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我が家の台所製茶場

       (100gの生葉から写真のお茶が出来る-当家台所製茶場にて)

女房が友達の自園自製のお茶屋さんに手伝いに行って、自宅でできる製茶方法を教わってきた。電子レンジを使う手揉み茶である。今朝、裏の畑で手摘みした。裏の畑には少しばかりお茶が植えてある。品種は「金谷みどり」、やぶきたに比べると芽の成長がやや遅い。今はお茶の製造には回していないが、刈り揃えてある。もちろん無農薬、その上、無肥料でもある。

1回あたりの生葉の量、約100gと聞いて、手摘みの目標とした。まだ芽が小さいがようやく100gほどになったころ、女房がムサシの散歩から戻ってきて、3回転ぐらいさせるので300gほしいと言い、二人であと200g摘んだ。

台所で生葉を100gづつ量って、カレー皿程の大きさの平皿に山盛りに載せて、3皿準備する。電子レンジに一皿入れて「強」で2分間、チンする。取り出すと山盛りになっていた新芽がしんなりとお皿にへばり付いた。すぐでは熱いので、お茶をひっくり返してお茶を冷し、さわれるまで冷めたら、握ったり揉んだりほぐしたりする。この間に次のお皿を2分チンする。

3皿をこの要領で行ったら、2度目のチンをするが、この後の電子レンジは「強」で1分で良い。やはりほぐして冷しながら、棒状に丸めるように揉んでほぐすことを繰り返す。このときに粘った茶葉が手にくっつく。遠くからドライヤーで熱風を送りながら揉むと手にくっつかない。ドライヤーを使うのは当家で編み出したオリジナルである。

ドライヤーで熱風を送りながら、葉の中の水分を揉み出してはほぐす。そして、電子レンジでチンをすることを、8回から10回繰り返すと水分が無くなり出来上がる。お茶を掴んで湿り気を感じるようなら感じなくなるまでチンする。

さてこうして、家の中は新茶の香りで一杯になり、1時間ほどで300gの生葉から70gのお茶が出来た。やや黒いお茶で、針のようにとはいかないが、丸まって釜炒りのお茶に近い。

このお茶をマイリーフカップに入れてみた。熱湯でも苦くなく、カップの中でお茶の葉がもとに戻って来る。このお茶はカップに最適なお茶だ。3煎ぐらいは十分美味しくいただける。生葉が最低100gほど手に入れば作ってみると面白い。
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全共闘世代の行く末

              (アカメモチの花 人生こんな赤い時もあった)

自分の学生時代は70年安保闘争の真っ只中で、大学では大学紛争で講義もおろそかであった。同級生に全学連、全共闘で活動した人も何人かいる。

小学校から中学校で連れであったS氏は、後年、会って聞いたところ主夫をやっているといった。奥さんが田舎の学校の先生で、家族で田舎に引っ込み、村社会になじんで農業をやりながら、子育てを含めて家事全般をやっているという。その話を聞いたとき、新しい生き方もあるもんだと認識を改めたことがあった。

最近になって、S氏は全共闘のあるセクトに所属し学生運動をやっていて、警察か、対立するセクトかに追われて逃げ回っていたと聞いた。故郷の小学校の恩師の家にも、一週間ほど匿ってもらったことがあるという。そんな状態でどこへ勤めることも出来ず、主夫業に甘んじていたらしい。ようやく最近の同窓会に奥さん同伴で出席し、そんな話を自ら語って、恩師に奥さんを紹介するとともに、往時のお礼を述べていた。

うまく立ち回った人たちは、学生運動で対立した体制側にいつの間にか入り込んで、平気な顔をしている人もいるが、S氏は体制側に組することを良しとしなかった。還暦を迎える今となって、ようやくそんな気持になったのであろう。校長先生をしていた父親が、兄のところには冬だけいて、春から秋まではS氏の家に滞在しているのだという。何しろS氏のところには、雪に埋まる冬場を除いて、農業や家事といった仕事が幾らでもあるから、親父には生き甲斐があるのだろうと話した。

ようやくこの歳になってS氏の周辺には安らかな生活が訪れているようである。

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ある厚生年金基金の現実

               (新茶の芽吹き-本日夕方-島田市切山)

