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「竹下村誌稿」を読む 183 竹下村 43

(散歩道のカイコウズ)

カイコウズはマメ科の常緑高木。ブラジル原産。江戸末期に渡来。アメリカデイゴとも呼ばれる。

いよいよ暑くなってきた。ムサシの居るダイニングだけ冷房が入る。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

今、安永の頃より文政の頃まで(1772~1830)取り扱いたる、宗門人別帳加除の手続きをなしたる、書類数十通、隣村志戸呂下嶋栄作氏に蔵せり。当時志戸呂は本村と同領内にて、手続きもまた同一なるを以って、その一、二を記して参照に資す。

        一札の事(同領内転居)
一 禅宗観勝寺旦那     小作(人名)  五十七才
  同宗同断        同人女房    四十七才
  同宗同断        同人子文次郎  十八才
  同宗同断        同人娘ひさ   九才
右は、小作、家内四人、当村にて渡世成り兼ね候に付、その御村へ引越し申したく、相願い申し候処に、その御村にても御承知の上、引越し申し候。これにより、当午年よりこの方人別相除き申すべく候間、その御村人別帳に御載せ成さるべく候。後日のため、書き替え一札、よって件の如し。
 安永三年午正月        遠州榛原郡竹下村 庄屋 八左衛門 ㊞
      遠州榛原郡志戸呂村
         庄屋  善六 殿


        差上げ申す一札の事(同領内縁組)
私子市三郎女房、遠州榛原郡御領分横岡村喜左衛門娘、去十二月縁組仕り、引取り申し候。宗旨の儀は浄土真宗にて、遠州榛原郡金谷町西照寺旦那に紛れ御座なく候。則ち、寺証文御取り成さるべく候。御公儀御法度の切支丹宗門並び、ころび親族にても御座なく候。若し、宗旨の儀に付、むつか(難)しき儀、出来候わば、如何様の曲事も仰せ付けらるべく候。そのため一札差し上げ申す処、よって件の如し。
 安永七戊戌年三月       遠州榛原郡志戸呂村 佐五右衛門 ㊞
     遠州榛原郡志戸呂村
        庄屋  善六 殿


        宗旨御請負證文の事(寺証文)
遠州榛原郡志戸呂村、佐五右衛門子市三郎女房、拙僧旦那にて、浄土真宗に紛れ御座なく候。若し、切支丹宗門並び、ころび親族の由、訴人御座候わば、某(それがし)罷り出で申し分くるべく候。宗旨御改めに付、御請負証文、よって件の如し。
 安永七戊戌年            遠州榛原郡金谷町
              京都東本願寺御坊  西照寺 ㊞
右の通り、相違御座なく候。宗門御改めの節、仰せ渡され候御仕置の趣、一々、市三郎女房申し聞け候。諸事を為し、相背くまじく候。若し、御公儀御法度の宗門の由、訴人御座候か、その外相違の儀候わば、私如何様の曲事にも仰せ付けらるべく候。そのため判形仕り、差し上げ申す処、件の如し。
                   遠州榛原郡志戸呂村
                    庄屋  善六 ㊞


読書:「恋の川春の町」 風野真知雄 著
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「竹下村誌稿」を読む 182 竹下村 42

(散歩道のルドベキア)

写真には花芯の周りがこげ茶の花と、そうでないものが混じっているが、いずれも北米原産のキク科のルドベキアという花である。

関東甲信越は今日梅雨明けとなった。東海以西より先に、しかも観測史上最速、6月中の梅雨明けとなった。今年は暑くて長い夏になりそうである。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

この年度は自治区構成の初年に当り(廿二年七月より廿三年三月まで)、九ヶ月を以って一ヶ年度となしたるものなれば、計数に於いて、他の年度の四分の三に当ると知るべし。また同年度に属する費用にして、村税外、水利土工費として、賦課せし税目あり。(これは何れも十二ヶ月分)左の如し。

同年度上井用水費  金百八十五円    関係地地租千九百九十円余 地租一円に付金九銭三厘
同  下井用水費  金百二十二円九十銭 同    二千百円余   同   に付金五銭九厘
同  大井川水防費 金六十八円七十銭  同    四千百円余   同   に付金一銭七厘


