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お袋七回忌の法事に帰郷(3)

(城崎温泉、大師山のかに塚

城崎ロープウェイ山頂駅そばにかに塚がある。城崎は観光客の多くが冬の松葉がにを目当てにやってくる。供養の碑が出来るのは当たり前と云えば当たり前である。

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故郷の実家には、すでに長兄が伊勢から到着していた。家を継いだ次兄は子供が5人、その三男が家に入り、その子供が小一を先頭に3人、すでに大いに賑やかであった。中でも、一番下の三つの女児は、見違えるようにおしゃべりになり、人見知りせず、ぺちゃくちゃとしゃべり、取り留めもなく聞こえるが、時々ぐさりと来るような疑問を投げかけてくる。

三男は、同郷の俳優、今井雅之氏にあこがれて、役者になろうと、大学は東京に出た。小さな劇団に席を置き、今井雅之氏の舞台にちょい役で出たこともあった。その後、アルバイトに励んだ料理店で、料理に興味を持ったのだろうか。役者の夢を捨て、縁あって、城崎の老舗旅館の調理場に入り、今、五年経った。その間に、憧れていた今井雅之氏も早世した。京都の八坂神社で挙げた、同郷の女性との結婚式では、自分が仲人役を果たした。

夜、帰って来て、自分が今、江戸時代の料理の古文書解読に、大苦労していると話したら、参考になるかどうかと、数冊の料理本を貸してくれた。頼んだわけでもないのに、自分の蔵書から見繕ってくれたのである。料理についても、勉強している様子が窺えた。10年かかるといわれる、料理人の修行を、5年経ったところで、新設される割烹料理店に出ることになったという。ある程度、任されるようになるのだろうか。

城崎温泉は、街中には大きなホテルを建てさせず、小さな旅館がたくさん集まって成り立っている。しかし、近年は、個々の旅館がそれぞれに料理人を抱えて、料理を出すことが難しくなり、夕食は外でというケースも増えて来たという。どうやら、そういう観光客が狙いの店らしい。超高級な料理ではないけれども、一般の食事処よりも、高級な料理が狙い所なのだろう。開店したら、ぜひ、客で食べに行くと話した。

今、料理人はどんな仕事ぶりなのか、聞いてみた。とにかく今、客が増えていて、料理人の手が足らず、土地柄、海産物が多いが、魚を三枚に下すなどの下作業は、済んでいるものを仕入れざるを得ないという。その他の食材も、自ら食材選びをしている時間的な余裕がなく、業者任せになってしまうとも話す。

彼も料理人の顔になってきたと感じた。(つづく)
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「竹下村誌稿」を読む 100 榛原郡 36

(26日宿泊した大師山展望台より、城崎温泉全景)

城崎の温泉街は、この谷あいを流れる大谿川に沿って発展した。三階建て以上の建物は禁止していて、大きな温泉は外湯に7ヶ所あり、泊り客はそれを巡る。今、その方式が受けて、観光客が押し寄せている。先に見える川は円山川の河口付近である。

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法事の話の途中だが、一回「竹下村誌稿」を挟む。榛原郡の項がちょうど切りが付くからである。誌稿の続きは少し間が空くことになるであろう。

陸路 東海道鉄道は、本郡の中部を東西に横切り、金谷駅を設置し、明治二十二年四月より開通せり。南部地方、川根、相良より、何れも道路を通して、金谷駅に連絡せり。北部地方に通ずる川根街道、またこの駅を起点とせり。藤相鉄道は藤相鉄道株式会社の経営に係り、藤枝より相良に至る軽便鉄道なり。

東海道、昔の駅路にして、今の国道なり。金谷町を通過し、延長一里強とす。横須賀街道(郡内延長六里余)、金谷停車場往還(延長六里余)、金谷-川崎往還(延長三里二十五丁)、島田-川崎往還(延長一里二十五丁)、相良-掛川往還(延長一里二十六丁)、金谷-初倉往還(延長二里余)、相良-金谷往還(延長四里余)、金谷-日坂往還(延長二十丁)、大幡-勝間田往還(延長二里)、浜街道(延長一里二十丁)、相良-池新田往還(延長九丁)、御前崎往還(延長一里九丁)、藤枝-初倉往還(延長十一丁)、川根街道(延長十二里余工事中)、川根東街道(大井川に架設する鉄線橋延長百間)、大代往還(延長一里二十四丁)、等にして、何れも郡内主要の県道なり。その他、三倉-家山往還、犬居-川根往還あり。これらは皆な未改良に属す。

