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株主総会の後で

(自宅前の過酷な環境に頑張る千日紅)

夕方、株主総会を終えて、役員で食事をするというので、車に乗った。

車中での話に、長い間経理畑で仕事をやってきて、何事もない株主総会であるが、終るとようやく年度が終ったとほっとしたものだと話した。現業の人たちは、年度が終れば、次の日から新しい年度が始まり、それぞれの部門で新年度の目標に向かってスタートを切っていて、2ヶ月も経てば昨年度のことはすっかり忘れているけれども、経理部門は今日までずっと引きずって来たのである。

料理屋で隣りになったK氏は、最近退院してきたばかり。自覚症状は無かったが、医者に脅かされて、減塩につとめている。ずっと営業部門の一線にいて、身体を厭うことも無く突っ走って来たが、突然に石に蹴躓いたようなものである。若い仲居さんに減塩の醤油は無いかと聞いている。塩分が半分の醤油があるのだそうだ。板場に聞いてみると言って、しばらくして、減塩の醤油は無かったので作ってきたと、醤油差しを持ってきた。その醤油を隣りからのぞくと色が薄い。K氏は納得したようであった。興味があったので、どのようにして作ったのか聞いてみると、だし汁で割って薄めたという。最近の料理人は美味しい料理を作るだけではなくて、こういう機転も重要になっているのだろうと思った。

仕事を終えて以降、昼間から街を出歩くことが多くなり、会社のOBによく会うという話をした。いつ見ても元気な人、がっくり年を取ってしまった人、などさまざまであるが、概して会社でバリバリ仕事をし、無茶をしたような人は、早く年を取り、この世とのおさらばも早いという話になった。悠々とマイペースで仕事をし、何事もスローペースだった人は、いつまでも元気である。神様は平等だよねぇ。人生の帳尻はきっちり合わせてくれる。こういうのを「天網恢々‥‥」というのだろう。ちょっと違うか。

乾杯のあと、今流行りのノンアルコールビールを頼んだ。アルコールはいらないから、ウーロン茶よりもそれの方が良いだろうと頼んだのだが、わざわざそれだけ土焼きのコップに入れて持ってきた。それは違うだろう。ノンアルコールビールを頼むのは、下戸だけれど、皆んなと違和感がないように同じに見えるから頼んだので、見えなければ、ノンアルコールビールがウーロン茶でもトマトジュースでも同じことである。器を変えるのは間違えないためのマニュアルかもしれないが、ノンアルコールビールを頼む人の気持を、いま一つ理解していない。ノンアルコールビールはまだまだこれからの飲み物なのだろう。頼む方も頼まれる方も、マナーが確立して来るのはもう少し掛かるのかも知れない。
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中国企業は財務とマーケッティングでもつ

(大代川の土手にタカサゴユリが繁茂している)

中国の企業で最も力を持っている部門は財務部門とマーケッティング部門だという。市場調査をしてマーケットが何を求めているかを把握する部門がマーケッティング部門である。企業はどこにマーケットがあるかを知り、金を集めてその事業に投入できれば、どんな事業でも成功間違いなしという考え方である。

販売のために長い時間を掛けて信用を得るとか、必要なものを試行錯誤を重ねて開発するとか、物づくりのノウハウを積み重ねて、日々改善し、どこにも負けない生産性を確立するなど、日本企業が戦後営々と続けてきた企業の最重要課題と思っていたことは、中国の企業人に言わせれば、すべて金で買って来ればよい問題である。

悔しいけれども、中国の企業はその考え方で急速に力を伸ばしてきた。彼らには安い賃金で雇える人民が無尽蔵にいる。そういう労働者がそのまま消費者になって、膨大な市場になる。そこに商品を流せば、少なくとも日本よりも人口比にして10倍以上の消費者がいるから、右肩上がりにどこまでも成長出来て、中国企業には莫大なお金が集まってくる。50年、100年掛かって培ってきた、日本の企業ごと丸ごと飲み込んでしまうほどのお金である。