爾来(以来)自治体の発達に伴い、費用の増加すべきは、固(もと)より数の免れざる所なり。しかも能くその負担に堪え、公共の福祉を進めつゝ、国家の進運稗補せしむるに至るは、甚だ慶すべきことなりとす。
※ 進運(しんうん)- 進歩・向上していく機運や傾向。
※ 稗補(ひほ)- 助けること。こまごまと補うこと。


享保九年(1724)三月、これより先、幕府令して、民間に於いて衣服・器具など、旧制を変じ、新様を作ることを禁ぜしが、これに至りて、婦女子の衣服は縫い価百五十を踰(こ)ゆることを禁じ、倹約を守らしむ。この年、東海道諸国、豊作にて、米価著しく下落し、浅草倉前張り紙値段、三斗五升入り百俵、金拾九両なりしと云う。
※ 目(もく)-「目」は匁(もんめ)。銀の単位(重さ)を示す。

(享保)十一年(1726)、幕府令して、戸口を検(ただ)す。以後七年目毎に、子、午の年を以って、戸口を検(ただ)し、これを録上せしむ。宗門人別改帳、これなり。宗門帳、寺院の奥書を閲すれば曰く、

右の面々代々、拙寺旦那に紛れ御座なく候に付、人別印形仕り指し上げ申し候。もし御法度の宗門の由、訴人御座候わば、拙僧罷り出で、急度申し披(ひら)き仕るべく候。後日のため、依って奥書印形仕り候処、くだんの如し。

按ずるに、徳川幕府の初めに当り、耶蘇教を禁ずると同時に、宗教の保証を寺院に委任せしを以って、今日の戸籍簿はこれを宗門人別帳と称し、毎戸の人員、名字、年齢を列記し、何宗何寺旦那と標記し、寺院の証印を受け、領主へ提出せしものなり。これ耶蘇教ならざるを証明せしものにして、戸籍上の関係より、むしろ宗教上に関する重要政策なりしなり。故に当時の寺院は、その旦(檀)家をして、常に僧侶の前に叩頭せしめしは、この一個の宗判ある所以(ゆえん)なりとす。また庄屋の奥書は、
※ 叩頭(こうとう)- 頭を地につけておじぎをすること。

右人別,並び旦那寺奥書印形、村中皆々立合い、吟味仕り候処、相違御座なく候。勿論、人別帳に、はずれ申す者一人も御座なく候。その為、判形差し上げ申す処、よって件の如し。

右の如し。然るに明治維新となり、寺院の宗判を廃し、宗旨は人民の自由帰向となり、寺旦の関係は全く従前の連鎖を解くに至れり。
※ 帰向(きこう)- 心がある方向に向かうこと。
※ 寺旦(じだん)- お寺と檀家。
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「竹下村誌稿」を読む 181 竹下村 41

(散歩道のトケイソウ)

サッカーワールドカップで、ポーランドに1対0で敗れたが、日本は決勝トーナメントに進出した。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

また、明治二十二年、五和村々会の議決による村費の収支予算表、左の如し。

   明治二十二年度五和村歳入予算表
  科目         本年度予算額     附   記
 第一款 財産より生ずる収入 10.000 鼎立舎所属共有金貸付元金三百円に対する利子
 第二款 使用料        9.600 五和学校楼上役場に使用に付家賃
 第三款 雑収入       222.326 国税金取扱手数料3.226 五和学校授業料150.000
                      大代学校30.000 土地調査手数料30.000
                      代書料 39.000 
 第四款 諸繰越金      69.698 廿年度分55.186 廿一年度分1.267
                      金谷登記所区域連合村費残11.613
                      教育会費残1.632
 第五款 村税       1,117.082
  一 地租割        280.761 地租五千六百五十九円三十八銭五厘
                   地租一円に付、金四銭九厘六
  二 所得税付加税     13.090 所得税弐拾六円十八銭に対する百分の五十
  三 営業税        45.052 地方税・営業税・雑種税百二十八円七十二銭に
                   対する百分の三十五
  四 戸別割        778.180 戸数七百九十八 平均一戸に付、金九十七銭三厘九
 総  計         1,518.707

