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熊本城の巨木

(飯田丸五階櫓脇のクスノキ)

熊本城の見学中に何本かの巨木を見た。熊本城に櫨方門から入って、1本、2本、3本とクスノキの巨木に出会う。いずれも熊本城が現役であった時代の木々である。いずれも幹周りは5メートル前後あると見た。圧巻だったのは飯田丸五階櫓のそばにまっすぐに立ったクスノキである。周りから干渉を受けない空間にクスノキ本来の樹形を広げていた。案内板によると、幹周り10メートル、樹高30メートル、樹齢800年であった。クスノキはまだまだ熊本城内に何本も巨木がありそうに思えた。


(熊本城の大銀杏)

もう一本、熊本城を象徴する巨木がある。本丸御殿のそばにあるイチョウの巨木である。公開前の本丸御殿は周りに縄張りがされていて、そばには近寄れないから詳しいことは判らないが、全体に枯れたような幹を見せている。新緑の季節になれば生気を取り戻すのかも知れないが、現在は勢いが無い。熊本城は別名銀杏城とも呼ばれているが、その所縁になったイチョウである。

帰宅後、しっかり調べたところ、加藤清正が築城の折り自ら植えて、いつか籠城の際にギンナンを食料にするように言ったというが、このイチョウは雄木で実は付けない。しかし城内にはイチョウの木も多くあっただろうし、その多くが雌木だったと想像でき、この高台に成長した雄木が飛ばした花粉でたくさんのギンナンが成ったとすれば、清正の意志はそんなに的外れでもない。

清正は、この銀杏が天守閣と同じ高さとなったとき、異変が起きると予言した。それは明治10年の西南戦争のときであったと言われている。因縁話ではあるが、このイチョウは西南戦争のときに一度は燃えてしまい、その後芽吹いた脇芽が成長したものだという。それを読んでこのイチョウの現況を納得した。イチョウは火に大変強くて火伏せにもなるというから、清正が植えた一つの理由だったかもしれない。

熊本城の巨木は、どの木も昭和63年環境庁による調査に基づく「日本の巨樹・巨木林」に載っていない。熊本市に113件も報告されているにも関わらずである。調査を依頼された役所がサボっていたのか、勘違いしていたのか。いずれも市の管理下にある樹木なのだから言い訳できないように思う。

熊本の巨木を調べていて大変なことが判った。熊本城から1キロメートルほど西に、藤崎台球場という野球場があるが、その南側の公園の中に、7本のクスノキの巨樹があるという。何となくおぼろげに知識はあったはずであるが、今回調べていてはっきり認識した。一説にはその最大木は幹周り20メートルで日本第3位の巨樹だという。測り方で順位は上下するが、相当のものだと思う。次に来たときはぜひ見学しようと思った。
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復元整備中の熊本城(後)

(熊本城宇土櫓)

(昨日の続き)
石垣の間の石段を右へ左へと折れて、天守閣へ向かった。天守閣の左側に回って広場に出る。天守閣の反対側の隅に宇土櫓があった。西南の役で天守閣を初め多くの建物が炎上する中で、宇土櫓は風上にあったため奇跡的に焼け残り、国の重要文化財に指定されている。案内板によると、熊本城内に唯一往時のまま残る多層櫓で、外観は三層、内部は五階に地下を備えている。この宇土櫓だけでも小さい城の天守閣ぐらいはあるだろう。小西行長の宇土城の天守閣を移築したと伝わり、呼び名の起こりとされているが、解体修理時の調査によると移築された痕はないことが判ったという。

中に入ると部材一つ一つにさすがに400年の歳月を感じさせる。木材は主にマツ、他にツガ・クス・クリなども混じっている。柱や梁のちょうな痕は飯田丸五階櫓と同じであるが、歴史を感じるのはなぜだろう。屋根瓦の中には加藤家の桔梗紋を持つ瓦も残っているという。

櫓に登っても外の景色をあんまり見ていない。垂直に近い石垣の上に更に多層の櫓がのって、とても外の景色を楽しむという気にならない。歳とともに高所恐怖症は過敏になっているように感じる。


(熊本城天守閣)

最後に、天守閣に挑む。入り口は反対側で、右手から回って行った。団体の観光客の多くは台湾や韓国の人のようだ。日本語ではない言葉が飛び交う。グループ客には日本人もいる。昔のように観光バスによる団体旅行は日本では流行らないのだろうか。