海運 川崎港は勝間田川の河口にあり、満潮深さ八尺。相良港は萩間川の河口にあり、満潮深さ一丈。地頭方港は御前崎の東北にあり、満潮深さ二十五尺。何れも地方運輸の要衝に当り、輸出入の貨物を吞吐する便を有すといえども、巨船を碇泊せしむるに適せず。
※ 吞吐(どんと)- 入ったり出たりすること。

物産 茶、石灰、石油、和布(にきめ)、干藷(ほしいも)、切干、葉煙草、鰹節、缶詰、木材、木炭、椎茸、米、麦、柿及び志戸呂焼と称する陶器など、最も名あり。
※ 和布(にきめ)- ワカメなど、やわらかな海藻類。

動植物 北部は猪、鹿、熊、狼など棲息し、南部は狐、狸、兔類多し。鳥類は至る所、山野に巣住すといえども、稀に見るは(おおとり)、雁、杜鵑(ほととぎす)なりとす。魚類は大は鯨鯢より、小は鮒、鰻あり。就中、有名なるは御前崎白羽の乾鰛(ほしいわし)、相良の海老、大井川の年魚(あゆ)、石班魚(うぐい)、家山の鯉などあり。
※ 鴻(おおとり)- ひしくい。こうのとり。
※ 鯨鯢(げいげい)-「鯨」は雄クジラ。「鯢」は雌クジラ。


樹林は北部は杉、桧、羅漢松、及び薪炭材に富み、南部は松、椎、樟(くす)、竹類多し。
※ 羅漢松(らかんまつ)- ラカンマキの別名。

(「榛原郡」の項おわり)

読書:「総力捜査」 安東能明 著
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お袋七回忌の法事に帰郷(2)

(法事の会場、浄土宗来迎寺)

故郷で頼まれたベニフウキの注文に、お茶問屋K園に行き、会社の経理、G君に逢う。会社で長年部下だったSY氏、腰を痛めたのがきっかけで、会社を退職したと聞いた。早速、家に電話し、積もる話もあるだろうから、遊びにおいでと誘った。

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(昨日の続き)
病院に運び込まれて、意識を取り戻すまで4日間掛った。治療の理由はよく判らないが、早く目覚め過ぎないように、睡眠剤が投与されていたらしいという。4日目の目覚めは、ぐっすりと寝て朝を迎えるようなもので、夢さえ見た記憶がなかったと話す。

目覚めて、リハビリに入ったが、身体のどこも不自由な所が無く、後遺症は
皆無であった。車いすでリハビリに行ったが、リハビリの必要もなく戻ってきたという。山の上で倒れるなど、不運中の不運に見舞われながら、これ以上ない幸運に恵まれた。街で群衆の中に居ても、これだけ早い処置が出来たかどうかは疑わしい。

KY氏は、あの世の入口まで行った来たのだから、どうしても聞きたいことがあった。意識を失っている間に、何か見たかということである。それは看護師さんにも聞かれたが(やっぱり彼女たちも気になるのどろう)、ぐっすり寝たあとの目覚めで、残念ながら、どんな記憶もないという。余りにも処置が早かったので、そこまで行く前にこちらに戻って来たのだろう。

自分が思うに、人間は死に直面したとき、脳内にモルヒネのような物質が出て、自然に、死の恐怖を和らげるように、プログラミングされているようだ。そして、その経験が、奇跡的な生還者からは、光に包まれた自分がいた、明るい花園を見た、阿弥陀仏の来迎を見た、など、記憶の断片として語られるのであろう。

クライマーズハイという言葉がある。登山者の興奮状態が極限まで達し、恐怖感が麻痺してしまう状態のことである。かつて登山を趣味としていたが、頂きまで登り切ったとき、恍惚とした至福の時間が訪れる。そんな辛いことをわざわざしなくてもと思いながら、一度登山をすると、また登りたくなるのは、その時間を味わいたいからだと思う。

