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節分の恵方巻きなど

(購入した節分関連商品)

夕方、女房が帰ってきて、恵方巻き2本ゲットしてきたいきさつを話す。我が家では節分に豆まきはするが、恵方巻きを食べる習慣は無かった。何を思ったか、恵方巻きを買って帰るといって出掛けた。夕方、マーケットに寄ると、恵方巻きはすでに売り切れていた。諦めてカッパ巻きなどで代用すると買っていく奥さんもいた。他の買い物をし、売り場の前を再び通ると、追加で作った恵方巻きを並べている。タイミングバッチリで、五本あった内2本を買うことが出来た。恵方巻きが買えただけで、ラッキーだと思えるなら、もうその目的は果たしている。

恵方巻きという特別なものかと見ると、太巻きのお寿司を切らないで丸のまま出したもので、何も変わらない。そこは縁起物という訳で、そんな習慣の無かった人まで買ってしまう。恵方はどちらか理解しないままに食べようとしたが、年寄りには無理で、庖丁で輪切りにしていただいた。

発祥は関西の方だというが、我がふるさとにはそんな習慣は無かった。太巻きに7種類の具を入れて、七福神の福を巻くということで、切らないで丸のまま食べるというのは縁を切らないという縁起かつぎ、何はともあれ、流行らせたもの勝ちの、たくましい商魂なのであろう。

「恵方」とは何なのか。ここは辞書のお世話になって調べてみる。「その年の干支によって定められる、最もよいとされる方角。その方向に歳徳神がいるとされる。吉方。明きの方。」でちなみに今年2011年の恵方は、おおよそ南南東だという。

霧島の新燃岳の南南東辺りは、現在火山灰を集中的に受けて大変な災難に遭われている。決して恵方ではない。住む場所がそれぞれであるから、恵方もそれぞれで、その人にとって恵方が吉であるか凶であるかも一定ではないように思う。もっとも、これは気持の問題で、吉だと思えば何か良いこともあるのだろう。

一方、豆まきは成田山のお相撲さんのように豪快には撒けない。(お相撲さんは豆だけではなくて星も撒いているらしい)鬼は外、豪快に撒くとムサシが拾い食いをしてお腹を壊す。福は内、たくさん撒くと後で掃除が大変だ。だからそれぞれ三粒ほどで、声も小さく目立たぬように。多分、1年で最も忙しい鬼にも福の神にも、その声は届いていないだろう。これも気持の問題である。

明ければ、立春、春ももう間近である。春といえば、今年は花粉症が去年の五倍とか十倍とか言われている。すでに、二週間も前からベニフウキ、一日、200CCを2回、飲み続けて、花粉症を寄せ付けない体質作りに励んできた。今のところ症状は出ていない。全く症状が出ないようには出来ないだろうけれども、花粉症を忘れるくらいにはしたいと努力している。ベニフウキは一日100円で、3ヶ月分、一万円ほど買って準備してある。
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芋がらの葉と七夕

(庭の黄色のキンギョソウ)

今朝の通勤時の車でラジオから、
「祖父は、七夕に、早朝、芋がらの葉の露を集めて、その水で墨をすると、習字が上手になると言って、露を集めていた。その慣わしが祖父から父、父から自分に引き継がれて‥‥‥」

引っ掛かったのは「芋がらの葉」という表現だった。この芋がらはサトイモのことである。里芋の大きな葉っぱには朝露が玉になって溜まる。しかし、この表現は変だと思った。鮫の歯を表現するのに「フカヒレの歯」とは言わないし、馬の足を「桜肉の足」とは言わない。リスナーからの投書を読んだものだろうが、アナウンサーも気付いていない様子であった。

サトイモの葉っぱの水玉を集めて墨をするというのは初めて聞いた。紹介したのは今日が7月7日の七夕だからであろう。七夕の日、願いを短冊にその墨で書いて吊るせば願いが叶う。七夕の願いは本当は芸事上達の願いに限るというから、字が上手に書けますようにと願えばぴったりと当る。

今年の七夕の夜のお天気は沖縄以外は晴れることが期待できないという。過去10年の天気をみても、1、2回しか星空が見れなかったようだ。それではあまりにも牽牛・織女が可哀想であると、国立天文台では2001年から、旧暦の7月7日を「伝統的七夕」と呼び、新暦では何日になるのか、広く報じるようになった。今年はそれが8月26日である。その日なら10年に5回から7回星空が見られる。

