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何事もなく歳は暮れていく

(昨夜、野守の池のイルミネーション)

昨夜、食事の後、思いついて、車2台を連ねて、野守の池に設置されたというイルミネーションを見に行った。30分ほど車を走らせて行くと、家山の野守の池と高台になった天王山に電飾が施されていた。円錐形の電飾が池の水上に3個あり、水面に映って倍になり、美しい光景であった。本当は天王山へ登って、上から見下ろしたかったが、警備をしている地元の人に聞くと、車で登れないことは無いけれども、夜はやめた方がよいと言われて断念した。写真では色がはっきり出ないけれども、肉眼では赤・青・黄色と色が混じってきれいであった。

市では1000万円予算を掛けたというが、どこにそんなに掛かったのかと思った。おそらく池に三角塔の足場を作ったり、電飾以外のところにお金が掛かったのであろう。見物人がちらほらで、寒さ以上に寒々とした光景であった。電力不足の折りに、批判の多いイベントである。

夕方、道の駅掛川で買ってきた伸し餅を、冷えて固まった頃合いになったので、庖丁で切った。切る位置を描いたビニールの袋に、搗き立てのお餅を入れて、袋一杯に伸ばしてある。

昨日の午後、道の駅掛川の農産物産直の店で、お餅の空ケースの前で、名古屋の娘と二人並んで、運んできた熱々の伸し餅2枚を、各1枚ずつ、強奪するようにして確保し、買ってきた。大量生産のお餅ならマーケットでいつでも買えるが、こういう伸し餅は珍しく、出来次第2枚ずつ運んで来るけれども、出すとすぐに売れてしまう。

ビニール袋で伸すと、くっ付かないから餅粉を使わなくてもよい。カビは粉から生えるから、粉を使わないとカビ難くなると女房がいう。冷凍して置くと新鮮なまま長持ちする。冷凍しないものにはワサビを入れておくとカビにくい。お餅にカビは付きもので、やっかいなものでもある。まあ、そんなに置かないでどんどん食べるから、保存を考える必要も無いかもしれない。

大晦日も夜になれば、そのまま紅白に突入して、それから、「年の初めはさだまさし」まで、途中で天ぷらそばを年越し蕎麦として食べながら、今年1年の反省をする余裕も無く、新年を迎えてしまった。紅白は東日本大震災の復興支援モード一色のものであった。こういう紅白を見るのは初めてである。阪神大震災よりも遥かに広域で、しかも震災に加えて、巨大津波と原発事故の三重苦である。ようやく仮設住宅が出来、避難所暮らしが終ったばかりで、復興にはまだまだ手が付けられていない。まだまだ進行形の大災害である。

明けて新年、喪中の新年ゆえに、正月に松飾りもなく、初詣でや年始回りにも出ないから、静かなお正月になるはずであった。ただ、気になるのは孫たちが頻繁に出入することである。楽しみであるが気忙しい正月になるかもしれない。
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歳末ステーキパーティ

(こんなステーキ肉だった)

百貨店の商品券が手元に使われずにあったので、相談して皆んなが集まるときに、ステーキパーティをやろうと決めていた。この年末皆んなが集るので、靜岡の松坂屋へステーキ肉を買いに行った。デパ地下の肉屋さんのケースには、最も安いステーキ用の肉が2100円で出ていた。少し予算オーバーだが、商品券には余裕があったので肉を7枚買った。肉には1枚ずつにサランラップが掛かっていた。氷を貰って持ち帰った。大人が7人で、子供にはまだ無理だろうと考えた。それが昨日の話である。

夕方には3家族が全員集合した。それぞれの家族の肉を、息子と聟さんたちがフライパン2枚を使って、それぞれに焼くことにする。そこは今時の青年たちで、早速パソコンでステーキの焼き方を調べている。ステーキは冷蔵庫から出したら常温に戻してから焼くというところから、マニュアル通りに始まる。付いていた牛脂は手に持つと体温で溶け出すような上物である。塩・コショウなどのスパイスも小袋に入って付いていた。塩コショウは焼く直前に付けないと肉の油が溶け出してしまうという注意もネット情報である。

