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「横浜・山手の出来事」を読む

(徳岡孝夫著「横浜・山手の出来事」)

ある待合室で長く待たなければならないことがあって、こんなに待つならば本でも持ってくればよかったと思った。そばに書棚があったので覗いてみたところ、徳岡孝夫著「横浜・山手の出来事」という本の背が見えた。題名に見覚えがあった。手に取って、奥付を見ると、1990年の発行であった。出版されたとき、書評を見て読みたいと思い、2000円の定価を見て買うほどでもないかと手を引っ込めた。図書館に入ったら読もうと思ったまま忘れていた。そのまま、20年経ってしまった。少し読んで待合の時間が来て本を書棚に仕舞った。

家宅後、「日本の古本屋」のネットで探すと、500円で出ていた。送料を払っても1000円以内で手元に届くと思い注文した。送られて来た本はほとんど読まれた形跡がなく、新品同様であった。時間を掛けて昨日読み終えた。

1896年、横浜のイギリス人居留地で起きた殺人事件の、裁判の一部始終を描いたノンフィクションである。ヴィクトリア朝のイギリスの旧弊な社会からすると、当時の日本のイギリス人社会には外地ゆえの自由があった。特に貞淑を求められた妻には別天地であった。この事件は、奔放にふるまっていた若い妻が歳の差の大きい夫を砒素を盛って殺したという事件であった。当時のイギリスの陪審員制の裁判制度で、出先である横浜で裁判が行われた。ミステリーのように様々な謎めいた展開の後に、裁判の方法にも多くの疑問がある中、陪審員はたった30分間の評決で、妻の有罪と死刑の量刑を決めてしまった。その後、終身刑に減刑され、本国で収監された。

著者は事件の様々な疑問を提示して、イギリスにおいて100年後の再調査を行う。当時、名家の娘が極東で起こした稀なる事件として、地元ではセンセーショナルに扱われていて、色々な事実がわかって来る。そして、最後に著者が真実はどうであったのか、推理小説ではないから100%の答えにはならないが、推論を含めた謎解きをしてみせる。

日本も裁判員制度が始まったから、日本の裁判制度とヴィクトリア朝イギリスの裁判制度を比較しながら読み進めると大変興味深かった。

砒素と聞いて思い出すのは、和歌山毒カレー事件である。あの事件のときに、どうにも腑に落ちないことがあった。シロアリ駆除に使用していた砒素の毒性認識を最も持っていたと思われる亭主が何度も砒素を盛られて死に目に合っていたことであった。このノンフィクションの夫は砒素を常用していたという事実が示される。毒薬も少量であれば薬になる。痛み止めになったり、疲労回復になったりするという。細胞の燃焼を活発にして、エネルギーを補給しなくても元気が出る効果もあるという。和歌山の亭主も砒素の効用を知って、常用していたのではないだろうか。そんな風に考えると、自分が量を間違えたと考えて、なかなか妻に盛られたとは考えにくかったのかもしれない。亭主が純然たる被害者だったとしての話だが。
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貴重書講座-葵文庫の成り立ちとその特色

(満一歳お祝い膳-かなくんママ作)

今夜我が家の人口は9.5人である。名古屋のかなくん一家が帰って来て、今夜はまーくん一家も加わって、かなくん満一歳の少し遅れた誕生パーティである。ケーキのローソク1本はシンプルでよい。パーティが終れば今夜は全員で我が家にお泊りである。大騒ぎの末にようやく寝付いた。何事にも興味津々で、あとさき考えずに突っ込んで、こけて転んで泣き騒ぐまーくん。何事にも慎重なのに、自分の意思は曲げない、転んで傷ついてもなかなか泣かないかなくん。たった1、2年でこんなにも性格に差が出てしまう。爺婆は周りでうろうろするばかり。これからも二人ともどんどん変って、色々な新しい面を見せてくれるのであろう。

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午後、貴重書講座があって、静岡駅前のアザレアに行った。一昨年初めて参加して、去年は予定が重なって出席出来なかった。

