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秋整枝と春整枝

               (この新芽も出る前に整枝がなされている)

今日はお茶の栽培に関する専門的な話で恐縮である。先日、お茶作りの先生であるS氏から「秋整枝」と「春整枝」の話を聞いた。

整枝というのは翌年の一番茶を摘採機で刈り取る時、事前に枝を整えて、摘採時に新芽だけを刈取って古い茶葉が混じってこないように準備することで、必ずやっておかねばならない作業である。

春のまだ芽が動く前で、根が活動をはじめたころに行う整枝を「春整枝」、秋に翌年の側芽が動き出さない程度に気温が下がってから行う整枝を「秋整枝」という。

「秋整枝」をすると萌芽(芽吹き)が早く、芽の数が多い芽数型になり、「春整枝」では摘採期が少し遅れるが茶葉の厚みのある芽重型になるという。

今までは、早期出荷したいときや、暖かい土地柄の静岡の平地では「秋整枝」が主流となり、樹勢の保持を必要とする関東以北では「春整枝」が良いとされた。

しかし、最近の研究で、秋に残る古い葉の全窒素含有率を調べると、11月に4%の高い値を示したのち、漸次減少し、3月になって再び増加して、一番茶新芽生育期には大きく減少することが分かった。

これは、茶の木が、翌年の新芽の萌芽に備えて光合成などで古葉に蓄えた養分を、活動を終えて休眠期に入った冬に徐々に葉から根に移し、春になると根から一斉に新芽に送って芽を伸ばすという、植物として生存のための活動結果を示している。

そうだとすると、静岡で主流の「秋整枝」は最も養分を豊富に持つ古葉を秋に刈り落としてしまうので合理的でない。養分が根に移って抜け殻になった春に古葉を刈り落す「春整枝」こそ理想である。これがS氏の新しい考え方であった。このS氏の考え方に則って、今掛川地区で複数の茶農家と茶工場で実験が始まっている。

新茶の相場が日を追って下がるという現実がある以上、早期出荷がのぞめる「秋整枝」を全面的に「春整枝」切り替えるのは難しい問題である。しかし、過剰な施肥の結果、流れ出た肥料で公害を起こしたため、減肥が厳しく管理される茶園にとって、せっかく茶の木が蓄えた養分を無駄に捨てているのであれば改めなければならない。

栽培されるお茶が日本に入って800年、歴史のある茶業だが、年々それまでの常識を破る考え方が出てきて興味深い。
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マイリーフカップで飲む3種類のお茶

マイリーフカップとセットにする3種類のお茶を手に入れた。いづれもなかなか手に入れるのが難しい特徴のあるお茶である。3種類のお茶についてうんちく書いてみた。


1.「機械摘み玉露」(産地 静岡/岡部)【上の写真】
・玉露は、玉露品種の茶園で、棚によしずを広げて遮光し、手摘みして煎茶と同じ製法で加工したお茶です。「機械摘み玉露」はよしずの変わりに遮光率90%の遮光ネットを用いて遮光し、手摘みの代わりに摘採機を使って摘み取ったものです。玉露の美味しさを安価に提供したものです。味付けに他のお茶と混ぜて使われます。このままで販売されることはほとんどありません。


2.「昔製法煎茶(荒茶)」(産地 和歌山/日置川)【上の写真】
・昔は、煎茶は蒸しは浅くして、香り良く針のように細く揉み上げるのが理想でした。しかし、現在は味を重視して、しっかり蒸して揉むようになり、昔風の揉み方の煎茶はほとんど見かけなくなりました。「昔製法煎茶」は和歌山の山中で昔の製法をかたくなに守って作られている幻のお茶です。整形などの仕上行程を省いて、荒茶の形を残して仕上げました。湯を注ぐ前の茶葉を見てください。ちょうど手揉みのお茶を見るようですが、これも製茶機械で作られたお茶です。


3.「量産型釜炒り茶」(産地 佐賀/嬉野)【上の写真】
・昔は釜炒り茶は釜を使って手で混ぜながら炒り上げていました。丸まったお茶の形と、釜で炒ったときの独特の釜香が特徴です。現在は大型のプラントで人手を掛けないで大量に加工しています。このお茶は佐賀県の嬉野南部釜炒り茶業組合から取り寄せた2番茶です。釜炒り茶は九州では作られますが、ほとんど九州地方で消費されています。揉んでないので、お湯を注ぐときれいなお茶の葉に戻ります。

