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2012年も残すところ一日となった

(朝焼け/12月29日女房撮影、この後天候が崩れた)

2012年も残すところ一日となった。今日は朝から雨で、狭い家に大人7人と子供3人、それに犬一匹がひしめいている。喧騒を極めた我が家も12時を回る時間になると、皆んな寝静まって、聞こえるのは、古くなったパソコンのファンの音と、ファンヒーターの音だけである。

この騒動の中で、もっとも被害を受けているのはムサシであろう。このところ、ムサシはダイニングキッチンに寝所を作ってもらい休んでいた。しかし、孫たちがうろうろするから、昨日、裏の土間に寝所を移されて、しばらく抗議の吠える声が聞こえていたが、やがてあきらめたのか、静かになった。今日はあいにく一日雨だったから、雨の朝夕二度の散歩を除いて、一日、寝所の土間から出すことも出来ず、静かにしていた。女房はこのままではムサシがストレスでどうかなってしまうと心配するが、まあ、それほどやわでもないだろう。

孫3人は一日大騒ぎで、しばらく静かに遊んでいると思ったら、たちまちあっちが泣いたり、こっちが泣いたり、昼寝もしないで騒いでいたから、夕食を待てずに眠くなる。大急ぎでパパが風呂に入れようとするが、一番下のあっくんは眠くてたまらないから、どんなに色々気を引くことを大人が言っても、いやなものはいやで泣き止まない。いや、いや、と一つずつ拒否するのであったが、そのうち、「ぜんぶ、いやー」とまとめて拒否。大泣きしながらお風呂へ拉致された。お風呂でも騒いでいたが、出てくると目が覚めたのか、泣き止んでけろっとしていた。しかし、夕食もそこそこに寝てしまった。

掛川のまーくんパパの在所のおばあさんから、野菜が一山届いた。白菜、大根、ネギ、ブロコリー、里芋等々である。たいへんに有り難い。島田のかなくんパパの在所からも、野菜やお惣菜がどっさり届いた。いずれも子供や孫が面倒をかけるからという気持なのだろう。大人数でもとても子供たちのいる間に食べきれないかと思うが、食材を無駄にしないように、あり難く食べさせていただく。

いつもは故郷の次兄から、杵と臼で本格的に搗いたお餅を送ってくるのだが、今年は喪中のこともあり、搗かないという。だんだん高齢にもなるので、来年以降も無理かもしれない。今年は、女房の友達に頼んで搗いてもらった。そのお餅が今日届いた。冷えるのを待って、明日には庖丁で切り分けねばならない。表向きには喪中で、賀状、注連飾り、年始回り、初詣などやらないけれども、皆んなでお雑煮を食べることぐらいはすることになるだろう。

明日は大晦日である。バタバタと今年も終わりを迎える。「冥土の旅の一里塚」とはよくぞ言ったものである。一里塚を確実に刻んでいるが、目的地に何時着くのか、誰にも判らないのが良い。
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「片雲」さんに花の苗をいただく

(「片雲」さんに頂いた花の苗)

ムサシの散歩から戻る途中、大代川の土手から、自宅前に赤いバンが停まっているのが見えた。誰かお客さんが来ているようだ。女房も買い物に出掛けて留守だから、急いで戻ろうと思った。ところがムサシはまだ道草が足らないのか、なかなか動かない。

ムサシを引っ張って戻ると、白髪と白い髭で、「片雲」さんだと思った。奥さんも一緒で、ひょっとして花の苗を持ってきてくれたのだろうか。昨年、花の苗が余分に出来たのでと、たくさんの苗を頂いた。プランターに植え替えて、長い間楽しませていただいた。しかし、今はそのほとんどが花期が終わってしまって我が家も寂しくなっていた。

連絡しないで来てしまったけれど、ムサシもいないので散歩だと思ったという。待っている間に、家の前に花の苗を100本近く並べておいてくれた。やはり花の苗を持ってきてくれたのだ。有り難い話で、これで来年も楽しませてもらえる。苗にメモを付けていただいたので、ここへ記して、自分の覚えとする。

  1.ギリア ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 8コ
  2.忘れな草 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 4コ
  3.(花名不明) ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 4コ
  4.桃色タンポポ ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 4コ
  5.パープルフェイス(紫に白) ‥ 12コ
  6.ビスカリア ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 6コ
  7.イエロー ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 12コ
  8.オレンジ ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 12コ
  9.セラスチュウム ‥‥‥‥‥‥‥ 12コ
 10.(花名不明) ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 7コ
 11.ペニーミッキー ‥‥‥‥‥‥‥ 12コ

