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「田中氏道中記」を読む 5


散歩道のヤブカンゾウ

「田中氏道中記」の解読を続ける。

  九日昼食、微雨、風無間、晴
      シラリカ
※ シラリカ(白糠)➜ 現、二海郡八雲町黒岩。シラリカ川あり。
ユヲイ(由追)より四里半、一軒家にて先宿の弁当
持参。茶屋のよしにて、汁(しる)・結(むす)びは手配出来候。夫
婦斗(ばか)り。荷は舟廻(ふねまわ)しにて遣(や)る。少々なれど雨。馬
にて先へ参る。桐油(とうゆ)を相用いざるうち晴れ。海岸
※ 桐油(とうゆ)➜ 桐油合羽のこと。桐油紙製の雨合羽。「桐油紙」は、厚手の純日本紙に、まずカキ渋を塗って乾燥し、その上に桐油を何回も塗って乾燥した丈夫な防水紙。
道よし。

  九日泊、晴
      ヲシヤマンヘ(長万部)
シラリカより五里。当屋へ止宿。酒井右京亮

様家来、蝦夷地見分(けんぶん)の内にて、両人同宿。
南部御陣屋相建ち候とて、同家人数引越す。

  五月十日泊食、曇、綿入弐ッ(3文字不明)かし
      レフンケ(礼文華)
※ レフンケ(礼文華)➜ 現、虻田郡豊浦町。礼文華峠に名が残る。
シツカリまで三里、海岸道よし。この辺大木に候。
萬木(ばんぼく)(おびただ)しくこれ有り候。泊所より弁当持参。一軒
※ 萬木(ばんぼく)➜ 多くの木々。すべての樹木。
家にて蝦夷壱人居り。外に何もこれ無く、弁当麁菜(そさい)
※ 麁菜(そさい)➜ 粗末な菜。粗末な副食物。
にて困る。この日、荷物舟廻しの処、風高くにて引き
戻り、差し掛り、馬不足に付、皆々歩行、拙者先に川
※ 差し掛り(さしかかり)➜ その時になって。
を越し、乗り出し候に付、昼まで馬上、シツカリよりレフンケ
まで三里半、シツカリ峠、ホロナイ峠、連綿(れんめん)と打ち
※ 連綿(れんめん)➜ 長く続いて絶えないさま。
続く。別して、シツカリ上り口、急にして難処なり。峠
中、高低断続、壁道(へきどう)にて、雨天に候えば大難所
※ 壁道(へきどう)➜ がけみち。
なり。凡そ峠道三里余、左右木立原にて、甚だ徒地(むだち)
※ 徒地(むだち)➜ 役に立たない土地。
に候道なり。公儀役人御巡見跡に付、所々に小休有り。
峠中に呑水、八ヶ処あり。ホロナイ峠卸(おろ)せば、左
右蕗(ふき)沢、その中、背丈(せたけ)を越し候分多く見ゆ。峠
道上り候に付、荷付馬三疋、谷へ転ばし候え
ども、無難にて大慶(たいけい)。レフンケ(礼文華)は、和田屋茂兵衛番
※ 大慶(たいけい)➜ 大きなよろこび。この上なくめでたいこと。
屋にて宜し。蝦夷家弐拾軒余、馬は皆以って野放
しにて強し。如何様(いかよう)難処も造作なく
駆けるなり。峠は歩行にて越す。

(つづく)