クライマーズハイも、登頂時の至福の時間も、おそらく、脳内モルヒネのせいだろう。ランナーズハイもしかり。お遍路にも「お遍路ハイ」があるなどと、誰かに話したことがある。確かに、30キロの道のりを歩いて来て、遍路宿に着き、風呂に入ったときの満足感、達成感は格別のものである。

KY氏とは湯葉尽くしの昼食を食べ、その後、喫茶店で話し続け、おかげで福知山からの連絡特急もなくなり、福知山からは各駅停車の電車で故郷に着いた。(つづく)
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お袋七回忌の法事に帰郷(1)

(お袋七回忌法事、浄土宗来迎寺にて)

一昨日、法事の会食の席で隣り合わせになったKH氏に、「四国お遍路まんだら」正続2冊を郵送した。

午後、島田に楽水会の水彩画展を見に行く。会社の同僚だったⅠS氏から案内をもらったからである。月一、二回スケッチに行き、家で仕上げるのだと聞いた。夕方、ⅠS氏より礼の電話があり、少し話をした。

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昨夕、二泊三日のお袋の七回忌の帰郷から戻ってきた。女房はムサシの世話で、留守番で、一人で行った。三日間であったが、たくさんの人と会って話をした。

一日目、往路の京都駅で、途中下車。子供の頃からの最も古い友人、KY君と待ち合わせ、昼食をとりながら、5時間近く積もる話をした。考えてみれば、前回会ってから10年以上会っていないと思う。城崎温泉での小六の同窓会以来のようだ。その辺はKY君の話を聞いて思い出した次第で、自分はすっかり忘れていた。このブログで検索してみると、それは2005年だったから、13年になる。

55歳で仕事を終えたKY君と、65歳まで会社に係わった自分に、10年の差があるが、それぞれに色々なことがあり、様々な思いがあったようだ。共に高度成長期に職場に入り、順調な会社人生を送ってきたけれども、最後の最後に、マイナス成長の時代に突入して、会社がそれぞれ厳しくなり、辛い経験してきたようだ。それでも、今から思えば、お互いに幸せなゴールであったと思う。

第二の人生では、会社人生とはきっぱり縁を切り、KY君は何もやらないと心に決めたと話していた。付き合いも極々限定的に、隠遁生活に近い暮らし方に聞こえた。一方、自分は、同じように会社人生と縁を切り、第二の人生は全く別のことを始めようと思い、お遍路へ2度行き、本も2冊自費出版した。古文書解読は、先生と呼ばれるところまで来た。会社とは別に、色々な友人知人が出来た。

KY君の何年か前の体験に話題が進んだ。退職してから始めた、ほとんど唯一の趣味、山登りでのこと。ロープウェイ駅まで下山したところで、心室細動を起し、心臓が止まって倒れた。ところが、KY君のために用意されたように、そのロープウェイ駅にはAEDが設置されていて、客の中から医者が名乗り出てくれ、すぐに処置された。再び、心臓が動き出すまで10分と掛からなかったという。まるでAEDのコマーシャルに使えそうな、奇跡的な生還であった。(明日につづく)
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「竹下村誌稿」を読む 99 榛原郡 35

(昨夜の城崎、大谿川沿いの桜はまだ開花していなかった)

夕方、故郷から戻った。昨夜は城崎へ泊った。観光客の多さに驚く。山陰は桜の開花はまだで、夜は暖房が必要なほどの肌寒さであった。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

土工 東海道中、第一の難所とせし大井川は、古えより徒渉なるを以って、霖雨(長雨)の時は数十日、渉りを絶ち、行旅の最も苦しむ所なり。維新後、渡船となりしも、未だ全く不便を免れたりとせず。ここに、志太郡小川村向笠弥平次、金谷町仲田源蔵など、官許を経て架橋に着手し、五ヶ年を経て、明治十六年に至り、長さ七百三十間、海道一の長橋を落成せり。これより四時洪水あるも、往返、馬控え、笠蓑朽ち破れ、月渉るの嘆なし。今は流失して復た修(おさ)めず。
※ 行旅(こうりょ)- 旅をすること。旅人。
※ 往返(おうへん)- 行くことと帰ること。往復。
※ 月渉る(つきわたる)- 日数がかかる意。


