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伊藤清次郎さんの「天災地変記録」 12 - 掛川古文書講座

(裏の畑のキンカン、半分に切って、種をほじくりだす
そのママ生食すれば、甘くて美味い。少し硬いのが玉に疵。肥料がくれてないからだろう)

昨日の続き、明治の「天災地変記録」である。

一 明治五未(申)年、正月寒気強し。伊井の谷宮、御新築に成る。二月十二日より十五日まで、御祭典御修行。四月、大宮御所様、東京へ御下り、天子様御母公様と申す。
※ 大宮御所 - 太皇太后または皇太后の御所。

掛川紺屋町へ補亡方御役所建つ。村々収納、嘉永五年より明治五年未(申)年まで、二拾ヶ年取り調べ出す。五月八日、僧侶、肉食妻帯仰せ出さる。廿三日、天子様、御船にて大坂並び、中国へ御巡幸。大神宮様御祓い、初めて改まる。壱戸壱枚ずつ、戸長役場より村々役人へ渡る。村役人はこれ毎戸へ配布す。
※ 補亡方御役所 - 警察のようなものであろうか。

七月廿一日、中水、善光寺下水丈が八、九尺ばかり、年以来の大水なり。四月頃より世界に箒星出て、国に害あると人皆云えど実を知らず。八月、田園調べ仰せ出さる。九月、掛川出張所御廃しに成る。九月一日より東海道へ電信線を張る。掛川御城内、御殿及び御蔵、その外立木まで御払いに成る。田畑の名称を廃止て、すべて耕地と唱うべく事、仰せ出さる。石高を廃止て反別相用い申す事、仰せ出さる。僧侶苗字を相設け候様、仰せ出さる。修験宗廃止の事。大陰暦を廃し、大陽暦に改むる。十二月二日、日坂八幡社にて、御祓いの御神事あり。毎戸参詣行くべき旨達せられ、過半参詣に行く。

明治五年十二月三日をもって、明治六年正月元日と弥々改む。また正月と云うを廃して、一月と云う。大陽暦と相成り候。明治六年一月一日と成る。年頭も途中にて、村方ばかり致す。村入用及び庄屋払い、その他勘定は、一月三十一日までに勘定致す事に相成り候。小作年貢も同断の事。田園調べ方、種々振り合い替わる。日延べ願いだす。

四月三日、神武天皇様御祭り、初めて熊野三社にて修行す。村方若者連中と言うを廃止す。七月、田園調べ御厳重に仰せ出さる。もっとも、この度の田園調べは、明治三年の田園調べとは、田畑、宅地、山林、雑種地、及びその他残らずだけ量り、坪詰め地形を改め、野取り絵図面地位の等級、地続き付など中々むずかしく、浜松県庁へ出頭する事、その数知れず。また振り合い替りて、失えし事も尠なからず、本年世の中、上作なり。


さすがに明治の初めで、次々の改革が矢継ぎ早に出されている様子が分かる。この後も「天災地変記録」は明治19年辺りまで続くが、講座で読むのはここまでで終った。テキストはあるので、いつか個人的に読んでみたい。
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