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日本左衛門騒動記 21 関係者御処分の事

(日本左衛門首塚、島田市金谷の宅円庵)

日本左衛門のお墓(昨日の写真)は磐田市見附の見性寺にある。一昨日、見に出かけた。何と言っても獄門にさらされた極悪人である。小さなお墓であった。ただ、そのお墓に入ったのは首を除いた身体の部分で、獄門にさらされた首は金谷のおまんという愛人が見附宿から持ち帰り、金谷の首塚に葬ったという。

日本左衛門騒動記と、金谷の首塚の案内では、日本左衛門は江戸で処刑されて、見附で首がさらされたという。しかし、見性寺の案内では見附宿の中を引き廻し、見附宿三本松の刑場で処刑され、首がさらされたと記されていた。どちらが本当なのか。3月といえば、新暦の4月で、冷蔵技術のない時代、江戸で処刑して見附まで、首だけならとにかく、死体を運ぶのは無理がある。だから、処刑は見附で行われたというのが本当のような気がする。そうすると、再び東海道を江戸から見附まで唐丸籠で戻ったのだろうか。

日本左衛門騒動記の最後を解読しよう。

小笠原土丸殿不首尾の事
一 御領分大池村惣右衛門と言う百姓、富貴なる暮しなり。然る処、御地頭へ御用金、度々仰せ付けられ差上候えども、利金とても下さらず、甚だ難義致し候。その後、盗人ども押し込み、家内の者に残らず縄をかけ、無躰に金子千両程取られける故、早速御地頭役所へ訴え出候処、役人中申されけるは、先だって駿州久能山御普請に付、御手伝い仰せ付けられ候に付、金子入用の筋、その方へ頼みければ、その方、金子持ち合わせこれ無しと言って、御用に立たず。左候えば盗人に取られ候金子はこれ無き筈と、大きに叱り、吟味もこれ無く追い帰され、惣右衛門は是非もなき事かなと立帰り、舅(しゅうと)三右衛門にこの由を具(つぶ)さに咄しける。三右衛門一々聞き届け、さてさて残念なる事なりと、願書を認め、江戸御奉行所へ罷り出で願いける。

その後、土丸殿役人不吟味なる由にて、奥州店倉(棚倉)という所へ国替仰せ付けられ、偏えにこの度の不首尾、役人の不働き、殿に対して大不忠、不届き至極の役人なりと、人々申す事、盗人ども御仕置これ無き内は、五月七日まで閉門仰せ付けられ候。
※ 土丸殿 - 掛川藩小笠原家第三代藩主。小笠原能登守長恭(ながゆき)。当時、幼君であった。

遠慮仰せ付けられ候事
 相良            横須賀
一 本多越中守殿       一 尾隠岐守殿
 吉田            浜松
一 松平伊豆守殿       一 松平豊後守殿
右盗賊ども、御仕置きこれ無き内、三日ずつ遠慮差し控え仰せ付けられ候

一 遠州向笠村、百姓三右衛門、江戸御奉行所へ御訴え申し上げ、早速御聞き届け、遠州の盗人ども、御威光を以って御召し捕り、根を断ちて葉をからし、誠に御仁徳の有り難き事、万民の悦び、閉ざさぬ御代となり、太平楽を歌う声々、国々村々みち/\けり。先だって召し捕られたる盗人どもを徘徊致させ候、村々の名主、組頭、退役仰せ付けられ、過料として、名主は拾貫文、組頭は五貫文、五人組の壱組へ弐貫文ずつ、仰せ付けられ候。又押し込みに合い候村、早速訴え出ず、またはかくし居り候名主は手錠、組頭は七日ずつ閉門仰せ付けられける。誠に前代未聞の事どもなり。
 文政十三年        孝念 
  庚寅の二月        これを写す。

(日本左衛門騒動記、読み終り)
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日本左衛門騒動記 20 徳山殿、日本に御尋ねの事(後)、御仕置の事

(見附宿、見性寺の日本左衛門の墓)

日本左衛門騒動記の解読を続ける。明日で読み終わる。

能々承り候えば、今以って御仕置御座なく、我ら出でざる内は、拷問責めやむ事なしと承り、これに依り、片時も早く訴え出申すべきと、早々伏見へ参り、大津へ出、信楽通り、南都へ出、堺へ行き、高野山へ参詣仕り、それより大坂へ又立ち帰り、又々京都へ出、極月廿五日に永井丹波守様御役所御門口まで参上仕り候て、見合い候処、時分柄、殊の外御取り込みに見え候ゆへ、暫く差し控え、

