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四国遍路の準備に入る

(購入したザックとシューズ)

いよいよ、具体的に遍路旅の準備に入った。今日、やったことはザックとシューズを買ってきたことである。30ℓの大きさのものは持っているが、昔のもので、今のザックは色々なところに工夫が施されて、使いやすそうである。ドイツのメーカーのメイド・イン・ベトナムの製品である。シューズはトレッキング用ではなくてウォーキング用のものを買ってきた。軽くて足に圧迫感がなく五本の指が自由であることを選択の基準にした。そうはいっても履いてみなければ解らない部分もあるので、出発の前に足慣らしをしておこうと思う。

持っていくものも細かく書き出してみた。(着用するものも含む)

ザック1、シューズ1、ゴアテック雨合羽1、めがね1、財布1
(衣類)ジャンバー1、Tシャツ長袖1、長ズボン1、半ズボン1、ベルト1、Tシャツ半袖3、パンツ3、靴下3、タオル1、小タオル1、軍手1
(機器)モバイルパソコン1、マウス1、パソコン電源コード1、LANアダプタ1、Bモバイル3G1、デジカメ1、SDカード〈予備〉1、デジカメ充電池〈予備〉1、デジカメ充電器1、携帯電話1、携帯電話電源コード1、万歩計1
(雑貨)歯ブラシ1、歯磨き1、ティッシュ5、ポリ袋各種10、輪ゴム20、水性ボールペン2、メモ帳1、洗剤1、万能ナイフ1、バンドエード10、麺棒20
(カード)銀行(VISA)カード1、ゆうちょカード1、保険証カード1

その他に薬を持っていく。水筒はペットボトルで賄うが、靜岡の新茶を少し持って行きたい。本も文庫本を一冊欲しい。現地で購入するものがこれに加わることになるが、重量を測ってみて、現地調達が出来るものは減らす。不要になったら、衣類なども小包便で送り返す。

この荷で機器がいかにも多い。現地でブログを毎日書こうと考えた末にそうなった。機器全体で1kgに収まらないかもしれない。かといって減らせるものもない。全体の重量を測ってみて検討しよう。身に付けるものは重量から外せるから、予想では全体で7kg位になるであろう。7kgでは荷が多すぎる。

現地までは電車で行く。朝、金谷を8時49分発で、現地の高徳線板東駅に14時31分に着く。これで決まりだと思う。宿の予約をするかしないか。行き当たりばったりにした方がいいかもしれないが、最初の宿だけ予約しようか。

実は、今一番の心配は豚インフルエンザがどう推移するかである。日本でも第一号患者が出た模様だし、WHOは段階をフェイズ5に上げた。1週間後、出発できる状況にあるかどうか心配である。何とか諸般の問題を片付けて、出発までこぎ付けたのに、予想すらしなかったところに伏兵がいた思いである。
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カーペンターズから擬声語を考える

(庭のシラン)

NHKの「SONGS」という番組でカーペンターズを取り上げていた。若い時に爆発的な人気のあったリチャードとカレンの兄妹デュオである。もっとも妹のカレンは26年前に心不全で亡くなっている。

当時、音楽にはほとんど興味がなく、しかも横文字となると意識して聞いたことはほとんどなかった。ところが曲が流れると、どの曲もどこかで聴いたことがある、これがカーペンターズかと、40年経ってこの歳になってはじめて認識した。

「Yesterday Once More」のさびの部分、「エブリ シャラーラーラー、エブリ ウォーウォー」英語で書けば、「Every Sha-la-la-la Every Wo-o-wo-o」を聞きながら懐かしい思いさえした。色々な場面でそれと知らずに聞いているものだと思う。このシャラーラーラーやウォーウォーは日本語ではどう訳すのだろうと、変なことが気になった。さっそくネットで調べると、かつての歌のコーラス部分を追憶しているところで、日本語訳でも音のままで特に訳していない。

そんなことが気になったのは、日本語は他の外国語に比べて、飛びぬけて擬声語が多いと聞いたからで、シャラーラーラーやウォーウォーは英語の擬声語(オノマトペ)なのだろうかと思ったからである。

