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井戸が枯れて、川根温泉へ

(川根温泉フロントホールの大提灯)

昨夜、井戸から水が上がらなくなった。雨の降らない状態が1ヶ月以上続いた結果である。ここへ家を建てて30数年になるが、このように完全に枯れたのは始めてである。何年か前に水道も入れて、井戸と水道の併用にしてきたから、いくつか困る部分はあるが、本当に困るのはお風呂と洗濯である。どちらも水を多く使うから、今まで井戸水で対応してきた。水道への切り換えは大規模な工事ではないけれども、水道工事が必要である。

朝、さっそく女房が工事屋さんに電話をしたが、この寒さで水道管の破裂などが多発しているためだろう、いつ工事にうかがえるか約束できないとの、つれない返事である。しばらくは、お風呂と洗濯は外に頼らねばならなくなった。もう一日ほどで寒さも山を越すとみられるから、水道工事に何日も待つということも無いのだろうが、とりあえず今日、差し当ってお風呂をどうしようかと思う。

ムサシの散歩の後で温泉でも行ってきたらと言い置いて、女房は出かけて行った。今朝も温泉に入ってきたので、女房は今夜はお風呂はいらないという。そこで、一番近い伊太和里の湯へ、一人で出かけた。大井川を渡った先で、伊太和里の湯の看板が出ていて、月曜日は休館だとあった。今日はその月曜日、Uターンして帰ってきた。お風呂は我慢かと諦めている所に、女房が帰ってきた。伊太和里の湯が休みなら、川根温泉に行こうという。川根温泉はやっているのかと聞くと、今朝貰ってきたばかりの川根温泉のカレンダーを見せる。休みはおおむね月1回だけで、今日もやっていることが確認できた。

食事の後、二人で川根温泉に向かう。銭湯代わりに温泉に行くのは初めてのことである。9時まで開いている。出かけたのが、7時過ぎで、行きに30分、帰りに30分、向こうで30分の、1時間半掛けての銭湯行きである。

昼間と違って、夜の川根温泉は混んでは居なかった。車も入口に割合近いところに停められた。浴槽にもゆったりと長湯が出来た。どこから入るのか寒い風が時々流れて、のぼせることが防げた。外に昼間ならSLが見える露天風呂があるが、今夜は寒くて出る気がしなかった。

目の前のおじさんがしきりに話している。一方的に話して、もう一人は黙って聞いている。声がこもるせいか、語尾にクセのある方言のせいか、外国語を聞いているようで、話している内容は全く理解できない。温泉の暖かさが身体の芯まで染み入って来るようで、自分の耳から脳までが理解を拒むように、陶然としていた。

出てから、しばらく待たされるかと思ったが、コーヒー牛乳を買おうとしていると、もう女房も出てきた。風呂上りにコーヒー牛乳はよく似合う。こんな場でしか、コーヒー牛乳を飲むことはない。

さて、水道工事が済むまで、あと何回温泉銭湯に来ることになるだろう。こんなに豊かな気持になれるなら、井戸が枯れるのもまた良しである。
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今日の寒さは格別にて

(風花の舞う空)

午後3時になって、ムサシの散歩に出る。やや西山に傾きかけた太陽は日差しを送ってくれるが、今日の寒さは特別なようで、余りに寒いので駆け足で行くことにした。こちらの足が速まるとムサシも喜んで足を速める。しかしそんなに長くは続かず、ムサシは道端の草を嗅ぎはじめ、こっちの心臓もパクパクになる。それでも少しは身体が温まったようだ。

大代川は国1の下辺りでかなり大きな澱みを成している。側道の橋から覗くと、水中を走る大きな生き物が見えた。黒っぽいが、大きな鯉であろうかと見るうち、橋の直下でぽかっと浮いた。カワウであった。昨日、風に逆らうように飛ぶ姿を見たが、浅い川でもあんな風に潜水するのである。潜水した距離は10メートル以上であった。上から突いて漁をするアオサギも川岸の止まって水面を見ていた。カワセミはもっと浅いところで魚をねらい、全身で水面に突っ込んで漁をする。大代川の小さな流れにも、幾つかの漁法で棲み分けが行なわれているのであろう。

