平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
陶淵明の詩、「子を責む」
講師は、陶淵明の酒に関わる詩の最後に、「子を責む」というユーモラスな詩を取り上げた。陶淵明には、舒、宣、雍、端、通という5人の息子がいた。いずれも親に似ず、勉強嫌いで、どうにもならんと歎いている詩である。書き下し文と意訳したものを次に示す。
責子 子を責む
白髪被両鬢 白髪が両鬢(りょうびん)を被(おお)い
肌膚不復實 肌膚(きふ)復(また)実(み)ちず
雖有五男兒 五男児有りと雖(いえど)も
總不好紙筆 総て紙筆を好まず
阿舒已二八 阿舒(あじょ)は已(すで)に二八なるも
懶惰故無匹 懶惰(らんだ)故(もと)より匹(たぐい)無し
阿宣行志學 阿宣(あせん)は行々(ゆくゆく)志学(しがく)なるも
而不愛文術 而(しか)も文術を愛せず
雍端年十三 雍と端は年十三なるを
不識六與七 六と七とを識らず
通子垂九齢 通子は九齢に垂(なんなん)として
但覓梨與栗 但(ただ)梨と栗を覓(もと)む
天運苟如此 天運苟(いやし)くも此(かく)の如くんば
且進杯中物 且(か)つは杯中の物を進めん
※ 二八 - 16歳(掛け算で16になる)
※ 志学 - 15歳(「論語」に「吾十有五にして学に志す」)
※ 六と七 - 13歳(たすと13になる)
※ 杯中の物 - 杯の中の酒。酒。
(おやじの私はもういい歳で)白髪が左右の鬢をおおい、肌もたるんで張りがない。男の子が五人いるが、みんな勉強ぎらいだ。(長男の)舒はもう二八(十六)だが、もともと無類のなまけもの。(次男の)宣はやがて学に志す歳(十五)になるというのに、学問が嫌いである。(三男の)雍と(四男の)端は同い年の十三だが、六と七(を足すと十三だということ)も知らない。(末っ子の)通はもうすぐ九つになるが、梨が欲しいの栗が欲しいのとばかり言っている。これがまあ、私に与えられた運命というのなら、あきらめて酒でも飲むとしよう。
詩の題は「子を責む」とあるが、陶淵明の詩に、子を責める気持はない。これも運命と諦めで、酒でも飲むとしようという言葉に、子供たちへの並々ならぬ愛情を感じる。おそらく子供たちを見ていると、まるで自分の子供の頃を見ているように思えるのであろう。彼らの性格の一つ一つは、正しく自分の中に持っている性格で、間違いなく親子だと思うと、とてもそれを責めるわけにはいかないのであろう。
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それで、毎日日記を書いている。
言葉は書けるが、話して表現がままならない
人前でそんなに話す機会が無いから磨けないだろう。
暫くは杯中の物を進めん・・