goo

清水湊の史跡と石野家文書拝見(4) - 駿河古文書会現地見学会

(旧海軍牛尾実験所跡)

土曜日お昼、山の会OB忘年会が富士屋で催された。OBと現役の人たち、途中顔出しも含めて16名。懐かしい顔々々々。いい時間が過ごせた。


(電磁波発生用、巨大円形アンテナ設置予定地
この方向に向けて殺人光線が照射される予定であった)

今日の午後、息子と3人で「旧海軍牛尾実験所跡」を見に行った。昨日、発掘見学会があったが、午前中は大雨、午後は忘年会で見学できなかった。それで、思い立って、説明をしてくれる人も居なかったが、見学に行った。保存運動をする人もいるが、平成の瀬替え工事で間もなく壊される。

(清水湊の見学会の報告を続ける。今日が最後である。)
上八幡神社のすぐ近くに、禅叢寺、専念寺というお寺がある。禅叢寺には白隠禅師の書という扁額があった。「爪牙窟」と読めるが、何とも危険な匂いがする。浄土真宗の専念寺には、清水廻船問屋の問屋頭だった、播磨屋作右衛門のお墓がある。専念寺といい、播磨屋といい、何れも関西から移住してきた者たちという。


(専念寺、播磨屋作右衛門の墓)

由緒によれば、専念寺は元は摂州にあり、石山本願寺に熱心に味方していたが、信長に攻められて、焼失した。1600年、専念寺の曽我佑信は、石山本願寺の教如上人の関東下向に随従した。一方、石山本願寺の残党で、清水に居住していた、播磨屋作右衛門と津之国屋甚右衛門の両人が、教如上人お迎えして、清水にお寺の建立を懇願したところ、曽我佑信に清水に専念寺を再建するように下知された。これが専念寺と清水湊の廻船問屋との関わりで、檀家に廻船問屋が多い理由である。

専念寺で、12月7日に望月氏を講師に「清水湊と廻船問屋」という演題で歴史講演会があると聞いた。この辺りの経緯も委しく聞けると思い、少し遠いが受講してみようと思った。

八千代橋へ繋がる通りへ出て、キリスト教会のそばの石垣に、御浜御殿跡の案内板があった。駿府に隠居した家康のために、駿遠55万石の領主となった、家康の一子、頼宜は家康の休憩所のために、風光明媚な当地に御殿を建てた。望月氏は、案内板の記述の中に「江戸より同行した白拍子と能に興じ」との記述に言及し、白拍子がいたのは平安時代から鎌倉時代までで、家康の時代には居なかったと、記述の間違いを指摘した。しかし、辞書によれば、江戸時代、舞妓や芸子、あるいは遊女までも白拍子と呼んだというから、記述は全く間違いというわけではないようだ。


(牛道のプレート)

それより、一筋南に、東西に延びた細い道は「牛道」と呼ばれている。清水に荷揚げされた荷は、その多くが駿府に運ばれるのであるが、その手段は巴川、横田川を通る舟運が利用されたと考えそうだが、舟運は2割程度で、あとは牛に曳かせた牛車がその役割を果たしていた。清水湊から荷を積んだ牛車が往来した道は牛道と呼ばれていたという。


(下八幡神社の大クス)

最後に下八幡神社を見学した。清水八ヶ町と下清水村の総鎮守で、創建当初は住吉神を祀り、住人は「船玉様」と称して崇めた。往時はこの辺りまで海岸線であったと想像され、廻船問屋で賑わった辺りは全て海の中だったことになる。

これで、清水湊現地見学会は終り解散した。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

清水湊の史跡と石野家文書拝見(3) - 駿河古文書会現地見学会

(水神社の社叢)

石野家の古文書を拝見したあと、昼食の場所を目指して、再度史跡を巡った。町会所から北へ進み、旧高札場(現公園地)を見て、再び、巴川河岸へ出た。対岸の八千代橋手前の対岸に、水神社の社叢が見えた。海岸怒涛の鎮護のために、寛永年間(1620)、海中に勧請された。その後、正法二年(1645)の向島波除堤築造時に、巴川中州の現在地に石祠を建て祀った。さらに、安政大地震で川底が隆起して、現在の陸続きの地形となったという。辺りがかなり隆起したことが、この神社の由緒でも知ることが出来る。

