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松平定知氏講演会(つづき)

(庭のコブシの花)

上杉謙信は負けない武将として有名で、生涯45勝2敗23引き分けだったという。大変精神性が高くて、義の名のために戦い、毘沙門天を信奉し、生涯越後から出ることがなかった。

信長は情報を収集・秘匿・利用、つまり総合運用に大変長けていた。ところが敵の情報には大変長けていたが、一度味方と判断すると、大変見方が甘くなる。お市の方の嫁ぎ先の浅井長政を信用し、朝倉攻めに際して裏切られ、窮地に陥り敗走したり、明智光秀の謀反には全く警戒しておらず、丸腰で討たれてしまった。

信長は兼信の強さを十分に分かっており、信長は南蛮貿易などで手に入れた珍しい貢物をした。中でも狩野永徳の描いた洛中洛外図屏風は信長渾身の気持ちが入っている。しかし、天正4年(1576年)、兼信と信長は加賀の手取川で一度だけ戦ったが、火縄の使えない雨に乗じて攻めた上杉軍の大勝利に終ったが、上杉軍はそれ以上攻めようとせず、越後の春日山城に引き上げた。そのときの様子を詠んだ狂歌がある。

   上杉に 逢うては織田も 手取川 はねる謙信 逃げるとぶ長

そして、翌年に兼信は脳溢血で亡くなった。

信長が討たれ、秀吉は自分の死後のために、五大老(徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景)五奉行制という集団指導体制を作った。小早川隆景の死後は、会津に移封されていた上杉景勝が五大老になっていた。

秀吉の死後、五大老の筆頭の家康は上杉景勝に謀反の疑いがあるとして、上洛して釈明するように促がした。謀反は言いがかりである。上洛は拒否する。攻めて来るなら来い。という痛烈な返書を送ったのは景勝の家老の直江兼続で、世にいう「直江状」である。家康は立腹し、上杉征伐の軍を送るが、下野国小山で長く逗留する間に、五奉行の一人の石田三成が中心になって蜂起する。家康は上杉征伐を中止し、西へ取って返し、関ヶ原の戦いが起きる。

1600年、関ヶ原の戦いに勝利した家康はすぐに征夷大将軍に任じられ、鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏に続いて、幕府を開く三人目の武将になるのだが、江戸幕府が開かれるのは3年後の1603年である。このタイムラグは何であろうか。

松平氏は家康は秀吉以下では幕府を開かないと考えていたのではないかと話す。秀吉は朝廷から従一位関白の位をもらっていた。秀吉は藤原姓を名乗り、その最高の位であった。家康は源氏を名乗り、1603年、従一位となって源氏長者になり、秀吉と同等になって江戸幕府を開いた。

9年間続いた「その時歴史が動いた」はこの3月で終わり、4月からは「ヒストリア」という番組が始まる。長い間の視聴の感謝の言葉で講演会は終った。
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松平定知氏講演会

(松平定知氏講演会)

夜、夢づくり会館で講演会があった。講師はNHKで、「その時歴史が動いた」を担当している松平定知氏である。演題は「私の取材ノート ~ “その時歴史が動いた” の現場から~」である。

今日は東京は雪が降っていたという話から始まった。昨日は2.26事件のあった日、あの事件のあった日も東京には雪が積もっていたと話が始まった。

関東大震災で支払えなくなった手形を震災手形として日銀が再割引をして救済をしたことがあった。ところがその中に震災とは関係のない物までまぎれて金額がかさみ、国会で追及を受けた片岡直温蔵相は、答弁の中で経営が苦しかった東京渡辺銀行を破綻したと事実に反したことを言ってしまい、銀行の取り付け騒ぎが発生した。これが昭和金融恐慌である。1929年、アメリカから世界恐慌が起きる、2年前の1927年のことである。

