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渋柿を求めて右往左往した顛末

(渋柿の皮を剥き干す)

黒くて白い粉を吹き、中は柔らかくて、自然の甘味の極致と言ってよい干し柿を、故郷にいたころ、よく食べた。おそらくお袋の関係の親戚から送られて来たものだと思う。歳を取ってから、そんな干柿の味を思い出し、もう一度食べたいと思った。

しかし、マーケットに行っても、手に入るのは、人工的に渋抜きした、干柿とは名ばかりの加工食品ばかりである。昔、口にした熟々の干柿は流通商品としては扱いにくいのか、見ることが出来なかった。ある時、何とか似た物を見つけて買ってきたら中国製で、家族に笑われ、誰も手を出さなかった。

そんな中、昨年、ご近所から渋柿をいただき、女房が作り方をネットで調べて、干し柿にした。他の人が軒下で雨に当てて、カビが出て駄目にしている中で、我が家の干し柿は大成功で、冷蔵庫に保管して、年明けの頃まで大事に食べた。

一年経って、今年も作ろうと思うも、今年は近辺は不作で全く手に入らなかった。話を聞くと長野県や山梨県まで、渋柿を求めて車を走らせたという人もいた。浜松市春野町の農業祭で手に入れたという近所の人から、女房が12個分けてもらって、何とか干し柿を作った。翌週、春野町まで行ってみたが、売っているようなところは無かった。豊岡村にはあるという情報も聞いたが、そこまでは足が伸ばせなかった。

車で空しく帰りながら、ネットで買えばよいではないかと思いついた。探せば幾つもネット通販の渋柿があった。中で安価なものを選んで、代金引換で注文した。高知産のもの、8キロで、送料、代引き料金込みで、3,115円だった。送られて来た箱に、37個のけっこう大きい渋柿が入っていた。1個84円かかった勘定になる。

一昨日、清水で買った10個とともに、今朝加工した。皮むきは自分が行い、女房が二つずつ、紐で繋いで振り分けにして、雑菌を消毒するために、熱湯に1分間浸けた。焼酎に浸す方法もあるようだが、我が家は熱湯にしている。

この後、一般には軒下に吊り下げて干しているが、寒い地方ならば失敗はないけれども、暖かい静岡では夜露や雨に当てるとすぐにカビが発生し、駄目にしてしまう。我が家では、手間でも毎日、日向で風通しの良いところに出して、夕方には家の中に仕舞っている。もちろん雨の日は外へ出さない。そうすればまず失敗することはない。

一週間から10日で、表面が少し固くなり、中は芯まで柔らかくなったら、形を整えてビニール袋に重ねないように入れ、冷蔵庫に仕舞っておく。そのまま置けば、内部の水分が表面に浮き、全体が同じ柔らかさになって、表面は黒く、白い粉を吹くようになる。あとは、食べる分だけ出していただく。1、2ヶ月は十分持つと思う。渋柿を求めるのに苦労したが、これでこの冬の楽しみが一つ出来た。
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77東泉寺、80珠林寺 - 駿河百地蔵巡り 12回目


(東泉寺の日金地蔵と延命地蔵)

(昨日のつづき)
追分羊羹の店の先から左へ入り、JR東海道線の線路脇に第七十七番東泉寺がある。境内奥に地蔵尊が屋根を被せただけの地蔵堂に置かれている。「日金地蔵」または「傘地蔵」と呼ばれている。円柱に傘を被った形は地蔵尊らしからぬ形であるが、地蔵像は円筒部分に線刻されていたらしい。風化で今ではよく分からない。縁結び、子宝、性病快癒に霊験があるという。右脇には延命地蔵尊が並んで祀られていた。「日金地蔵」だけではお参りし難いとの配慮なのであろうか。番外の地蔵尊として数えよう。


(珠林寺本堂)