講師は石田徳行(よしゆき)氏で、元県立中央図書館長である。今日のテーマは「葵文庫の成り立ちとその特色~書物をめぐる様々な情報を探る~」である。

靜岡の葵文庫は我が国でも有数な江戸幕府旧蔵書コレクションである。葵文庫の開館には初代靜岡縣令の関口隆吉と、その息子の新村出の熱い思いがあって、後に徳川家の記念事業として1925年に開館した。当初は葵文庫は県立図書館の名称だったが、県立図書館が別に出来てからはコレクションの名称として残り、現在に及んでいる。

葵文庫に集められた書籍はそれぞれどんな来歴を持っているのか、調査研究がされてきた。全体の3分の2を占める洋書は、江戸幕府の「蛮書和解御用」「洋学所」→「蛮書調所」→「洋書調所」→「開成所」を経て「駿府(靜岡)学問所」へもたらされている。また、別ルートで「仏語伝習所」や「箱舘奉行」「諸術調所」からももたらされている。和漢書は、ほとんどが「林家の私塾」→「昌平坂学問所」を経て「駿府(靜岡)学問所」にもたらされている。靜岡へ来てから「駿府(靜岡)学問所」→「靜岡師範学校」→「靜岡県立葵文庫」→「靜岡県立中央図書館・葵文庫」という経緯で現在に至っている。

これらの経緯を明らかにする研究の手掛かりとしては、ときどきに作られた目録、分類などのために付けられた貼り紙、墨書、献辞、あるいは幾つも押された蔵書印などが大きな手掛かりになる。

これらの書物が靜岡にもたらされた目的は、徳川幕府が江戸から靜岡藩へ移される際、学問所の教材あるいは教科書として必要な物を優先して、持ってきたものと言われている。その他の書籍は江戸に残り、東京で保存されている。

講座では一冊650万円する貴重書など、幾つかの興味深い話を聞いたが、また何時か書き込むことにする。
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山名文夫展-資生堂アートハウス

(山名文夫展-資生堂アートハウス)

昨日、龍尾神社でしだれ梅を見た後、久し振りに掛川の資生堂アートハウスに向った。女房が山名文夫展をやっているというので車を回した。直ぐ前を入って行った車も、どうやら龍尾神社から回ってきた車のように思えた。このアートハウスは無料で入場できて、年金生活者にとっては嬉しい。平日に行くとお年寄りの御夫婦をよく見受ける。入るまで、山名文夫という人物を全く知らなかった。

山名文夫(1897-1980)は商業デザイナーの草分け的な存在といわれる。広島市に生まれ、少年期から竹久夢二や北野恒富、オーブリー・ビアズリーに憧れ、その模写に没頭したという。大阪で赤松麟作洋画研究所で油絵を学び、その後、雑誌の編集、執筆、イラストレーションを手掛け、1929年、意匠部員として資生堂に入社し、広告デザインの資生堂スタイルの確立に寄与した。以後、広告表現の主流が写真に移行する1960年代まで、山名文夫の手になる女性像が資生堂のイメージを作ってきたという。山名文夫のイラストはアール・デコ調のモダン・ガールと言われる。大正期の女性の新風俗をいち早くとらえて作品にした。

資生堂の広告は日頃目にしているが、商品に興味を引かれることがないので、見過ごしてきた。展示品には、雑誌の表紙絵、口絵、挿絵などのイラストの原画が100点ほど展示されていた。また資生堂の広告に使用されたものもあった。そのほか、油絵も数点展示されていた。見る限り、油絵よりもイラストレーションの作品が異彩を放っていた。

言われてみれば、イラストの女性は竹久夢二の描く女性に似た雰囲気をどこかに持っている。また衣装のデザイン化された植物模様などは、ビアズリーの影響を受けているように見える。

最後に置かれていた資料を見ていると、資生堂には資生堂書体があって、山名文夫は資生堂書体の主要な漢字、ひらがな・カタカナ、欧文アルファベットの書体の手引書を作成しており、現在でも、資生堂の新入社員のデザイナーは、この手引書をもとに、この書体を手書きに練習して身につけるという。原則さえ押えて置けば、その後はデザイナーの個性で文字をデザインすることが許されるという。