T厚生年金基金の理事をしていて、昨日、理事会に出席した。理事に選出された当初、バブルがはじけて、資金の運用がマイナスに陥り、3年で資金の30%70億円を失い、基金存続の危機に直面していた。これは当基金だけではなく、全国にあるほとんどの基金で直面していた問題であった。理事会の話題もマイナス志向の話が多くて、大変な所に入ってきたというのが実感であった。基金を解散して国に返上するにも、構成企業が空いた穴を埋めなくてはならない。引くに引けない出口無しの状況であった。

厚生年金基金は民間企業が団体を作り、国が実施している厚生年金制度の一部を受託し、各企業とその従業員から集めたお金を運用することで、構成員に対する年金給付を上乗せしたり、料率を政府管掌より低くしたりするメリットを得ようとする制度である。国としては運用のリスクを民間に振ってしまうことが出来る。基金存続の前提になるのは資金運用が順調に行われることである。それまでは順調に運用出来ていたのだが、この3年間の運用マイナスは当時とうてい埋めることが不可能と思われていた。

その後、T厚生年金基金では理事長さんを先頭に、リストラに取り掛かった。数少ない事務員の人員削減から、給料の減額、経費の徹底的な見直し、さらに上乗せ部分の給付の減額、料率の改定など打てる手はすべて打った。事務と運用の担当常務理事は役所から来た人であるが、理事の面々はそれぞれの企業で厳しい対応をしてきた人達である。運用は弱気になって安定志向に入らずに、強気の運用をやった。あれから4年、運用は順調な回復を示し、この決算期では21%、43億円の運用益を出して、資金残高も基金が始まって以来の最高値を記録した。

77歳の理事長は意気盛んで、何とか構成企業にお願いしている特別掛け金を0にし、減額を余儀なくさせられた上乗せ支給額を元へ戻したいというのが悲願である。理事長さんはまだまだ元気だが、最近8人の理事のうち、一人が亡くなり、一人が病気で倒れて所属企業を退職された。この日の理事会も出席者が5人で、理事を補充しなければ、それこそ基金存立の危機になる。
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故郷に住む(計画)

             (昭和30年代の故郷、豊岡市市街地の航空写真)

「あれから40年」というのは漫談の綾小路きみまろの決め台詞であるが、思い返してみれば、「故郷(くに)を出てから40年」という台詞が自分にも使える。高校を卒業して故郷を後にしてから、うかうかと40年の月日が経ってしまった。

故郷を出るとき、故郷にまつわるすべてのものに決別する覚悟があったわけではない。故郷には進学や仕事の場所がなかった。高校を卒業するとほとんどの若者は京阪神と一括りにいわれる地域へ出て行く。だから京阪神に出ていれば、故郷の交友関係を保つことは、かなりの程度可能である。しかし静岡という、故郷から見れば誰も行かないとんでもない町に来てしまった。故郷の交友関係はぷっつりと切れた。

それから40年、故郷に帰れば今浦島であろうけれども、60歳を目前にして、無性に故郷に帰りたくなっている。出来れば一年、春夏秋冬を故郷で過ごしてみたい。そんな話を女房にすると、今は付いて行くと言ってくれている。ただ女房はここが故郷だから、一年といえども、ここを離れることが出来るか疑問である。自分には転勤がなかったから、女房はこの町を離れたことがない。

自分のシミュレーションでは、一年間の約束で小さな一軒家を借りる。お天気が良ければ町へ出る、ドライブで遠出する、街道を歩く、山へ登る。お天気が崩れたら、図書館で郷土史を調べる、読書をする、友人に会う。そして故郷の懐かしい食べ物を食べる。地酒を飲むと言いたいところだが、下戸の自分には関係のない言葉である。

わが故郷の四季は、春は黄塵、夏は猛暑、秋は川霧、冬は降雪と、厳しい気候が続き、太平洋側に比べるとお天気の日は極端に少ない。決して住みよい場所ではない。
静岡と比べると真逆な気候風土である。

暮らし難さはあるが、子供の目でしか見ていない故郷を、大人になった今の目で見直してみたい。何が見えてくるのか、わくわくするような気持がある。実現は2、3年後であろうか。
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街道てくてく旅

                  (NHK BS 街道てくてく旅より)

最近NHKで「街道てくてく旅」という番組をやっている。サッカーの元日本代表、岩本輝雄さんが毎日一宿づつ、東海道五十三次を歩くという番組である。昨年、一昨年と俳優の関口知宏さんが行った鉄道の旅の、3匹目のドジョウであろう。

