goo

「第七回小川港さば祭り」に行く

(焼サバの列)

土曜日の朝、「小川港のさば祭りに行くよ」と女房に起されて、日曜日でなかったのかと聞けば、今日だという。焼津小川港の漁獲水揚げ高ではマグロやカツオと並び、サバが大きな部分を占めているという。さば祭りでは何と10000食の炭火焼きのさばが振舞われるという。

9時過ぎに出掛けて、おおよそ解っているつもりの小川港に向かう。港にもう少しのところで、車が渋滞の中に入ってしまった。我慢強く待って、小川港の北の広い空き地に駐車し、さば祭りの会場に向かった。

大変な人出で、行列の最後尾について、ボール紙の皿と箸をもらう。こんな人が寄る場所に来るのは、いつ以来だろうか。何とも苦手であるが、焼さばの煙に釣られて人波の中に入った。コンクリートのU字溝の中に炭火を入れ、網を渡して、たくさんのさばが焼かれている。U字溝が延々と並んで、焼手と客が向かい合わせのように焼けるのを待っている。客は3重にも5重にもなっている。その客の少ないところに入り込んで待った。さばは3枚に下し、その片身が一人前だから、10000食というと、さば5000尾である。下拵えは済んで焼くだけになっている。

待つこと15分ほどで、ようやく焼きさばの配給を受けた。片身でも随分大きく、とても食べきれないと思った。人ごみの外れまで行き、コンクリートの基礎に腰掛けて、片身を半分に分け食べ始めた。これが誠にうまい。秘伝の垂れにでも漬けてあるのだろうか、塩味が適度の聞いて、箸が止まらず、二人でさば一尾分を、ぺろりと食べてしまった。

イベント会場では熟年のおばちゃんたちが、フラダンスを踊っている。コンクリートの上で素足が少し痛々しい。踊りながら送られる流し目が少し恐い。様々なファーストフードが売られている。今はB級グルメと呼ぶのだろう。お目当てのゴマサバとジャガイモのコロッケ「さばじゃが君」はもう終わっていた。


(はためく大漁旗)

調査船「駿河丸」や実習船「やいづ」が一般公開され、列に並べば中に入れるようであったが、そばのたらいで泳ぐサバを見てよしとした。ゴマサバの背の模様は細かい唐草模様のようで、興味を引かれた。こういう魚の背の色は、海鳥や大きな魚から身を守るための保護色である場合が多いが、この背はそんな役割を果たせているのだろうか。

焼きさばは美味しくいただけたし、人ごみは苦手で草臥れてしまったので、会場を後にした。その頃には、10000食のサバも終っていた。自分は、人ごみよりも、前の週末に訪れた山奥の縁側カフェの方が、のんびりして気疲れもなく好きである。帰り道で、リュックを背負った人々の列が、会場から四方に散っていた。昔は両手に買い物袋を幾つも持って帰るところであろうが、今は皆んなリュックに入れて背負っている。戦後の買出しに近い風景が再び見られるようになってきた。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

旧初、お仙女おどりを見に行く

(旧初おせん女踊り由来碑の除幕式)

昨日の日曜日、起きると、話が島田市旧初の「おせん女踊り」を見に行くことに決まっていた。女房が言い出して、息子が場所をネットで確認して、女房に教えたらしい。10時頃、女房と出かけた。新幹線脇の公会堂前に、今年新しく「おせん女踊り」の由来を書いた石碑が出来、その除幕式の後に「おせん女踊り」が披露されるという。

後先になるが、その石碑から「おせん女踊り」とはどういうものなのか、要約する。

宝暦2年(1752)3月、尾張国津島神社より勧請して、氏神様として、旧初天王神社が建立された。その時、慶祝して唄と踊りが奉納されたのが、「おせん女踊り」の始まりといわれる。橋のたもとで一文商いをし、機を織りながら、初倉のお茶を旅人にすすめた娘を描いたものという。

その歌詞は5番まであって、
一 初倉の サアア 橋のふもとで おせん女が茶を煮る
二 橋のふもとで おせん女が茶を煮りゃ 芝茶も濃くでる
三 そのまた娘が サアア 月に九反のお機を 織ります
四 袖の模様が サアア 梅の大木 三月小桜で
五 裾の模様が サアア 瀬田の唐橋 唐かねきぼしで