旧東海道の通りに戻り、追分羊羹の店の向かい側の道を北へ入り、500メートルほど進んだ住宅地の中に第八十番珠林寺がある。お寺の向いの家で生垣を選定していた熟年男性に挨拶して珠林寺へ入った。珠林寺の延命地蔵尊は元は御本尊だったが、平成4年に新しく造った釈迦如来座像に譲り、現在は位牌堂に祀られているという。


(ショッテケ地蔵)

境内に「ショッテケ地蔵」という石の地蔵尊がブロックを積んだお堂の中にあった。補修された部分が新旧まだらになっていた。立て札の由来記によると、この地蔵はかつては近くの道路脇にあった。昔、村の庄屋さんが、結婚式の帰り道、夜遅くほろ酔い機嫌でやってくると、何処からともなく「ショッテケ、ショッテケ」という声が聞こえた。そばのお地蔵さんが言っていると思い、土産の料理の風呂敷包みを置いて、重い地蔵さんを背負って歩き出した。しばらく行くと「オイテケ、オイテケ」と聞こえるので、下して振り返ると、その姿はなく、引返すと元の位置へ戻って居られた。その間に料理の包みだけ無くなっていた。それ以来、そのお地蔵さんは「ショッテケ地蔵」と呼ばれるようになった。

お話の裏を探ってみたくなった。お酒が入った庄屋さんに、いたずら心が起きて、お地蔵さんを背負えるかどうか試してみたくなった。背負ってみた所に通り合わせた村の衆に「庄屋さんでねえか、何してるだ」と声を掛けられた。「お地蔵さんがしょってけというもんで」と、お地蔵さんを元に戻しながら言い訳した。そんな話が村の衆の口に上ると、庄屋の権威に関わると思い、その村の衆に料理の包みをくれて口止めをした。家に帰ると、結婚式の料理はどうしたと聞かれ、とっさにでっち上げたのが上の話であった。こんな裏話があったとしたら楽しい。

珠林寺を出たところで、先ほどの男性が一服していた。広い庭のある屋敷の軒にたくさん干柿がつるされているのが見えたので、干柿がたくさんできますねえ、と声を掛けた。今年は柿が豊作でたくさん採れたが、去年は20個しか成らなかった、と話す。自分も干柿が作りたくて探していたが、なかなか無くて、先ほど近くの果物屋で見つけて、荷物になるけど買ってきたと、ザックの中の柿を見せた。

昔から屋敷に渋柿がたくさん成ったけれども、放置していた。聞けば昔は柿渋をとったものだという。ある時に干柿を作ればよいと聞いて、作るようになった。若い人は干柿なんか食べないけれど、自然のもので自分は好物ですと話すと、息子は食べないけれども、嫁の好物で喜んでくれるので、去年は少なかったので、嫁が来るまで取って置いた。もう食べれるのがあるから食べてみるかね、と途中で会話に加わった奥さんが干柿を持ってきてくれ、二つ頂いた。帰宅して女房と分けて食べたが、少し早いかと思ったが、すでに一部、粉を吹いていて、十分美味しくいただけた。(つづく)
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81法雲寺、79法岸寺、78油木地蔵堂 - 駿河百地蔵巡り 12回目

(稚児橋橋柱)

駿河一国百地蔵の11回目に今日出掛けた。お天気は曇り、この後晴れたり曇ったりという予報である。朝、いつもの電車に乗る。後方の車両だと座れるので、そこに乗るように決めているが、後方3両は靜岡で切り離されるので、靜岡駅のホームで前方車両に乗り換えた。一手間掛かるが、立っていると無駄なエネルギーを使ってしまう。


(法雲寺延命地蔵尊)

第八十一番法雲寺はJR清水駅から西へ1キロ足らずの町中にある。境内に石仏が並んだ真ん中に、頭が風化して壊れて小さくなった地蔵座像が、「三界萬霊」と刻まれた柱の上に座していた。かたわらに「駿河一国百地蔵尊霊場 第八十一番延命地蔵尊」の立て札が立っていた。


(法岸寺本堂)

