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再びの巨木巡礼 101 馬ヶ谷宇刈神社のシイ


袋井市宇刈馬ヶ谷、宇刈神社、スダジイは左に見える


「再びの巨木巡礼」リスト

1月22日の「再びの巨木巡礼」5本目の巨木は、袋井市馬ヶ谷の宇刈神社のスダジイである。山名神社を出て、県道58号袋井春野線を少し北へ進み、すぐに右折して宇刈の集落を進む。2キロほど進んだ馬が谷で左折、山の麓の小高い所に、馬ヶ谷の宇刈神社がある。(それより500メートルほど東に、同じ宇刈神社があるので間違えないようにすること。)

馬ヶ谷宇刈神社のスダジイ

本殿に向かう石段を登った、すぐ左に、御神木のスダジイがある。「静岡県の巨木」には、宇刈神社のスダジイとして、

  1 幹周囲4.1メートル、樹高14メートル
  2 幹周囲3.3メートル、樹高14メートル
  3 幹周囲3.1メートル、樹高13メートル

の三本のスダジイが記されている。御神木のスダジイが最も太い4.1メートルのものであろう。


境内の左手、ネットフェンスの外側に、何本かシイノキの巨木が見えた。一番手前のシイが2番目のもので、さらに2本シイの巨木が並んでいる。

帰りに、下から見上げると、ごつごつしたシイが3本並んでいるのが見える。

1月22日の巡礼はここまでとして、帰路に付いた。

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「話題の古文書」として、「うつろ舟の瓦版」を半日かけて解読した。画像と解読に少し手の混んだことをしたので、思いの外、手間がかかった。これで7月までは種が埋まった。

読書:「故郷がえり 研ぎ師人情始末15」 稲葉稔 著

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再びの巨木巡礼 100 上山梨山名神社のクス


袋井市上山梨、山名神社、鳥居右奥に山名神社のクスが見える


「再びの巨木巡礼」リスト

1月22日の「再びの巨木巡礼」4本目の巨木は、山名神社のクスである。袋井から県道58号袋井春野線を北上、上山梨の道路左手、人家に囲まれて山名神社はある。


山名神社のクス、三本の幹を束ねたように見える

昭和60年5月建立の根元の石碑によれば、幹周囲4.52メートル、樹高30メートル、樹齢300年となっているが、「静岡県の巨木」のデーターでは、幹周囲6.50メートル、樹高23メートルで、測定がほぼ同じころと思われるので、別の木のように思われる。ただ、境内を隅々まで探したが、これ以上のクスノキは見つからなかった。

今日で「再びの巨木巡礼」100本目の巨木になった。ほぼ半年でここまで来たが、このペースで、静岡県の巡礼を終えるにはあと一年、あるいは2年かかるだろうか。

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2月、駿河古文書会での当番、2回分の発表準備がようやく終わった。

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再びの巨木巡礼 99 西島須賀神社のクス


磐田市西島、須賀神社のクス、神社本殿の真裏にある

1月22日の「再びの巨木巡礼」3本目の巨木は須賀神社のクスノキである。木原の許弥神社から西へ、旧国道1号線(県道413号)に合流するとすぐに磐田市に入る。太田川を渡る手前、300メートルほどを左へ折れて、人家に囲まれて、西島須賀神社がある。クスは神社本殿の真裏にある。このクスは今まで何度か見ている。


「再びの巨木巡礼」リスト


平成8年10月6日「巨木巡礼」時の須賀神社のクス

「巨木巡礼」では次のように記している。

磐田から三ヶ野坂を越えて旧東海道をたどる。袋井市街の手前、街道から 100mほど外れたところに須賀神社がある。須賀神社のクスは社殿の背後にあった。樹齢のわりに幹が太くて瘤でごつごつしている。

 
平成14年2月11日、「旧東海道夫婦旅」時の須賀神社のクス

「旧東海道夫婦旅」では次のように記している。

数分西進した西島の集落で、看板に導かれて左の横町に入った所に須賀神社がある。神社には境内を覆うほどのクスノキの巨木があった。数年前に最初に見てから一度神社が火災を受けたとニュースで聞いた覚えがあるが、ほとんど被害を感じさせない勢いがあった。真ん中の巨枝がもぎれたように折れ、中の洞を見せている辺りがその時の被害であろうか。


西島須賀神社のクス(静岡県の巨木153/№119)