中国の台頭を見るとき、何かフェアではないという感じを持つ。それは何なのだろう。よく考えてみると、自由主義国家間で行われている自由貿易の中に、社会主義国家である中国が加わって、自由貿易のいいとこ取りをしているのではないかという違和感である。自由貿易に加わりたいなら社会主義国家から自由主義国家に変わるべきだとおもう。GDPが世界第2位に躍り出ようとする国が、為替の自由化をかたくなに拒んでいて、安い商品を雪崩のように輸出している。戦後日本は経済復興した頃から、為替の自由化を迫られ、円は4倍以上に上がった。円が上がる度に、日本の企業は血の滲む思いをして、それに対応してきた。報道の自由、結社の自由‥‥、自由主義社会が持っているあらゆる自由が社会主義国家の中国ではことごとく制限されている。そういう国と同じ土俵で戦っていて勝てるわけがない。

40年前、入社するとき、営業企画の仕事といわれ、自分ではマーケッティングのような仕事が出来ると思って入社した。ところが一貫して所属したのは、経理、財務といった部門であった。中国では企業の一方の柱である、財務に絡んでいたが、会社に大きな資金需要もなく、財務が表に立って活躍する場面はほとんどなかった。もう一方のマーケッティングの仕事は会社では最後まで存在しなかった。限られた客との密着度が高く、その中での仕事であったため、そんな部門は必要とされていなかった。しかし、今から考えてみると、マーケッティングの仕事は重要なものであったと思う。今、思い返して、楽な仕事に流されて、自ら望んでもチャレンジしなかったことが、会社人生の中で思いの残る点である。
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茶価は正当に決められているか その2

(庭のムスカリ)

お茶とみかんの何が違うのか。そんな疑問符に終って二週間近く経った。続きはすぐに書くつもりでいたが、理論展開に少し揺らぎがあって、この二週間にこの問題について何人かの人と話してみた。自分の意見をぶっつけてみると、少し乱暴な展開をしていることにも気付いた。自分の考えも少し進化させて、改めて、疑問符を投げかけるところから話を始める。

お茶とみかんの何が違うのか。

最も大きな違いはお茶は一次加工をした荒茶の段階まで進めて置くと、保存が長期に出来る点である。ミカンであれば冷凍をして何ヶ月か保存は出来ても、保存の後に販売するのは “冷凍ミカン” であって、生のミカンはそれほど保存はきかない。一方、お茶は窒素を封入して低温で冷蔵すれば、1年経っても2年経っても品質はほとんど変らないと言われている。そこまで冷蔵保存技術が確立している。

だから、在庫に残っても、問屋側は安売りして処分する必要は全くない。新茶の時期に、生産者は問屋筋の在庫量を大変気にしている。お茶は決して産地間で競争しているわけではなく、自分たちが昨年以前に販売したお茶と販売競争を強いられている。昨年、安く取引したお茶が残っていると、問屋はその価格より高いお茶は中々買わない。行き場のないお茶は値を下げることで何とか販売しようとする。問屋は値が下がるのを待って買えばよいわけで、そのお茶が次年度に在庫になっても何も問題ないから、安くなれば需要の増減に関わらず取引が成立する。そのようなメカニズムでお茶の値は年々下がってきた。

1年で売り切らねばならないならば、需要が下がれば、問屋は決して余分に買うことは無く、売れなくなるお茶が出ることになっても、安い茶価が翌年以降の茶価に影響することにはならない。また売れなくなるお茶が出ることで、自然にお茶の生産は翌年以降調整される。

しかし安くなっても売れている以上は翌年に生産が調整されることはない。それどころか、茶価が安くなっても昨年の売上げを確保したいと思う生産者は増産して対応しようとさえしている。売上げは茶価×生産量で計算できるから、その一点で考えれば計算間違いではないが、増産した結果は翌年の茶価を下げる方向に確実に響いてくる。このような悪循環が茶業界で起きていて、茶価は年々下落して行く。お茶が安売りされることはないから、問屋側が一方的に利益を得る結果となる。