さて、3種類のお茶をそれぞれにマイリーフカップで飲んでみてもらう。一通り味わったら、3種類のお茶を自由に混ぜて飲んでみると、また別の味わいが楽しめる。
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仙人志望のO氏からの便り

                  (色とりどりのアジサイ-大鐘家)

新茶を送ったO氏からお礼の便りが来た。年賀状以来である。O氏は「夢は仙人になること」のO氏である。

新茶お礼の挨拶句が6句載っていた。「蓑蟲」はO氏の俳号である。

       「新茶」   蓑蟲
     新茶戴き いそいそ古き 壷を拭く
     量加減も 細心新茶の 初酌みに
     送り主の 暖(ぬく)さも共に 新茶喫す
     友情も 加わる新茶 朝一番
     新茶の味 残りつ雨後の 園散策(城北公園)
     新茶酌んで 朝々始まり 恙(つつが)なし


O氏の手紙を読んでいると、どんなにささくれた気持も清流に洗われるように静まる。

「何しろ何しろなるべく早くに、どこかの山懐で、文明に背を向けた半仙人生活を送りたい、と願っているのですから。近くに野天風呂があって、入り放題の所だといいがなあ、なんて思っているんです。」

O氏はいまだ仙人にはなれず、しかも仙人への思いは断ち切れ難くいるようだ。続いて、この季節に俳句について、気持に染みいる逸話を一つ、手紙に記してくれたので転記する。

「島津富(江戸時代の無名の俳人)は生涯、一友人の居候で終ったという、のんきな人でした。この人が一生に一度、真剣に、真面目に作句した時があったそうです。旅の帰途、とある村へ宿った時、雨乞いを頼まれたのです。昔は、旅の修験者や僧に、何かと祈祷を頼んだのでした。が、その時は生憎そういう人が通らなくって、旅の俳諧師に縋ったのでしょう。今更退けなくって、彼は一心になって、生まれて初めての、祈りの句を作った‥‥。
          しろしめせ 神の門田の 早苗時
これを村の神社に奉納しました。」


島津富が立ち去ったあと、三日三晩雨が降って田圃は水に満たされ無事田植が出来たとの話。本人は死ぬまでその事を知らなかったが、その神社にはその句の額が掛かっているという。(鼠溪著「寝ものがたり」より)

「そんな迫真の句を作りたいです。」と手紙は結ばれていた。

(O氏へ 私信を勝手に書き込んでしまいましたけれど、ご容赦下さい。)
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アメリカの推理小説

                     (アメリカの推理小説)

最近、読み始めた本に、アメリカの推理小説がある。出張の折に、買い置いてあった文庫本を持っていったのがはじまりであった。

翻訳本はカタカナの人名がなかなか頭に残ってくれない。本名と愛称がごちゃごちゃになったり、犯人と警察官が入れ違ったり、主人公の名前ですら覚えきれない。だから今までは読むのを避けてきた。おそらく多くの人がそうなのだろう。カバーにはたいてい「主な登場人物」が付いている。

「主な登場人物」を見ながら、一冊読んだら止まらなくなり、今4冊目に入っている。読み終えた本が「報復」(ジリアン・ホフマン)、「カサンドラの挑戦」(J・D・ロブ)、「検屍官」(パトリシア・コーンウェル)の3冊である。

3冊読んで、何となくアメリカの推理小説と日本の推理小説の違いが判ってきた。日本の推理小説は作家が書いている。アメリカの推理小説は現場の捜査官や検視官や検察官が自分の体験を元に作家デビューしている例が多い。だから日本の推理小説は捜査の細かい点は分からないから描写を避けている。ところがアメリカの推理小説は不必要と思われる細部まで細かく書き込んでいる。

日本の推理小説で細かく書き込んでいる部分はストーリーの伏線であったり、後々意味を持つ部分であることが多い。だからよく注意して読むとその後の展開が予想できる。アメリカの推理小説は細部の描写が微に入り細に入りしているので、どれが重要な部分なのか見当が付かない。