思えばこの世に越年致す事、今年ばかりに候故、大神宮へ御暇乞い仕るべきと、伊勢両宮へ参詣仕り、最早大晦日、外宮の前、旅篭屋に越年仕り、正月二日に出立仕り、六日の夜京都へ着き仕り候。七日に町奉行所へ罷り出候。

右申し上げ候処、一々相違御座なく候。御尋ねの儀、御座候わば、追々御答え申し上ぐべく候。外に悪党御吟味の筋は毛頭御座なく候。御慈悲の思し召しを以って、早々御仕置仰せ付けられ下し置かれ候様、偏えに願い奉り候。以上。
 延享四卯二月二日    浜嶋庄兵衛異名、
                  日本左衛門、歳廿九才。

これより御仕置の事
その後、日本左衛門召し出し御詮義極まり、三月十一日、江戸中を引き廻し、牢内において死罪に行う者なり。その首、遠州見附宿へ送り、獄門に掛け候。その場所坂上に三本松と言い仕置場あり。この所にさらす者なり。
※ 行う -(死罪に)処する。

    異名日本左衛門
          浜島庄兵衛
    平四郎事
          中村佐善
    駿河
          岩渕弥七
    遠州見附宿七里役人
          中嶋順助
    武蔵今弁慶
          赤池法院

右の者どもばかり、獄門も懸かり、その外の者ども、打首死罪に行う者なり。中にも遠島に成る者も有る。日本左衛門、佐善ばかり江戸中引廻し、日本左衛門はその日浅黄無垢を着しける。この節、牢内にて大病相煩い以って日頃の元気さらになし。見苦しき躰なり。

それより、御仕置場にて、私、辞世を申したく、願いければ、役人衆聞き届け、料紙、硯、御取り寄せ、御書付成られ候。

  おし鳥(押し取り)の 人の思いは かさ成りて
    身に青あみの 名こそ残れる

打ち首の者どもの事、並び遠嶋に仰せ付けられ候者ども。

 ほう白 長治郎          小ずい  源次郎
      養益            古着買  太次郎
      平蔵            博奕宿  万右衛門
      源右衛門         草履取  伝右衛門
      金兵衛        右の四人は遠島なり。
右五人の者ども死罪なり。
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日本左衛門騒動記 19 徳山殿、日本左衛門に御尋ねの事(前)

(庭で何年も絶えないペチュニア)

近くの製茶工場の屋上で、美しい声でさえずる小鳥を、パソコンの部屋から何年も聴いて来た。その声の主を今朝調べる気になった。ネットで調べると、オオルリと直ぐに判明した。オオルリは島田市の鳥に指定されている。しばらく、パソコンの声と、外のさえずりとの共演を楽しませてもらった。おや? ホトトギスの声が通ったのは、外かパソコンか、どっちだったのだろう。

日本左衛門騒動記の解読を続ける。

徳山五兵衛殿、日本左衛門に御尋ねの事
かくて五兵衛殿御尋ねの趣、その方生国は何国なりやと有りければ、日本左衛門答ける。私、生国尾張の者にて、始めは重右衛門と申す。また浜嶋庄兵衛と改名仕り候。人々日本左衛門と異名を付け候。久々遠州見付宿近所に徘徊仕る。盗人の頭取仕り、百姓、町家、あり福の家へ手下餘多引き連れ押し取り、金銀衣類奪い取り候儀、相違御座なく候。

これにより、江戸表へ御訴え願われ候人これ有り、御捕り方、去年九月廿日の夜、見附へ御越し、万右衛門家にて壁を突きぬき、一条に秋葉山越え、信州より西国辺へ罷り越し候えども、人相書を以って、諸国一統御尋ね下され、私、身の置き所これ無く、とても遁げれざる事と存じ、去る極月、京都御奉行所へ参上仕り候えども、殊の外、御繁用御取り込みの御様子に相見え候故、差し控え罷り在り候て、当正月六日、永井丹波守様御役所へ罷り出候。三ツ井下総守様御出会いにて、当御番所へ御引渡し遊ばされ候。
※ 一条に(いちじょうに)- 一筋に。
※ 一統(いっとう)- おしなべて。