この内、5、7、8、11はいずれもビオラの品種だと思う。花が咲く頃に、不明なものと合わせて、名前を再確認したいと思っている。「片雲」さん御夫妻、遠いところわざわざ持ってきていただき、ありがとうございました。

   *    *    *    *    *    *    *

夕方から、名古屋のかなくんと掛川のまーくん、あっくんの一家が集った。今日の夕食はまーくんパパの提供による寿司パーティであった。4歳のまーくん、3歳のかなくん、2歳のあっくんは、並ぶとまるで3兄弟のようだ。おしゃべりも達者になった分、食欲も旺盛になり、子供用に用意したカッパ巻と稲荷寿司のうち、カッパ巻はフライングしてパクつき、20個ほどあったものが、たちまち空になった。最後の一つは次男あっくんがまだ口に入っているのに、自分の銘々皿に取り置いて、確保した。

この孫たちは順調に行けば、22世紀まで生きる可能性が高い。22世紀、3人とも90代の初めである。その頃、日本は、世界は、地球はどうなっているだろう。
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夜になって雨となった

(富士市街から富士山 -12月13日)

当地は今日午前中は晴れていたが、午後は曇って小雨も降り、夜には雨が音を立てて降ってきた。明日の朝には天気が回復して風が強まるという。日曜日にもう一度天気が崩れ、月曜日から年末年始は冬型の晴れの日が多いという予報である。ただ、我が家には明日、西から孫台風が襲来して、年末年始の間、停滞するようだ。

冬の靜岡の天気は周期的に動くから素人でも予報はしやすい。今夜のように低気圧が日本列島を通過して雨が降った後、低気圧は三陸沖に抜け、北海道の東沖の海上で発達すると、西高東低の気圧配置となって季節風がぐんと強まる。日本海側では雪となり、太平洋側では晴れて空っ風が吹く。大陸の高気圧が強いときは、高気圧がなかなか移動して来ず、西高東低の気圧配置が続き、日本海側は大雪となり、靜岡ではからっ風の晴天が続くことになる。冬山でベテランでも遭難騒ぎが起きるのはこんな時である。やがて、高気圧が移動して日本の上にやって来ると、風が止んで日本全国一時優しい晴天となる。これは長続きすることは少なく、やがて次の低気圧が来て、雲が広がって雨となる。そんなくり返しが冬の靜岡の天候である。

冬型の気圧配置となったとき、関ヶ原の狭間を抜けた雪雲は、岐阜から名古屋に雪を降らせるけれども、雪雲が東海道に沿って靜岡まで流れてくることはめったにない。靜岡は北アルプス、中央アルプス、南アルプスと重なる山脈にガードされて、雪雲の侵入はほぼ100%防御されている。

天候が崩れる前の晴天無風の冬の日に、近くの薮山を、落ち葉を蹴散らしながら歩くと最高に気分が良い。林の中にいても落葉樹であれば、樹下まで陽が差し込んで暖かい。山歩きに熱った身体には冷たい空気が心地よく感じる。尾根近くの林の中で立ち止まり、倒木に腰掛けて目を瞑ると、林が立てる音の向うに、遠い地上の喧騒がかすかに聞こえる。選挙カーが立てる音も別世界のことに思えてくる。薮山によっては、木間越しに雪を頂いた富士山がみえる。富士山を見えただけで、その日の山行に満足感が広がるから不思議である。

ところで、富士山にはいつ雪が降るのか。富士山も実は山脈の内側にあって、西高東低の天気では気温は下がるが、雪が積もることは少ない。富士山が真っ白になるのは、今夜のように天候が崩れて、靜岡に雨が降るような日である。平地は5℃でも3000メートルを越す富士山では氷点下13℃で、雨はすべて雪になる。だから、明日の朝は富士山は3合目あたりまで真っ白になっていると想像している。
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今年を総括すれば

(ススキも枯れた - 大代川土手)