大太鼓、小太鼓、横笛で演奏されて、踊り手の扮装は本来青年が花笠をかむり振袖姿に女装して、唄い手とお囃子衆は鳥追い笠をかむり各帯姿の着流しであった。旧初天王神社の秋祭りに町内数ヶ所で披露され、最後に神社に奉納されるという。

「せん女」は娘の名前であろうか。「仙女」と書いたものもあるが、煎じるの「煎女」が似合う気がする。女装して踊ると聞くと、幕末の「ええじゃないか」の最高潮のときに、男性が女装し、女性が男装して、踊り狂ったと、古文書で読んだ。儒教が巾を利かせていた時代、男女が入れ替わって踊るなどは、最大の大騒ぎだったのだろうと思う。どこからそんな発想が出て来たのだろうと、その時不思議に思ったけれども、「おせん女踊り」の先例があったと知って納得した。「ええじゃないか」の騒ぎは、屋台をかつぎ出したり、結局はお祭り騒ぎだったようだ。


(「おせん女踊り」囃し方)



(おせん女踊り)

さて、神主さんが仕切って、石碑の除幕式が終わり、「おせん女踊り」が始まった。踊り手は女装の男性は先導する熟年男性が一人だけで、あとは小学生の娘たちばかりが、古風な振袖で踊った。所作がこじんまりと静かな踊りであった。青年たちが女装をして踊った時代には、当然お神酒も入って踊ったであろうから、もっと大きな振りで、競うように踊ったのだろうと想像した。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

花火の音、村祭りの騒ぎと子供神輿

(稲を稲木に掛ける)

朝6時だったのか、花火の上がる音で目が覚めた。寝床から女房に何の花火かと聞くと、地域のお祭りの花火だという。お天気が晴れてお祭りを実施するという知らせの花火なのだろう。すぐにもう一つ少し離れた花火が上がった。先の花火が川向こうの地域の花火で、後の花火が我が地域の花火であろう。川向こうの神社は直線距離ではすぐ近くで、森の梢が我が家から見えている。一方、我が町の神社は第二東名の向こうで随分遠い。

そのまま再び寝て、次に、子供神輿が回ってくると言って、女房が騒いでいる音に目が覚めた。かすかに太鼓の音も聞こえているようだ。写真を撮って置こうと思い、まだ寝巻きだったので、息子にデジカメを渡して頼んだところ、戻ってきて子供神輿が来たのではなかったという。女房も帰り、川向こうの祭りの音が反対側のお茶問屋の再製工場の壁に当って響いていたのだったという。うちの地域の子供神輿はまだのようだという。

着替えて待つ間もなく、子供神輿がやってきた。太鼓を叩きながら神輿を引く小学生たちが揃いの祭り半纏で掛け声を出して行く。それに御祝儀の披露の声が重なる。一時、小学生も減って寂しくなったと思って見てきたが、最近は少し増えたような感じがする。第二東名の代替地などで、我が地域にも小規模ながら団地が出来て、新しい班も出来た。そこには若い人たちも入居したから、子供の数も増えたのかもしれない。恒例によって女房が御祝儀を渡す。デジカメを構えたが電池切れで写真は撮れなかった。


(小さな稲むらがたくさん立ち並ぶ)

夕方、ムサシの散歩を少し早めて、川向こうの神社のお祭りを土手から見ようと思って出かけた。しかし、もう終ってしまったのか、ひっそりとしていた。ムサシが田圃の方へ行きたがるので、土手へ登るのはやめた。今日は稲刈りをしている田圃が多く、昔ながらに刈り取った稲を稲木に掛けている風景も見られた。稲刈り機によっては、稲こぎまで同時にやってしまうものもあるようで、稲藁を敷き藁にでも使うのであろう、小さな稲むらがたくさん出来た田んぼもあった。

夜、再び川向こうのお祭りの騒ぎが聞こえてきた。夕方は夜に備えて一休みしていたようであった。その騒ぎもいつの間にか消えて静かな夜に戻った。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

孫に引かれて帯祭り

(帯祭りの鹿島踊り)