   明治二十二年度五和村歳出予算表(目を略す)
  科目         本年度予算額     附   記
 第一款 役場費       665.830
  第一項 給料       299.200 書記給料74.000 臨時雇同105.200
                   収入役同54.000 使丁二人15.500
  第二項 雑給       195.530 旅費45.000 報酬117.000 実費弁償1.500
                   雇人料18.000 筆墨料14.030
  第三項 需用費      154.500 備品費41.000 消耗品費64.100 賄費16.800
                   通信運搬費15.500 雑費17.100
  第四項 常時修繕費     1.600 役場修繕費1.000 掲示場同600
  第五項 地図費      15.000 地図裏打費 美濃紙千八百枚、一枚九厘ずつ
 第二款 教育費       797.282
  第一項 給料       399.900 訓導俸給168.000 授業生同231.900
  第二項 雑給       43.130 勉励賞与10.000 旅費15.130 雇人料18.000
  第三項 需用費      97.000 備品費75.000 消耗品費19.500 雑費2.500
  第四項 常時修繕費    35.500 壁修繕費16.000 構内砂利入6.500 垣同3.000
                   障子新調5.000 その他5.000
  小  計         575.530 本校分
  第一項 給料       87.000 訓導俸給75.000 授業生同12.000
  第二項 雑給        8.176 勉励賞与3.000 旅費3.176 雇人料2.000
  第三項 需用費      23.000 備品費14.000 消耗品費8.000 雑費1.000
  第四項 常時修繕費     3.000 修繕費
  小  計         121.176 大代校分
  第一項 給料       72.000 授業生給料
  第二項 雑給        5.576 勉励賞与1.500 旅費2.576 雇人料1.500
  第三項 需用費      18.000 備品費11.500 消耗品費5.500 雑費1.000
  第四項 常時修繕費     5.000 修繕費
  小  計         100.576 鼎立舎分
 第三款 土木費       14.000 道路調査費10.000 道路修繕費4.000
 第四款 勧業費       11.000 農事会費4.000 備品費7.000
 第五款 会議費       30.595 議員実費弁償額28.800 書記給料1.000
                   議案筆工料795
 総  計         1,518.707

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「竹下村誌稿」を読む 180 竹下村 40

(散歩道のアカリファ・カメドリィフォリア)

別名、キャット・テールといった方が馴染みやすい。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

前記によれば、巡見使来村に要せし費用、銭四十四貫参百四文、関係村に分課せしに、本村は参貫九百七拾六文を負担せりと云う。大凡(おおよそ)本村の村費は、村初めはこれを詳知することを得ずといえども、按ずるに、世上一般、金融不自由なる時代なれば、公費の如きも務めて金銭の賦課を避け、大半夫役に課するを例とせしものゝ如し。

仮令(たとえ)ば、庄屋、組頭の如き職務も、皆な徳役(名誉職)なりしなり。この時代に在りては、公用としては甚だ多からず。その職務に伴う軽易なる用件は、村内毎戸、順次夫役を以って、これを務めたり。これを月行事と云う。(後には村の定使の名となる)その名によりて見るも、用件の多からざるを想像せらる。また用水費の如きものあるも、村内の組割りとなし来たりし習慣もありし程のことなれば、金銭の賦課をなせしこと、蓋し多からざるを知るべし。

然るに、元禄中、助郷の制、行われしより、人馬雇い上げの費用、年々増益するのみならず、賃金物価など追々騰貴し来り。従って公課も益々嵩(かさ)みて、民間の負担に堪えざる程に立ち至れり。故に、或るは上司に対し、数々救済を申請せし事あるも、また止むを得ざるに出づと云うべし。

降りて、元治、慶応年間に在りては、将軍家の上洛あり、新発あり、諸大名の東海道を往復するもの、益々頻繁なりしを以って、助郷の負担、非常に重きを加え、明治初年の如きは、助郷費のみにて、高壱石に付、金弐両内外の負担をなしたりしも、同四年助郷の制、廃せらるゝと同時に、ほとんど村費の半ばを軽減するに至る。

而して、本村周年の経費は、庄屋に於いて、これを立替置き、年末に至り、組頭、百姓代、その他、村内の重(主)立ちたるもの、四、五輩立会し、相当の課率を定め、高割として一般へ賦課せしものなり。この立替金に対する利率の如きも、一ヶ年百分の二十の習慣なりしを見れば、昔時、金融の円滑ならざりしを知るべし。

近世に於ける本村費用の概算は、左の如くなれば、その趨勢の大要を察知すべし。

 天保五年(1834)
 一 銭壱千六百拾壱貫七百文      高壱石に付、銭六貫参百七拾文
    内 参百参貫六百文       諸雑費
      百六拾壱貫九百文      用水費
      六百四十五貫弐百文     助郷費
      五百貫九百文        大代川破堤復旧費