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「田中氏道中記」を読む 4


裏の畑のクササンタンカ

「田中氏道中記」の解読を続ける。

  六日泊、晴
      鷲の木
宿野辺より鷲の木まで四里十八丁。この間、
※ 鷲の木(わしのき)➜ 現、茅部郡森町字鷲ノ木町。
道至極よし。馬場のごとし。左右木立
原、追分あり。右は佐原、左は鷲の木道。
山上に桜満開。駒止めて空見る。山の桜
かな。それより海岸へ出、森村あり。蝦夷(えぞ)家交じり、
所々蝦夷見ゆ。男は髭を長くし、女は口の
ぐるり突きあざ致し候。海岸通り鯡(にしん)煮立て、油を
取り、右殻を海岸通り一面に干し立て、その臭気
強絶(きょうぜつ)、これには一同困り候。これより段々右の通り。
※ 強絶(きょうぜつ)➜ 他をはるかに超えて強い事。
鷲の木は家数七拾軒、蝦夷(えぞ)家も入り組み会う
処、大家(たいか)なり。至極よろしく、膳(ぜん)・器(うつわ)、もっともよし。
※ 大家(たいか)➜ 大きな家。りっぱな家屋。

  五月七日昼食、晴
      落し部
鷲の木より落し部まで、海岸通り。所々乱(みだ)る処
※ 落し部(おとしべ)➜ 現、二海郡八雲町落部。
なり。馬にてよし。同村人家七拾軒位、昼
食所よし。今年七部通りの漁という。川あり。
馬にて相渡る。歩行(ほこう)立ては舟にて渡る。

  七日泊、晴。八日逗留、晴
      ユヲ井(由追)
ヤムクシナイ(山越内)泊の処、仙台の人数、同処逗
※ 山越内(やまこしない)➜ かつてここに蝦夷と別ける関所があった。
留に付、ここに止宿(ししゅく)。人家四軒、至って悪し。鯡(にしん)
の匂い甚し。何しも、用いる人馬、差支えにて、一日
逗留。海岸なり。

(つづき)

読書:「下町やぶさか診療所 沖縄から来た娘」 池永陽 著
読書:「三つ巴 新酔いどれ小籐次 20」 佐伯泰英 著

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「田中氏道中記」を読む 3


裏の畑のアジサイ
早々と梅雨も明けて、アジサイの季節は終わってしまった

「田中氏道中記」の解読を続ける。

  五日泊、晴、暖
      大野
有川より大野まで二里、道よし。東西広

野あり。大野、家数弐百軒余、在る躰(てい)なり。
梨、李(すもも)など多し。この日、暖かにて、毛織縫い包(くる)
み脱ぐ、残念。この日、在々馬持ちの者ども、勝手に
乗り競う、所々にあり。大野にも銘々乗り居り。右
の処、只一騎、先駆け乘り込み、馬術の心なく
恥入り候えども、只管(ひたすら)走らせ、宿へ着く。追々、跡(あと)人数、
着の上、咄(はな)し合う。一同一笑致し候。

  六日昼、晴
      宿野辺
※ 宿野辺(しゅくのべ)➜ 現、茅部郡森町字駒ケ岳。
大野より四里、この間に峠二つあり。雨天なれ
ば上り道にて難処(なんしょ)。峠下に大沼、小沼あり。
海に続き、秋味(あきあじ)とれるよし。この節、鯡(にしん)の干物(ひもの)
※ 秋味(あきあじ)➜北海道や東北で、秋に産卵のため川をのぼってくるサケ。
も見ゆ。左右、木立原、高山あり。駒嶽(こまがだけ)、また

佐原嶽というよし昼処一軒家にて、大
※ 佐原嶽(さはらだけ)➜ 現在、駒ケ岳の三つのピーク、剣ヶ峯、砂原岳、隅田盛にその名が残る。
野より弁当持参の処、甚(はなは)麁茶(そちゃ)、ここ
※ 麁茶(そちゃ)➜ 粗茶。
にて豆腐汁あり。これにて支度
※ 支度(したく)➜ 食事をすること。

(つづく)