擬声語は言語学的には言語体系の中心から離れた周辺的なもので、子供っぽい表現と考えられてきた。学術論文には決して使われない表現である。擬声語には擬音語と擬態語がある。音をそのまま真似た、犬はワンワン、豚はブーブーというのが、擬音語である。状態や感情などの音を発しないものを字句で表現したものを擬態語という。例えば、ばらばらな行進、彼女にめろめろ、たっぷり入れる、などが上げられ、この擬態語は日本語特有の表現だといわれる。

世界的なマンガブームで、漫画のなかで多用されている擬声語(漫画では「音喩」と呼ぶ)を各国の言葉に翻訳しようとして、表現する言葉がないものがたくさん出てきた。仕方なく、翻訳者はローマ字で表現して残した。それが日本独特の表現であったことが再発見されたのである。日本の漫画から「音喩」を外すと、漫画は面白さが半減するだろう。「シュルルルルル」「シーン」「ガーン」などの音喩が漫画の魅力の一つなのである。

漫画は別にしても、日本人なら擬態語を聞けば、イメージがすぐに浮かんでくる。例えば「さらさら」なら、きれいな小川が流れる様子を思い浮かべるだろうし、「くりくり」なら丸刈りにした子供の頭だろう。「ぱっちり」なら大きな目で、「ぱっくり」なら鎌いたちにあった足の傷であろうか。このブログでも擬声語をたくさん使っている。擬声語は日本人ならこの感覚が解るという共通認識の上に成り立っている。大声で言葉を多用しなければ話が通じない外国人から見れば、ぼそぼそ(これも擬声語)と小声で意思疎通が出来る日本語は不思議な言葉に思うだろう。
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5月6日に四国遍路に出る

(庭のアヤメ)

サーズ、鳥インフルエンザに続いて、メキシコ発の豚インフルエンザが世界的な大流行の危険性が高まっている。メキシコではすでに死者が120人になったと報道している。日本は水際で防ぐべく、万全の防疫体制を引いているという。ゴールデンウィークに入って海外旅行を予定している人も多いと思うが、大変気になるところである。

WHOは現在の状態をフェイズ4に上げた。フェイズは6段階でとらえられ、フェイズ1は人への感染の恐れがない、フェイズ2は人への感染の恐れがある、フェイズ3は人へ感染した、フェイズ4は人から人へ感染した、フェイズ5は世界的な流行が始まった、フェイズ5は世界的に大流行になった、という6段階である。アメリカ、カナダ、ニュージーランドなど7ヶ国ですでに患者が出ている。豚インフルエンザで死んだら頓死になってしまうなどと駄洒落を言ってはおれない。

    *    *    *    *    *    *    *

5月6日、ゴールデンウィークの最終日に、四国遍路に出ることに決めた。第一回目、2週間予定している。もちろん途中までしか回れない。これを3、4回繰り返し、八十八ヶ所の札所を歩いて回る計画である。会社へも休むと断わった。2週間なら何とか予定を入れないで時間が取れると考えた。

その間、ブログをどのようにして書き込むか。そこが最後まで悩んでいたところであった。モバイルパソコンはソニーのVAIO VGN-P70Hを3月初めに購入した。重量が634gと軽く、キーボードが横に広くてタッチしやすい。価格は92,800円(他に16%のポイントが付く)であった。通信手段はいろいろ迷ったが、bモバイルを使うことにした。bモバイルの中でも、FOMAが使える地域と同じ領域で使える、bモバイル3G hours150に決めた。USBフラッシュメモリのように、USBの口に差し込むだけでネットに繋ぐことが出来、480日(16ヶ月)内に150時間ネットに接続使用できる。価格がアマゾン通販で34,525円である。少し値が張るが思い切って購入した。明日、届くはずである。

次に装備を整えねばならない。ザック、ウォーキングシューズは最低でも購入しようと思う。雨具は、お遍路の一部を歩いた経験者のS氏はビニール合羽をポンチョのように被って、それで十分であったという。山で使うゴアテックスの上下の雨具を着れば、どんな雨風でも大丈夫なのだが、重量も少し増える。考えどころである。

歩く訓練はこのブログに書き込んだ通り、かなり歩いたから、少しは自信がついた。あと出発までに1週間である。
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草剛さんのご乱行