ところで、国産牛とあるが、どこの肉なのかと、時節柄、女性たちが気にし出した。肉にはしっかりと個体識別番号が付いている。「個体識別番号 1251289091」瞬く間にこの肉牛のトレーサビリティがパソコン画面に表示された。H21.9.5千葉市に生まれ、その後転々として、H22.4.15に掛川市へやって来て育てられ、H23.12.1に処理された、2歳4ヶ月の雄牛であると、そこまではっきり分かる。まあ、静岡県産の牛と言ってよいのだろう。これだけの情報があれば、女性たちも安心である。その一方、そこまではっきり知ると牛の姿まで思い浮んで、ちょっと食べにくい。それも瞬間に去来しただけであるが。肉牛のトレーサビリティは狂牛病騒ぎ以来、急速に整備されたようだ。


(ステーキに焼けた)

三人の俄かシェフが、それぞれに焼き方の希望を聞きながら、代わる代わるに焼いた。ウェルダンになったり、ミディアムになったり、焼き方にむらが出て、希望通りに焼けるとは限らないのはご愛嬌である。良質の肉は焼き方はどうあれ、美味しいのである。

焼く人、子供の面倒を見る人、食べる人と、なかなか一緒にそろって食べるわけにはいかない。冷えてしまっては美味しさを逃すから、焼けた人からどんどん食べる。パーティと言ってもそれはいつものこと。お酒を飲む人もいないから1時間ほどで、みんな堪能して満足の態で食事を終えた。たまにはこんな贅沢も許してもらおう。
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静かな師走の日、孫たちの闖入

(今宵、西の空)

今日は寒さも少し緩んで、日が暮れてから雨戸を閉めに出ると、西の空に宵の明星(金星)が輝き、やや高くに三日月が見えた。デジカメでどこまで撮れるかと挑戦したのが、上の写真である。写真を加工しながら、三日月にしては少しメタボかと、今日の月齢を調べると4.4で、三日月ではなかった。

朝11時過ぎに、ひとり電車で師走の靜岡へ出た。松坂屋で買い物するついでに、葵ビルの戸田書店で「くずし解読字典」(柏書房)を購入した。パラパラと見ていて、「検索自在」という点が琴線に響いた。図書カードが残っていたので少し足し前をした。少しでも解読のヒントになればよいと思う。また新年から靜岡市美術館で開催される、「竹久夢二と靜岡ゆかりの美術」展の前売券を2枚購入した。2月4日に夢二についての講演会があるので、その申し込みを往復はがきで出したので、入場券を安いうちに求めておこうと思った。講演会では竹下夢二の女性収集家が、活躍当時の夢二が女性たちにどのように迎えられたのかが判ると思う。

帰宅後、ムサシの散歩に出ようとすると、まーくん一家が車でやってきた。さらに、先へ歩いていると、かなくん一家(名古屋)の車に出会った。電話ではかなくん一家はここに来る前にまーくんの家へ寄ってくると言っていた。

今日から年末年始の一週間はこの二タ家族が出たり入ったり、泊ったりと大賑やかになる。そもそもこの年始は喪中で、松飾りもしないでひっそりと過ごすつもりが、なかなかそうはさせてくれないようだ。散歩から帰ると、久し振りに会ったまーくんとかなくんに、あっくんも一人前に後を追いかけ、三人が兄弟のように家中を駆け回っていた。まーくん、あっくんも年明けの4月からは3年間の幼稚園に入る。孫たちの早い成長を見ながら、自分もそれだけ歳を取っていることをついつい忘れている。

夜は名古屋の娘が作った豚丼をいただく。作り方はいたってシンプルのようであったが、味はまずまずだった。食べっぷりを見ていると、1歳と6ヶ月のあっくんのたくましい食べ方に圧倒される。放っておくと手づかみで次々に口へ入れている。お兄ちゃんたちが、口に入れてもらうのを待っているのとは大違いである。末頼もしき野生ぶりである。