 安政四年(1857)
 一 銭八百七拾五貫弐百文       高壱石に付、銭参貫参四百六拾文
    内 参百参拾壱貫九百文     諸雑費
      参百参拾七貫七百文     助郷費
      弐百参貫四百文       用水費

 慶応二年(1866)
 一 銭参千七拾弐貫六百文       高壱石に付、銭拾弐貫百四拾文
    内 壱千百八貫弐百文      諸雑費
      壱千百七拾参貫五百文    助郷費
      七百九拾貫九百文      用水費

 明治元年(1868)
 一 銭弐千九百六拾壱貫八百文     高壱石に付、銭拾壱貫七百文
    内 壱千弐拾四貫四百文     諸雑費
      壱千七百六拾六貫八百文   助郷費
      百七拾貫五百文       用水費

 明治五年(1872)
 一 銭壱千六百八拾参貫参百文     高壱石に付、銭六貫六百五拾文
    内 八百拾貫弐百文       諸雑費
      八百七拾参貫百文      用水費

 明治九年(1876)
 一 金参百参拾弐円弐拾八銭      地価百円に付、金壱円参拾弐銭五厘
                    地租壱円に付、金四拾四銭弐厘
    内 金八拾弐円弐拾五銭      諸雑費
      金百参拾参円九拾銭      用水費
      金百六拾円拾壱銭       地租改正調費(以上渡辺氏記録)


読書:「零れた明日 刑事の挑戦・一之瀬拓真」 堂場瞬一 著
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「竹下村誌稿」を読む 179 竹下村 39

(散歩道のノウゼンカズラ)

体調不良は夏風邪の引き始めだったようで、夜、風呂に入ってからどっと熱が出たようで(計りはしなかったが)朝には身体が楽になった。朝、葛根湯を一度飲んで、それで終わった。午前中、掛川図書館に「竜洋町史」を返却に行った。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

この時、本村名主八左衛門の手記したる日記あり。抄録して当時の情況を知るに便せんとす。

 正徳六申三月御巡見様御通り覚え
   御奉行   鈴木平十郎様
   同     岩手長三郎様
   御目付   神谷伝五左衛門様

三月十日青島御宿、十一日大賀(相賀)御泊、十二日島田御泊、十四日下川村方御泊、十五日下吉田御泊り、十六日牛尾村御泊り、十七日大代村御泊、十八日金谷町御泊、十九日かくわ(各和)村御泊。右十一日に善八(八左衛門のこと)五ヶ村一同にとち山まで参り、また十五日、下吉田村まで。明十六日に八軒屋並び島村、牛尾村、東御普請所御見分。同日牛尾御泊り。翌十七日横岡前御見分。かめや(釜谷)に御寄り、瀬戸物御見物。それより竹下西道御通り、志戸呂村川除け御見分。大代まで御覧、御泊り。

翌十八日洪水に候えども、川渡り申すべきやと、夥しき風雨に候えども、金谷まで川通り御出。翌十九日金谷橋下より段々御登り、番生寺村川除け、竹下村川除け、川深くこれ有るに付、番生院東にて御見渡し、委細御改めもこれ無く候。惣て、金谷、番生寺ともに、谷村久右衛門殿帳面を以って、堤通りにて御断り御申し成され候。前方(まえかた)御条目には手代衆御供これ無く筈に候えども、御普請所これ有る故か、手代衆、谷村久右衛門殿、坂入茂右衛門殿、中村藤右衛門殿、御付き成され、御代官様牛尾御泊りまで御出、御順見様に御逢い成され候。

御順見様仰せられ候は、何にても御訴訟の儀これ有り候わば、申し上げ候様にと御申し成され候。前方(まえかた)、金谷町より駿州富士郡まで罷り越し、諸事聞き書き致し、罷り帰り候には、巳、午、未三ヶ年分小割帳、その外諸入用小帳、その外様々御吟味成され候故、金谷より参着申すに付、これにより三ヶ年分諸帳面相改め置き候処、この辺へ御泊り、委細御改めもこれ無く□文御□□成られ候に付、前文の通り書き上げ申し候。(□は腐蝕)