(裏の畑のクンシラン)

人気アイドル、SMAPの草剛さんの事件の推移を大変興味深くウォッチしていた。

事件が最初に報道されたとき、いきなり「草容疑者は‥‥‥」と出てびっくりした。ニュースを見ていて、騒ぎの割りには単なる酔っ払いではないかと思った。酔っ払いなら警察が一晩保護し、翌朝酔いが覚めたところで説諭して帰す程度の対応が普通だろう。それにしては警察の対応、マスコミの騒ぎ方は大げさ過ぎはしないか。トップニュースで報道するような事件ではない。地デジのPRのイメージキャラクターを務めていたこともあって、総務大臣は「人間として許さない」などと過剰な発言をしてしまった。

翌日、保釈されて、世間のトーンが一気に下がった。「草容疑者」から「草さん」に呼び方が変わり、1日目にはタレント生命が終わりかと言わんばかりであったマスコミから、再起を期待するという言葉も出てきた。相当抗議の声が届いたのだろう、総務大臣も「最低の人間だ、絶対許さない」という発言の「人間」という言葉だけ取り消した。何とも中途半端。

この事件を知り得た情報だけで、冷静に追ってみよう。深夜都内の公園で大声を出す人がいると警察に通報があり、警察官が出向いた。真っ暗な中で全裸の男が騒いでいる。よく見知った顔であるが、静止しようとしたら「裸で何が悪い」と静止を聞き入れなかった。泥酔しているようだが、この反抗的な態度に薬物使用ではないかとピンと来た。酔っ払いの保護など面白くもないが、有名芸能人の薬物使用なら大手柄である。本来なら酔っ払いとして保護して虎箱行の事例であるが、公然猥褻の現行犯で逮捕をしてしまった。尿検査で陽性なら薬物使用で逮捕できる。しかし薬物反応は出なかった。そんなはずは無いと、家宅捜索までやってしまった。公然猥褻の容疑で家宅捜索をするという妙な結果となった。警察は振り上げた手の下し場所を失った。そして身柄を送られた東京区検は釈放した。公然猥褻も罪にしようとすれば起訴出来ないことはないが、検察が起訴しても手柄にならない。結局は起訴はされないだろうと思う。推測が混じっているが、真実はそんなところだろう。

マスコミも総務大臣も、警察の発表に踊らされただけで、自分の頭で考えていない。だから一晩でトーンががらりと変ってしまったのであろう。

草さんのご乱行は決して褒められる行為ではない。社会人としての常識がないと責めてみても、タレントに社会人としての常識を求めることに無理がある。常識を持ったタレントなど見たくもない。常識の外にいる人達だから人気が出るのである。

何よりも気になったのはオフだったとはいえ、終始一人で飲んでいたことである。飲み友達が一緒であれば、どこかでブレーキをかけただろうし、こんな事件になることはなかった。華やかなようで、意外と孤独であったことが問題といえるかもしれない。
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神武山の文学碑


(裏の畑-耕す前)


(裏の畑-耕した後)

昨日の雨は上がって晴れた。今朝は風が強くて寒い。北海道では季節はずれの大雪になっていて、ところによっては40センチメートルの積雪だと報じている。午前中、裏の畑を耕した。秋から冬にかけて放置しておいたため、荒れ果てていたが、この雨で土が軟らかくてスコップが気持ち良く入った。無理をしないように午前中で終った。GW中に夏野菜を植えようと思う。メキシコで豚インフルエンザが発生して、数十人の死者が出ているという。ゴールデンウィークを前にして、海外に出かける日本人も多いだろうに、気がかりなニュースである。

    *    *    *    *    *    *    *

(昨日の続き)
神武山の西側へ下る途中に「田植歌の碑」があった。「鶴の子」という田植歌というが、聞いたことはない。

   鶴の子が巣立つはどこよ / 山と山、山と山 /
   やはたの森の / 若松の枝


この鶴はもちろんコウノトリのことである。往時から豊岡盆地では、コウノトリは人々が働く田んぼの身近に見られる普通の鳥であった。かつては松の木に巣を作り、松に付きものの鶴はコウノトリのことである。決して丹頂鶴ではない。松に止まる鶴の頭を赤く描くのは間違いである。