橋は今日のスタートの港橋から、上流に向い、富士見橋、八千代橋、その次が萬世橋という。この萬世橋は皆の予想を裏切って、「よろずよばし」と読むと説明があった。明治の中頃、清水町と向島を結ぶ橋は、港橋と富士見橋しかなかった。往時の望月萬太郎町長の尽力があって、明治二十九年に初代の萬世橋が落成した。町民はその功績を称えて、町長の名前から一字取り、萬世橋(よろづよばし)と名付け、橋のたもとに碑を建てた。現在の橋は昭和10年に架け替えられたものだという。そんな案内板が出ていた。


(巴川に合流する江川)

八雲神社の境内の北側で、本町を北へ流れる江川が巴川に合流する。その合流点を覗いてみたあと、海鮮料理の「やす兵衛」で昼食になった。本来なら食後解散の所、望月氏の御好意で、清水湊見学の延長がなされた。


(チャンチャン井戸)

清水湊は名前とは違い、上水には苦労があったようで、山側の水源から樋で水を引いて上水に用していた。水源はいくつかあったが、その一つが旧上清水村にあった「チャンチャン井戸」である。道端にごく普通の丸枠の井戸があり、コンクリートの蓋が被せてあった。昔、世話を受けた旅の僧が、チャンチャンと鉦をたたき、経を唱えながら水を探し、示した場所を掘ると水がわき出したという伝説が残っている。清水の地名はこの「チャンチャン井戸」から起ったという。


(上清水八幡神社の古い手水鉢)

上八幡神社はクスノキの巨木が何本もあり、神社の歴史を語っていた。手水場の脇に、古い石の手水鉢が横に倒して置かれていた。「文政三庚辰歳六月」の文字が彫られている。1820年に奉献されたものであろう。その手水鉢の縁が削られて凸凹になっている。これは何の痕と思うかと聞かれて、博奕の御守りか何かではと答えると、それは侠客の墓石の話、実はこれは「薬石」と云って、これを削って飲まして薬にした痕だと説明があった。「薬石の効もなく」という常套句はこれから出ているという。(その薬石は少し違うと思うが)この後、訪れた下八幡神社にも、寛永四年(1627)の銘がある、同様の手水鉢が案内板とともにあった。信じれば何でも効くの類いで、この薬石によって「非常に多くの人が助けられた」と案内板にはあった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

清水湊の史跡と石野家文書拝見(2) - 駿河古文書会現地見学会

(石野家の伊豆石の蔵)

巴川の河岸から一区画内に入った所が本町(ほんちょう)の通りで、往時はその両側に40軒前後の廻船問屋が並んでいた。船荷の売買は船長の役割で、廻船問屋は、荷主に対して回船の調達、船荷の一時保管、船荷を売買する船員の宿などがその仕事であった。したがって、蔵と大釜が必要で、その大きさが取引の規模を示していた。さらに一区画内に入った、現在の清水保育園が往時、茶園場と呼ばれていた町会所があった。町政のほとんどは、ここに毎日集まった、名主、年寄、町頭によって決定されていた。

茶園場の西側に江川という小川が流れていた、今は全て暗渠の下になっているが、巴川と平行して、巴川とは逆方向へ流れ、八雲神社の先で巴川に流入していた。源流は現在の清水小学校(巴川川下の美濃輪近く)辺りの湿地帯と思われる。こういう流れが出来たのは、巴川河岸が大地震で隆起して行き場を失った水が出口を求めて迷流した結果なのだろうと想像した。(私見)

この後、石野家へおじゃまし、石野家文書と呼ばれる古文書を見せて頂いた。石野家は42軒あったと言われる清水湊の廻船問屋の一つで、火事や水害などで他の廻船問屋の古文書のほとんどが失われて現存しない中で、多くの古文書が残っていて、清水湊の往時を知る上で大変貴重な資料とされ、その解読作業が現在も続いているという。


(石野家蔵の内部構造)

会場は石野家の蔵の中である。珍しい伊豆石を壁に使った蔵で、蔵は明治の建物という。外壁はかつては伊豆石の上に漆喰が塗られて白壁だったというが、今は漆喰がすべて落ちてしまっている。伊豆石の外壁のままでも、建物として美しいと思った。中に入るとその構造が良く判る。石の壁だけでなくて、内側に沢山の木材で蔵を支えており、石の壁は防火用だったようにみえる。