マガモの雄が光沢のある緑の頭部を見せて、ゆうゆうと泳いでいる。カモは魚を食べない。コガモに比べて、人を見ても直ちには飛び立たない。生きていくためには、小さいものほど小心でなければならない。散歩の途中、ムサシとすれ違う犬は、小さな愛玩犬ほどよく吠える。これも小心ゆえである。

西山の裾を歩くうちに、青空から風花が舞ってきた。寒さをさらに実感する。我がふるさとの兵庫県北部の豊岡は、今日の積雪が60センチだとニュースで言っていた。さらに明日の朝に掛けて60センチの積雪があるという。豊岡市日高町では屋根の雪下ろし中のお年寄りが雪とともに落ちて、雪に埋まって亡くなったという。これも全国ニュースである。大屋根の雪降ろしを子供の頃手伝ったことがある。降ろすほどに下へ溜まった雪で大屋根と地面の落差が減り、落ちる恐怖は減ってくる。終わり頃には飛び降りれそうに思えた。

屋根の雪が1メートルになっても、今の家は骨組みが鉄骨で、しかも3階建だから、雪下ろしはしないのだろう。昔の家は雪がたくさん積もるとふすまや障子の開け閉めがきつくなったから、雪降ろしをしないわけにはいかなかった。

夜遅く、風呂に入ろうとして、20センチメートルほどお湯が入った所で、水もお湯も止まってしまった。我が家のお風呂は井戸水を利用している。この頃、雨不足で井戸水が切れそうな雰囲気があり、気息えんえんといった状態であった。飲料水とトイレは水道水だから止まることはないから、生活に支障は無いけれども、お風呂に入れないのはつらい。

ブログを書きながら、1時間ほど待ってみたが、出てもわずかな量で、顔だけ拭いて良しとした。今夜、女房は川根温泉のコテージに泊まりに行った。おそらく温泉三昧であろう。悔しいけれど、今夜は我慢である。
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太田弘子氏経済講演会(後)

(外で元気なシクラメン その2)

もう30日の午前3時半になっている。サッカーアジアカップの決勝を今まで見ていた。オーストラリアに何度も突破され、キーパー川島のしばしばのファインセーブで、何とか延長戦まで持ち込んだ。最後に、ザッケローニ監督の打った手、藤本に変えて岩政を入れ、タフな長友を攻撃的な位置へ出し、前田に変えて李忠成を入れた。その交代がズバリ当って、長友がサイドをえぐってのセンターリングに、交代して間がない李忠成のオーストラリアのマークがぽっかりと空き、李忠成はゴール前でボレーシュートでゴールネットを揺らした。1対0でザックジャパンはアジアカップ4度目の優勝を勝ち取った。アジアのレベルは確実に上がっていて、今回のアジアカップほど厳しい戦いはなかった。その中で劣勢にも負けずに勝ち上がってきたザックジャパンは、本当に強くなったと思った。

   *    *    *    *    *    *    *

(昨日の「太田弘子氏経済講演会」の続き)
もう一つは、全産業の7割を占めるサービス業の生産性の向上である。日本のサービス業は大変きめ細やかな良質のサービスとして、世界に冠たるものがあるが、何にしても生産性が低すぎる。それぞれの規模が小さくて多すぎる。新しいビジネスモデル、規模拡大、IT化、規制改革などが必要である。廃れていく町の再設計のためには、土地の所有と利用の分離を行い、生活視点に立った、利用者のニーズに合った街づくりが必要である。幾つかの街の商店街にその良い例を見ることが出来る。

経済、財政政策に求められるのは、日本は成長することをめざすという力強いメッセージを示すことである。その中でまず、成長を阻んできた制度改革を断行することが必要である。規制改革、税制改革、農業改革が重点課題になり、いずれもグローバル化への取組みが重要になる。次に、社会保障制度の設計と改革の筋道をつける。中では高齢化を乗り切る持続可能な社会保障制度を築き、サービス供給体制の改革により、その分野を成長分野にしていく。その上で、具体的な財政計画を策定し、聖域なき歳出削減と増税幅を提示することが求められる。いずれにしても、そんなに時間はない。この2年間が大変大切になる。