国立天文台もお役所で、法律では旧暦を使うことは禁じられている。だから旧暦とは言わずに、「24節気の処暑(しょしょ=太陽黄経が150度になる瞬間)を含む日かそれよりも前で、処暑に最も近い朔(さく=新月)の瞬間を含む日から数えて7日目」と定義している。何ともお役所の表現は難解である。「旧暦の7月7日」といえば済むものを、法律があるから旧暦という言葉が使えない。旧暦から新暦に移すときには使用禁止という厳しい法律が必要かも知れないが、今となっては旧暦という言葉を使うことも駄目というのはどうだろうか。日本では、歴史的に旧暦を使ってきた期間のほうが遥かに長く、使用禁止では不便極まりない。

旧暦を使うと毎年新暦該当日が変って、かえって厄介であるというので、工夫されたのが月遅れの制度である。春以降の行事は皆んな月遅れで行う。ひな祭りは4月3日、端午の節句は6月5日、七夕は8月7日、お盆は8月15日などで、旧暦から新暦に変ってから庶民が対応した知恵である。元旦を月遅れで2月1日にしないところなど、庶民の工夫が見える。8月7日の晴天率はわからないけれども、多分夕立が無ければ、星空が見えるだろう。

晴天でも、天の川は街の明かりと空気の汚れで見えないところが多い。自分の子供の頃は故郷の街でも天の川はしっかりと見えた。温暖化防止のためにエコに取り組むのもよいが、それで青筋を立てるより、「月遅れの七夕に全国どこでも天の川が見えるようにしよう」をスローガンにした方が楽しいかもしれない。

七夕に願い事を短冊に書いて葉竹に飾るという風習は日本以外では見られない。ルーツを求めると、「夏越しの大祓(なごしのおおはらえ)」に神社に設置される茅の輪(ちのわ)の両脇に立てられる笹竹がルーツで、七夕の説話と結びついて江戸時代から始まった行事だという。
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Kソフト会社の新年会

(しゃぶしゃぶの「寅や」)

午後3時からKソフト会社の初詣とその後の新年会で出掛けた。初詣の先は法多山で、2度目の初詣である。(2度目では初詣ではないか)小雨の天気は上がって空が明るくなってきた。法多山参拝後、帰りに東海道沿いの事任(ことのまま)八幡宮に寄った。いつもそばを車で通っていても、立寄ることはないみたいで初めてだという。事任八幡宮は枕草子に名前が出ているほど、古くから都にも知られていたお宮である。境内にはスギとクスノキの巨木があって、この八幡宮の歴史の古さを証明している。

新年会は掛川の「寅や」で行われた。しゃぶしゃぶを食べながら話が弾む。

社長のE氏から東北、北海道に植えられている茶の樹の話が出たところから話が発展する。Y部長が東北の傘に出来るような太い蕗を育てて食べてみたいという。E氏は昔親父が取り寄せて植えたものがあるが、大きいだけで食べられたものではない。生えたらばさばさと刈り倒してしまうという。自分は、北の国では大きく育つ蕗も、温暖な靜岡に移植すると北国のように大きくならないのではないかと話した。

生物は北国に行くほど大きく、南に下がるほど小さくなるものらしい。中国では小柄な女性は南から来ている人が多く、大柄でファッションモデルになるような女性は中国の東北地方から来ている人がほとんどだったという。相撲取りも北の地方の出身者のほうが身体も大きくて大成している。

話が南北の話になり、日本人には耳の中が湿っている人と乾いている人がいる。湿っている人は南から来た人種で、乾いているのは北から来た人である。そんな話になった。今ならDNAを調べれば一目瞭然なのだろうが、そこにいた6人は耳の湿っている人4名、乾いている人2名である。

さらに話が発展して南から来た人種は皆んなアルコールを分解する酵素を生まれつき持っていて酒が強い。モンゴルの地域に突然変異で生まれつき酵素を持たない人種が発生して、その子孫は基本的に酒が飲めない。(訓練すれば別)だから、耳の中が乾いている人の中で、一部酒が飲めない人がいるということになる。ちなみに6人の中で生まれつき酒が飲めないのは自分だけで、自分の耳の中は乾いている。この話が実証されたような形であった。

