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「駿河安蘇備 上」を読む 106

庭のビオラ満開

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

青龍山長楽寺 同所 禅臨濟宗
寺記 仁安年中、粉河長楽斉といふあり。妻伊勢国神戸、何某
の女(むすめ)にて、家豊かにて粉川長者という。夫婦とも仏に仕え、
娘壱人あり。力姫とて美麗なり。長楽斉、岡田山に薬師を安
置して仕えければ、力姫も朝々詣(まい)りけり。この里の東に大池あり。
大蛇住みけるが、美しき少年になりて、力姫を迷わして、池の中
に引き入れたり。父母哀しみ、娘が仇を報わんと、石を焼き、銅鉄を鑠(と)
して、池の中へ投げ入れければ、池水、湯となりて、大蛇終に死せし
とかや。力姫が冥福を願いて、住めける家を仏寺として、長楽寺
と名付け、薬師仏を本尊とす。その後、大覚禅師鎌倉下向
の時、請して開山とす。一つの古今錦襴(きんらん)の裁(きれ)を蔵す。伝えて、
※ 錦襴(きんらん)➜ 錦のつづれ織り。
唐の玄宗皇帝の御(ほう)の切れという。古代のものなり。
※ 袍(ほう)➜ 束帯の上着。うえのきぬ。
八楠(やぐす) 風土記 箭葛(やくず)、云々。
※ 箭葛(やくず)➜ 野葛。くずのこと。

読書:「牛の活きづくり 潜入味見方同心 5」 風野真知雄 著
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「駿河安蘇備 上」を読む 105

庭のスイセン

お昼、掛川の孫三人に、巻きずしを作って振舞う約束を、朝電話で起こされ、今日行うことになった。早速、マグロの刺身など、材料をマーケットで買ってきて、孫たちが来る前に、11個、作った。

作ったのは、先日テレビで見た、簡単巻き寿司である。サランラップ敷いて、手巻き寿司用の海苔(通常の海苔の半分)を置き、その上に普通のご飯を薄く広げ、食用刷毛で寿司酢をしっかりと塗り付ける。具を載せて、サランラップさら、巻いたら完成である。(実に簡単) 今日の具は、マグロ刺身、卵焼き、カンピョウ(調理済みのものが売られている)、カニカマ、キュウリ、椎茸である。孫たちに教えたら、三人とも勝手に好きなものを巻いて作っていた。

裏の畑に生えているタラの芽を孫たちに教え、収穫して天ぷらにして食べさせたら、結構おいしいと、ぱくぱく食べた。ほんの短い季節の春の味だが、ほしいと云うので株分けしようと思う。

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「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

田中城 同所 本多豊前候、代々守城せらるゝ所なり。
古えは一色と称ず。一色左衛門信茂といえるもの居住なり。永禄
年間には、今川氏の臣、長谷川次郎左衛門正長、ここに籠る。
甲陽軍鑑 永禄十三年正月、武田当国に乱入したる条に、藤枝
徳一色明けて退く。これは堅固の城なりとて、馬場美濃守に
馬出しをとらせ、田中城と名付く、云々。
その後、天正のころ、甲州方、ここに籠る。天正八年
五月三日、遠州浜松より攻めらる。依田強く防ぎぬれば、雌雄
決せず。同九年二月二十日、また攻められければ、依田力尽きて甲州のに
走る。慶長六年、酒井備後候領され、同十五年より御番城と
なる。その後、追々諸侯在城あって、当城主守衛せらる。
※ 守衛(しゅえい)➜ 守ること。見張ること。警固。
一 前嶋 同所 古えの驛舎なり。
(つづく)
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「駿河安蘇備 上」を読む 104


庭のクリスマスローズ、花盛り

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

一 偽(い)の橋 藤枝西にあり。逆川という小河に掛けれり。
古老伝に何某という人、もと貴き人の子なり。漂零
(おちぶれ)てこの里に
住みけり。老たる母に仕えて孝あれども、貧にして母の
紡績
(ほうせき)、我身の禄穡(ろくしょく)などにて、足るべくもあらず。外に出でて、月を
※ 紡績(ほうせき)➜ 糸をつむぐこと。
※ 禄穡(ろくしょく)➜ 扶持と農業。