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「田中氏道中記」を読む 2


庭のグラジオラス
球根を御近所に分けて頂いたものらしく、
御近所に同じ色のグラジオラスをよく見る。

「田中氏道中記」の解読を続ける。

  五月三日泊、晴
      知内
知内出し抜けに川あり。舟にて渡る。広野
※ 出抜に川(だしぬけにかわ)➜ 現、知内川。「だしぬけ」は、突然であること。いきなり。
にて道はよし。野放し馬、所々群居(むれい)、折々
乗馬を追い来たる。心得べき事なり。河岸、風寒
し。木古内(きこない)村まで二里五丁。同村、家数八十
軒。ここより本馬(ほんま)軽尻(かるじり)の馬に別なく、一疋
※ 本馬(ほんま)➜ 江戸時代、幕府公用者や諸大名が一定の賃銭で使用できる宿駅の駄馬。その積荷量は軽尻の倍で、約四〇貫目であった。
壱里四拾文ずつ、よって本馬壱疋へは弐疋ずつ出す。

  四日昼食、晴
      泉澤
泉沢まで二里、虎杖(いたどり)多し。同村家数百

軒余、家並宜しき。これより膳(ぜん)・器(うつわ)など結構なり。毛織
縫い包(くる)み、共重(ともがさね)、外に綿入れ、三っ着。

  五月四日泊、晴寒し
      当別
※ 当別(とうべつ)➜ 現、北斗市当別。石狩郡当別町とは別。
泉沢より二里廿八丁、家数弐拾軒余。海岸
通り、風寒し。皆以って漁家なり。かすべばかり
※ かすべ ➜ 主にガンギエイ科の魚を指した方言。ガンギエイ科でなくとも、北海道ではエイ類をカスべと呼んでいる。
捕れ候由。

  五日昼食、晴
      有川

當別より有川まで三里弐拾八丁、山道よし。
※ 有川(ありかわ)➜ 現、北斗市中央。
野故(ゆえ)馬多し。この間に松前の台場あり。
※ 台場(だいば)➜ 要害の地に土・石で築いて、大砲の台をすえつけたもの。砲台。
家並みも當分。殊に節句に付粽(ちまき)を配り、子供
ら衣服相改め、遊び歩き行き候。箱館へ進み候。この節、
異国船弐艘参り居り候。遠見致し候所、曇り候
て相分らず、弐千石位の舟。

(つづく)

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「田中氏道中記」を読む 1


庭のネジバナ

今日から読む古文書は、題名は「田中卿道中記」としたが、まだ中を読んでいないので、「田中郷道中記」かもしれないし、今の所、よく分からないというのが実際である。読み進むうちに題名を改めなければならなくなるかもしれない。

どうやら北海道の松前からの道中記のようだ。田中卿といえば、明治の初めに活躍した政治家で、文部行政家の田中不二麿が思い出されるが、田中不二麿が北海道に行くいわれは今の所、見つからない。読み進める内に何か判って来るだろう。

(最後まで読んでみて、「田中卿」でも「田中郷」でもなく、「田中氏」だと判断した。以下出来るだけ「田中氏」に修正する。7月25日記。)

「田中氏道中記」を読み始めよう。

       田中氏道中記
           松前出立道中記、左の通り

  五月二日、泊宿、多分の雨後に晴れ
      福島
松前より吉岡村まで三里。この間、峠有り。

上り下り一里、峠下(した)に小村あり。この処より海
岸通りにて道よし。同村、家数八拾軒
の由、当分の村居にてこれ有り候。福島
※ 当分(とうぶん)➜ さしあたりのところ。

家数百五拾軒。この日、松前宿を
致す。昨夜まで雨降り候えども晴れる。松前町

※ 出足(しゅっそく)➜ 出発。
外れまで、北条はじめ御用達(ごようたし)のものども
見立(みた)
※ 見立(みたつ)➜ 見送る。

  三日昼食、晴
      一
福島より一の渡まで四里十八丁。一っ家にて

当分なり。昼食賄(まかな)い出る。この間、小川数多(あまた)にて
※ 当分(とうぶん)➜ 時分。昼食の頃合い。
歩行(かち)渡り故、馬なしのものは難義いた
し候。山道高低にて、雨天なれば余程の
難処(なんしょ)なり。この日、天気にて宜(よろ)しく、左右
立原(こだちはら)にて、熊多く居るよし。
一の渡より四里余り、この間、川あり。馬上にて越す。
知内(しりうち)峠まで一里余、左は木道、右は
山道なり。道はよし。ホウナウトは沢山。知内
村、家数五拾軒位在る躰(てい)なり。
※ ホウナウト ➜ とは何か、不明。