夜9時を回り、子供たちもお風呂から上がってようやくやすんだ。これから自分の時間と思ったが、こちらの方が眠くなり、少し宵寝してからパソコンに向かった。
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会社勤め、最後の忘年会

(島田駅前イルミネーション)

会社勤め最後の忘年会で、夕方島田の居酒屋に電車で行った。最後に残った関与会社のお茶産地問屋の忘年会である。

途中、金谷駅前、島田駅前の広場には年末年始恒例のイルミネーションが設置されていた。こういうものを見ると、電力の無駄とすぐに考えてしまう。そんな意識構造に、多くの国民の気持が追い込まれている。夏の計画停電はそれだけインパクトがあった。しかし、そういうことで経済が縮小してしまうのはもっと困る。広場の電飾予算は市から出ているのだと思うが、電力の状況がどうなっているか、しっかりと情報を得て、余裕がある限り、電飾を行なおうと配慮がされているのだろう。確かに電飾があるだけで、少しは気持が晴れやかになる。

この会社の人たちは、物事を余り深刻に考えない、良い性格の人たちが集っていて、忘年会へも気持よく参加できる。乾杯のあと、仕事柄、島田市の瓦礫焼却処理問題が話題にのぼっていた。瓦礫焼却には、おそらく全面的に反対と言う意見が大勢を占めるかと思って、話を聞いていた。

中に茶業青年団の有志として、被災地山田町にお茶を携えてボランティアに行った者もいて、現地がいかに大変な状況にあったか、つぶさに見てきて話をする。出来ることはどんなことでも協力したいとの思いも強く持ったという。それぞれの意見を聞いていると、岩手県であれば随分離れているから、放射能はほとんど影響ないではないか。それよりも、茶畑が取り囲むようになっている焼却灰の処分場を、くり返し報道しないようにしてもらいたいという。報道そのもので、茶畑の隣接地で、いかにも危険な処分場に見えてしまう。風評被害は気にはしているが、それほど深刻に考えていないように見えた。すでに風評被害を経験したために、風評被害の程度を見切っているように感じた。

終わり近くになって、2次会をどこに行こうかと、あちこちに電話をし始めたが、どこも満員で10人そこそこの人が入る余地が無かった。仕事仕舞が多く、今夜が得意日なのかもしれないが、あるいは景気が上向いてきたのだろうか。それとも長い低迷に弾けてしまったのか。忘年会の1次会は何とか入り込める2次会会場が見つかったところでお開きになった。いつもの通り2次会はパスして電車で帰宅した。

今夜は寒さ対策に、足首までの下穿きを付け、マフラーに厚手のコート、手袋までしていたから、帰りにホームでしばらく待ったが、寒さを全く感じることが無かった。
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「台湾人には、ご用心!」を読む

(酒井亨著「台湾人には、ご用心!」)

図書館の予約システムで、新刊書の「台湾人には、ご用心!」を借りた。図書館で本を手にしたとき、場違いな本を借りてしまったかとげんなりした。台湾在住の日本人がその体験から台湾人の気質を書いた本と思って借りた。表紙の絵は、日本に“萌え”の状態にある台湾人を象徴的に示した絵なのだろう。内容はいたって真面目な比較文化論で、誤解して購入する人もいるであろう。

台湾人が大変親日的であることは、台湾旅行をしたことのある日本人が身を持って感じることである。台湾は戦前、日本の統治下にあった。日本語教育が行なわれて、お年寄りは皆んな日本語がしゃべれた。戦後、大陸から逃げてきた国民党統治下になり、中華民国となった。国民党の政治が余りに略奪的で、不満分子の大量の粛清があったりして、日本統治下へのノスタルジーから日本贔屓になっているといわれてきた。

しかし、著者の見解は少し違う。日本統治下であってもすべてが肯定的に考えられているわけでもない。評価されているのは治水や水道、農業開発、衛生面の啓発などであり、強圧的な統治方法まで是としているわけではない。

