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「駿河安蘇備 上」を読む 121

向いの茶畑跡のマツバウンラン


いつの間にか元茶畑いっぱいに広がった

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

鍛冶屋鋪跡 助宗村にあり。 劔工 五條義助の祖、この処に
住すというなり。
大久保村 里民山本彦左衛門 難波御陣の鉄炮役を勤めて、諸役
免除の御印を賜う。御紋付の草の丸袋を今蔵す。
高尾山 中里村なり。寺沢より上る。三十五町余あり。
高根山 倉田村なり。この辺の高山にして、形不二に似たり。
高根富士という。山上より当国中一望に絶したり。
宇嶺(うとうげ)大瀧 高根より落ち、倉田より十八町あり。瀧の高さ
八十丈という。朝日真向(まむかい)に受けし景色、言わん方無しという。
(つづく)

読書:「狸穴の夢 ご隠居は福の神 5」 井川香四郎 著
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「駿河安蘇備 上」を読む 120

大代川土手の桑の実
熟れるにはまだまだ時間が掛かる

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

弥陀沢 同所 伝云う、花倉城主の守り本尊を安置せし所。
後に廃す。いまは一草庵を建て、無量仏を安置せり。
花倉川 すべり谷、有東川より流れ出て、下の郷に至りて、
葉梨川に入る。
里民、源太郎は旧家なり。秋山氏にて暦応、康永年間、先祖の
霊牌あり。また古文書、数多持て里り。
蓮池 若王子村にあり。市部、五十海、この池の水を田に灌(そそ)
く。蓮多し。
岩田山 同所 山上絶景なり。南海を見晴らす。
藤八柿 関ヶ原御陣前、美濃柿を奉り、賜りものありて、
我名も柿も「藤八」と呼ぶべしと、のたまいけるという。
 志太村 九景寺門前にあり。深さ三間、広さ二間、古えの陵墓なりという。
祖円松 堀之内村にあり。大木なり。古墳のしるしなるべし。
里民、藤蔵岡谷氏 大永の頃、三條内大臣恩地を賜う旧家なり。
※ 恩地(おんち)➜ 武家時代、将軍や大名が家臣に御恩として与えた土地。恩賞地。恩領。
弘治、永禄の今川家古文書を蔵す。
御所谷 谷稲葉村にあり。伝云う、永正中、正親町三條内大臣實望卿、
御下向ありて、今川氏親に寄り給う。氏親、この所に御所を建てられ、
ここに移しまいらせ、時にふれて、梅谷閑亭に、泉谷などに
請じ奉りて、和歌の会を催さること、度々なり。大永中、
卿仏道に入り給いて、慈光院というとぞ。
滝沢川 滝沢村 千葉川 千葉沢より出て、瀬戸川に入る。
(つづく)
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「駿河安蘇備 上」を読む 119

大代川土手で見つけた白花のアザミ

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

花倉の塁 花倉村にあり。八幡鳥居前より遍照寺門前までなり。
建武二
(1335)年、今川範国、この駿河国に封ぜられし時、ここに舘を
建て居す。三代にして、安部郡府中に移るという。
伝云う、永正中、義忠の弟、頼忠出家して、遍照寺住持として
この舘に居す。また氏親の子、良真に、住持としてここに居す。義元の
(むすこ)義成も、同じくここに居す。その後廃す。遍照寺住持、良真は
義元とは別腹の兄なり。家督を争い合戦に及び、良真
遂に敗死す。また、和州記には、義真は今川駿河守義元の
二男右馬頭、氏真の弟なり。幼くして出家し、駿州志太郡花倉
山に居住す。義元より寺領一万石寄附、義元戦死の後、かの山を
立て洛外泉涌寺に住して、信長公の応意あり。博学にして
泉涌寺の長老となり、正親町院御戒師となる。また、筒井順慶
母のために、奈良において伝香寺を作りて、この長老をもって
始祖とす。泉弉和尚という。天正十五
(1587)年五月遷化なりという。
(つづく)

読書:「大義 鬼役 九」 坂岡真 著
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「駿河安蘇備 上」を読む 118

清水川の鯉のぼり

清水川の川鵜
鯉のぼりの影が魚影に見えないこともない

新聞で、清水川(旧金谷町往還を横切る川)に地元の方が毎年設置されている鯉のぼりの記事を読んで、女房が散歩がてら見に行こうというので、雨が上がった今日、午後に出かけた。一時間近く歩いて、清水川に着くと、流れの上に、小さな鯉のぼりがたくさん舞い競っていた。全部で700尾位と新聞には書かれていた。