お茶の需要が下がって、問屋の売上も確実に下がっているが、利益は着実に上がっているから、問屋筋にほとんど危機感がない。生産者が需要拡大のために、生産者が問屋筋の消費者への働きかけをどれだけ期待しても、利益が着実に上がっている以上、問屋筋が本腰になることは期待できない。

いつからこんな状態になってしまったのだろう。続きは次回。
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茶価は正当に決められているか その1

(吹雪にスプリンクラー作動-南九州市頴娃町)

今夜、鹿児島から新幹線で帰ってきた。鹿児島県の茶業も霜害、火山灰など心配なことが多いが、否応無く今年も一番茶が着実にやってくる。残念ながら霜害、火山灰ともに危険を負担しているのは一方的に茶の生産者側であって、本当に心配しているのは茶農家である。買い手側の茶問屋は霜害を受けた茶葉、火山灰が混入した荒茶は買わなければ良いだけであって、何も支障はない。

そんなことはない。生産がダメージを受ければ供給量が減り、茶価が上がって茶問屋もダメージを受ける。確かに、茶価が正当に決められておれば、その通りの事態になり、霜害は売り手、買い手双方に痛み分で、危険負担をしていることになる。ところが、茶価が需給関係でのみで決まっていないとすれば、危険を負担は生産者側だけが負うことになる。茶価が正当に決められていないことを薄々感じていても、誰も発言する人はいない。その結果、茶農家の収入は年々減り、多くの農家が採算割れを起している。

近年、茶農家に押し付けられた課題を並べてみると、環境を汚染するという理由で肥料が制限され、年々反当りの収量が減収になってきた。それほど活用されているとは思えない、生産履歴の資料の作成が強いられて大きな工数が掛かるようになった。異物の混入が大変シビアになり、除去装置の設置など余分な設備が必要になった。燃料が年々高くなった。製造工程の衛生管理が大変うるさくなってきた、など数々ある。

一つ一つを聞いてみると、それぞれ最もな話で、生産者側はお金を掛けて一つ一つ対応してきた。その費用負担はすべて生産者側が一方的に負ってきた。しかし、対応した結果を認めて、茶価に上乗せされたという話は聞いたことがない。それどころか、年々茶価は下がり続けている。

茶価が正当に決められていないと、自分は考える。その理由を今日は一つだけ挙げてみよう。例えばみかんの例を挙げてみよう。かつて市場で大暴落して、みかん農家が苦境を迎えたときがある。供給が需要を少しでも上回ると価格は大きく下がり、生産者は大変な状況になる。これは市場のメカニズムだから仕方がない。しかし価格が下がれば消費者へも安い値段で提供される。その結果、消費者はみかんを多く買うようになり、消費も増える。需要が増せば市場価格も価格を戻し、みかん農家も潤うことになる。

茶価の場合はどうであろうか。需要が減って茶価が下がっても、店頭に並ぶお茶が安くなったという例に当ったことがない。茶価がこれだけ下がっていることを消費者はほとんど知らない。少なくともスーパーでそんな表示がされたことは一度もないはずである。値段が安くなったからお茶を買おうという消費者はいないから、低迷した需要は低迷したままである。需要が低迷して在庫が残るならば、普通なら茶問屋は大安売りをして在庫を捌こうとするはずである。しかし、そんな状況に出会う消費者はいない。

お茶とみかんの何が違うのか。続きは次回にする。
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農業の補助金について考える その4

(9人分のスパゲティ)