この連休に名古屋のかなくん一家が帰って来た。掛川のまーくん母子もまたまた集合である。まーくんのパパだけは地元のお祭りに掛かりっきりで、顔を見せなかった。そして大騒ぎの三日間が過ぎて、今朝はかなくん一家は島田のかなくんのパパの実家へ行った。三年に一度の島田の帯まつりも今日が最終日である。まーくん母子は、昨日掛川のまーくんのパパの地元のお祭りに行ってきたが、今日はパパは一日片付けだという。

女房にせかされて、11時ごろに、まーくんと三人で島田の帯祭りに出かけた。市内の入れるところまで、息子に車で送らせて、本通りまで歩いて出た。帯祭りの行列は、大名行列 → 御神輿 → 鹿島踊り → 屋台の順番で通る。お目当ての大奴(帯を掲げる)は大名行列の真ん中あたりで、すでに通り過ぎて、昼休憩の御旅所に入ってしまったようだ。

見れたのは御神輿の行列からであった。夏の日差しが戻って、今日は靜岡で29℃と夕方報道していた。自分たちは日陰で見物していたが、行列参加者は日差しをもろに受けた炎天下である。長い時間、進行の待ち時間があり、稚児行列などは日陰に避難するが、炎天下に立ち尽くす進行の男性たちもいて、額に汗を浮かべて大変である。天狗姿の猿田彦に先導されて御神輿の行列は進んだ。ここの猿田彦は二本歯の高下駄を履いている。御神輿は担ぎ上げている格好だけで、下に台車が付いていた。

続いて鹿島踊りがやってくる。踊り手はすべて子供たちで、一踊りすると、父兄たちが3人も5人も出てきて、セコンドよろしく子供の面倒を見る。携帯の椅子を出して腰掛けさせ、自分の身体で日陰を作る。四方から風を送る。水分を補給させる。着物をからげて風を入れる。タオルを差し込んで汗をぬぐわせる。足袋の上からスプレーで白い霧を吹きつける。あれは何だろう。野球で自打球を当てた個所に瞬間痛み止めの冷気を吹き付けるのと同じものだろうか。ゴングが鳴れば子供たちは再び踊りへ立ち上がる。

まーくんの目にお祭りはどんな風に映ったのだろう。ぐずることも無く二時間弱の祭り見物を終え、しかし、島田駅までの1キロほどの道は、歩こうとせず、女房と交代で抱っこした。長いエスカレーターに乗ってホームに出て、JRの電車に乗車した。まーくんは、大井川鉄道には乗ったことがあるが、JRに乗るのは始めてのはずである。たった5分の乗車時間であったが、女房が最後尾の景色を見せに行った。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

地区のお祭り当番で

(幟りも上りお祭りが始まる)

地区のお祭り当番が9年ぶりに回ってきて、今年うちの班で務めた。昨日準備をして、本日が祭礼当日であった。

昨日は午後から雨の天気予報に、午前中に終えようと皆んな張り切って準備をした。30数軒の大所帯の班だから、夫婦参加となれば50人以上の人数がかり出される。本殿、水屋、帳屋、境内を大掃除して、注連縄、榊、花ぼろ、幔幕、提灯、燈籠、祭壇など、飾りつけ用具は倉庫から搬出し、新規購入のものも含めて、兼ての分担通りに手分けして進んだ。

テントは防災用一張りとグランドゴルフのクラブ所有の小さいもの一張りを借りた。当日振舞う、おでん、甘酒用の大鍋や、福引景品などもスタンバイする。自分は受付係りで、御祝儀や清酒の披露を行うために、帳屋から御神木へ、境内を横断する形で滑車の付いたロープを張った。邪魔になって切った木の枝やゴミ、草などがドラム缶で燃やされてどんどん片付いていく。子供神輿の屋台は子供会の世話人たちが倉庫から持ち出して、公民館で組み立て準備をしたようだ。

お昼近くになって雨が降り始めた頃には、濡れて困るものだけ明朝の準備として、粗方の準備が終わった。動きに無駄が多いようでも、これだけの人数が動くとたちまち準備が出来てしまった。夜は帳屋で男衆だけ残り、2時間ほど御酒を飲みながら詰めた。