山名文夫というイラストレーターの存在を初めて知った。
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龍尾神社のしだれ梅




(龍尾神社のしだれ梅)

ネタ切れだと書いたので、女房が気にしたのだろう。午後、掛川の龍尾神社のしだれ梅が身頃だと新聞に出ているから見に行こうと誘う。願ってもないことで、出かけた。女房は一緒に行くのは初めてではないように言うが、自分は初めてである。女房は友達と何度か行っている。その割に場所が判らずにうろうろした。ようやく手書きの看板を見つけて、それをたどって行った。かなり広い駐車場が一杯で、10数台の駐車待ちの後ろに並んだ。

観梅料金が500円、入口でもぎりの係員に1日何人くらいの入場者があるのか訊いている人がいた。多いときも少ないときもあるという答えにならない返事をしていた。知らないのか、言いたくないのか、その両方かもしれない。

園内に入ると、赤、白、ピンクのしだれ梅が谷間を埋めて壮観である。入口の係員は山の上の方がきれいでメインになっているとアドバイスをくれた。女房は日が当っておれば色が映えてもっときれいなのだがと残念がる。今日は雲が厚い。こんな日の方が写真は楽にきれいに撮れるとプラス志向に話した。

しだれ現象は樹木の劣勢遺伝で、色々な樹木に見られる。自然界では立ち上がって行かない樹木は他の樹木に負けてしまい、大きく育つことはまれである。人為的に支えをして、ある程度幹が太くなって自らを支えられるようになるまで育てることで、枝のしだれる美しい樹木が育つ。しだれ樹木の持つ危うさはそんなところに理由があるのだろう。

しだれ梅の間を縫うように遊歩道が右手の小高い山に登って行く。山の上もしだれ梅に覆われて見事であった。樹齢は判らないが、古いものでも20~30年といったところであろうか。まだまだ若い木である。一本一本が良く手入れされて、一年を通して専門家が手を入れていることを感じさせた。

掛川大祭に出る稚児の花幌は「しだれ桜」なのだろうと思っていた。しかし、大きさからすると「しだれ梅」そっくりである。




(龍尾神社のしだれ梅)

お花を言葉で表現するのは何とも難しい。ある客はまるで花火を見るようだと表現した。自分は、滝の白糸の水芸を見るようだと思った。しだれ桜の巨樹に「滝桜」と命名されている木がある。それを踏まえてであるが、何とも表現が古い。言葉の足らないところは写真を見てもらうしかない。とにかく山から谷まで埋め尽くされたしだれ梅に堪能して出て来た。

後で、龍尾神社にお参りしたが、やはり龍尾神社に来るのは初めてだと確信した。龍尾神社は掛川城の守護神として、代々城主に尊崇されてきた神社である。
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ブログ書き込みの舞台裏

(土手の名も知らぬ花)

ネタがないので、毎日、ブログをどんな風に書き込んでいるのか。語るに落ちるかもしれないが、そんな舞台裏を書いてみよう。何気なく「語るに落ちる」と書いたが、ちょっと違うかと思って、ネットの辞書を引いてみると、「問い詰められるとなかなか言わないが、かってに話させるとうっかり秘密をしゃべってしまう」なるほどそういう意味か。

毎日ブログを書きはじめるのは午後11時過ぎである。最近は、何を書くか、まだ何も決まっていないことが多い。パソコンに座る前に、まず風呂に入る。人間は個室で一人いると良い考えが浮かんでくることが多い。じっと湯に浸かっている間にテーマが浮かんでくることもある。そういう時はおおまかな筋書きまで考えて見たりする。

しかし思い浮かばないときは、パソコン画面を出して、本日あったこと、誰かが話したことなど、何でも良いから書き出してみる。例えば「朝起きて顔を洗った」でも良い。思いを自由に遊ばせると、話がどんどん脱線していく。「お湯が出ていなくて、冷たいと思った」「顔を洗って最も冷たいと思ったのは」「山小屋の朝で、顔を洗おうとした水に氷が張っていた」「剣岳登山の朝、剣山荘は」などと、脱線した部分を膨らませると、大体一回分の書き込み位になる。

