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東光寺(牧之原市)と林泉寺(吉田町)の長藤

東光寺の長藤が町の一角を占める


東光寺長藤の幹、樹齢100年を越す
黒いのは焼け焦げではなく、養生の特殊墨が塗られている

今年度、3講座も無事発進できて少し余裕が出来て、朝、東光寺と林泉寺の長藤を見に行く。

東光寺は町の一角、狭い場所いっぱいに枝を広げて、長藤の花は満開まだこれからのようだ。根に近い太い幹が焦げて炭化したように見えたので、火事でもあったのかと、地元の人に聞いた所、傷んだ幹に昔はモルタルで固めたことがあったが、樹木医の話では、今は特殊な墨を塗るそうで、高価な液を購入して手当てをしたという。焼け焦げたように見えたのはそのためと説明してくれた。

林泉寺の長藤は東光寺より花房が長い
花が少し進んでいるのだろう

クマバチが一匹、画面中央、少し右に見える

林泉寺は吉田城のある山並みの南の麓にある。日当たりが良いせいか、花の進みが早く、今が満開のようだ。広がる枝の一角が枯れたからだろう、太い枝が切られて、ぽっかり穴が開いたように見える。樹勢がやや弱い感じがする。この長藤には背が黄色い、花蜂のクマバチが飛んで来て、忙しなく花を巡っている。花蜂は人を刺すようなことはめったにないおとなしい蜂だと看板にあった。子供の頃、野山を巡るうちに、花蜂の一種、クロマルハナバチに刺されたことがあった。不幸な出会い頭であったのだろう。

夜、地区の自治会の監査に行く。前々年度、総代の最後のお勤めである。

読書:「怪物 闇の西洋絵画史 3」 山田五郎 著
読書:「いのちの種 ご隠居は福の神 4」 井川香四郎 著
読書:「浪人奉行 十四ノ巻」 稲葉稔 著
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来年の干支の寅を見に行く


「大谷さ~ん」の向うにジャンボ干支の寅

一昨日、「来年の干支の造り物を見に行こうと出掛けたが、‥‥」の続きである。

島田市五和から大代の谷に入って、大代川に沿って4.5キロ入った左側道畔に、来年の干支の寅の大きな造り物がある。大代の王子田会制作のジャンボ干支である。前年の丑こそ、コロナ禍で取りやめになったが、もう四半世紀も続いていて、しまだ市民遺産にも認定されている。こうなったら中々止められないだろう。

平日ながら、見に来る人は多いようだ。今年の寅は親子三頭、前にもまして大きく、製作者の意気込みが知れる。見物を終えて、思い出した。掛川市倉真にも寅の造り物が出来たと、テレビで見た。そこへ行ってみようと、大代川を遡って、トンネルを越えた庄司から、県道ながら悪路の山越えで、倉真に向かった。途中、松葉でカヤの巨木を一本見て(後日紹介)倉真の集落に入った。

テレビで流れるのを横目で見ていただけだったから、聞き間違えたかと不安になりながら、倉真温泉の広場の近くで、寅の造り物を見つけた。


倉真の寅の造り物
立派な歯を付けてみたが、インプラントじゃあないよ

話し好きのおじさんが説明してくれる。お昼になったので、ラーメンを頼んで説明を聞いた。

倉真地区ではフジバカマを植えていて、秋に、長距離を渡る蝶として有名なアサギマダラがやって来ると、それを報道したビデオを流してくれた。アサギマダラの生態や、飛来先を調べるイベントなど、詳しく話してくれた。すぐ脇に枯れたフジバカマの畑があり、今は、アサギマダラの飛来も終わって、次の人寄せに、今年初めて寅の造り物を造ってみた。立派な歯を付けたことが自慢のようで、「インプラントじゃあないよ」とジョーク。

コックさんをしていたという、別のおじさんが作った、普通のラーメンを頂いて(そこそこ旨い)倉真を後にした。

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掛川の龍華院の紅葉


龍華院登り口の紅葉

昨日、掛川の古文書講座で掛川中央図書館に出掛けた際、龍華院の紅葉の様子を見て来た。登り口の紅葉はちょうど見頃に見えた(上の写真)ので、今朝、女房と出かけた。

昨年も12月10日、奇しくも同じ日に図書館のついでに見ている。去年の方が真っ赤できれいだったように思うのは、天気が良かったせいであろうか。今日は薄曇りで時々日が差すようなお天気である。