今朝は快晴となり、8時前から集まって最後の仕上げを行った。前回の当番では幟りを立てるのが力仕事で、男たちの最初の大仕事であったが、第2東名工事で金谷インターのランプウェイが神社の目の前を通ることになり、その迷惑料で幟りのポーチを立ててもらったため、容易に幟りを上げることが出来た。9時の花火を合図に、町から来た若い神主さんによって神事が行われた。自分も班長さんの代理で玉串を捧げた。


(御祝儀の披露)

届いた御酒は本殿前に並べ、ご祝儀は受付で受取る。御酒は朱で「のし」と書き、「清酒一升 〇〇様」などと書く。ご祝儀は朱で「えび」を書き、「一金壱萬圓也 〇〇様」と書く。金額は景気づけに凡そ3倍の金額を書く慣わしだという。「万」とか「円」を略字を使わず、旧字を使う。御祝儀を頂く方が略字を使うのは粗略に扱うことになる。そんな理屈が似合っている。伝統はこういう風に伝わるものなのだろう。


(金谷川越し太鼓)

境内は年に一度の賑わいを見せて来た。おでん、甘酒、福引などが振舞われ、帳屋ではお酒の接待もある。10時から、金谷川越し太鼓の若者たちが太鼓を披露してくれた。朝、町内一巡に出かけた子供神輿の巡行がお昼前に帰ってきて、一段と賑やかになった。

午後になると人出も絶えて、自分は一度家に帰ってきた。戻ってくると、数人で御祝儀の計算がはじまっていて、お金が足らないと困った顔をしている。お金の合わせなら自分の専門分野である。話を聞いて、それでは一つずつ確かめようと、まずは祝儀袋と芳名帳のチェックを始めた。自分が祝儀袋を読上げ、芳名帳は手分けして見てもらい、一通づつチェックを入れていった。半ばを過ぎたところで、同じ名前に二人が返事をした。あれっと確認すると二重記帳の誤りがあった。10分ほどで一件落着。

3時から片付けを始めた。一時間足らずですっかり片付いた。夜6時より慰労会。50人余りの人が近所の料理屋に集まった。班でこれだけの人が一同に集まり会食するのは近来に無いことであった。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

大道芸ワールドカップを見物

(大道芸ワールドカップin静岡)

「大道芸ワールドカップin静岡」が3日までだと女房が言う。明日は出勤だから、今日しかないと、ともあれ女房と出掛けた。1992年から毎年行われているといい、一度だけ見たのは10年以上前のことである。あの当時よりずいぶん人出が多くて、歩行者天国の道路に人が一杯になって埋まっている。

あちこちに客の輪が出来ているが、なかなか中で行われているパフォーマンスが見えない。担いできた脚立に乗って見物している人や、潜望鏡(ペリスコープというらしい)も販売していて、輪の外側にたくさん立っていた。昔、少年雑誌の付録にボール紙の潜望鏡があって、組み立てたことを思い出す。作ったのはよかったが、使ってみる場所がなかった。


(人間ジュークボックス)

前振りをしていた係員が何度もアーチストというべきところを、パフォーマーと言ってしまい、言い直していた。今年からアーチストというようになったようだ。なんともさまざまな身体を使ったパフォーマンスがある。観たものを羅列して見ると、バルーンアート、けん玉パフォーマンス、中国コマパフォーマンス、歌舞伎調マジック、人間ジュークボックス、背高男、アクロバット、ジャグリング、タップリング、パントマイムなど。見てみたかったパフォーマンスだった街を歩くキリンそっくりなパフォーマーには出会わなかった。

「大道芸ワールドカップin静岡」ではパフォーマンス後、その芸に対してお金を集める。これはチップ制度が発達している西欧の発想で、日本にはそういう習慣はなかった。お金を出すときは、気の毒な人にめぐむ気持でしかなかった。

日本の大道芸といえば、昔からあるものに、猿まわし、南京玉すだれ、蝦蟇の油売り、チンドン屋などで、多くの芸は人集めの手段で、集まった人へ商品を売るのが目的であった。当然、物を売るための啖呵口上が付いている。寅さんではないが、その啖呵口上がまことにこぎみよい。啖呵口上が主になると、バナナの叩き売りなどが有名である。子供の頃に覚えているのは、軟膏売りの蛇屋、万能ナイフ売り、堺の包丁売りなどで、テレビ通販の口上(ジャパネット高田など)はその伝統を現代に受け継ぐものだと思う。実に上手く、すぐにでも電話をしたくなる。