皆んなが少しずつ持っている知識を寄せ集めて何となく定説のようなものが出来ていく。真実のほどは分からないと言っておこう。

どぶろくの話になって、この4、5年の規制緩和で、自分で飲む分なら個人的に酒を造っても良いようになったとY部長が言い出した。それは駄目だろうというのが皆んなの意見。白川郷のどぶろく祭りではお祭だからということで、特別にどぶろく造りが許されて、造ったどぶろくがお祭りにふるまわれるとも聞いた。後でネットで調べようということで終わった。

かくのごとく酒飲みのたわごとはどこまでが本当なのか分からない。まあ、仕事の話を持ち出さない所がこの集まりの良いところである。

(帰ってネットで調べた。やはり、酒税法により、一般家庭で1%以上のアルコールを作ることは禁じられている。ただし、焼酎に漬けて果実酒を作る場合は、元々焼酎が購入したお酒だから、自家用にする程度ならば許されるようだ。民宿などで自家用に造った果実酒を客に出したりすると法律違反になるらしく、摘発を受けたところもある模様。)
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小さな “どんど焼き”

(小さな “どんど焼き”)

昨日、風がなかったので、正月のお飾りや古いお札を庭で燃やした。小さな “どんど焼き” である。この地区ではどんど焼きの習慣が無い。各家庭では正月のお飾りをどのように処分しているのだろう。家庭ごみとして出しているのだろうか。

子供のころ、故郷では正月のまつかざりが取れた10日前後(多分日曜日だったのだろう)に、子供たちが町内の正月のお飾りを集めて、町席(地区の公民館)の脇で山に積んで燃やした。町席の向こうは小学校の「スキー場」のコンクリートの壁が続いていて、道路との間の空地でどんど焼きを行った。コンクリートの壁が北西の風を防いで比較的安全だった。裏通りで道路も未舗装で車などめったに通ることは無かった。

「スキー場」は2メートル弱のコンクリートの上部から、一段低い小学校の校庭に向けて20メートルほどの赤土のスロープがあって、雪が積もると子供たちが手製のそりやスキー板を持ち出して滑り降りて遊んだ。戦時中はスロープ全体が芋畑になっていたといい、スロープにその名残の畝のあとがわずかに残っていた。(現在は小学校のプールになっている)

どんど焼きでは注連縄、松飾り、えび飾り、輪飾り、御札などとともに書初めの半紙も燃やした。書初めの半紙は火の中に放り込むとたちまち燃えて、灰が高く上がり、高ければ高いほど字が上達すると言われた。子供たちの目的の一つは紅白のもち花である。一般には赤い色はつけられないから、白いお餅だけのものが多かった。葉のついていない枝に搗いたばかりのお餅を飴玉大にたくさんつけて、花が咲いたように作ったもので、正月の間は神棚に飾られているが、お飾りと一緒に出されてくる。子供たちはそれを火であぶって食べるのである。香ばしいだけで甘くも何ともないものだが、煙の匂いと枝が放つ香りが相まって、今でもその香りがよみがえってくる。

今のお飾りには紙やプラスチックがたくさん使われているが、昔は藁、枝、葉っぱなど、自然のもので燃やして有害なものは何もなかった。灰がどう処理されたのか子供たちは知らないところであるが、昔だから火鉢などに入れる灰に貰われるものもあったであろう。家の小さなどんど焼きで出て来た灰は女房は屋敷の周りに撒いておくのだと言う。蛇などの虫が入ってくるのを防ぐからというが、親から言われてきたことで効果のほどは知らない。
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春の七草、七草粥

(春の七草)

昨日七日は七草粥を食べて健康を願う日であった。前日、「あらたまの湯」の農産品の直売所で春の七草がセットになったパックを買ってきた。

春の七草といえば、

   せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ すずな すずしろ これぞ 七草

という古歌を思い出す。

パックから出してまな板の上に並べてみた。右から「すずしろ」(ダイコン)、「すずな」(カブ)は説明するまでもない。続いて上の段が、「ごぎょう」(ハハコグサ)、「はこべら」(ヒヨコグサ)、下の段が「ほとけのざ」(コオニタビラコ)、「せり」(セリ)、「なずな」(ペンペングサ)となる。今の季節でいずれもまだ芽が細かいので、皆んな同じように見える。