徳山五兵衛殿御尋ね、その方同類、他国にもこれ有りやと申されける。私同類は皆無宿者にて、何方へ参り候事、勝手相知り申さず候。日本左衛門、逐一(ちくいち)申し上げる。且つ私義、去年九月廿日の夜、遠州見附宿横町、万右衛門方にて逃げ延び、それより秋葉山越え、三州御油宿に泊り、私仲間浪人者これ有り、この所に四五日逗留仕り、博奕打ち申し候。

それより大坂表へ罷り登り、暫く居り、讃岐の金比羅へ参詣仕り、七、八日逗留仕り、何角商売仕るべく存じ、大阪へ罷り帰り候処、私、人相書を以って、国々厳しく御尋ねこれ有り候故、九州辺へ心掛け、長門の下の関まで罷り越し、それより芸州宮嶋へ参詣仕り候処、
※ 何角(なにかど、何廉)- どのような。

これまた人相書相廻り、茶屋にて皆々打ち寄り見る前を、知らぬ顔にて聞く処、ことごとく胸に応え、早々立ちのき、周防の国岩国へ参りて、私懇意の浪人者あり、この者と申し合わせ、海賊仲間へ入るべしと存じ候処、よく/\思案仕り、我一人逃げ延び候とも、大勢の手下、日々に問状責め苦しみ、我れ見えざるを恨み悲しむ事を思い、誠に天命逃るゝ事なしと存じ、一日も早く名乗りて、大勢の者くるしみを除かんと、岩国を立ち出で、
※ 問状(もんじょう)- 答弁を求めるための質問書。

長門下の関へ参り候所、殊の外大風にて、天氣悪しく候ゆえ、日和を見合い、十一月十四日より廿日まで逗留仕り、それより快晴に船に乗り、備後の鞆江(ともえ)と申す所へ着く。極月朔日に大阪表へ着き仕り、暫く逗留致し、江戸表手下の者の御仕置ありやと、我も切腹致すべきと存じ、書き置きに金子も少々相添え、懐中仕り候。
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日本左衛門騒動記 18 日本左衛門出頭の事(後)

(裏の畑のアマリリス)

日本左衛門騒動記の解読を続ける。

三條通りにて、髪月代を致し、ここぞこの世のはれなるぞと、衣服改め給いける。下に白無垢、浅黄無垢、上に黒羽二重、帯は黄羅紗のはゞ広にて、印籠、巾着、最上のおじめは珊瑚珠、大玉にて、根付け象牙の玉獅子にて、茶羅紗の紙入、脇差まで金銀、後藤の細工にて、さしも立派に出で立ちて、正月六日巳の刻に、町御奉行永井丹波守殿御番所へこそ出でにける。
※ 髪月代(かみさかやき)- 髪を結い月代を剃ること。
※ おじめ(緒締)- 袋物の緒を束ねて通し、口を締めるための穴のあいた玉。緒止め。
※ 後藤の細工 - 後藤彫の彫金は有名であった。


恐れながら申し上げ候意趣は、私義、先だって御尋ねの日本左衛門と申す者に御座候。恐れながら御直談申し上げたき義に御座候て、罷り出で候。御取次下さるべきと申し上げる。与力衆中、聞き届け、早速丹波守様へ申し達しければ、その者白砂へ通すべしと、与力、同心前後をかため、先ず脇指を取り、無腰にて白砂へ召し出され、丹波守、三ツ井下総守、御両所出でられ、日本左衛門とは我が事か、名乗り出る事、神妙なり。
※ 意趣(いしゅ)- 理由。わけ。
※ 直談(じきだん)- 他人を介さないで、直接に相手と談判すること。


何の願い有りけると御尋ねこれ有らば、日本左衛門、我れ去年九月廿日の夜、遠州見附宿にて博奕勝負仕る処へ、江戸表より捕り手の衆中、押し込み候所、漸々逃げ延ぶ。それより段々西国辺へ罷り越し候所、手下の者ども残らず召し捕られ候よし。我出でざる内は、右の者ども、拷問責めなやみ、御宥免有るまじと存じ罷り出で候。一刻も早く関東へ御引渡し、大勢の者ども責めを御許し、御慈悲を以って御成敗下さるべしと願いける。
※ 宥免(ゆうめん)- 罰を軽くするなどして、罪を許すこと。大目にみること。

