高潮の後、海岸で発見したといわれる。本殿内には、元禄十三年に牧野氏が寄進した巻き物も残っている。

明治に入り政府の出した神仏分離令で、全国的に廃仏毀釈の機運が広まり、これに伴って、寄木大明神は観世音菩薩の尊像を取り除き、社名も寄木神社に改められた。

つまり、中新田・大野・同笠の三つの寄木神社は根は一緒のようであった。また、かつて太平洋沿岸の各地で決行された「補陀落渡海(ふだらくとかい)」と同じ思想で、表裏をなしていると思われるが、確認したわけではない。(相良海岸にも往昔、補陀落渡海があったと聞く)
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事実証談 神霊部(上) 6 蔵王権現の白木の箱の御神体

(藤枝驛 長楽寺)

事実証談 神霊部(上)第6話である。 

周智郡天宮村、重次郎と言いし者の末子、僧となり、駿河国藤枝驛、長楽寺の住持たりしに、寛政年中、親里に来りし時、同村天宮社神主家に尋ねけるは、藤枝宿の在、ある村に、氏神蔵王権現の社有りて、これは村持ちにて有りしを、廿年ばかり、ある神職に預けて祭らしめたりしに、故有りて、寛政年中、また村方へ請け取り祭るべき事となりし故、社中なる物、悉くに改め受取るとて、内陣改めしに、木像と白木造りにて、六方釘付けにせし箱有り。

これはいかなる物か、中を改めんと、大工を呼び開かしむるに、その大工、鑿を以って打ち込むと等しく、忽ち気絶せし故、驚き呼び活けて、開き見るべき物ならじ、畏こき物なるべしと、そのまゝに納め置きしが、いかなる物にかと、その氏子密かに来たり尋ねしを、僧法になき事にてあれば、如何なる物とも計り知り難ければ、これは我ら親里に行きなば、神職によりて聞き糺し、沙汰せんと断り置きしが、神社にはかゝる物に神躰納め置き事にや、中には木像、金の像にても有る事にやと。則ち長楽寺の尋ねなりしは、実に畏(おそる)べき事になん有りける。
※ 等しく- 同時に。

蔵王権現は本居翁歌に、

   蔵王という 神は神かも 仏かも 仏に似たる 神の名あやし

   蔵王という 神はあらじを 髪長の (いつ)きぞめたる 仏神かも

※ 斎(いつ)きぞめたる - 神を祭るに似た

とある如く仏神にて有るを、御霊代の有る事は、後世、社になりたる故にや、又この社が未だ詳らかならず、その村所詳らかなれど、憚りて石室秘録に残せり。
※ 御霊代(みたましろ)- 神霊の代わりとして祭るもの。御神体。


天宮社の神職は、神社では御神体を箱に収め置くようなことはしないが、蔵王権現は仏神といわれて、神と仏の両方の属性を持っているから、秘仏に似たような扱いがされているのかもしれないと答えた。結局、中身が何であったかは確かめられなかった。

蔵王権現は、インドに起源を持たない日本独自の仏である。権現とは「権(かり)の姿で現れた神仏」の意。神仏習合の教説では安閑天皇と同一の神格とされた。本居宣長の2首の歌はそれを詠った。

本地垂迹説は、本地である仏・菩薩が世の衆生を救うために、姿をかえて現われたものが日本の神であると考える。しかし、インドに起源を持たない蔵王権現の場合は、本地と垂迹が逆転している。本地垂迹説でも、古くは逆転の考え方もあったという。
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事実証談 神霊部(上) 5 少将井社の神輿の通り道

(駿河国府、少将井社)

事実証談 神霊部(上)第5話である。

駿河国府、少将井社の祭礼は毎年六月十五日にて、神輿の御行(みゆき)有りけり。
※ 少将井社 - 靜岡市紺屋町小梳(おぐし)神社

天明八年六月十五日、例年の如く御行有りけるに、御城の堀端通り、石垣御修造なし給う頃にて、廻りに行馬を結い、前後の入口に木戸を付け、常に錠を差して、御普請中は行馬の外を除け通りければ、例の道筋には違えり。
※ 行馬(やらい、矢来)- 竹や丸太を縦横に粗く組んで作った仮の囲い。

