goo

長浜川の切り抜きと涼月橋(お遍路落穂拾い2)

(長浜川の切り抜き)

秋のお遍路二日目、11月2日、34番種間寺でメガネ紛失事件があった。そのため、その前後に遍路道で見た古い土木工事について触れるいとまがなかった。落穂ひろいをしておきたい。

朝、33番雪蹊寺前の高知屋を出て、新川川に沿って1kmほど歩いた所に、「長浜川の切り抜き」の案内板があった。

土佐藩の奉行職、野中兼山は現在の春野町一帯の平野を灌漑し、浦戸湾と結んで水運の便宜をはかるため、新川川の開削を計画し、慶安元年(1648)から五年の歳月を費やし完成させました。
この工程で最も苦労したのが、諸木村の唐音の鳥坂山を長さ約百メートル、高さ三十メートル、幅十二メートルにわたって切り抜く工事でした。ここを過ぎると新川川は通称長浜川と呼ばれ、その昔は桜堤が連なり、浦戸湾十景の一つに数えられました。


記述の内容は、灌漑と舟運の目的で、仁淀川と浦戸湾をつなぐ新川川を開削したが、その最も困難な工事が、高さ30メートルの鳥坂山を切り抜く工事だったというのである。案内板のあった辺りは両側から山の迫った間をきり割ったように新川川が流れていた。遍路道はその川に沿って進んだ。


(涼月橋)

切り抜きの先を溯ると、新川川は高いところを避けるように大きく蛇行し、34番種間寺から3キロメートルほど進んだところで仁淀川と繋がる。そのすぐ手前で遍路道は涼月橋と名付けられためがね橋で新川川を渡る。

橋のたもとの案内板によると、涼月橋は承応元年(1648)土佐藩主忠義公の奉行、野中兼山(春野神社祭神)により、新川川、新川町がつくられた際に、当初は木造の橋がかけられた。現在の橋の片側に残っている純石造橋は明治三十年頃(1897)の造りといわれ、その工法のすぐれた形からメガネ橋と呼ばれ広く親しまれた。

新川川は涼月橋の先で仁淀川に繋がる。仁淀川の方が3メートルほど高いために、「新川の落とし」と呼ばれる落差2.7メートル、幅9メートル、長さ22メートルの石畳のスロープがある。これも、野中兼山の遺構である。このスロープで仁淀川よりも水位を3メートル下げた。

この日に見た古い土木工事跡には、いずれも野中兼山の名前が残っている。そういえば、室戸の津呂港も方形の港を開削した人物として野中兼山の名前が出ていた。

野中兼山は土佐藩の奉行で、二代藩主山内忠義から藩政改革を命じられ、堰、用水路、水車などを建設して新田を開発した。また、日本最初の掘り込み港湾「手結内港」をはじめ、津呂港、室津港などを開削し、防波堤や波止場を作って、漁港の機能を回復した。その功績で「土木神の化身」と呼ばれた。

その行政手腕によって業績をあげる反面、政敵も多く、三代藩主山内忠豊になると弾劾を受け失脚し、幽閉の3ヶ月後、49歳で亡くなった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

2ヶ月ぶりの長距離歩き

(矢倉山から富士山が見える)

お遍路から帰って、初めて10kmを越える長距離を一人で歩いた。コースは大井川を渡って島田市伊太から矢倉(八倉)山(標高311m)を越えて、田代に下り、「田代の郷温泉 伊太和里の湯」へ入って、コミュニティバスで帰って来ようという計画である。入浴料500円、コミュニティバス200円の安上がりな小遠足である。

地図もリュックも無しに、タオル1本持って、散歩の延長で歩いた。矢倉山へは田代側からは一度登ったけれども、伊太側から登るのは初めてである。大井川を国1バイパスの橋で渡った。川原に柳を主とする樹木が繁茂し、見るたびに背が高くなって、橋をはるかに越えるようになった。上から見るとまるでジャングルである。今は枯れ色一色であるが、もうしばらくすると、柳が芽を吹いてうす緑に覆われるようになる。