昨夜から我が家の人口は9人。お昼は恒例のスパゲッティを9人分作った。大人は7人だが、若い胃袋には多すぎることはない。ミートソース、カルボナーラ、タラコの三色を作った。三等分して和えるだけだが、スパゲティのゆで方で美味くも不味くもなる。塩加減とゆで上りにキャベツを投入するのが我が家の特徴である。デザートに自家製冷凍甘夏をベースにバナナ、牛乳、その他を入れた特製ジュースを作った。子供たちから女房の一日早い誕生日のケーキが出されるサプライズもあって、賑やかな昼食となった。午後には潮が引くように二タ家族6人がそれぞれの家へ帰って行き、我が家は静けさを取り戻した。

    *    *    *    *    *    *    *

(昨日の続き)
国の農業に対する補助金が真の農業振興に役立ち、将来的に税収の増につながって、納税者の納得も得られるためには、制度を少し変えるだけで良いと思う。その方法はすでに述べてきたことだが、設備の補助金分の圧縮記帳を止めて、両建てにすることである。圧縮記帳をしてしまうと、補助金をもらう場合と自己資金で設備する場合の会計の内容が全く違って、補助金を出すことで誤った経営に導いてしまう。両建てにすれば、資金調達の方法が違うだけで、経営への悪影響は無くなる。

補助金を国からの無利子の借入のように扱うわけであるが、それでは返済をどうするのか。税収増で穴埋めるという考え方からすれば、製茶共同組合にしっかり利益を上げてもらい、納める税金で穴埋めることである。収めた税額に見合った額だけ借入から資本に組み入れていく仕組みを作れば、製茶共同組合の力が年々付いて、継続発展が可能になる。

補助金をもらって、経営が甘くても何とかなっていくようでは、本物の企業になれない。補助金を貰っても貰わなくても、経営はシビアに行わなければ企業は成り立たない。設備投資も本当に必要なものだけを設置し、設備の利用料は設備の本来の償却費を含めた総経費に見合う利用料にしなければ、補助金を貰わない製茶工場と対等な競争にならない。一見競争に有利に見えるけれども、補助金は一時のことで、毎年もらい続けるものではなく、補助金体質に慣れてしまうと、補助金が切れれば、即刻、競争には負けてしまう。

今もって、制度が変らないのは、両建てにすれば償却費が増えてしまい、製茶共同組合で利益が出る状況になかなかなってこない。圧縮すれば利益が出しやすくなり、補助金の税収増による回収がやりやすくなるといった思惑があるのかもしれない。しかし、償却費が少なければ設備の利用料を下げて、利益を圧縮する方へ調整されるから、決して税収増には繋がらない。

補助金拠出の目的は十分理解できるが、補助金が企業経営を甘くする方へ働いては、決して補助を受ける企業のためにならないと考える。
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農業の補助金について考える その3

(庭のスイセン黄色の花)

(昨日の続き)
昨日述べた例は極端な例で、実際にはもっと複雑な会計が行われるから、こんな単純な例はないけれども、それに似た会計方法が行われていることは確かである。補助金による施設購入の際の圧縮記帳は、それ以外の会計方法は法律を変えなければ出来ないだろうから、A製茶共同組合の処理はやむをえないと言える。それでは現行法制上で、どうすれば設備の更新が問題なく出来て、工場の継続が可能になるのか。

方法としては、A製茶共同組合も補助金を貰っていないB製茶共同組合と同じ緑茶加工施設の利用料を取ることである。そうすればA製茶共同組合には利益が残る。利益には当然税金は払わねばならないけれども、税金を払った残りが組合内部に留保されて、それを溜めて置くことで10年後の設備の更新が可能になるのである。

税金を納めることを罪悪のように考えている経営者が多いが、実は企業の実力は税金を納めることで付いていくのである。どんな大企業であっても税金を納めない企業は基盤が大変脆弱で、いったんことが起きるとたちまち経営が傾いてしまう。脱税をやってバレなければ、払わなかった税金分は企業に力が付くと考えている経営者はまさかいないと思うが、脱税したお金は決して表に出して使えるお金にはならず、せいぜい政治家への裏献金ぐらいにしか使えないことを心して置くべきである。