(石野家古文書拝見)

火災や戦災も受けたが、この蔵だけが残った。古文書は蔵の二階に保管されて、虫食いもほとんどなく、200年以上経った古文書にはとても思えない。会員の皆さんはそこへ座り込んで、古文書を読みだした方もいたが、自分はパソコン相手に解読するに慣れていて、その場で読む気にはなれず、廻りの展示物などを見て過ごした。

望月氏から、展示物の中で「清水湊旧記」という文書が清水湊の成り立ちや往時の様子を知るために、たいへん貴重な資料だと説明があった。大変に興味を引いたので、その資料の解読して活字になったものでも、どこかにないだろうかと、質問してみた。どこか図書館に入っているとの回答を期待したが、そういうものはまだない。現在、研究会で望月氏が主になって解読中で、コピーしたものの残部が研究会にあるが、分けてもよいかどうか会の人に聞いてみてくれるというので、住所を記してきた。解読が現在進行中では無理かもしれない。


(石野家昔の看板)

石野家は、明治になって、廻船問屋から、酒、醤油、茶などの卸業を始めて、往時の看板が蔵の壁に掛かっていた。「左ケおろし」(酒卸)「志やうゆ小宇梨」(醤油小売)など、古文書の勉強をしていないと中々読めない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

清水湊の史跡と石野家文書拝見(1) - 駿河古文書会現地見学会

(清水湊現地見学会、中央が望月憲一氏)

日曜の朝、清水湊の港橋を渡った、昔、向島と言われた地域の、最初の角の陽だまりに、お年寄りの一団が集合した。そういう自分も、その中に居て、ほとんど違和感がない年齢になっている。もっとも、この日見学する清水湊の主要部は巴川を渡り返した側にある。

9時半に、清水郷土史研究会の望月憲一氏の案内で、清水湊の史跡めぐりが始まった。風もない快晴の日和、今日のような日を小春日和というのだねと、誰かがつぶやいた。アメリカではインデアンサマー。インデアンが襲撃するとき、降った雪が解けて、ぐちゃぐちゃになり、足跡が消されて、追跡を受けることがないので、こういう日を選んだという語源の話が残っている。今日の清水は足元にも不安はない。

港橋の僅か上流に「甲州廻米置場」があった。それを示す石碑が立つ。江戸時代、甲州の25万石の米の内、15万石は江戸の浅草御蔵に廻米されていた。富士川を舟で岩渕まで下り、岩渕から蒲原へ馬の背で運ばれ、蒲原から清水湊まは再び舟で送られ、この廻米置場に集荷される。これより大きな船に乗せ換えて、江戸まで送られたのである。

「甲州廻米置場」は明治になってその役割を失って行くが、この一帯の地域は、明治、大正、昭和、平成と、一世紀以上過ぎた現在も、山梨県の所有の土地であるという。現在も乙仲会社の管理下で、土地の賃借料は山梨県に納められているという。ちなみに、現役のころ望月氏がその事務を取り扱ってきたというから、確かな事である。


(西宮神社の玉垣と力石)

港橋を渡り返して、川端を少し上ったところに、西宮神社がある。本魚町、新魚町、袋町、三ヶ町の魚座の守護神であった。玉垣の石柱に往時の廻船問屋の名前がずらりと残り、境内隅には力石が残っていた。


(上総稲荷神社前の、袋城の石)

更に上って、上総稲荷神社には鳥居脇に旧袋城の石と書かれた岩があった。永禄十二年、駿河に侵入した武田信玄が北条水軍に対抗して、馬場美濃守に縄張りを命じ築いた、武田水軍の根拠地である。当時の軍船はスピードを出すために、多くの漕ぎ手を乗せた、想像以上に大舟だったようだ。それが250艘、係留されたという。軍港として、巴川河口のかなり広い部分を占めていたようだ。


(巴川右岸、ここに各河岸が並ぶ)

巴川の右岸に三つの河岸があり、上流の八雲神社当りから港橋付近までに、大川岸(商用河岸)、袋町河岸(公用河岸)、蛭子河岸(魚座河岸)と呼ばれていた。大川岸には廻船問屋の蔵が建ち並び、蛭子河岸は魚河岸として活況を呈していたという。港橋から下流の美濃輪一帯は、小揚人足や船乗り、漁師などの住居地域で、清水の次郎長が生まれ活躍したのもその地域に限られていた。大川岸の廻船問屋の地域とは一線で画されていて、子供に至るまで、ほとんど言葉を交わすことが無かったという。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