2.26事件はそれから数年後の1936年、そんな経済的に大変疲弊した時代に起きている。日本は経済の復興を求めて、大陸へ進出し、大東亜戦争へと進む不幸な時代へと突入していく。話が詳しいのは、経済が大変厳しくなっている現代と状況が似ているとして、次週の「その時歴史が動いた」で取り上げるからである、とネタばらしで聴衆をつかむ。実に巧みな話術である。

松平氏はNHKの職員はとっくに定年退職して、今はフリーのアナウンサーになっていた。今日の話は、今話題の大河ドラマ「天地人」の直江兼続と、靜岡と関係の深い徳川家康を取り上げるとして話を始めた。

「天地人」の直江兼続の大河ドラマは今大変好評でけっこうなことである。今歴史上人物で「ナンバー2ブーム」だといわれている。記憶に新しい「篤姫」の小松帯刀、「風林火山」の山本勘助、その外、石田三成、黒田官兵衛に加えて、伊達藩の片倉小十郎はゲームの世界で大人気だという。ナンバー2ブームを称して「家老力」と称する学者もいる。

さて、直江兼続だが、幼名を樋口与六といった。子供ない上杉謙信は、後継者候補として、自分の姉の子の景勝と、相模の北条氏からきた景虎を準備していた。樋口与六(後の直江兼続)は幼いころより景勝に仕え、終生景勝に従った。

上杉謙信は、後継を決めないままに脳溢血で急死してしまった。春日山城の二の丸に景虎、三の丸に景勝が残された。景勝は兼続の進言によって、いち早く本丸の金庫と武器庫を押えた。景虎は城を出て城下の御館に陣を構えた。そして勃発したのが御館の乱である。景勝は甲斐の武田勝頼の後ろ立てを得て、勝頼の仲裁で和睦をしたが、その後再び戦いになり、景勝は勝利し、景虎は自害したので、上杉家当主となった。
(明日へ続く)
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証券会社の人と話す

(トンネルはいつか抜けるか-通勤路で)

午後、会社へ証券会社の部長と支店長が見えて話をした。このところの急速なドル高円安はどういうことなのかと、疑問をぶつけてみた。2月の半ばに91円/ドルだったのに、この10日程で98円/ドルに届きそうな相場になっている。いったい何が起ったのか知りたかった。

16日に2008年10~12月期の日本のGDPが発表され、年率マイナス12.7%と、過去2番目の大幅な下落率を記録したことが発表されたことと、中川昭一財務相兼金融担当相のローマでの醜態とその後の辞任が追い討ちをかけて、円への信頼が大きく揺らぎ、資金が円から逃避する動きが一気に進んで、円安に進んだという話であった。

トヨタは一円の円安で利益が400億円増えるという。すでに7-8円円安になったのだから、黙っていても想定の赤字が消えるほどの円安である。しかし、その割にはトヨタ株は上がってこない。3月の決算数字はそんな単純には行かないだろうし、それ以上に業績の悪さが相場を決めているのであろう。

しかし、この円安で助かる企業も多いと思う。とすれば、皮肉なことに中川前大臣の国辱的なパフォーマンスは、一部で役に立ったと評価されるのかも知れない。

ところでこの円安は今後も続くのであろうかと聞いてみた。輸出も激減して受取るドルも少なく、年度末にかけてドルから円へ換金需要もそんなに増えるとも思えない。なので意外と100円/ドルあたりまで円安に振れて留まるのかもしれないという。

まあ、今までの円高が異常だったのだから、100円ぐらいに戻るのは歓迎する向きが多いと思うが、その原因が日本側の実質経済の悪さと、政権不安の露呈という、日本側に原因があるとのが、あまり喜べない状況である。

民主党が今週中の21年度予算の採決に同意したというニュースが流れて、国会もようやく動き出した。麻生内閣はもう死に体になっており、予算が通れば速やかに衆議院の解散総選挙をすべきであろう。内閣改造したり、首相を変えたりしても自民党政府の支持率は上がるはずはない。国民の失望はそれだけ大きいと思う。仏の顔も3度までといいますからねえと言うとけっこう受けた。