日本経済の活路はもっとも成長に勢いがある、アジアとの密接な連携を作ることが必要で、そのために、開かれた経済システムをつくることである。民主党政権が発表したTPPへの参加については大変評価しており、展開を注目している。
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太田弘子氏経済講演会(前)

(外で元気なシクラメン)

かつては新春というと、銀行等が開催する新春経済講演会を幾つも聞いて、今年の経済はいったいどうなるのか、自分なりに考えを持っておこうと努力した。評論家の今年の経済はこうなるという話で、当った記憶はまずないのであるが、指針には出来た。

一線を退いてから、早くも三年余、この間に急速に経済とか経営とかいう話題に興味が行かなくなった。今日も片付けをしていて、何冊か経済とか経営にまつわる実用書を処分するべく、荷にまとめていた。

そんな中で、地元銀行の新春講演会で太田弘子氏が来るというので、昨日の午後、靜岡まで出かけた。太田氏は安倍内閣で内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)を務めた。現在、政策研究大学院大学副学長。

日本は長く続く停滞から、脱却する出口を見つけられないでいる。どこで道を間違えてしまったのだろうと、歴史を振り返る。1990年代の前半、1989年ベルリンの壁崩壊、1990年東西ドイツ統一、1991年ソビエト連邦崩壊、1992年ユーロの導入、と続き、アジアでも1991年インドが本格的経済改革、1992年中国小平南巡講和(改革開放路線の加速)とこの何年かに世界経済の大きな動きがあった。

冷戦体制が崩れ、多くの新興国が市場経済にどっと入ってきた。日本の戦後の経済発展は資金・人材・技術ともに国内のたゆまない努力で何十年も掛けて積み上げてきたものであったが、新興国はそんな面倒なことは考えず、資金・人材・技術ともに、海外からどんどん受け入れて、急速に発展して行った。人・物・金がどんどん国境を越えて、世界は否応無くグローバル化していった。

そういう世界の潮流の中で、日本はバブルに浮かれ、1992年バブルが崩壊すると、今度は不良債権処理に手間取って、世界の流れにひとり乗り遅れてしまった。なまじ資金・人材・技術を自国でまかなえるために、急速にグローバル化する世界経済に、政界も経済界もそれほど深刻に考えなかった。一方で日本社会では人口の高齢化が急速に進んでいた。年金・医療など福祉の問題が国庫財政を急速に苦しくしていった。

その舵を強力に切ろうとしたのが小泉内閣で、安倍内閣もその政策を引き継いだ。しかし、志し半ばで内閣は瓦解した。社会の各所に発生した格差の問題が、小泉内閣の取ってきたグローバル化の政策によるものとして、与党自民党内部からも糾弾された。

このようにして長い停滞に出口が見えない状況が続いている。このまま行けば、近い将来、日本の財政は破綻しかねない状況である。その打破のためには、まずはグローバル経済に生きる覚悟が必要である。

まずはFTA(自由貿易協定)やTPP(環太平洋連携協定)などを積極的に進める。一方痛手を受ける農業には、大規模化して競争力を得るように、徹底してテコ入れすることが必要である。幸いにも日本の農産品の品質の良さは飛び抜けている。現在の農業はいくら保護しても、このままでは老齢化が進んで継続できなくなるのは目に見えている。早急に若い人が参入できるように、規模拡大、法人化をはかっていくべきである。(つづく)
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金田一秀穂氏講演会「言葉不思議発見」

(金田一秀穂氏講演会)

この日曜日の午後、夢づくり会館で金田一秀穂氏の講演会があった。演題は「言葉不思議発見」である。教育委員会と中部電力の共催というが、費用は中電持ちだと、最初の挨拶で教育部長が話す。