この趣、所司代、牧野備後守殿へ申し達しける。誠に大悪無道の者なれども、智勇勝れし強盗の長本なり。道に背かぬ者ならば、一方の御用にもたつべき者、惜しき事なりとぞ申されけり。

先ず暫く牢へ遣わし置き、関東へ差し下すべく評義一決して、道中宿々御觸れ流しこれ有り、御所司代より、物頭一組、足軽十五人。両町奉行所より与力、同心、弐人ずつ付け、御用御長持外、挑灯(ちょうちん)持ち、十五人、梢払い(さきばらい)前後四人ずつ、道中休み、泊り、その宿々の役人襷を着して、昼夜ともに厳しく番を致し、遖(あっぱ)美々しき召人なり。
※ 美々しい(びびしい)- はなやかで美しい。
※ 召人(めしうど)- とらえられた人。囚人。


同正月廿八日に江戸表へぞ付きにけり。これも本所徳山五兵衛殿へぞ渡されける。
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日本左衛門騒動記 17 盗人共御詮義の事、日本出頭の事(前)

(散歩道のユリ)

日本左衛門騒動記の解読を続ける。

先だって入獄致し置き候盗人ども、白砂へ召し出し御詮義の事
一 江戸本所石原。徳山五兵衛殿、御役所において、牢内より盗人どもを召し出し、種々品を替え拷問に懸けせめられける。日本が行え誠に知れざれば、是非なく差し置きになり、その年は月迫に及び、明日、延享四年卯(1747)の正月、民の釜戸(かまど)もにぎわしく、春めき渡る人心、遠州の百姓、町人、宿々に至るまで、心ゆたかに暮しける。
※ 月迫(げっぱく)- 月末。つきずえ。特に十二月末がさし迫ること。

然るに、徳山五兵衛殿、年始御祝儀など相済み、御殿中御儀式相済み、獄人ども種々様々と責めけれども、行方は知れざりける。残り方無しとぞ申されける。

日本左衛門、長門の国より京都へ帰る事
かくて日本左衛門事、去る九月廿日の夜、見附宿万右衛門が所を逃げ出し、夜の内に秋葉山越えに、美濃の国垂井へ出て、長門国まで罷り越し、また伊勢山田古市の女郎屋へ参り候。

先だってなじみし女郎と遊びし所に、何やら人集りて、絵姿を見物す。よくよく聞けば、我が事なり。さてさて日本国中六十余州、浦々嶋々までも人形をもって相尋ね候趣と、大きに驚き、膝を打って身をふるい、先ず人にさとられぬ内にと思い、知らぬかおにて奥座敷へ通り、つくづくと思案し、
※ 人形(ひとがた)- 人相。人相書き。

最早世界に宿も有るまじ。殊に我れ出でざる内は、手下の者ども、日々に拷問に掛けられ、嘸(さぞ)我が行衛知れざる故に、恨み悲しむ事必定なり。また弟分の佐善も、京都にて召し捕られしと聞く上は、逃げかくれ致すも、仲間の者へ義理立たず、一刻も早く名乗りて出ずべしと思い定めて、かの馴染みのあげまきという女郎と、別れの酒を呑まんと、かの揚巻をよび、今更改め申すも気の毒ながら、我が事はこの節、御尋ねの日本左衛門なり。これより直ちに御番所へ名乗り出る所存なれば、今宵この世の別れなりとゆえば、

あげまき涙ながら、年月馴染みし事なるに、知らずになんの居ましょうぞ。とてものがれぬ事ならば、我身を御手にかけられて、ともに死んで未来でそうて下さんせと、たもとにすがりなきければ、日本、共に涙を流し、その方の心底頼もしきし、忝けなし。しかし我はこれまで大悪無道の罪人なり。跡にて回向(えこう)を頼むなり。

我は是より津の町の国府の阿弥陀へ参詣し、西条へ参り、明日ひそかに忍び来たるべし。これを暫く預け置くと、懐中より紫の帛紗取り出し渡しける。名残おしく思えども夜明けの鐘を暇乞いと思いあきらめ、立ち出て両宮へ参詣し、直ちに京都へ急ぎ行く。
※ 国府(こう)の阿弥陀 - 三重県津市大門の恵日山観音寺。津観音と称される観音とは別に、伊勢天照大神の本地仏の阿弥陀三尊が祀られる。「国府の阿弥陀」と称し「阿弥陀に詣らねば片参宮」と伝えられ、参詣者を集めた。伊勢音頭の「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ」の由縁。
※ 西条 - 三重県鈴鹿市西条。伊勢国衙や国分寺などがある。
※ 帛紗(ふくさ)- 袱紗。儀礼用の方形の絹布。進物の上に掛けたり、物を包んだりするのに用いる。
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日本左衛門騒動記 16 紀州七里役人中嶋順助召捕の事