巴川に架かる、河童の童子像が橋柱に置かれた稚児橋を渡った先に、第七十九番法岸寺がある。かつては行基の作と伝わる地蔵尊が祀られ、「地蔵の寺」として知られていた。戦災で焼失し、現在は厄除延命地蔵尊が位牌堂に祀られているという。


(「朝顔日記」ゆかりの女性の墓)

法岸寺境内には浄瑠璃「朝顔日記」の深雪のモデルとなった女性の墓がある。「朝顔日記」といえば、大井川越の島田側に、朝顔の松(4代目)があり、浄瑠璃「朝顔日記」のクライマックスの舞台として知られている。案内板に寄れば、モデルとなった女性は日向国財部(現、高鍋)の城主秋月長門守の娘で、清水船手奉行の旗本1700石、山下弥蔵周勝の夫人となり、寛永十八年(1642)に没したという。


(油木地蔵堂)

法岸寺からJR東海道線に少し寄ったところに、第七十八番油木地蔵堂がある。案内板によれば、百数十年前、近くの人々が、お地蔵さんを祀って、無縁仏を供養していた。そばにアブラギリの木があり、油木のお地蔵さんと呼ばれ親しまれていた。昭和20年、戦災に遭い、お地蔵さんも焼けて壊れてしまった。壊れた地蔵を埋めて、その上に現在の地蔵堂が建てられている。地蔵堂の扁額に「駿河一国百地蔵菩薩 第七十八番油木地蔵尊」と記されていた。

旧東海道に戻って追分の手前で、小さな果物屋の店頭に、小さいものから大きいものまで、渋柿がたくさん並んでいた。この一月ばかり、渋柿を探していて、手に入ったのは12個だけで、ネットで高知に注文したばかりであった。10個入った袋で450円は割安である。買おうかと思ったが、今朝まだ歩き始めたばかりで、荷物になると、一度は通り過ぎた。しかし思い直して50メートルほど戻り、一袋購入した。

店番のおじいさんが今年はこれが最後だという。この辺りには渋柿がたくさんあったが、区画整理で随分切ってしまった。しかし、まだ日本平の方にはたくさん残っているという。まとめてたくさん買ってくれる人もいる。聞けば、干し柿にして知人に送るのだという。お店の名前は確認しなかったが、追分羊羹の店の近くである。軽いザックがずしりと重くなった。(つづく)
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75寿昌寺、76梅蔭寺 - 駿河百地蔵巡り 11回目

(鉄舟寺)

(21日のつづき)
鉄舟寺は幕末に活躍した山岡鉄舟ゆかりのお寺である。国宝の久能寺経をはじめ、文化財も数多く残っている。百地蔵巡りが終わったら、その番外として久能街道を歩く予定にしているが、そのゴールに鉄舟寺を予定しているので、その時に拝観料を払って詳しく中を見学しようと思う。今日は山門を潜ったところにある地蔵堂に参るに留めた。


(鉄舟寺の文殊地蔵堂)

文殊地蔵堂と表示され、立派な瓦屋根の小さなお堂に、石の地蔵座像があった。壁に張られた板に、

文殊地蔵 明和八年(1771)
 若人求仏慧通達菩提 
 父母所生身速證大覚
   明和七年庚 法印永明  六月初五日
   安永三年  法印俊永  十二月七日
   延享三年  金剛子永宏 六月十五日
    施主 沼田町 望月一平
      昭和五十九年十一月吉日
     大工 三保   長沢良和
     瓦士 妙音寺  宮田勝司
     鳶  西久保  松永明利


と記されている。施主が御先祖の菩提を弔ったもののようだが、意味は解読していない。「文殊」といえば「文殊菩薩」を想像するが、「文殊地蔵」というのは初めて見る。どちらにしても、文殊だから、智恵の仏様なのだろう。

さらに、2キロ南へ下った、海寄りに、第七十五番寿昌寺がある。山門の正面に六地蔵があるだけで、境内にも本堂にも、地蔵尊は見当たらなかった。


(梅蔭寺)