バイパスの側道から伊太の谷を溯っていく。伊太は梅の産地で、これからの季節、集落一帯は梅の花でいっぱいになるというが、今はまだ早い。それでも何本か早咲きの梅の花を見た。

矢倉山は目の前に見えているので、目線の会ったおじさんに登り口を聞いた。まっすぐに登っていけば登り口の表示があり、杖も用意してあるという。登山口の標識を探しながら行ったが一向に現れない。山の脇を通り過ぎて田代へ抜けてしまいそうになり、花の手入れをしていたおばあさんに聞いたところ、通り越してきたらしく、詳しく教えてくれた。

目標は登り口にある墓地であった。そこには大きな石の観音像が立っていた。下の道を行くときに矢倉山の手前の小山の斜面に、その観音像が立っているのを見ながら通り過ぎていた。

観音像の脇の山道を登って行くと登山道に出た。おじさんが教えてくれた登山口は別のところにあったようだ。緩やかな登りと最後にジグザグの急登で山頂に着いた。前回にも見た絶景を楽しみながら、途中の無人販売で100円で買った青島みかんを食べた。

前回登ってきた道を下って、田代の「伊太和里の湯」に着いた。土曜日で混んでいるかと思ったが、意外とお客が少なかった。とろりとした肌触りは変らないが、前に入った時よりも茶色に濁っていて、泥水に入っているようでどうにもいただけない。近くの温泉にはこんな色の温泉は無い。もう一つ人気が上がらないのはそのせいなのだろうか。

汗で濡れた下着をもう一度着るのが何とも気分悪くて、着替えを持って来るのだったと後悔した。コミュニティバスが2時なので、時間が40分しかなかったが、その間にざるそばを食べてバスに乗った。

今日、歩いた歩数は17,648歩、10キロメートルを越す距離になったと思う。足は大丈夫だったが、身体は温泉に入ったこともあるのか、ぐったり疲れた。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

家田荘子さんのつなぎ遍路

(岩屋寺に至る快適な尾根道)

家田荘子著「四国八十八カ所つなぎ遍路」の本を、20日ほど前に購入し、少しだけ紹介した。昨日ようやく読み終えた。読みながら感じていたことは、お遍路の廻り方、感じ方が自分とは全く違うと言うことである。

その違いを書く前に、彼女の誤解に言及しておきたい。彼女の本に出てくる「オヤジ歩き遍路」は、おおむね、群れてお喋りでガヤガヤと楽しみながら回っているというイメージで描かれている。しかし、我々オヤジも歩き遍路では9割以上一人歩きのお遍路である。お寺で群れて見えるのは、一人歩きのお遍路同士がたまたま出会って情報交換をしていると言うのが正しいと思う。著者はオヤジ歩き遍路との接触をその猥雑さゆえに避けていて、その辺りの状況に誤解があるのではないかと思った。

遊び半分ではとても歩き遍路は出来ない。リラックスしているようでも、その中にまなじりを決している部分があることを、オヤジ歩き遍路のために弁護しておきたい。地元ではエロオヤジでも四国まで来てエロさを引きずっているオヤジ歩き遍路はいない。

さて、彼女のお遍路が自分とは全く違っていると思ったのは、まず、その足の早さであろう。時速5kmで歩いて8時間で40km歩いてしまう。自分の場合は平均時速はせいぜい4kmである。8時間で32km、この違いは大きい。毎月3日歩いて12ヶ月つないで1年で結願してしまう。つまり36日で1番霊山寺から高野山まで終えてしまうのだから、そのスピードには脱帽である。

次に旧遍路道の山道を過度に恐れて、余程でないと歩かない点である。何キロ余分に歩くことになろうとも、舗装道路を歩く。山道にはけものや蛇などいないわけではないが、遭遇することはめったにない。著者はまるで魑魅魍魎でもいるように恐れている。山道を選んで歩いていた自分とは真逆である。彼女には山歩きの楽しさは理解できないようだ。