クスノキは昔と変わらずに、太い枝を本殿上空まで伸ばしていた。かつては窮屈そうに感じたが、今はその地へすっかりなじんだように見える。クスノキは変わらないのだから、自分の心境により、そんな風に感じるのだろう。

平成30年1月の案内板によれば、幹周囲10.6メートル、高さ15メートル、推定樹齢500年、平成17年11月に、磐田市天然記念物に指定されている。30年余以前の「静岡県の巨木」のデーターでは幹周囲9.5メートル、樹高9メートルとなっている。

読書:「付け火 秋山久蔵御用控 16」 藤井邦夫 著

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再びの巨木巡礼 98 許弥神社のクスノキ


袋井市木原、許弥(こね)神社、クスノキは写真左端に見える

昨日の「再びの巨木巡礼」2本目の巨木は許弥(こね)神社のクスノキである。旧国道1号線(県道413号)、磐田袋井線を西進し、木原の手前で右手の旧東海道に斜めに入り、300メートルほど進んだ右手に木原の許弥(こね)神社がある。かつては木原権現社と呼ばれた。戦国時代には、木原畷(きはらなわて)の戦いと呼ばれる、徳川と武田の戦いの古戦場にもなっている。おそらく、このクスノキは、目が有ったならば、その有様も見ていたに違いない。


許弥神社のクスノキ

このクスノキは幹の下部が瘤が出来たように、大きく膨らんでいるのが特徴的であった。

「旧東海道夫婦旅」の時の許弥神社のクスノキ

平成14年2月11日、「旧東海道夫婦旅」で撮影したものと、今を比べると、当時は幹回りが太くしっかりしている。


こちら側の瘤は堅いけれども、


反対側の瘤はボロボロである。

かつて膨らんでいた瘤の片側がボロボロと崩れていて、以前に見た時よりも幹回りが細くなったように見える。触ってみたら、触った所がぼろっと落ちた。

「静岡県の巨木」では幹回り6.5メートル、樹高15メートルとなっているが、1メートル位細くなっているかもしれない。このまま置くと、瘤の部分が取れて、あとどうなってしまうのだろう。心配である。

そういえば注連縄もしてなかったし、御神木の立札も無くなっていた。氏子さんたちからも見放されたわけではないだろうなぁ。

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夜、班長会。区長の仕事も、いよいよゴールが見えてきた。

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再びの巨木巡礼 97 七ッ森久努神社のシイノキ


袋井市国本 七ッ森久努神社

1月22日、久し振りの「再びの巨木巡礼」である。この年末年始は繰り返し寒波が襲来して寒い日が続いた。また、正月でやや気が緩んだ分、講座の準備やら何やら気忙しくて、なかなか「再びの巨木巡礼」に出掛ける気にならなかった。今日は風が止み、好天に恵まれて、出掛ける気になり、女房と袋井方面に出掛けた。

第21回目の「再びの巨木巡礼」である。最初に訪れたのは袋井市国本、七ッ森久努神社である。国道1号線を西に進み、掛川バイパスから袋井バイパスに繋がる辺りの右手に、七ッ森久努神社の杜が見える。七ッ森久努神社には旧東海道の松並木のある道から入る。細長い敷地の最奥、国1に近い所に社殿があり、その右側にある御神木のスダジイが、目的の巨木である。


袋井市の名木古木指定されている


周囲にシイの実がたくさん落ちていた
今では拾う人も居ないのであろう

「静岡県の巨木」のデーターでは、幹回り6.7メートル、樹高15メートルとあるが、20年後の平成21年名木古木の再調査の際に測り直した所、幹回り4.98メートル、樹高13メートルになっている。古い木だから幹の一部が損なわれて細く計測されたのであろう。

読書:「余計者 秋山久蔵御用控 15」 藤井邦夫 著

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再びの巨木巡礼 96 船木八幡神社のクスノキ


島田市船木、八幡神社のクスノキ
右手道路際に根元が見える

谷口橋を渡り、県道34号島田吉田線を南下、井口の交叉点を右折、750メートルほど進んで右折してすぐに船木八幡神社がある。12月29日、粟ヶ岳の帰りに立ち寄った。


2メートルほどの所で主幹が失われて根っ子だけ残る


左の根っ子だけ残るのがクスノキ

中は空洞で、ひこばえ伸びているだけであった。枯れてしまったというべきかもしれない。

「静岡県の巨木」には、幹回り5メートル、樹高7メートルと記録されている。

以上で、今年の「再びの巨木巡礼」を終える。

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令和3年もあとわずか、主として「かさぶた日録」から選んだ、今年の個人的な10大ニュースは以下の通りである。