遊歩道を南西側に回り込んだところに、遊具が置かれた小公園がある。ここにはかつて豊岡測候所があった。長兄は測候所の子供が友達で、よく遊びに来たという。付属して所員の住宅もあったのだろう。その小公園の山側に屏風を広げたような今東光の文学碑が建っていた。


(今東光の文学碑)
 
今東光(1898~1977)は、天台宗僧侶にして直木賞作家であった。新感覚派として出発し、出家後は住職をしていた河内や東北を題材にした作品で知られる。16歳のころ、関西学院中等部を恋愛事件が理由で退学になり、兵庫県立豊岡中学校(現豊岡高等学校)に転校してきた。ところが再び恋愛事件を起し、教師を殴って退学処分を受けた。豊岡にはほんの数ヶ月いただけであったようだ。純朴な田舎に置くには、あまりにも破天荒な中学生であった。文学碑には「みみずく説法」の一節が刻まれていた。

   海士屋の欄杆にもたれてながめると 脚下を水量ゆたかな円山川が流れ
   白帆の行方を見ると はるか玄武洞、城崎温泉、日和山とつづいて
   このうらぶれた北国の風光は 失意の少年の胸を旅愁でかきむしるのである


小公園の反対側には藤井重夫の文学碑があった。藤井重夫(1916~1979)という作家についてはまったく知識がなかった。豊岡市小田井に生まれ、豊岡商業学校を卒業後、朝日新聞記者をしながら、豊岡を舞台にした「佳人」を書いて芥川賞候補となり、その後映画化されて話題を呼んだ。朝日退社後「虹」で直木賞を受賞した。文学碑には「故郷」の一節が刻まれていた。

   母里の町から便りが届く日毎
   私はカサカサに皹(あかぎ)れた掌を凝視めた
   掌のこんぐらがった皺のなかで 
   雪に埋った母里の少年の日の思い出を私は辿った


もう一つ、塩井雨江の碑があったようだが、見損じた。
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神武山の句碑

(神武山から豊岡の町-中央の山が但馬富士と呼ばれる三開山)

日曜日、郷里で、法事と精進落しも済み、長兄と散歩に出る。長兄は今、ウォーキングにはまり、ウォーキング中心の生活をしていると言う。健康で長生きするために、どこへ出かけてもウォーキングを欠かさない。今日も歩きに行くというのに付き合った。

在所から5分ほどのところに神武山という小山がある。標高49メートル、明治5年に神武天皇遥拝所が設置され、以降その名で呼ばれるようになった。それまでは亀城、亀山、城山などと呼ばれていた。伝承によると15世紀、但馬守護の山名宗全が築城し、その後垣屋氏がこの城を中心拠点に但馬を支配した。天正8年(1580)羽柴秀吉の但馬支配の際、旗下の宮部善祥房が入城し、その後、城主が木下助兵衛尉、明石与四郎、福原右馬之助と続き、杉原長房に至るが、承応2年(1653)杉原家断絶により城は破却された。この後、京極家が豊岡藩主となるが、麓の陣屋や屋敷に住まい、以後城が建てられることは無かった。

子供の頃は、遥拝所の名残の石段と、上水道の配水池、測候所などがあった。石段は苔むして、山はジャングルと化して、子供たちの絶好の遊び場になっていた。隠れ家を造ったり、虫を追い回したり、水晶を採掘したり、子供たちは次々に新しい遊びを発明した。

現在は測候所が移転し、新しく配水池(タンク)が出来、山を巡る遊歩道が整備されて公園になっていた。自分が故郷を離れてから植えられた桜が一抱えもあるほど太くなり、桜まつりの名残りの提灯が連なっていた。案内板があり、公園内に点々と7面の句碑や文学碑が建つと記されていた。足は自然にそれらの石碑を確認しながら進んだ。

最初に、由利由人の句碑があった。由人は七代由利三左衛門(1878~1924)の俳号である。豊岡市宵田に生まれ、俳誌「木兎(みみずく)」を創刊し、但馬の俳句界で活躍、豊岡町長としても町政に尽力した。