それより、北へ向かって3キロほど行った清水の旧市街に、威圧するような本堂の、第七十六番梅蔭寺がある。言わずと知れた、清水次郎長の菩提寺である。観光コースにもなっていて、拝観料を払って入ってみた。次郎長ゆかりの品々が展示され、次郎長の銅像があり、3人のお蝶を祭ったお蝶弁天があり、次郎長を中心に、子分の仙右衛門、小政、大政、石松の墓が並んでいた。前に一度来た記憶があった。


(次郎長の銅像)

浪曲の流行とともに、全国に知られるようになった、侠客次郎長は、明治になると一転して、駿遠三の治安維持にあたり、咸臨丸殉難者のため「壮士の墓」を建て、清水港開港に尽力し、英語教育を勧め、晩年は三保・日本平・富士裾野などの開墾事業に没頭した。山岡鉄舟、榎本武揚など、当時の大臣顕官とも交流があり、明治二十六年七十四歳で天寿を全うした。

売店のおばちゃんと話した。どうやら梅蔭寺にはお地蔵さんはないようで、おばちゃんはお地蔵さんなら、興津の清見寺へ行けばたくさんあると勧める。清見寺へは日を改めてゆくつもりだと話す。土産に「次郎長笠」なる、大判ドラ焼を買って帰った。餡のなかに栗と餅が入っていた。

さらに2キロほど歩いて、清水駅で歩き終えた。本日の歩数40,287歩、歩行距離19キロであった。
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73楞厳院、74玉泉寺 - 駿河百地蔵巡り 11回目

(楞厳院山門)

(21日のつづき)
聖一国師堂から下り、自動車教習所に沿って回り込み歩く。途中に第七十三番楞厳院の案内看板を見つけ、「りょうげんいん」と読むことを知った。住宅街を歩く内、方向が解らなくなった。発進しようとする軽の老人と目があったので、止めて楞厳院の場所を聞いた。榊やら何やら、積荷が不審だったけれども、いまそこで地鎮祭があったものだからという。どうやら神主さんを捕まえてしまったようだ。地図を出して来て一緒に調べてくれ、楞厳院は間近にあることが解った。


(楞厳院の六地蔵)

立派な山門があり、古刹の風格のあるお寺であった。本堂の引戸が開け放たれていたので、上らせていただいた。本殿左手、諸仏が祀られている壇上に、「駿河一国百地蔵第七十三番」の板が半分隠れて立て掛けられていた。しかし、諸仏の中に地蔵尊像は見つけられなかった。山門右脇に、立派な石の六地蔵が並んでいたので、番外の地蔵尊とするべく写真に納めた。


(玉泉寺から見える富士山)

日本平の東の裾をさらに南下して、第七十四番玉泉寺に至った。境内から富士山が間近に見え、はるばる清水まで来たことを改めて感じた。歩いた距離は積算すれば200キロ近くになっていると思う。玉泉寺にも地蔵尊は見つけられなかった。境内前の墓地に大きな子安地蔵石像が立っていたが、どこでもよく見る量産化されたものであった。


(玉泉寺前の「出陣を待つ仏たち」)

玉泉寺を降りたすぐの空き地に、仏像群がぎっしりと置かれたところがあった。仮安置されたもののようであったが、「出陣を待つ仏たち」とネーミングした。どこへ出陣するのだろうか。

次に、番外の鉄舟寺へ、県道を2キロほど南下する。鉄舟寺までもう少しのところで「言いなり地蔵」の看板を見つけた。鉄舟寺の近くにあることはネットで調べてあったが、そばまで行ったら探すつもりだった。県道から山側に入り、山道を少し登ったところにあった。

小さなお堂に熟年夫婦がお参りしていた。絵馬に願いを書いたり、お堂の前で跪く女房を、亭主が角度を変えながらデジカメに納めたりしている。ご利益がありますかと聞けば、初めてだからどうでしょうかと女房が答えた。お地蔵さんを前にして、疑っていたのではご利益は覚束ないだろう。


(言いなり地蔵)