安政大地震、釣徳寺前温泉噴出地、現地調査

(老僧の話は終わらない)

「古文書に親しむ」講座で、安政地震で「温泉涌出」という記事があった。かなり場所が限定されているので、現地へ行ってみることにした。振替休日の24日、息子に運転を頼んで、現地へ車で向かった。古文書では「坂井村長徳寺門前」と記されていた。長徳寺は現在の寺名は海上山釣徳寺という。有名な大鐘家を通り過ぎて、御前崎方向に少し行った、道から山側に少し入った僅かに高い所にあった。


(この田圃の山側隅奥で温泉が出た。
向うの山が崩れた上に地蔵堂が見える)

訪いを告げると、休みでくつろいでいたのであろう、村山元首相のように、眉毛が長い老僧が出て来た。安政大地震の時、突如、温泉の出たという話を古文書で読んだのだが、というと、そういうことがあったことは承知しているといい、境内に出て来て、境内直下の放置された田圃の隅、山との際がその場所で、今もその穴が開いているというが、自分も見たことはないという。

湯治場のような施設が出来たわけではなくて、「諸病に効験あり」というのは、近隣の人々が湯を汲んで持ち帰り、身体に付けるなどしたのであろう。硫黄泉のようなものだったのだろうと話す。今も1800メートルも掘れば確実に温泉は出ると、見学に来た学者が言っていた。お金があったら掘ってみてはどうかねと笑う。

格好の話し相手になったようで、話が色々な所へ飛んだ。この辺りのお寺は元は皆んな真言宗だったのが、曹洞宗に変わった。(安政の頃にはすでに曹洞宗であった)寺の名前は昔は釣得寺であったが、釣で得するでは、漁業者にとっては悪くはないが、お寺で殺生を勧めているようでは具合が悪かろうと、現在の釣徳寺に改名された。「長徳寺」という名前は知らない。前の田圃もお寺の田圃だったが、農地解放されて、お寺の現在の敷地だけが残った。今は老夫婦でお寺を守っているが、眼下に見える所は皆んなこの寺の檀家だから、のんびりしたものだと語る。老夫婦が食っていくに、苦労がないほどの、檀家があると言う事なのだろうと思った。


(地蔵堂の回りには沢山の野仏が集っている。
向うに釣徳寺が見える)

正面の僅かに高い所は、その昔山が崩れて埋ったところで、六人の人が今も埋っている。ブルトーザーもない時代に、大量の土砂を掘るすべがなかったのだろう。その上に今は六地蔵をお祀りした地蔵堂がある。ここが海抜10メートルで、予想される津波が来たら、眼下の集落は皆んな波にのまれる。このお寺も例外ではないが、お寺の裏山には、非常時に高台に逃げる道が出来ている。逃げるのが間に合うかどうか分らない。

どこから来たかと聞かれ、金谷は縁が深いようで、超ローカルな話題に花が咲いた。話し終えたから、温泉の跡を覗こうとしたが、丈の高い草が茂って近づけずに断念した。その後、六地蔵にもお参りして、現地調査を終えた。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

地震災害の事、大覚寺村文書より(2) - 古文書に親しむ

(門前で温泉が湧出した坂井村の釣徳寺)

昨日の続きである。

嘉永七年(1854)甲寅(きのえとら)十一月四日(この年改年有りて安政元年となる)辰の下刻頃、諸国大いに地震す。(志州、勢州より西の国々は、四日辰の刻と五日申の刻と両度の大地震なり)我が郷里は、他所に競(くら)ぶる時は、地震小なりといえども、須臾の間に倒るゝ家有り。殊更、瓦葺きの家、軒端(のきば)の瓦などは、大半破損せざる事なく、諸人恐れ懼(おそる)る事甚だし。
※ 須臾(しゅゆ)- 短い時間。しばらくの間。ほんの少しの間。

