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宗祇終焉記6 文亀二年八月 桃園-駿府

(大代川の水が引き、土手の補強がされた。明日はまた雨だ。)

宗祇終焉記の解読を続ける。宗祇は定輪寺に葬られた。取材に行きたかったが、裾野市は先日の大雪の真っただ中で、車で行くのはまだ無理であろう。

足柄山はさしてだに、越し憂き山なり。輿(こし)にかき入れて、ただある人のように拵え、跡さきにつきて、駿河国の境、桃園という所の山の麓に会下あり。定輪寺という。この寺の入相のほどに落つきぬ。
※ 会下(えげ)- 禅宗・浄土宗などで、師の僧のもとで修行する所。
※ 入相(いりあい)-日が山の端に入るころ。日の暮れるころ。夕暮れ。


ここにて一日ばかりは、何かと調えて、八月三日のまだ明けぼのに、門前の少しひき入りたる所、水流れて清し。杉あり、梅、さくらあり。ここにとりおさめて、松をしるしになど、常に有りしを思い出て、一もとを植え、卵塔をたて、荒垣をして、七日ばかりほど籠りいて、
※ 卵塔(らんとう)- 台座上に卵形の塔身をのせた墓石。禅僧の墓石に多く用いられる。
※ 荒垣(あらかき)- すきまの大きい垣根。


おなじ国のこう(国府)に出で侍りし道のほど、誰もかれも物悲しくてありし、山路の憂かりしも、泣きみ、わらいみ、語らいて、清見ヶ関に、十一日に着きぬ。よもすがら、磯の月を見て、

   諸ともに 今宵清見ヶ 関ならば と思う月に 袖ぬらすらん

かくて、こうにいたりぬ。我が草庵にして、宗碩水本、あわれ、これまでせめてなど、うち嘆くほかの事なし。
※ こう(国府)ー 駿府のこと。そこに宗長の草庵「柴屋」があった。現在の吐月峰柴屋寺である。
※ 宗碩(そうせき)- 室町時代の連歌師。号、月村斎。宗祇に師事、のち肖柏・宗長に兄事。公家・武将とも親しく、旅を多くした。
※ 水本 - 水本与五郎。「宗祇終焉記」を宗長より預かり、京へ持参する役割を負う。宗祇の弟子だったのだろうか。不詳。


十五夜には当国の守護(氏親)にして一座あり。かねて宗祇、あらましごとの次に、名月の頃、駿河国にや至り侍らむ。発句などあらば、いかにつかうまつ(仕)らむと、くるしがられしかば、去年の秋の今宵、越後にしてありし会に、発句二つ有り、一つ残り侍るよし、相伴う人言えば、さらばこれをしもぞ、つかうまつ(仕)らめなど侍りけるを、語り出でれば、それを発句にて、

   曇るなよ たが名は立たじ 秋の月      宗祇
   空とぶ雁(かり)の 数しるき         氏親
   小萩原 朝露さむき 風過ぎて         宗長
※ しるき(著き)- はっきり見えるさま。
※ 氏親 - 今川氏親。戦国時代の武将。今川義忠の子。母は北川殿。今川義元の父。駿河、遠江守護。分国法「今川仮名目録」を制定。
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