熊本城の復元に費やすパワーの源は何だろう、という疑問の答えの一つに、東南アジアからの観光客へのアピールがあると思った。石垣だけ残った城跡に立ち、失われた古き栄華に思いを馳せ、無常感に浸るという感傷は、東南アジアの人々には無い。現代に造ったものであっても、立派な形のある城郭を見せることで、初めて東南アジアの観光客を呼べる。考えてみるとこれだけの規模の城跡は九州ではここ以外には無いのだから。100億円掛けても経済効果を考えれば取り戻せる。そんな思惑が働いたのではないのだろうか。

熊本城天守閣は昭和35年(1960)に復元されている。内部は熊本博物館の分館になっていて、清正と熊本城、細川氏や西南戦争の関連資料などの展示がされている。伴って内部は昔の城にこだわることは無く、階段など現代の歩きやすいものになっている。


(公開を待つ熊本城本丸御殿)

最上層まで登ってきたが、天守閣に寄り添うように建てられた本丸御殿の屋根を上から見下ろしただけで、早々に降りてきた。その間に外は小雨が降ったようであった。頬当御門から出て行幸坂を下り、行幸橋に戻った。振り返ると坪井川に沿った全長242メートルという長塀が見えていた。この長塀も国指定重要文化財である。


(熊本城長塀)
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復元整備中の熊本城(前)

(加藤清正公銅像)

JR熊本駅から路面電車に乗って熊本城前で降りる。加藤清正公の銅像を右手に見て、行幸橋を渡り櫨方(はぜかた)門から熊本城に入る。観光客も見えず、案内板も無いから不安になって、城内を管理しているらしい作業服のおじさんに、ここから天守閣へいけるかと尋ねた。行けるとの返事に、桜が最もきれいなのはどの辺りだろうと聞いてみた。ちょっと考えて、天守閣のあたりだろうと答えてくれた。

やがてゲートで入城料を払う。400年祭の記念であろうか、入城料は500円のところ300円に値下げになっていた。本丸御殿の公開は4月からですかと未練らしく聞いた。4月20日からだが、公開直後は混むので少し経ってからの方がいいと自分には用のないアドバイスをくれた。


(熊本城飯田丸五階櫓)

石垣の間を天守閣に向かって縫うように登り、天守閣と石垣の上に再建された本丸御殿が前方上方に見えてきた。天守閣を目指す前に、左手の飯田丸広場の隅に飯田丸五階櫓(やぐら)が見えたのでそちらへ向かい、櫓に登ってみた。「ちょうな」で仕上げた柱や梁の“はつり”面が、美しい波状の削り肌を見せている。その肌がまだ新しい。係りのおじさんに聞くと、平成17年に再建落成したという。「飯田丸」は加藤清正の重臣、飯田覚兵衛が預かっていた曲輪(くるわ)があることから、そのように呼ばれた。

案内板によると、熊本城にはかつて大小天守閣をはじめ、櫓49、櫓門19、城門29もあった。五階櫓も築城当時6棟もあったといわれる。ところがその多くのものが明治10年(1877)の西南の役で焼けてしまった。

天守閣は昭和35年(1960)に再建された。平成10年からは熊本城の復元計画が始まった。この計画は壮大なもので、ほとんど新しい城を築くほどの規模である。平成14年に完成した南大手門を手始めに、戌亥(いぬい)櫓、未申(ひつじさる)櫓、元太鼓櫓、飯田丸五階櫓と復元してきて、ここまでの建築費が合計17億6千万円掛かった。今、完成して公開を待っている本丸御殿大広間にいたっては、総事業費が54億円だというから、ものすごい。おそらく内部の造りに大枚を掛けたのだろう。このあと復元計画では、百間櫓、西竹の丸五階櫓、数寄屋丸五階櫓、御裏(おんうら)五階櫓、櫨方(はぜかた)三階櫓、北大手櫓門と全部で12棟が計画されている。熊本市が熊本城の復元に費やすパワーは尋常でないように思う。その源は何なのだろう。そんな疑問を胸に天守閣に向かった。(明日へ続く)
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熊本の手の記憶

(熊本城の桜)