三番目に、大変感受性が強いというか、鈍感な我々オヤジ歩き遍路と違って、いたるところから霊気を感じてしまう。さぞや賑やかなことだろうと同情するが、自分にその気持は全く理解できない。

四番目に寺々にある仁王像や大師像などに、まるで生きた男性を見るような目を向けている。これもオヤジ歩き遍路には理解到底不能である。

五番目に月初めの3日のお遍路に、まったくよく雨に降られて、大変なお遍路になっている。天候の過酷さをわざわざ求めてお遍路をしているように見える。自分は春と秋、天候の安定しているときに歩いたから、雨に降られた日は数日しかなかった。

違いはあるけれども、四国の皆さんのお遍路さんに対する優しいまなざしは、著者同様、自分も十分に感じてきた。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

50年後の同窓会通知

(耕し中の裏の畑)

昨日、故郷から3月に開催される中学校同窓会の通知が来た。案内文の一部を以下へ書き写す。

還暦も過ぎてしまった年のせいか、元気でわんぱくだった中学生の頃がポツポツとよみがえってまいります。その記憶もまだら模様になってしまっており、友の顔や校舎などが余計に懐かしく思えてなりません。
田舎に留まる同級生がたまたま顔を合わせ、その懐かしい頃をたどるべく下記の計画をいたしました。多くの懐かしい友と楽しく昔話ができますことを願って、ご案内を申し上げます。


この文の中に「懐かしい」という言葉が3度出ている。世の中のしがらみも断ち切れ、すでに年金生活に入っている我々年代ならば、一切の肩書きを捨て、生臭い利害関係を超越して、懐かしいだけの理由で集まりを持つことが出来るかもしれない。

その中学校は兵庫県豊岡市の豊岡南中学校という。第15期卒業生は、6クラスだったか7クラスだったか、50人くらい居たから、300人を越す生徒が居たと思う。あれからもう50年近く経っている。

南中学校は豊岡盆地の真ん中、唯一の高台の一郭にあった。先の大洪水で町が水没したときも島のように水害をまぬがれた地域である。自宅から通学時間は10分ほどで、当時は給食がなかったから、お昼は弁当を持ってくるか、家へ食べに帰るしかなかった。当時は父親が働き、母親が家を守るのは普通であったから、昼には母親が準備をして待っていてくれ、1時までには昼食を終えて再び登校した。

勉強もしたのだろうが、覚えているのは、横溝正史の「八つ墓村」を何時間にも渡って語ってくれた音楽教師や、映画の助監督崩れの社会科教師などしか記憶がない。後は土のグラウンドで汗を流した9人制バレーボールのクラブ活動ぐらいであろうか。我が南中学校は、その後、生徒数が大きく減ったために、統合されて、今は跡形も無くなっている。昔を思い出すよすがもないわけである。

女房は地元で、度々同窓会をやっている。小さい学区で小学校も中学校もずーと一緒であれば、関係も深いわけで、何よりも地元であることが強みである。その点、故郷を遠く離れてしまったものは不利である。

正月、一時体調を崩したお袋に会いがてら、帰郷して出席してみようか。いつか故郷で一年ほど暮らしたい思いもまだ捨てていないから、同級生と関係が復活できれば楽しくなるかもしれない。会ってほとんど記憶がなくても、たとえ今浦島状態になったとしても、お遍路中の一期一会のように、心地よい人間関係が持てるならば、行ってみるのも悪くない。
コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )

蟹食べ放題の新年会

(総務の新年会)

今夜、会社の総務の新年会があった。掛川の駅前のホテル10階で、「北海道フェア、ズワイ蟹食べ放題」といううたい文句に、いやな予感がした。個室が20名以上でないと駄目ということで、一般席に出席者11人の席を取って、バイキング方式で始まった。蟹以外にも色々な料理が別テーブルに並んでいる。挨拶もなくいきなり料理を取りに行くところから新年会がはじまった。ズワイガニも皿に盛られて運ばれてくる。