鯉のぼりの影が川面に映って、真鯉が泳いでいるように見える。本当の鯉も居たという女房の言葉に、目を凝らして探していると、目の前の水中を、流れに遡って、川鵜が潜水したままで泳ぎ過ぎた。少し先で、水面に上り、流れに乗って戻ってきた。鯉のぼりの影を魚と見間違えて、潜ってみたのだろうか。すぐ先で、川鵜は飛び立って行った。

今日は往復で2時間近くの散歩で、七、八キロ歩いた勘定になる。

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「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

辻堂花倉越峠 中ノ郷村なり。 臥猪坂 峠あり。同所。 毘沙門平 同所。
入道屋鋪跡 下ノ郷村にあり。伝云う、二階堂維行、守護職に補せられ
し時、この所に居す。後に葉梨入道というとぞ。
上薮田村 伝云う、東條の吉良、三河義安、今川に叛きて相対し、
後に降(くだ)る。駿河の薮田、押し籠めらるゝとぞ。
御前山 同村にあり。 窟十八 同所。 男池女池 同所。葉梨川に
流れ入る。東海道、古えの海道なり。石地蔵あり。麻疹を
※ 麻疹(ましん)➜ はしか。
祈りて、験(しるし)あり。
(つづく)

読書:「灰色の階段 ラストライン 0」 堂場瞬一 著
読書:「横死 闇の西洋絵画史 5」 山田五郎 著
読書:「割れた誇り ラストライン 2」 堂場瞬一 著
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「駿河安蘇備 上」を読む 117

庭のムギセンノウ

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

潮水 潮村にあり。里民文蔵、勘兵衛というものゝ居所より
湧き出す。冬の月は少く、夏の月は多し。その水鹹(から)し。村名、
これによりて名付くるとなり。
横内橋 横内村にあり。朝比奈川に架す。官道なり。
貝立坂 朝比奈越え。一里塚。道永。
旗竿薮 鬼嶋にあり。官道なり。竹林、方五十間。里民小柳津氏居すなり。
伝いう、関ヶ原御陣、難波役に御旗竿を献ずという。
左車山休息寺 水守村にあり。官道なり。
伝いう、宗尊(むねたか)親王御下向の時、その御車損ぜしを修補のうち、
※ 修補(しゅうほ)➜ 修理。補修。
ここに御休息ありし所、その後、左車と地名すとぞ。
青山八幡社 八幡村にあり。鐘銘、弘安四年辛巳三月廿五日とあり。
山上にて眺望よし。
白藤瀧 北方村にあり。 藁科川 同所、水源この山中、谷間より流れ
出て、所々細流と合いて、八幡橋にて官道へ出る。越後嶋を経て
朝比奈川に入る。
(つづく)
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「駿河安蘇備 上」を読む 116

庭のシラン

午後、免許書き換えの事前検査、「認知機能検査」があった。問題なく済ますことが出来た。来月には高齢者講習がある。金銭面でも、更新に一万円以上かかるようになる。高齢者はいよいよ免許を維持出来難くなっている。自動運転技術で、高齢者でも安全に運転できる車が早く出来てほしいものだ。

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「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

岡部川 宇津の山より流れ、駅の北を廻りて朝比奈川に落つ。
常楽院廃跡 子持村にあり。朝比奈谷 同所。
この村に、医師鴫谷一元は今川家臣新谷次郎頼述の子孫
なり。いま古文書伝えり。
朝日山稲荷社 狩宿村にあり。稲荷山ともいう古城跡なり。
伝云う、岡部氏代々居城なりという。
東鑑 文治元年、駿河国岡部権守泰綱、病によりて、御堂
供養の時も、黄瀬川御座時も、かつて参上申さず、云々。
朝比奈山公林 桂嶋村にあり。
古城跡 殿村にあり。朝比奈氏代々の居所なり。朝比奈国俊十世
にして、泰能、泰勝、信道等あり。泰能は備中守という。今川氏真を
掛川城邀(むか)え入れ、その後、終る所を知らず。
里正、三郎左衛門は堤中納言後裔にして、朝比奈氏なり。
※ 里正(りせい)➜ 庄屋。村長。
※ 後裔(こうえい)➜ 子孫。後胤。
谷川 同村、野沢の山中より出て、村中を経て朝比奈川に入る。
【上欄外の記事】
古風土記 朝比奈村、朝夷田 ━ 云々。
一 小瀬戸越 宮嶋村にあり。
一 朝比奈川 玉取村にあり。三ッ野山谷より流れ出、水源なり。
藁科越 同村にあり。
(つづく)
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「駿河安蘇備 上」を読む 115