言いなり地蔵尊の由来を記した案内板によれば、元和2年(1616)夏、旅の老行者が病に臥し、看護する村人に、「われ地蔵菩薩の化身なり、逝きて後、この地に地蔵菩薩を建てよ、如何なる願いも叶うほどに」と伝えて亡くなった。村人はお地蔵さんを祀り、いつしか「言いなりさん」と呼ばれ、人々の信仰を集めたという。

掛川にある、事任(ことのまま)神社という古社は、心霊スポットとして有名であるが、神と仏の違いはあるが、同様のご利益が伝わっている点が興味深い。(つづく)
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68円福寺、71桃原寺、69上原地蔵堂、70狐ヶ崎地蔵堂 - 駿河百地蔵巡り 11回目

(池田神社のクスノキ)

(21日の百地蔵巡りのつづき)
日本平パークウェイへの道に戻って、街の方へ下る。クスノキの巨木が覆う、池田神社を右手に見て、300メートルほど進んだ交差点を右折した左側に、第六十八番円福寺がある。本堂まで参ってみたが、地蔵尊も、「駿河一国百地蔵」の板も、見つけられなかった。


(桃原寺本堂)

それより、東へ1キロほど歩く。途中に草薙運動公園を左側に見て、広野神社の交差点を右折、東名の高架下を抜け、左側に東豊田中学校を見ながら緩やかな坂を登って行く。その先に、第七十一番桃原寺があった。「駿河一国百地蔵第七十一番」の板は本堂に張ってあった。境内にそれらしき地蔵尊も、地蔵堂も見当たらなかったから、本堂の中に祀ってあるのだろう。

一休みする間に、僧服に身を固めた僧侶たちが次々に桃原寺にやって来て、本堂脇の玄関に吸い込まれていく。法要か会議か、何かがこのお寺で行われようとしているらしい。お寺を立去るまでに、20人ほどの僧侶がやって来た。本堂は明け放たれたが、中に入っていくのは憚られた。


(上原地蔵堂)

次の第六十九番上原地蔵堂は、旧東海道を歩いたとき、道中にあって、すでにお馴染みである。北東に3キロほど歩いて、旧東海道沿いの狐ヶ崎の少し手前にある。お堂に間違いなく、「駿河一国百地蔵第六十九番」の板も張ってあった。

上原延命子安地蔵尊の案内板によれば、上原の地名はかつては地蔵原と呼ばれていたことから、地蔵堂が建立されたのは、庶民に地蔵信仰が広まり、各地に地蔵堂が建立された鎌倉時代とされている。

永禄十一年(1568)、信玄の今川氏真を攻めるとき、本隊の武将山県昌景の部隊がこの地蔵堂を中心に宿営布陣したという記録がある。また、天正十年(1582)家康が武田勝頼を攻めるとき、武田方武将、江尻城主穴山梅雪と上原地蔵堂で会見し、梅雪は家康の軍門に下った。その結果、戦況は武田氏滅亡に大きく傾いたといわれる。この地が東海道にあって、重要な拠点であったことを示している。

明治24年、地蔵堂は地蔵尊共々、何者かの失火により焼失し、現在のお堂は昭和7年に上原区民の40年に及ぶ浄財の積み立てにより再建されたものという。


(聖一国師堂)

地蔵堂の縁を借りて、途中調達した昼食を食べたのち、すぐ脇の小道を登って、次の第七十番狐ヶ崎地蔵堂は上の県道へ出た辺りにあるはずと探した。朱色のお堂があった。聖一国師堂である。外に地蔵堂らしきものもなく、そこもお参りしようと思ったが。柵があって、県道からは入れない目の前にあるのに、一度下まで降りて登り直すことになった。聖一国師といえば靜岡茶の始祖として有名な700年前の高僧である。

お堂に参り、先ほどとは逆に、柵の向こうの県道の歩道を散歩する老人に、柵越しに狐ヶ崎地蔵堂について尋ねたところ、この聖一国師堂が狐ヶ崎地蔵堂だと答える。表示が何もないので、確認するべくもなかったけれども、その言葉にすがり、ここを狐ヶ崎地蔵堂として、次に進むことにした。違っていれば、再訪しなければならない。ネットで調べたところでは、この聖一国師堂が狐ヶ崎地蔵堂に間違いないようであった。(つづく)
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K山の会OB会の夜

