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「駿河安蘇備 上」を読む 57

駿府浅間社の挿絵(駿河安蘇備より)

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

太田道灌入道、和歌
  志川者多能 山もうこ可ぬ 君可代尓
    なひく奈古や乃 森乃下可勢
(解読)賎機の 山も動かぬ 君が代に
      なびく名古屋の 森の下風

西三条大納言實隆卿、当社へ願書捧(ささげ)らる、和歌
  鶯能 千里をしむる 声乃うち尓
    世を阿ら玉乃 春盤志累ゝも
(解読)うぐいすの 千里惜しむる 声(ね)のうちに
      世を荒玉(あらたま)の 春は知るゝも

  婦りそふ累 残るも王可須 甲斐可祢(かいがね)
    春尓もま介ぬ 雪乃色可南
※ 甲斐が嶺(かいがね)➜ 甲斐にある高山。赤石山脈の主峰、白根山のこと。
(解読)降り添うる 残るも分かず 甲斐が嶺の
      春にも負けぬ 雪の色かな

  春きことに ミ多禮ぬ糸乃 青柳ハ
      なびく尓四方乃 風や見春ら舞
※ 好き事(すきごと)➜ 物好き。色恋沙汰。
※ 四方(よも)➜ 東西南北、また、前後左右の四つの方向。
(解読)好きごとに 乱れぬ糸の 青柳(あおやぎ)は
      靡くに四方(よも)の 風や見ずらん

慶長十二丁未年二月中旬 近衛(このえ)関白信尹公、奉納
    浅間、未開乃糸さく良(桜)を、
  若糸能 朶屋志川゛者多 山姫乃
    さくら衣尓 織出春遍し
(解読)若糸の 朶(えだ)や賎機 山姫の
      桜衣に 織り出だすべし
(つづく)

読書:「魔性の剣」 鈴木英治 著
読書:「赤い珊瑚玉 日暮左近事件控 7」 藤井邦夫 著
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「富士野巻狩」招集の書状

「富士野巻狩」招集の書状

昨日、金谷宿大学の「古文書に親しむ」の2講座を終えて、夕方、Nさんが見えて、歴史講座のS先生から、お寺関連の古文書を借りたからと、届けて下さった。沢山の古文書とは別に、表装した古書状の写真が添えられていた。夜、S先生と電話でお話したところ、富士野巻き狩り関連の書状の様だという。ともあれ、解読してみた。

(解読)
抑被仰下處冨士野
御狩御供事遠國御家人者不
及申、近國之侍等於不打立輩者
難遁其科来五月十三日
辰始、可令馳向横澤邊候、存
此趣、半也。可被申觸候。仍状
             如件
         平義證(三浦義證)
  卯月十二日
    梶原平三(梶原景時)殿
(読み下し)
(そもそも)、富士野御狩り御供の事仰せ下される処、
遠国御家人は申すに及ばず、近国の侍など、打ち立てざる
※ 打ち立つ(うちたつ)➜ 出発する。 出かける。
(やから)においては、その科(とが)(のが)れ難し。
来五月十三日辰の始め、この趣を存じ、
横沢辺へ馳せ向かわしむべく候わんなり。
申し觸れらるべく候。仍って状、くだんの如し。
               平義證(三浦義證)
  卯月十二日
   梶原平三(梶原景時)殿

解読にあたって色々な疑問がわいてきた。第一、富士野巻き狩りの知識がほとんどない。巻き狩りが「すわ鎌倉」の御家人たちを絡めた大予行演習だったことは、よく分かる。解読では、語順を変えないと理解できない部分もあった。「横沢」は「藍沢」ではないのか。富士野巻き狩りは1193年のことで、今から800年前の話。この書状は果たして本物なのか。それにしてはきれいすぎる。後世の写しなのかもしれない、等々。

読書:「女がさむらい 4 最後の鑑定」 風野真知雄 著
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「駿河安蘇備 上」を読む 56

散歩道のブロッコリーの花
花芽を食べるブロッコリー、花を咲かせれば、結構きれい
この写真は寒さの前に撮ったもの
今は枯れてしまっただろう
庭のコブシの花もこの寒さで全滅した
もっとも次のつぼみも出番を待っている