(ゆ)して帰らざりける。然るに、母俄かに病いに臥して身まかりぬ。
※ 踰す(ゆす)➜ こえる。すぎる。
さて、漸く少しの財を得て、家に帰りて見れば、有りしさまなり。
哀しみ、母の追福にもと、かの財を匠
(たくみ)に与えて、この橋を作り
※ 追福(ついふく)➜ 死者の冥福をいのること。また、そのために行なう仏事。追善。
ける。夜に橋柱に虫食(むしば)みたるように、一首の歌現われぬ。
  生きてだに 掛けて頼まぬ 露の身を 死にての後は 偽
(いつわり)の橋
いよ/\哀しみに堪えず、程なく何某も身まかりぬとぞ。
「珠流河草」に見えたり。
一 平嶋 同所 当所青嶋五郎兵衛に与えたる武田家の古文書、永禄
十二年正月、信玄の花押あり。
一 越後嶋 同所 当村畑の中、殿屋鋪と字する所に五輪塔一基
あり。昔、山田越後守の住たる所にて、古墳あり。

(つづく)

読書:「凶眼 徒目付 久岡勘兵衛」 鈴木英治 著
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「駿河安蘇備 上」を読む 103

裏の畑のタラの芽、次々に出る
すでに2度、天ぷらにして頂いた

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

【上欄外の記事】
小柳津村 政事録 慶長十九年甲寅、四月十三日未の刻、鮭二篋(はこ)
彦坂久兵衛これを献ず。柳津村、当年初めてこれを釣る、云々。

藤枝驛 官道 風土記 大宝二年壬寅、更に新驛と為す、云々。
家集  春を待つ 歎きは誰も 有るものを
      同じ枯葉の 藤枝の里
        参議雅経
当所医、小川玄菴、その祖、孫三は伊賀越えの御時、伊勢の白子より
御船にて帰らせ給う供奉なり。御入国の時、この地を給う。新白子町
※ 供奉(ぐぶ)➜ おともの行列に加わること。またその人。
という。地子諸役免除なり。里民小川某もその子孫にて、古文書蔵す。
駅長鷲津次郎左衛門は今川家臣の末なり。

楞巌(りょうごん)山鬼岩(きがん)  鬼岩村   曹洞宗
行基菩薩、天平勝宝年中の開山という。
不二見平 同村うしろ山なり。伝云う、永享四年、将軍義教
(よしのり)公、不二御覧
のため、御下向の時、今川範政、この所に亭を構えて饗応ありしとなり。
(つづく)

読書:「書楼弔堂 待宵」 京極夏彦 著
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「駿河安蘇備 上」を読む 102

裏の畑のあだばえカラシナ花盛り

夜、茶まつりの打ち合わせ。大した役ではなかった。

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「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

焼津湊、また城の越 繁昌の船付にして、商家また漁人多し。
※ 船付(ふなつき)➜ 船をつけてとめる場所。船着場。船着波止場。
※ 漁人(ぎょじん)➜ 漁師。
府内に出る鮮魚半ばはここより出る。松魚(かつお)節、諸国へ出る。
瀬戸川、朝比奈川、その外の小流れ、中村の上にて落ち合い、一つとなりて、
浜当目にて花沢川合流して、城の越西北を流れて海に入る。
焼津の社 同所 式内の一社なり。
同記 焼津の神社 瑞歯別(みつはわけ)の天皇(反正天皇)四年己酉、市杵嶋比咩(いちきしまひめ)を祭る所なり。
神貢三十束、三畝三毛田、云々。
日本紀 景行天皇四十年冬十月、日本武尊、初めて駿河に至る。その處、賊
陽(いつわって)これに従い、欺いて曰う、この野なり。麋鹿(おおしか)甚だ多く、気(いき)、朝霧の如く、足は茂林の如し。臨而(いきまして)(かりたまえ)
日本武尊、その言を信じて野中に入りて、獣を覓(もと)むる。賊、王を殺すの情有り。(王は、日本武尊を謂うなり)
火を放ちてその野を焼き、王欺かれるを知り、則ち燧(ひうち)を以って火を出し、これに向い焼きて、免るゝを得たり。
(一に云う、王佩する所、雲を、自らこれを抽(ひきだ)し、王の傍らの草を薙ぎ攘(はら)い、これに因り、免るゝを得。故にその劔を号(なづ)く。草薙と曰うなり。叢雲これを茂羅玖毛(むらくも)と云う)
王曰く、殆んど欺かれ、則ち悉くその賊衆(あたひと)を焚きて、
これを滅す故に、その処を号して、焼津と曰う、云々。
万葉 焼津邉 吾去鹿歯 駿河奈流 阿倍乃市道尓 相之児等羽裳
(解読)焼津辺に 吾が行きしかば 駿河なる
      阿倍の市道に 逢ひし子らはも
(つづく)
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「駿河安蘇備 上」を読む 101