( )内で示した一般名を言えばイメージの湧くものが多い。「カブ」と「ダイコン」はもちろん、「セリ」も水辺に生える草で、普通マーケットで売っているお汁などに入れるお馴染みの野菜である。「ハハコグサ」は白い毛におおわれて、黄色い小さな花を茎の先端につけるから、見分けやすい。「ヒヨコグサ」は春に少ない株から地を覆うように繁茂する。丸っこい葉が特徴。取るのは簡単で、ニワトリを飼っているときには山のように取ってきて餌代わりにした。「ペンペングサ」は実が逆三角形で三味線のバチに似ているのですぐにわかる。ペンペングサが生えるといえば放置され荒れ果てた様子を示す。なじみの無かったのは「コオニタビラコ」と呼ばれるホトケノザで、たくさんの草の中から選べといわれても困ってしまうだろう。一般にホトケノザと呼ばれている植物とはまた別のものである。


(七草粥)

かゆは正式にはお米から作るようだが、女房はご飯から作った。刻んでしまえば青いものが混ざっているだけで、七草の区別はつかない。正月七日にかゆを食べるのは、飲んだ後のホテルの朝食にかゆが出るのと似たようなものであろう。正月中に酷使した胃を休めようという優しさのあふれた風習である。
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初詣はやはり大井神社へ

新年、明けましておめでとうございます。
いつも「かさぶた日録」ご覧頂きありがとうございます。
毎日の訪問者数が70人~100人の間で推移しております。
書き込みも700回を越えました。
ここまで続けられたのも、皆さんにご覧頂いていると思えばこそと感謝しております。
本年もよろしくお願いいたします。

     *     *     *     *     *



(初詣-大井神社社務所前)

大晦日、暮れの紅白は何か違っていた。紅白のホームページによると、今回のテーマは、「歌の力、歌の絆」を視聴者に伝える歌を配することで、歌を通してつながる社会、世代、そして心を見つめ直す“紅白”だったという。

見終わって、こんなにたくさんの死者と死者のイメージが出て来た紅白は初めてだったと思った。去年に続いて秋川雅史の朗々と歌い上げた「千の風になって」、今年ブレークして聞いた団塊の世代を故郷のお墓参りに向かわせたという “すぎもとまさと” の「 吾亦紅(われもこう)」、5月に亡くなったZARDの作詞とボーカルの坂井泉水は映像で紅白に初出場した。生誕70年で美空ひばりは小椋佳と「愛燦燦」を歌った。美空ひばりを舞台の上に小椋佳と並んで立たせた技術はすごい。最後には8月に無くなった作詞家の阿久悠の作品を並べた。和田アキ子の「あの鐘を鳴らすのはあなた」、森 進一の「北の蛍」、石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」、五木ひろしの「契り」の4曲である。

歳とともに緩くなった涙腺が緩みっぱなしであった。これら以外にも、さだまさしの「Birthday」、いつも見ている「鶴べえの家族に乾杯」のテーマ曲で、フルに聞いたのは多分初めてであった。何といっても「おしりがじりむし」にさえ涙腺が緩む。

ここまで書き並べてきた上に、大河で上杉謙信役をやったGacktの「消え逝く武士への鎮魂歌」を見てしまったら、白組の大勝は納得であった。小林幸子のど派手な衣装もかすんでしまった。

紅白の後、年越しそばを食べて、女房と大井神社に初詣に出掛けた。年を越したばかりの大井神社は10代後半から20代の若者たちでいっぱいであった。行列で本殿前まで30分近く掛かった。社務所前まで行ったが何も買うこともなく戻ってきた。先日、下の娘の安産祈願に来たばかりだと女房が言う。下の娘は30日の戌の日に初めて腹帯を巻いたはずである。
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年末寒波で大雪らしい

(今日の金谷の空-裏日本は雪らしい)

この年の暮れになって、全国的に寒波が襲来して、裏日本は大雪らしい。故郷でも30cm~40cmの積雪が予想されているようだ。当地でも風が強く寒いが、空は明るく、雲が忙しく西から東へ移動している。

故郷での年末年始は昔は雪の中が多かったような気がする。

餅つきは29日を避けて、その前に行われた。前もって洗米されたもち米を、蒸すのは “かまど” に “こしき” を何段にものせて行う。 “こしき” 一つが一臼分である。臼の数は多いときは10臼もあっただろうか。炊事場の土間に木の臼を据え、父親が最も多く搗き、兄貴たちがそれに次ぎ、自分は一臼搗くのが精一杯であった。ペッタン、ペッタン搗く前に、ばらばらのもち米を一つにまとめるために小搗く作業があり、それに全パワーをかけてしまい、一臼搗き終わると畳に大の字になってぶっ倒れてしまう。鏡餅やお供え用の丸餅のほかはすべてのし餅で、黒豆の入った豆餅もある。