その外、困窮の口上書、横岡村、番生寺村、当(竹下)村三ヶ村一所の訴状、その外に金谷町五ヶ村一同の訴状上げ申し候御願いの内、横岡村御前御普請の儀は仰せ付けられ候。その外の儀は御取り上げもこれ無く候。当村にも御宿三軒、手代衆宿共に四軒、湯殿、雪隠これ無き所は、はらびさしなどに致し、かろ/\繕い置き申し候えども、御泊り、御休みもこれ無く候。その節、両村御泊り入用二泊にて、銭〆四拾四貫三百四文、五ヶ村大代共に割り合い、当村へ懸り候分、三貫九百七拾六文、この外村々にて、支度入用少々これ有り候。御順見様人馬、九ヶ村より出し候。一ヶ村にて馬一疋、人足五人ずつ、都合馬九疋、人足四十五人、両日出し申し候。

その外御尋ねもこれ有るべきやと、高反別控え帳に致し、差し上げ申し候。(高反別略す)
右高反別並び検見帳、三ヶ年分御改め成され候様、承り及び候えども、左様の儀もこれ無く候。
右御順見様、川除け場所ばかり御念を入れられ御見分多く、外の事は御尋ねも御座なく、大方は水所御奉行様のように存じられ候。
(以上下嶋氏記録)
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「竹下村誌稿」を読む 178 竹下村 38

(田植えの済んだ田圃にカルガモ)

梅雨の止み間、この夏一番の暑さになった。サッカー、日本対セネガル戦を見ていて、夜更かしして、日本が引き分けたのは良かったが、今日は一日調子が悪かった。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

この時の前触れは、

明十六日、その村々巡見致され候間、名主並び百姓二、三人、村境へ出向き、案内致さるべく候。もっとも、願いなどこれ有る百姓、着き次第罷り出でらるべく候。
一 家数、人別、村入用、その外、別紙按紙の通り、

一村切りに相認め、村境に於いて、岩手長三郎方へ差し出さるべく候。
※ 按紙(あんし)- 案紙。文案の雛形(見本)を書いた紙。
※ 一村切り(いっそんきり)- 一村区切り。一村ごと。


この廻状、村書き、名主印形致し、早々順達、留り村より、鈴木平十郎泊りへ、相返さるべく候、以上。
   申三月十五日         鈴木平十郎内 佐々木元右衛門
                  神谷伝五左衛門内 加藤与兵衛
                  岩手長三郎内 堀井嘉三次
                    下吉田村より
                    河原町
                    金谷町
                    嶋村
                    牛尾村
                      右村々  名主・百姓中


また、十七日に至り左の触書きあり。

御手元人足二人  馬三疋内一匹  人足二人代にて  岩手長三郎
 同 人足二人  馬三疋内一疋  人足二人代にて  鈴木平十郎
 同 人足二人  馬二疋内一匹  人足二人代にて  神谷伝五右(左)衛門
  御証文御長持壱棹
右は御朱印並び御証文の写し、先達て相廻り候。右人馬、明十八日、巡見先にて手支えこれ無き様に、用意置き申さるべく候、以上。
   申三月十七日         鈴木平十郎内 佐々木元右衛門
                  神谷伝五左衛門内 加藤与兵衛
                  岩手長三郎内 堀井嘉三次
                    横岡村
                    竹下村
                    志戸呂村
                    番生寺村
                    大代村
                      右村々  名主中
この書付、留り村より、平十郎泊りへ、相返さるべく候、以上。


この行、奉行より各町村人民の疾苦を問い、且つ調書を徴せらる案紙により、本村より差し出したるもの、次の如し。
※疾苦(しっく)- 悩み苦しむこと。難儀。

            覚
一 家数五十六軒  人員二百三十四人  内 男百二十人  女百四十人
一 牛馬十九疋  内牛四疋  馬十五疋
一 銭弐百四拾五貫参百四拾九文  この金七拾四両壱分参百弐拾五文  正徳五未年諸入用高

         内訳
  銭八拾五貫五百参拾八文   用水入用
  同五拾弐貫八百八拾八文   御年貢差し米三分一売欠け、人馬宿米、名主給米とも
  同拾弐貫五百八拾四文    江戸詰懸り駄賃とも
  同六拾七貫壱百参拾弐文   定納□歩行とも
  同七貫四拾五文       大代山礼金
  同五貫八百文        大代川入用
  同六貫六百文        定使給
  同拾壱貫八百七拾弐文    惣割入用、宿々入用、大代川籠代、年中筆墨紙
                池田船賃、道場(みちば)雑費、かくの如し
  同弐拾五貫八百七拾弐文   中泉御役所行き、名主、組頭宿払い、その他とも、かくの如し