四月   区長(会計担当)に就任。(来年3月まで一年間)
四月   かなくん、まーくん中学進学。(まーくん野球部、かなくん剣道部)
六~七月 新型コロナワクチン2度の接種を受ける。
八月   無観客の東京オリンピック開催される。
八月  「再びの巨木巡礼」始める。(30年後の「巨木巡礼」、年内96本)
十月   コロナ治まり、次兄の見舞と父母の墓参に、女房と帰郷。
十二月 「雲渓庵日記」(明治初めの徳川藩士の御達などの記録)解読終了。
十二月 「面白古文書12月」小冊子にまとめる。(古文書講座の枕の古文書)
十二月  岡部英一著「一言坂の戦い」出版。(古書籍、古文書解読で協力)
十二月  時代小説、年200冊読破。(全読破数、243冊)

来年はどんな年になるだろう。

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「美耶巨萬有提」の解読 7


粟ヶ岳山頂から富士山/12月29日撮影

夕方、名古屋のかなくん一家帰郷。掛川のまーくん一家が合流して、今夜はにぎやかにすき焼きパーティ。コロナ禍以後、初めてのパーティである。飯を五合焚いたら、4人の孫たちの食欲で釜の底が見えて、急いで追加の五合を炊いた。食欲旺盛なだけに、皆、雨後のタケノコのように背が伸びて、びっくりさせられる。

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「美耶巨萬有提」の5P

「美耶巨萬有提」の続き、4P13行目より。

廿五日、徒とめて驛を多ち、寝覚の里、浦嶋子可古跡なりとて
臨川寺尓立よる。い可那る故乃有て、可く古跡と以へけんといふ。
可し起(かしぎ)尓案内須る童部(わらわべ)さへもて起て、何くれとみ多りこ登以ふ(事言う)
もうるさくて、立出(たちいで)ぬ。
※ 寝覚の里(ねざめのさと)➜ 「寝覚めの床」浦島伝説の残る、長野県木曽郡上松町にある景勝地。
※ かしぎ(炊ぎ)➜ 飯をたくこと。また、その人・場所。

三留野登いふすくまて、渓川(たにがわ)尓そひ
て、山吹盤さら也。きのふけふ成る登、徒ゝち(つつじ)さへ咲まし里(混じり)
多るけ者い(気配)以は無可多奈し(言わむ方なし)。洗馬といふすくよりけふま
て、三日乃山路、すへて山吹乃咲徒ゝ可佐る(続かざる)所なし。
  唐衣(からごろも) 以さ(いざ)立可へて 山振(やまぶき)
    起そ(木曽)路迠所(ぞ)ハ 以はま本し(いわまほし)け連
※ 唐衣(からごろも)➜ 唐風の衣服。袖が大きく、丈が長くて、上前・下前を深く合わせて着るもの。転じて、美しい着物。
※ 言はまほし(いわまほし)➜ 言いたい。

い尓しへ乃井な(伊那)(下婢)も、めく里あはん(巡り逢わん)以つれ(何れ)の日登、
名もなつ可しき(懐かしき)妻籠乃すくにやとる。
※ 下婢(かひ)➜ 召使いの女。下女。はしため。

【 読み下した文】

廿五日、つとめて驛をたち、寝覚の里、浦嶋子が古跡なりとて、
臨川寺に立ち寄る。如何なる故の有りて、かく古跡と云えけんと言う。
炊ぎに案内する童部(わらわべ)さえもてきて、何くれと妄り事言う
もうるさくて、立ち出でぬ。三留野という宿まで、渓川に沿い
て、山吹はさらなり。昨日、今日成ると、つつじさへ咲き混じり
たる気配、言わむ方なし。洗馬という宿より今日ま
で、三日の山路、すべて山吹の咲き続かざる所なし。
  唐衣 いざ立ち替えて 山振(やまぶき)
    木曽路までぞは 言わまほしけれ
いにしえの、伊那の下婢も、巡り逢わんは何れの日と、
名も懐かしき妻籠の宿に宿る。

(5Pの2行目まで、以下続く)