今年も残すところ、あと5日、今年はどういう年だったのかと、自らに問う。

1月にお袋が亡くなった。102歳までよくぞ生きてくれたと思う。明治の終わりに生まれ、大正、昭和、平成と生き延びて、21世紀も10年余り生きた。苦労は多かったけれども、いい人生だったと思いながら、目を閉じてくれたのではないかと思う。昨年の女房の父に続いて、来年の年始は2年連続で喪中となった。寝正月と決め込むつもりでいたが、年末年始は孫3人がやって来て、我が家は占拠されるだろうと覚悟している。年を追って動きが活発になるから大変である。

4月から2ヶ月、2度目のお遍路へ出かけた。予定していたお遍路だったが、義父、お袋と亡くなって、外にも身近な知人の訃報もあり、お遍路にそれらを弔う目的が加わった。八十八ヶ所に別格二十ヶ寺を加えて、108ヶ所のお遍路は厳しい修行に見えるだろうが、今思い返せば、楽しい旅だったと思う。記録は、最後の仕上げに入っている。ページ数で前回の2割増しぐらいになる。前回同様の本にするかどうか、まだ迷っている。

8月にはロンドンオリンピックがあった。日本の有力競技はしっかりと夜中まで起きて、見せてもらった。日本の若者たちの頑張りに大いに励まされた。

この一年、尖閣、竹島では、近隣国に言いたい放題言われた。国力が落ちるということはそういう事なのだと、つくづく思い知らされた。中国にしても、韓国にしても、日本を抜きに、経済的に影響なしと判断して、あれほど強気になっている。日本の時代は終ったと考え始めているのである。

バブルが弾けて以降、日本の国力は落ち続けている。2度の大震災、暴力的なまでの円高、日本を牽引してきた大企業がことごとく苦境に陥っている。日本は軍備を持たないから舐められるという人もいるが、それでは北朝鮮と同じ発想になる。要は国力を取り戻すことが重要だと思う。日本には成長のためのすぐれたシーズがたくさんある。しかし、日本の政治家は政争に明け暮れて、明日の成長戦略に手を打てないで来た。その間に、世界の最先端にいた日本が、様々な分野で他国に遅れをとるようになってしまった。

年末になって、民主党政権が倒れ、自民党政権が発足した。安倍政権はどこまでやってくれるだろう。期待するしかないのだけれども、その期待は活動が始まる前から、円安、株高となって現れているように思う。2~3年あれば、日本の国力を取り戻すことは十分に可能だと思う。世界の経済を見ているとそれくらいのスピードで変化してきている。

秋から、県内の地蔵巡りをしている。靜岡県をもっと歩いてみたいと思ったのがきっかけで、信心深くなったわけではない。すでに14回で250キロほど歩いた。しかし、巡ることで、仏教に対して興味が湧いてきたことも確かである。自分の中では理由があって封じてきたが、来年あたりから仏教の経典を少しづつ読んでみようかと思っている。

今年も続けてきた古文書の勉強は、5年経ってある到達点まで来たと思うようになった。今までは学ぶこと一辺倒であったが、来年からは新しいステージに上ってみようかと思っている。

今年の冬は温暖化が嘘のように寒い日が続いている。
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「孤愁 サウダーデ」を読む

(「孤愁 サウダーデ」)

安倍内閣が今日発足した。党を挙げての新内閣らしく、大臣たちの顔ぶれに安定感を感じる。しかも平均年齢が57歳とずいぶん若返った。民主党に政権を渡していたこの3年半、自民党は生まれ変われたのであろうか。有権者は期待と不安を持って注目している。この期待感があきらめにならないように、頑張ってもらいたいと思う。

一つ、最近気付いたことがある。選挙で大敗し多くの議員がバッチを失い、野に下った3年半に、それまで魑魅魍魎が住むように見えた自民党から、そんな部分の多くが党外に去り、あるいは引退して、大勝の今回はたくさんの新しい顔になって戻ってきた。ずいぶん新鮮に感じるようになった。

前回の民主党の大勝のときも、国会が新人だらけになってしまったが、今回も同じことを感じる。新人たちは単に投票マシーンになってしまわないで、それぞれが自分の専門分野を持って、その道のプロフェッショナルになれるように猛勉強してもらいたい。その頑張りが2期目以降に繋がると思うべきである。

安倍首相は今回再登板であるが、歴代の総理で最登板したのは、戦後間もなくの吉田茂首相以来のことである。政界に2世、3世議員が目立つけれども、安倍首相は祖父の岸信介、父の安倍晋太郎に継ぐ3世議員である。父を越え、祖父を越えた政治家と讃えられるように、なってもらいたいものである。