製茶共同組合の場合、施設の共同利用のための組織に過ぎないから利益を出す必要がないと考えている向きが多い。しかし補助金を貰って緑茶加工施設を造っても利益を出さなければ、継続が出来なくなるということは昨日述べた通りである。継続できなければ施設の共同利用の目的も達しえない。

当然、緑茶加工施設の利用料が高くなれば、利用する人は困ることになる。製茶共同組合は設備の計画をするときに十分に吟味して、無駄と思われる設備を少しでも入れればそれだけ利用料に響くと考えるべきである。補助金を貰い自分たちが資金を出さなくて良いからと、不要な設備、贅沢な設備を購入することがあってはならない。さらに投資した以上はその稼働率をどれだけ高めるかによって利用料にもろに響いてくる。製茶共同組合の経営が真剣になされなければ、継続できないことになる点では、一般企業と何ら変わりがない。

その辺りを理解している製茶共同組合は年々着実に利益を上げて蓄積をし、設備の更新を独力で行っているところも多いと思う。補助金が生きたお金になるというのは、こういうケースのことである。しかしまた多くの製茶共同組合が利益の蓄積が出来ないで、設備の更新時期になっても更新が出来ないまま、もう一度補助金を探し求めるようになることも事実である。これでは国が出した補助金は生きたお金になったとはいえない。(続く)
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農業の補助金について考える その2

(この暖かさで庭のシュモクレンが一斉に開花した)

(昨日の続き)
今日は会計上の話が出て、慣れない人には理解が難しいかもしれないが、出来るだけ分かり易く説明する。農業の補助金が生きたお金にならなかった例を上げてみる。田園地帯に巨大なプラントが建っていて、出来てからほとんど使われていない例などは、調べていけばたくさんあると思うが、ここでは問題外である。農業者のために有効に利用されている施設でも、生きたお金になっていないケースがあることを説明する。

補助金の優等生といわれた緑茶加工機械の例で少し詳しく見てみよう。近くの茶農家が10軒集まって、A製茶共同組合を設立し、補助申請をして、総工費1億円に対して8000万円の補助を受けて、緑茶加工工場を1億円で建設した。足らない2000万円は10軒の農家が出資をした。問題を単純にするために、A製茶共同組合の収入は10軒の茶農家が負担する緑茶加工設備の利用料だけだったとする。現在の会計の処理方法では補助金の8000万円は圧縮して記帳するため、A製茶共同組合の会計上では設備は2000万円で取得したことに処理される。この2000万円を年々償却していくわけである。10年で償却するとすれば、年に200万円の償却費を計上する。償却費は現金が出て行かない費用で、償却費を計上してなお決算の利益がプラスになるならば、1年で200万円ずつ現金がA製茶共同組合に残っていく計算になる。10年経てば2000万円のお金が残る。さて10年後、設備が古くなったから買い替えようと思うが、手元には2000万円しかない。同じ設備でも1億円は掛かるわけで、買い替えが出来ないことになる。A製茶共同組合はたちまち行き詰ってしまう。最初に受けた補助金はどこへ行ってしまったのであろうか。

隣りでB製茶共同組合が同時に補助金なしで1億円の緑茶加工工場を建設したとする。B製茶共同組合の会計上の設備は当然1億円となり、10年で償却するとすれば、年に1000万円の償却費を計上する。償却費を計上してなお決算の利益がプラスになるならば、1年で1000万円ずつ現金が残り、10年経てば1億円のお金が残る。そして設備を新しくして緑茶加工工場を継続することができるのである。これが正しい経営のやり方だと考える。

A製茶共同組合とB製茶共同組合はどこが違ったのだろう。償却費が5倍掛かるということは、組合員から徴収する緑茶加工施設の利用料を、B製茶共同組合はA製茶共同組合よりも5倍近く高く取って来たということである。言葉を変えると、A製茶共同組合は受けた補助金をすべて、利用料を安くするという形で10軒の茶農家に10年掛けて分配してしまったことになる。補助金をもらったA製茶共同組合は10年で行き詰まり、自己資金で頑張ったB製茶共同組合は10年後にも新しい設備を購入できる資金を溜めているという結果になった。結局、補助金が生きたお金にならなかったというのはこういうことをいう。(続く)
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農業の補助金について考える その1