     行李編む 里の柳も 青みつゝ   由人

この行李は豊岡名産の「柳行李」である。


(京極高住句碑)

次に京極高住の句碑が本丸跡辺りにあった。京極高住(1660~1730)は豊岡藩主京極家の二代目当主である。俳号を云奴(うんぬ)といい、当時文学大名として有名であった。

     こそ見めの 至りが浦や 所の春   云奴子

三十六歌仙の一人である藤原兼輔が結びに「こそ見め」と歌った絶景の二見浦(城崎町)は、わが領地であるが、今こそ春たけなわであるといった意味。

三番目に、最も高い天守閣のあった辺りに京極紀陽の碑が建っていた。京極紀陽は京極家の現在の当主で、但馬の俳人として有名である。

     おもむろに 晴れ上りたる 雪山河   紀陽

但馬の冬は、黒い雪雲に覆われて、晴れ上がることは、極々まれなことである。
(明日へ続く)
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杉沢と上相賀の大カヤ2本

(杉沢の大カヤ)

昨日、相賀の集落を歩いていて、一度来たことがあるカヤの巨木2本を見て行こうと思った。一本は相賀谷川に左手の山から注ぎこむ杉沢の先にあった。道路端に高いカヤの特徴的な梢を見せていたから、遠くからでもそれと解った。「杉沢の大カヤ」と呼ばれている巨木である。樹高25メートル、幹周囲5メートル、樹齢は500年以上で、雌株である。


(上相賀の大カヤ)

もう一本はそれより上流、約1.8キロメートル離れたところにある。和田の千葉山への登り道の分岐から500メートルほど上流の農家の裏山にかぶさるように立っている。「上相賀の大カヤ」と呼ばれる巨木である。見学するには10メートルほど斜面を登る。樹高15メートル、幹周囲6.1メートル、樹齢は500年以上で、これも雌株である。「杉沢の大カヤ」よりも樹高は低いが主幹に厚みがある。2本とも昭和32年(1957)に県の天然記念物に指定されている。


(山津波の名残か、大岩)

案内板によると2本の大カヤには次のような伝説が残っている。今から約400年前の慶長の頃、この地が洪水と山津波にあって村の大方は流出・埋没したが、不思議なことに大カヤ3本だけが残った。その内2本が現存する杉沢と上相賀の大カヤだといい、村人から厚い信仰を寄せられた。この山津波の名残であろうか、山の斜面に大きな岩が2つも3つも見えた。千葉山から落ちて来たものであろうか、一つは道の脇まで来ていた。

「杉沢の大カヤ」のそばで、腰の曲がったおじいさんと目が合った。大きなカヤの木だと誉めてから、高山(標高568m)の登り口を聞いた。高山は家からも見える山で、登り道が気になっていた。昔、一度登ったような記憶があるが、山頂まで行けたのかどうか、そのあたりがあいまいである。今日は登る積りはないが、後日のための確認しておきたいと思った。一昨日だったか、島田の男性が一人で高山に登って帰らず捜索したところ次の日に無事見つかったというニュースがあった。島田で高山ならてっきりこの山と思ったが、あるいは他の高山だったのかもしれない。この高山はとても成年男子が遭難するような山には見えない。

おじいさんは、他所の人で説明して解るかどうかと言っていたが、高山神社の脇の道を登っていくのだと教えてくれた。少し上流に、白山神社があった。おじいさんが高山神社といったのはこの神社のことだろう。何とすぐそばの案内板に略図が書かれて、確かに高山に道が通じている。高山には奥の院があるが、そちらの方は高山神社と記されていた。次には高山の山頂を踏んで、神座の方へ尾根伝いに降りてくるか、伊久美側に降りて、コミュニティバスで帰ってくるか、などと計画が膨らんだ。
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伊太丁仏参道から伊太和里の湯

(後畑からの眺望、相賀谷から高山)

今朝、天気は良好、風もさわやかで、やって来たまーくんにバイバイをして、歩きに出かけた。今日の最終目的地は田代の郷温泉、伊太和里の湯である。忘れないように最初にコンビニで昼食用おむすび3個を購入した。図書館に寄って本を返却し、島田に渡って、相賀の谷間を相賀谷川に沿って遡った。