龍華院と大猷院霊屋のある子角山は、今川の家臣、朝比奈氏の城のあった山である。登ってすぐに、現在龍華院と大猷院霊屋がある曲輪があって、尾根を輪切りにするような空堀の向うに本曲輪があったようだ。紅葉は主に龍華院と大猷院霊屋がある曲輪にあって、本曲輪は今は展望台としての公園になっている。

今、今川氏真に興味があって調べている。氏真は、駿府から武田信玄に追いだされて、家臣の朝比奈氏を頼って、こゝ子角山にあった掛川城に入り、今度は家康に囲まれて、因果を含められて、掛川城を棄てる。正室の里の北条を頼って東へ行くが、そこも長居が出来なかった。最後は徳川に拾われるという、戦国武将としては誠に情けない成り行きになってしまった。しかし、数ある武将たちが、安土桃山から江戸時代に入り、次々にその子孫が絶えて行ったのに比べ、今川は江戸時代を通して、高家として重用され、明治まで家が残って行く。

氏真の正室は、当時の例にもれず、北条氏との政略結婚で、戦国大名の政略結婚の多くが、これまた政略に依って離別されている。ところが、氏真夫婦はきっかけはともあれ、最後まで添い遂げている。また駿府で冷泉家から古今伝授を受けるなど、文芸面でも優れていたことがうかがえる。色々な面で、氏真は戦国大名には似つかわないキャラクターであった。

その今川氏真が一時にせよ、諏訪原城の城主であったことはあまり知られていない。現代でいえば、負け組だった氏真を、島田市では町ゆかりの武将として顕彰しようとしているとか、いないとか。愛知県吉田の吉良上野介、静岡県相良の田沼意次、静岡市の今川義元、浜松市の若き日の家康くんなど、今やマイナスイメージの部将たちを、顕彰するのが流行りである。

話しが色々と発展したが、そんなことを女房話しながら、紅葉見物を終えた。

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2014年、最後の富士山




(2014年最後の富士山。12月30日、息子が富士川河原で撮影。)

もう除夜の鐘がテレビから聞こえている。今年の書き込みはここまでとする。
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どうだん原のドウダンの紅葉

(どうだん原の紅葉)

新聞に、どうだん原の紅葉が盛りとの記事が出ていたので、見て来ようと出掛けた。ムサシがお供である。

犬のお供と言えば、桃太郎のお供はどうして犬、猿、キジなのだろうか。昔から疑問に思っていた。最近知ったことであるが、鬼がいる方角は鬼門だとすれば、方位は十二支で言えば丑寅(うし、とら)である。その反対側が、申酉戌(さる、とり、いぬ)になる。桃太郎は丑寅を打ち消す方位、申酉戌をお供に引き連れた。陰陽道の考え方が桃太郎の物語に影響しているという話である。おとぎ話もそんなことを調べていくと面白い。

ちょっと脱線したが、ムサシを連れて行くには色々障害がある。女房はムサシを連れて出たがるが、食事をしなければならない時や、人出の多い所へは連れて行けない。慣れていないから、人を見て吠えたりする。今日は、車で千葉山のどうだん荘まで行き、どうだん原まで山道を20分、平日だから人は多くないとの読みで連れ出した。

駐車場には車が予想外に多かった。熟年世代で、平日でも暇がある人たちが、世の中には意外と溢れているようだ。金の掛からないイベントや物見遊山など、今日のように新聞に載ると、曜日に関係なく繰出して来るようである。


(どうだん原のムサシ)

ムサシは初めての場所に大興奮で、車から飛び出して、リードをぐいぐい引っ張り、しばらく興奮が冷めなかった。お昼前で、どうだん原を見物して来た人たちがそろそろ引き上げる時間らしく、細い山道で次々に帰る人たちとすれ違った。女房は足を止める対向者に、ごめんなさい、ごめんなさいと、しきりに謝っている。しかし、ムサシは一度も吠えることなく、皆んなにきれいな犬とほめられた。


(どうだん原のリンドウ)