(つづく)

読書:「一周忌 新・知らぬが半兵衛手控帖 12」 藤井邦夫 著

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「文久元年記録帳」を読む 27


散歩道のアジサイ その6

真夏の暑さになって、梅雨明けも来週には発表されそうで、今年の夏は長く暑い夏になりそうである。

「文久元年記録帳」の解読を今日で終える。最後はメモのような内容で、意味がよく分からないところがある。

(以下メモらしきもの)

丑六月二日夜、与平サより承り申し候。
これは畳屋与平サ、内方名前覚え。
袋井川原町、山城屋与平頭様、
この内を頼み、かんの薬を買う事。
袋井丸屋と申す薬種屋あり。
かんの妙薬   山わき丸
たんどく妙薬  くつべとうげん様と申す、医者様にあり。

        講仲間
元治二丑五月八日、出会い改め割合、市場町五左衛門殿、諸勘定控え。
一 八貫七拾八文  半七 内壱貫六百文相済。
   下拙(げせつ)は惣勘定相済申し候。
一 八貫七十八文  寅吉
   この内金壱両也  百花にて入用申す。
   引きて、壱貫五百三十文不足。
一 八貫七十八文  小田
   この所へ金弐両、昨年冬出金致す。
   引き締め、四貫九百廿六文、返済に相成る。
一 八貫七十八文  宇七
   内壱貫四百三十六文 半左衛門殿、酒肴代。
   引き締め、六貫六百四十弐文不足。
一 八貫七十八文  音蔵
   内金弐分   去冬取込む。
   引きて、四貫七百七十八文不足。
一 金三両ト壱貫弐百文  横砂衆三人分。
   江戸に庄二郎様売込み。

   米廻文(まわしぶみ)写し
各々様、弥(いよいよ)御安康に御座成さるべく、珎重の
御義存じ奉り候。然れば、今日より、小売米引上げ、
何程(いかほど)売るまじく、御承知置き申し候。左の通り
御名前へ早々御廻し申すべく候。

                       久保半七

少し尻つぼみではあるが、以上で「文久元年記録帳」の解読を終える。

********************

午後、「駿遠の考古学と歴史」講座に出席した。

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「文久元年記録帳」を読む 26


庭のデュランタ・タカラヅカ

「文久元年記録帳」の解読を続ける。

一 先達て島田宿、元女様参り候に付、御頼み、松五郎見立仕り候。
私、運勢見立て候所、四十七才より開運仕り候様、申され候。
御礼、弐百文遣わす。
四日、倹飩(けんどん)屋直二郎殿方へ針医参り候に付、松五郎
見立、針弐本打つ。薬買う金、左の通り。
川共薬調散、四服、四日に呑む。一八味地黄丸、弐百文分、
壱巡り呑む。また針医見立、針打つ。
六月十五日、切山村三郎大夫様方にて、払いの物御座候に付、
この頼み、売り方仕り候。十九日帰宅致し候。礼金三分、取り納め仕り候。
七月廿六日、市場町次郎吉殿母、死去致す。香奠
金壱分遣わす。行年八十六歳。九月朔日、三軒家惣藏、死去致す。
香奠金壱朱遣わす。行年廿六歳。