(庭のツツジの花)

日本左衛門騒動記の解読を続ける。残る所、今日を含めて後5回ほどであろう。

紀州七里役人、中嶋順助召し捕らるゝ事
一 この度、遠州表において、日本左衛門が手下の者ども、御召し捕りの弐十人は、九月廿九日に見附宿より江戸表へ、目籠に入れ出立致し候。道中宿々、堅固の役人、昼夜ともに厳しく番を致しける。則ち十月三日小田原宿に着き仕り候。
※ 目籠(めかご)- 物を入れる、目を粗く編んだ竹籠。

然る所に江戸表より当宿まで飛札を以って申し参る。遠州見附宿、横町万右衛門、太次郎、この両人先だって召し捕り置き候えども、願いに付、縄をゆるし候趣は、日本左衛門を尋ね出し、御手に入り申すべくと申す故、所の役人に預け置き、一札を取り候。
※ 飛札(ひさつ)- 急ぎの手紙。急報。飛書。

さてまた中嶋順助義は、紀州様の七里役人、遠慮致し、江戸表へ御窺い申し上げ候。徳山五兵衛殿御役所より、早速御返事参り、少しも遠慮に及ばず、早々からめ取り来るべしとの御事なり。則ち、かの万右衛門、太次郎、腰縄にて順助宅へ案内致させ、捕り手の両人飛込んで、御上意なるぞと声を懸け、取って追い伏し、高手小手くゝし上げ、順助は夢心ち歯噛みをなし居たりける。紀州の役義も請けながら、一手も合わさず、やみ/\捕られし事、無念骨随に徹し、紀州の御家老へ対し、残念なりと後悔致しける。それより問屋役人に申し付け、目籠に入れ青網をかけ、江戸表へぞ、十月九日出立す。
※ 高手小手(たかてこて)- 両手を後ろに回し,首から肘・手首に縄をかけて厳重に縛り上げること。
※ くくし上げる - 固くくくる。縛り上げる。
※ やみやみ(闇々)- 何もできないさま。みすみす。むざむざ。


さてまた岩渕弥七が白状に依って、中村佐善と言う者有り。この者は京都にて召し捕らるゝなり。先だって召し捕りし賊人ども、本所徳山五兵衛殿へ相渡し、直ちに入牢致しける。明日より引き出し、日本左衛門が有り家を御尋ね、拷問にかけけれども、勝手相わからず、岩渕弥七申し上げる。日本左衛門義、先月廿日の夜、私方へ参り、先だって預け置き候金子、急に入用の筋にて、即、預り金子弐百両、相渡し候えば、そのまゝ懐中いたし立ち帰り候。

また中村佐善事、これは日本が弟分にて、三ヶ年以前、金子三百両、衣類、大小まで支度いたし、尾州浪人と申したて上方へ登り、京都梶井宮様に、宜しく御奉公相勤め候由、承り候。若しこの方へ参り候事も計り難く、この上は如何様に御せめ成られ候とも、一向申し上げ候義、御座なく候。一日も早く御仕置仰せ付けられ候わば、有り難き仕合わせに存じ奉り候。これにより、その日は籠内へ入れられにける。

さてまた、徳山五兵衛殿より本田紀伊守殿へ、弥七白状の趣申し達し、評定これ有り、京都所司代、牧野備後守殿、右の趣、飛札を以って申し遣し候処、早々町奉行を召し寄せられ、右の段、仰せ渡され、早々梶井宮様へ使者を以って、かの佐善を町奉行所へ召し出し、白洲において、
御上意なるぞと縄をかけ、所司代牧野備後守殿へ御訴え、目籠に入れ、青網をかけて、役人弐人、並びに町与力、同心、足軽十六人、外に佐善が贓物、長持に入れ、人足十六人、京都出立つ致し、杖払い四人、その外、問屋年寄、下役人、道中厳しく徳山五兵衛殿へ相渡しける。
※ 贓物(ぞうぶつ)- 犯罪によって他人の財産を侵害し、手に入れた物。盗品の類。贓品。
※ 杖払い(つえはらい)- 近世,貴人の通行などの際,その一行の先に立って先払いをすること。露払い。
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日本左衛門騒動記 15 日本左衛門一味捕り物の事(後)