どうだん原の紅葉は、最盛期を少し過ぎているように見えたけれども、それでも真っ赤な紅葉が目にしみるようであった。ムサシはカメラ目線を嫌う。何とか、写真を何枚か撮った。しかし、どうだん原では落ち着かず、休む間もなく山道をとって返した。ムサシにすれば、散歩に来たと同じで、ゆっくりと休んだり、紅葉見物をしたりする気は、さらさらないのであろう。花や丁仏の写真を撮ったりしているうちに、ムサシに引っ張られて、女房も戻ってしまった。

   *    *    *    *    *    *    *

今朝、島田のO氏から、畑で造った、ダイコン、シュンギク、小松菜などをどっさり頂いた。また、近くの畑のおじさんから、里芋をたくさん頂いた。また、2、3日前、近所の方に干柿を作りたいと話したら、春野町で買ってきた渋柿を12個分けていただいた。早速加工して乾している。色々頂くものが多くて、感謝、感謝である。
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大間の縁側カフェに行く

(大間の縁側カフェ、手前が縁側)

三年前に静大の講座で話を聞いてから、靜岡市葵区大間の「縁側カフェ」に興味を持っていた。この日曜日、起きたら女房によって大間の縁側カフェに出かける予定が出来ていた。縁側カフェが開く日は、第1、第3日曜日の月2回である。今日はその日に当る。女房の話ではホームページが閉じられているといい、年齢の高いおじいちゃん、おばあちゃんが中心になっての活動だけに、もう終わってしまったのではないかと心配しながら向かった。

新東名が開通して、靜岡の藁科川奥に行くには大変便利になった。新東名を東へ走るのは始めてである。金谷インターは自宅から直線距離で500メートルほどで、ETCによってノンストップで新東名上を走っていた。藤枝IC、新靜岡ICと続くが、新靜岡ICまで行くと行き過ぎで、途中の靜岡SAにあるスマートICで降りると、藁科川を遡る入口へ降りることになる。ここまで10数分しか掛からなかった。藁科川を渡る高速の橋直下に一般道の橋が出来て、それを渡れば早かったが、見過ごして安西橋まで戻る遠回りをしてしまった。それでも、国道1号線を行くより、断然早く行けた。因みに料金は400円でお値打ちである。


(大間からの景色)

しかし、それから大間までは途中に道草もあったが、1時間ほど掛かった。大間の集落は10数軒の農家が藁科川沿いの谷間の斜面に点在している。お茶、椎茸と林業が主産業の村である。斜面には茶畑が広がっているが、斜面での農作業は大変だろうと思った。それでも放置された茶園はほとんど見かけなかった。今や過疎を越えて限界集落になってしまった。以前に、大間のおばちゃんたちが開いていた「摺墨(するすみ)庵」という、山家の産物の直売や食堂を営んでいた施設も、おばちゃん達が年取って、営業を中止してから久しい。そこへ、静大を退官された先生が移り住んできて、アイディアを出し、自宅の縁側に町の人を迎えて、お茶と一寸した田舎のお茶請けを出す、月に一日のイベントが始まった。それが「縁側カフェ」である。

「縁側カフェ」の小さな看板と緑の幟に誘われて入った農家が砂(いさご)さんのお宅であった。座敷と縁側が広く開けられて、秋の日差しが縁側に入っていた。座敷の広さは10畳+4畳で、外されているのか、二間の仕切りは無い。中には4組10人ほどのお客が上り込んでいた。一組の家族と入れ替わりに、自分たちも座敷に上がり、空いた縁側に坐った。

老夫婦が生活しているままの座敷だから、仏壇もあれば神棚もある。御先祖の写真や幾枚もの御札、自宅の航空写真や藁科奥の山々の写真、さらには賞状の類いまでも、鴨居の上に掲げられていた。天井は貼られておらず、かつてあった囲炉裏の煙で、黒くなった太い棟木などの骨組みが見えた。

しばらく待つ内に当家の主人であろう、背の高いおじいさんが、おぼんに、お茶、汁粉、煮た里芋、蕪の浅漬け、さやいんげんなどの田舎の惣菜を、それぞれ器に入れて出してくれた。汁粉にはお餅まで入っている。(お代はすべてのカフェ同じで300円)おばあさんが裏でその準備をしているようで、お客さんの面倒は、おじいさんの係りである。もともと農家で、客商売ではないから、口は重いけれども、こちらが色々聞くと話してくれる。