一般席ではお酒が入ってもそんなに騒ぐわけにはいかない。その上、カニが出てくると、皆んなが蟹を食べるのに集中して、会話ががくんと減る。話題はもっぱらカニの足の食べ方だけである。食べ放題とは言え、身がとりやすく庖丁が入れてあるわけではなく、カニ用の鋏が出してあるだけで、手間が掛かって会話がはずまない。いやな予感は当った。

スワイガニは自分の故郷の山陰では、かつては普通に食べられていた。現代のように冷凍技術が発達していなかったため、漁港に揚がったものの大半は地元で消費しなくてはならなかった。今と比べると漁獲量が格段に多かったから、漁港からそう遠くない故郷では、漁村から行商のおばちゃんが門口まで売りに来た。中でも松葉ガニと呼ばれたオス蟹は大きくて商品価値が高く、地元の温泉宿や京阪神まで送られて消費されたが、小蟹と呼ばれたメス蟹はすべて地元消費となるため、本当に安かったと思う。1匹10円くらいのものを、たくさん生で買って来て、大鍋でゆでる。湯気の立つ小蟹を大ザルに盛り上げて、兄弟が競争で食べる。それが3時のおやつだった記憶がある。もう50年以上前の話である。

松葉ガニの美味しさはそのミソにあるのだが、保存が難しいから、店で出てくるものは足だけになっている。特に、小蟹はミソの他に卵を抱いており、塩味のついた卵の部分にかぶりつき、しゃぶる快感は今も忘れられない。ゆで上がったばかりの小蟹の甲羅を外し、ミソなどを指で直接削いでしゃぶる。足をバリバリ歯で折って(歯も丈夫だった)片方から吸えばスポンと身が口中のものになる。量は松葉ガニの比ではないが、味は濃厚でたれなどつける必要も暇も無かった。兄弟で競争でガツガツ喰い、三匹、五匹と殻がつみ上がっていく。

しかし、今の人にそんな話をしても、実感は伝わらないだろう。そこで悪戦苦闘している女性たちに身の取り出し方を伝授しようとしたが、冷凍を戻したものではみずみずしさに欠けて、身離れが悪いため、なかなか上手に取り出す手際よさを見せることは出来なかった。

結局、話題は蟹の身の取り出し方に終始して、日頃仕事場では話せない様々なことを話す機会にはならなかった。幹事さん、蟹はやっぱり止めようよ。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

お遍路記録推敲中

(木瓜の花が咲いた)

この所、ブログの書き込みを元に、お遍路記録の整理をしている。ブログに書いた量だけでも1520文字×155ページで235,600文字もある。400字詰原稿用紙で589枚にもなる。これを半分以下に短くするのが目標である。重複した文とかいらないエピソードをカットするのはもちろんだが、推敲でもかなり短く出来る。文章は短くすればするほど良い文になるといわれている。推敲する時間が十分に取れないブログは無駄な言葉がべたべたとくっ付いて、言いたいことが相手に伝わりにくい悪文になりがちである。

どんな風に推敲するのか、今日推敲した文を例に示してみる。

高知県の遍路道の標識の付け方にだいぶ慣れてきた。道路標識から矢印のワッペンなども含めて、過剰と思えるほどについていた徳島県と違い、高知県の付け方は分岐などのポイントにはしっかり付いているが、常識的にまっすぐにしか行けそうに無いと思われるところには、距離が長くなっても全く付いていない。自分の目を信じて想像力を働かせながら進めば、道を間違うことは無いだろう。ただ、余り長い間、遍路道の標識を見ないと、歩いていてふと不安になる。そのときに一つの矢印や、遍路道の標識に逢うとほっとするのも確かである。

ここで述べたいことは、遍路マークの徳島県と高知県の量の違いと、高知県の量でも事足りること、ただ遍路マークをしばらく見ないと不安になるお遍路の心理もあることを伸べようとしている。

まず、「遍路道の標識」とか「矢印のワッペン」とか色々に書いているが、どこかにその定義を書くことにして、用語を「遍路マーク」という言葉に統一した。次に無駄な言葉、例えば「付け方」「思えるほど」など、太字にした部分は無くても意味が通じる。というより、無いほうが判り易い。「常識的にまっすぐにしか行けそうに無いと思われるところには」ともって回った書き方をしているが、要は「一本道」のことを言いたいのだろう。ならばそう変えた方が判り易い。そして、「てにをは」を少し変えて、下記の文になった。