時に俄かに、千仭の山の如きなる玄波(くろなみ、津波?)起りて、打ち寄らんとしける故、老若男女、皆々山上へ逃げ登れり。隣郷には波打ち入りて、家の流失し処もありといえども、我里は幸いにして波の打ち入る事もなく、暫く有りて、高波も打ち鎮まるといえども、尚隙なく地動きて止まらず。
※ 千仭(せんじん)- 山などがきわめて高いこと。

程なく日も暮れに及びければ、芝、薪、藁などにて四方を囲い、山中に打ち伏しけるに、その夜、寒風甚だしく掻き曇りける故、若し大雨降り来たらば、いかがして淩がんと、諸人皆案じ煩いけるが、段々と空も晴れ、ことなく夜も明けけれども、里に帰る者もなく、その後或は三日、或は五日も日をへて、皆々里に帰り
けれども、又々強く地震せば、津波の起こる事もあらんかと、五軒、三軒または七、八軒ばかりも、所になりて、小高き処に仮屋を造りて日を送り、十日余りも日を歴(へ)て、思い/\に己が屋敷に立帰り、家の倒れざる者は破損を補い、倒れたる者は、縄むしろの仮屋を造りて住居して、また大いに地震せば、兎やせん角やせんと、予め逃げ出すべき工夫をなしてのみ暮しける。
※ 縄むしろ - 糸偏に蔵と書いて何と読むのだろう。一応「むしろ」という読みにしてみたが、根拠はない。

この時、大海の水減じて干潟となる事、数十間にして、吾が隣村、落居村の海は、昔より出たる事なき岩根、数多出現し、人々この岩根にて、海草類、貝類などを取る事なり。隣郷、相良、川崎辺りは我が里よりも地震甚だしくして、破壊せざる家、僅かに三、四軒ずつのみなり。かつまた、相良は同時に炎上し、焼失する事、過半にして、死人二十人ばかり、怪我人廿人ばかり、川崎にて死人廿余人、怪我人十余人なり。相良、川崎の間、坂井村に長徳寺という曹洞宗の小寺あり。この寺の門前に温泉涌き出で、諸人これに浴する。諸病ともに効験ありと云々。
(以下、次月の講座で読む)
※ 長徳寺 - 牧之原市片浜に釣徳寺という寺あり。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

地震災害の事、大覚寺村文書より(1) - 古文書に親しむ

(静岡城北公園の紅葉、左がヒトツバタゴ、右がケヤキ)

この土曜日の「古文書に親しむ」講座で学んだ、江戸時代の地震災害の記録である。焼津の大覚寺村より出た文書だという。

(焼津市大覚寺村文書)
(前欠)

宝永四年(1707)丁亥(ひのとい)十月四日の下刻、諸国大地震あり。その中に五畿内南海道、三州、遠州、夥しく動揺し、海道は津波打ち寄せ、大地裂けて、青き泥を吹出したり。
※ 午(うま)- お昼を挟んだ11時から13時。
※ 五畿内 - 山城、摂津、河内、和泉、大和の五国を畿内という。
※ 南海道- 紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐の六国の国府を通る道をいい、同時に これら各国の総称。


大阪は家倒れ、船流れ、死人、怪我人数万なり。京都には破損なし。その時、駿州不二山の半腹に、一つの小山湧き出たり。今これを宝永山と云う。同十一月四日、大雨降る事、車軸を流すが如し。加之(しかのみならず)、迅雷虩々として、百里を驚かす。諸人これを恐れ危ぶむ事、譬えんに類いなし。
※ 虩々(げきげき)- びくびくと恐れおののくこと。

同月廿三日、富士山の梺(ふもと)、洲走り口より山焼け出、近国大いに地震して、焼ける音、百千の雷一度に落ちるが如くにて、炭の如くなる灰降り、闇(くら)き事、昼夜の分かちなし。老若男女、生きたる心地は更になく、泣き叫ぶ声、天地をも驚かすべき有様なり。

廿五日八つ頃、漸く天晴て日輪を拝し、互いに無事を語り合い、歎息するばかりなり。同日七ツ時より廿六日、天曇り砂ふり、地中も時々動揺し、廿八日に至りて、砂ふり止み、地動も鎮りて、万民始めて安堵したり。(百四十九年)
※ (百四十九年)- この記録は安政二年(1855)に書かれている。宝永地震のあった宝永四年(1707)から足掛け149年経っているとの意味であろう。以下も同じ。

