goo

接阻峡温泉に入る

(接阻峡温泉会館)

11日、建国記念の日で休日。女房は川根温泉に友達と出かけた。何ということなく、温泉にでも入って来るかと、お昼前に息子と出かけた。行く先は接阻峡温泉である。何年ぶりであろうか。

道中、杉山が打ち続き、全山真っ赤になっているところもあり、花粉症対策眼鏡を掛けているものの、鼻はしっかりと花粉を探知していた。片手に、準備したべにふうきのお茶のボトルを握り締め、これだけが味方と、時々口に含む。急発進するな! あっ、口の周りにお茶を被ってしまったではないか。温くなっていて助かった。

川根温泉の前を通り過ぎ、大井川鉄道千頭駅の脇を抜け、寸又峡に行く道を左に分けて、ダム用に造られたトンネルを幾つも抜けて、井川線のアプト式の急坂を見ながら、長島ダムを通り過ぎると、接阻峡温泉にもう少しである。


(天狗石茶屋)

大井川鉄道井川線接阻峡温泉駅のそばに、「接阻峡温泉 森林露天風呂」という温泉民宿があり、立ち寄り入浴も可能とある。接阻峡温泉駅まで行って、民宿を見てきたが、今日は接阻峡温泉会館の方へ入るつもりで来た。午後1時を回っていたので、食事処を探して、「天狗石茶屋」で天ぷら蕎麦とおでんを食べた。蕎麦を大盛にして、完食はしたが、思いの外量があり、お腹にもたれた。

温泉会館はそこそこ混んでいた。大きな温泉ではないので10人を入れば一杯になる。冬の日が浴槽や洗い場に差し込んで眩しい。湯船が空くまで洗い場にいた。お湯は熱かった。入れないほどではなかったから、しっかりと浸かる。隣りの常連らしいおじさん達が今日は熱いと話している。野沢温泉はもっと熱かった。信州の温泉ですか。そう。今日は混み合っているから、回転を早めるために熱くしてあるのだろうと、皮肉屋である。前回はぬるくて浸かったまま、なかなか上がれなくて、長く入っていたと話す。

この温泉は冷泉で沸かしている。想像するに沸かした湯と源泉から引く冷泉を混ぜているが、源泉側の圧が時々上下して、調整が難しいのであろう。泉質は重炭酸ナトリウム泉で、肌にまとわりつくような感覚が心地よい。寸又峡温泉も同じ泉質で、向うは「美女づくりの湯」に対して、こちらは「若返りの湯」がキャッチフレーズである。つまりは、接阻峡温泉の方がおじいちゃんおばあちゃんに好まれる、庶民的な温泉という訳である。入湯料も300円はずいぶん格安である。

出てくると、誰かがお湯が熱いと注文を付けたのであろう、脱衣場におばちゃんがやって来て、熱かったかねぇ、とバルブを操作していた。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

井戸が枯れて、川根温泉へ

(川根温泉フロントホールの大提灯)

昨夜、井戸から水が上がらなくなった。雨の降らない状態が1ヶ月以上続いた結果である。ここへ家を建てて30数年になるが、このように完全に枯れたのは始めてである。何年か前に水道も入れて、井戸と水道の併用にしてきたから、いくつか困る部分はあるが、本当に困るのはお風呂と洗濯である。どちらも水を多く使うから、今まで井戸水で対応してきた。水道への切り換えは大規模な工事ではないけれども、水道工事が必要である。

朝、さっそく女房が工事屋さんに電話をしたが、この寒さで水道管の破裂などが多発しているためだろう、いつ工事にうかがえるか約束できないとの、つれない返事である。しばらくは、お風呂と洗濯は外に頼らねばならなくなった。もう一日ほどで寒さも山を越すとみられるから、水道工事に何日も待つということも無いのだろうが、とりあえず今日、差し当ってお風呂をどうしようかと思う。

ムサシの散歩の後で温泉でも行ってきたらと言い置いて、女房は出かけて行った。今朝も温泉に入ってきたので、女房は今夜はお風呂はいらないという。そこで、一番近い伊太和里の湯へ、一人で出かけた。大井川を渡った先で、伊太和里の湯の看板が出ていて、月曜日は休館だとあった。今日はその月曜日、Uターンして帰ってきた。お風呂は我慢かと諦めている所に、女房が帰ってきた。伊太和里の湯が休みなら、川根温泉に行こうという。川根温泉はやっているのかと聞くと、今朝貰ってきたばかりの川根温泉のカレンダーを見せる。休みはおおむね月1回だけで、今日もやっていることが確認できた。