日本の警察官や検察官が作家デビューすることは非常にまれである。彼らとて日常的に事件について文章を書くことを商売にしている。事件に一番近いところにいるのだから、作家になる人がもっとあっても良さそうである。しかし、彼らが使っている文章は独特で、とても小説には向かない。「同年同日同時刻、同女を縊死せしめた」などという文を幾ら訓練しても小説にはならない。

アメリカの法曹界は言文一致になっていて、何年かその世界にいて文章を書いておれば、作家の修行になってしまうということなのかもしれない。なにしろ陪審員制度があって、日々陪審員を納得させる文章が要求されているのだから。

たった3冊読んだ位でそんな結論は早計であるが、そんなことを考えながら、またアメリカの推理小説を読んでいる。

よく見ると3冊とも女性の作家であった。
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企業の手綱(たづな)

                    (企業の不祥事は絶えない)

D生命保険の人が来て話をして帰った。保険業界も最近不祥事が多くて、J損保のように営業停止になるところもあり、各企業とも業務の見直しなどで大変だと話す。(D生保も昨日新聞紙上ををにぎわせた)不祥事は、他の業界でも、脱税、クレーム隠し、談合、不法取立て、不法建築、粉飾決算、インサイダー取引など、枚挙にいとまがなく、企業の犯罪的な行為が次々に明るみに出ている。

一方、企業を見張るべき監査法人も、A監査法人のように不正を見逃しただけではなくて粉飾の指南までやっていたとして糾弾を受けているところもある。

企業は目標を掲げて、社長を先頭に社員全員がその目標に向かって突っ走る、いわば競走馬のようなものである。突っ走る勢いのない企業は発展がおぼつかない。しかし、ただ突っ走るにまかせておくと、いつか競馬場の柵を破って場外に走り去ってしまうか、進路妨害などルール破りをやったり、突然失速に陥ったりし、いずれにしても競争からは脱落していくことになる。

最近感じるのであるが、企業の中で最も大切なことは、突っ走る企業の手綱を握る人もしくは組織のような気がする。どんな名馬でも武豊が騎乗してはじめて重賞レースに勝つことは出来る。

徳川幕府には天下のご意見番と称した大久保彦左衛門がいた。徳川幕府が250年続いたのは、彦左衛門の存在を許した徳川幕府のふところの深さだと思う。

長い会社人生において、自分は、会社が誤った道へ踏み込まないように、世間から後ろ指をさされることのないように、あらゆる方面において世の中に害を与える企業にだけにはならないように、そんなことを常に考える役回りを果たしてきたような気がする。そして会社もそんな自分の役目をよく理解してくれ、今日まで大きな事件を起こすこともなく過ごせてこれたのは自分の大いなる誇りである。
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還暦の祝い

                     (還暦の祝いの昼食会)

土曜日、名古屋在住の上の娘夫婦が帰ってきた。それで急遽、下の娘夫婦に呼びかけて、少し遅れたが日曜のお昼に還暦の祝いをやってくれることになった。皆んなが集るのはレンジ茶の時以来である。

午前中、島田のアピタに上の娘と買物に出かける。夏の山歩きに備えて、白い帽子とウェストバッグ(いずれも MADE IN CHINA)を買った。

帰ると“すし宗”の出前で準備が出来ていた。アボガド、牛肉、ピ-マン、エビ唐辛子などの「メキシコ風寿司」も混ざっている。お腹を空かせた5人の若者たちが席につき、何となく食事が始まり、そのうちに4台のDSを使い対戦型のテトリスを始めて、食事会は終わった形になった。(DSは任天堂のゲーム機?)

終わりに特製のジュースを作った。冷凍してある甘夏の実と、バナナ、牛乳、砂糖をジューサーにかけるだけだが、甘夏の酸味をバナナと牛乳がまろやかにして、なかなかいけると自分は思っている。

子供たちがそれぞれ家に帰って行って、夜、今日の昼食会の意味を思い出した。そうだった、還暦の祝いであった。そういえばセレモニーも無く、祝いの言葉もなく、久しぶりに集ったから昼食会といった感じで終わった。別に改めて祝うほどの慶事ではないが、何か忘れ物をしたような、しないような。

上の娘夫婦がいま流行りの「脳を鍛える大人のDSトレーニング」というゲームを機器ともどもプレゼントしてくれた。入荷するとすぐに売り切れる人気ぶりで、娘の亭主が10時開店に8時半から並んで買ってきてくれたらしい。せいぜいこれで鍛錬してボケないようにしよう。