以上が宝永大地震とよばれるもので、地震と連動して富士山で宝永大噴火が起きて、今も富士山中腹に残る宝永山が出来た。来たる東南海地震で、富士山噴火の連動が取沙汰されている根拠が、この地震である。

天明二年(1782)癸丑(みずのとうし)二月、江戸大地震。(七十四年)
文化元年(1804)甲子(きのえね)年、出羽庄内大地震。(五十二年)
同九年(1812)壬申(かのとさる)、関東大地震。(四十四年)
文政十一年(1828)戊子(つちのえね)十一月十二日、越後国大地震にて、火難もありて、およそ七十余日が間、地の水流を塞ぎたり。

嘉永六年(1853)癸丑(みずのとうし)二月二日、相州小田原大地震あり。我が里人、江戸表へ下る時、小田原を通行の折節、この地震に出合い、家倒れ土蔵崩るゝを見て、甚だ恐れ危ぶみて逃げ行きしが、帰国の後、舌を巻くを物語りたり。然れども、大磯、箱根などの宿も、破損する程の事はなしとぞ。(三年)
(つづく)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

遠州高天神記 巻の四 10 その後の聞き書きなど(三)

(旧清水湊付近、巴川河口)

今朝早く、駿河古文書会の現地見学会で、清水へ出掛けた。詳細は後日に譲る。

昨夜、録画したテレビドラマを横になって見ていて、かすかに横へ揺れているような感覚があった。ビデオには緊急地震速報は出ないので、急いで地上波に戻したら、長野県を震源にした震度6弱の地震であった。一夜開けて、フォッサマグナの糸魚川静岡構造線が動いた地震であることが分った。活断層上の狭い地域で、倒壊した家屋がたくさんあり、怪我人も出たが、死者が出なかったのは幸いであった。

「遠州高天神記 巻の四」の追記も今日で終り、一ト月と10日掛ったが、「遠州高天神記」を読み終えることになる。次に読む予定の本は「富士人穴物語」という本である。

一 渥美源五郎は横須賀の城、三ノ丸に居す。知行は土方村上下残らず領す。故源五郎が墓とて、上土方村に印の松大木有るなり。源五郎が鑓三本、高天神落城の節、預け置くとなり。子隣村、角替次郎兵衛と云う、名主の所に一本有り。大身長一尺八寸有り。或いは一尺五寸有るなり。渥美屋敷は土方村、今名主、五郎左衛門屋敷なり。

一 相良の城はその後、公折々御鷹野に成らせられ候故、御殿を立て給う故に、相良御殿と云々、今にその跡有り。

一 高天神向い城、六ヶ所の砦城、今に有り。四方の山々切り立て柵を付けたる跡も、今にあり。この向い城の心は、亀六の備えと云う謀策たるべし。甲州より後巻き有れば、六ヶ所の砦城に篭り蟄居し、後巻なき時は城を攻め、或いは喰い止め、信長を引出し両旗にて、長篠の如く敵を討ち取るべき御軍法なり。
※ 向い城(むかいじろ)- 敵の城を攻めるため,それに対して構える城。つけじろ。

誠に深々妙々の御事と、今思うも楠正成この術を能く用いたる方便、亀六の備えと云いて、子孫ヘ遺言に申し置きたる事有り。古事有り、曰く仏書修行禄に出たるを見るに、昔、天竺にて、ある僧、貪慾を離れんとて、十二年川辺に蟄居して、悟らんと思えども及ばず、これをなげく処に、ある夕暮に方一尺ばかりの亀這い出て、僧の居たる庭へ出て這い廻る。水犬来てこれを食わんとする時、かの亀、四足、首と尾を胴の内へ引っ込む。水犬、亀を舐り廻し石かと思いけるか、外へ行き去るなり。時に右の亀、四足と首尾と六つを出し、這いて河水に入り、水犬の難を遁れたり。

水犬とは何のことなのか。意味が調べられなかった。

これを僧見て悟り、六足は則ち六根なり。眼、耳、鼻、舌、身、意の六根を知らぬ時は貪慾に離るゝと悟りけると有り。この意を正成軍に写し、千早の城に用いけるとなり。誠に千歳を経るとも、その心通り達する事なりと、愚かなる我が心驚くばかりなり。