ぶらりと舞台に出てきて、マイクを握って演題の前側に立って講演を始めた。テレビなどの露出も多く、随分ざっくばらんな性格だと見える。

正しい日本語とは何かと、いきなりクイズから始まる。かつてはクイズの出題者側だったが、今は回答者として出ている。そちらの方が気楽でよい。アボガド、アボカドはどちら? T字路、丁字路はどちら? コミュニケーション、コミニュケーションはどちら? どちらでも良いようだけど、それぞれ後の方が正しいと決まっている。全問正解できるのは3%ぐらいの人しかいないだろう。

まず、自分は国語の教師ではなくて、日本語の教師である。教える相手は日本語を学んでいる外国人か、日本語の教師になろうとする人達である。外国人が日本語を学ぶとき、日本語は不思議で、他の言語に比べて難しいという。例えば、自分が今、立っているのは演台の前方で「前」であるが、それでは、と演台の正しい位置に戻って立ち、ここは演台のどこか。ここもやはり「前」と言う。演台には前ばかりで後ろは無いのだろうか。演台の前方での「前」は、皆さんと演台との関係の中で、演台の前にいると見る考え方である。一方、演台の正しい立ち位置である「前」は、演台を中心に考えて、演台の前にいるという考え方である。

辞書作りにもたずさわってきたが、辞書で「右」「左」をどう説明しているか、見たことがありますか。日本の最初の辞書、大言海では「北を向いたとき、東側が右、西側が左」と説明している。これに類似した説明が多いが、今まで見た例では、「時計で3時の方向が右、9時の方向が左」や、「この辞書で偶数頁が右、奇数頁が左」などがある。

日本語はあいまいだというが、外国語も随分あいまいなものが多い。いい加減な言葉で人間関係はおだやかになる。若者たちの言葉を聞いていると、実にあいまいな話をしている。例えば「おいしいかも」「まずくなくない」「そうかも」というような、意味のない言葉が交わされている。携帯メールで交わされるメールもその延長で、全く無意味なものが多い。若者たちは伝えたいのではなくて、つながっていたいだけである。

このように、人と人をむすぶためだけの言葉もあって、そのために仲間言葉が作られ、その言葉をつかって会話をすることが仲間意識を生み、楽しい関係をつくる。現代の若者言葉はその典型で、かつての方言もそれに近かった。しかし仲間言葉は仲間同士で使うもので、仲間以外に使うのはNGである。

自分が最も美しい日本語と考えているのは、「野口英世の母(シカ)の手紙」である。読み書きが出来なかったシカさんが、外国にいる息子に思いを伝えたくて文字を学び、下手くそな字でひたすら自分の思いを書いた、気持の伝わる手紙であるという。

ネットで探して、その手紙を以下へ採録させてもらう。

  おまイの しせ(出世)にわ みなたまけました
  わたくしもよろこんでをりまする
  なかた(中田)のかんのんさまに さまにねん(毎年)よこもり(夜篭り)を いたしました
  べん京なぼでも(勉強いくらしても) きりかない。
  いぼしほわ(烏帽子=近所の地名 には) こまりおりますか
  おまいかきたならば もしわけ(申し訳)かてきましよ
  はるになるト みなほカイド(北海道)に いてしまいます
  わたしも こころぼそくありまする
  ドカはやくきてくだされ 
  かねをもろたこト たれにこ(も)きかせません それをきかせるトみなのれて(飲まれて)しまいます
  はやくきてくたされ はやくきてくたされ はやくきてくたされ はやくきてくたされ
  いしょ(一生)のたのみて ありまする
  にしさむいてわ おかみ(拝み) ひかしさむいてわおかみ しております
  きたさむいてわおかみおります みなみた(さ)むいてわおかんておりまする
  ついたち(一日)にわしおたち(塩絶ち)をしております
  ゐ少さま(栄昌様=修験道の僧侶の名前)に ついたちにわ おかんてもろておりまする
  なにおわすれても。これわすれません
  さしん(写真)おみるト いただいておりまする
  はやくきてくたされ いつくるトおせて(教えて)くたされ
  これのへんち(返事)ちまちてをりまする ねてもねむられません
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佐賀県嬉野温泉、観光ホテル「桜」にて