任期満了まで死に体の内閣で続けるのは、この大切な半年をさらに無為に過ごし、回復をさらに遅らせる結果となるであろう。もしそこまで延命を図るならば、麻生首相は国賊の汚名を受けることになるかもしれない。自民党は安倍・福田・麻生の3代の総理の下、これだけの失政を繰り返して来たのだから、一度は野に下るべきであろう。

後半は主に自分の考えだが、そんなことを証券会社の人と話した。
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写真を盗用する




(紅白の梅、撮影-かなくんの父方のおじいちゃん)

昼間、かなくんのパパのご両親が我が家に見えて、一時間ほど遊んで行かれたと聞く。かなくんの父方のおじいちゃんは写真が趣味で、何度もその作品を見せていただいたり、作品のコピーを頂いたりしている。夕方帰ると今日も写真を何枚か頂いていた。その内、紅白の梅の写真を盗用して、ブログに載させていただく。まあ、怒られることはないだろう。

ひょんきんなおじいちゃんは怖い怖いと言って、かなくんをなかなか抱いてくれない。ところが遊びに来ていた、まーくんは抱いている。よその子を抱いて、家の孫を抱いてくれないとママが抗議したら、おっかなびっくり抱いてくれた。女房は、かなくんがそのおじいちゃんそっくりで、かなくんを抱きながらおじいちゃんを抱いてるみたいだと、微妙な発言をする。

昨日まで、かなくんは余り泣かないで、心配なくらい静かな赤ん坊だと言われていた。ところが、泣くと抱いてもらったり、良いことがあると知恵が付いたのだろう。今日から大きな声で泣いて、抱いてくれるまで泣き止まない、うるさい赤ん坊に変貌した。

    *    *    *    *    *    *    *

夜、NHKの「その時歴史が動いた」を見た。明後日の夜、番組キャスターの松平定知氏の講演会が金谷の夢づくり会館である。応募したら招待状が来た。出かける予定でいるので、今日の番組を見たのである。今日は、伊能忠敬、間宮林蔵、ジョン万次郎の三人を取り上げた。

このくくりは何だろうと見ていると、海外渡航はもちろん国内移動もままならなかった江戸時代に、伊能忠敬は全国を隅々までめぐり、世界にもそんなに正確な地図がない時代に、自分の足で調べて日本地図を作った。間宮林蔵は樺太を島だと見極め、後に間宮海峡と名付けられる海峡を渡るという国禁を犯して、貴重な北方の情報を江戸幕府にもたらした。ジョン万次郎は漁船が漂流して、助けられてアメリカに渡り、アメリカで教育を受けた。帰国して、アメリカの事情を江戸幕府に説いて、その後、日米和親条約締結に尽力した。

そう記してくると、時は幕末、周りの海に外国船が押し寄せてくる時代に、この三人の業績は日本を救ったといえるかもしれない。特に、英国などは日本を植民地にしようとやって来た。しかし伊能忠敬の作成した日本地図を見せられて、本国にもない正確な地図に、とても植民地に出来るような野蛮な国ではないと、野望をあきらめたという話が伝わっている。伊能忠敬の地図は昭和のはじめ頃まで、日本地図の基本として使われていた。航空写真を撮るようになって、ようやくその役割を終えたというからすごい。

さて、明後日の講演会ではどんな話が聞けるのであろうか。
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「知事が日本を変える」を読む

(「知事が日本を変える」)

「知事が日本を変える」浅野史郎、北川正恭、橋本大二郎の三人の知事が地方自治について語った本である。ただし、三氏がまだ現役の知事時代の2002年に発行されたもので、その後、三氏はそれぞれ知事を退いている。浅野史郎、北川正恭の両氏はこの正月に講演を聞いた。その浅野史郎氏の講演会でこの本を購入した。最近ようやく読み終えた。