台湾人は商売の相手としては付き合っているが、基本的に中国人や韓国人は嫌いで、日本人は好きである。中国人や韓国人は他者に厳しく自分に甘い、日本人は他者に厳しいが自分にも厳しい。それに対して、台湾人はマレー系の人種の特徴で、他者に甘く自分にも甘い。どちらにしても、台湾人に対して厳しいのは嫌であるが、日本人は他者に厳しい分、自分にも厳しいから許せると考える。

台湾では日本人というだけで、特別の扱いをされる。中国人や韓国人をはじめ、東南アジアのどの国の人も受けない待遇である。これは元植民地で独立した国が、宗主国の国民に抱く感覚と同じであるという。

若い人たちは、長い平和の時代の産物としての、漫画、アニメ、ゲームなどから始まった日本の新しい文化へ憧れを持っている。そして、日本語を勉強し、遊びに行くなら日本へ行きたいと多くの若者たちが思っている。

台湾の人たちは、大震災で救援物資の配給を整然と行列して待ち、感謝していただく日本人の映像を、日本で放映されると同等のレベルで見てきた。多くの死者を出しながら、落ち着いた態度で終始する日本人の姿を感銘を持って見てきた。国内の一地域が被害にあったような感覚でとらえていた。だから、他人事とはおもえなくて、短期間に200億円という、世界のどこの国よりも桁違いに多くの義捐金が集った。

そんなに友好的な国民であるが、付き合うときには気をつけなくてはならない。東南アジアの多くの国民と同じようにマレー系の人種の特徴で、他人に甘く、自分にも甘い。約束は平気で忘れる。ドタキャンは日常茶飯事。しかし人を騙そうとするような悪意はない。だから咎めるのが難しい。面罵すると、面子を傷つけられたと、反撃される。一方、大陸の中国人は、いつでも平気で悪意を持って人を騙そうとする。だからその場で厳しく糾弾しても、面子を失ったとは思わない。その手が通じないと理解して、2度と同じ手は使わなくなる。しかし、新たな方法を考える。扱い方としては中国人の方が扱い易いかもしれない。
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続々瓦礫処理引受けの話

(この冬一番の寒さ、庭にうっすらと雪が積もる)

今朝は殊のほか冷え込んで、夜中に散ったわずかな雪が庭に残っていた。この冬一番の寒さであった。

瓦礫処理引受け問題の続きである。

推進する市当局も、反対する茶生産者や環境団体も、この問題の認識はほとんど同じであると思う。処理に60年も掛かる瓦礫の処理を、焼却能力のある自治体が協力して、出来るだけ短期間に処理することに、反対する人は誰もいない。焼却によって飛散する放射能や、焼却灰の処分場から漏れる放射能が出て、将来的にも市民に健康被害が生じるような危険があっては決してならない。これも賛成反対を問わず共通認識である。さらにお茶に代表される農産物に、瓦礫処理にともなう、新たないかなる風評被害も起きてはならない。これも異論が出る余地はない。

それならば、なぜ、賛成、反対が真っ向から対立するのであろうか。それはお互いの間に不信感があるからである。市当局は、反対派というけれども、市外から入って来た人たちが騒ぎを大きくしているのではないかと疑い、反対派は、段階々々ですべての情報をタイムリーに公開して、少しでも不審な点があれば、焼却を中止すると言っているが、問題ない情報は出すだろうけれども、高い数値が出たときは情報操作するのではないかと疑う。

細野環境大臣が来た日、反対派の人たちは会場へは入れてもらえなかったという。そういう市当局の姿勢が、不信感をさらに募らせていると思う。島田市は、年が明けたら試験的に焼却を実施して、各段階での放射線量を計測して、影響がある数値なのかどうかを検討する。その結果を踏まえて瓦礫焼却を引き受けるかどうか決めるという。

推進する市当局の調査を発表しても、全面的に信用できないと反対派は言うだろう。原発事故以来、「直ちに健康被害が起きるという状態ではない」という言葉を、耳にタコが出来るほど聞いてきた。大本営発表を信用しないというのは日本人の共通認識であろう。しかし、風評被害を防ぐには徹底した調査と、情報のすみやかな開示を確実に行なうことしか方法がないのも確かである。