   *    *    *    *    *    *    *

最近、「孤愁 サウダーデ」という小説を読んだ。明治時代、ポルトガルの外交官として来日し、日本に魅せられ、文筆家として日本紹介し続け、生涯日本に住んで、徳島でその生涯を終えた、モラエスを描いた小説である。新田次郎がその最晩年に取組み、日露戦争が始まったところで絶筆となり、未完に終わっていた作品である。昔、未完の作品ながら読んだことがあった。最近、新田次郎の息子の数学者にしてエッセイストの藤原正彦氏が、父の集めた資料を引き継ぎ、父が取材したすべての地を再訪して、死んだ父の年齢になるのを待って、「孤愁 サウダーデ」を書き継いで完成させたと聞き、早速図書館で借りて、600ページを越す大作を読み終えた。

議員ほどではないが、作家にも2世、3世の作家がいる。親の引きでそこそこまでにはなるが、親を越える作家になる者は少ない。藤原正彦氏もエッセイストとしては名声を上げているが、偉大な父、新田次郎に追い付くにはまだまだと思った。モラエスの後半生を追って描きながら、作家の思いが出てしまうのは当然のことであるが、読んでいく間に、これはモラエスの思いではなくて、藤原正彦氏の考えだろうと思ってしまう部分があちこちにあった。新田次郎が書いた前半には全く感じられなかったことである。その分、物語に没頭できる前半に比べて、後半は時々覚醒させられ、興ざめに感じる部分があって気になった。藤原正彦氏は小説家としてはまだまだなのだろう。
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95長谷寺、94蓮光寺 - 駿河百地蔵巡り 14回目

(長谷寺本堂)

沼津に入って、千本浜に出る手前に第九十五番長谷寺がある。長谷寺は案内板を見る限り、御本尊は十一面観音で、観音信仰のお寺で地蔵尊の記述は全く無い。境内を見渡しても、地蔵尊のお堂や石地蔵なども見当たらなかった。かつて地蔵堂があり、石造りの日限地蔵が祀られていたけれども、戦災で地蔵堂共に失われたという。


(若山牧水の墓)

長谷寺からUターンして沼津の町に向かう途中に、乗蓮寺という立派なお寺がある。このお寺は若山牧水の墓があることで有名である。墓は門を入って正面に近い所にあり、墓の門柱のように、牧水の歌を刻んだ石柱が立っている。変体仮名もあって、以前に立寄ったときは、写真を撮って帰って、片方が何とか読めただけであった。古文書を勉強してきた結果、今回はその場でさらりと読めた。

左側の歌碑は、牧水の歌で、右側の歌碑は、牧水夫人の喜志子の歌である。

  聞きいつゝたのしくもあるか松風の 今は夢ともうつつともきこゆ 牧水

  古里の赤石山のましろ雪 わがいる春のうみべより見ゆ 喜志子



(平作地蔵尊)

狩野川の右岸に沿った旧東海道を遡る。もっとも、現在は河岸の防潮堤嵩上げ工事が進められていて、堤防には近寄れない。吉原から原へかけて、いくつか津浪避難タワーが出来ていた。黒瀬橋も架け替えられて、高架になっていた。いずれも震災後の津浪対策なのだろう。黒瀬川の直下に「平作地蔵尊」の祠がある。旧東海道筋にあって街道歩きの時も立寄った。

「平作地蔵尊」の案内板によると、「日本三大仇討」の一つとされる、浄瑠璃「伊賀越道中双六」に出てくる沼津の平作にゆかりの地蔵尊といわれている。平作が命を懸けて聞き出した、仇河合又五郎の居場所で、平作の娘婿、渡辺数馬は、義兄荒木又右衛門の助太刀により仇を討つ。この地蔵尊のある場所は、昔、平作の茶店があったとされる場所である。この地蔵尊は延命子育地蔵で、「もろこし地蔵」と呼ばれ、地元の人々の信仰を集めている。


(蓮光寺地蔵堂)

平作地蔵から沼津駅に向かう途中、少し高台に第九十四番蓮光寺がある。境内右手に立派な地蔵堂がある。お地蔵さんは救世厄除地蔵尊という。蓮光寺本堂前には枯木を銀色に彩色したオブジェがあって目を引かれた。随分思い切ったことを考えるお寺である。


(蓮光寺本堂前オブジェ)