遠州凾根(箱根)の称ある中山峠は、旅客の難艱(艱難)とする所なり。明治十三年、静岡市安西の人、伏見忠七、金谷町の人、杉本権蔵など、官允を得、新道を開鑿し、馬車の通行に便せり。
※ 官允(かんいん)- 役所の許可。

水旱雨患の尠(すくな)からざる坂部村坂口は、霖雨(長雨)には田面湖水となり、炎熱数日続けば、田面亀裂して砂を巻き、恰も沙漠状をなし、戸口将に滅せんとす。同村の人、本間賢蔵、川崎町の人、笠原甚一郎、百法救済法を講じ、允可を経、明治七年、字大門に長さ百八十間の隧道を開通し、翌年、功を竣(おわ)り、隣村青柳より大井川の分流を堰入れ、長さ二十町余の溝渠を設け、始めて旱害を免るゝことを得。また、字儘山下より屈曲せる坂口川を一直線に開堀して海に通じ、潴水横溢の患(うれ)いを除き、今や二毛田に変じたるもの、九拾四町歩に及べり。
※ 水旱(すいかん)- 洪水と日照り。
※ 雨患(うかん)- 雨の心配。
※ 戸口(ここう)- 戸数と人口。
※ 百法(ひゃっぽう)- 色々な方策。
※ 允可(いんか)- 許可。
※ 溝渠(こうきょ)- 水を流すみぞ。給排水のためのみぞ。
※ 潴水(ちょすい)- 貯水。
※ 横溢(おういつ)- 水がみなぎりあふれること。


古えより、屈曲甚だしかりし勝間田川は、大雨ごとに破堤を免れざりしが、村長鈴木亮之助、これを憂い、明治十一年許可を乞い、新川路三百七十五間を開き、廃川跡四百三十五間、工費三千三百円を投じ、水害を免るゝ。面積四十余町歩あり。
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「竹下村誌稿」を読む 98 榛原郡 34

(散歩道のイタドリの新芽、3/22撮影)

イタドリは、大きくなると迷惑な雑草だが、芽生えた時はけっこうきれいである。お遍路の時、これを摘んで塩漬けの保存食に加工していた、おばちゃんがいたのを思い出す。
(お袋の七回忌で、故郷へ帰郷中)

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

官衙
榛原郡役所は川崎町にあり。郡内十六ヶ町村を統轄す。
警察署は同町にあり。金谷、相良の二ヶ所に分署を置き、郡内一般の警察を掌る。
掛川区裁判所出張所は金谷、川崎、相良の三町にあり、不動産登記事務を扱う。
税務署は藤枝町にあり、榛原、志太二郡の税務を管す。
煙草専売局は川崎町にあり。
※ 官衙(かんが)- 役所。官庁。

議員
国会議員 大正七年六月、貴族院議員として、中村円一郎、当選せし外、衆議院議員として、本郡より撰出せしもの未だなし。
県会議員 本郡定員三名。
郡会議員 同三十名。

中学校
榛原中学校は川崎町にあり。明治三十四年の草設(創設)にして、第十回までに卒業生三百十三人を出せり。初め郡立なりしが、大正六年度より県立となり、県立榛原中学校と改称す。

通信
郵便電信局は、金谷、静波、相良、千頭、上長尾、家山、吉田、初倉、地頭方、御前崎にあり。皆な三等局にして、大沢原、住吉、郵便局は何れも無集配に属す。金谷、静波、相良、吉田は公衆電話あり。御前崎、地頭方はその局に於いてのみ、これを扱いしが、後変更あり。

営業団体
郡農会、蚕糸業組合は川崎町にあり。茶業組合、木炭同業組合は金谷町にあり。水産組合は相良町にあり。甘藷切干同業組合は地頭方村にあり。皆な当該事務担任す。

金融機関
金融機関は各種ありといえども、その内、重(主)なる銀行の資本金額十万円以上のものは、東遠銀行(二十万円)、相良銀行(十六万円)、勝間田銀行(十五万円)、川崎銀行(十万円)の四行なりしも、後変更あり。その他産業組合、質屋、郵便貯金などあり。