木戸際までは例の道筋を神輿御行なり奉り、木戸際より曲り、行馬の外を除けて御行なし奉らんとするに、神輿舁(か)く者、木戸口に行くと等しく、忽ち全身すくみ、行く事さらになり難く、とかくする程に、怪しくも木戸口前後の錠、ピンと音有りて、御堀に飛び入りしと見ゆる程に、前後の木戸一同に開きたりければ、神輿舁く者のすくみしも直りし故、人皆畏みしかど、行馬内は御行なるまじとの御定めなれば、神輿は外を巡りて御行なりしが、誠に畏き事なりしと、その時御行御供に付き添い行き、見し人々の物語なりしを、殊に珍らしき事ゆえ、かの地に行きし時、なお委しく糺したりしに、その所の伝、皆同じかるを以って記しつ。


18日に県中央図書館に行くついでに、靜岡市紺屋町の小梳神社に行ってみた。駅前から呉服町通りに入ってすぐの右側に小梳神社はある。猛暑のお昼休みで、境内の池の周りの木陰には休息する外作業の人たちが何人も見られた。建物に入れば涼しいビル街も、屋外で涼がとれるところは限られている。


(霊水 少将の井)

少将井社の別名あるのは案内板によると、このあたりは古来湧水の清らかな所として知られており、昔は神社の前の流れを清水尻川と呼んだ。小梳神社は江戸時代は少将井社と称し、「本殿の下に井あり夫婦和合の霊水湧き出す」と言い伝わると記されていた。そばに「霊水、少将の井」が竹筒から出ていた。境内の井戸から組み上げた水で、健康増進の霊水として知られているようである。ちなみに「少将」とは、元からの祭神である建速須佐之男命と奇稻田姫命の内、奇稻田姫命のことだという。

小梳神社は元は駿府城の域内にあり、家康が今川義元の人質であったころ、境内で良く遊んだと伝わる。延宝三年(1675)に現在地へ移され、延宝四年六月から神輿渡御の神事が始まった。現在の例祭日は七月二十七日。今なお、隔年に大神輿が市内を巡幸する。なお例祭日のずれは、暦の新旧の違いであろう。

珍事があった天明八年(1788)は、神輿渡御が始まって112年後のことである。
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事実証談 神霊部(上) 4 洪水に乗って移って来た八幡社



(磐田市森本、産生神社)

事実証談 神霊部(上)の第4話である。

豊田郡森本村八幡社は、往昔(むかし)同郡上新居村の氏神なりしを、ある時天龍川洪水にて堤切れて、その社をも押し流せしに、かの御神躰、編笠に乗り給い、森本村に流れ着き給えるを、その村の九郎三郎と言う者見付けて、いかなる神とも知らず、仮宮を造り遷し置けるを、洪水治まりて後、上新居村にて、その由聞き伝え、乞い返し、元の宮所に迎え遷し祭りければ、その村に疫病起りて、人皆煩いける故、いかなる崇りにかと、氏神(前に言える八幡の社なり)に祈願するに、神着(かみがかり)ありて、諭し給えるは、我れ清き宮所を見たてゝ越すを、いかで帰し遷せし。早くかの地に遷し祭らば、疫病の気、鎮まりなんと有るにより、また森本村に遷し奉るに、その崇りは止みにしと言い伝えて、今も上新居村の畑中に、八幡社の古跡とて、いさゝかなる松林有り。

さて森本村はむかし天龍川の堤、年毎に切れて、田畑の作物稔らず、天正年中までは押切村と言いし事、古き書物に見え、天正また寛永の古証文にも押切村と有りて、森本と改めし事は、物にも見えず。いつの頃とも知り難けれど、かの八幡社遷せしより水難のなきを祝いて、森本村と改めつと言い伝われば、天正以後の事なるべし。然るに森本村の氏神はその往昔(むかし)より天神社あれば、今は氏神二社となりて、年毎の祭礼、別々になせり。

これ由縁(ゆえよし)、昔より言い伝えのみにて、社伝の書などはあらざりけれども、さる謂れにて、今に至るまで、家々の正月の吸物、芋と水菜のみにて、餅を用いず。(これは三元の内ばかりにて、四日の日より並々の餅吸物にて、外に変わる事なしと言えり)これは往昔水難を患(うれえ)し事を忘れざる故ならん。
※ 三元 -(年月日の始の意から)1月1日のこと。元日。