最初に書いたように、この問題は両者に認識の違いはないわけだから、市当局は反対派も含めた調査委員会を作り、安全性のシビアなチェックをさせるくらいの思い切った方法を取って欲しいと思う。

もし、反対派も何が何でも反対というような非科学的な対応をすれば、風評被害は無くても、消費者の反感を買い、不買行動が起きかねないと思う。それほどに、今被災地への援助は全国的に注目されている。そして、島田市は良くも悪くも、すでに全国的に注目を集めてしまっている。すでに賽(さい)は投げられたので、その対応次第で、良くも悪くも転がることを覚悟しなければならない。変な結末になるようなら、島田市は全国から笑われることになるだろう。2月にはお茶サミットが島田市で開催される。その時には全国の茶産地に対して、胸を張って発表できるようでありたい。市民が皆んなで知恵の出し所であろう。
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今年も残すところ一週間

(苗を頂いて植えたばかりのビオラ咲く)

今年も残すところ一週間、毎年毎年、故郷の次兄が家でついたお餅を送ってきてくれていた。ところが今年は手伝いの予定が付かず、たくさんつけないため、お餅が送れないと電話があった。次兄も年々体力も落ちているだろうに、今までよく続けてきてくれたと思う。今年は喪中でひっそりと正月を迎えるつもりで、お餅はスーパーで買って来るくらいで間に合うだろう。

餅つきといえば、まーくんのパパが餅つきをやりたいと言っていたのを思い出した。まーくんのパパは、女房の在所で使わなくなった臼と杵をもらう約束をしていたようだが、女房があることは確認したという。長く使っていないので、ひび割れなどが入っていなければよいがと思う。来年はどこかの家にみんな集って、餅つきをやるのもよいかもしれない。そろそろ孫たちも餅つきを喜ぶ歳になってくる。

このところ毎年のようにクリスマスのナイトツアーと洒落て、個人のお宅のクリスマス電飾を見て廻ってきた。ところが、今年はどうやら節電で電飾を見送ったお宅が多いようで、我が家のナイトツアーも止めた。ところが、家から30分ほど奥へ入った家山の野守の池では、今年から、島田市が1000万円かけた冬の夜の池を彩る電飾をはじめたという。片方で節電を呼びかけながら、島田市のやることはよく分からない。理解するためには、見に行って来ないと始まらないのかもしれない。

年末寒波襲来で、お昼前、風花が舞っていると女房が言いながら入ってきた。関ヶ原の狭間を抜けてきた雪雲は、名古屋から遠州にかけて雪をちらつかせ、その切れ端が当地まで時折流れて、風花を舞わせる。しかしすぐに晴れるから、雪という表現にはならない。故郷と電話で話していた女房が、一晩で30センチの積雪があったようだという。年末がこんなに寒いのも久し振りである。

午後、応接間の日当たりの良いソファーに、枕を置いて横になり本を読む。暖房が無くても薄い上掛けだけでポカポカと暖かい。余り暖かいので、いつの間にか本を取り落とし、午睡をしている。目覚めると3時半、寒くならない前にムサシの散歩へ出かける。二日ほど前から、ムサシの散歩にマフラーをして出るようにした。これは暖かくて、当分外せないかもしれない。身体が温まるまで、少しだけ駆け足にする。ムサシは早駆けになって負けまいとする。しかし先に草臥れるのはムサシの方で、リードで引っ張るようになると、自分も駆け足をやめる。たったそれだけで、寒かった身体は内側から暖かくなる。
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被災地瓦礫処理引受けの話、続き

(寒い夕焼け)

(昨日の続き)
今夜、班長会へ出席した。自治会長から、12月13日の推進委で、市長から瓦礫焼却処理の受入の話があったと説明があった。すぐに、班の茶農家の方から電話があったことを話し、自治会長としては瓦礫の受入について了解したのかどうかを確認した。自治会長の話では、了解も何も、話を聞いただけであるとの答え。その後、激しい反対運動も始まり、受け入れるも入れないも、話はこれからだと思っているという。