ほんのきのうのことなんだけれど、記憶がはっきりしない。全部忘れていれば、気にならないけれど、一部だけ覚えている。そんなことが気になって仕方がないときがある。

昨日、鹿児島からの帰り、熊本に寄ってみようと思った。熊本城築城400年で熊本はにぎわっているらしいという情報が入っていた。特に400年に合わせて復元された本丸御殿は金箔に彩られた内部の障壁画や天井画がすばらしいという。見て帰ろうと思って熊本まで切符を購入した。

電車に乗ってから、鹿児島中央駅で手に入れた熊本城築城400年のパンフレットを見ていて、本丸御殿の内部の一般公開のスタートは4月20日からだと知った。あてが外れてしまった。乗り越ししてそのまま帰ろうかとも思ったが、せっかく寄ろうと思ったのだから、その意欲を大切にして熊本で降りた。

熊本にいた時間は3時間余りであった。その間に起きた覚えていることは、次のようなシチュエーションであった。お釣りを受け取ろうとして、自分が出した左手を、下から支えて、もう一方の手で挟むようにして、手のひらに小銭を載せて寄越した女性がいたのだ。こんなお釣りの渡され方は今まで経験がなかった。もちろんお釣りを落とさないようにと、いたわりの気持なのだろう。そんなにおぼつかない年寄りに見られたのかと、少しショックであった。だから、そのときの手の感触まで覚えている。しかし、熊本のどこで起きたことなのかを覚えていない。

金額は150円だったと思う。出したお金を思い出してみよう。コインロッカー300円、市電150円、熊本城入場券300円、市電150円、ビーフカレー650円、陣太鼓2箱で1890円、文庫本2冊1360円、JRは21,650円、お茶140円、こんなところである。

可能性のあるのはビーフカレー、陣太鼓、文庫本、JRであろう。ビーフカレーはぴったり出した。陣太鼓は樋口一葉を出して、千円札のお釣りと一緒に小銭を寄越した。JRは椅子に座ってカウンター越しに支払ったから落とすような危険はない。とすると、おそらく駅デパで文庫本を買った時だ。書店の女店員であろう。しかしその時のお釣りは140円であった。記憶が少し違っていた。140円なら5枚で150円よりも剣呑である。手で支えたくなる気持もわかる気がする。

何とか一件落着ではあるが、年寄り扱いされたショックは消えない。
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鹿児島の女性タクシードライバー

(鹿児島中央駅の夕景)

日曜日から再び鹿児島へ出張していて、夕刻に帰って来た。その間も書込みを中断しないために、3日分を書き溜めて出掛けた。現地でパソコンを借りて、公開処理だけを行った。

さて、日曜日の夕方のこと。鹿児島中央駅から予約した谷山のホテルまでタクシーに乗った。ばさばさの白髪混じりで化粧っ気のない女性ドライバーだった。歳は60代に見えたが、50代だったのかもしれない。挨拶のあと名刺をくれた。タクシードライバーから名刺をもらうのは初めてである。上村S子さん、「観光アドバイザー」の肩書きが付いている。

谷山のホテルと聞いて、仕事がホテルに近いのかと聞く。中央駅に系列のホテルが二つあるからまた使って下さいという。

鹿児島に上山(うえやま)という苗字は多いのかと聞くと、桜島にあるという。別れた亭主が桜島の出で、子供がいたもので元の姓には戻らなかった。個人的な話ですいませんと断わり、鹿児島では「うえやま」とは読んでもらえず、ほとんど「かみやま」と呼ばれる。別れた亭主と初めて会ったときも、何度も「かみやま」と呼んでしまって、笑い合ったと話す。亭主に、まだ未練がありそうであった。

近頃は仕事は増えたでしょう。篤姫の大河ドラマが始まってから少しは増えました。前回鹿児島に来たとき、指宿の砂むし温泉に入って、今和泉の里も見学した。今和泉はないもないところだねぇと話すと、何もない所ですと相槌を打つ。

最近は日帰りで一回りされる人も多いという。知覧の武家屋敷、特攻会館を見学して、池田湖や長崎鼻を回り、指宿の砂むし温泉に入って、帰りに今和泉の里に寄って戻ってくる。なかなか強行軍だねぇ。9時に出て4時半頃には戻ってこれます。定期観光バスも出ているが、砂むし温泉にゆっくり入って来るというわけにはいかないから、とタクシーを勧める。3人なら少し高いくらい、4人ならペイします。昼食は武家屋敷の近くで、お客さんの注文で好みの店に案内する。黒豚のしゃぶしゃぶでも何でも。