右の通り相違御座なく候、以上。
   正徳六年申三月            竹下村名主  八左衛門 ㊞

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「竹下村誌稿」を読む 177 竹下村 37

(散歩道の真っ赤なダリア)

このところ忙しくて、余裕が無かったが、今日から来月の5日まで、珍しく予定表が真っ白である。梅雨の晴れ間、昼食後、久し振りに道端の花の写真を撮りながら散歩した。風が涼しいし、曇りで日差しもないと思い、出て来たけれども、途中から雲間から日が差して来て、暑くなった。一時間少々で帰宅した。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

この人夫賃、一人銭百二十八文。弁当運び一日四人、一人百文。村中夜回り一夜六人、一人四十八文。その他、庄屋物頭見廻り人、実費、など、三十九貫七百文(高一石に付、百五十五文)を要せり。大凡(おおよそ)朝鮮使は幕府の継世ごとに来献して、常に東海道を往復し、幕府厚くこれを接待せしものなり。本村は寛永、明暦以来、天和二年(1682)の先例により、人足の課役あるのみならず、物品をも賦課せられ、鶏一羽、卵二個、茄子二十五個、薪二十束、魚串二十五本、竹箸百前(膳)を金谷に差し出したり。

(正徳元年)(1711)十一月二十五日、朝鮮使帰国の際、人夫その他東行の時に同じ。寛延元年(1748)五月、朝鮮使来朝の時も正徳に同じと云う。志太郡徳山村誌に、

寛延宝暦年間、朝鮮人来聘の節は、高百石に付、人夫十二人ずつ割り当て、この人足賃、一人に付三朱余、外に猪、薙(雉)子、鶏の割付あり。猪肉は塩漬けとして金谷へ運搬し、薙(雉)子、鶏は代金にて差し出したるものなり。帰国の節も人夫割当ありしと云う。
※ 来聘(らいへい)- 外国から使節が来朝して貢ぎ物を献ずること。

とあるを見れば、大井川東岸の村落にも、人夫と物品を課せられたるものと知らる。

(正徳)三年(1713)八月、幕領及び相良領とも、全村大草太郎左衛門代官所となる(中泉新貝)。因みに、太郎左衛門は、その先、三河大草の人、嘗(かつ)て徳川氏に仕え、軍忠あり。依て子孫代官となると、熙庵遺書に見えたり。
※ 軍忠(ぐんちゅう)- いくさの折に示す忠節。軍功。

(正徳)六年(1716)三月、幕府より巡見使として、奉行鈴木平十郎、同岩手長三郎、目付神谷伝五左衛門(外手代三人)来村あり。この巡見使は、将軍の代替えごとに吏員を全国に派遣し、国郡の治積を察せしむる例なりと云う。
※ 治積(ちせき)- 政治上の功績。

同月十六日、河原町、金谷町、嶋、牛尾、横岡、竹下、志戸呂、大代、番生寺、各町村より、馬九匹、人足四十五人を出し、駕籠及び長持など運ばしむ。代官大草太郎左衛門、中泉より来たり会す。右一行は本村に宿泊するものとし、村内四軒に分宿の予定にて、各々湯殿、厠などの修繕をなしたりしが、河原町、金谷町、嶋村、牛尾村を巡見して、牛尾に宿泊せり。翌日横岡を踏査し、かめ屋(釜谷)に至り、焼物を見物し、竹下、志戸呂、大代を巡見し、大代に宿し、十九日番生寺を検分せり。
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「竹下村誌稿」を読む 176 竹下村 36

(散歩道のヒメジョオン)

何でもない雑草だけれども、「姫女苑」という名前と、よく見れば繊細な花は中々美しい。

午前中、第一回の、東海道金谷宿大学の定時総会がミンクルであった。ちょうど一時間で、総て終わった。久し振りに、会社の株主総会のことを思い出した。もめる気づかいはない総会でも、無事に終わると、ほっとする。この感覚、悪くない。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