班長の中に市会議員のS氏がおり、良い機会だということで、市長と市会議員の有志10名で現地を視察した報告をしてくれた。瓦礫の中から木材だけを分けてチップ状に砕いて、その焼却処理をお願いしたいとのこと。放射能汚染地域とみなされて、どこも引き受けてくれない。山田町だけで処理をすると60年掛かるという。山田町の町長以下涙ながらに頼まれて、島田市の焼却炉の能力に余裕のある分だけを引き受ける方向で検討することにした。

岩手県の山田町は福島原発より200~220キロの距離で、反対側で計ると東京とか横浜ほどの距離のところである。津波で町が壊滅し瓦礫と化した。チップの放射線量は、靜岡県の測定で12から13.2 Bq/kg とほんの微量な数値であること。それは自然界で測定される数値とほとんど変わらないこと。最初は試験的に少量の処理をし、各段階ごとに数値をその都度測定し発表することなどを条件に、焼却処理を引き受けることに了解して欲しいと話す。

すぐに周辺住民に健康被害が出るとは、誰も思ってはいないけれども、問題は風評被害である。焼却場周辺及び焼却灰の埋立場周辺の茶農家には、どのような風評被害が出るのか、誰も予測できないことが大変恐ろしい。それを何も先頭を切って行なうことはない。お茶は混ぜることで商品になるから、問題は島田茶だけでは済まず、靜岡茶全体で風評被害が起きる可能性が高い。そのことは、先の一番茶で、靜岡奥の一ヶ所で出た、基準値を超えたお茶で、靜岡茶全体が風評被害が起きたことからもよく分かる。島田の反対派は市外からも大勢入り反対運動が盛り上がっているのはそういう理由による。

風評被害を防ぐには徹底した情報開示しかないといわれるが、忘れてはならないことは、情報を出す側が消費者にどれだけ信用されているかという点である。残念ながら、情報開示という面では、どの公共団体も信用されていない。問題ないときは正しい開示をするが、不利な情報も正確に開示できるかどうか、一般市民のほとんどが信用していない。そういう中で、いわれ無き風評被害が起きてくる。

今日は細野環境大臣が島田市を訪れ、関係各所を呼んで、瓦礫焼却処理を改めて依頼した。各市町村が引受けに難色を示している中で、島田市がいの一番に手を挙げた。環境省としては何としても島田市を突破口にしたいのであろう。会場の外には、中に入れてもらえない反対派の人たちが気勢を上げていたという。

この問題はこのままで済みそうに無い。進展があったらまた取り上げよう。
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島田市、被災地瓦礫処理引受けの話

(町内唯一の秋葉灯籠前のクロガネモチ)

島田市は、岩手県大槌町と山田町の瓦礫処理の受け入れを決めたという報道が流れて、その後、焼却灰の埋立地について、地元説明会で大紛糾したと聞いた。埋立場所が島田市でも高級茶生産地の真っ只中であったからである。

お茶と椎茸は、福島原発の放射能の風評被害で大打撃を受けて、このお歳暮商戦でも大苦戦を強いられていると聞く。そんな中での瓦礫焼却と焼却灰の埋立処理である。瓦礫は岩手県のもので、おそらく市長の言う通り、放射能はほとんど影響のない程度のものなのかもしれない。しかし、風評がそれを斟酌してくれる保証はない。

市長は市会議員10人を引き連れて現地視察を行ない、受入れを決断したと聞く。地方公共団体で、東京都に続いて2番目の瓦礫処理の受入れである。市長及び市会議員の中で、茶業者がどのような反応をするのか、誰一人気にする人がいなかったとすれば、島田市の主要農産物でありながら、茶生産者はずいぶんつらい立場に置かれていると思う。焼却灰埋立地の地元への説明会が、新聞等で受入れの発表された後であったことも、地元の心情を逆なでした。地元の反発には同情できる部分がある。

瓦礫処理を全国の市町村で引き受けて早急に行なわないと、被災地の復興計画の目処も立たないわけで、焼却能力に余裕のある島田市が手を挙げたことはそれなりに評価が出来る。それが全国で2番目であったことは、けっこうかっこいいかもしれない。しかし住民の理解を得る方法がいかにも稚拙である。