とりあえず最初にやった所、脳年齢は80歳と出た。もう一度別のアイテムでやり直したら、脳年齢は50歳と出た。どちらがほんと? 少し訓練すれば脳年齢を下げることは出来そうである。
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太宰府の花菖蒲と睡蓮

                    (太宰府天満宮の菖蒲池)

この日曜日の太宰府天満宮参拝の余禄である。

太宰府天満宮の参拝を済ませ、クスノキの巨木を見ながら境内を一巡したのち、心字池の右側に続いている菖蒲池へ回った。菖蒲池は、今、花菖蒲の花盛りであった。

池の中に点々と水に沈んだ円形の島がつくられ、その島にびっしりと花菖蒲が植えられている。それで花菖蒲が水面から生えているように見える。池中に石柱の句碑が建っていた。

          紫は 水に映らず 花菖蒲    年尾  

「年尾」は高浜虚子の長男の高浜年尾のこと。句碑の書も年尾の自筆によると言う。今は花菖蒲の白も薄紫も紫もすべて池の濁った水に映っている。花菖蒲の池は季節には夜間照明され、ライトに浮かぶ花菖蒲は、日中とは違う趣があると言う。「紫は水に映らず」とはこの夜間の様子を詠ったものであろうか。出来たら夜間に見てみたいと思った。

池の中央に伸びた木道にラジオの生放送であろうか、男性のリポーターとアナウンサーらしき女性がスタジオ相手にテンション高く話していた。話題はここで催されるコンサートのことらしい。木道上で歌っている歌手の写真が池の端に展示されていた。

九州国立博物館へのエスカレーター入口の左側に、だざいふ遊園地があり、園内でドイツワールドカップの応援イベントがあるらしく、サムライブルーのユニホーム姿の人がちらほら見える。

エスカレーターとトンネル内の動く歩道で導かれて、九州国立博物館の前に出る。博物館の建物前の小さな谷を堰きとめて、深い調整池があった。その底の池に色とりどりの睡蓮の花が咲いていた。睡蓮は英語ではウォーターリリィ。睡蓮といえば純白な花しか思い付かない。当然これだけカラフルな睡蓮をまとめて見るのは初めてであった。


                    (九州国立博物館の睡蓮)
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日銀総裁の利殖

          (ドシロウト発言で物議をかもした国会での福井日銀総裁)

福井日銀総裁がインサイダー取引容疑で逮捕された村上世彰氏の村上ファンドに、個人として1000万円を拠出、運用委託していたことが明らかになり、利益総額は昨年末までに1473万円に上ることが明らかにされた。

日銀総裁の職になければ、何も問題になることはないニュースである。しかし、日銀総裁はその発言一つで株が上がり下がりするほど重要な役目を持った職で、その判断に少しでも自らの利害が影響しているとの疑いを抱かれるようでは日銀総裁は失格である。

これは法律や規則に反したことではないとの論調もあったが、日銀総裁は総理大臣といえども罷免できない独立した要職であり、だから法による規制も細かく規定されていないし、今後もそんなことを法律や規則で縛るべきではない。

日銀総裁になったときに、疑わしきものはすべて整理しておけば、今回のような問題になることはなかった。総裁就任をどう考えていたのか、世間的な常識では信じられない話である。エリートが持つ特権意識とか、世間の常識の欠落があったとしか考えられない。

数ヶ月前には解約を申し出て6月末で清算されるとか、運用益は拠出金とともにしかるべき所に寄付するとか言ってみても後の祭である。

戦後間もなしに、闇物資を買わないで栄養失調で死んだ裁判官がいた。法の番人が法を犯すことを良しとしなかったのである。そこまでせよとは言わないが、警察官が泥棒をしたり、税務署員が脱税したり、先生が児童買春したり、それをやっては世の中むちゃくちゃになってしまう。日銀総裁のやったことはそれと同類のことだと思い知るべきである。

世論調査では50%の人が日銀総裁は辞めるべきだと考えているようだ。やはりここまできたら、辞職をすべきだと思う。皆が日銀を信用しなくなったら、お札は紙切れになってしまう。問題になっているのはそういうことだと思う。
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石のベンチが届いた

                   (自宅庭に設置した石のベンチ)