三人は、浅野史郎氏が元厚生省官僚、北川正恭氏県議や衆院議員を経て、橋本大二郎氏が元NHK記者と、出身はまちまちである。またそれぞれ立候補の理由が、三重県を一流県にしたいという思いで出馬した北川氏、国政と違い大統領のように直接選挙で選ばれることが魅力でという橋本氏、現職が汚職で逮捕された後、後継が副知事になりそうだと聞き、ただただ怒りで出馬した浅野氏、とそれぞれ違う。

共通点は、三人とも、どの政党の推薦も受けずに当選を勝ち得てきたということである。推薦を受ければその党の政策を取り入れて行かねばならない。推薦する側も知事に言うことを聞かせたいのである。それでは知事色を出した政策の実現は何も進まない。議会となあなあではなく、緊張感をもって、県民の前で堂々と議論して政策を決めて行くようになった。

その結果、三県の知事ともに従来の知事がなしえなかった、県民側に立った数々の改革を成し遂げてきた。三県とも情報公開を重要課題として取り組んできた。情報公開が県政を変えると思っている。情報を隠すから、怠慢や腐敗が生まれるのである。

国と県、県と市町村は上下、主従関係ではなく、対等な協力関係でなければならない。また、県職員の間に根強く残っている官尊民卑の考え方がを払拭しようと努力してきた。

例えば、県職員の名刺は私費で作ることになっているが、三重県では公費で作るようにした。私費で作らせたため、名刺はもらうもので渡すものではないという発想が蔓延していたからだ。そう決めたら自治省からクレームが付いた。笑っちゃうような話だが、自治省の役人の感覚はそんなものである。逆に噛み付いて、三重県の観光PRを入れた名刺にして実施した。

高知県では役所言葉を止めて、中学生でもわかるような言葉に変えるようにした。もったいぶった言い方を続けるのは官尊民卑の考え方そのものである。

三知事のあと、石原慎太郎東京都知事、堂本暁子千葉県知事、田中康夫長野県知事など新しいスタイルの知事が出てきて、全国知事会の雰囲気ががらりと変わった。今までは総務省の言いなりだったものが、知事側からどんどん意見を述べるようになってきたという。

三氏とも知事時代には生き生きと仕事をしていたけれども、知事を退任してからはほとんど目立たない存在になっているのは大変残念なことである。
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田沼意次と松平定信

(庭のクリスマスローズ)

「田沼候開城記」を読んでいると、老中松平定信が行った田沼意次の処分が、何もここまでしなくてもという、凄まじい処分の仕方で驚くばかりである。この事件を相良側から見て記した「開城記」は、私情を交えずに淡々と記されているが、言外に相良藩の面々に対する同情と、そこまでやらなくてもという批判の気持ちが流れているように思う。

相良城は明け渡しを受けた後、近郷の村々から、人足を、500人、1000人と集め、20日間も掛けて徹底的に破壊し尽している。御城、矢倉、御門、御番所、塀、石橋、御殿、御蔵、御屋敷、侍長屋、およそ相良藩に関わるすべての建物という建物を毀し、戸障子、茅、竹、材木などの材料に戻して、近郷の村々に入札させて売り払っている。相良に田沼色が一切残らないように徹底したのだろう。このように、明渡された城をすべて破壊するような処分は、お取潰しになった藩でも通常は行われず、後に入封する大名がそのまま使うのが普通の処置である。

さらには、打ち毀しの差配の一人に、田沼意次の娘婿の遠州横須賀城主の西尾隠岐守を加えているのも意図を持ったことに思える。

このような常軌を逸した厳しい処置は、田沼意次と松平定信の間に、単に政敵というだけでなく、深い遺恨があったのではないかと疑われている。白河松平家に養子に出されなければ、田安家を継いで、いずれは将軍になれていたのかもしれないという松平定信の怨みが、時の老中田沼意次に向けられたのではないかという話である。松平定信の仕打ちを読んでいると、そういう事情もあったのだろうと納得できる。