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

富士大縁記 志津機(いずはた)の浅間社、拷幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)は、本社の相殿に
坐して、浅間社は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)にて、延喜の帝(みかど)の勅によって、
※ 延喜の帝(えんぎのみかど)➜ 第六十代、醍醐天皇。
富士本宮よりこれを遷し、斎(さい)奉るとなり、云々。
※ 斎(さい)➜ 祭事を行う。

摩利支天社 尊像、御金印(竪一寸八分、横一寸二分)浅間社内にあり。

東照大神 常に御清所におかせられ、御尊敬遊ばされし
尊像なり。御霊夢の御告げありて、御出陣の時、必ず
御身に添えさせられ、御利運の後、浅間社一同、堂宇御建立の御願い、既に
御成就ありて、天正年中、御造営、その後、寛永年御造営、その後、追々
御再建あり。今なお、年々御修繕あり。御本社、幣殿、拝殿、三階、舞臺、
廻廊、名古屋、摩利支天社、その外末社夥しく、額堂、神供所、とり/\
彫物、彩色、良匠手を尽し、荘厳目を驚かし、かゝる大社は日光の
御山の外にはあらじとぞ。すでに、貝原翁の紀行にも云えり。また
※ 貝原翁(かいばらおう)➜ 貝原益軒。江戸前期の儒学者・本草学者。薬学を学び、朱子学を奉じた。教育・歴史・経済の面にも功績が多い。
年中の祭事多く、なかんづく、二月廿日を廿日会という。建穂寺より
児衆僧来たりて、当社舞台において、児の舞あり。又、駿府
市中より、花(華)々しき踟(ねり)ものを出し、踊臺なども出て、いと賑わし。
されば、近国遠郷のものも、見物に来るもの夥し。

神領弐千六百余石  四百七十一石三斗四升  浅間神主  新宮将監
          二百石五斗四升     総社神主  総社大蔵
                            社人数人なり
(つづく)

読書:「雪に撃つ」 佐々木譲 著
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「駿河安蘇備 上」を読む 55

庭のビオラは花盛り(昨日)だが
この寒さでどうなってしまったか
あまりの寒さに外へ出る気にもならない

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

思津機(しずはた) 風土記 志豆機山或いは思豆機山、或いは賤波多山、
また青葉岡と号す。山上憶良が短歌在り。
  駿河路の 青葉の岡に 身忘れば
    袖は千入(ちしお)に 成りもこそすれ  云々
※ 千入(ちしお)➜ 何度も染料に浸して染めること。
浅間社 同記 志津機(しずはた)の神社、日本尊(やまとたけるのみこと)東方蝦夷を征するの時、野火に遭い、
この山に屯し、その労阨を避く。尊(みこと)深志(しんし)、専ら、倭姫の命神教守る。(神教、「世記」に見える。)
※ 労阨(ろうやく)➜ つかれ苦しむこと。
※ 深志(しんし)➜ 深い志。
※ 倭姫の命(やまとひめのみこと)➜ 垂仁天皇の皇女。天照大神の社を、伊勢の五十鈴川のほとりに建てたと伝えられる。また、日本武尊の東征の際、草薙剣を授けて難を救ったという。
※ 新教(しんきょう)➜ 神の教え。
これに依って、拷幡千々姫を以って、この山に祭る。これに合わせて、稚日女の尊を以ってす。
※ 拷幡千々姫(たくはたちぢひめ)➜ 日本神話に登場する女神。
※ 稚日女ノ尊(わかひるめのみこと)➜ 天照大神に仕える機織の女神。
(天照大神、深理あり。心を潜みて、宜しくこれを弁ずべし。)
※ 深理(しんり)➜ 根本的な道理。深い道理。真理。
志津機の名はもと女功、両神の名とその功賞とに依りて、これを号(なづ)くなり。
※ 女功(じょこう)➜ 女性の手仕事。 機織り・裁縫など。
(ふもと)、山の神社、志津機の神社を去ること五十歩、誉田天皇五年甲午冬
十一月、大山袛の命と日本尊とを祭る所なり。これ則ち、祝部氏祐忌寸之
夢ノ託也、云々。
※ 祝部(はふりべ)➜ 古代の下級神職。「はふり」は罪穢(けがれ)を放(はふ)る意。
※ 忌寸(いみき)➜ 古代の姓の一種。六八四年天武天皇が制定した八色の姓の第四位。
※ 託(たく)➜ 神仏のお告げ。
(つづく)