昔はどこかの山が切り出すというと、村総出で材木を切り出し、ケーブルを張って川まで下し、川に流して材木を町まで運んだものだけれども、林道が出来てからは、運び出しは業者任せになり、トラックで運ばれるようになった。筏流しはここでは無く、雨が降って水量が増えたときに材木を流すのだという。


(砂さんの立派な臼)

土間に立派な臼が置かれていた。聞けばお餅はこの臼でついたという。臼の材料はケヤキだと聞いた。(つづく)
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光明寺と木造日本一の大黒天

(元光明のタラヨウ)

昨日、名古屋のかなくん一家が帰ってきた。今朝は掛川のまーくん・あーくん家族が加わって幼児三人、我が家はまたサーキット状況となった。ようやく静かになった深夜に書き込んでいる。

   *    *    *    *    *    *    *

(昨日の続き)
光明寺跡に大黒杉は見つけられなかったが、タラヨウの木を見つけた。「道の駅いっぷく処横川」で購入した「天竜市の巨木・名木」にも紹介されている。幹周り2.48メートル、樹高14メートル、推定樹齢200年で、巨木には足らない。案内板も付いているから、これからも守られて行くであろうから、もう20年もすれば巨木(幹周り3メートル以上)と呼ばれるまでになるであろう。


(現在の、金光明山 光明護国禅寺)

案内板に火災の後、光明寺は麓に移されたと記されていた。車に戻って、地図で光明寺を探すと、尾根伝いに南西へ6、7キロ下ったふもとに寺名を見つけた。奥から浜松市天竜区の二俣に出る少し手前である。現在でも残っているのかどうか危ぶみながら探したのだったが、行ってみると、小高い山を開削して、造営された伽藍はなかなか立派なものであった。かつて山にあった光明寺を、ふもとに移すにも、元の光明寺の雰囲気を残そうと努力されたはずで、かつての光明寺の威容を彷彿とさせる。

光明寺の御本尊は虚空蔵菩薩であるが、その後、光明の大天狗と呼ばれた、遠州五坊の一つ、正一位光明笠鋒坊権現が祀られるようになった。光明寺も山岳仏教、修験道の影響下に入ったと考えられる。この笠鋒坊権現が天竜川の大蛇を退治(治水)したという伝説から、光明寺が水防の神様といわれることになった。


(木造日本一の大黒天像)

幕末に、大黒天を祀れとのお告げにより、大黒天を祀るようになり、昭和12年、ふもとに光明寺を移してから造立された大黒天像は、高さ一丈三尺五寸、メートル余あり、木造では日本一の大きさを誇っている。

光明山にあったといわれる大黒杉は、その大黒天にちなんで命名されたものであろう。大黒杉は昭和6年の火災で、旧光明寺と運命を共にして焼けてしまったと思う。

勝手な想像をたくましくすれば、焼け残った大黒杉の杉材を活かして、今、祀られている大黒天を刻んだ。杉材の大きさをその儘に、刻んだために、日本一の大黒天になってしまった、というような謂れが付いていれば楽しいと思う。しかし、それは自分の妄想である。杉材が彫刻にむくとは聞いたことがない。もっとも、大黒天は彩色されて、材木の種類は窺えないし、時系列的には上手く合う。探して見つからなかった大黒杉が日本一の大黒天に姿を変えて、大黒杉を探してきた我々は、最後にそこへたどり着いたと、このブログに書ければ、書き込みがドラマチックになるのだが?
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光明寺跡を訪れる

(光明寺跡の石垣と石段)

2011年2月10日のブログ書き込みで、掛川古文書講座で解読した「喜三太さんの記録」の「秋葉山御開帳」を紹介した。その中で喜三太さんは歩いて秋葉山にお参りするのだが、秋葉山に登る前に、その手前の光明山光明寺に参詣したという記述があった。火伏せの秋葉山にお参りするついでに、水防の光明山に参詣することを「ついで参り」といって、当時は、このセットでお参りすることが多かったという。

しかし、自分は光明山という山があることも知らず、もちろん「ついで参り」の慣わしも知らなかった。近年、光明山にお参りしたという話は聞いたことがない。光明山光明寺は、今はどうなっているのだろうかと気になっていた。