今日はここまでとし、沼津駅から電車で帰る。富士と靜岡で乗換になるが、今日はめちゃくちゃに眠くて、それぞれの乗換駅に到着するまで寝込んでいた。本日の歩数35,161歩、歩行距離17キロであった。  
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92松蔭寺、93清梵寺 - 駿河百地蔵巡り 14回目

(桃里の桜地蔵尊)

(昨日の続き)
吉原から原への旧東海道筋には、お地蔵さんをほとんど見かけない。江戸時代は、東海道の北側は富士の雪解け水が、海岸砂丘に阻まれて、出口の無い水が溜まって沼になっていた。その水を海に放つ水路が出来るまでは不毛の地であった。おそらく農民たちは東海道沿いには住まず、沼よりも北へ住んでいたのではなかろうか。だから、街道沿いの地名には〇〇新田が並んでおり、意外に古い人々の営みの跡は少ない。

富士市桃里という集落がある。旧地名は助兵衛新田、助兵衛さんが開拓した新田という意味で、真面目に付いた地名なのだが、その後に、言葉が汚れてしまったため、桃里と地名を変えたという、いわくのある集落である。その桃里に、桜地蔵尊の看板があった。看板に従って右折し、JR東海道線の踏み切りを渡って、右へ線路沿いに数十メートル進んだところに、桜地蔵尊のお堂があった。


(桜地蔵尊境内のお地蔵さん)

どういう謂れのあるお地蔵さんか分からないが、地域で大切にされている様子がうかがえる。境内にも古い小さなお地蔵さんが三体並んでいた。おそらく、街道筋にあったものがここへ集められたのであろう。


(松蔭寺山門)

JR原駅前を通り過ぎて、第九十二番松蔭寺に行く。白隠禅師のお寺として有名なお寺である。門を入ると何やらすっかりお寺の様子が変わってしまったと感じた。そうだ、「摺鉢松」と呼ばれる松の巨木が失われていた。枯れてしまったのであろうか、幾つにも刻んだ巨木の幹がシートを被っていた。

松蔭寺の境内で、コンビニで買ったパンを食べて昼食にした。地蔵尊は本堂にあるのかもしれないが、それらしいヒントは全く見つけられなかった。昔も本堂に入って寺宝などを拝観した覚えがあるが、今日は拝観はしなかった。


(清梵寺本堂)

「原のお地蔵さん」といえば、松蔭寺より数百メートル東へ行った、第九十三番清梵寺である。松蔭寺門前から案内図を見て、裏の細道を行った。本堂に最近金色に彩色をされ、補修がなった木像の地蔵像が祀られているというが、中には入らなかった。本堂の右側に大きな石造の地蔵尊像が立ち、裏手に地蔵堂があって、何体もの地蔵像が丁寧に祀られていた。「原のお地蔵さん」の名に恥じない、地蔵尽くしのお寺である。


(清梵寺地蔵堂)

清梵寺の縁起によると、旅の途中の長者がこの地で亡くなった。その妻は、梵貞尼という尼になって、夫の死んだ原宿にお墓参りに来た。この時泊めてもらった網元の網に、夫が朝夕拝んでいた地蔵菩薩が掛かった。網元は話を聞いていたく感動し、自ら清信禅居士と号し、梵貞尼と力を合わせて、お堂を建て地蔵尊像を納めた。そして、清信禅居士、梵貞尼の頭二文字を取り「清梵寺」というお寺を建立したという。(つづく)

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鈴川の地蔵堂と閻魔堂 - 駿河百地蔵巡り 14回目

(鈴川中町の地蔵堂)

14回目の百地蔵巡りに、今朝出掛けた。昨夜、夜中に目が覚めて、その後、寝られないまま、早朝に出かけてきて、JR吉原駅で下りた。天候は曇り、今朝は寒いと思い、防寒対策をしっかりとしてきたので、歩き始めると少し暑いくらいであった。


(鈴川中町の地蔵堂の地蔵尊)