この後、終りに掛けてメモのようなものが続き、意味も不明な部分が多くなる。

九月十五日、改米小売壱升に付、六百文売り。(壱両)、銭七貫文相場。
壱升に付、十八文上げ。廿五日引下げ、六百文売り。
十月二日、梅太夫にて、蛭子(えびす)講五百九十文入用。
白米分小売壱升、五百弐(拾)四文定め。
米売り十(月)切り、五俵壱斗三升弐合、そのや同十俵三升、
同十俵三升、締め廿五俵。十一(月)切り、山太(屋号)五俵弐升三合、
金千(屋号)十俵弐升弐合、丸三(屋号)十俵壱合弐合。
正月切り、十俵壱斗壱升弐合山太(屋号)、十俵壱斗三合同人。
蛭子(えびす)講、十(月)切り取、十一(月)切り。

十一月廿三日濱の家息子、縁談取極め御伝え下さる。伊三郎忰、喜代蔵
廿三才、世話人寿脇様、中人(なこうど)円七様。

(つづく)

********************

午後、駿河古文書会に出席した。今日はAさんの発表当番であった。しばらく御目に掛からなかったが、体調やコロナの関係で出席出来なかったと話された。先輩方が高齢で、出席出来されなられる中で、今後も何とか出席を続けてほしいと思った。

読書:「消えた女 同心亀無剣之介 2」 風野真知雄 著

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「文久元年記録帳」を読む 25


庭のアガパンサス(紫君子蘭)

「文久元年記録帳」の解読を続ける。

慶応二年正月廿六日、米小売引上げ、壱升代三百三十六文、
蔵米壱升三百四十四文、銭相場(一両)六貫七百文。
(欄外に)二月十六日、定右衛門殿伯母、死去仕り候。
     香奠弐朱を遣わす。行年九十二才。
五月十一日より売り始め、米追々高直に相成り、小売壱升六百十六売り。
金拾両に付、米弐俵六、七分位に御座候。もっとも福岡の内、
見元宜しき方にて、米買い込み置き、船頭平三郎殿方にて会所に致し、毎日
町役人壱人、商人壱人ずつ出張致し、困窮人へは
壱升に付廿四文安に売り申し候。(五百八十八文)もっとも壱人に付三合ずつ
より多分には売り申さず候。誠に近来稀れなる直段と心得、
印し置く。見元の方、新左衛門、利七、重吉、十右衛門、
松兵衛、太郎兵衛、新兵衛、喜八、七五郎、仙二郎、
忠蔵、久三郎、惣五郎、万二郎、重兵衛、藤五郎、升右衛門。
(欄外に)二月十八日、波津源右衛門、死去致す。
     香奠金弐朱遣わす。行年‥‥

一 五月十四日米廻状、壱升に付三十二文下げ、五百八拾文小売り。
一 六月四日米廻状、壱升に付三十二文下げ、五百五拾文小売り。
また廿四文下り五百廿四文売り。
一 前に印す所の町内見元の方にて、安米の儀までに、下落に致し候に付、
八町へ割付けに相成り候。私ども町内、壱軒に付米四升五合ずつ
買い取り、壱升代六百十六文なり。締め弐貫七百七十弐文、この内
壱貫三百文、当番与左衛門殿へ相渡し、引きて壱貫四百七十弐文、
先年越し置き申し候。町内無尽金、差し継ぎに相成る。
※ 無尽(むじん)➜ 日本の金融の一形態。毎回参加した全会員が一定額を拠出し、その回の参加者の一人がその全資金を受領することを繰り返す。各会員は全期間の内の一回は必ず資金を受領することで、会員間の公平性を担保している。

(つづく)

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「文久元年記録帳」を読む 24


散歩道のアジサイ その五

「文久元年記録帳」の解読を続ける。

七月二日、慶才様見立、薬三丁。五日佐倉村医者見立、薬五服。
六日泰山様見立、薬三丁、粉薬弐服。九日佐倉医者見立、薬七服。
十日泰山様、粉薬三服。おとく(え)り、薬弐服。
袋井にて、疳(かん)の薬金弐朱買う。十三日大きに悪く、泰山様、
京才様立ち合いに、見立。十五日京才様見立。泰山様見立。
十八日慶才様見立。廿二日京才様、泰山様見立。
廿四日泰山様見立。八月三日袋井、疳(かん)の薬金弐朱なり。