食事の後、二人で川根温泉に向かう。銭湯代わりに温泉に行くのは初めてのことである。9時まで開いている。出かけたのが、7時過ぎで、行きに30分、帰りに30分、向こうで30分の、1時間半掛けての銭湯行きである。

昼間と違って、夜の川根温泉は混んでは居なかった。車も入口に割合近いところに停められた。浴槽にもゆったりと長湯が出来た。どこから入るのか寒い風が時々流れて、のぼせることが防げた。外に昼間ならSLが見える露天風呂があるが、今夜は寒くて出る気がしなかった。

目の前のおじさんがしきりに話している。一方的に話して、もう一人は黙って聞いている。声がこもるせいか、語尾にクセのある方言のせいか、外国語を聞いているようで、話している内容は全く理解できない。温泉の暖かさが身体の芯まで染み入って来るようで、自分の耳から脳までが理解を拒むように、陶然としていた。

出てから、しばらく待たされるかと思ったが、コーヒー牛乳を買おうとしていると、もう女房も出てきた。風呂上りにコーヒー牛乳はよく似合う。こんな場でしか、コーヒー牛乳を飲むことはない。

さて、水道工事が済むまで、あと何回温泉銭湯に来ることになるだろう。こんなに豊かな気持になれるなら、井戸が枯れるのもまた良しである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

嬉野温泉から帰って来た

(嬉野温泉、塩田川畔の温泉公園)

お昼に嬉野を発って帰路に着いた。バスで約30分で武雄温泉駅に着き、特急みどりで博多へ。乗ったのぞみは臨時列車(多分ゴールデンウィーク時期の)で、指定はがらがらだった。妙に疲れてのぞみで中国路をほとんどうつらうつらとしていた。温泉に浸かりすぎて疲れたのかもしれない。

嬉野温泉のシーボルトの湯は泊ったホテルの泉質と比べるとさらさらしていたと、午前中にお会いした銀行の支店長さんにお話したら、ホテルの温泉とシーボルトの湯では温泉が違うという。そんなことがあるのだろうか。自分は加水されているのが原因だと思っていたが、どうなんだろう。

昨日、少し書くことに困って、「今風の湯治場」などと書いたら、「大村屋」という署名で「いいかもしれません!アイディアありがとうございます。」とのコメントを頂いた。「大村屋」さんが、嬉野温泉の「大村屋」さんだったら、老舗の温泉旅館で、嬉野の街をうろうろしていた間に、名前を何度も見てきたような気がする。こんないい加減な感想がヒントになるならば、昨日の続きをもう少し書いてみようか。

長く逗留してもらえる今風の湯治場。ターケットにするのは仕事を終えた60代のご夫婦。昔の湯治場のように、ただ朝昼晩と温泉に入って湯治をし、食事は自炊で安く上げるというわけにはいかない。今風ではもう少し活動的になるし、自炊は嫌われるだろう。ホテルを拠点にして、ウォーキングシューズを履いて、半日ぐらいは表へ出る。軽く汗を流して、午後早めにホテルに戻って、温泉に入る。手の込んだ料理や満腹できる料理などは、60代のご夫婦には今さらいらない。温泉豆腐やだご汁のようなヘルシーな郷土料理の方が余程楽しい。

昼間、半日ほど汗を流すコースを出来るだけたくさん作って、その中から選んで、3日とか4日楽しめるようにしたい。嬉野の立地で思いつくものをあげてみようか。

   1.岩屋茶ロードの散策コース
   2.塩田川を溯り、轟の滝散策コース
   3.武雄巨樹見学コース
   4.有田焼見学買い物コース
   5.肥前街道散策と肥前夢街道見学コース
   6.元湯、シーボルトの湯など湯めぐりコース
   7.低山ハイキング登山コース

その位しか思い付かないが、地元の方ならまだまだたくさん思いつくだろう。テニスなど軽いスポーツもあってよいし、雨の日の美術館・博物館巡りなども面白い。それぞれに、交通機関、地図、食事処、立寄れる店や施設などの詳しい情報を提供し、自分たちで出かけてもらう。そして、歩くことと、温泉による湯治で元気になって帰ってもらう。旅に行って疲れて帰ってくるのではつまらない。