会場になっていた靜岡の中心街に、午前11時頃から午後4時ごろまでいた計算になるが、これほどの人ごみに5時間もいたのは近年にないことで、女房と二人、ほとほとくだびれて帰って来た。もう、若くないのだからこんな人ごみに出ることはやめて、ひと気の少ない自然や寺社詣でが似合っているのかもしれない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「万葉の森」の「曲水の宴」観れず

(不動寺竜宮門)

袋井の「源氏の里」のヒマワリを観たあと、浜北に向かった。浜北の「万葉の森」で平安時代の衣装を着たお祭りがあるという女房の情報で、メインをそのお祭り見物に置いていた。

お昼を回っていたので途中で蕎麦を食べた。手打の太い蕎麦が特徴のお店で、少し値段が高い。活気付けるためなのだろうが、お店がけっこううるさい。入り口を人が通るたびに鳴る「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」の電子音は不要である。飛び交っている中に「消費税はサービスさせて頂いております」という言葉があって、少し引っ掛かった。今はこういうお店は消費税も含めた総額表示されているから、もともとレジで消費税を上乗せされることはない。だから消費税サービスの言葉に実益がない。

浜北大橋を渡って浜松市浜北区に入ってから、「万葉の森」を探すのにさらに時間が掛かった。区内をうろうろし、2度道を聞いてようやくたどり着いた。結局、浜北大橋を渡った後、そのまま西へ真っ直ぐ進み、国道152号線に出て、約2キロメートルほど南西に進んだ右手にある不動寺というお寺の裏に「万葉の森」はあった。

不動寺の下に車を停めて、急な石段の左右に雄滝、女滝があって、現代でもそこで滝に打たれる人もいるらしい。最も今日は滝に水がない。瀑布山不動寺は「平口のお不動さん」として親しまれており、石段の途中に黄檗宗の特徴的な山門である竜宮門があった。


(曲水庭園でポーズ)

石段を登った本堂でゆっくりとお参りした。線香を買って立てたり、絵馬を見て回ったり、本堂の龍の彫刻を写真に撮ったりと、のんびりと過ごした。さて万葉の森に行こうと、本堂右手の石段を上り、曲水の宴が行われる蛇行した水路がある曲水庭園を覗くと、王朝の衣装に身を飾った人たちがぞろぞろと出てきた。なんと言うことだ。曲水の宴は今終ったところであった。もう10分早く来ていたら最後の辺りが観れたのだ。今日はあっちこっちで無駄な時間を使ってしまった。曲水庭園に残って、写真にポーズを取っている女官姿の女性たちを写真に取った。

女房はもう少し早く出てくればよかったと反省する。もっとスムースに赤い蕎麦の畑にたどり着けばよかった。食事をゆっくりしすぎた。不動寺のお参りは後回しにすればよかった。そのどれか一つが変っておれば、曲水の宴に間に合ったはずであった。最も反省すべきは「曲水の宴」の行事について、理解せずに出かけてきたことであった。「曲水の宴」の行われる時間をしっかりと調べてくればよかった。残念ではあるが、これで来年また来る理由が出来た。そう考えれば観れなかったのもラッキーと思える。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

巌室神社の秋祭り

(巌室神社の神輿行列)

大幕を見た後、巌室神社に着いたときは、すでに本殿からお神輿が神社参道階段下に担ぎ下ろされて、専用台車の上に乗せられているところであった。この参道で行列を整えて、午前11時に出発する。行列にはそれぞれのパートに名前が付いているのだろうが、知識がないので、見たままに挙げてみる。

先頭には裃を着けお皿状の笠をつけた役人が数人。「慶長六年辛丑歳云々」と書かれた幟りが掲げられている。天狗の面を付け高下駄を履いた、先導役の猿田彦が介添えに支えられて進む。猿田彦は色々な祭り行列で先頭を歩くのを見た。烏帽子をつけた白丁が色々なものを持って続いた。持ち物は、龍・鳳凰・麒麟などが描かれた幡を下げた長柄の矛、担いで続く御神宝や賽銭箱などである。間に笛や太鼓の奏者や稚児が混じっている。その後に車に乗せた神輿が白丁に引かれて続き、神主さんが従う。最後尾には祭りの役員さん達がぞろぞろと付いていく。長い行列だが、音曲は奏者が奏でる笛と太鼓だけで、行列を先導するにはほとんど役立っていない。