(庭のアセビの花芽)

「農業に対する補助金」について考えて見たい。高度成長期以来、小泉改革が始まる前までは、農業に対する補助金は毎年増減はあったものの、しっかりと予算化され、農村へ潤沢に出されてきた。農村はその補助金で近代化がなされ潤ってきた。サラリーマンの立場からすると、自分たちの納めた税金からどうして一部の農業者だけに多額のお金が出されるのか、疑問に思わない訳ではなかった。一方でその補助金を当てにする機械メーカーの立場では、言うなれば、都会に出て稼ぐ孝行息子が田舎に仕送りしているのと同じだよなどと、冗談半分に話していた。

小泉改革から民主党政権への流れの中で、農業に対する補助金は激減している。無くなってきた今考えると、ずいぶん無駄にたれ流された補助金も多かったと思う。

国が一部の農業者に補助金を出す正当性は、その事業に対する国の投資という点にあるのだと思う。国はその事業の重要性や将来性を考えて投資し、配当の代わりに、事業の利益に対して税金という見返りを受ける。そのメカニズムの中にこそ、補助金の正統性があるのだと思う。納税者も将来の多額納税者を育てるため、投資としての補助金であるならば納得できる。

ところで、実際にこの50年、年々予算化されてきた補助金がどのように使われ、その後どのように推移してきたか。農業の補助金の中でも優等生といわれ、無駄な施設にならないで、大半が農家のために長年使用されている緑茶加工施設を実例にして、考えてみよう。

緑茶の生産者はかつては個々の農家が小さな緑茶加工機械を持っていて、加工した緑茶(荒茶)を茶問屋に売って稼いでいた。所得倍増など国民が豊かになるにつれて、緑茶も消費量が増大し、より品質の高い緑茶が求められ、量産できる緑茶加工機械を設備する必要に迫られた。しかし農家が個人で求めるには緑茶加工機械は高額であった。農業の近代化政策の一環として、複数の農家が共同で緑茶加工機械を設備する条件が整えば、設備の購入費用の5割を越す補助金が出る制度が出来て、全国にたくさんの共同工場が出来た。

緑茶加工機械は毎年使用して行けば、いずれ壊れて使用できなくなる。法定耐用年数が8年、長く使っても10~15年で、その前に機械を新しく買い替えることが必要な時期が来る。そのときに共同工場に買い替える資金が溜まっておれば共同工場は順調に回っていき、補助金はその共同工場から収められる税金で年々回収されていくようになる。補助金は生きたお金になり、納税者も税金のそのような使われ方に納得するはずである。ところがそういうことにならなかった。(続く)
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もっと発言すべきかも

(庭の名前が不明の花)

午後、帰宅したら、家の中を、まーくん、かなくんにほとんど占拠されて、自分の居場所を見つけるのに苦労する状態であった。今週中はこんな状態が続きそうである。来月の同窓会の通知をかなくんがどこかにやってしまったと騒いで、女房は同窓会の予定を電話で確認するように言う。幸い、洗う前の洗濯物の中から出て来て事なきを得た。

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最近、テーマが底をついたと泣き言を書きながら、皆さんから直接、間接に幾つかのヒントをいただいて、この後のブログの進め方を色々と考えている。

2月23日、友人の「Yoo」さんからコメントがあって、「テーマに困っているなら、『----を考える』シリーズをしてみては?」という提案をいただいた。この提案をどう扱うべきか、ペンディングにしていた。いま一つ、次兄がブログを始めて、元教育者の立場で、教育問題という得意分野で発言を始めている。専門だから、当面、テーマの種が尽きることはないのだろうと思った。さらに今日、会社でこういう時代だからユーザーの経営支援を手掛けるについて、アドバイスをもらいたいという話も聞いた。長年会社勤めをしてきて、自分の専門分野、得意分野は何なのかを、改めて考えさせられた。