高知県の遍路マークにだいぶ慣れてきた。過剰についていた徳島県と違い、高知県では、分岐にはしっかり付いているが、1本道の途中には距離が長くなっても全く付いていない。自分の目を信じてマーク通りに進めば、道を間違うことは無いのだが、しばらく遍路マークを見ないと、ふと不安になり、見つけた一つの遍路マークにほっとするのも確かである。

半分にはならなかったが、推敲した文の方がはるかに判りやすくなったと思うがどうであろう。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ムサシが飼主の顔を見る時

(我が家のランドマーク)

夕方の散歩を引き受けるようになって、ムサシのことが色々と判るようになってきた。

ムサシは我が家では大も小も一切することはない。散歩に出るまで我慢してしまう。だから、ムサシの昼間の小屋や、夜の寝部屋は犬の臭いがほとんどしない。そんな風にしつけが出来てしまった。それはまことにけっこうなのだが、そのために朝夕2回の散歩は欠かすことが出来ない。

小は犬特有の臭い付けのために、散歩道のあちこちで小分けにする。散歩が長くなると、終わりごろは出ないのだが、一応足を上げる。どういう基準があるのか知らないが、ムサシなりのこだわりがあり、臭いを嗅ぎ出すと動かなくなる。身体の右側を寄せたり左側を寄せたり、落ち着き無く動いて足を上げる。かと思うと途中で止めて先へ進んでしまう場合もある。多いのが草むら、電柱、歩道と車道を区切る車止め。人の家の前ではさせたくないから、少し前から道の反対側へ寄せて行く。

大は癖がわかってきた。ムサシが好むのは少し広めの草地である。田植え機などが田んぼに入る土のスロープなどで、草が生えているところは好みである。量は大型犬の比ではないから、はじめると適当な大きさに切って折りたたんだ新聞紙で受けて、丸めてビニール袋に入れて持ち帰る。ここという場所に導いて促がしたら大をしたときはやったぁと思った。

向こうから散歩の犬がやってくると、相手の犬が興奮して騒いでも、じっと我慢して通り過ぎる。通り過ぎると歩きながらこっちの顔をうかがう。女房に聞くと興奮したり吠えたりしてはいけないとしつけてきた。吠えないでお利口に出来たときはおやつをやるようにしてきた。だからそんな場合、当然おやつがもらえるものと、飼主の方を見る。知らん顔していると、リードを持つ手に跳び付いてくる。

通ることをどうしても嫌がる道がある。そちらへ回ろうとすると全身で抵抗する。どうしてだろうと思っていたが、最近少し解ってきた。その道では人家の庭に飼犬がいて、ムサシにけたたましく吠え立てたことがあった。ムサシが身体を張っても行こうとしないのはそんな理由であろうと思い、その家を迂回する道を行けばスムースに付いて来た。

あまり遠くまで行くと帰りに草臥れるのか、座り込んでしまい、首を足で掻いたりして寛いでしまう。そうなると歩かせるに一苦労しなければならないので、適当な距離を歩いたら帰り道に進むようにコントロールするようになった。

我が家にはそばにランドマークがあり、どこまで歩いても見上げればそのランドマークが見える。どのくらいまで来たのか判るとともに、帰り道の方向もわかる。そのランドマークが写真のHARADAの広告塔で、高いからどこからでも見えている。
コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )

野菜作りに目覚め、裏の畑を耕す

(木瓜の蕾が膨らむ)

1月になってから園芸店で木瓜(ボケ)の小さな鉢を買ってきた。日当たりの良い出窓に置いてあるが、花芽が膨らんでピンクになってきた。毎日、楽しみに観察している。花が終ったら庭に下そうと思っている。