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再びの巨木巡礼 95 湯日八幡神社のスダジイ


島田市湯日、八幡神社のスダジイ

12月22日、三本目の巨木は、島田市湯日の八幡神社のスダジイである。

島田から谷口橋を渡り、県道34号島田吉田線を南下、色尾の交叉点を右折、湯日の谷に入る。2.7キロほど進むと新幹線を潜るが、その手前200メートルほどの左の山側に、湯日の八幡神社がある。神社へ上がる石段の途中に、八幡神社のスダジイは見えている


石段の半ばの脇にあって、参拝の邪魔になって

案内板によれば、明治初年、参道脇でじゃまになると、切り倒すとの声もあったようだが、現在に至っているという。当時の村人の判断は正しかったと思う。社殿は建て替えが出来るが、巨木を育てるには数百年かかる。片田舎の神社ではあるが、このスダジイのお陰で誇るべき神社になっていると思う。


何本かの幹を束ねてねじったように見える

これも案内板によると、幹周囲5メートル、樹高20メートル、樹齢は400年以上だと記されていた。外見では何本かの幹が束になって、一本にねじられているように見えるが、樹種によって、老木になると幹が縦に割れて、そのように見えるものがあると言い、もちろん一本の木である。

この日の巨木巡礼はここまでとし、帰路に付いた。

ここまでで、5ヶ月で、95本の巨木を見て来た。その内訳は、「再びの巨木巡礼」リストをご覧下さい。見て来たのは遠州の一部と駿河の一部に過ぎない。巡る中に色々と発見もあって、なかなか面白い。だから、まだまだ続く。

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再びの巨木巡礼 94 若宮神社のスダジイ


掛川市逆川池下、若宮神社のスダジイ

12月22日、二本目の巨木は、若宮神社のスダジイである。

掛川市伊達方から国道1号線の南、逆川の隔てた向う側の道を、西へ1.5キロほど西へ進んだ左側に「鞍骨(くらほね)の池」がある。池の名前の由来によると、戦国時代、今川の武将、堀越陸奥守が、横地、勝間田の連合軍に敗れて討ち死にし、ここに埋められたことによるという。その池の十字路を直進するとすぐの角に、石垣の上の若宮神社と、その斜面にV字形に幹を伸ばしたシイノキの巨木がある。


しばらく見ない中に、幹が傷んできたように見える

昔の職場に近かったから、通るたびに見えたお馴染みの巨木であったが、しばらく見ない中に、随分傷んできたように思う。右側の幹は傷みが激しくて、5、6メートルあたりで、すっぱりと伐り詰められてしまった。「静岡県の巨木」には、幹周囲7メートル、樹高20メートルとあったが、樹高は15メートル足らず、幹も何やら細くなったように見える。もっとも、7メートルの幹回りといっても、2本の幹合わせて測ったものではあるから、幹1本で7メートルの巨木と比べれば、見劣りするのはやむを得ない。


神社側から見ると

初めて若宮神社に登って見た。こちらから見ると、V字形の幹に傷みがあるようには見えなかった。

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再びの巨木巡礼 93 松葉のカヤ


掛川市 松葉のカヤ、斜面に添うように枝を伸ばす

12月22日、大代のジャンボ干支「寅」を見た後、倉真へもう一頭の寅を見に行く途中、大代から山越しで倉真へ出る直前、掛川市倉真の松葉で、左へ行けば松葉の滝へ通じる三叉路の目の前に、天然記念物の案内板があった。

掛川市指定の天然記念物、松葉のカヤは、道も明らかでない緩斜面を登り、天然記念物の案内板の先の斜面にあった。簡易水道と思われる施設があったので、そばまでは行かずに写真を撮るに止めた。斜面に添うように枝を伸ばした姿は、今まで見たカヤの巨木とは少し違っていた。


松葉のカヤ

案内板によれば、掛川市の天然記念物指定は平成12年2月24日、樹高14.2メートル、幹周り4.3メートル、根周り11.7メートルとあった。「静岡県の巨木」には掛川市にカヤの記録はないから、山中に隠れていて、巨木調査では未調査だったのだろう。

このように、「静岡県の巨木」に未記載の巨木が、まだまだ多いのだろうと思う。

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夜、年賀状の印刷する。明日は宛名印刷である。

読書:「濡れぎぬ 研ぎ師人情始末11」 稲葉稔 著

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