首邑 金谷、相良、川崎とす。
金谷は東海道五十三程の一驛にして、今も東海道鉄道の金谷駅あり。市街整備し、郡中の小都会なり。
相良は海浜にありて、水産に富み、漁猟の便を得、往事の所謂大名の城下なり。
川崎は近時交通の便開け、益々発展し公衙多く、ここにあり。何れも地方物資の集散地なり。
※ 首邑(しゅゆう)- その地方の中心の村。
※ 漁猟(ぎょりょう)- 魚介類をとること。漁業。
※ 公衙(こうが)- 役所。官公庁。
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「竹下村誌稿」を読む 97 榛原郡 33

(散歩道のシバザクラ、3/22撮影)

(お袋の七回忌で、故郷へ帰郷中)

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

神社 神社の数は百三十二座あり。その内、式内神社、左の如し。
 敬満神社(大明神)、初倉村にあり。祭神少彦名命(神名帳考証に功満王を祀るとあり)。
 大楠神社、同村にあり。祭神大己貴命。
 片岡神社、吉田村にあり。祭神住吉之神。
 服織田神社、川崎町にあり。祭神麻立比古命、天八千々毘賣命。
 波津澤神社、相良町にあり。祭神素盞鳴尊、(或るは云う、川崎町にある飯室神社にして、祭神高皇産霊命なりと)

神道 天理教、禊教、御嶽教、及び金光教の四種とす。
 天理教宣教所は、金谷、相良、白羽、吉田にあり。禊教分院、御嶽教会は金谷に、金光教会は川崎にあり。

寺院 寺院の数、百三十八寺、内曹洞宗九十八寺、臨済宗十六寺、浄土宗八寺、真宗、日蓮宗共に六寺にして、真言宗、時宗、各々二寺あり。就中、名刹は、
 医王山西山寺は、菅山村にあり。真言宗古義派にして、天長二年弘法大師の開基に係ると云う。
 吉祥山能満寺、吸江山平田寺は、共に臨済宗妙心寺派にして、能満寺は吉田村にあり。弘長二年(1262)の創始に係り、亀山天皇の勅願寺にして、後伏見天皇の勅願を賜う。海内無二の大蘇鉄あり。平田寺は相良町にあり、元弘中開山なるも、有名なる聖武天皇施入の勅願文天平感宝元年(749)閏五月二十日の勅書を蔵す。今国宝に列せらる。
 雲海山清浄寺は時宗にして川崎町にあり。弘安五年(1282)の創立にして、開祖恵法和尚は宗祖一遍上人の逸足なりと云う。
※ 逸足(いっそく)- すぐれた能力をもっていること。また、その人。逸材。
 大心海山明照寺は真宗にして、同町(川崎町)にあり、初め地人、大草則時、今川義元に従軍し、義元戦死後、本願寺顕如上人に仕え、名を善恵と改め、慶長庚子(1600)、帰国して、この寺を創(はじ)む。子孫今に法灯襲う
※ 法灯(ほうとう)- 釈迦の教えを闇を照らす灯火にたとえていう語。
※ 襲う(おそう)- 家系・地位などを受け継ぐ。

 龍門山石雲院は曹洞宗にして、坂部村にあり。郡内巨擘の伽藍にして、四百五十年前の開創に係り開山性岱和尚は宗祖承陽大師十一世の法孫なり。
※ 巨擘(きょはく)- 屈指。
 千葉山智満寺は同宗にして、中川根村にあり。延徳三年(1491)の草創にて、開山は慶文和尚なり。

耶蘇教 相良町に日本メソジスト教会あり。信徒三十名内外に過ぎずと云う。
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「竹下村誌稿」を読む 96 榛原郡 32

(散歩道のツクシ、3/22撮影)

小学校の恩師の訃報の電話がGさんからあった。18日に亡くなり、20日
にお葬式も終わったと聞いた。歳はもう90だと云うし、仕方のないことなのだが、残念である。お袋の法事のついでにお参りして来ようと思う。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

附記
山岳 黒法師岳(2068m)、大無間山(2330m)は、皆な二千三百メートル以上を抜く、郡内第一の高山にして、上川根村にあり。信州境まで十余里の間、人烟なし。
※ 人烟(じんえん)- 人家から立ち上る煙。転じて、人の住む気配。