またこの村の者、笠を尻に敷く事をせざるも、(これは農人耕する処にて、休息に尻に笠敷きて休むるあればなり)氏神の編笠に乗りて流れ来たり給いし謂れとなん。されどこの二つの事を憚るも、今は移ろい変りて、さもなき家も有りと言えり。


(この後に、證しとして、「文化二年八幡社鍵取當番藤原乗友祝詞」が続く。解読は出来たけれども、祝詞(のりと)は読み方が独特で、正確に読む能力はないので省く。内要はほぼ、前述の話をなぞるものである。)

豊田郡森本村八幡社を探して、現地へ行ってみた。現在の磐田市森本、天竜川東岸の土手直下に産生神社を見つけた。森本は小さな地域で、それ以外には神社はなかった。社の中を覗くと、ミニチュアの祠が四社ほど並んでいた。八幡社も天神社も、おそらく、ここに合祀されているのだろうと思った。
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事実証談 神霊部(上) 3 鳥居造立独占を図った大工への神罰

(庭のサルスベリ)

事実証談 神霊部(上)の第3話である。笠原庄権現の社がどこなのか、現地へ行ってみたが、神社は幾つもあったが、権現社は見つからなかった。

城東郡(古えは城飼郡といえり)笠原庄権現の社に鳥居建立せしとき、神主家に出入の大工、五郎右衛門、幸八という者、両人出入にてあれば、両人相談を以って、鳥居造立すべき由、言い渡しければ、五郎右衛門言いけるは、幸八事は近き頃、穢れた処に行きし事あれば、鳥居造立に加えむ事しかるべからずと言うにより、則ち幸八を呼び寄せ糺しけるに、さる事も有りしかど、今より後、さるゆゝしき所へは行くまじと誓いて、鳥居造立せん事を願いける故、さらば、みそぎ(禊ぎ)、はらい(祓い)せよと言い渡す。

また五郎右衛門を呼び、その由、言い渡しけれども、只一人にて造立せん事を乞いけるにより、両人ともに呼び寄せ、その方ども、一人は本社造営の棟梁、一人は拝殿造営の棟梁として、以前も造立せし事なれば、今いずれを棟梁とも定め難きにより、両人心を合わせ、相棟梁たるべしと言い渡すに、棟梁を争う事止まざりけるにより、然らば両人の嫡子を以って相棟梁として、親々は手伝いたるべしと定めたり。
※ 嫡子(ちゃくし)-家督を継ぐ者。普通は長男。また、一般的にその家を継ぐ人。

然るに、この社は境内広く、かの鳥居造立の場所は、人家に隔たりし故、そこに小屋を造りて、享和二年九月上旬、手斧始めせしより、二日ばかり過ぎし頃、五郎右衛門気分常ならざりしを、強いて、また二日ばかり有りしが、堪えずして宿に帰るとて、はかばかしくもあらぬ。
※ 手斧始め(ちょうなはじめ)- 大工が新たな建築にとりかかったはじめの日に行なう儀式。

近道をたどり帰るに、烏帽子、狩衣を着、馬上にて口取り一人附き随い来る異人に行き逢えり。五郎右衛門、心の中に、かゝる細道を馬上にて行き通う事は、と見怪しみて、道の傍に寄り居て、いかなる御方なれば、かゝる所をば越し給うや、と口取る者に問いしを、何とか答えしかど、その言聞き分けがたく、何となく恐ろしく仰ぎ見る事もせずして、蹲踞(うづくまり)て在りし程に、その姿も失(うせ)にければ、いとゞ怪しみ急ぎ家に帰り、しかじかの事を物語せしとなん。

さて後、五郎右衛門、弥増(いやまし)に悩み、重病となりて、翌年の春の頃、漸(ようよう)全快せりと言えり。これは穢(けがれ)ありし幸八はその障りなくて、五郎右衛門にかゝる事有りしは、いかなる由縁にや、計り難くなん有ける。
重年言う。幸八は穢れたる処に行きしかど、古えの例を守り、神主の教えに随いて、みそぎ、はらいせり。五郎右衛門はそのみそぎ、はらいをうべなわず、幸八を除き、一人棟梁たらんとせし故、かゝる事も有りしならんか。)
※ 重年 - 鈴木重年、「事実證談」の校正者、括弧内は重年の解釈であろう。
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事実証談 神霊部(上) 2 大蛇と原明神の由来(後)

