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陶淵明の詩、「子を責む」

(庭のユリオプス・デージー)

講師は、陶淵明の酒に関わる詩の最後に、「子を責む」というユーモラスな詩を取り上げた。陶淵明には、舒、宣、雍、端、通という5人の息子がいた。いずれも親に似ず、勉強嫌いで、どうにもならんと歎いている詩である。書き下し文と意訳したものを次に示す。

責子        子を責む
白髪被両鬢   白髪が両鬢(りょうびん)を被(おお)い
肌膚不復實   肌膚(きふ)復(また)実(み)ちず
雖有五男兒   五男児有りと雖(いえど)も
總不好紙筆   総て紙筆を好まず
阿舒已二八   阿舒(あじょ)は已(すで)に二八なるも
懶惰故無匹   懶惰(らんだ)故(もと)より匹(たぐい)無し
阿宣行志學   阿宣(あせん)は行々(ゆくゆく)志学(しがく)なるも
而不愛文術   而(しか)も文術を愛せず
雍端年十三   雍と端は年十三なるを
不識六與七   六と七とを識らず
通子垂九齢   通子は九齢に垂(なんなん)として
但覓梨與栗   但(ただ)梨と栗を覓(もと)む
天運苟如此   天運苟(いやし)くも此(かく)の如くんば
且進杯中物   且(か)つは杯中の物を進めん

※ 二八 - 16歳(掛け算で16になる)
※ 志学 - 15歳(「論語」に「吾十有五にして学に志す」)
※ 六と七 - 13歳(たすと13になる)
※ 杯中の物 - 杯の中の酒。酒。

(おやじの私はもういい歳で)白髪が左右の鬢をおおい、肌もたるんで張りがない。男の子が五人いるが、みんな勉強ぎらいだ。(長男の)舒はもう二八(十六)だが、もともと無類のなまけもの。(次男の)宣はやがて学に志す歳(十五)になるというのに、学問が嫌いである。(三男の)雍と(四男の)端は同い年の十三だが、六と七(を足すと十三だということ)も知らない。(末っ子の)通はもうすぐ九つになるが、梨が欲しいの栗が欲しいのとばかり言っている。これがまあ、私に与えられた運命というのなら、あきらめて酒でも飲むとしよう。

詩の題は「子を責む」とあるが、陶淵明の詩に、子を責める気持はない。これも運命と諦めで、酒でも飲むとしようという言葉に、子供たちへの並々ならぬ愛情を感じる。おそらく子供たちを見ていると、まるで自分の子供の頃を見ているように思えるのであろう。彼らの性格の一つ一つは、正しく自分の中に持っている性格で、間違いなく親子だと思うと、とてもそれを責めるわけにはいかないのであろう。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
巳を責める (梅川久雄)
2019-09-04 18:59:34
いいね!俺もこのような言い方で、やさしく子らを眺め表現したい、詩人は言葉が豊かな表現ができて思いを現わすことができるからうらやましい、私などは、直接的な言い表ししか出来ないので情けない。
それで、毎日日記を書いている。
言葉は書けるが、話して表現がままならない
人前でそんなに話す機会が無いから磨けないだろう。
暫くは杯中の物を進めん・・
 
 
 
子を責む (ゆゆゆ)
2022-05-11 13:54:10
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