(K山の会OB会)

今夜、K山の会OB会が金谷の富士屋であった。会社が金谷にあった頃、富士屋のカツ丼と春駒の鉄火丼は残業時の夕食の2大アイテムであった。高度成長期、毎日毎日9時まで残業が続いた。夕食は、一日置きに、カツ丼と鉄火丼が交互に出された。カツ丼と鉄火丼の味のベースは、自分の中では今でもその味になっている。中でもカツ丼の濃い味は、疲れた身体には美味しく感じられたものである。その後、春駒は店じまいして無くなったが、富士屋は若い人に引き継がれて、今でも続いている。昔のカツ丼の味が守られているのかどうかは知らないが、懐かしい店が今夜の会場となった。

出席は10人、出席の返事は12人だったが、頼んだ人数は10人ぶんで、結果、その席がぴったり埋った。何だか変だが、結果オーライである。言い出しっぺのMさんが忘れていて欠席となったのだから、このいい加減さは、山の会の伝統なのだろう。

長老のK翁は87歳、30年前、58歳の誕生日を愛鷹連峰の位牌岳で迎えた頃と、ほとんど変わらないと話す。位牌岳山頂で、敬虔なクリスチャンであるK翁に、お釈迦様の手振りをさせて、記念写真を撮った、あのめちゃぶりの誕生祝いを、今もって忘れない。

3人の年寄りを抱えて、介護で厳しい日々を、前向きに暮らしているA女史、小学校の教職に付いたばかりの娘がモンスターペアレントに潰され、鬱を発症、出勤できなくなったと話すO氏、結婚しない息子や娘を抱え、互いの息子と娘を見合いさせようと企む、MI女史とMO女史。すでに子供たちも巣立って、夫婦2人の生活になり始めている。犬や猫のペットがいなければ、夫婦に一日会話がないと話す。それぞれの人生も、日本の社会の現実とは無関係ではあり得ないようだ。若いと思っていた仲間も、もう50代半ばで、定年が近づいている。何の障りも無く、山登りに興じていた昔が懐かしく思い出される訳である。

山の会の活動ではなかったが、遠江三十三観音巡礼や、東海道二十二宿歩きなど、自分が音頭をとって平地歩きをしていた仲間、S氏、W氏、U氏、K氏のうち、W氏とK氏はすでに鬼籍に入り、S氏も車椅子生活になってしまった。無事なのはU氏と自分だけである。一寸先は闇、人生をどこで終えることになっても不思議ではない年齢になってきた。それぞれ健康に留意して、来年また会うことを約してお開きにした。

昼間の方が出易いという、皆んなの意見を入れて、次回は来年11月23日(土)午前11時より、昼食時に、富士屋にて、会費4000円で、山の会OB会を行うことを約して別れた。今日の残金1200円は次回に回すべく、次回幹事の自分が預った。
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遠州森町山中家 - 駿河古文書会現地見学会

(山中家で古地図を見せていただく)

駿河古文書会、年1回の現地見学会で、遠州森町山中家へお邪魔した。古文書会の皆さんは小型バスで現地へ行くけれど、自分は直接車で現地へ行った。新東名に乗れば30分足らずで着いてしまう。誠に便利になった。高速料金が片道300円は値打ちがある。予めネットで場所が調べてあったので、山中家はすぐに分った。直接の方がすでに2人見えていたので、座敷へ上げて頂き、御当主、山中真喜夫氏からお話を聞く。

山中家は代々名主など村役人をやって来た家系で、二代目が元禄の頃と分っているから、300年以上経っている。古文書が約6000点あり、土蔵風の倉庫に整理して保管してあり、文書の名前が判れば5分で取り出せるように整理してある。40年程前から古文書会に入り、山中家の古文書の解読をして、翻字や読み下し文にして、現代の人にも判るようにしてきた。