読書:「御暇 交代寄合伊那衆異聞 9」 佐伯泰英 著
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「駿河安蘇備 上」を読む 54

庭のコブシが何輪か咲いた
少し暖かくなって慌てて咲いたようで
今日、明日の大寒波は予測出来なかったようだ
この寒さをどうやり過ごすのだろう

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。 

「御城」の項のつづき
その後、建武三年より、尊氏の氏族、今川
上総介範国領して、安倍郡府中に居して、十代を暦(へ)て、
永禄十一年まで、凡そ二百三十余年にして、氏真の時に亡びたり。
武田家、駿河を侵する時、地焼きして、今川の舘を初め、
神社仏閣一宇も残らず焼き払いたる故に、この国の旧記、
旧跡、残りなく焦(や)き去りて、今川家の時代のこと知るべき便り
なし。天正十年、武田家滅亡の後、同十四年、新城築かせ給い、
同年九月十一日、経営なりて、浜松より移らせ給う。編年集成 或いは
※ 経営(けいえい)➜ なわを張り、土台をすえて建物をつくること。縄張りして普請すること。
この御城の再び成りたる初めなり。同十八年八月、中村式部少輔一氏の
居城となる事、十一年なり。慶長六年二月、御譜代家、内藤三左衛門
信成に給う。内藤氏ここに居すること六年なり。同十一年四月、内藤氏、
近江国長浜の城を賜りて、御城に御座なされ、その年十一月
より事始めありて、同十二年七月三日、御城経営成りて、御移徙(わたまし)
※ 移徙(わたまし)➜ 貴人の転居。
あらせらる。(当御城、古えの城とは御場所転じという)
同年十二月廿二日、御奥の局の物置所へ、
手燭の火、張付へ移り、御殿残らず焼けたりとぞ。同十三年正月に
※ 張付(はりつけ)➜ 紙または布を貼りつけた戸、または壁。
御造作事始めありて、三月十一日新殿に移徙(わたまし)あらせらる。惣て瓦
をもって葺き、御座の間は銅瓦にて白蝋(漆喰?)を以って塗り、七重の天守を
作らせ給う。その後、遠江宰相殿、御居城まします事十一年、元和五年
※ 遠江宰相(とおとうみさいしょう)➜徳川頼宣。紀伊和歌山藩の初代藩主。
紀伊国へ移らせられ、中将忠長卿、寛永二年、移らせ賜い、同九年、
高崎へ移らせたまう、同十年より、御番城となる。同十二年十一月晦日、
茶町二町目より出火して、御殿、天守、御櫓等炎上、残る所、竪石
御門、冠木御門のみなり。その後、寛永十五年、御造営成る。当御殿
これなり。
(つづく)

読書:「女がさむらい 3 置きざり国広」 風野真知雄 著
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「駿河安蘇備 上」を読む 53

散歩道の紅梅(1月17日撮影)

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。今日より安倍郡の項に入る。

安倍郡
御城 清水旧記 的應山正王城と号す、云々。
東一御加番、西二御加番、北三御加番、大手御門前に町奉行御役所
あり。並びて御目附小屋あり。

  【上欄外の記事】
  御城御殿
   改事録
    慶長十六年辛亥十月朔(ついたち)、快晴。例の如く、諸士出仕
    前殿造り替え漸く出来、云々。
    同六日、画工狩野を召し、大内図並び日本大社図新造なり。
    前殿これを益(ま)すべく仰せ出され、画工と舟橋相談すべし、云々。
    舟橋式部少輔秀賢なり。
※ 舟橋式部少輔秀賢 ➜ 安土桃山・江戸前期の公家。家康昵懇の公家衆二十二人の一人。