最初に書き始めてきっかけを与えた部分は、不要になるからカットする。これで初めからテーマを持って書いているように見える。写真がテーマに合致しているときは、あらかじめ準備がされている場合と考えてよい。話題と関係ない花の写真を載せる場合は、この方法で書き込んだ場合が多い。

テーマがあれば、1時間で書いてしまうこともある。しかし、途中で調べながら書いていくと2時間も掛かってしまう。昨日の書き込みも幾つか調べながら書いていて、2時間掛かって、書けたと思い、アップしようとして、間違えてすべて消してしまった。

もう一度、書き直しをするほど情けないことはない。今日は書き込みを止めようかと思った。そんな時は同じ内容に書こうと思わないようにする。テーマは一緒でも、全く別の内容で書くようにする。そうすれば耐えられる。昨日は間違えて消すことを2度もやってしまった。だから、おそらく最初に書いていた内容とかなり違ったものになったはずである。後で書いたものの方が内容が充実している。そんな風に思うようにしている。挫けそうになったが、何とか頑張ってアップを終えたら午前3時半になっていた。

本日は、ここまで約1時間を要した。何か写真をさがそう。
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遠江三十三観音二十四番霊場

(岩崎山観音寺)

ムサシの散歩の途中に、しばらく前から遠江三十三観音霊場の赤い幟が目に付いていた。大代の集落の入口あたりの道路右側に幟が立っていて、今日も前を通ったので、ムサシを連れて寄ってみた。道路より参道を50メートルほど入った所にお堂がある。あたりは第二東名工事ですっかり変ってしまい、お堂の背後にも、第二東名の壁が迫っている。お堂の名前は遠江三十三観音二十四番霊場、岩崎山観音寺である。

遠江三十三観音霊場の巡礼は、かつては近郷の農家の農閑期の楽しみにもなっていて、一週間ほどかけて巡礼したのだといわれている。現在も霊場保存会があって、お彼岸などに車利用で巡る人もいるという。掛川を中心に西は旧豊岡村、東は旧金谷町に及ぶ地域に観音霊場は点在している。

平成5年2月から平成6年12月の2年掛けて、会社の先輩3人を誘い、会社の休みに、延べ10日間かけて、遠江三十三観音を歩いて巡った。そのときの記録が取ってあるが、岩崎山観音寺には平成5年3月25日に粟ヶ岳から回ってきてお参りしている。その日はお彼岸の期間中で、詰めていた地区のおばさんたちにお接待を受けている。

観音堂前に張られたテントにおばさんが3人、我々に気付いて慌ててお茶の準備をし始めた。秋の彼岸の間中交替で詰めている。かっては昼食には家に帰っていたが、その間にお参りがあったりしたので、この頃はお昼もお弁当をここで食べるのだと話す。この頃は参拝する人も殆どないと淋しがる。

15年も前の話だが、今考えると、その巡礼体験が今回の四国お遍路きっかけになっていたように思う。あの後、いつか四国お遍路に出かけようと考え始めたような気がする。


(三十三観音石像)

お堂の左側に、屋根を掛けた石仏が何体か集められていた。その中に、将棋の駒の形の石に三十三観音がレリーフに刻まれているものがあった。横へ8体並び、4段あって、その上に1体のっている。「三十三観音石像」とでも言うべきもので、自分は初めて見るものであった。細部は風化があって確認するべくもないが、かなり古いものに見受けられた。

ムサシがお堂の前で、あちこちを落ち着き無く嗅ぎだして、後ろ足を上げようとするので、リートを強く引っ張って、ここでは駄目だと知らせた。ずいぶん遠くまで道草したけれども、疲れた時にムサシが見せる、テコでも動かない態度を示すことも無く、元気に家路を急いだ。
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自費出版の見積が来た