江戸においても、幽閉され病を得た意次を、監視し病状を報告させるとともに、医師の往診をわざと控えさせて、死期を早めたという話まである。

今から考えれば、田沼意次の悪名も松平定信などがでっち上げた風評であり、意次は当時の役人にしては珍しく、民活を奨励した老中であった。様々な矛盾はあったけれども、田沼時代に江戸は栄えて、定信の時代になって江戸の火は消えた。

   落首3首
 田や沼や 汚れた御世を 改めて 清くすすめる 白河の水
 世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし 文武文武と 夜も眠れず
 白河の 流れに魚も 住みかねて 元の濁りの 田沼恋しき


田沼意次の失敗は、最後まで江戸幕府の有能な官僚で、御三家、御三卿や大名家などが彼の視野になかったことである。それが反感を買って失脚することになった。

松平定信が寛政の改革に失敗して失脚すると、陸奥下村藩に移封されていた意次の孫の意明が相良藩に戻されたことからも、田沼意次への処置が当時でさえも異常に映っていたことが知れる。
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かなくん と まーくん

(庭のワスレナグサ)

ワスレナグサは北ヨーロッパ原産で、明治になってから日本へ輸入されてきた。英名は、「Forget-me-not」これを、忘れな草(勿忘草)と翻訳したのは、植物学者の川上滝弥という人で、1905年(明治38年)のことである。一見直訳のようにみえるが、詩的な素晴らしい和名だと思う。その証拠に多くの歌に読み込まれてきた。現代のように、外国名をカタカナで表記するだけではあまりに味気ない。

    *    *    *    *    *    *    *

今日もお昼にまーくんとママが来た。まーくんのパパは最近発病してしまった花粉症にダウンして、家で休んでいるらしい。ベニフウキも飲んでいるが、まだ初心者マークで、花粉症のコントロールが上手くできないのであろう。

かなくんとまーくんは8ヶ月違いの同級生である。体重で言うと3.3キロと7.7キロだから倍以上違う。まだ生まれたばかりで、壊れやすい細工物でも見ているような、かなくんと、もうすでに個性が出てきて自己主張を始めだした、まーくんとでは、比べるべくもないけれども、二人の従兄弟は似ているところもありそうで、性格はずいぶん違うように思う。

まーくんは生まれて8ヶ月の付き合いであるが、きっと腕白坊主になりそうな予感がする。今もウォーカーを乗り回し、板の間を縦横に動いて、手に触るものは何でも引っ張る。その力が驚くほど強い。触っては危ないものを大人たちが遠ざけると身体をそり返って抗議する。これからも、色々なことに興味をもって、いろんなことを試してみるといい。たくましい田舎の子に育っていくだろう。

かなくんは実を言ってまだ解らないが、一日見ていてなかなか泣かない赤ん坊である。昨日の夜中には何度か泣いて起こしたらしいが、昼間泣いたのはお風呂で新米のパパの不手際で危険を感じたのであろう、大きく泣いていた。その他はおしめ換えのときに泣いた声を聞いたぐらいである。目が覚めても手を延してのびをするぐらいで大人しい。大人が顔を近づけると、見えるのか、口の端を上げてニコッと笑う、ように見える。これから性格が見えてくるのであろうが、まーくんとの対照でいうと、かなくんは繊細な都会派シティボーイで、何か一つのことにじっくり取り組んでいくタイプだろうか。

孫の性格を考える上で、どうしてもその親たちのことを考えてしまう。あの夫婦を足して2で割ればというように。これから時間とともに個性がはっきりしていくであろう。

午後、昼寝をしている間に、かなくんのパパは名古屋に帰ったようだ。仕事があるから仕方がないが、明日からしばらくは名古屋で一人住まいが始まる。まーくんとママも掛川に帰った。新米花粉症のパパは明日病院に行くのだろうか。
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かなくん、里へ帰る

(咲き出した小さなスイセン)

今日は孫の “かなくん” が母子ともに退院して、その足で名古屋から長駆、我が家へ里帰りしてくる日である。今朝早く夫君のお母さんが名古屋に出かけ、同道して夕方ごろには戻ってくるという。