明日から2日間、町並みと蔵展があって、その出品のため、座敷にはいくつか古文書が並べられていた。静岡から一団も到着し、皆んなでお話を聞いた。山中家八世の方が隠居後、天保年間にたくさんの文書を書いて残されており、古文書の多くの部分を占めるという。八世が残された国絵図や村絵図などを見せてもらう。日々の記録も残っていて、日々写図の作業を行ったという記録も残っている。元の絵図があって、写したものだと思うが、元の絵図についての記録はない。

並べられた古文書は、町指定文化財になっている「遠淡海地志」(全8巻)、慶應二年の「年行司日記」、八世の覚書、私録、日記など、宝暦・天明・安政の旅日記など、勉強中の身には垂涎の古文書である。実物を手にすると、日記類など細かい字でびっしりと書かれ、ボールペンでもこんなに細くは書けないほどの字が並んでいる。どんな毛筆を用いたのだろう。

御当主は昭和51年に森町古文書会に入会、駿河古文書会にも七年ほど会員に在籍し、合宿して受けた緑陰古文書解読講座など懐かしく思い出す。しかし、その場だけの講座をいくら受けても、解読の実力は付かないと思い、人を頼らずに、家に残る古文書を自ら解読していくようにしてきた。三年ほど前まで、古文書講座を細々と続けてきた。

御当主の年齢を聞かなかったけれども、頂いた資料で計算してみると、91歳になる。奥さんに先立たれ、一人暮らしだというが、かくしゃくとして、今も町の観光ボランティアをされ、恐るべきお年寄りである。

昼食のとき、何人かの会員の方とお話した。講座ではお話をする機会もなくて、顔は知っていても、どんな方か知らない人ばかりで、こんな機会が大変貴重である。話の中で、旧家の古文書を見せていただくけれども、これだけしっかりと管理されている古文書は初めてだとの、大方の感想であった。
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どうだん原のドウダンの紅葉

(どうだん原の紅葉)

新聞に、どうだん原の紅葉が盛りとの記事が出ていたので、見て来ようと出掛けた。ムサシがお供である。

犬のお供と言えば、桃太郎のお供はどうして犬、猿、キジなのだろうか。昔から疑問に思っていた。最近知ったことであるが、鬼がいる方角は鬼門だとすれば、方位は十二支で言えば丑寅(うし、とら)である。その反対側が、申酉戌(さる、とり、いぬ)になる。桃太郎は丑寅を打ち消す方位、申酉戌をお供に引き連れた。陰陽道の考え方が桃太郎の物語に影響しているという話である。おとぎ話もそんなことを調べていくと面白い。

ちょっと脱線したが、ムサシを連れて行くには色々障害がある。女房はムサシを連れて出たがるが、食事をしなければならない時や、人出の多い所へは連れて行けない。慣れていないから、人を見て吠えたりする。今日は、車で千葉山のどうだん荘まで行き、どうだん原まで山道を20分、平日だから人は多くないとの読みで連れ出した。

駐車場には車が予想外に多かった。熟年世代で、平日でも暇がある人たちが、世の中には意外と溢れているようだ。金の掛からないイベントや物見遊山など、今日のように新聞に載ると、曜日に関係なく繰出して来るようである。


(どうだん原のムサシ)

ムサシは初めての場所に大興奮で、車から飛び出して、リードをぐいぐい引っ張り、しばらく興奮が冷めなかった。お昼前で、どうだん原を見物して来た人たちがそろそろ引き上げる時間らしく、細い山道で次々に帰る人たちとすれ違った。女房は足を止める対向者に、ごめんなさい、ごめんなさいと、しきりに謝っている。しかし、ムサシは一度も吠えることなく、皆んなにきれいな犬とほめられた。


(どうだん原のリンドウ)