裏の畑のオダマキソウ

昨日、「駿遠の考古学と歴史」講座へ出席。今年度、最初の講座である。Kさんから金谷郷土史研究会の会則や昨年度の活動報告の資料を頂く。S教授へ、当研究会の顧問になっていただきたいと頼む。無報酬で会への出席も望まないが、出来れば時々ヒントのようなアドバイスを頂ければと思う。了解していただいた。

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この所、年度初めて、各講座の初回が続いた上に、「駿河安蘇備」の難解な部分に当って、しばらく解読作業をさぼっていた。今日から再開、やっと難解部分をクリア出来た。今日から再開しようと思う。難解でストップしていたのは、「経長卿の神職への文」であった。ところが「経長卿」は「維長卿」の間違いで、原文が間違っていた。註が多くて読み辛いが、以下へ示す。

「駿河安蘇備」の上巻の解読を続ける。

これの駿河の国、水茎の岡部の社は、山難(かた)み、
※ 水茎の(みずくきの)➜「岡」および同音の地名「岡」にかかる枕詞。
かしく、木立ち物古りて、苔の緑こまやかに、実は宝
※ をかし ➜ 趣がある。風情がある。
※ 物古る(ものふる)➜ どことなく古びる。 古めかしくなる。
のさま、厳しく、いと神さびにたり。されば、霞
※ 厳し(いつくし)➜ おごそかだ。いかめしい。
※ 神さび(かんさび)➜ 古めかしくて閑寂であること。
たつ春の日暗し、紅葉(もみじ)する秋の日暮も、すは更なり
※ すは更なり(すはさらなり)➜ それは言うまでもない。
月の夕べ、雪のあした(朝)に、毎(ごと)、宮居を、野遊ばい
(つど)える処になもありける。かゝるうまし処を、兼(か)ねて
占い知りてかも。我が遠つ祖(おや)、兼輔、前つ君
※ 遠つ祖(とおつおや)➜ 先祖。祖先。
※ 前つ君(まえつきみ)➜ 天皇に仕える高官の総称。
千木片削ぎ、麗(うるわ)しく、瑞垣造り給いつらむ。
※ 千木片削ぎ(ちぎかたそぎ)➜ 千木の端の片角を削ぐこと。また、削いだもの。水平に削ぐ場合(内削ぎ)と、垂直に削ぐ場合(外削ぎ)がある。
※ 瑞垣(みずがき)➜ 神社などの周囲に設けた垣根。玉垣。
そも八幡(やはた)の大神とは、かけまくもかしこき、
中津彦の天皇(すめろぎ)の皇子、品陀和気の命(みこと)ぞ。
※ 足仲彦(たらしなかつひこ)➜ 第十四代 仲哀天皇。
※ 品陀和氣(ほむだわけ)➜ 第十五代 応神天皇。
この命、よろずに聡(さと)く、身(うつく)しみはた、深く
※ 慈しむ(うつくしむ)➜ 大切にする。愛する。
※ はた ➜ さらにまた。そのうえまた。
まし/\ければ、そらみつ大和は、言うも更なり。
※ そらみつ ➜ 「大和(やまと)」にかかる枕詞。「そらにみつ」とも。
ことさえく唐国(からくに)までも、まつろわぬ国なかりしと
※ ことさえく ➜ 「韓」「百済」と同音語を持つ地名にかかる枕詞。
※ まつろわぬ(服わぬ)➜ 帰順しない。従わない。
なん。あなかしこ。あな尊(とうと)たるの命(みこと)御稜威場に。
※ あなかしこ ➜ ああ恐れ多いことよ。
※ 御稜威(みいつ)➜ 天皇や神などの威光。
  天保十余り五つと聞ゆる年の文月    正三位維長
     (天保十五年七月)
(つづく)

読書:「閻魔裁き 2 雨乞い美女が消えた」 風野真知雄 著
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帯状疱疹のワクチン

ガーベラの鉢を買った

「ガーベラ、愛の鐘」つい口に出る。しかし、この話題はすでにこのブログで取り上げている。(2008-06-05 )

昨日午後、行き付けの理髪店に散髪に行った。理髪店の主人は歳が自分より二つ上である。一時間少々の間に、色々とお話した。何と言っても散髪屋さんは事情通である。

その中で、帯状疱疹のワクチンが話題になった。近々にワクチンを打つべく、近くの医院に予約したという。自分と女房は過去に帯状疱疹を経験している。とにかく早期に医者に行き、治療すれば、手間はかかるが、後遺症もなく治る。遅れれば遅れるだけ、治るに時間が掛かり、後遺症も気になって来る。

そのワクチン、打ってもらうに、安い方が一度の接種で8800円かかる。町から4000円の補助が出るから4800円の負担だという。高い方は二度の接種で、数万円かかるらしい。帯状疱疹経験済みの我が夫婦は、おそらく接種はしないだろうが、一度経験しても2度目もあるという。