(庭のヒヤシンスの花)

今朝、O印刷さんから自費出版の見積が来た。部数200冊で単価にして3000円弱、300冊にすると2000円強という数字であった。300冊に増やしても見積額はそんなに変らない数字になっていた。想像していたより高かった。8の倍数でページ数が増えると高くなるというから、概ね出来上がっていた原稿を短くする作業に入った。とりあえず所々に取っていた一行空けたスペースのを詰めて10ページほど減らし、一日の初めに入れた路程を外して10ページほど減らした。合わせて20ページ減ったが、さらに後20ページ程減らせば、2割方、ページ数を減らせれる。

文章は短くすればするほど、読者への負担が減らせるから、読みやすくなる。これをきっかけに、さらに推敲を進められると思えば、悪いことではない。思い切ってエピソードなどもカットを考えよう。何とか今月末を目処に原稿をまとめるとO印刷には話した。

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次兄のブログ、「豊文堂日録」は順調に始まったようである。次兄には書きたいことが溢れるほど溜まっておりそうで、当分書くテーマに事欠かないだろう。羨ましいかぎりである。自分はといえば、このところ、お遍路記録のまとめで時間を取られて、十分な取材も出来ないから、テーマに汲々としている。書き込む時間になっても、頭が空っぽという日々が続いている。

「豊文堂日録」を「かさぶた日録」から跳べるように、ブックマークに入れた。「かさぶた日録」を最もしっかりと読んでいただいているO氏にその旨を伝えて覗いてみてもらった。

字が細かくてびっしり書かれていて、わーーと言うのが第一印象であった。パソコン画面で読むには、文字をもっと大きくして、一文字下げている段落で、一行空けるぐらいにした方が、目で追いやすく、読みやすい。テンプレートを替えると文字の大きさも変るからやって見る事を進める。

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今年も庭のヒヤシンスが咲いた。女房が年々球根を分けて増やしているから、たくさん出てくる。しかし、年々色が淡くなっているような気がする。そこで過去の花を比べてみた。確かに昔のヒヤシンスの方が勢いがあって色もピンクが鮮やかである。これは単に肥料が足らないだけかもしれない。当家の植物はどれもこれも肥料切れを起こしている。頑張って肥料を撒いて回ろうか。
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甘夏の実がたくさん落ちた

(土手のタンポポ)

このところ、甘夏の実が風や雨の後、たくさん落ちている。毎年、ある程度は落ちるのであるが、今の時期、拾ってきても、まだ十分大きくなっておらず、甘さものっていない。それでも食べられないこともないから拾ってくる。生食するには少し加工が必要である。果肉だけを外して砂糖を加えて冷蔵庫に入れて馴染ませれば、食後のデザートになる。ただし糖尿の心配のある人には勧められない。

昨日も時間があったので、七つほど皮をむいて、袋に背中から庖丁を入れ、種を外しながら裏返すようにして果肉だけを外す。なかなか根気のいる仕事であるが、七つで深皿一杯になった。砂糖の加え方は女房に任せた。

昼前にまーくん一家がやって来て、急遽、昼を準備することになり、スパゲッティを作った。少し量が足らなくて、女房がぜんざいを作った。妙な取り合わせの昼食である。デザートに出したのが甘夏である。少し苦いかと思ったが、十分美味しいと食べてくれて、深皿が半分ぐらいに減った。

まだ、落ちた甘夏はたくさんあるので、たくさん作ってビニール袋に入れて冷凍しておくと、夏にミキサーで特製ジュースを作るベースになる。

今年はどうしてこんなにたくさん落ちるのか。女房の説では、家の甘夏はほとんど肥料をやらないが、毎年実をたくさんつける。直ぐそばに畑を作っているから、そこに入れた肥料を根を伸ばして盗んでいるのではないか。確かに畑を耕すとけっこう太いミカンの根にぶつかって、切ってしまう。ところが去年は畑も熱心に作らなかったから、肥料もそんなに入れなかった。甘夏の木としては肥料が十分盗めず、そんなにたくさんの実を育てるのは無理だと、甘夏の木自ら摘果しているのではないか。