和田から農道を千葉山に向かって登っていく。後畑の集落を抜けると、道は茶畑の斜面を右へ左へと登っていく。茶畑からの見晴らしはすばらしい。相賀の谷から、高山へ向かって標高を高めていく稜線まで、しっかり見えた。

林に入って車道が平らになり、スカイペンションどうだん荘に着いた。ここまで約3時間掛かった。その先、どうだん原で遅めの食事を摂った。ドウダンは盛りは過ぎたようであった。ドウダンは補植されて、随分増えたが、地味な白の小花で、盛りでもそれほど目立つことはない。サラサドウダンなどを植えれば、随分派手になると思うが、この山に元からある植生ではないから、管理する人たちも自制しているのであろう。

どうだん原を過ぎると、道は千葉山ハイキングコースから左へ分かれる。「伊太田代八幡神社」の標識に従って下って行く。どうだん荘のそばで24番であった丁仏がどうだん原の先では14番になっていた。この道は伊太丁仏参道と呼ばれ、尾川丁仏参道と並んで千葉山に登る古い参道である。林間にクロツグミの美しい声が聞こえていた。

伊太丁仏参道の登山口の田代地区は大きく様変わりした。田代の郷は戦国時代の落武者が住み着いたのが始まりと言われ、昔から凧を揚げることが禁じられていた。隠れ住んでいたことを示す話である。多いときには10数戸を数えたが、過疎化して最後に4戸残った。第二東名工事に伴い、その4戸も町へ出て集落が消えた。そんな経緯を記した石碑があった。八幡神社の石造鳥居の天辺の部分が集落の記念物として残されていた。


(田代の郷温泉、伊太和里の湯)

伊太和里の湯はこの4月にオープンしたばかりである。谷を大きく埋めて平地を造り、黒塗りの木造平屋で、ゆったりと造られていた。最新の温泉施設らしく、細かい工夫がされている。下足の鍵を持って受付へ料金500円を払うと、交換に大きなカードをくれる。そのカードを脱衣棚の扉の内側に差し込むと鍵を掛けることができ、しかも扉の窓からそのカードの番号を確認できる仕組みになっている。脱衣棚の扉の内側に眼鏡を置く小さな棚があり、眼鏡の置き場に困る自分にはありがたい。お風呂はやや温めであるが、とろり感もあって悪くない。平日の日中にしては客も多かった。伊太和里の湯は44湯目の日帰り温泉である。

伊太和里の湯からは二時間に一本、金谷にコミュニティバスが出ている。その4時ちょうどのバスに乗って帰った。バスは夢づくり会館に止まり、そこから歩いて帰った。本日の歩数は30,516歩、約20キロメートルの歩行であった。
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大開通りの復興建築群

(改築が計画されている豊岡市役所)

大正14年5月、北但大震災で豊岡の町は壊滅的な被害を受けた。その話はかつて書きこんだことがある。震災に懲りて、震災後の昭和初期に鉄筋コンクリート造りの町屋が建てられた。地震や火災に強いということで選ばれたもので、復興建築群と呼ばれる。震災後、駅から東に向けて大きく開かれた通り、その名も大開通りが出来て、その両側にこぞって建てられた。それから80年経ち、建物も老朽化で建て替えられたものも多いが、まだそんな建物が何棟か残っている。いまそれらの建物は但馬の近代化資産として注目されている。


 
 
(大開通りの復興建築群)

土曜日の夕方、ホテルから大開通りを歩いて実家に行った。注意してアーケードの上を見ていると、何ヶ所かその復興建築群を見つけた。階上の通りに面した側に独創的な意匠が施されている。これも看板建築の一種なんだろう。

戦前、親父が借家した大開通りに面した店舗兼住宅も鉄筋コンクリートの2階建であった。半分は自転車屋が借り、半分で親父は本屋をしていた。とは言っても、親父は何度も招集を受け、留守がちだったから、ほとんどお袋一人で切り盛りしていた。あの建物は陸屋根で水が壁を滴るような建物で、住みにくい建物であったと聞く。それでお袋は一時身体を壊したこともあった。あの建物で10年ほど本屋を営んでいたらしいが、あの建物も復興建築の一つだったのかもしれない。