(庭のキンギョソウ)

先ほどまで、なでしこジャパンがオーストラリアを1対0で破って、女子アジア杯で優勝するのを見ていた。一方、いよいよ、ザックジャパンがブラジルに出発する。今日は壮行会があったようだ。

日本左衛門騒動記の解読を続ける。

かくて行衛知れざれば、小随源八申しけるは、これより一里ばかり先、大久保村に日本が家老、岩渕弥七と申す者御座候。またこの道筋、戸市、定右衛門と申す者御座候。この者どもに案内致させ、弥七を尋ね成さるべしと申すに依って、戸市、定右衛門に呑み込ませ、早速弥七が宅へ急ぎ行く。
※ 家老(かろう)- 江戸時代,商家で家務を総括する手代。

磯野源八郎殿、小林藤兵衛殿、この二方は右の者より少し跡に参られ、弥七が門口に待ち居りける。戸市、定右衛門、今夜参る事、余の儀にあらず、日本殿、見附万右衛門方にて博奕始まり居りたる所、江戸表より捕り手の衆中、大勢入り込むと、蝋燭吹きけし逃げられたり。外の者は召し捕り、其元(そこもと)の有り家を具(つぶさ)に訴え致す者これ有り。今にも押し掛け参るべし。一刻も早く、何方へ成るとも、逃げられて宜しきかるべしと言う。岩渕弥七、大きに驚き、さてさて御親切、忝けなしと一礼をのべ、早々支度し、定右衛門と同道致し門口を出る所へ、隠れ居りたる捕り手両人、御上意なりと声掛けて、そのまゝ取って縄打ちけり。

明廿一日、日本左衛門は光明山の方へ逃げ延びし風聞、捕り手人々大勢召し連れ、右縄を許したる盗人どもに案内させ、山中へわけ入りて、木かげ、谷合い残らず尋ね候えども、行方知れず。
※ 光明山(こうみょうざん)- 浜松市天竜区にある標高594メートルの山。かつて、真言宗の山岳寺院、鏡山光明寺があったが、廃寺となる。火伏の秋葉山と水難除けの光明山の両参りが行われた。

是非なく見附宿へ帰り、廿二日、小林岡右衛門、星野磯八郎、伊之助、戸市、小随、この三人を召し連れ、三州の方へ尋ね行く。浜松の入口、天神町という所に、日本左衛門が草履取り、小ざる伝右衛門という者を、伊之助見付けて、則座に縄をかけられたり。小ざるが白状にて、池田村利兵衛、上新谷村甚兵衛が弟、この両人、大家杢之助殿御役所へ申し遣わし、早速召し取る。その外武八と申す者、先だって召しとられたる小ざるが差し口にて、源右衛門、長治、助太、平蔵、その外都合六人取られ候。
※ 差口(さしくち)- 密告。告げ口。

いよいよ日本が行衛知れざる上は、九月廿九日に盗人ども弐拾人、目籠へ入れ、青網をかけ、宿々厳しく江戸御奉行所へぞ引き連れける。
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日本左衛門騒動記 14 日本左衛門一味捕り物の事(前)

(散歩道のオオムラサキツユクサ)

日本左衛門騒動記の解読を続ける。

先ず壱番に、小林岡右衛門、続いて小林藤兵衛、この両人釼術の達人にて、その時の装束は、南蛮鎖を着込みにして、和泉守金定の脇指に、肥前守忠廣の刀を家来に持たせ、壱番に内に入り、かの悪者どもは大蝋燭を燈し、今を盛りと勝負を争い余念なく居たる所へ、取り手の両人、日本を目がけ、御上意なりと呼ばわって飛び込む間に、蝋燭を吹きけし、早業の機転勝れし日本は、横手の壁をつきぬいて、行衛知れずに逃げ失せたり。
※ 南蛮鎖(なんばんぐさり)- 南蛮鎖を使った鎖帷子。防御用に着込む。防弾チョッキの刀用と考えればよい。