古来稀なる米穀高直(こうじき)に付、大原良助、幸助、秋家、締め三軒、
秋米せり買い致し候、風聞の由にて、三日夜、前浜、市場、福島、
締め三町、小前一同にて打(ぶ)ち壊し致し候なるとも、表向きには相成り
申さず、下方(したかた)示談にて、事相済み申し候。
同六日明方、小売米御座なく候に付、私町内にても、西尾様
にて新米弐俵借用、金上(屋号)様にて、古米三俵借用。
壱軒分割り米、新五升七合三夕、古米六升。もっとも相場
の儀は、古米壱升代、弐百六十文、新米弐百文位の由。

八月廿七日、問屋衆代にて、佐倉、池新田、来稲問屋まで廻り
登り、荷物目切用意や運賃増、船中心付(こころづけ)など、願い申し候所、早速
※ 目切(めぎれ)➜ 目方が切れること。重さが不足すること。
聞き済ましに相成り申し候。晦日、ねぶと出来、慶才様切る。膏薬
弐具。同夕方、新兵衛様死去致す。九月五日まで者つと弐人にて手伝い。
香奠弐百文遣わす。

(つづく)

読書:「子授け銀杏 照れ降れ長屋風聞帖 6」 坂岡真 著

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「文久元年記録帳」を読む 23


散歩道のスケトシア

「文久元年記録帳」の解読を続ける。

廿四日泰山様見立、小便下し粉薬少し。晩方京才様見立。
廿五日慶才様見立。晩方泰山様見立、薬三丁。薬弐丁。
廿六日慶才様見立、丸薬少し。薬三丁。京才様見立、
セメンヱン少し。廿八日薬三丁、泰山様見立。
京才様見立、おたけ薬三丁。廿九日京才様見立。
泰山様見立、薬分三丁、おせき薬三丁、おたけ薬弐丁。
晦日泰山様見立。六月朔日京才様見立。二日泰山見立、
薬おたけ弐丁、薬三丁。磯市先達て松五郎療治致す。
又六月朔日おせき療治。二日療治松五郎も少し。
三日京才様見立。四日薬三丁、泰山様見立。
六日京才様見立。七日泰山様見立。八日薬三丁、
おたけ粉薬少し。九日京才様見立。
十日泰山様見立、薬三丁、粉薬少し。十二日泰山見立。
同須々木奥山様見立、薬三丁、松薬三丁。十三日京才様見立。

本所村巫女を寄せ、祈祷料金、弐朱と弐百文義に、白米壱升遣わす。
十五日泰山様見立、薬三丁。十七日薬三丁。奥山様見立。
磯市見立、金壱朱なり。八木平にて、虫薬買う。また百文かその薬。
十八日泰山様見立。京才様見立。市場町、十九日薬三丁、
丸薬少し、泰山様見立。米小売引上げ。壱升代三百十弐文。
蔵米壱升代、三百廿文。白米壱升代、三百四十四文売り。
かもや市三郎船台下ろし手伝い。廿日慶才様見立、
松薬三服。廿二日泰山様見立。菅ヶ谷佐門、廿一日にて、
おたけ祈祷致し、御礼金三朱遣わす。また金壱朱、ミサキ久左衛門様
にて、粒用丹壱服買う。また廿二日壱服買う。廿三日慶才様見立、丸薬
少し。京才様見立。廿五日見立慶才様。廿五日朝五っ半時分、おたけ
死去致す。廿八日泰山様見立。廿九日慶才様見立。

(つづく)

おたけは自分の娘なのだろうか。次々に何人もの医者の見立と薬を求めて、治療に努めた。最後には神頼みまでしたけれども、甲斐なく亡くなってしまった。筆者の半七さんはただ事実を述べるだけで、悲しみをあらわにすることは全くない。

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