午後から、金谷宿大学「古文書に親しむ」に出かけた。講義のはじめに、講師から、事前に言っておけばよかったのだが、現在の教材の「田沼候開城記」は出処がわからず、内々の教材だから良いだろうと、古文書の持ち主に無断で、使わせてもらっている。その資料がコピーされて他所へ出るようなことがあっては具合が悪いから、資料の扱いには注意してもらいたいと話があった。

その現代語訳を2回ほどブログに書き込んでいた。古文書のコピーが出回ることがまずいという話であったが、迷惑がかかっては申し訳ないので、「田沼候開城記」を書き込んだ12月20日分、1月17日分の書込みを非公開に切替えた。

講座が終ったところで、受講者の一人から、ネットで「田沼候開城記」を検索したら、ブログが出てきた。「田沼候開城記」で検索しても他には何も出てこない。いろいろ見せてもらいましたが、熱心にあちこち見に行っておられますねと話があった。ブログを書いているのが、どうして自分だと解ってしまったのであろう。いつかはこういうこともあろうと思っていたが、案外早かった。かなりいろいろと見てくれたようで、東海道や中山道の話や大代奥のセンペルセコイアの巨木の話も出た。ブログだけではなくて、その前に書いていたホームページまで目を通してくれたようだ。

「田沼候開城記」の方は田沼意次の失脚は、意次に関連した役人たちが60余人遠流などの処分を受け、意次の孫が奥州信夫郡に知行七千石、越後に三千石で御国替えになり、一段落した。この後、次回で相良城や付属の建物が徹底的に打ち潰されるところを読む。

かなくんは夕方帰って来た。まーくんもこんなものだったかなあと思うほど、みるくて、長旅のあいだ手足を伸ばせなかったのか、伸びをするようなしぐさが可愛い。出迎えに来ていたまーくんもなにか不思議なものを見るように、かなくんを見ていた。
※「みるい」という言葉は靜岡の方言で、主に茶業者が春のお茶の新芽を表現するときに使う言葉である。辞書で引いても出てこない。意味は「柔らかくて、みずみずしい」とか、「未熟で、幼い」といったような意味。

今日からまた一ヶ月、この赤ん坊とのお付き合いが始まる。大人たちだけでお赤飯でお祝いした。
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大井川通船の積荷

(佐賀を走る、特急みどり)

一昨日から九州の福岡から佐賀へ二泊三日の予定で出張していた。仕事が早く終わって、帰るのを一日早めて昨日帰って来た。帰りにかなくんのいる名古屋へ立寄ろうと思ったけれども、何となく億劫で、まっすぐ帰ってきてしまった。明日には退院して、母子ともに靜岡に戻ってきて、当分こちらにいるのだから、慌てることはない。

    *    *    *    *    *    *    *

大井川通船の話をもう少し続けよう。いったいどんなものが船で運ばれたのか。明治8年、通船が出水で破船になった届けが出ていて、荷の内容がたまたま記されており、積荷を知ることが出来る。以下に書き下してみる。

破船御届
御免許済
一 川船壱艘 但し長さ六間壱尺五寸

(ここに積荷の内容が記されているが、後述する)
右は通運送船、本月六日、当宿地元向谷を出帆、翌七日、同川通り遠州榛原郡葛篭村地元へ着船、大雨に付き繋ぎ留め置き候ところ、にわかに出水いたし、夜中の事故で手当など不行届きに流失に相成り、破船いたし、荷物など散乱いたし候段、届け出で候あいだ、取調べ方いたし候ところ、事実に相違無く御座候あいだ、右荷物など流れ寄るなどこれ有り候はば、早々届け出くれ候よう、最寄村々に廻達差し出し置き候あいだ、この段上申つかまつり候なり。
明治八年九月十日