世の中、ワクチンの大流行りで、人は一生で何回予防接種を受けねばならないのだろう。中には効果のほどもよく判らないものも混じる。そんなに人体に色々なものを注入して大丈夫なのだろうか。果たして、問題ないと誰が保証してくれるのだろう。

そういえば、去年の秋の終わりごろ、インフルエンザの予防接種を人生初めて受けた。毎年季節には行き付けの医者から勧められたが、それまでは、インフルエンザには今まで罹った記憶はなく、これからも罹る気はないと断っていた。今回は猛威を振るうコロナが気になって、インフルエンザだけでも免れたいと、接種を受けたのであった。その後、コロナが下火になって、コロナの最後の接種はやらないで終わった。やっていても、もう今ではその効果も切れている頃である。

読書:「錯乱 徒目付 久岡勘兵衛」 鈴木英治 著
読書:「お多福 新・知らぬが半兵衛手控帖 18」 藤井邦夫 著
読書:「髑髏 闇の西洋絵画史 4」 山田五郎 著
読書:「署長シンドローム」 今野敏 著
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島田市五和に、過ぎたるものが二つあり

庭のチゴユリとハムシ
チゴユリの葉はだいぶハムシに食べられている
ハムシの中には子孫繁栄に勤しむものもいる

島田市五和に、過ぎたるものが二つあり、「竹下村誌稿」に「山田家文書」。

御存知、浜松に拠点を置いた、若い頃の家康の家臣軍を讃えた一句、
   「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」
のもじりである。

今朝、図書館に出向いた序でに、先日Nさんに紹介された、金谷公民館の新館長さんにお会いして、そんな話をした。

まず、一つ目の竹下村誌稿の解読版の出版の話は、解読をしたのは自分だが、力説されているのは、Nさんである。自分はその量の多さに、実現を危ぶんでいる。

二つ目の山田家文書については、山田家は江戸時代を通して、五和の村々の庄屋を束ねる、惣庄屋の役を勤められた。その文書は五和地区で発生したあらゆる分野の古文書が網羅されている、大変に貴重なものである。「山田家文書」は寄贈されて、現在、東京の国文学研究資料館に所蔵されている。保管という面では万全なのだが、寄贈がコピーなどもない時代のことで、地元島田市にはコピーもおそらくなく、見たければ東京まで出向かねばならない。東京では解読研究するものもなく、地元にはコピーもないのでは、宝の持ちぐされである。幸いお金さえ払えば、業者がコピーを取ってくれるようで、何とかコピーで里帰りさせたい。そんな話を館長さんに話した。館長さんはそのあたりのことを調べてくれると返事を頂いた。
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東光寺(牧之原市)と林泉寺(吉田町)の長藤

東光寺の長藤が町の一角を占める


東光寺長藤の幹、樹齢100年を越す
黒いのは焼け焦げではなく、養生の特殊墨が塗られている

今年度、3講座も無事発進できて少し余裕が出来て、朝、東光寺と林泉寺の長藤を見に行く。

東光寺は町の一角、狭い場所いっぱいに枝を広げて、長藤の花は満開まだこれからのようだ。根に近い太い幹が焦げて炭化したように見えたので、火事でもあったのかと、地元の人に聞いた所、傷んだ幹に昔はモルタルで固めたことがあったが、樹木医の話では、今は特殊な墨を塗るそうで、高価な液を購入して手当てをしたという。焼け焦げたように見えたのはそのためと説明してくれた。

林泉寺の長藤は東光寺より花房が長い
花が少し進んでいるのだろう

クマバチが一匹、画面中央、少し右に見える

林泉寺は吉田城のある山並みの南の麓にある。日当たりが良いせいか、花の進みが早く、今が満開のようだ。広がる枝の一角が枯れたからだろう、太い枝が切られて、ぽっかり穴が開いたように見える。樹勢がやや弱い感じがする。この長藤には背が黄色い、花蜂のクマバチが飛んで来て、忙しなく花を巡っている。花蜂は人を刺すようなことはめったにないおとなしい蜂だと看板にあった。子供の頃、野山を巡るうちに、花蜂の一種、クロマルハナバチに刺されたことがあった。不幸な出会い頭であったのだろう。

夜、地区の自治会の監査に行く。前々年度、総代の最後のお勤めである。

読書:「怪物 闇の西洋絵画史 3」 山田五郎 著
読書:「いのちの種 ご隠居は福の神 4」 井川香四郎 著
読書:「浪人奉行 十四ノ巻」 稲葉稔 著
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