説得力がある説で、少しは肥料をやらなければなるまいと思った。今年は例年よりも甘夏の収穫は少なくなるかもしれない。落ちた甘夏を加工して無駄にしないようにしておこうと思う。

午後、ムサシの散歩へ出たが、ずいぶん暖かく感じた。暖かくなると土手に花が咲き始める。今はタンポポや菜の花のような黄色い花が目立つ。ところで、自分の花粉症はまだ始まらないが、ムサシがクシュンと鼻を鳴らして、ひょっとしてくしゃみかと思う。散歩の途中に数回あった。過保護なムサシだから十分にありうることである。女房に聞くと、車の排気ガスなどに弱いので時々くしゃみらしきものをやるという。

人間が罹る病気はほとんど犬も罹る。薬もほとんど人間と同じでよく、量だけを間違えないように、体の大きさに合わせなければならない。そんなことを、ある獣医さんが話していた。それではベニフウキを煮出して、飲み水に加えて置こうか?
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公人朝夕人 土田孫左衛門由緒書

(今年も咲いたシンビジウム-頂いてから何年経つか?)

本日午後、「古文書に親しむ」に出席した。先月に続いて、「公人朝夕人土田孫左衛門由緒書」を読み解いていった。

信長公御代まで西美濃の内、大田村にて百八拾六貫、領知成り下され、まかりおり候、信長公いづ方へ御成りの節も御供仕り候、天正四年安土の御城御普請の節、奉行仰せ付けられ、その後百石、山城の内西岡と申す所にて御加増下し置かれ候、信長公、濃州より信州へ御発向の節も、濃州大田村先祖方へ御一宿遊ばされ候、信長公御他界以後、領知に相離れ引き篭り、まかり在り候ところ、秀吉公、関白に任ぜられ、参内の節、先祖の者召し出され、供奉仕り候
※ 領知 - 土地を領有して支配すること。
※ 発向 - 目的の場所へ向かって軍勢・使者などが出発すること。

一 高祖父  土田孫三郎
権現様、慶長八年、御参内の節、先年御規式御吟味の上、御同朋善阿弥へ仰せ付けられ、召し出だされ、御目見え仕り候、御紋付並び諸太夫の装束にて、御小便筒、懐中に仕り、供奉相勤め申し候、御装束たしかに長橋局へ相渡し候由、供奉の節は昇殿御免遊ばされ候

※ 権現様 - 徳川家康
※ 規式 - 定まった作法
※ 御同朋 - 朝夕人の上司

一 曽祖父  土田孫左衛門
台徳院様
大猷院様
御参内の節も、先祖の通り御目見え仕り、御紋付御時服並び諸大夫の装束、拝領仕り供奉相勤め申し候

※ 台徳院様 - 二代将軍秀忠
※ 大猷院様 - 三代将軍家光
※ 時服 - 将軍から、毎年、春・秋(または夏・冬)臣下に賜った服。

一 祖父  土田孫左衛門
巌有院様、御上洛の儀、御座なく候あいだ、明暦二(申)年、御当地へ罷り下り、御同朋珍阿弥、福阿弥を以って、先例の儀申し上げ、御目見え願い奉り候ところ、寛文十(戌)年十一月二十八日、御白書院御奥■にて御扇子献上、朽木伊豫守殿縦名御披露にて、御目見え仕り候、その後御扶持方の儀、願い上げ奉り候ところ、天和二(戌)年、月日は知らず、御扶持方拾人扶持、下し置かれ候旨、焼火之間において、御老中御列座、阿部豊後守殿仰せ渡され候、その後、年始八朔御目見え罷り出で、天和四(子)年正月二十二日、病死仕り候
但し年始御目見えの節ばかり、三本入扇子献上仕り候、八朔には献上仕らず候

※ 巌有院様 - 四代将軍家綱
※ 焼火之間 - たき火の間、いろりがある。
※ 八朔 - 八月一日、徳川家康がこの日江戸城入りをしたところから、武家の祝日となり、大名・旗本などが白帷子(しろかたびら)で登城し、将軍家に祝辞を述べた。