その紛糾の波が我が家にも届いた。班の茶農家の方から、瓦礫処理について、それぞれの町内の自治会へは説明して了解が取ってあると聞いたが、そんな話があったのかどうかと、問い合わせの電話があった。班長の自分は何も聞いていないが、明日、班長会があるので、そんな話が出るのだろう。話を聞いてみると答えた。自治会も了解するなら、風評被害が起きたら責任を取る覚悟で出すべきだと、紛糾の雰囲気を引きずって、かなり厳しい言葉が出た。

聞かれたからには、明日の班長会ではしっかり質問しなければなるまい。毎月の自治会連合会の議事及び市長の市政報告の話は、自治会長から報告を受け、メモしておいて、班長会議事録としてまとめ、回覧板で班に回している。ただ、市長の市政報告を自治会で了解したことと理解して聞いてはいなかった。もし、その場で異論が出なければ了解事項とみなされるならば大変なことである。自治会長も市長の話を聞き流してはおれないし、自治会長から聞く我々班長も同じことで、異論があれば話の途中でも割り込んで、異論をとなえるようにしなければならない。
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裏の畑のみかんの木ほか

(今年は収穫出来そうなハッサクの木)

我が家を建ててから30数年があっという間に過ぎた。我が家の裏には100坪弱の畑が付いている。家を建てた当初、最初に植えたのはみかんの木であった。温州みかんが3本、甘夏が3本、ハッサクが1本の計7本である。いずれも神座の女房の親戚から頂いた、当時最新の品種であった。肥料もろくにやらないのに毎年たくさん実を付ける。見てくれは悪いが食べると美味しいと評判である。おかげで食べきれない分は、女房が近所や知人に分けて、いろいろとコミニュケーションをはかり、大切な潤滑油になっている。

ところが7本のうち、畑の隅に植えたハッサク1本だけが、成長が悪く、実を付けても食べられるものにはならない。去年まで満足に食べられる実が出来なかった。どうやら住宅用に埋め立てた土がその部分だけ石が多くてよい土ではなかったようであった。途中、ゴイサギが住み着いて糞だらけにし、枯れそうなときもあった。今年ようやく小さいながら実を数十個付けて、食べられるようになりそうである。来年春を楽しみにしている。

その後、裏の畑のかんきつ類も増えた。名古屋の娘が高校生の頃、緑化ポスターで賞をもらい、頂いて来た温州みかんの青島も、植えたところが悪くて、なかなか大きくならなかったが、この何年か、ようやく実を付けるようになった。名古屋の娘夫婦とかなくんが、正月に戻ってくるまで取り入れないで、鳥除けの網を被せてある。

何年か前にキンカンの苗を買って植えたが、生食しても甘くて美味しいという触れこみだったけれども、今まで食べることが無いうちに落ちてしまった。今年はタイミングを上手く捉えて、しっかりと収穫したいと思っている。

今年になって、デコポンを2本購入して植えた。暑い時に水遣りを怠って、1本は葉を落とし枯れる寸前まで行ったが、どうやら新芽を出して息を吹き返してきた。来年には実を付けるであろうか。楽しみである。

数えてみると、裏の畑には実のなる木が随分たくさん植わっている。次郎柿、ブルーベリー、ぐみ、びわ、いちじく、それぞれに裏の庭にやってきたには謂れがあるが、ここではふれない。中でも異色なのはアボガドの木が2本あることである。南国の果物と思っていたが、今では温暖化の所為か、当地でも冬が越せる。1本は日本の気候に合うように品種改良された苗を頂いた。もう1本は女房が果肉を食べた後、大きな種を植えたところ芽を出した。何本かあったが、内1本を残したものである。いずれもまだ実が生らないけれども、そろそろではないかと来年を期待している。

まだまだ実の生る木を植えたいと思っている。今年は渋柿の木を1本植えて干し柿を作れるようにしたいと思った。しかし、柿は実が成るまで8年というから、考えてしまって、まだ実現していない。
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