一 高天神より三町ほど北の山際に、石風呂の跡有り。これは西の丸を預る丸尾和泉守長子、修理亮が陣屋敷に有るなり。和泉守は数代、同国高部に知行有りて、この時分、老衰なり。この石風呂の内に大河内が隠れ居て、死を御免有りしとなり。

一 高天神西の丸辺を、今所の者、丹波曲輪と云々。これは大将岡部丹波守、西の丸を出、林ヶ谷にて討ち死に故に、雑人の云い伝えて云うかと了簡いたすなり。


(犬戻り猿戻り、甚五郎抜け道とも呼ばれる)

一 横田甚五郎、桐木市兵衛は西の丸を出、坤の方、犬戻り猿戻りと云う難所の山を抜け出るなり。今に甚五郎抜け道と所の者云い伝えるなり。
  時に、嘉永三戌年三月吉祥に、これを写し畢(おわ)んぬ。
 嘉永年中                頭主
                      柴田氏

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

遠州高天神記 巻の四 9 その後の聞き書きなど(二)

(今年3回目の干柿)

今朝、渋柿を買うために、春野の農業祭に出掛けた。昨年もそこでたくさん購入した。午後は金谷の「古文書に親しむ」講座に出席する予定があったので、高速を使って1時間ほど掛かって駆け付けた。結果、今年は春野町は柿が全く生らなかったようで、手に入らず戻ってきた。先日、近所の人から、近所の小さい八百屋に渋柿が出ていたと聞いていたので、家に帰る前に寄ってみた。何とそこに沢山あるではないか。往復2時間半の高速まで使ったドライブが何だったのだろう。しかも、40個入って一箱1500円と、驚くほど安い。今日のものは山梨産とのこと。夜、さっそく干柿に仕上げた。一週間ほど干せば出来上がる。

「遠州高天神記 巻の四」の追記を解読する。

一 横須賀は文禄四年より慶長六年まで、有馬玄番頭拝領在城なり。この内に城東郡三万石の所を、五万八千五百石余に玄番頭検地して打ち詰まり、今に百姓悪(にく)む悪地頭と云々。

一 慶長六年より大須賀五郎左衛門殿嫡、国千代忠政、久留里より本知帰りと云いて拝領す。引っ越し給う後、大須賀出羽守殿と云う。慶長十二丁未年、病気、よって上京、有馬へ湯治して、九月十一日、城州伏見において卒去し給う。行年廿七才。法名
  華馨院殿前羽州泰岩典安大居士
則ち、榊原故式部大輔忠次の親父なり。
※ 城州(じょうしゅう)- 山城国の別名。
※ 卒去(そっきょ)- 身分のある人が死ぬこと


一 右忠次十一才にて、大坂冬御陣ニ御出立、十二歳にて夏御陣。大坂において榊原式部少輔死去故、跡式ニ仰せ付けられ、彼の家を相続して、榊原式部大輔忠次と云う是なり。横須賀家中は足軽まで駿河御公御請け取りと成り、掛川の御城主安藤帯刀殿、御下知にて、武藤万休、松下助左衛門郡代にて支配これ有る後、紀州へ遣され、元和六年に引っ越すなり。

一 久世三四郎、坂部三十郎は横田に引っ込み居す処に、大坂御陣の時、公より御尋ね有り。横須賀七人者には先年妻子料取らせたり。今その内、坂部と久世は見ざると仰せられる。横田に引っ込みある旨、申し上げる時に、公、幸いの事なりとて、則ち召し出され、上意には昔の血臭き事に遭いたる者は、大方死してなし。汝らは我が目前にて勇功有りし者どもなりとて、五千石ずつ下され、今度大坂へ供して、我が籏本の若き者どもに、血臭き目を教えよと、上意あり。誠に弓馬の道に叶いたる有難き上意なりと、人々唱えけり。これ天運の引く処なりと、世上にてその頃申すと、ある老人、能く様子知りて語るなり。

一 ある老人の物語に曰く、横砂七人者に横田にて妻子料知行下し置かれる事は、その頃は未だ大坂と云う大事有り。天下に御気遣い専ら有る時分なり。国千代殿若年なり。忠政、関東より遠州へ御返し有る事を御心元なく思し召し、かの家の大身者七人の妻子を、何となく人質に、横田に止め置く時は、国千代殿は若輩と云うとも、慥に思し召すとの御事なり。