(ホテル桜の吹き抜け)

昨日今日と佐賀県の嬉野に出張に行った。昨夜は仕事を終えて、嬉野温泉では有数の「桜」という観光ホテルに泊まった。この時代、大きな観光ホテルでもなかなか客が集まらない。そんな中、客集めにビジネスプランというビジネスマン向けの宿泊プランが出来て、設備も新しくて手頃だからビジネス客に人気があるという。現地の会社持ちで、そこへ泊まった。料金はバイキング朝食付きでビジネスホテル並だというから安いのだろう。

真ん中に10階まで吹き抜けの空間があり、各階それをぐるりと囲むように回廊と部屋があった。最上階に大きな「飛天の湯」があり食事のあと入った。帯状疱疹も癒えて、久し振りの温泉である。一晩中、ポカポカして暖房を止めてもまったく寒さは感じなかった。唯一難を言えば、身長170cmのわが身に、掛け布団が短くて普通に伸ばすと足先が出た。熱っていたから苦にはならなかったが、身体を丸めて寝ていた。

夜遅く、サッカーアジアカップ、準決勝日韓戦をテレビ観戦した。前半、日本のサイド攻撃がシュートまで面白いように行った。しかし、ゴールネットを揺らしたのは一回だけだった。この流れの中でもう1点入れておければ試合は楽になったと思う。韓国はロングボールを追いかける中でPKを得て、前半は1対1で終った。前半のPKは審判の判定が少し厳しすぎたと思った。審判の心理として、どこかで日本がPKを得るはずと思い後半を見た。

韓国がサイド攻撃をケアしたためか、前半良かった日本の攻撃が影を潜めた。一進一退の中で延長戦になり、中央突破した岡崎がPKを得て2対1と勝ち越した。審判の判定でPKのバランスはよく見ることである。審判としてはあのPKの判定で勝負がついたとは言われたくないのだろう。

1点勝ち越し、守備的交代をして、日本は引きすぎてしまった。終了間際の混戦の中で同点ゴールを決められて2:2、PK戦になった。そこで韓国に若さが出て、PK3:0で日本が決勝に進んだ。

今日、聞いた話では香川が右足の甲を骨折していて、決勝戦出場が危うくなったという。前半に比べて、後半の日本の攻撃の不調は、香川の骨折のためだったのかもしれない。もっと早く交代させてやるべきだったと思う。

霧島の新燃岳が今朝、小規模の噴火をした。19日の小規模噴火に次ぐもので、夕方には噴煙を1500m上げる噴火をした。同じ九州にいながら全く知らなかった。夜のニュースで初めて知った。かつて韓国岳に登って、はるか新燃岳を望んだのを思い出す。宮崎は口蹄疫が収まったら、今度は鳥インフルエンザ、さらに霧島の噴火、災難に次々と襲われて、特に農家は大変である。噴火は長引くと降灰がお茶にも大きく影響する。
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「これがほんまの四国遍路」を読む

(大野正義著「これがほんまの四国遍路」)

四国遍路の本、これで4冊目である。大野正義著「これがほんまの四国遍路」講談社現代新書、という本である。氏は門真市役所などの役所を終えて、実に9回も四国遍路に出かけ、四国遍路に付いてブログで情報発信していたところ、出版社の目に止まり出版になった。舌鋒鋭く、遍路の在り方について持論を展開している。自分でもその理屈っぽい悪癖に気付いていられるらしく、改めていうまでも無いが、氏の考えは一つの考えではあるが、お遍路には色々な考え方があるので、あまり決め付けることはいかがであろうかというのが、自分の感想である。

「これがほんまの四国遍路」は持論を展開するに熱心な余り、言いたいことがずれて行っている点や、矛盾などもあり、自分とはお遍路の考え方が違うなあと思いながら読んで行った。