裏の畑のグミのの花満開
しかし、まだグミが生ったのは僅かに1個だけ
なぜだろう

午後、掛川の孫たち来たる。あっくんが今度中学に上がるため、お祝いを渡す。中学でも野球をやるいう。

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「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

高草山 有度・益頭・志太三郡に跨りたり。日本坂、小坂は東西
なり。花沢山、小浜山、坂本山など、この山の小地名なり。
   〇春もやゝ 深くなりけり 高草の
      山の緑に 雨の降れゝば        可安
花沢川 高草山より出、花沢、吉津、野秋、小浜の村々を経て、浜当目、
焼津湊に落ちる。
風土記 物部川云々、この川なるべし。
(つづく)
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「駿河安蘇備 上」を読む 100

金谷会館から下の公園の満開に近いソメイヨシノ
やはりソメイヨシノは品があってよい

午後、金谷会館での「駿遠の考古学と歴史」講座に出席した。
夜、急死された御近所のAさんの通夜に夫婦で出向く。

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「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

岡当目 古くは遠目と書くけるはこの村なり。
浜当目 風土記 那閇崎
(なへざき)、松竹梅、桃、橘柚、柑子等を貢ず。
また、諸鮮山海、美味を出す、云々。 見えたる(那閇崎)は当村の古名なり。
伝云う。こは東海中に築き出たる洲先曲がりて、鍋弦のごとく、今云う
観音岩沖に見えたるが、洲先の内なりしとぞ。
虚空蔵社 同所にあり。   真言宗 源海山玉泉寺
当寺は弘法大師草創なり。虚空蔵の像は聖徳太子の作なり。
那閇の神社 同所にあり。 式内の一社なり。
同記
(風土記) 那閇の神社、男大迹の天皇(継体天皇)三年己丑四月、事代主の神を祭れる所なり、云々。
また同記に願成寺とあり。いま香集寺などの寺ならんと
云う。永禄・天正の軍記に見えたる古戦場はこの当目なり。
中村 当村の住、川守藤兵衛というもの、天正年間、当国御陣のとき、
瀬戸川、安倍川の導きたり。この者、大力にて御馬にて渡らせ給うに、
戸板をもって川水を防ぎ、御馬に添いて渉りしとかや。因って川守の
氏を賜り、その外、賜りもの多く、子孫、今存ず。

(つづく)

読書:「審議官 隠蔽捜査9.5」 今野敏 著
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「駿河安蘇備 上」を読む 99

補修成った掛川城(先週木曜日)

静岡の、駿河古文書会に出席した。今年度最後の例会である。

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「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