そんなタクシーツアーを担当することも多いのだろう。それゆえの「観光アドバイザー」なのだろう。それならなおのこと、もう少し小奇麗にした方がいいよ、とは口には出さなかった。

上山ドライバーは乗車中ずっと話していた。谷山の街に着いて、こんな道を通ってきて良かったですかと聞く。まあ、距離的には最短の道だったのじゃないのかな。混んでいるときはこの道の方が早いです。

ところが、最後になって曲がる角を間違えたらしく、ホテルにたどり着けない。話に夢中で間違えたみたいだねぇ。メーターを止めますと倒してしまった。ようやくホテルについて料金を聞くと、2000円でいいと言う。谷山の街に着いた辺りで2300円ぐらいになっていたから、2000円じゃ少なかろうというが、2000円しか取らない。じゃあ領収書を下さいと言ってもらった。ホテルに入ってからよく見ると、領収書の金額には「2560円」と記入されていた。困ったなぁ、どう清算しよう?
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「薩摩の秘剣」を読む

(島津義秀著「薩摩の秘剣」)

「薩摩の秘剣」といっても剣豪小説ではない。先般、鹿児島出張の折り、空港の売店で買った新潮新書の一冊である。島津義秀という著者と「野太刀自顕流」という副題に目が留まった。薩摩で自顕流といえば中里介山の「大菩薩峠」の中で読んだ気がした。豪快をむねとする剣法だったように思った。鹿児島空港で買うに適した一冊だろうと思い購入して帰った。

今、「大菩薩峠」を見てみると、「壬生と島原の巻」に次のような場面があった。

 「貴殿の御流儀から承わりたい」
 「いかにも。拙者はまず自源流を学び申した」
 「自源流?」
 「関東にはお聞き及びもござるまいが、薩州伊王ヶ滝の自源坊より瀬戸口備前守が精妙を伝えし誉れの太刀筋」
 「いやかねてより承知してござる」


このあと両者は真剣の立会いをしたが、途中、仲裁が入って勝負は付かなかった。自源流の壮士は薩州の田中新兵衛と名乗って飄然と去っていく。田中新兵衛は幕末の実在の人物で、「暗殺隊長」とか「人切り新兵衛」の異名を取って恐れられた。

さて「薩摩の秘剣」を読み終えた。著者の島津義秀は加治木島津家第十三代当主である。大阪に生まれ、母方の加治木島津家を継いで薩摩に来て、野太刀自顕流に出会う。「大菩薩峠」の自源流は正しくは野太刀自顕流という。一刀にして台地をも砕くといわれる野太刀自顕流に取り付かれて活動の拠点を鹿児島に移す。ちなみに「野太刀」は「刀身が長い、大きな日本刀」のことである。

野太刀自顕流は時代小説などでは、同じ薩摩の剣法の示現流と読み方が同じなため間違われることが多い。示現流と野太刀自顕流は一つの流派から分かれたもので、示現流が藩の公認剣法だったのに対して、野太刀自顕流は野にあって一層荒々しい剣法として残った。教えに「一の太刀を疑わず、二の太刀は負け」とあり、「初太刀は地軸のそこまで叩き割れ」と表現される。そして敵対する新撰組の近藤勇に「薩摩の初太刀は外せ」と言わしめたほどであった。

島津氏は野太刀自顕流の習得から入って、天吹(てんぷく)という竹笛をしり、薩摩琵琶に出会う。これらの三つを中心に、青少年の人格形成教育システムとして最近まで生きていた「郷中教育」の復興に尽力している。

この郷中教育はイギリスに渡ってボーイスカウト活動のモデルになったといわれ、この郷中教育から、明治維新を成し遂げる逸材を多数輩出させたという。
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チベット暴動の今後

(庭のツバキ)