日本左衛門、壁をつきぬき取り逃したりと、高音に呼ばわりければ、裏表の人足ども皆一同に声をあげ、それ逃すなと謂う声に、町内近所目を覚まし、何事成るかと驚き騒ぐ所へ、御上意の捕り手方と聞いて、それよりなお、町中大騒ぎ、燈灯、松明、星のごとく、男たる者残らず出、その近辺、小道、畑中、井戸、雪隠、物陰、木の下、堵手(どて)、井溝(いみぞ)、残らず皆々尋ぬべしと、下知の下る。
※ 高音(こうおん)- 大きな声。

その間に同類拾壱人、からめ取る。中にも頬白長次という奴は、片すみに隠れ居て、博奕場の金銀を暗まぎれにてかき集め、逃げ行く所を、小林藤兵衛飛び懸りて、追い伏せて縄掛けける。さて万右衛門家内は、近所、二階、縁の下、襖、物かげ、残りなく尋ねけれども、行方知れず。

宿役人へ申し付け、見附中残らず家捜し致すべきと、問屋・年寄、皆々付き添い、たんす、長持、小袖ひつ、桶ひつ、戸だな、薪部屋、井戸、雪隠に至るまで、尋ね捜せど見えざれば、縄付きの内、鬼長兵衛、小随源八、万右衛門を引き出し、汝ら日本が同類たる事、殊に博奕の宿など致し、甚だ以って科(とが)重し者ながら、今取り逃したる日本が行衛を尋ね出すならば、その科を許すべし。若しまた隠し置くに於いては、その百層倍のとが成るべし。
※ 問屋・年寄 - 宿役人には、問屋役を筆頭に、年寄、帳付、人足指、馬指、迎番などがいた。
※ 小袖櫃(こそでひつ)- 小袖を収納した蓋付の大型の木箱。


如何心意候と申しければ、三人口を揃えて、我々ども一命を御助け下されば、山海の底峰までも、命かぎりに尋ね出し、御手に入れ申すべしと、慥に受け合い申すにより、三人は縄を許し、早速その夜中に大草太郎左衛門殿役所へ、人足五拾人申し遣わされ、右三人の者どもに案内致させ、日本が常々入り込む村々へ尋ねにこそは行きにける。
※ 心意(しんい)- こころ。精神。
※ 大草太郎左衛門 - 代々、見附、中泉代官。
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日本左衛門騒動記 13 加勢として与力同心遠州へ遣され事(後)

(新じゃがとアンチョビとルッコラのスパゲッティ-ニ)

今日の昼は、「なるようになるさ」から、上記のスパゲッティに挑戦してみた。知らない食材が並んでいたので、近くのマーケットに買い出しに行く。田舎のマーケットにもアンチョビフィレは小さな缶詰であった。ルッコラ、黒オリーブは無かった。出来上がり写真を見て、黒オリーブの代わりにプチトマト、ルッコラの代わりにあお紫蘇とパセリ。似てもいないが、何とか形は出来た。味はこれはこれで良いかといったスパゲッティにはなった。塩加減が少し薄いかと思ったが、健康志向の女房はちょうどよいという。

日本左衛門騒動記の解読を続ける。

磯野源八郎殿申され候は、跡より加勢の人々、明後日参着有るべし。我々ども先だって撰び出され、跡より加勢を相待ち候ては、卑怯至極、なおまた、延引に相成り、悪党ども耳に入り、風を食うて逃げ失せ候わば、万代の無益なり。
※ 卑怯(ひきょう)- 勇気がなく、物事に正面から取り組もうとしないこと。また、そのさま。

今宵の内に押し懸けからめ取る事、然るべきと、各々至極承知致され、先だって願人三右衛門申すには、この所に伊之助と申す博奕打ち御座候。この者は日本とも日頃、心安く附き合いなど致す者に御座候と申す。依ってこの者を呼び寄せ、日本左衛門を見届け申すべきと仰せ付けられ、

則ち伊之助義、日本左衛門手下の者まで、得と存じ罷り有り候。私義世渡りの為、博奕仕り候。何分この度の義、御奉公相勤め、御手に入れ申すべし。私隣家に、平五郎と申す者御座候。この者同道にて、見附宿、日本左衛門が有り家を見届け、早々御注進仕るべくと申す。