大井大明神社 郡村にあり。      神主  大楠若狭
祭神 園象女命  当社は古え、徳一色、今の田中城中にあり。
大楠神社とも云いしとなり。慶長六年、今の所に遷す。
社伝 昔、当社に大なる楠あり。南海より見ゆ。東西往来の船、
海上の目当とす。然るに、天正年中、中村式部少輔、当国主たり
し時、この木を伐りて船に造らむと計る故に、神主これを憂えて、
駿府に出て、愁訴すること七度、然れども、終に木を伐り、清水湊
にて大船を新造す。諸荷を積みて出帆するに、海中にてこの
船破れて、海底に沈むとかや。神主初め佐野氏たりしが、
憂えて大楠と改めけるとなり。
当社に為朝の箭根あり。田中の臣、柴山玄貞奉納とあり。
※ 箭根(やのね)➜ 矢の根。矢柄(やがら)の先端にあり射当てたとき敵を突き刺すように作った部分。 鏃(やじり)。
鎧塚 同所一本松にあり。田中城合戦の時、討死せしものを埋むという。
一色屋鋪跡 同村にあり。伝云う、一色左衛門尉居址、今は城主の別荘
※ 居址(きょし)➜ 住居跡。
の地となりしなり。
(つづく)

読書:「成敗 鬼役 七」 坂岡真 著
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「駿河安蘇備 上」を読む 98

庭のレッドキャンピオン

畑のタラの芽を摘んで、夕食に天ぷらにして食べた。今年初めてのタラの芽。しばらくは楽しめそうだ。

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「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。 

益頭郡
 益頭村 益頭庄 風土記 益頭 小府 横穀、靍鸛、鮮
※ 靍鸛(かんじゃく)➜ こうのとり。
魚、橘柚などを貢ず、云々。
※ 橘柚(きつゆう)➜ たちばなと、ゆず。 みかん類の総称。
続日本紀 益頭郡、金刺舎人麿、自ら献ず蚕産より成る字、「天下
太平」四字有り、云々。
東鑑 文治三年、円勝寺領、駿河国益頭庄の事。非役管領内ゆえ、
信業朝臣、年来知行する所なり、云々。
また承元三年十一月八日、鶴岡神宮寺、常燈を奉るよし、仰せ
下さる。駿河国益頭庄の貢をもって、かの灯油とす、云々。
川関大明神社 同村 式内の社 飽波(あくなみ)神社、これなりという。
祭神 瀬織津姫なりとぞ。
風土記 飽波神社大鷦鷯の天皇(仁徳天皇)六年戊寅十月、少彦名の神を祭る所
なり、云々。
(つづく)
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「駿河安蘇備 上」を読む 97

裏の畑のスイセン

午前中、定例のS医院へ女房と行く。
WBC決勝で日本がアメリカに3:2で勝利、優勝した。テレビが一日その話題であふれた。

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「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。 

一 藁山 湯嶋と日向の間、西の方より登れば、熊㑨川の上にあり。
昔は家二十軒ほどありしが、漸く退散して、天明年中は六、七軒と
なれり。名主九郎左衛門の屋鋪に竹の林ありし。廻り一尺二寸ばかり
の、相生の竹、生いたりしこと有りしとぞ。
※ 相生(あいおい)➜ 一つの根元から二つ幹が分かれて伸びること。
風土記 藁科山並び郷、松竹梅、薯蕷(とろろ)、豆、綿、紅、角豆などを貢ず。
科川、滋輪津河より出で、海に落つ。鮮魚、怪石などを出づ。国造、鵜師の
貢を取る、云々。  藁科川の源、一つは大間より出で、一つは黒股を出て、
滋輪川という名、いまだ伝わらず。今のシヤツカという小地名あり。この
川の名、シヤツ川とよむべきにや、訓似たり。しかれば、黒俣川の古名と
すべし。鮮魚、怪石、今も出ること同じ。鵜師の貢のこと、富沢村なる
鵜飼運上は、この事の遺れるなるべし。
古城跡 同所。日向村の堺にあり。藁科氏の居所なるや。
道光 村家、追々退散して、今只一家、瀧右衛門、小長谷氏と
いう。この人、よしある家筋にて、小長谷長門守一族なりとかや。いま
古弓、壱寸二分一張を蔵す。実(まこと)に古製なるものなり。
(安倍郡の項、終り)

読書:「謁見 交代寄合伊那衆異聞 12」 佐伯泰英 著
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