朝BSハイビジョンで生中継しているものだが、夜7時45分からのBS再放送を夫婦で見ている。女房の話では最初はぎこちなくて面白くなかったが、最近は岩本さんも慣れてきて面白くなったという。旧東海道を歩いたことがあるので懐かしさ半分で見ている。

本陣から次の宿の本陣まで、1日1宿では随分早く目的地に着いてしまう。じっくり道草が出来るわけだが、あまり歴史とか昔の旅には興味がないのか、街道筋の大事なポイントも素通りしてしまう。余った時間に子供たちとサッカーのトレーニングをやったり、釣りをしたりと、東海道歩きに似合わない時間つぶしをしている。かと思うと退屈な道ではいきなり駆け始めて、走っているほうが楽だなどという。本人は良いが、スタッフ特にカメラマンは大変である。足を痛めたカメラマンの映像も映っていた。

5月5日に金谷宿に来る予定だと聞いて、ミーハーの女房は友達と見に行こうかと言っている。目立つことをしてテレビに映りかねないから怖い。

東海道は過去に2度歩いた。いずれも休みを見つけて、電車などを使って近くまで行き、歩き継ぐやり方である。

最初に東海道を歩いたのは遠江三十三観音巡礼で歩いた4人組で、次のチャレンジとして静岡県の東海道二十二宿を歩こうと企画したものである。当時「東海道宿駅制度400年」を記念して、街道筋の整備が始まった頃であった。平成7年から8年の足掛け2年かけて歩いた。

二回目は、平成12年12月から平成15年9月まで2年10ヶ月掛かって、女房と二人で、今度は日本橋から三条大橋まで五十三宿を歩き通した。

この2回の旅については改めて書き込むことになるであろう。
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子供の頃の遊び場

                  (故郷の小学校に昔あった奉安殿)

小学生の頃、毎日近所の子供たちが群れて遊んだ場所に、「ほうあんでん」と呼ばれる場所があった。小学校に付属して、針葉樹、広葉樹、照葉樹の入り混じった小さな森で、中に池もあった。遊びに事欠かない材料が一杯あった。木登りや缶けりなど毎日のようにそこで遊んだ。街中であったが、夏には樹液を出す木に、タテハチョウやアブやハチ、カナブンやクワガタムシなどが寄ってきた。昆虫採集に夢中だった頃は格好の猟場であった。

森の中に基礎のコンクリートが砕かれて残っている場所があった。遊びまわる中では少し邪魔なものであった。その基礎の上に、かつては神社風の建物が建ち、「御真影」と「教育勅語」が厳重に保管されていたと知ったのは大きくなってからであった。その建物が「奉安殿」と呼ばれていたのである。

また、小学校の運動場に面した場所に、国旗掲揚塔と呼んでいた人造石で固められた高さ3mほどの台があった。文字通り国旗を掲揚する台なのだが、国旗の掲揚が行われるのを見たことは無かった。その国旗掲揚塔の小学校の運動場に面した部分にトタン板で塞がれたところがあった。何かの入り口なのかと子供心に除いてみたが、その蓋は意外と頑丈で子供の力で中を見ることは出来なかった。

大人になって小学校に行ったとき、そのトタン板は外されていた。そこには「八紘一宇」の文字が彫られた石板がはめこまれていた。戦後の大人たちはこれを隠したかったのである。秘密の入り口などではなかった。

「八紘一宇」は、神武天皇が即位した時の勅語の一節「八紘を掩いて宇(いえ)と成さん」という建国の理想からきている。その言葉自体は世界平和を願ったものであるが、戦時中「大東亜共栄圏」とセットでスローガンに使われ、侵略戦争に駆り立てた言葉として、GHQ司令部が使用を禁止した。

トタン板で隠したのはそんな理由からである。あえて取り壊さずに残したところに、当時の故郷の大人たちの意地が感じられた。

ともあれ、我々が毎日のように遊んできた「ほうあんでん」にも戦争の余波(なごり)が色濃く残っていたわけである。
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熱田神宮のクスノキ

                       (熱田神宮の大楠)

きのうの日曜日、名古屋に所用があって車で出かけた。東名高速道路の豊田JCTから伊勢湾岸道路に入って東海ICで降りる。伊勢湾岸道路はこの後、伊勢湾に注ぐ大河を何本かの大吊橋でまたぎ、四日市JCTで東名阪自動車道に接続する。いずれ第二東名の一部となる予定のこの道路は片道3車線とゆったり取ってあり、まだ車も少ないので気持の良いドライブができる。