昨日、女房のお義父さんの蔵書から、「靜岡県史跡名勝誌」という大正10年発行の本の復刻版を借りてきて、パラパラと見ていたところ、「光明寺」という項目に眼が止まった。光明寺は養老年間、僧行基の創建である。武田勢と家康の戦いでは、家康側が光明山に陣を置き武田勢を破った。以後、光明寺は家康の帰依を受け発展した。寺境に稚児の瀧、寺中に大黒杉があると書かれていた。この光明寺、稚児の瀧、大黒杉などが今はどうなっているのであろうか。大正10年にはこれらがあったことは、「靜岡県史跡名勝誌」の記述ではっきりしている。

昨夜、光明山光明寺に行きたいと息子に話し、運転手を任せて、午前10時過ぎに出かけた。地図によると、森から春野を通って少し浜松方向へ下ったところから、光明山へ登る道があるようであった。しかし登り道を見つけられず、通り過ぎた。「道の駅いっぷく処横川」で、レジのおばちゃんに、光明山への登り道を聞くと、しっかりと教えてくれた。

光明山の標高は594メートル、途中の標識には「光明寺跡」と記されていたから、お寺が今は無いことがはっきりした。アスファルト道は落石などがゴロゴロしていたが、走るには支障はない。尾根にハイキングコースが造られて、今は信仰の場所ではなく、リクリエーションの森になっていた。

駐車場に車を停めて、尾根道で光明寺跡まで10分ほど歩いた。石垣が二段あって、その真ん中を崩れかかった石段で境内に導かれる。光明寺跡には建物は全く無く、石灯籠なども砕けて原型を留めないものがいくつか見えたばかりであった。案内板によると、昭和6年に起きた火災で近くの森林も含めてすべて灰燼に帰し、光明寺はふもとに移ったと記されていた。

境内跡からは、遠州灘方面が浜岡原発から浜松辺りまで見渡せるようだが、今日は幾重にも連なる山々が見えるだけであった。辺りの遊歩道をしばらく散策したが、稚児の瀧も大黒杉も、その跡さえ確認できなかった。(続く)
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可睡斎の眠りと火伏せ

(可睡斎本堂)

可睡ゆりの園の帰り、せっかくだから可睡斎にお参りする。寺名で「眠るべし」とはまた不思議なネーミングである。

寺名の謂れについては、可睡斎のHPに書いてある。11代目の住職、仙麟等膳(せんりんとうぜん)和尚は、幼い徳川家康とその父を戦乱の中から救い出しかくまった。浜松城主になった家康公は、和尚を招いて旧恩を謝した。その席上でコクリコクリと無心にいねむりする和尚を見て、徳川家康はにっこり笑い、「和尚、我を見ること愛児の如し。故に安心して眠る。われその親密の情を喜ぶ、和尚、眠るべし」と申された。それ以来、和尚は「可睡和尚」と称せられ、後に寺号も「可睡斎」と改めたという。和尚の時代に、家康公の帰依を受けて発展した。

「可睡和尚」とはユーモラスな話で、新首相も「可睡首相」と言われないように願いたいものである。夜、寝られないと言って辞めた首相もいたから、所構わず寝られる方が大物かもしれないが。境内に「座禅と眠り」というテーマの講演会案内が出ていた。可睡斎は眠りに縁のあるお寺で、座禅をすると良い眠りが得られるようになるという。夜寝られないのは「うつ」の前兆だといわれるが、寝られないお父さん方は一度訪れるのも良いかもしれない。ブログのおかげで、よく寝られる自分には今のところ縁は無い。

可睡斎のもう一つの顔は、古来より火伏せの神様として崇められて全国津々浦々に奉祀されている秋葉山の秋葉総本殿三尺坊大権現の道場があることである。1873年(明治6年)の神仏分離に伴い、秋葉山のお寺の部分の三尺坊大権現が可睡斎に遷座され、以後、火伏せの寺となった。