さて、積荷であるが、「米10俵、白米1俵、米1表、もち米1俵、大豆2俵、搗き麦2俵、塩3俵、生酒1樽、同6樽、諸白3樽、醤油1樽、同1樽、同1樽、酢1樽、草鞋(わらじ)260足、藤倉21足、油樽1樽、糀(こうじ)1斗、佐塚1〆、蒲団1つ」となっている。

 ※「諸白」は麹(こうじ)用の米と蒸し米のどちらも、よく精白したもので造った上等の酒。
 ※「藤倉」は藤倉草履の略。藺(い)で編み、白木綿や茶木綿などの鼻緒をつけた草履。
 ※「佐塚」は良く解らない。

この船は川下から川上への積荷である。川上から川下への荷は、明治13年頃の記録があって、金額の多いものから記すと「製茶、材木、椎茸、炭、屋根板、摺付木材、薪、綿、竹、米、下駄荒木取、杉皮、茶の実、楮・三椏」等が上げられている。下りの荷の方が上りの荷よりも金額的に10倍以上多い。通船が主に川上の産物を川下へ送るのに使われたことがよくわかる。

下りは流れに沿ってくれば労力がほとんど掛からないのに対して、上りは帆を上げるけれども、多くは河原を人力で、綱を引いて遡らなければならなかったから大変であった。
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大井川の渡船と通船その4

(早くも花を付けた庭のサクラソウ)

「大井川通船の嘆願書」と「大井川通船差止の嘆願書」この2通の嘆願書が出る一ヶ月の間に、靜岡藩役人と地元島田宿、金谷宿の関係者、地方役人、川方役人との間で話し合いがあった。通船を日延べするようにという地元と、靜岡藩は合意出来ないまま、大井川通船は決定される。しかし、船がまだ無いから通船が始まることにはならない。

ここへ出てきたのが、今村喜左衛門孝本という男である。今村孝本は幕末の水戸の尊王攘夷派が起こした天狗党の乱に参加し、那珂湊の戦いで敗れて戦線離脱、遠州の光明山に居た。靜岡藩中泉物産方(製塩方から名前が変わる)の松岡萬はどういう結びつきがあったのか、今村に大井川通船の実行を委嘱する。今村は天竜川から船を回して、明治三年五月五日、大井川河口から川越しの本道を三艘の船で突破して、横岡村まで着け、大井川通船の既成事実を作った。

「今村孝本略伝」からその部分を抜き出し、書き下したものを次に示す。
‥‥しかして孝本、半兵衛同道川尻村(現吉田町)に行き、三艘の船に上乗をなし、引かせて遡ること二里、時に夜の三更、谷口村に憩う。たまたま聞く島田・金谷の者ども八百人、船の通るを待ち、到らば打毀(こぼ)たんとその設けあると、水主ども恐怖せり。
 ※「三更」-およそ現在の午後11時または午前0時からの2時間をいう。子(ね)の刻。
孝本等もまた覚悟を極め、事起らば腕力を試さんと、すなわち刀の目釘を湿し、五更谷口村を出立、暁に島田・金谷の間を登るに、番人の焚き残したる火未だ消えず。実に危うき所というべし。また遡ること一里余、横岡村に着す。同じく物産方手付、村松庸三郎その村に来り迎するあり。ともに船のつつがなくその地へ至りたるを賀す。
 ※「五更」-およそ現在の午前3時から午前5時、または午前4時から午前6時ころにあたる。寅(とら)の刻。

この三艘の船の就航が突破口となり、早くも五月八日には「大井川通船差止の嘆願書」は取下げられ、大井川通船は一気に進むことになった。

今村孝本は物産方で船10艘を購入し、合計13艘の船に水主50余人で、横岡村と神座村に会所を置いて、川根筋への通船の営業を開始した。しかし、物産方は翌年の廃藩置県で靜岡藩が無くなるとともに廃止され、今村孝本は船を荷主に払下げ、自分は神座小学校の教師になった。

「歳代記」は通船差止側の立場で記されており、通船については簡単に記すだけで、記事は大井川渡船について詳しい。1月28日から2月1日の書込み「明治の大井川川越し」参照。
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