(原殿神廟)

「事実証談」の「大蛇と原明神の由来」の後半で、証しの部分である。

寺田家の伝に、原出羽守殿古城跡と言い伝えて、居屋敷の内に石碑あり。法号は慶増宗珎大禅定門と有るよし。

落去の後、孫七と言いし者居住して、村長役勤めたりしに、出火して諸帳焼失退去せしより後、八郎右衛門という者居屋敷として村長勤しかども、障り有りて居住なり難く、寛文十三丑年三月、隣村なる幡鎌村瀬兵衛という者へ譲り退去す。
※ 落去(らくきょ)- 陣などが攻め落とされて去る。逃げ去る。

則ち瀬兵衛居屋敷として村長勤めたりしに、これも居住なり難くて、隣村戸綿村仁兵衛という者に譲り退去す。

また仁兵衛居屋敷として村長勤めたりしかども、住居なり難く、延宝九酉年四月廿三日、隣村本郷村山崎半兵衛頼長の二男、山崎市三郎頼貞に譲り退去す。

頼貞十五歳にて、延宝九酉年(天和元年なり)山崎藤左衛門と改名して、村長勤めたり。これにも種々の障り有りし由。されども退く事なく居住して、享保十一午年領主へ願い、在名寺田藤蔵と改(あらため)しより連綿たり。大蛇出でし事の年月言い伝えなし。

その伝、甚兵衛物語とはいさゝか違えり。その外、種々奇霊(くしび)なる事も有りし由。この家の大蛇の伝は、ある時座敷へ行き見れば、床柱の上、長押(なげし)に頭の方、三尺余り、畳の上に尾の方、四、五尺余り引きて、紅の舌を出して有るを見て、大いに驚き為便を知らず。
※ 為便(せんすべ)を知らず - どうしてよいか、分からない。

こゝに甚兵衛という者、大力の誉れあれば、甚兵衛を雇いて引き出さしめんとて、人をして告げ知らせたりければ、甚兵衛駈け来たり。近寄り見て、怪しみつゝも、その大蛇の胴中へ抱き付き、引き出せしに、その時座敷震動せしとかや。甚兵衛心に、これは正しく原殿の霊ならんと思いて、石碑のもとへ引き行き、放ちて帰りければ、忽ちに姿も見えず消え失せしとなん。

余りに怪しき事にて有りければ、その由領主へ願い出、原出羽守の霊を原明神と鎮め祭りたき由、願いにより御糺し有りて後、領主の御下知を以って、元禄七戌年正月、西山村大工丈右衛門を以って、居屋敷の裏山に社を造立し、一の宮神主を頼みて、正月廿八日勧請せしとぞ。(大蛇出でし年月、言い伝えなしといえども、神と祭りし頃にて有りければ、則ち元禄年中の事なるべし)

また高弐拾七石七斗余、諸役引きにて、村中惣百姓務むる由、御免許は領主御代々頂戴すと、則ち寺田藤十政休(まさやす)の伝なり。

かく居住なり難き屋敷にて有りしを、原殿の霊を神と祭りしより、障りなく連綿たる由を以って、原殿の神霊なりし事、疑いなし。これを以って、物の祟りを鎮め祭るべき事を思い合わすべし。


さて、7月12日、早速現地へ出掛けてみた。現在は掛川市寺島という住所になっている。地図に「原殿神廟」の表示があって、道路から少し登ったところに祠があった。祠の両側に石柱が立ち、右側に「原殿神廟前」、左側に「原権守出羽守師清公墳」と刻まれていた。

案内板によると、原師清公は遠江発祥、原氏の祖で、承徳二年(1098)年に没した。子孫は嫡流のほか、相良、橋爪、久野、孕石、寺田、弓桁、中、小澤の諸家に分かれた。徳川勢に攻められ、子孫は安芸へ退転して、館跡は荒廃した。

屋敷にあった師清公の墓石は明神山の頂上に埋めて原明神として祀られていたが、明治十四年頃、現在地(元の師清公屋敷跡)に遷座、後に寺島八幡神社に合祀された。原殿神廟の祠の下には今も師清公の石塔が埋められているという。
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