大晦日に、まだのし餅を菜切包丁で切る作業が残っていることもあり、主に父親の仕事だったが、自分も切るのを手伝った。

故郷では自分が居た40数年前には、テレビは無くて裏日本ではラジオもNHKぐらいしか聞けない。大晦日は紅白に耳を傾ける位しかない。お袋は遅くまでお節料理に手間取っている。今と違ってお正月には食料品店も休みになり、お餅やお煮しめなどのお節料理が無ければ食べるものがなくなってしまう。

やがて蛍の光が流れて紅白も終わると、除夜の鐘がラジオから流れ始め、それに合わせるように、近くのお寺からも鐘が聞こえ始める。故郷は町名を「寺町」と呼ばれたように、お寺が間近にある。初詣でに出かけるには冬の装備が必要で、氏子である山王さんの日吉神社には20分ほど歩いていかなければならない。そのまま初詣に行くことは少なかった。

     *     *     *     *     *

夕方、名古屋も娘夫婦も帰ってきた。夫婦で今夜はこちらに泊まるといい、急ににぎやかになった。
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大井神社での祈願祭にて

(一同で記念写真を撮られる)

本日は会社の年度始めで、午後、大井神社で恒例の安全祈願祭と計画発表会があった。拝殿前で一同並んで記念撮影をした。そのあと、拝殿に上がり、神主の祝詞、巫女さんの弥栄(いやさか)の舞いの奉納、玉串奉てんと儀式が続く。

ふっと外の雑音が耳に入った。アブラゼミが鳴きだしたのだ。9月に入って気温が下がり、一時の元気のいい声ではない。ジャラン、ジャランのあとしっかりした拍手が鳴る。定年を過ぎた男性が散歩の途中に寄ったのだろうか。

そういえばあの時はしきりに雄鶏が鳴いていた。おそらく夜店で買ったひよこが大きくなって育てられなくなり、神社に放されたものであろう。あの時は自分の結婚式の時である。今から30数年前の大井神社である。

三島由紀夫が自刃した日を「憂国忌」という。翌年の同月同日が結婚式の日であった。その偶然に因縁を感じていた。高校生の頃から三島由紀夫の愛読者だった。大江健三郎に凝っていた友達がいて、それに対抗して三島由紀夫を読み始め、熱中した。文章はこんな風に書くのかと思い、まねをして書いたこともあった。会社で仕事中に自刃のニュースを聞いた。大変なショックであった。中学生のころ、社会党の浅沼稲次郎が山口乙矢の刃に倒れたとのニュースに接したとき以来のショックであった。気持の整理が出来ないまま、これで三島由紀夫の新作が読めなくなるとぼんやりと考えていた。どうして自刃なのかと疑問に思うのははるか後のことだった。

聞きなれた音楽に乗って巫女さんが舞う。もう25年ほど、毎年この舞を見ている。舞う女性は次々と変わる。おそらく全国的な舞の講習会があるのだろう。いつも見ているのは、衣装が随分着古されて来たとか、白いたびの裏が汚れているとかで、1日多いときで何回舞うのだろうなどと考えている。最後に垂れた頭(こうべ)の上を鈴を鳴らしながら通り過ぎる。「邪気を払うのだ」と毎回思う。でも、こんな形で観るのは今回が最後かもしれない。
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相良凧とハマヒルガオ

(相良凧)

子供の日の5日は、天気はくもり、昼食後、女房と相良の凧揚げを見に行った。先週草競馬のあった同じ砂浜で、相良の凧揚げが開催されている。昨日がメインだったのか、今日は揚がっている凧も少なく観客もわずかで寂しいものであった。屋外放送で糸切り合戦の説明をしていたが、揚がっている凧が数本では意気が上がらない。

相良の町が田沼意次の城下町として整えられた江戸中期、相良凧は作られるようになった。当初から、端午の節句に男の子の初節句を祝って揚げる風習があり、それは現在も続いている。

相良凧は横1メートル、縦1・2メートルの縦長の角凧で、下部がやや三角に尖っている。尾がなく、中心の親骨から糸目を上下に2本付け、結び目が他の凧よりも凧本体に近くて、急旋回や宙返りが自在にできるのが特徴である。