それを町として取り組んで、コースをどこの宿泊施設でも共通のものとして、整備充実したらどうかと思う。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

嬉野温泉シーボルトの湯

(レトロな嬉野温泉シーボルトの湯)

今夜は嬉野温泉ホテル光陽閣に泊まっている。出張一日目で、JRで武雄温泉まで来て、JRバスで嬉野温泉には午後3時過ぎについた。ホテルの場所が判らず、荷物もあったので、バスセンターからタクシーに初乗り区間で着いた。

嬉野温泉に新名所が出来た。この4月1日にオープンしたばかりの、「嬉野温泉シーボルトの湯」である。NHKのお昼の番組で紹介されていた。以前に来たとき大正時代の古湯温泉が再建されるとして、塩田川のほとりが整地されて看板が出ていたのを思い出す。

古湯温泉は江戸時代、蓮池藩の湯治場が元で、シーボルトが訪れた温泉として知られていた。版籍奉還によって地元の有力者の共同経営となって続けられていたが、大正11年(1922)正月の大火で全焼し、2年後にドイツ人建築家の設計で西洋建築の公衆浴場として再建され、家庭に風呂が無かった昭和40年頃まで公衆浴場として賑わった。1996年、利用客の減少で閉鎖されていたが、地元の要望を受けて「シーボルトの湯」として大正時代の西洋建築の意匠のままに再建されて、嬉野温泉の新名所としてオープンしたものである。

さっそくホテルでタオルを借りて出かけた。塩田川の赤い橋を渡って温泉公園を行くとすぐそこに「シーボルトの湯」の新しい建物が見えている。建物はレトロな洋風建築で嬉野温泉街に似合いそうである。もう一度橋を渡って、料金400円払って入った。エントランスホールが吹き抜けになっていて気持がよい。

浴室は設備がまことにシンプルである。昔の公衆浴場には余分な施設は何もなかったから、あえてシンプルにしたのだろう。銭湯なら壁いっぱいに富士山の絵でも描くのだろうが、変りに小さくタイル絵で塩田川上流の轟の滝が描かれていた。泉質は加水と書かれていたが、嬉野温泉のとろりとした感触が少なく、湯の温度もややぬるくて、以前に入った元湯とは随分違った。毎日汗を流しに入るならこちらの方が良いかもしれないが、温泉目当てに来るならば少し物足りないかもしれない。自分はホテルに帰ってとろりとしたホテルの湯に入り直した。


(シーボルトの湯浴室)

時間帯のせいであろうか、客が少なくて、浴室に人がいなくなったので、浴室内の写真を取ってきた。湯上りに中を見学して回った。2階は休憩室があり、食堂は無いけれども近くの幾つかの食堂から色々なものが出前できるという。このシステムは斬新で面白い。ベランダへ出ると足下の塩田川と温泉街が一望に出来て眺めが最高であった。

貸切湯が5箇所もあって、現代はお年寄りなどを介護しながら入れるのに必要なのだろう。大人5人までで2000円だから、随分割安であった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

大東温泉シートピアと帰りのバス

(大東温泉シートピア)

(昨日の続き)
大東温泉シートピアへ入るのは久し振りである。以前は入湯料が1000円で、一風呂浴びるには割高だった。現在は他の温泉並みに500円に値下げされていた。

受付で掛川駅までの交通の便を聞いたところ、大東支所まで送迎バスが、3時、4時、5時のそれぞれ丁度に玄関口から出るという。3時5分前だったから4時丁度まで1時間少々ある。大東支所は元大東町役場で、掛川市役所大東支所だろう。大東支所から駅へは4時16分にバスが出る。送迎バスは大東支所まで5分。これで帰りのコースは決まった。

大東温泉シートピアは地中海風建物で温泉はアメリカンコーヒーのように褐色半透明で、海のそばの温泉だけに塩泉で塩辛い。料金を下げたのだからもっと客が増えても良さそうであるが、案外と少ない。平日に客を集めるには街から離れ過ぎているのか。週末はもっと客が増えるのだろう。何時行っても客が多い温泉を利用していると、こんなに静かな温泉は大変貴重に感じた。