(坂を下る神輿)

行列は駅前の車道の坂道を上って行く。予定では車道を旧東海道石畳の所まで進み、そこで車道から旧東海道に入り下って戻ってくるという。我々は先回りして駅裏の旧東海道を登って行った。行列はすたすたと車道をやって来て、旧東海道に入る。下り坂に二ヶ所ほど休憩所があり、一休みしてお茶などの振る舞いを受けた。

金谷に残る「歳代記」によれば、明治13年の中山新道落成のお祝いにも巌室神社の祭礼の神輿行列が出て、終点まで中山新道の歩き初めをしたという。まさに、この行列が行われたのだが、130年昔もこんなものだったとしたら、けっこうあっさりした行列である。

行列は駅前通りを下って御仮屋(故郷では神輿が休む場所を「御旅所」と呼んでいた)にて休息し、午後に巌室神社まで戻る予定である。我々は神輿行列と駅前で分かれて、巌室神社にお参りした。参道には地域の人たちがおでんを売る店などを出し、手作りのゲームコーナーなどもあった。


(四方舞)

石段を登ると本殿右側の神楽殿では、女の子二人の四方舞の奉納が行われていた。しばらく見物する。御幣と鈴を持って、幼い子が大きい子の後に付いて、真似るように舞っていた。テープで流す拡声器の音曲が耳を突き刺すように大きかった。本殿左側には矢場があって、数人の射手が弓を引いていた。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「島田まげ祭」とお食い染め

(島田まげ祭道中)

雨が心配であったが、島田まげ祭を見に行きたいという女房に付き合って、昼食を早めに済ませて出掛けた。島田髷を結った女性たちの踊りの道中が7丁目から出発しているとの女房の情報に、大井神社に駐車して、本通りを東へ歩いた。大井神社では撮影会でもあったのか、踊りの道中とは別に五人ほどの島田髷を結い浴衣を着た若い娘が池の周りでカメラに向けてポーズをとっていた。

帯通りの一番南で、人だかりがあり、今しも踊りが終って次の場所へ移動するところであった。「島田まげ祭」の幟を先頭に、次の場所の清水屋前に歩く。80人ほどの髷と浴衣の女性たち、半分以上は子供たちであるが。白地に髷の色々な名称を染め込まれた揃いの浴衣に帯を締め、背中には髷の名前と結った美容院の名前が記された紅い団扇が帯に差されている。足元は素足に下駄である。二本歯の下駄ではなくて、土踏まずの部分がえぐられて鼻緒がすげられた、「右近下駄」という下駄である。動きやすい下駄なのだろう。列を成して進む姿は何とも不思議な光景であった。


(島田髷の後姿)

駅から北へ進み本通りと交差する手前で、踊りが三曲披露された。観客の前に髷は結わない同じ浴衣の女性(年齢はかなり上)がずらりと並んでいる。彼女らが髷を結った美容院の先生方なのだろう。自分の結った踊り子がそばに来るとちょっとした髷の乱れや着崩れを直してやっている。自毛もカツラもきりりと結われると、顔のすべてが見えてしまい、美しさも、それなりも、誤魔化しようがなく見えてしまう。島田髷というのはある意味、怖い髪型とも言える。踊りが回ってきて周囲のカメラマンがついついきれいな娘へカメラが集中してしまう。自分は島田髷を撮るべく、後姿をたくさん取った。これなら美人もそれなりも区別がない。

アマチュアカメラマンといえばずうずうしいおじさん達というのが相場であった。ところが、最近はカルチャーセンターのカメラ講座などが盛んなためであろうか、おばさんパワーがここでも活躍しているのに改めて驚いた。

次の踊りは大井神社である。狭い参道に大人と子供の輪が二重になって踊りを披露した。カメラの砲列が並んで女房のいたところではカメラマン同士が邪魔をし合って揉め事が起きそうになったという。自分も社殿前の石灯籠の土台に乗って、少し高い位置からデジカメを構えた。