一 父  土田孫左衛門
常憲院様御代、天和四(子)年七月二十七日、祖父孫左衛門跡式、無相違なく下し置かれ、年始八朔御目見え仕り、元文五(申)年五月二十一日病死仕り候
御扶持方拾人扶持 本国美濃 生国武藏 土田孫左衛門 巳七拾五才

※ 常憲院様 - 五代将軍綱吉
※ 跡式 - 跡目。家督や財産の相続。

有徳院様御代、元文五(申)年七月二日、父孫左衛門跡式、相違なく下し置かれ候旨、御納戸前において、若年寄衆御列座、西尾隠岐守殿仰せ渡され、同月五日、願いの通り、父の名孫左衛門に相改め、年始八朔御目見え罷り出で、かつ年始御目見えの節、扇子献上仕るべき旨、西尾隠岐守殿仰せ渡され候段、加藤亥阿弥申し渡し候旨、飯塚圓貞申し渡し候、以上
※ 有徳院様 - 八代将軍吉宗
※ 壬(うるう)- うるう月

以上で由緒書は終る。連綿と続く不思議な役目、さすがに朝夕人は昔の話で、現代には残っていないが、現代でも残っている不思議な役目はあると聞く。
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男子フィギアをテレビ観戦して

(庭のクロッカスが咲いた)

バンクーバー冬季五輪がたけなわである。ついつい観戦してしまう。男子フィギアスケートのフリーでは思わぬドラマがおきた。若い小塚選手が4回転ジャンプを成功させるなど頑張った後で、織田選手がスケート靴の紐が切れるという不運なハプニングで7位に沈んだ。残るは高橋選手だが、いきなり4回転ジャンプで転倒して、それでもその後頑張って、ショートプログラムの貯金も効いて、銅メダルを取った。男子フィギアでは初のメダルである。おめでとうの言葉ですべて良しということになったが、ちょっと待てよと思った。

小塚選手は果敢に4回転ジャンプにチャレンジして、練習でもそんなに成功しない4回転ジャンプを成功させてしまった。これは賞賛に値するし、4年後は彼が中心になるのではないかと期待させるものがあった。

織田選手は成功率の小さい4回転は封印して固くまとめる考え方を取った。それはそれで悪くはないが、ショートプログラムで4位で、上の3人とは点差も少し開いていて、メダルを狙うならば4回転にチャレンジする位でないと難しいと思われた。だからひどく消極的だなあと思って見ていた。

そこへ靴紐が切れるという前代未聞のトラブルである。後の談話で練習中に切れたのを感覚が変るのを恐れて、紐を結んで直して本番に臨んだと聞いた。その話を聞いて耳を疑った。スケートにとって何が大切かといえばスケート靴と誰も思う。その紐が切れて変えないで本番を迎えるということが本当にあるのだろうか。門外漢の自分には何とも判断できないが、スケートで足元にたとえわずかでも不安が残れば、いいすべりが出来るはずがないと思う。本当に、コーチもそれを諒としたのだろうか。織田選手は戦う前にすでに負けていたような気がする。

全く次元の違う話で申し訳ないが、お遍路で1日30km歩いていたときに、何が一番大切であったかというと靴であった。合わない靴を履いてマメを作って苦しんでいる人がたくさんいた。自分も足元に不安があったらあれだけの歩きは出来なかったはずである。

高橋選手の4回転へのチャレンジには拍手したい。結果的には4回転の失敗は3回転の転倒と審判されて、初めから3回転にしておれば難なく飛べて失点も無かった。転倒が無ければ、金や銀にも手が届いたかもしれない。そうかもしれないが、チャレンジしなくて金や銀に手が届かなかったら、悔いが一生残ったと思う。試合後の高橋選手の晴れやかな笑顔を見て、チャレンジには失敗したが、悔いを残さなかった笑顔だと思った。おめでとう!高橋選手。
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