温泉から上がって食事処「湯快亭」に行き、ざる蕎麦を頼んだ。自販機で食券を買い、食券を渡すと携帯電話より一回り大きい受信機を寄越した。セルフサービスで出来たら鳴らしますからという。鳴らすも何も客は自分も含めて二人、一人はすでにテレビを見ながら食事をしている。案の定、そば出来ましたと口頭で呼ばれていくと、途中で受信機がびいーと鳴った。何のこっちゃと、受信機とざる蕎麦を交換した。客がたくさんになれば威力を発揮するのだろうか。アイデア倒れのような気もするが。

一時間経って、玄関口で待つと時間通りに送迎バスが来た。乗ると「お客さん温泉利用しました?」「入ってきたよ。来るときは駅から歩いてきたから」あくまで温泉利用者の送迎バスで、利用しない人は乗せないということなのだろう。片道だけの利用だし、温泉に入りに来たような服装ではないから、聞いたのだろうと思った。余り愉快ではない。どうせなら「お客さん、温泉はいかがでした?」と聞いた方がどれだけ感じが良いかと思った。「よく温まったよ」といえば入ったことになるし、「今日は入らなかった」といえばアウトにすればいい。それがいやなら利用した半券を乗車券替りに拝見するようなルールにする手もある。ともあれ、自分一人を乗せて送迎バスは出発した。

大東支所バス停で10分ほど待つとバスが来た。ここでも乗るのは自分一人。後ろに乗っているのも寂しいから、運転手の隣りの一番前の席に座った。駅までの料金と乗車時間を聞いた。話好きな運転手さんで「明日から掛川の大祭りで‥‥」と話始めた。「最近はバスの運転もお祭りには休めるようになりました。アルバイトが対応してくれるから。」おそらく団塊の定年者がアルバイトとなって、そんな対応が出来るようになったのだろう。今日は掛川駅から大東温泉シートピアまで歩いたと話すと、びっくりして「ええっ、歩いてですか」という。四国のお遍路に行く訓練なのだというと、「バスで行かれる方も多勢います。自分は行ったことはないですが。」自分はすべて歩いてお遍路をするというと、またまたびっくりされた。しばらくお遍路話に花を咲かせたが、途中でお客が乗ってきたので話を止めた。掛川駅で料金を払って降りようとすると、「お遍路頑張って、気をつけて行って下さい」と励ましの言葉が背中を押した。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

武雄温泉、元湯へ入る

(武雄温泉 楼門)

昨日、大クスを見た後、街に戻ってホテルのフロントに教わった温泉街に向った。

大クス見物の途中で、武雄郵便局に寄り、葉書に風景印(風景入り日付印)をもらった。旅に出て郵便局を見つけると、風景印をもらうことを趣味にしている。その局の名所などの絵の入った消印で、葉書に打ってもらえば、たった50円で旅の記念になる。日付は埋め込み式になっていて、その都度、ピンセットで日付を差し替えたり、けっこう手間が掛かる。50円では割りに合うものではないが、郵便局で嫌がらずにやってくれる。


(武雄郵便局、風景入り日付印)

図柄は、手前に武雄温泉の竜宮門(楼門)、湯けむりの背後には街のシンボルの御船山が見える。ちなみに、武雄の大クスはあの御船山の山懐で3000年の歳を重ねている。

郵便局の女性事務員に、図柄の竜宮門はどこかのお寺にあるのかと聞くと、お寺ではなくて温泉施設の門だという。どうやら、これから行く温泉はその門の中にあるらしい。

まっすぐ北へ、国道とJRの高架線を突っ切って進むと、武雄温泉街に入り、その突き当たりに楼門があった。

この楼門は、その奥の新館とともに、国の重要文化財に指定されている。案内板によると、東京駅の設計をした辰野金吾はここからさほど遠くない唐津市の出身だというが、晩年に武雄温泉組(現在の武雄温泉株式会社)から依頼されて、この楼門及び新館を設計し、大正4年に竣工した。辰野金吾の設計では、現存する中で数少ない木造建築で、佐賀県では唯一の建築物である。正面に竜宮門を置き、複数の浴室と休憩室を一体化した新館を置く配置など、保養施設の歴史を知る上でも重要なことから、平成17年に国の重要文化財に指定された。