月曜日に中国から石のベンチが届いた。4月に訪中した際、石の製品を販売している店に立ち寄った。お店に連れて行ってくれた現地法人のS氏が石のベンチを日本に送るけど要らないかという。まとめて送る中から1脚貰うことにした。

送られてきた石のベンチは、自宅へ届けてもらうついでに、自宅の庭に設置までやってくれた。足の部分が二つと座板、背板の四つの部品で出来ており、それぞれが重さ20kg位あるという。その部品を接着剤で組付けてもらった。組み付けてしまうと一人や二人では動かせないと思う。

下の娘が来て、失礼にも、庭の墓石みたいなのは何かと聞いた。しかし、次の日には女房が腰掛けてみて、坐り心地が良いと感想を述べる。ぐらぐらしないから安心出来るのであろう。愛犬ムサシをそのベンチに乗せようとしたが、石は爪が立たないためであろう、上がるのを怖がったようである。しかし次の朝には、ちゃっかりベンチに乗っていたという。お腹を付けると犬にとって気持良いはずである。

犬は汗腺がないので汗がかけない。暑くなると口をあけてせわしく息をして、口から蒸発した気化熱で体温を下げようとする。しかしそれだけでは不十分で、だから暑さが苦手である。暑さを避けるため、夏暑いと土を掘ってお腹をつけて冷やす習性がある。しかし、家の中ではそれが出来ないため、お腹をつける土の代わりに石板を置いてやると良い。ペットショップに行けばそんな石板を売っている。このベンチはそんな石板の役も果たすかもしれない。

木や鉄のベンチと違って、このベンチは腐ることもないし、さびることもない。重いから盗まれることも少ないだろうから、公園なんかに置いても面白いと思う。値段も一万円もかからないからそんなに高いものではない。
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太宰府天満宮とクスノキ

               (太宰府天満宮の参道-太鼓橋の上から)

日曜日の太宰府天満宮は人出が多かった。太宰府天満宮は40数年前に高校の修学旅行で来たことがあると、事務所の人にも話してきた。太宰府天満宮に来て記憶のかけらすらないことに気がついた。一方、福岡に筥崎八幡宮という神社がある。その神社名に少し引っ掛かりがあった。ひょっとしてそこへ立ち寄ったのを思い違いしていたのかもしれない。

後日、筥崎八幡宮をネットで調べていくと、本殿の正面に「敵国調伏」の額が掲げられているとの記事があった。元寇で焼失した社殿の再建時に掲げられたもので、亀山上皇の筆跡だという。この「敵国調伏」に覚えがある。修学旅行で訪れたのは筥崎八幡宮の方だった。しかし、どうして学問の神様である太宰府天満宮に行かずに、武運を祈る筥崎八幡宮だったのか。

土産店が並ぶ門前町を抜けて鳥居をくぐった最初に、菅原道真の有名な「東風吹かば」の歌碑があった。

     東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ

讒訴を受けて、昌泰四年(901年)に大宰権帥(だざいのごんのそち)を命じられ、配流となった菅原道真公が京を後にするときに、紅梅殿の梅に惜別の想いを込めて詠じられた有名な一首である。その後、その梅は公を慕って一夜のうちに京より飛来したといわれ、本殿右側の御神木「飛梅(とびうめ)」の由来となっている。

右折して境内に入るとクスノキの巨木が何本も立っていた。折から日差か戻ってきて、巨木が立ち並んでいる割には明るい。心字池に架かった太鼓橋を渡る。池の周りはクスノキとアジサイの花で取り囲まれていた。

太宰府天満宮のクスノキの中に、大正11年指定の2件(1本と1組)の国の天然記念物がある。1本は本殿の左手の回廊の外にある「大樟」である。高さ39m、根廻20m、目通12mと案内板にあった。もう1組は本殿の裏にある2本のクスノキである。寄り添って立つ2本のクスノキを夫婦に見立てて、「夫婦樟」と命名されている。


                     (太宰府天満宮の大樟)

両方とも「樹齢は千年~千五百年」と案内板にあったが、樹勢から見てその樹齢は少し大げさかと思う。一度代替わりして、せいぜい800年位かと見た。いずれにしても、クスノキは筑紫路を代表する樹木で、太古の昔より辺りに自生して、この天神の森の中核になったと考えられる。
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