JR吉原駅の南口から出て、すぐ南の高台の住宅地に入った。東へ高台を下りてきた、鈴川町と鈴川中町を区切る道路を挟んで、閻魔堂と地蔵堂が斜向いにあった。番外ではあるが寄り道した。手前の閻魔堂が鈴川町、先の石段の上の地蔵堂が鈴川中町に所属している。それぞれ、おばあちゃんたちがお堂を開けて拭き掃除をしている。閻魔堂はパスして、地蔵堂へ登り、今日はお祭りがあるのかと聞けば、毎月23日は地蔵の日だから、掃除をしているという。地蔵堂の石の地蔵さんは、胴の部分で二つに割れて補修されている。ここのお地蔵さんは何地蔵なのかと聞いたところ、閻魔堂の方に詳しい人がいるから、そちらへ聞くように言う。


(鈴川閻魔堂の言い成り地蔵尊)

閻魔堂へ戻ると、まあ上って見てくれと、靴を脱いで上るのを待って、真ん中の地蔵は「言い成り地蔵」でどんな願いも叶えてもらえると、石の地蔵尊を両手で撫ぜた。こちらのお地蔵さんも胴の中央で上下二つに割れ、補修が施されていた。右側には閻魔大王像があり、垂れ幕を上げて見せてくれた。今日は地蔵の日だから、お堂を開けて皆んなできれいにしていると、ここでも繰り返した。

お参りを終え、先に進みながら、考えた。この辺りはずっと海側は小高い丘になっていて、その外は見えないけれども駿河湾の浜辺である。この程度の丘は津浪なら軽く越えてきてしまうであろう。現に江戸時代、海近くにあった吉原宿は何度も津浪に流され、その度に全滅して宿場を北へ移した。東海道もその分北へ大きく湾曲して付け替えられたため、左富士という不思議な景観が出来た。

吉原の海岸でも、海岸沿いに海に向けて波除地蔵が幾つも作られた。二つのお地蔵さんも、おそらく、そういう波除地蔵が津浪などで内陸に流されて、波が引いた後、半分に壊れて掘り出されたのであろう。里で補修され、以後、お堂を造って大切に祀られるようになったと想像した。

もう一つ、ふと気付いたことがある。23日は地蔵の日だからと、おばあちゃんたちが言っていたのは、二三(じ、ぞう)のごろ合わせで、地蔵の日と決まったものであろう。昔から日本人はそんなごろ合わせが大好きで、今日は何の日と決まったものを見ると、そんな語呂合わせのオンパレードである。

この後、眠気にふらふらと歩いているような気分で、旧東海道の海岸線に沿った真っ直ぐの道を東へ向けてひたすら歩いた。(つづく)
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老中御通行時、荷物滞りの一件(2) - 駿河古文書会

(夕闇迫る大代川の鴨)

(「萬留帳」の昨日のつづき)
「町々より人足出方、多少、遅速、明細書付け、明日、御番所へ」差し出すように指示を受け、取りまとめて出した文書2通を、「萬留帳」に控えている。「恐れながら口上の覚え」及び「恐れながら書付を以って願い奉り候事」がそれで、続いて書きとめられている。

     恐れながら口上の覚え
夜前、阿部豊後守様御通り遊され候に付、急御用町人足、年行事へ仰せ付けられ候、町々へ申し渡し、人足出し申し候分、書付差し上げ申し候、有り難き次第に存じ奉り候、向後も伝馬町手支えの時は町方より合力仕るべく候、以上
※ 夜前(やぜん)- 前日の夜。昨夜。ゆうべ。
   人足寄せ高、百八拾弐人
      内九拾五人、御用相勤め申し候
残りて八拾七人、御下知に付、戻し申し候

右の通りに御座候、已上           年行持
    申閏二月十四日            札辻町
  御番所様                 呉服町四丁目
                       同  五丁目

年行持より、御用掛り御両人様へ、願い書差し上げ候扣え
    恐れながら書付を以って願い奉り候事
一 夜前、阿部豊後守様御通り遊され候に付、急御用町人足仰せ付けられ候、これにより、年行事より町々丁頭どもへ、早速御意の趣、申し遣し、尚又催促仕り候えば、丁頭ども畏まり奉り、人足追々これを出し、御用相達し、恐悦に存じ奉り候、人足出方、別紙に書付差し上げ申し候事

一 急御用に付、町々へけわしく申し遣わし候ゆえ、早速罷り出で御用に達し申し候分は支度も仕らず、又は雇銭、高ひくも構なく差し出し、殊に夜分の義、旁々骨折り申し候に付、この分の人足、壱人を弐人前に、仰せ付けられ下し置かれ候様に願い奉り候事