我が故郷の兵庫県北部の町でも、最近まで一部の地域で「秋葉講」が残っていた。皆んなでお金を出し合って、毎年代表が秋葉山へ皆んなの代参をする。何年かに一回、自分にも回ってきて、その時に代参を兼て物見遊山の旅行が出来るわけである。代参を出来るだけ早く済ませて、物見遊山に時間を割くのが人情である。山奥の秋葉山へは道路が良くなった現在でも、ずいぶん時間が掛かる。だから、東海道線袋井駅からそんなに遠くない可睡斎で代参は済ませてしまうことが多かったという。




(阿形烏天狗像と吽形天狗像)

本堂の左側を奥へ進んだ先に、秋葉総本殿三尺坊大権現の御真殿がある。進むと左右に幟が何本も立ち、左に阿形の烏天狗、右に吽(うん)形の天狗の像が立っている。間の石段を登った先に御真殿がある。拡声器を通して般若心経を上げる複数の僧の声が荒々しく聞こえて来た。その内、鳴り物が激しく打たれて何とも賑やかな勤行になった。山伏の系統の行者なのだろうか。火伏せの行をしているのであろう。打ち続く僧の声に背中を押されるように、可睡斎を後にした。
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二俣城址の紅葉とギンナン

(二俣城址の紅葉)

今年の紅葉もそろそろ終りだろう。この秋は、暖かいと思っていたら急に冷え込んだりと、今まであちこちと紅葉を見てきたが、早かったり遅かったりで、真っ盛りに当ったことがなかった。

昨日の日曜日、今盛りなところはどこだろうと考えた。もう山や渓谷は終っているだろうから、これからは街中だろう。そんな微妙なところとして選んだのが二俣城址である。空っ風が吹き、天気はいいが寒い日だった。

二俣城址の駐車場で車を降りると寒風に縮み上がるようであった。車止めのゲートから先に入ると、二俣城址の案内がテープで流れ出した。人を感知してテープを流す仕掛けになっているのであろう。しっかり聞かなかったが、おそらく案内板にあった次のような話がテープにあったのだろうと思う。

二俣城は徳川と武田両軍の攻防の舞台となった。元亀3年(1572)10月、武田信玄は大軍を率い遠州に侵入し二俣城を攻めた。籠城する徳川軍が釣瓶で天竜川から水を汲み上げていることを知り、釣瓶を壊して水を絶ったため二俣城は陥落した。次いで3年後の天正3年(1575)5月には、長篠の戦いで勝利した徳川軍が武田勢を一掃すべく二俣城を攻撃した。籠城の武田勢は兵糧が尽きて城を明け渡した。さらに、天正7年(1579)9月、家康の嫡子、信康が武田氏と通じていたとして、信長に切腹を命じられ、家康が涙を呑んで切腹させたのがこの二俣城においてであった。家康は後々まで信康の切腹を悔いることになった。




(二俣城ニの曲輪の空を塞ぐ紅葉)

本丸跡の広場を取り巻いてモミジが真っ赤に紅葉していた。この秋に目にした最高の紅葉であった。その先の土塁に囲まれた二の曲輪にはモミジの大木が何本もあって空を真っ赤に塞いでいた。

寒さを忘れて紅葉をデジカメに収めていたところ、二の曲輪の奥で何人かの人が下を見て右往左往している。どんぐりでも拾っているようだ。近寄って見るとキンナンであった。イチョウの木が二本あって、一本はすでに裸木になっている。もう一本は葉は落としているが、ギンナンがまだたくさん枝に残っていた。


(拾ったギンナン、二重に包装)

買い物袋をいっぱいにしたおじさんが幾らでもあると騒々しく拾っていた。紅葉見物の人たちにしきりに拾うことを勧めていた。しかしギンナンは何しろ臭い。その悪臭は耐えられないから、誰でも手を出す訳には行かない。女房が車に袋を取りに戻って、薄手のビニール袋を手袋代わりに手にはめ、二人でイチョウの落ち葉に隠れるギンナンを拾った。寒風が吹くとバラバラと上から落ちてくる。時間を掛ければ幾らでも拾えそうであった。あとの処理のことを考えて、買い物袋が半分くらいで程々にして帰って来た。

女房がビニールの手袋をして、実の部分を洗い落とすのに大変だったようで、実の部分は臭いから畑に穴を掘って埋めたと話していた。買えば1000円以上もするだろうと主婦は言う。紅葉狩りがどこかでギンナン狩りに化けてしまった。
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