今の御城は、慶長十二年三月、五畿内、丹波、備中、近江、伊勢、美濃
※ 五畿内(ごきない)➜ 大和、山城、和泉、河内、摂津の五か国。
十ヶ国の役として、知行五百石に夫一人を出さしめて、築きたる
所なり。この地、城を築きし年暦、定(さだ)かならず。俚言多田満仲
※ 俚言(りげん)➜ 俗間に用いられる言葉。里人の言葉。
※ 多田満仲(ただみつなか)➜ 源満仲。平安時代中期の武将。清和源氏、六孫王経基の嫡男。多田源氏の祖。
初めてここに築き、その子孫を住せしむと云うは、
前太平記二十三巻 六孫王経基の二男、武蔵守満政が曽孫、駿河守
定宗が子にて、駿河国に父の遺領、相続して住みける、云々、
あるを、誤り云えるにや。
(つづく)

読書:「奥義花影 ひなげし雨竜剣 4」 坂岡真 著
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「駿河安蘇備 上」を読む 52

大井川鉄道門出駅の緑の郵便ポスト
緑は茶処島田のお茶の緑だという
島田市役所前にも同じ色のポストがあるという
もちろん郵便ポストとしても使える

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

姥ヶ池 同所 古えは広き池なりしが、田と成りて僅か残れり。小児
の咳を祈るに、験(しるし)ありとぞ。昔、小児池に落ちて死す。乳母も
また殉(したが)い、死したりという。一説には、文禄年中、亀氏なるもの
の妻、嫉妬深くこの池に身を投じという。
入江町 有度郡の堺なり。江尻の内なり。
曽我勲功記 入江右馬允(うまのじょう)維清は、伊藤の先祖、駿河守維景が甥にて、云々。
太平記 足利直義、鎌倉を落ちて、上洛の時、駿河国入江荘は
海道第一の難所なりと、士卒皆な危く思い、入江左衛門春倫が
(もと)に使い立てければ、入江荘は本徳宗領を朝恩に給いし地なれば
※ 徳宗領(とくそうりょう)➜ 鎌倉幕府の執権北条氏嫡流の代々の当主が、世襲により受け継いだ所領。
※ 朝恩(ちょうおん)➜ 朝廷から受ける恩。 
とて、春倫迎えに参る、云々。
巴川児(ちご) 官道に掛けれり。巴川水源、浅畑沼、横内川、古庄川、沼上
川、瀬名川、吉田川、追分川等、落ち合い、巴川と唱う。清水湊へ落つるなり。
この橋、東は庵原郡、西は有度郡にて、境とす。
(以上で有度郡の項は終わる。次いで、安倍郡の項につづく) 

読書:「怨鬼の剣」 鈴木英治 著
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「駿河安蘇備 上」を読む 51

散歩の途中、国一の消音フェンスに掛かるツルウメモドキ
暮れに、ご近所からリースにしたツルウメモドキを頂いた
ツルウメモドキはこんな所に生えている

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

頸塚の森 同所 夷賊の頭を埋めし所という。その余、旧跡多し。
一里塚 同村にあり。江尻駅へ一里あり。南長沼へ一里あり。草薙社の
鳥居、ここ官道に立てり。
御茶屋跡 同所 釜の段という所にあり。御上洛の時の御茶屋
跡という。松並木の内にあり。
谷田 草薙の梺(ふもと)にあり。風土記 草薙山或いは矢田山、云々。
七々新屋 同記 新居、云々。和名抄 新居、云々。
北脇 巴川の辺りなり。今川軍記 北脇の城主、北脇善十郎光定と
あり。いま大門という所、城門の跡という。
渋川 同所 東鑑に梶原を討ちし人なり。
曽我物語 渋川中務丞兼貞。その子、渋川次郎朝貞、云々。
元追分 官道江尻駅の西、松並木あり。
(つづく)
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「駿河安蘇備 上」を読む 50

大井川鉄道門出駅のSL展示

門出駅の合格祈願の硬券きっぷ型の絵馬

午後、天気は好いが、風が寒い中、セーター一枚増やし、マフラー、手袋の重装備で、女房と散歩に出る。最短距離で門出へ歩く。門出駅では展示のSL前に、硬券きっぷ型の絵馬がたくさんつるされていた。そういえば、受験シーズンがもう始まっている。帰りは竹下通りを通って帰る。かっては商店街だったが、今ではシャッター街ですらない。

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「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