河川 大井川は郡中の大河なり。上川根以南、中川根、下川根、五和、金谷、初倉、吉田、七ヶ町村の東岸に沿うて流れ、駿河湾に朝す。(大井川の条、参照)菊川は源を五和村大代に発し、榛原小笠両郡の境となり、南流して小笠郡に入り、千浜村にて海に注ぐ。川長八里あり。その他、勝間田川、萩間川、湯日川、坂口川などありといえども、何れも流程三里に過ぎざる小流なり。
※ 朝す(ちょうす)- 達す。

原野 牧野原は面積二万五千町と称す。県下第一茶の産地なり。その産額六拾弐万貫、価格二百五十万と唱う。

岬角 御前崎の岬角は牧野原の最南端にあり。海中に突出すること、凡そ二里、海岸に一等旋転白色の灯台あり。明治七年より点火す。海面より高き事、十七丈三尺。遠く十九(かいり)の海上を照らす。
※ 岬角(こうかく)- みさき。さき。
※ 浬(かいり)- 海上距離・航海距離の単位。もと子午線の緯度一分に相当する距離。一浬は国際海里協定で1852mと制定。


海岸 大井川の河口より、吉田、川崎、相良、地頭方、白羽を経て御前崎の岬角に至る沿海にして、延長大凡(おおよそ)八里あり。

瀑布 大垂滝は五和村にあり。高五十丈、林樹鬱蒼として、昼なお暗き処、白布を晒(さら)すが如き美観あり。流末、大井川に入る。

鉱泉 大代鉱泉、牛尾鉱泉、共に同村(五和村)にあり。前者は硫黄泉に属し、医治効能は慢性僂麻質斯(リュウマチ)、これに適し、後者は亜爾加里(アルカリ)性食塩泉にして、瘰癧症の消化不良に宜しと云う。
※ 医治(いじ)- 病気を治すこと。療治。治療。
※ 瘰癧(るいれき)- 頸部(けいぶ)リンパ節が数珠状に腫れる、結核症の特異型。感染巣から結核菌が運ばれて起こる。


鉱物 石油は菅山村にあり。日々数石を湧出し、火力強くして光明あり。石灰は萩間村に産し、灰質佳良にして、築港及び鉄道用に適すと云う。
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「竹下村誌稿」を読む 95 榛原郡 31

(散歩道のカラシナの花/昨日撮影)

今年も土手にカラシナの花が咲き出した。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

因って云う。天野氏は鎌倉の家人、天野遠景のにして、累世犬居に住し、建武の時は宗良親王を奉じて勤王し後、今川氏に属し、今川氏没後、武田氏に帰し、遂に滅亡すと云う。また家山鱸は家山の郷士にして、天野氏の給人なるべしと云う。
※ 裔(えい)- 血筋の末。子孫。
※ 勤王(きんのう)- 天子のために忠義を尽くすこと。
※ 給人(きゅうにん)- 中世、幕府や荘園領主から給田などを与えられた人。


按ずるに、本郡政事の沿革は、平安朝以来、紀綱大いに弛み、地方豪族など妄りに庄園を営み、私兵を養い、その勢力、次第に増加して、政権武門の手に墜つる素因を成せり。土豪相良氏、勝間田氏の起りしも、また郡内を占領せり由来、政変の大要は、鎌倉以降、室町の末までは、国の大勢と大同小異なりしも、今川氏真没落後は、ほとんど武田氏の勢力範囲にありしも、徳川氏遠州に入りしより、本郡の地、武田、徳川両氏逐鹿の天地となるも、凡そ十余年、遂に徳川氏に帰せり。その関東に移るや、多く山内一豊の所領となり、同氏転封後は幕領となり、藩地となり、旗士采邑となりて、領主の変転、代官の徂徠など、再三にして止まらずといえども、本郡は掛川領多かりし。
※ 紀綱(きこう)- 国家を治める上で根本となる制度や規則。綱紀。
※ 逐鹿(ちくろく)- 帝位や政権などを得ようとして争うこと。(中原に鹿を逐う)
※ 旗士(きし)- 旗本。江戸時代,将軍直属の家臣のうち、禄高一万石以下で御目見以上の格式を有する者。
※ 采邑(さいゆう)- 領地。知行所。
※ 徂徠(そらい)- 行き来すること。往来。