どうだん原の紅葉は、最盛期を少し過ぎているように見えたけれども、それでも真っ赤な紅葉が目にしみるようであった。ムサシはカメラ目線を嫌う。何とか、写真を何枚か撮った。しかし、どうだん原では落ち着かず、休む間もなく山道をとって返した。ムサシにすれば、散歩に来たと同じで、ゆっくりと休んだり、紅葉見物をしたりする気は、さらさらないのであろう。花や丁仏の写真を撮ったりしているうちに、ムサシに引っ張られて、女房も戻ってしまった。

   *    *    *    *    *    *    *

今朝、島田のO氏から、畑で造った、ダイコン、シュンギク、小松菜などをどっさり頂いた。また、近くの畑のおじさんから、里芋をたくさん頂いた。また、2、3日前、近所の方に干柿を作りたいと話したら、春野町で買ってきた渋柿を12個分けていただいた。早速加工して乾している。色々頂くものが多くて、感謝、感謝である。
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35法蔵寺、72大慈悲院 - 駿河百地蔵巡り 11回目

(JR東靜岡駅前の今朝の富士山)

11回目の百地蔵巡りに出かけた。今朝はJR東靜岡駅がスタートである。風も無く穏やかな天候の一日であった。駅前広場から、今朝はすっかり冬の装いとなった富士山が輝いて見えた。


(法蔵寺観音堂-地蔵堂)

前回見落とした法蔵寺を再び訪れた。東靜岡駅南の県道を1キロほど歩いた。法蔵寺の地蔵堂は正しくは観音堂であったので、前回それと気付かずに見逃してしまった。ガラス戸棚のようなお堂の中には、真ん中に金色の如意輪観音像、右脇に靜岡新西国観音第十四番札所の如意輪観音像、左脇に彩色された靜岡百地蔵第丗五番延命地蔵尊の立像が並んで祀られていた。「駿河一国百地蔵第丗五番」の板は堂内壁へ立て掛けてあった。


(龍泉寺の延命地蔵)

小学校を挟んで法蔵寺の東隣りに龍泉寺というお寺があった。境内に入ってみると、石彫の立派な地蔵立像があり、延命地蔵菩薩と刻まれていた。番外に数えようと思う。


(大谷川放水路の地蔵)

済生会病院の通りを東へ歩く。大谷川放水路を渡った所に小さな地蔵堂があった。「水難防止、交通安全、延命地蔵尊」と染められた赤い幟が立っていた。格子の中を覗いてみると、延命地蔵尊は不在で地蔵尊の絵姿のコピーが張られていた。この地蔵堂も番外に数えよう。


(法伝寺別院)

さらに東へ、東名高速のガードを潜って、日本平の山裾の坂を少し上った所に、第45番法伝寺がある。駅前の丸井A館にあったのが本寺で、こちらの方がはるかに立派である。石の門柱に鉄の門扉もいかめしいけれども、こちらの方が別院である。「駿河一国百地蔵」の板も地蔵尊も見つからなかった。境内に大きくてりっぱな六地蔵があった。これを番外の地蔵尊と数えようと思う。六地蔵の意味がわかりやすく刻まれた碑があった。


(法伝寺別院の六地蔵)

お地蔵様は、お釈迦様が亡くなられた後、弥勒菩薩様が現れるまで、法を継いだ菩薩です。天上道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六つの迷いの道から、私達衆生をお導き下さるのが六地蔵様です。

  一 天上界     大堅固 地蔵尊
  二 人間界     大清浄 地蔵尊
  三 修羅界     清浄無垢地蔵尊
  四 畜生界     大光明 地蔵尊
  五 餓鬼界     大徳清浄地蔵尊
  六 地獄界     大定智慧地蔵尊



(大慈悲院地蔵堂)

法伝寺別院の一つ北側の谷の入ってすぐに、第七十二番大慈悲院がある。その少し奥には日本平動物園がある。そこまで東名の側道を歩いた。「駿河一国百地蔵第七十二番」の板は山門に掲げられていた。境内左手に地蔵堂があった。ガラス戸を開けて見ると、祭壇の真ん中に彩色された半跏像が厨子に入って祀られていた。(つづく)
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