所用を済ませて、久しぶりに熱田神宮に参拝した。来るたびに思うのだが、約6万坪(19万平方メートル)に及ぶ熱田の森が名古屋という都市の真ん中に残っているのは全く奇跡に近い。先の大戦では徹底した空襲もあっただろうし、千年の森が残ったことに、名古屋市民のみならず感謝しなければならない。

熱田神宮のご祭神は熱田大神で、相殿に天照大神、素盞鳴尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命を祀っている。ご神体は御存知の通り、三種の神器の一つの草薙剣である。

草薙剣(くさなぎのつるぎ)は素盞鳴尊(すさのおのみこと)が八岐の大蛇(やまたのおろち)を退治した際にその尻尾から出てきた剣で、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と呼ばれていた。後に日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国に遠征した際に、駿河の草原で賊の放った野火に巻かれて窮地に陥ったところ、この剣で草を薙ぎ払って難を逃れた。それ以後、その剣を「草薙剣」と呼ぶようになった。その後、日本武尊はお妃である宮簀媛命(みやすひめのみこと)に草薙剣を預け、伊吹山へ出陣し、傷を負って三重県の能褒野(のぼの)で亡くなった。草薙剣は宮簀媛命が熱田の地へ祀り、これが熱田神宮の始まりと言われている。

森の中には照葉樹の巨木、大木がたくさん見られ、樹齢1000年前後と推定されるものも数本あるという。参道左手、手水舎の先に木柵に囲われた御神木のクスノキがある。弘法大師お手植えと伝わる大楠である。回りの木々よりも際立って太く、大きく枝を広げ、御神木として貫禄十分である。幹周囲7.7m、樹高20.5m、樹齢1000年といわれる。

熱田の森にはこのクスを含めて、七本クスと呼ばれる楠の巨木がある。本殿右手、神楽殿の右手奥の森の中に、龍神社、土用殿、御田神社、清水社と小さなやしろが続くが、御田神社と清水社の間にクスノキの巨木がある。幹周囲8.67m、樹高33m、樹齢1000年とされる。確証はないが、おそらくこの木がこの森で最も太い巨木だと思う。
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「プラハの春」「ベルリンの秋」

                      (春江一也の小説)

このところ、春江一也著の「プラハの春」「ベルリンの秋」という小説を連続して読んだ。小説という名を借りているが、著者は元外務省の役人で、プラハの春やベルリンの壁崩壊の時期、それぞれ事件の渦中にあったチェコスロバキアの日本大使館、東ドイツの日本大使館や、ベルリンの日本領事館に勤めていて、自分の目と耳と肌で感じてきた。著者が「事実を素材にしたフィクション」とわざわざ断わっているように、その場に居合わせなければ書けないような肌触りの感じる小説であった。そういう意味で著者にしか書けない本である。

実はこれらの小説は読みたいと思って、文庫本を前々から購入してあった。今回読み始めたら止まらず、一気に4冊読み上げた。

プラハの春は言葉では知っていた。ベルリンの壁崩壊はテレビで若者たちが壁によじ登って打ち壊すのを見た。しかし、本当にはその現場で何が起こっていたのかをこの小説で初めて知った。

今は無いソビエト連邦はマルクス主義による社会主義建設という遠大な実験であった。そして失敗に終わったことは歴史によって証明された。社会主義でも資本主義でも権力は必ず腐敗するということが理解されていなかった。権力者が腐敗するのは社会主義、資本主義共通であるが、民主主義国家では選挙、多数決や政権交代という回りくどい手法がこの腐敗を担保している。しかし、社会主義では権力者は民衆を国家という名の収容所に入れて自らの権力の保持を計る。

40年前通った大学は、マルクス主義による社会主義建設という理想に踊らされた教授たちで占められ、胡散臭い学問がまかり通っていた。ソ連をはじめとする東欧諸国や中国は彼らには理想国家であった。ノンポリの自分にもなぜ理想国家の経済が低迷していて、資本主義の国々が繁栄しているのか疑問であった。しかし、資本主義の矛盾をあげつらうだけで、そういう疑問は棚上げにされた。