(正徳元、1711)年十月、朝鮮、使いを遣して、幕府の継世を賀す。一行四百九十余人(寛永元年慶賀使三百人、明暦元年四百四十三人)東海道を下り、十日金谷に宿す。代官所より、大井川西岸廿一ヶ村へ、国役人夫九百七十人を課せらる。(高百石に付十二人、増人夫三人、合せて十五人)

時に大雨ありて、大井川川支えとなり、本村は人夫三十八人の外、東海道掃除人夫十人、合せて四十八人を割当られ、分郷の領主(本多弾正少弼)も相良より役人を派して、人夫を監督し、八日より十二日まで五日間、金谷に滞在せしめられ、頗る混雑を極む。この時、代官所の触書きは左の如し。

         覚
  一 人足   三十人    外増  八人     竹下村
  一 同   三十三人    同   八人     番生寺村
  一 同   五十三人    同  十四人     嶋村
  一 同   三十六人    同   九人     大代村
  一 同   三十四人    同   九人     志戸呂村
  一 同   七十三人    同  十九人     牛尾村
  一 同   六十三人    同  十六人     横岡村
  一 同     六人    同   二人     神尾村
  一 同     四人    同   一人     福用村
  一 同     五人    同   二人     高熊村
  一 同   百十五人    同 二十八人     家山村
  一 同   三十三人    同   九人     抜里村
  一 同   二十一人    同   五人     葛籠村
  一 同   三十四人    同   八人     久野脇村
  一 同   六十一人    同  十五人     下長尾村
  一 同   四十五人    同  十二人     上長尾村
  一 同   四十八人    同  十三人     水川村
  一 同   三十九人    同   十人     藤川村
  一 同   二十五人    同   六人     崎平村
  一 同     九人    同   二人     奥泉村
  一 同     四人    同   二人     犬間村

右は朝鮮人来朝の節、大井川川越し人足差し出すべく、割符書面の通りに候。人足寄せ候日限の儀は、島田、金谷に差し置き候役人どもより、追って相触れべく候間、滞りなく金谷方川端へ差し出すべく候。右の外、人足相増し候わば、その節、増し人足相触れべく候。帰国の節も右同意相心得べく候。

若し一人なるとも不参加せしむに於いては、過料申し付け、その上急度申し付くべく候。この回状、村下に名主奥印致し、順に相廻し、留り村より金谷役所へ、相返すべく候、已上。
   正徳元年卯九月           窪島作右衛門 ㊞
                     窪島市郎兵衛 ㊞
                       右村々 名主
                           組頭
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「竹下村誌稿」を読む 175 竹下村 35

(畑のイチジクの木)

畑に一本あったイチジクの木、大きく太くなっているが、実をほとんど着けなかったので、去年、二本、イチジクの苗を植えた。それが、今年は早くも写真のようにたくさん実を着けた。一方、実の生らない大きい木は、切ってしまおうかと、話す声を聞いたのか、そちらのイチジクも下の写真のように、実を着けているのを見付けた。大きな木の、まだほんの一部分にすぎないが。


(大きい古いイチジクも実を着けた)

午後は、静岡の南部生涯学習センターで、「天澤寺殿三百年記録」の解読、第2回目の講義をした。今日は仏教用語と漢文満載の部分で、難しいとは思っていたが、漢文解読の講義方法も知らずに行って、内容が十分に伝わらなかったかと、反省している。それにしても、今日は欠席が多かった。講義の内容が受講者に理解されていないためであろうか。古文書の解読講座はもっと優しいものを選ばないと、なかなか厳しい。

帰りに、静岡パルコに寄る。三千円の商品券があったので、夕食用にお弁当やお惣菜を買って帰った。そこのお惣菜屋では、三千円は、ずいぶん買いでがあった。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

(宝永)四年(1707)十一月二十三日、駿河遠江大地震あり。家屋潰倒し、人畜死するもの多し。二十五日、富士山火を発し、灰を降らすこと数日、駿河地方は昼暗くして燭を秉(と)りしと云う。この時、素(須)走口に一の山を生ぜり。世に宝永山と云う。

(宝永)七年(1710)十月、本村高の内、七十石四斗七升壱合、分郷して、本多弾正少弼(相良)領となる。残高百八十二石五斗四升九合、窪嶋市郎兵衛、同作右衛門代官所たること、故(もと)の如し。