楼門を入って左手の建物が共同浴場で、受付に聞くと元湯が300円、蓬莱湯が400円、古い方は元湯で、こちらにはシャンプーも石鹸もないという。ホテルでタオルとシャンプー、石鹸を持たせてくれた理由がわかった。当然、元湯に入ることにした。

元湯は明治9年に建てられたもので、天井のむき出しの木組みが面白い。ご近所の老人が数人、盥に道具一式を入れて入っている。中に湯船がお湯の温度の高低で二つあり、温度のひくい方が42~43℃、高い方が44~45.5℃(源泉のまま)と記されていた。夏では高温は厳しいので、低い方だけ入った。泉質は嬉野温泉に似ていて、肌にとろりとまつわるような美肌の湯であった。武雄温泉元湯は45湯目の日帰り温泉である。

夜、ホテルで遅くまで足が火照って、冷房を入れた上で、足だけ蒲団から出して寝た。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

伊太丁仏参道から伊太和里の湯

(後畑からの眺望、相賀谷から高山)

今朝、天気は良好、風もさわやかで、やって来たまーくんにバイバイをして、歩きに出かけた。今日の最終目的地は田代の郷温泉、伊太和里の湯である。忘れないように最初にコンビニで昼食用おむすび3個を購入した。図書館に寄って本を返却し、島田に渡って、相賀の谷間を相賀谷川に沿って遡った。

和田から農道を千葉山に向かって登っていく。後畑の集落を抜けると、道は茶畑の斜面を右へ左へと登っていく。茶畑からの見晴らしはすばらしい。相賀の谷から、高山へ向かって標高を高めていく稜線まで、しっかり見えた。

林に入って車道が平らになり、スカイペンションどうだん荘に着いた。ここまで約3時間掛かった。その先、どうだん原で遅めの食事を摂った。ドウダンは盛りは過ぎたようであった。ドウダンは補植されて、随分増えたが、地味な白の小花で、盛りでもそれほど目立つことはない。サラサドウダンなどを植えれば、随分派手になると思うが、この山に元からある植生ではないから、管理する人たちも自制しているのであろう。

どうだん原を過ぎると、道は千葉山ハイキングコースから左へ分かれる。「伊太田代八幡神社」の標識に従って下って行く。どうだん荘のそばで24番であった丁仏がどうだん原の先では14番になっていた。この道は伊太丁仏参道と呼ばれ、尾川丁仏参道と並んで千葉山に登る古い参道である。林間にクロツグミの美しい声が聞こえていた。

伊太丁仏参道の登山口の田代地区は大きく様変わりした。田代の郷は戦国時代の落武者が住み着いたのが始まりと言われ、昔から凧を揚げることが禁じられていた。隠れ住んでいたことを示す話である。多いときには10数戸を数えたが、過疎化して最後に4戸残った。第二東名工事に伴い、その4戸も町へ出て集落が消えた。そんな経緯を記した石碑があった。八幡神社の石造鳥居の天辺の部分が集落の記念物として残されていた。


(田代の郷温泉、伊太和里の湯)

伊太和里の湯はこの4月にオープンしたばかりである。谷を大きく埋めて平地を造り、黒塗りの木造平屋で、ゆったりと造られていた。最新の温泉施設らしく、細かい工夫がされている。下足の鍵を持って受付へ料金500円を払うと、交換に大きなカードをくれる。そのカードを脱衣棚の扉の内側に差し込むと鍵を掛けることができ、しかも扉の窓からそのカードの番号を確認できる仕組みになっている。脱衣棚の扉の内側に眼鏡を置く小さな棚があり、眼鏡の置き場に困る自分にはありがたい。お風呂はやや温めであるが、とろり感もあって悪くない。平日の日中にしては客も多かった。伊太和里の湯は44湯目の日帰り温泉である。

伊太和里の湯からは二時間に一本、金谷にコミュニティバスが出ている。その4時ちょうどのバスに乗って帰った。バスは夢づくり会館に止まり、そこから歩いて帰った。本日の歩数は30,516歩、約20キロメートルの歩行であった。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

嬉野温泉元湯に入る

(嬉野「元湯温泉」)

昨夕、嬉野温泉で轟の滝を見たあと、国道34号線バイパスを東へ歩いて、ホテルのおばちゃんに聞いた「元湯温泉」へ行った。銭湯形式の温泉で入湯料が350円(土日祭日は500円)と安い。但し石鹸もシャンプーも置いてないという。150円のタオルを買って入る。靴箱に10円、脱衣ロッカーに100円掛かり、〆て610円掛かった。嬉野「元湯温泉」が43湯目の日帰り温泉となる。