自分が入社してから40年、一貫してやってきた専門はと聞かれれば、中小企業の経理、財務、税務、法務、経営といった分野であろうか。それぞれについて様々な経験をしてきたし、一家言を持っている積りである。かつて、関係する会社などの経営指導を買って出たこともある。状況が悪くなった小規模企業を立ち直らせたことも、一度や二度ではない。

しかし、それに触れるには色々と支障もあるだろうと、ブログでの書き込みは一切封印してきた。すでに、一線を外れてから三年近く経ち、発言の生々しさも薄れてきただろうから、そろそろ部分的に封印を解いても良いだろうと思い始めてきた。専門分野で『----を考える』シリーズをやるならば、いくらでも書けそうである。テーマは当分尽きないかもしれない。ブログに書いたことが後輩たちのアドバイスになれば一石二鳥である。

専門というならば、戦後日本の農政についても、発言したいことはたくさんある。政権が変わってもやろうとしていることは基本的に変っていない。もっと悪くなっているのかもしれない。封印を解けば、日本の農政も絡めて発言が出来そうである。

最もそういう中でも実例とか固有名詞は使わないから、発言が抽象的になるかもしれないが、そのあたりはお含み願いたい。
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会社経営について思うこと

(最高気温が20度を越え、庭の桃の木も花が咲いた)

1730億ドルの公的資金を投入した保険大手のAIGが、幹部社員ら400人に、総額1億6500万ドルの特別賞与を支払った問題で、オバマ米大統領が厳しく批判している様子が何度もテレビで流れた。オバマ大統領は激しい言葉を使いながら、淡々とした口調で語る。感情を態度に表さない訓練の出来た大統領である。

公的支援を受ける前に結ばれた契約に基づいて支払ったもので、訴訟社会のアメリカでは不履行なら巨額の損害賠償につながると、AIGは弁明した。成功不成功に関わらず、多額の特別賞与を約束した契約で、経営に失敗してもなお高額報酬に固執する、ウォール街の強欲さを象徴するものと批判された。それらの特別賞与に90%の税を掛けてでも、税金を取り戻すと乱暴な話でいきまく議員もいた。

九州出張から帰って出社した。企業経営について、今日一日のうちに耳に入っただけでも、色々考えさせられる話しが幾つかあった。会社成績が振るわず、粉飾地獄から立ち直れない企業もあれば、社長交代を期に不良資産を一気に払拭して、大赤字を出しても会社の健全化を図ろうとする企業もある。会社の休業給付金をもらって何とか生き延びている中小企業もあれば、売上げは減っているが、仕入も下がったために、こんな時代でもしっかりと利益を残している会社もある。

この100年に一度といわれる大嵐の時代に、様々な企業が懸命に波を乗り越えようと右往左往している。ほとんど沈没寸前になっていたり、台風の目に入ったように穏やかな海に恵まれたり、沈没しようとするタイタニック号のような豪華客船や、木の葉のように舞いながら波を乗り越えていく小船などもある。傍観者としては、それはそれで大変に興味深く面白い。

企業行動をウォッチしていると、こういう時代についつい企業の本性が現れてしまい、生き残るためにどんな恥知らずなこともやってしまう企業のあれば、そういう風潮に便乗して恥じない企業の面々もある。しかしこういう時代をバネとして健全な企業への脱皮を図ろうとする立派な企業もある。

今ほど、企業を見つめる人々の眼が厳しい時代もないと思う。非適格とレッテルを貼られると廃業に追い込まれかねない怖さがある。偽装で潰れる企業も多い。上場企業だから安泰ということにはならない。話題の西松建設は今後も経営が続けていけるのであろうか。

夜は子会社の株主総会後、食事会があった。まずまずの成績で御同慶の至りである。
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