凧合戦では、凧糸にガラスの粉末を練り込んだ特殊な糸(ビードロ糸)を使用して、紅白に別れて、凧糸を自在に操り、敵の凧とからめて糸を切り合い、凧を落とし合う。この糸切り合戦は全国に類の無い行事として誇る凧揚げの妙技であるという。

初節句の凧は家紋と子どもの名前入りの凧で、昨日はその凧をやぐらに並べて掲げ、壮観だったようだが、今日は幟は風になびいているが、櫓に凧は一面も無かった。ただやぐらの下に観光用の凧が何面か飾られていたので、そばに行ってデジカメに撮って帰る。浜松の凧揚げと重なって客も集まらないのだろう。


(ハマヒルガオ)

帰りに砂浜にハマヒルガオの花が咲いているのを見つけた。さらに道路に出ると、海岸に沿った土手の斜面にびっしりと薄紫のハマヒルガオが咲いていた。思わず車を停めて観賞した。砂地に蔓を這わせ、小さい丸い葉をつけて、朝顔に似た小振りの花を付けている。

図鑑によると、ハマヒルガオはヒルガオ科の蔓性多年草で、海岸の砂地に自生して、地下茎を長く延ばし、地上茎は長く砂地を匍匐する。葉は腎臓形をしており、厚質で光沢がある。初夏に葉腋に漏斗状のアサガオに似た淡紅色の花を開く。旧大陸の温帯・熱帯海岸に広く分布しているとある。
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今年は柏餅作りだ!

(当家柏餅作り現場)

新しく年中行事として、ゴールデンウィーク中に家族みんなが集まって何かを作ろうと女房が考えた。というのは、昨年、ちょっとした思い付きで子供たちが集まって「レンジ茶」を作った。それが意外と楽しくて、今年は何を作らしてくれますかと子供たちから言われていたからだ。

先日下の娘のだんなの実家に寄ったとき、庭に柏の木が一本あって、柏餅に使えるそうな良い葉っぱが出ていた。そうだ柏餅作りにしよう。女房の頭にランプが点いて、柏の葉を分けてもらうように頼んで帰った。

女房は二日ほど前から柏餅の餡を煮ていた。甘さはかなり抑えてあるという。柏の葉は下の娘夫婦に実家へ行って貰って来るように頼んだ。

約束の4日、午後になって皆んなが集まってきた。3時過ぎに下の娘夫婦と柏の葉がようやく届き、台所が急ににぎやかになった。さて柏餅をどんな風に作るのか、女房はネットで作り方を調べたようだ。

粉は上新粉と餅粉を使う。上新粉はうるち米(普通のお米)を粉にしたもので、上新粉で作ると、柏の葉にくっつくことは少ないがもちもち感が少なく、すぐに硬くなってしまう。餅粉はもち米の粉で、毎年故郷から「だんごの粉」として送ってくる。柔らかさが長持ちするが、柏の葉にくっついてどうにも食べにくい。そこで両方の特徴を生かすために二つの粉を混ぜることにした。

上新粉はお湯で練り、餅粉は水で練る。混ぜたものは何で練ればいいかと聞かれ、始めて聞いたことに答えようはないが、それぞれをお湯と水で練って合わせればどうかと無責任に答えた。しかし練ってから混ぜても混ざらないだろうとは後から思った。本当はぬるま湯で練ればいいのだろう。

レンジでチンをしてから餡を包めば柏の葉は無くても食べられる。柏の葉は後から巻けば良い。練ったもので餡を包み、柏の葉で巻いて蒸器で蒸す。これが昔からの作り方である。しかし、こうすると柏の葉に餅がくっついて厄介なことになる。試行錯誤の上、蒸しあがったら柏の葉をむいて少し冷やし、元へ戻すとそんなにくっつかないで出来上がることに気付いて、一手間掛けることにした。


(完成した柏餅)

餅に餡を包むために、餅を円形に伸ばすと出来上がりが餃子のようになり、両端が柏の葉からはみ出てしまう。子供たちは幾つか作るうちに、餅は楕円形に延ばし長手方向にたたむと柏餅の形が出来るとコツをつかみ、さてこれからという時にはすでに口に入れたものも含めて50個以上になり、あとはそれぞれうちに帰って作って見るようにすすめて柏餅作りは終った。
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