中国政府が最も恐れていたことが起きてしまった。14日、チベットで起きた暴動については中国政府の報道管制によって詳しいことがなかなか判らない。チベット側では警察と軍の発砲による死者が80人という。中国政府側では暴動に巻き込まれた市民の死者が最新報道では19人(内警察官1名)となっている。どちらにしても単にデモ行進に留まらず、暴動になった。聞こえる範囲では指揮する組織がいて計画的に行われたものとはとても思えない。もっともオリンピック前だから、騒ぎを起こせば事足れりということなら、あったのかもしれない。

安直に市民に銃を発砲する中国政府が逆に暴動の扇動になったのかもしれない。デモの制圧には、楯を持つ機動隊、放水、催涙弾など、双方を傷つけない手段がいくつもある。民主主義が定着した西欧諸国や日本なら、発砲の前にそれらの手段を用いて鎮めてしまう。言論の自由、集会の自由、示威行進の自由を認めている国ならば、それらが行過ぎて社会不安を煽る場合、どう沈静化させるかというノウハウを持ち訓練も怠りない。

ところが中国では、もともと言論の自由も集会の自由も、まして示威行進の自由なども認めていない。当然それに対処する手段も持ち合わせていない。だからいきなり銃を向ける。銃は外敵に対して向けるもので、内に向けるものではない。中国の弱い部分をさらけ出す結果になった。こう考えたらよく判る。オリンピック期間中に抑圧された人々が会場周辺で騒ぎを起こしたらどうするのであろうか。世界から集まっている客の前で自国民を銃で制圧するのであろうか。何らそれらに対処を考えていない国がオリンピックを開催する資格があるのだろうか。

日本の毒入りギョウザの事件はオリンピックまでは臭いものに蓋をしてしまったことになった。日本側もオリンピックが終わるまでは詮索を中断しているように見える。それを日本語では「武士の情け」という。次に北京の大気汚染が指摘された。マラソン選手で選手生命を終えたくないから、北京ではマラソンに出ないという選手も出て来た。そして今度のチベットの暴動である。

21世紀になって噴出してきた民族主義を押えるためには、大幅な自治と緩やかな統治、つまり合衆国のようは形態か、全体主義国家のような徹底した統治しかない。全体主義国家が民主化されていくと、当然民族主義が台頭して各地に紛争が起きる。かつてのソ連や東欧の諸国では、いまだにそれに苦しんでいる。イラクもフセインという蓋をはずしたら何が起きたか。フセインの圧政を外せば民主主義に移行できると考えたアメリカは、フセインが大量破壊兵器を持っているとして戦いを始めたとき以上に、大きな勘違いをしていたと思う。

ヨーロッパの一部で中国の開会式をボイコットしようと言い始めている。不安な食、大気汚染、そして国民の不満。次に何が起きるのだろうか。このまま平穏にオリンピックが開かれるとはまだ思えない。そんな中国に来月初めに出張に出かける。
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佐藤正午という作家

(佐藤正午のエッセイと小説)

自分が今まで愛読してきた作家は、ほとんどが自分と同年輩か年上もしくは昔の、男性の作家であった。自分より若い作家や女性の作家はあまり読む気が起こらず、手を出さないでいた。しかし、同年輩あるいは年上の作家は当然のこと年々亡くなったり、書く量が少なくなったりして、読みたい本の範囲がどんどん狭まってきた。そこで、最近読書の上で強いていることは若い作家や女性の作家の発掘である。別に発掘しなくても世の中に広く知られている作家は多いわけで、自分の中での発掘という意味である。

最新に発掘した作家に「佐藤正午」という作家がいる。誰からもどこからも紹介された訳ではなく、図書館で興味を引かれる作家はいないものかと本棚を漁っていたところ、エッセイの本棚に「ありのすさび」という本があった。並んで「象を洗う」「豚を盗む」という本も並んでいて、てっきり動物などに造詣が深い作家で、それを題材にエッセイを書いているのかと勘違いし、そのエッセイを借りてきた。

少し読んで自分の勘違いに気付いた。「ありのすさび」とは「在りの遊び」と書く。動物のアリではなかった。

「ある時は ありのすさび(在りの遊び)に 語らはで 恋しきものと 別れてぞ知る」

「ありのすさび」はこんな風に使われる。つまり「生きているのに慣れていいかげんに過ごすこと。なおざりに暮らすこと。」運行しているときは乗りもしないで、銀河が廃止と決まると急に懐かしがって最終列車が満員になる。そんな時に使うのだろう。