一 町々より出申し候人足の内、その節有り合わせ申さず、あるいは間違い雇い急ぎ、彼是、暫時遅れ成り申し候えども、年行事まで相詰め申し候、右御用
相済み申し候ゆえ、この分御下知に付、戻し申し候、然れども、その夜の義に御座候間、壱人前相勤め候分に、仰せ付けられ下し置かれ候様に願い奉り候事
右の趣、恐れながら聞し召し訳させられ、御慈悲の御了簡、願い奉り候、以上
 正徳六申年閏二月十四日        年行持
     田宮友左衛門様        三町丁頭名印
     大野忠右衛門様


夜間、急な人足要請に応えたのだから、1人を2人分に勘定するように求め、さらに、緊急ゆえ、人足数も決めずに集めたため、詰めたけれども、余って戻された人足もいた。その人足も1人分に勘定するように求めている。これに対して御番所が願いにどう応えるのか、来月の古文書会で勉強する。
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老中御通行時、荷物滞りの一件(1) - 駿河古文書会

(春野の紅葉、11月25日)

午後、駿河古文書会で靜岡へ出掛けた。

昨年、府内、町内年行事組合の「萬留帳」をしばらく読み進めたが、今回はその続きである。正徳六年、七代将軍家継(御歳8才)へ皇女八十宮吉子内親王の降家が決定し、老中阿部豊後守はその納采(結納の取りかわし)のため、京へ登る。荷物滞りの事件はその帰りに起きた。

なお、家継はこの2ヵ月後に死去し、皇女八十宮吉子内親王が江戸へ下ることは無かった。

   覚え
阿部豊後守様、二月九日、京都へ御登り遊ばされ、閏二月十三日、御下り、この表(府中宿)御通り遊ばされ候に付、盛砂、掃除など仰せ付けられ、その上、年行事組合三町丁頭、麻裃(かみしも)着し、川端まで罷り出候、この訳御触れ控え帳に記す、十三日夜に入り、御通り相済み申し候
※ 盛砂 - 儀式のときや貴人を迎えるときなどに、車寄せの前の左右に砂を高く盛り上げたもの。

一 暮六つ半時、御番所様より急御用の由、年行持組合召し寄せられ、御用懸り、友左衛門様、忠右衛門様、仰せ渡され候は、豊後守様御荷物、伝馬町人馬差支え、滞りこれ有り候に付、御家中、もっての外、御立腹、問屋年寄役人も、罷り有らず候に付、大切の御通りに候えば、殿様(駿府町奉行)御意遊され候は、年行事に申し付け、何方にも相働き、唯、今、町人足なり次第、伝馬町へ差遣わし、右御荷物相送り候様に仕るべく候、畢竟御忠筋にも罷り成り候間、情出し申すべき旨、重き御意に御座候間、年行事三町家持家別に札ノ辻へ罷り出、町々丁頭中へ、右の趣、申し達し、尚又、追々催促いたし候えば、段々人足出で、五つ半時、御荷物残らず相済候由、伝馬町に年行持より付け置き候家持、注進これ有り候、右御両人様札ノ辻へ御出で、御世話遊され候、首尾よく早速埒明け候に付、年行持へ骨折りの段、御家老様御立ち合いにて仰せ渡され候事
※ 家持(いえもち)- 江戸時代、屋敷持ちとして公役の権利・義務が与えられ、本来の意味で「町人」と呼ばれた者。

一 同夜、山田源五郎様と申す御祐筆衆、これも右御用御朱印にて御下り遊され候所に、御荷物差しつかえ御立腹成られ候えども、右一同に、首尾よく相済み申し候事

一 友左衛門様、忠右衛門様、仰せ渡され候は、町中より今夜差出し候人足、御用に立ち候分、外に札辻まで相詰め、御用相済み候に付、戻し候人足、町々より人足出方、多少、遅速、明細書付け、明日、御番所へ差し上げ申すべき旨、仰せ渡され候事


老中阿部豊後守は無事に府中を通行されて江尻宿へ到着されたが、荷物が着かないと御立腹だとの連絡に、奉行所の役人は真っ青になった。大変な失態である。なぜか分からないが、伝馬町の町役人がもぬけの空で、町中に触れを出して、人足を集め、集り次第、荷物を江尻宿まで運び、何とか荷物を済ませることが出来た。ちなみに、府中宿から江尻宿へは10キロほど距離がある。運ぶのに2時間以上掛かったはずである。(つづく)
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