四国を癒しのアミューズメントと位置づけて、お遍路を振興していくという考えは、いかにも長年地方行政にたずさわってきた人の発想方法で、半分賛成であるが、それだけで本当に良いのか。何百年も続いたお遍路には、純粋な巡礼という核になる人々がいたからこそ、廃れずに続いてきたと思う。もちろん自分はそんなに信仰深くないけれども、純粋にお遍路を重ねて白衣に朱印を頂き、それを着せて親を旅立たせたいという思いで巡っている人たちも多い。そういう人たちが何百年も続くお遍路を支えてきたので、癒しと楽しみだけで回る人たちは、外に癒しが求められれば、簡単にそちらへ移ってしまい、何百年も続くことにはなりえない。

氏は行政へ不満を持ちながら、行政がもっと手を出すことを期待している。四国遍路は、弘法大師を慕って、民衆たちが相互扶助で作り上げてきたものである。役人が意図を持って主導したようなものでは、このように長続きはしなかったであろう。お遍路でお金儲けをする人たちを批判するけれども、遍路宿でもお金が稼げて生活の糧になるからこそ、長続きするのである。お遍路をしながら、払える人はしっかりとお金を落としていくのが役割だと思いながら自分は歩いていた。

靴の選び方など、我が意を得たけれども、新しいシューズに刻みを入れるような、生産した人に失礼なことはしなくても、十分豆を作らないで歩くことは出来る。数珠、お線香、蝋燭などは要らないというのは暴論で、線香の香り、蝋燭の光、数珠の感触がすべて癒しにつながることを忘れてはならない。

近道主義で、何も求めて苦行することはないという。自分の遍路では苦行の先に見えてくるものがあるのではないかと思った。しかし、身体は酷使しているが心が澄んで、何とも心楽しくなる日々であった。最短距離を歩くのもよいが、苦行をするのもお遍路の一つのあり方だと思う。

氏の論調は、出来るだけたくさんの人に四国遍路をして欲しい思いでいっぱいであることは十分判る。しかし、最近亡くなられた宮崎建樹氏の「四国遍路ひとり歩き同行二人」は、歩き遍路にとっては欠かすことの出来ないバイブルになっている。この本によって歩き遍路を迷わずに出来た人がどれくらいいることであろう。かく言う自分もその一人である。その本一冊で何の下調べもしないでお遍路が出来た。氏の推奨する二万五千分の一地図を使う方法では気軽に歩き遍路には出られない。

何が違うのか、地図通りに行けばその道に遍路シールがしっかり付いていて、地元の人々に聞きまわらなくても、お遍路が出来てしまうのである。「四国の道」のしっかりした道標は所々で見たが、行政の仕事は中途半端で、おそらくその標識を頼りに歩けた人は誰もいないであろう。「四国の道」の標識はあてにしてはならないというのが、歩き遍路たちの常識になっていた。彼らは行政サービスの一つでやっているだけで、その仕事で食べているという気概も責任もない。たしかに「四国遍路ひとり歩き同行二人」は高い本かもしれないが、歩き遍路を確実に札所まで届けるという責任を果たす努力が徹底されている。宮崎建樹氏亡き今後、「四国遍路ひとり歩き同行二人」が改版されなくなってしまうのかどうか、今はそれだけを心配している。
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八木洋行氏講演会 追加 「野守の池など」

(白梅が咲き出した-ムサシの散歩道)

当地を流れる大代川は天井川になっているが、江戸時代に天領となってい多流域の山の木を、用材として切ったことが原因で、土砂がなだれて現在のような天井川になってしまった。かつて大代に池があり、主(ぬし)として鯉が住んでいた。ある時代、池が埋まって住めなくなって、鯉は大きく3回跳ねて、野守の池に入ったという伝説がある。

野守の池は川根町家山にあって、もともと大井川の三日月湖であった。今でも地下水系が流れていて、湧き出して池の水を保っている。この野守の池には各地の池からその池の主(ぬし)が移って来たという伝説が残っている。