    *    *    *    *    *    *    *

裏の畑が夏野菜が終って荒れたまま放置されていた。2、3日前から支えや枯れた蔓などを片付け始めて、今日より畑を耕すことをはじめた。

昨日は島田の娘婿の実家より家庭菜園で収穫した野菜をたくさん頂いた。それに触発されて夏野菜の前に、春野菜を作ってみようと思った。

今日、女房と買い物に出かけたついでに、198円の園芸用の土を5袋と無人販売の牛糞200円を5袋買ってきた。裏の畑は土が痩せているので、去年から少しずつ土を入れている。スコップで耕しながら、牛糞と土を入れる作業を始めた。去年よりも心なしか、スコップが入れやすい。

女房は前にW氏から頂いた間引いたニンジンが小さいけれども美味しかったといい、ニンジンのリクエストをする。大きくしないで小さくてよいという。小さくてよいなら裏でも出来そうである。大根も大きくせずに抜き菜でよいというから、少し日当たりが悪いが、十分出来ると思った。他にジャガイモなども植えてみたい。目標はスギ花粉がとぶ前に種まき、植え付けまでやってしまう。1日30分ほど、無理をしない程度に少しずつやろうと思う。

裏の畑は冬場は自宅の陰に一日中入ってしまい、冬野菜は作れない。日が高くなれば差すようになるから、春から秋までは野菜が出来る。先日、会社で畑に反射板を設置して、日陰になるところに陽を当ててみたいと話した。昔から考えていたアイディアである。装置を上手く造れば、冬でも野菜が作れるようになるかもしれない。この季節に実験できればと思っている。

    *    *    *    *    *    *    *


(海ぶどう)

近所のKさんに沖縄土産の海ぶどうを頂いた。はじめて見る食材である。沖縄の海に生息する海藻で和名をクビレヅタという。ツブツブの食感を楽しむもので、グリーンキャビアと呼ばれる。

説明書を読むと、海ぶどうは生きており、冷蔵庫に入れたり、直射日光や30℃以上の高温にさらしたり、ドレッシングを上からかけたりすると、萎んでしまって食感がなくなる。お刺身を食べるようにドレッシングにつけて食べると書かれていた。

夕飯に皆んなで食べてみた。味はドレッシングの味で、口の中にプチプチ感を感じるだけの不思議な食品であった。この歳になって初めて食べるものに出会うのは何とも楽しい。
コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )

雪椿の話(お遍路落穂拾い1)

(四阿 雪椿)

この所、外へ出ないでお遍路の記録をまとめている。そのため、なかなかテーマが見つからず、日々の書込みに汲々として綱渡り状態である。それで、またまた恐縮であるが、お遍路で洩れている話を落穂拾いをしていく。今日はその1である。

    *    *    *    *    *    *    *


(雪椿と池内夫妻墓)

11月4日、そえみみず遍路道を下ってきて、七子茶屋で鬼コーチと再会し、第37番岩本寺に向かって行動を共にした。自分の歩きに鬼コーチが付き合って頂いたと言う方が正しい。3キロメートルほど歩いた影野という集落で、「四阿 雪椿」と名付けられた休憩所があった。一休みしながら、雪椿とは何とも優雅な命名だと話していた。そばに椿の古木があり、案内板が立っていた。

   お雪椿(ヤブツバキ)(ツバキ科)
高岡郡窪川町影野 周囲1.5m/樹高10m/樹齢350年
昭和41年5月9日町の天然記念物に指定
ここを舘屋敷と言い、寛永のころの影野新田の開拓者で地頭職の池内嘉左衛門の屋敷跡である。
池内氏の娘お雪は、影野西本寺の若僧順安と恋仲となったので、お雪の父は順安を還俗させてお雪と夫婦にし、地頭職を譲り嘉左衛門の名を継がせた。
夫婦は至って仲むつまじく里人達をも愛した。二人には子供が恵まれなかったので、彼らの死後、里人達はお雪が生前好んだ椿を墓所に植え二人の供養を毎年行ってきた。
この椿が風雨星霜300余年の今も毎年美しい花を咲かせ、二人の霊を慰めている。