堀込 吉川の隣りなり 慶長十八年丑七月、安倍郡上土村より庵原郡
江尻宿まで、巴川の岸を掘らせられ、舟の通いよろしくなし給う。
(より)て、堀込というなり。
清水旧記 同年(慶長十九年)六月十五日、清水三ッ山より御召関船にて吉川
※ 御召関舩(おめしせきぶね)➜ 御座船。江戸時代、将軍や大名などの乗る豪華な船。
の川上、矢崎と申す所まで登らせられ、ここより御船召し替え、巴川を下り、
並木へ入らせられ、御帰りには角田川の下、旗打川へ御召船を入れて、
それより三保貝嶋御殿へ御入り、云々、見えたり。

草薙神社 草薙村官道より八町入るなり。社領五十石 神職 森隼人
祭神日本尊(やまとたける) 別社浅間社 その外末社多く、式内の一社なり。
風土記 草薙神社 天照大神を祭る所の地なり、云々。
【上欄外の記事】
   古風土記
     草薙山、矢田山━、云々。
     矢部村、矢部渡━、云々。
類聚国史 清和天皇貞観元年己卯正月二十六日、駿河国烏度郡、
草薙神社、従二位を授く、云々。
社地、東西二十四間、南北二十間、石坂二十二階。惣境内 東西二十八、九町、
南北三十五、六町の大社なり。神木の楠、周回十三間余、枝葉繁茂す。
天皇原は、景行天皇五十三年癸亥九月二十日 天皇東国行幸に
皇輿を停め給う所という。小祠を立つ。また天正年間、御祈祷のこと
あらせられ、同十七年五月より、鈴木太郎左衛門尉、同惣七郎、奉行して、
本社、幣殿、拝殿、楼門、舞台、宝蔵、神供所、下馬、鳥居、末社等まで、
造営せしめらる。本社向躰の彫物、御好くありて、高砂の尉(じょう)と姥(うば)
彫りしめ賜う。棟札いまに蔵す。同所にて、
  〇草薙の 草なびきてぞ 見え似てる
     直ぐなる御代の 道たどるまで      可安
※ 直ぐなる(すぐなる)➜ まっすぐなる。
(つづく)

読書:「鷹の系譜」 堂場瞬一 著
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「駿河安蘇備 上」を読む 49

今日の夕焼け

午後、文学講座で、掛川中央図書館に行く。和久田先生に「面白古文書12月(R4)」を進呈した。 

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「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

古駅道 清水旧記 高橋、船越を通りしという。吉川、高橋、船越、
各々武家の住む名所なるが、吉川、高橋は今なお、人家、村落あれども、
船越は名のみ、村落なし。よって、その地不分明、昔年(せきねん)の駅路、船越は
能嶋より瀬名川の間にあり。則ち、高橋の綴(つづ)きなり。これ往古駅路なり
し所なり。また別府、殿沢、駒越、三ヶ村は昔年は一所なり。大永年中(1521~1528)まで、
三ヶ村、入り海にてありしを船渡しして通る。これを殿沢の渡しという。
ここより船渡しにて駒越へ越したる故に、ここをもまた船越と
(あざな)したるなり。武田信玄、永禄、元亀の頃、久能山も観音の衆徒
※ 衆徒(しゅと)➜ 平安時代以後、諸大寺に止宿していた多くの僧。のちには僧兵をもいう。
討つ時、江尻小芝の城にて勢(ぜい)を揃え、小芝城の水門より船に乗り、
七日市場へ差して、南小路より光明寺の門前通り、南矢部へ越え、
妙音寺より殿沢の渡しを越え、蔵村へ出て、久能山へ取り詰めると
なり。信玄、久能山へ攻め登るは三度なり。別府、殿沢は村名にして、
駒越は小地名なるべし。昔年の船越し退転したるは、駒越、殿沢
※ 退轉(たいてん)➜ しだいに衰えること。しだいになくなること。
の辺りを埋め、田地にし、村松、三沢、鴨村より駒越村へ二、三町ばかり
なる封彊(どて)を築き、橋をかけ、久能海道となしたるは、元和二丙辰年(1616)
※ 封彊(ほうきょう)➜ くにざかい。国境。ここでは、境の土手。
なりという。
 (つづく)
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