正徳元年(1711)五月、幕府、左の諸禁款を国内に掲示せしむ。(木札、立一尺五寸、横三尺四寸)これを正徳の御制札と云う。

         定
 一 親子兄弟夫婦を始め、諸親類にしたしく、云々外八条
         定
 一 毒薬並び似せ薬種売買の事、云々外六条
         定
 一 火を付ける者をしらば申し出るべし、云々外四条
         定
 一 切支丹宗門は累年御禁制たり。自然、不審なるものこれ有らば、申し出るべし、云々


右は世の周知する所なれば、各条項を略す。されど何れも左の末文あり。

右条々、これを相守るべし。若し相背くに於いては、罪科行わらるべきものなり。
   正徳元年五月 日                奉行



読書:「きずな酒 小料理のどか屋人情帖20」 倉阪鬼一郎 著
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「竹下村誌稿」を読む 174 竹下村 34

(近所の田圃も田植えが終わった)

明日の南部センターの講座の準備に、一日かかった。今回の部分は仏教用語と漢文、漢詩が主で、古文書講座では扱わない文書で、大変難しい。読み直す度に、読み方を直したくなる。もう回答も渡してあるから、困るけれども、それがより正しいなら、講座では直さなければならない。どうしようか。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

宝永二年(1705)二月、代官所より大代地内立林伐採に付、近傍町村へ被害の有無取調べにより、本村外七ヶ町村より故障を申し立てしことあり。その文案、左の如し。

                 大代村近村   志戸呂村
                         竹下村
                         牛尾村
                         嶋村
                         番生寺村
                         横岡村
                         金谷町
                         河原村

一 今度、大代村御立林の儀、御運上、これを出し伐払い申したく、売人願い奉り候に付、近傍に障り申す儀、これ無きやと御尋ね遊ばされ候。御立林麓より、大代川長(た)け、大井川出合いまで、道法(みちのり)二里余り御座候。金谷町村、村高四千二百三十石余、右川通り左右に伏し申し候。右川の儀、近年別して砂利洲押し出し、御田地より三、四尺も高く御座候に付、何とぞ川ざらい仰せ付けられ下し置かれ候様に、御願い申し上げ置き候御事。

一 大代川通りの義、堤川除け御普請、毎年仰せ付けられ下し置かれ候えども、川原高く御座候故、折々少し破れ仕り、百姓難儀仕り候御事。

一 大代御林、今度売木に仰せ付けられ、御伐払い遊ばされ□□□雨降り候度毎に押し出し申すべく候えば、川長(た)け御田地、大方石入り砂入りに罷り成り、百姓御田地に放れ申すべきと、迷惑至極に存じ奉り候。大代村は山元の義、村高とても少分の儀に御座候えば、右八ヶ村御田地一通りにて大分の人数、渡世仕る儀に御座候わば、御慈悲と思し召し、有り来り通りに差し置かれ下され候様、願い奉り候御事。

一 大代川通りの義、四十年已前、美濃部権之助様、長田長左衛門様、水所御検分の砌(みぎり)、田地より川代高く御座候に付、大分の御入用にて、川長け二里の内、御さらい下され候。それ以後、折々御訴訟申し上げ候えども、今に御普請も仰せ付けられざる故、百姓迷惑至極に存じ奉り候。この上に御立木御伐り払い遊ばされ候わば、川通り御田地の分は残らず亡所に罷り成るべくと、迷惑至極に存じ奉り候御事。

一 大代御林の義、殊の外しげり候えば、猪鹿大分住み申し候。然れども百姓家業の儀に御座候えば昼夜番人付け置き、随分追い払い、耕作懈怠なく相続け仕るべくと存じ奉り候御事。

一 右御林御用木にて御伐り出し遊ばされ候儀は、格別の義に存じ奉り候えども、売木に仰せ付けられ候儀、何とも迷惑に存じ奉り候。右御田地にさえ障り申さず候えば、外に御訴訟仕り候儀、少しも御座なく候。右大代川の儀、七年已前寅年、少々切込みにて、三十石余も一所に大石原に成り、百姓自力に開発仕り候儀、成り難く、迷惑仕り候。この外、先年よりの川成りは大分の儀に御座候。

右の段々、聞し召しさせられ、御慈悲を以って、有り来たりに差し置き下され候様、願い奉り候、已上。
   宝永二酉年二月            右村々 名主名  ㊞
                          荘屋名  ㊞
                          組頭名  ㊞
      御代官様      (下嶋氏記録)
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