要するに、応仁以降、天下鼎沸、中央の政令行なわれず、群雄割拠の時代に在りては、本郡は争奪の地点となり、戦乱の衢(ちまた)となりたれば、領主も一定ならず、或るは今川氏の命を奉じ、或るは武田氏の威に応じ、或るは豊臣氏の令を聴き、或るは徳川氏の制に服するなど、その混雑の状、甚しかりしものありしなり。これらの変遷は、前節、国の条参照を要す。明治革新の際、静岡藩に属し、浜松県となり、静岡県に併合す。同二十九年、郡制施行により、郡役所を静波に定め、郡治の運用に就き、町村行政の監督に当り、郡に郡会ありて、一部の経済を議定す。(大正七年八月稿)(大正十年、郡制を廃す)
※ 鼎沸(ていふつ)- 議論が盛んにわきたつこと。鼎の沸くが如し。
※ 議定(ぎじょう)- 合議して決めること。


読書:「夕霧の剣」 鈴木英治 著
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「竹下村誌稿」を読む 94 榛原郡 30

(散歩道の満開のエドヒガン/今日撮影)

漸く雨が上がり、暖かくなった。ジパング倶楽部の会費を払う。来年こそ、しっかり使い、3割引きの恩恵を受けたいと思う。早速、週明けの帰郷の切符を購入した。

午前中、近所のWさん来訪。2時間ほど、お話をした。はるみの施肥の話は参考にしようと思う。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

河根地方(今、上川根、中川根、下川根)
郡志に、古昔、山香郡の一部にして、河手若しくは東手と呼びたるが如くにして、南北朝以前に在りては、依然同様の状態にありしも、両朝合一の後に至りて、この地方一帯の地域は、本郡に帰入せられたるが如し。而して、往古は周智郡の北部(山香郡)と同じく、御料の園地として存したるものにて、自然、京家に関係が多く、南北朝当時の如きは、何らか南朝に縁故を有したるが如き口碑、伝わらざるに非ざれども、素より的確なる徴証なし。降りて、今川氏の所領となるに及び、大要、犬居の豪族、天野氏領所として、その管下に存したるものゝ如し。

とある如くにして、この地方は、鎌倉以後に於いては、天野氏が庄職を領せし事は、周智郡志に、

犬居山中に於いては、源頼朝の侍臣、天野遠景の子孫が領家職として、また地頭職として、城郭を犬居に設け、大峰、平山、犬居など山香庄全部を領して、三百年間、統治の権を握り、領所も多かりき。

とあり。今川氏の遠江を領するに当たりても、その実権は、天野氏の支配に一任せしものゝ如し。そは、今川範泰、氏親、義元、氏真などより、天野氏に宛てたる三十余通の文書の、或る書に見えたれば、略々、その要領を推知せらるゝものゝ如し。氏真没落後に至りても、なおこの地方一帯の政事は、天野氏の手に存したるものなるべし。永禄十二年(1569)四月十三日、徳川家康より天野宮内右衛門尉へ与えたる朱印状に、

河根五百貫文の地、手長として申付く上は、無沙汰なく、石川伯耆守方へ、年貢など、氏真時の如く、納めらるべきものなり。仍ってくだんの如し。
※ 手長(てなが)- 宮中や貴人の家で、酒宴などの際に膳部を次の間まで運び、取り次ぎをする役。また、その人。おてなが。

また石川伯耆守の添え状に、

(おお)せの如く、近日は申し承らず候。家康、三河へ罷り越し候間、拙者はこの地にこれ有り事、御用など候わは、仰せ蒙り候。就中(なかんずく)、家山鱸(すずき)、縁類源兵衛、氏真御供申し、罷り越し候由、仰せ越され、この方へは御理(ことわり)一段、祝着の到りに候。その段、三州(家康)へも申し遣すべく候。惣別、その筋の儀は、貴所御指図次第、申し付かるべく候。何事に於いても、御心置かれず、仰せ蒙るべく候。なお面談の時を期し候。恐々謹言。
  後五月二十二日                   石川伯耆守
       天野内、右御請

※ 祝着(しゅうちゃく)- うれしく思うこと。満足に思うこと。
※ 惣別(そうべつ)- およそ。だいたい。


とあるにて知るべし。
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