奥泉の池にいた大蛇も水が干上がってしまい、そこへ住めなくなって野守の池へ入ったという。中川根の大札山に行く途中に「おろくぼ」という集落があるが、地名が示すように、おろちのいた窪(池)があったが、村人に追われて野守の池に逃げたという伝説が残り、おろちが通った街道筋に上長尾、下長尾という地名が残っている。さらには、崎平の奥の池など大井川水系の地域に同様の伝説が残っている。異色なのは東海自然歩道を西へ行った天竜川水系の新宮池にも大蛇の伝説があり、地元の人たちに池の中に焼石を入れられるなどされて、たまらずに野守の池に逃げてきたという。それらを合わせると、実に各地の池など、16の色々な主(ぬし)がそれぞれの地区に住めなくなって、野守の池に逃げてきている。野守の池にはそれらの主たちが肩身狭く現在も住んでいるのであろう。

これらの伝説から、村々にあった池や湿地が水が抜かれて田畑に開発されていく状況が知れて面白い。いずれも過去を惜しむ古老の口から創作された伝説なのだろう。奥泉の池の跡は現在も周りより低い田圃と、大井川に水を逃がした溝などの跡が残っているという。

野守の池の名前の由来は、伝説では京から高僧を追いかけてきた遊女野守太夫から命名されたとなっている。だが、実際は「野守」は、田畑を持たない人が田畑のそばに住み、田畑を荒らす鳥獣を追う「鳥追い」を行なう人のことある。農民たちは田の一画を野守のために収穫せずに残しておく。農閑期には野守は門付けをする芸人となる。各地に残る鳥追い歌はそのようにして出来て広まった。この近辺には鳥追い歌は見当たらないが、この野守の池から山に入った所に、唯一鳥追い歌が残っていた。野守は他の地方では差別用語だといわれる。

鳥を追うときに脅す言葉として、強く「たーーっ!!」と発声するのが最も効果があるという。なるほど、卓球の福原愛が1本取ったときに「たー!!」と発声するのも、同じルーツなのかも知れない。
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八木洋行氏講演会 後半 「大井神社の流着伝説」

(我が家のミニシクラメン)

(昨日の続き)
金谷の日限地蔵の始まりは、一説には、明治14年童子沢(わっぱざわ)から運び出した自然石を開山の日正上人が日限地蔵菩薩を刻んで開いたという。もう一つの説は、大井川の上流から流れてきて掘り出された石の地蔵さんを祀ったのが始まりというものである。これは各地に多く見られる流着伝説の一つである。

かつて川の堤などに数多くの石仏が祭られていて、大水が出て堤が壊れそうになると、石仏を川へ投げ入れて、石仏の力に頼んで洪水を防ぐということが行われていた。洪水が治まれば石仏は引き上げられて堤に戻され祀られるのであろうが、中に流れてしまう石仏もあったのであろう、川下で拾われて流着伝説をなすことになる。

この地域はどちらにしても大井川を抜きには語れない。大井川は天正の瀬替えで大きく変わった。それまで大井川は当地では西に蛇行して、五和地区の大部分は大井川の川底だった。大井川はこれより東へ、白岩寺-岸-青島-千貫堤と、藤枝方面まで流れが蛇行し、駿河湾に注いでいた。これを時の領主、遠州掛川の山内一豊と駿河の中村一氏は同じ家康の家臣で友好的だったので、協議し、牛尾の山を切り崩して大井川の蛇行をまっすぐにして、頻発した洪水を防ごうと、天正の瀬替えを行なった。これにより、遠州側にはこの辺り五加地区に山内一豊の領地が増えることになったが、これより下流では中村一氏の領地が増えることになり、どちらが損得か判らないが、この大事業によって、特に島田辺の洪水が随分減ることになった。

大井神社は大井川周辺にだけある神社で、全部で75社あることが確認されている。その元社は千頭の奥の大沢にあって、大井神社の元社を守っている井林家が現代も存在している。井林の名前も、大井の神様を囃したてる意味の名字といわれている。