浴槽は高温、中温、低温の三つに分かれている。泉出口から浴槽の仕切りを越していくうちに、自然に温度が下がるようだ。湯槽に入って見ると中温あたりがもっとも入りやすくて気持ちがよい。入っているのは6、7人でこの広さの浴室ではガラガラであった。いずれも入浴グッズを持ち込んでいるから観光客というより、地元の人たちなのであろう。壁には、嬉野茶の茶摘風景を描いたタイル絵と、郷土芸能「面浮立(めんぶりゅう)」の勇ましい踊りを描いたタイル絵があった。

泉質は弱アルカリ重曹泉で、川根奥の寸又峡や接阻峡の温泉と同様に、肌にまつわるようなヌルヌル感がある。看板に「日本三大美肌の湯」とあるように、肌がツルツルしていかにも美肌になりそうだ。ちなみに寸又峡温泉のキャッチフレーズは「美人づくりの湯」である。ところで「三大」の温泉には嬉野温泉以外にどこが入るのであろうか。(帰宅後調べたところ、「斐乃上温泉」-島根県奥出雲町・泉質:アルカリ性単純温泉、及び、「喜連川温泉」-栃木県さくら市・泉質:ナトリウム塩化物泉、が入るという)

カラスの行水で、もったいないくらい早く上がってきたけれども、その夜は寝るまで身体がポカポカしていた。パイパスからクスの大木が境内を囲む神社に入り、参道を通って旧道へ抜けた。この神社は豊玉姫神社といい、海神の娘で、竜宮城の乙姫さまともいわれている豊玉姫を祀っている。嬉野温泉の守り神で「美肌の神様」として尊崇されているという。実にこの地にふさわしい神様である。

町の本屋さんに寄った。先客が一人いるだけで、レジに人がいない。バックミュージックのようにラジオが小さく何かを語っている。文庫本を2冊選び、奥へ声を掛けたら、後ろで「ハイ」という。先客だと思った人が主人だった。
「この前の通りがメインの通りですか?」
「ええ、客が減って静かなものです」
「今、元湯温泉に入ってきたけど、ぬるぬるしていい温泉だったけどなあ。」
「そうですか。沢山入っていましたか?」
「時間が早いのか地元の人が6、7人で空いてました。」
「いつもは、観光客がたくさん入って混むんですけどねえ。」
会話はそれ以上に進まなかった。

今日、地元の人に聞くと、観光客を呼び戻す目玉として、塩田川沿いにかつてあった公衆浴場「古湯」を再建して復活させるという。老朽化して解体されたが、大正時代に建てられた洋風建築で、大正ロマンを感じさせて人気があった。創建当時の外観に復活させるという。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

露天温泉付コテージで新年会

(コテージの夜の露天風呂)

全国の三が日の初詣客は今年は例年に比べて多く、9900万人を越え一億人に迫る勢いであったという。世界不況の真っ只中、こうなったら神頼みしかないという国民感情なのだろう。ソフト会社でも毎年、年が明けて何日目かに皆んなで初詣に行くのを慣わしとしていた。

今年は趣向を変えて、「川根温泉ふれあいコテージ」を借りて一泊新年会を行うことになった。このコテージは川根温泉に付属した設備で、一戸建てのコテージが10棟あり、すべてに天然温泉が引かれているが、内5棟にはそれぞれかけ流しの露天温泉がついている。女房が同級生仲間と何度も使っていて、話には聞いていた。予約した棟にももちろん露天風呂が付いている。休み前で料金が割引の平日よりも1万円ほど高い。だから、年末の予約でも取れたとも言える。

昨日午後、少し早めに会社を終えて、O氏と買出しに出かける。自炊の料理は自分が鍋奉行の関西風すき焼きと、O氏が鍋奉行のタラ、カニ、カキを入れた鍋である。すき焼きの牛肉は予約しておいたジャパンバザールで求め、その他は島田のアピタで買い、川根のコテージに向かった。酒やつまみは別の人たちが求めてくることになっている。久し振りの雨で、コテージの露天風呂の様子が気になった。