復興建築の最たるものは、昭和2年建築といわれる市役所の建物である。いまその建物の改築話が出ていると聞き、在所の次兄に意見を求めると、同じ場所に建てるなら古い建物は壊して建替えれば良いと、保存の必要など全く感じていないようであった。次兄は市役所にもよく出入りしていたはずで、使う側からすれば旧式の建物で、たくさん不満があったのだろうと思う。しかし故郷を離れて、たまに帰ってくる我々にとっては、故郷の姿を留める建物がどんどん無くなってしまうのは、自分たちの思い出さえも消去されるようで辛いことである。出来ることなら保存して欲しいと思っていたが、口に出すことはしなかった。

昭和初期から昭和30年代の建築がどんどん消えていく状況が全国で起きている。高度成長期に近代化の名目でどんどん毀されたが、現在起きているのは老朽化や地震対策という安全面で毀されているように思う。残すべき建築について、調査し地震対策など保存の措置を施すようにしなければ、気がついたときには我々の年代が育った昭和の風景が日本から消えてしまうのも時間の問題のような気がする。
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ゴーギャン展を観る

(名古屋ボストン美術館)

名古屋の娘の家に泊めてもらい、今朝雨の中、女房と、金山の名古屋ボストン美術館のゴーギャン展を観に行った。ゴーギャン展が開催されているという情報は新聞で得ていた。

名古屋ボストン美術館の開館10周年記念の展覧会で、同館はアメリカのボストン美術館の姉妹館として1999年に開館したという。今回はボストン美術館所蔵のゴーギャンの大作「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」が日本で初公開される。タイミング良く名古屋に泊まる機会ができたので、このチャンスを逃すまいと思った。最寄りの西春駅前に駐車して、名鉄で金山に出かけた。名古屋ボストン美術館は金山総合駅のすぐ前にあった。

ゴーギャンはパリに生まれ、海員として商船にに乗ったり、株の仲買人をしたりしながら、日曜画家で印象派展などに出品していた。35歳になって職を辞して本格的に画家を志した。売れない画家で、極貧のなか、ブルターニュ地方やパナマ、マルティニック島などに行き、アルルではゴッホと共同生活したりと、交流のあった色々な画家の影響を受けた。43歳でタヒチに行き、一連のタヒチを題材にした作品を描いた。49歳のとき、娘アリーヌの死の報に接し衝撃を受けて、「我々はどこから来たのか‥‥」の大作を描いた。54歳で心臓発作で死去。

「我々はどこから来たのか‥‥」の絵の前には少し離れて台があって、全体を見る事が出来、そばに寄れば細部を見る事も出来る。理想的な鑑賞環境が作られていた。女房は音声による案内のレシーバーを借りていて、随分と時間を掛けて観ているから、先に進んだ自分は「我々はどこから来たのか‥‥」の前で、女房を待ちながら随分長く時間を過ごした。


(「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」図録より)

高さ1.4メートル、幅3.7メートルの大画面で、おそらく右側から「我々はどこから来たのか」「我々は何者か」「我々はどこへ行くのか」を現しているのであろう。ゴーギャン自ら手紙のなかで絵を説明した内容が掲示してあったが、読んでみてもその哲学的な画題が理解出来なかった。

右下の赤ん坊は「誕生」、左端の頭を抱える老婆は「死」の象徴なのだろう。木の実を取る男性、木の実を食べる少女という中央の絵は「生きる営み」の象徴だろうか。「我々はどこから来たのか‥‥」の題こそ哲学的謎に聞こえるが、ゴーギャンは人間は生まれて、生きて、最後は死ぬ、そんな単純なものなのだと言いたかったのではなかろうか。ゴーギャンがタヒチを終の棲家にしたのも、そんな単純な一生を送る原始の人々の姿に安らぎを覚えたからだろう。

ともあれ「我々はどこから来たのか‥‥」の人物群像にはそれまでゴーギャンが描いてきたモチーフが集大成されている。それはあたかもロダンの地獄門を見るようだと思った。
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