島田髷の由来に付いては、今年の2月に「島田髷と髪の塚」で書き込んだ。行列はそこで紹介した鵜田寺で最後の踊りを披露すると放送があった。しかし、人ごみで草臥れてしまったので、お祭見物はここで終りにした。

    *     *     *     *     *     *

まーくんが生誕100日を迎え、「お食い染め」に必要だからと、お祭見物のあと大井神社の境内で小石を拾った。3つあれば良いらしいが、女房は5つほど拾った。そのあとアピタに行き、乳幼児の食器のセットを見てきた。色々キャラクターの入ったものもあり、娘は無地が好いと言っていたようだが、女房は迷ってしまった。結局、娘に電話して自分で選ばせることにして買わずに帰った。「お食い染め」は夫君の実家でやるのであるが、女房は何かと世話をやいている。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

鹿島踊り-郷土芸能を観る会

(島田の鹿島踊り)

島田の鹿島踊りからは三番叟、お鏡、鼓、ささらと続く踊りの行列が披露された。

「鹿島踊り」と呼ばれる踊りは房総半島から伊豆半島を中心に広範囲に民俗芸能として残っているが、島田の鹿島踊りはその西限とも言われ、その踊りの所作は江戸時代の動作を正確に今に伝えているとして、昭和32年(1957)年5月に静岡県の無形民俗文化財に指定された。

「鹿島踊り」は去年、島田大祭の行列の中で一通り見ている。その際「かさぶた日録」にも書き込んでいる。(昨年の10月15日書込)その中で、大井神社に勧請した春日神社に、どうして鹿島神宮ゆかりの鹿島踊りを奉納するのかと、疑問に思い自問自答している。その後、鹿島神宮と春日大社の関係が解って来た。

奈良の春日大社は平城京に都が遷された710年、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神宮の鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山に遷して祀り、春日神と称したのが始まりである。つまり、春日神社のルーツは鹿島神宮なのである。だから春日神社に鹿島踊りを奉納しても、神様は同じだから少しも可笑しくない。

ちなみに鹿島神宮も春日大社も鹿を神の使いとして大切にしている。これは、鹿の神である天迦久神(あめのかくのかみ)が天照大御神の命令を武甕槌大神の所へ伝えにきたことに由来し、鹿島神宮では鹿が使いとされている。また、藤原氏による春日大社の創建に際して、白い神鹿の背に鹿島神(武甕槌命)の分霊を乗せ、多くの鹿を引き連れて、1年かけて奈良まで行ったとする伝承がある。だから両社とも鹿は神の使いなのである。


(鹿島踊り-三番叟決めポーズ)

鹿島踊りは、島田宿に蔓延した疫病退散を祈願して奉納されたのが始まりである。踊りの合間に、三番叟、お鏡、鼓、ささらの踊り手のそれぞれの意味を説明してくれた。先頭の「三番叟」は能や歌舞伎の舞の一つであったものを取り入れたもので、横じまに赤い日の丸の描かれた独特の烏帽子を被り、右手に鈴、左手に扇を持っている。どんな場面に出てきても「三番叟」だと解り、祝福舞であるから、その姿を見るだけでも目出度い。「お鏡」は右手に鈴、左手に御幣の付いた鏡を持つ。鏡は神様の分身であり、神社まで来れない病人などのために、神様自ら沿道に出向いて、疫病退散の願いを叶えてくれる。「鼓(つづみ)」は左手に鼓を持つ。鼓を叩くことで疫病に立ち向かう勇気を鼓舞してくれる。「ささら」は左手に節が詰まった南天の幹で作った棒を持ち、右手に先を細く割った竹を持つ。左右合わせて「ささら」という民俗楽器で、両方をこすり付けてシャッ、シャッと鳴らす。稲穂が擦れる音を表していると言い、五穀豊穣とか魔よけの意味を持つ。

鹿島踊りの行列は二手に分かれて、狭い舞台を踊り進んで、舞台の袖に踊りながら消えて行った。

これで、郷土芸能を観る会の演目はすべて終った。大井川筋にもずいぶん色々な郷土芸能があるものだと、改めて認識した。いつか第二回もあるようだから楽しみである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