右の両人、見附宿へ急ぎ行き、さてまた、その夜、日本は紀州様の七里役所、中嶋順助方に居たる事、慥に見届け、袋井へ立ち帰り、江戸御役人中へ御訴え申し上げ候。捕り手衆中、紀州御役所とあれば不遠慮にふみ込む事相ならず、外へ出たる節を見届け、注進致すべきと申す。直ちに平五郎は見附宿へ帰りける。

明廿日の夜に、横町万右衛門と言う者の方に、庚申待ちこれ有り、博奕始まり、日本始め手下の者ども集り、勝負致しける所を、伊之助見届け、そのまゝ袋井宿へ御注進申し上げる。捕り手衆中、問屋役人呼び出し申し渡し、この度我々ども、番所へ来る事、御公儀より御尋ねの儀に付、今晩見附宿へ罷り越す。依って随分達者成るものども、弐三拾人出し申しべきと仰せ付けられ、早速人足を出し、直ちに見附宿へ、問屋役人残らず御案内をぞ致しける。

折節、天気悪しく、誠に目さきも知れぬ真っくらやみ、捕り手の人々、忍び出で立ちゆえ、燈灯(ちょうちん)なども付けずして、漸々、戌の下刻に見附宿へ着く。今宵大勢捕り手の来る事、かつてしらず、捕り手は万右衛門が居宅表裏より、屈竟の捕り方追取巻(おっとりまき)今か/\と固唾(かたず)を呑み待居りたり。

※ 戌の下刻(いぬのげこく) - 午後8時20分から午後9時ごろ。
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日本左衛門騒動記 12 加勢として与力同心遠州へ遣され事(前)

(散歩道のヒルザキツキミソウ)

日本左衛門騒動記の解読を続ける。

徳山五兵衛殿より、加勢として与力同心遠州へ遣さる事
御月番紀伊守殿、思し召されけるは、この度の盗賊の儀、三右衛門が訴えの趣、皆々帯刀致す由、多分浪人のあぶれ者成るべし。先だって差し越し候捕り手、わずか五人、小勢にて賊人ども大勢徒党致さば、心元なしと、同九月十四日御評定これ有り、徳山五兵衛殿へ仰せ付けられ、今日中に遠州表へ加勢を遣すべしと有りける。

直ちに屋敷へ立ち帰り、屈強の者、与力堀内重次郎、同心立田孫助、山口藤太夫、佐藤久兵衛、都合四人の者、仰せ付けられ、早速支度致し、十五日出立にて藤沢宿泊り、この所問屋役人召し寄せられ、御用に付、この封状並び切紙壱通、遠州袋井宿問屋まで、急用これ有り、申し遣し候。早飛脚を以って、滞りなく遣しべしと申し渡す。

同十七日未下刻、袋井宿問屋へ相届き、問屋役人、御状の趣拝見致す。江戸御奉行御用と上書にあり、磯野源八郎殿、小林岡右衛門殿と御座候。切紙の文言、
※ 未下刻(ひつじげこく)-「未」は13時から15時。それを上中下三分割して、「未下刻」はおおよそ午後2時20分から3時頃。
※ 切紙(きりがみ)- 古文書学で,私的な正式でない場合に用いられた小型の文書のこと。縦,横に適宜に切られて用いられたことからいう。書簡や軍事的な連絡に用いた。


先だって、その宿、武蔵屋三郎右衛門方に旅宿致すべき由、如何候や。もしその宿に逗留これ無く候わば、見附宿の内、旅宿相尋ね、早々この状相届け給うべく候。相違なく頼み入る。
            江戸本所
               徳山五兵衛役所より
 九月十五日   遠州袋井宿
   酉ノ上刻    問屋役人中
※ 酉ノ上刻-17時から17時40分ごろ。

右の御封状並び御切紙、則座に武蔵屋三郎右衛門方へ持参致し、小林岡右衛門殿へ相渡し、先達して、取り方役人残らず打ち寄り、拝見致され候。その文言。
※ 先達(せんだつ)- 道などを案内すること。案内人。また、指導者。

一 この度、その表、人無き故、相談の故、加勢として、与力同心四人遣し候。堀内重次郎、立田孫助、佐藤久兵衛、山口藤太夫、この人数差し加え、各々手柄致さるべく候。
               徳山五兵衛役所
 九月十五日酉上刻
        小林岡右衛門殿
※ その表(そのおもて) - 「表」は江戸幕府または大名家で、公的な事務や儀式をする所。「その表」はその方の役所。

右の書状、各々拝見致され、評儀まち/\なり。
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