そばに墓があり、「池内嘉左衛門/同人妻雪 墓」と刻まれていた。悲恋物語の期待は裏切られた。理解のある親とやさしい里人の間で、天寿を全うした幸せな夫婦の話では少し盛り上りに欠ける。

「四阿雪椿」の額の字を書いたのは、大本山活禅寺管長×××と記されていた。その「活禅寺」はどこにあるのかと思った。休憩を終えて歩き出したすぐ隣りにお寺があり、門標に「大本山活禅寺窪川別院」とあった。なるほどここが活禅寺で、窪川別院とある。この小さなお寺が本山であるわけが無いから、本山はどこにあるのかと疑問に思うと、そのすぐ隣りに大きな板碑が立っていた。「信州大本山活禅寺 第一世管長 徹禅無形大和尚御生誕之地 長野県知事吉村午良書」と刻まれており、すべてが解明された。

「四阿 雪椿」命名の元は「天然記念物 雪椿」で、その謂れの「池内嘉左衛門・雪 墓」がそばにあり、その屋敷跡が「大本山活禅寺窪川別院」になっており、「信州大本山活禅寺」を開山した「徹禅無形大和尚」が当地の生れで、ここが大本山の別院になっている訳である。抱いた疑問が次々に解明されて、繋がって行った。不思議な気分であった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

予算委員会の審議を見る

(土手のスイセン-ムサシの散歩道で)

昨日、今日と予算委員会の審議をテレビの国会中継で見た。攻守交替して攻める方も守る方も勝手が違うようで、舌鋒鋭くとは行かないし、答弁する方も役人を排除しているためもあって、まるで素人集団で、ピント外れの答弁が飛び出してくる。国民がチェンジを求めたのだから、少々の問題は仕方が無いのであろうが、こんな状態が続くと短期間に再びチェンジの判定が下されて、国民は困窮からなかなか脱出できないことになる。

野党が追求している最大の問題は、鳩山首相と小沢幹事長の、秘書による政治資金の不実記載問題である。谷垣自民党総裁の質問から始まって、すべての質問者がこの問題を取り上げて、同じ質問をくり返し、同じ答弁を行う。会議場に倦怠感が流れ、見ている国民もげんなりして、テレビを切ってしまった人も多いだろう。

政治家にとって、政治資金の問題は相身互いで、なかなか鋭く切り込んでいくことが出来ないのかも知れない。鳩山首相が野党時代に政治資金について、秘書が犯した罪は政治家も同罪と言った言葉が現在の自分に降りかかってくる火の粉になっている。そんなことがあるから、質問者も鋭く切り込めないのではないか。

鳩山、小沢両氏ともに、秘書の罪が自分にかかることを防ぐために、答弁する内容が、庶民感覚ではどうしても理解できない。

鳩山首相は、実母から自分の政治資金管理団体に毎月1500万円の政治資金を7年間にわたって受けていながら、その事実を全く知らなかったと答弁を繰り返している。知っておれば脱税容疑になるから、知らなかったと言い通すしかないのだろうが、追求側も甘い。本当に知らなかったというならば、会計責任の秘書は重大な報告をしないで、長年に渡って隠してきたことになり、鳩山首相は秘書を首にする位の重大な問題である。どうして秘書を許して置くのかと追求する方法もあると思う。

小沢幹事長にいたっては明日検察の参考人聴取に出頭して、4億円は自らのたんす預金だったと答弁するらしい。4億円ものお金を自宅に隠していたことが事実ならば、たんすが何竿必要になるのだろう。検察でなくても奥さんも呼んで聞いてみたくなる。そんな答弁が通ると思っているならば、検察は許しても国民は許さないだろう。金融不安から金融機関から下して現金で持っていたと答弁するようだが、それが本当だとすると、どこかの金貸しの親爺と何も変らない。情報を持つ政治家が国民をだまして、自分だけ損からまぬがれようと考えた構図になってしまう。政治家としての小沢氏を信じている人は、誰も小沢氏がそのような行為をするとは思わないはずである。そんなばかばかしい話までして、守らねばならない秘密とは何なのだろう。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