一 竹田左衛門(後に十左衛門というなり)、これは横須賀後の国千代君忠次の御供して、榊原家へ行く故に、紀州へ参るなり。この時、御供申す者、大石彦左衛門、村野三之丞、竹内十左衛門、その外、五、六人御供なり。今に子孫これ有るなり。大石彦左衛門は、その後、紀州の木村長兵衛と云うは舅なり。この長兵衛、男子なく跡絶ゆる故、長兵衛歎き招くに付、榊原を御暇願い候て、紀州へ参る。木村彦左衛門と云うなり。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

遠州高天神記 巻の四 8 その後の聞き書きなど(一)

(城北公園のケヤキの紅葉)

午後、静岡の駿河古文書会に出席する。会の前に清水の八百屋に渋柿を見に行ったが、今朝は市場に無かったといわれ、手に入らなかった。昨日の雨のため、収穫が出来なかったのであろうと思う。

今日より3回は「遠州高天神記 巻の四」の追記である。

これより世間申し伝える古今聞き書き、また今見る処、昔の跡を記す。

一 渥美源五郎は横須賀七人衆の内なり。関ヶ原御陣の翌年、関東のくるり(久留里)と云う処より、本(もと)知行とて、横須賀、昔の知行所へ御返し成らる事有り。大須賀出羽守殿御代に、関東横田にて三百石ずつ、右横砂衆、妻子料として公より下され、則ち右七人とも妻子置き、その身ばかり横須賀へ参勤するなり。

大須賀五郎左衛門尉、実子なき故に、榊原式部殿御舎弟、国千代殿と申すを養子として、出羽守殿と云々。この出羽守殿、御病気に依って、有馬へ湯治に御上り、伏見において、二十七歳にて死去。御男子二歳、国千代殿と云々。御家督仰せ付けられ、後見に五郎左衛門殿舎弟、大須賀五郎兵衛殿、遠州久野城主五千石取り給うを仰せ付けられ、横須賀御支配なり。

よって五郎兵衛殿、横須賀を御下知有る故、七人衆思いけるは、一家の御主人と云うなら、五郎兵衛殿御下知ならんも、謂われなく、我々元は遠州代々の国有る人、今川家官令として数代随う故に家臣となれり。大須賀とも傍輩なれども、時の運による事なり。いざや横田へ引っ込みて、天下より下し置かれる知行にて、世を遁れんと、久世三四郎、坂部三十郎は立ち退き、渥美は我が元大勢にて苦労に成る親類多し。横田の知行ばかりにては成るまじく、さらば在郷し、我が知行所へ篭居せんとて、病気と云いて、土方村上下残らず知行なる故、ここへ引き篭り、病気と云い久しく居て、終にここにて病死なり。
※ 天下(てんか)- 一国を支配する者。天子・摂関・近世の将軍など。ここでは、家康のこと。
※ 篭居(ろうきょ)- 外に出ず家の中に閉じこもっていること。


二代の源五郎、横須賀へ出て、国千代殿補佐の臣と成り、国千代十一才にて大坂冬御陣の御供の時、源五郎も御供申すなり。源五郎甥、大坂村大石喜平次を召し出し、一疋一両の御供相勤めさせたり。同源五郎甥、大石彦左衛門、これは出羽守殿御代より召し出され、御奉公申す。国千代殿御守役にて、大坂御陣御供申すなり。翌年、大坂夏御陣場にて、国千代殿、榊原の家督仰せ付けられ、御越しの節、大石彦左衛門も御供して、榊原の家へ行くなり。
※ 一疋一両 - 戦国時代、馬一匹、具足一式で軍役に服した、下級武士で普段は農耕に従事した。土佐の長曾我部氏の「一領具足」、阿波の蜂須賀氏の「一領一疋」、薩摩の島津藩の「外城衆」など、同じ類いである。

一 大須賀五郎左衛門康高、天正十六年子の六月廿三日、横須賀にて病死、撰要寺に葬る。男子これ無き故に、その世継ぎは榊原式部少輔御舎弟、大須賀国千代忠政と云々。上総国久留里と云う所へ、天正十八年に拝領して、御国替え有りて、その跡、横須賀は大坂方渡瀬小次郎、大坂より拝領後に、左衛門尉と云う。当関白秀次公御謀叛に組む証文判形これ有り。よって、文禄四年に流人と成り、臼井峠にて切腹なり。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