ベルリンの壁崩壊は1989年11月である。中国の天安門事件が1989年6月だから、天安門事件の方が5ヶ月ほど早かったことになる。自分はなぜか天安門事件の方が遥かに後だと勘違いしていた。ベルリンの壁崩壊後、ドイツ統一、東欧諸国の民主化、ソ連の崩壊と続いていくのであるが、天安門事件もベルリンの壁の崩壊の後であったら、事態がもっと変わっていたかもしれない。
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裏山の散歩

            (庭のシランは今年もつぼみをたくさん用意している)

先日の昼休み、久しぶりに会社の裏山を散歩した。かっては良質の里山だったのだが、この数年の間に山を崩し開発されて茶畑になった。縦横に舗装された農道が付いて、それが今は社員の昼休みの恰好の散歩道になっている。

かつて、里山だった頃は毎日昼休みにコースを変えて歩いた。途中で色々な発見があった。裏山は大変植生が豊かで、珍しい植物がたくさんあった。特に春はそれらがいっせいに花を咲かせるので楽しい散歩になった。

山の斜面一面にシランが生育しているところがあった。誰かが植えたのかもしれないが、一株だけ貰ってきたものが、今では庭のあちこちに芽を出している。道路脇の疎林に毎年ハルリンドウが咲いた。よくよく目を凝らさないと見逃してしまいそうな花だが、毎年咲くのを楽しみにしていた。尾根部分を歩いていて、早春にキンランに遭遇したことがあった。後にも先にもキンランを見たのはその一度だけであった。カキランはため池の土手に他の草に混じって地味な花を咲かせていた。シュンランは林の斜面で何株か発見したことがある。白い実のマンリョウを見たのもそんな山の中であった。畑の土手でショウジョウバカマの群落も見たと記憶している。

食べられるものも、自分が判っただけで、タラの芽、タケノコ、ワラビ、ゼンマイ、イタドリ、ギボウシ、ヤマイモの実、桑の実、アケビなど枚挙にいとまがないほどである。

鳥の種類も多かった。ため池にはカモなどの渡り鳥が降りていた。池にはアオサギ、シロサギ、ゴイサギなどもいた。キジ、ケリ、ホトトギス、ウグイス、クロツグミなど、姿は見せなくても声を聞いた鳥はもっとたくさんいる。

ため池には夏には菱がびっしりと繁茂し、誰が放したか、ブルーギルが繁殖していて、ある時釣り糸を垂れたら悪食ゆえに幾らでも釣れた。餌に草を付けても釣れた。笑い話のようであるが、最後には針だけでも釣れてきた。

そんな楽しい里山も今では平らになってお茶の苗が植わっている。縦横に伸びる農道は残り時間でコースが如何様にも変更でき、散歩道としては恰好であるが、豊かな自然が失われたことは残念である。
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白くなった?ムサシ

                      (白くなった?ムサシ)

先日このブログを読まれている方に、ムサシ君はいくつですかと聞かれた。3歳と答えたが、家に帰って女房に確認したところ、この4月でちょうど4歳だという。その方は白い犬と勘違いされていたが、茶色の小型柴犬である。

ところが最近おっしゃるように毛並みが白くなってきた。肩と背中の背骨に沿った辺りは茶色いのだが、それから側面に下りてくると白くなってきたのが目立つ。シャンプーをしたら余計に白さが目立つようになった。冬毛だろうと思っているが、春になっても毛色が変わる雰囲気がない。

女房は、クローン犬で歳を取るのが早くて、もう白髪が出てきたのかしらというが、日本ではまだ犬のクローンが実用化したという話は聞かない。最近、少し太り気味ではあるが、太ると白くなるなどということも聞いたことがない。まあ夏になるとどうなるかだが、今から白髪では早すぎる。

背中の茶色の毛や腹部の白毛も、よく見ると一本の毛も毛根に近いほうは黒い。先のほうが白や茶色になって、それが毛並みの色を決めている。黒や白の柴犬も数は少ないがいる。もともとそれらの毛色の要素は一本一本の毛の中に持っているのであろう。根元の黒さが毛先までそのままに伸びてしまうと黒の柴犬になるのだろう。

黒でも茶でも身体の陰になる弱い部分、胸元から腹にかけては白い。意外と大事にしすぎるから白くなるのかもしれない。この夏はもう少し野性的に育てれば、茶毛が戻るのかもしれない。しっかり茶色が出たほうが凛々しく見える。

そんな話を女房としている間も、当の本人(犬)は食い物を探して食卓の下をうろうろし、テーブルに前足を掛けて人が食べているものをねらっている。ムサシ、もっと凛々しくなれよ。
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