いつの時代か、大規模土砂崩れで自然のダムが出来、大沢の大井神社の元社がそのダム湖に浮き上がり、その後の自然ダムの決壊で大井川に流れ始めた。途中、少しずつ壊れながら大井川を流れ下った。田代、神座などでは漂着した材を拾って大井神社の分社が各地に出来た。その最後に流れ着いたのが、現在の島田市の大井神社であると伝えられている。

三年に一回、天下の奇祭と云われる大井神社のお祭り、帯祭りでは、その最初に大沢の井林家を招いてお祭りを始める伝統が現在も残っている。これもスケールの大きい流着伝説の一つである。

大井神社75社の内訳は、井川8社、本川根7社、中川根8社、川根10社、金谷5社、島田12社、藤枝10社、焼津8社、吉田1社、榛原1社、大井川1社、岡部1社、さらに安倍川流域にも3社となっている。
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八木洋行氏講演会 前半 「やぞうこぞう」

(民俗学者八木洋行氏)

夜、竹下文化委員会主催の、八木洋行氏の講演会を聞きに行った。八木氏は藤枝在住の民俗学者で、この20年余、地元ラジオで靜岡県の民話を読み聞かせる、「すっとん靜岡昔話」の原稿を書き続けていて、現在1114回を数える長寿番組になっている。

最初、八木氏を見て、大きな間違いを犯していたことに気付いた。実は講師の名前を聞いたとき、同じ靜岡県をフィールドワークにしている民俗学者、中村羊一郎氏と間違えていた。失礼しました。

最初、槙の実の話から始まった。生垣に多く使われている槙の木の実を、この地区では何と呼ぶかと聴衆に聞いた。「やぞうこぞう」とあちこちから答えの声が上がる。実は「やぞうこぞう」と呼ぶのは大井川を境にして西の遠州地方だけだという。大井川の東、駿河では「さる小僧」とか「らんかん小僧」などと呼ばれている。

遠州の空っ風は今の季節の西風をいうが、濃尾、三河では「弥三郎の風」、あるいは「弥三郎婆さんの風」と言われた。昔は遠州地方でも同じように言われていたが、遠州に繊維工業が発展し、遠くから働きに来て、この地に移り住む人たちも増えて、「弥三郎の風」という名前は廃れ、もっぱら遠州の空っ風と呼ばれるようになった。

冬の季節風が伊吹山に当って、湿気を雪に降らせた空っ風が、濃尾平野から三河、遠州まで空っ風として吹いてくる。この風は焼津の高草山(日本坂や蔦の細道のある山塊)に当って駿河湾に出て、西伊豆の海岸まで達する。だから高草山の東の靜岡には空っ風は吹かない。

弥三郎婆さんは伊吹山の山の神で、婆さんが吹き下ろすといわれてきた。実は伊吹山山麓には鉄を生産する職人集団がいて、冬の空っ風をふいごの代わりにして鉄を吹いたと伝わる。どうやらその集団は遠く出雲の安来あたりから流れてきた職人たちで、弥三郎婆さんの山の神も一緒に移って来た。余談だが、安来節のドジョウすくいの踊りの原型は、砂鉄取り作業だったという。ならばドジョウは「土壌」だったのかもしれない。

その「弥三郎の風」が吹き始める初冬に、その風が通る槙の生垣に実る実だから、「弥三郎の小僧」と呼んだのが、なまって「やぞうこぞう」になったのだという。

ここまでが、つかみの話で、自分たちの身近なことを民俗学で説明することで、聴衆の聞く気をしっかりと掴んでしまった。掴みさえ間違えなければ、講演は成功したようなものだといわれる。

その話に関連した少し怖い話。昔、死人が土葬されると夜、弥三郎婆さんがやってきて、墓を掘り返しその着物を奪っていくといって、夜に騒ぐ子供たちをおどかしていた。実は、もっと生々しい話で、良質の鉄の生産に、動物性タンパク質が必要とされ、職人集団では死体を貰い受けて、たたらに入れて鉄の生産がなされたといわれ、その話が巷にもれて、そのような伝説になったのだという。(つづく)
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