1時間半ほど、年初めの打ち合わせ会議をした後、それぞれの鍋奉行が刻み終えてあったすき焼きと鍋を2つのカセットガスコンロを並べて作った。すき焼きでは肉を焼いた上に砂糖と醤油を入れる時点で、Y氏が味見をしてみようと言うには参った。すき焼きで味見をするなどという暴挙に出ることは、いまだかつて聞いたことが無い。だから、どう言って断わるか言葉に詰まった。自分以外、食べたことが無いという、関西風すき焼きを一度食べさせたいと提案したわけで、味をみて甘い辛いを言われても困るし、味は野菜などを入れて煮てから総合的に決まるもので、途中で味見する訳にはいかない。しかし説明するとかえって事態を複雑にする。ここは鍋奉行の権限で味見を禁止した。味は感と度胸の男の料理よ!

結果、美味いも不味いも反応がいまいちで、鍋奉行としては少し気持が萎えているが、すき焼きも鍋も食べ残すこともほとんど無く、食べてもらえたことを良しとしなければなるまい。

夜が更けるまで、露天風呂に入ったり、麻雀をしたりして過ごした。露天風呂は夜と夜中の2度入った。かけ流しでけっこう熱い湯であった。とろりとした温泉は口にすると少し塩っぱかった。雨は止み夜中には月が出て、湯の熱さに慣れてくると気持ち良さが全身をおおった。和室一杯に蒲団を敷いて寝た。温泉で温まった上に、羽毛布団で、暖房を消して寝たけれども朝まで寒いとは感じなかった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

湯~らんどパルとよね

(兎鹿嶋温泉「湯~らんどパルとよね」)

飯田からは国道151号線を通って帰った。この旅では温泉に入れなかったから、帰りには温泉に入って帰ろうと話したが、息子は待っているから一人で入るように言う。自分と違って温泉を好まないようだ。かといって宿では夜と朝、2度お風呂に入っているからお風呂が嫌いというわけではなさそうだ。新野峠を越えて愛知県に入った。愛知県で一番奥の日帰り温泉がターゲットであった。兎鹿嶋(とがしま)温泉「湯~らんどパルとよね」(愛知県北設楽郡豊根村)は国道から2kmほど入ったところにあった。

こんな山奥のどん詰まりにと思ったが、想像以上に車が停まっていた。肌にまとわるような、川根奥の温泉と似た泉質である。かつてはアルカリ性単純温泉だったが、井戸を掘り直して、平成19年12月21日より、兎鹿嶋温泉2号源泉を利用開始、泉質がナトリウム-炭酸水素塩・塩化物温泉になった。係りの男性にどこから来る客が多いかと聞いてみると、浜松、豊橋、豊田、名古屋から来ていただいているという。なるほど泉質が良いとここまで遠征してくるのかと人の入りを納得した。

息子を待たしてあったが、露天風呂にも入り、産直の生椎茸も購入し、25分で出てきた。

温泉を気にしながら走ってきて、国道151号線沿いには、実に多くの温泉があることを知った。その中で温泉旅館やホテルではなくて、日帰り温泉だけに限って北から順番に書き出して見た。「湯~らんどパルとよね」の他に、

    信州いいだ温泉「湯里湖」 (長野県飯田市下瀬)
    「秋桜の湯」         (長野県下伊那郡下條村)
    「かじかの湯」        (長野県下伊那郡阿南町)
    天龍温泉「おきよめの湯」 (長野県下伊那郡天龍村)
    「とうえい温泉」       (愛知県北設楽郡東栄町下田)
    名号温泉「うめの湯」    (愛知県新城市名号)
    「鳳来ゆ~ゆ~ありいな」 (愛知県新城市能登瀬)
    湯谷温泉「板敷の湯」   (愛知県新城市豊岡)
    「本宮の湯」         (愛知県豊川市上長山町)


など、9ヶ所の日帰り温泉が10kmと空けずに並んでおり、温泉ファンにとっては垂涎の街道であった。なお、上記の中では、「鳳来ゆ~ゆ~ありいな」と「本宮の湯」は過去に入ったことがある。

「湯~らんどパルとよね」は42湯目の日帰り温泉であった。以上で14日に渡った「息子と巡る “城” の旅」の記録を終わりとする。記録を書き込んでいる間に、梅雨も終わったようで、今朝からカンカン照りになってきた。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