佐藤正午氏は地方都市・佐世保に住む小説家で自分よりも一回りは若い。日々の暮らしのなかで、わずかな変化、出来事をたくみにとらえて物語を紡いでゆく。エッセイの中で興味を引かれたのは同時進行で書き進められている小説の、きっかけとなるテーマの発想から小説に書き上げるノウハウ、テクニックなど舞台裏を書いているエッセイであった。平易にして滞るところのない文章は、今の作家の特徴なのだろうが、読み進める上で抵抗感がない。

それで今度はそのエッセイにまさに同時進行として取り上げられていた「ジャンプ」という佐藤氏の小説を読んだ。登場人物に一人として悪意を持つ人がいない。もちろん殺人事件が起こるわけではない。それなのに、なぞがなぞを呼んで推理小説を読んでいるようであった。優しい小説であった。

エッセイで小説家の舞台裏を読んで、それに触発されて小説を読むというのは順番が逆のようだが、まあそれもありかと思う。つまり「有りの遊び(読書)」である。
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「さかなのうた」と日流文化

(鹿児島のハクモクレン-3月13日撮影)

「つながるテレビ@ヒューマン」という先取り情報番組がNHKの日曜午後11時に放映されている。世の中で起きている新しい流れなどをつかんで置きたいので、時間が合えば見ている。先週の日曜日で取り上げられたテーマに「さかなのうた」があった。スーパーの魚売り場で喧しく繰り返している「♪さかな、さかな~」の歌が頭に浮かんだが、全く関係なかった。

2週間前にネット上に投稿され、大反響を巻き起こしているアニメーションの話であった。機械仕掛けで空を浮遊する魚と少年。繰り返しのメロディでぽつぽつと歌われる物語は、昔、空に憧れた少年が神様と契約して魚の姿で空を浮遊している。すでに神様にも忘れられて、元の姿に戻るすべもわからない。

5分間の作品を見てみた。「さかなのうた」は、一人の映像技術を専攻している女子大生が、卒業制作として、企画、作画、アニメ制作、作詞、作曲、歌まですべて1人で作ったアニメ作品である。投稿して1週間で20万回再生され、その完成度の高さが評判を呼んでいる。

今は様々な道具がそろい、才能のある人は年季を積まなくても、世界観やイマジネーションをストレートに表現できてしまう。そんな時代になったのだと思った。しかもそれを簡単に世に問うことが出来る。作品のやさしい浮遊感はどう表現すれば良いのだろう。「さかなのうた」で検索して見てもらうしかない。

戦後60余年、戦争の無い時代が続いた。これだけ平和が長く続いたのは日本の歴史を見ても、平安時代と江戸時代ぐらいしかない。そのどちらの時代もやさしい文化が栄えた時代であった。王朝文学に代表される平安時代と、江戸庶民の間に栄えた町人文化など、戦いがないと人々はこんなに優しくなれる。そしてこの60年の平和の末に開いた現代の文化もやさしい時代のものである。もはや企業戦士の時代も去った。

一時の寝ても覚めても韓流、韓流でもてはやされた「韓流ブーム」もすっかり下火になった。今は逆に日本文化の流入を自由化した韓国で、日流がブームになっているという。アニメやコスプレやゲームだけでなく、若手監督の映画、小説などが韓訳されて多くの若者たちに受け入れられている。

韓流のものが戦いや厳格さ、道徳的など、ワンパターンの内容が多いのに反して、日本のものは等身大の日常が描かれ、やさしさに溢れた様々な作品がある。平和に慣れ始めた韓国の若者たちに韓国文化は嫌われ、日本文化がブームになっている所以である。

「さかなのうた」もそういう作品の一つで、多数の人に受け入れられたのであろう。かつては自分も日本の文化現象を平和ボケの一面だとあまり評価していなかった。しかし、最近、21世紀の世界にもたらされた福音かもしれないと思うようになった。何ものも受け入れる自由な宗教観と、ヒューマンでやさしい若者文化が、車の両輪になって、冷戦後、堰を切ったように頻発する民族・宗教の地域紛争の中で、21世紀を救うことになるかもしれないと考えるようになった。
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「蒲生の大クス」は無事だった

(蒲生八幡神社と大クス)

どこから得た情報だったのか、記憶が確かではないが、2、3年前、日本一の太さを誇る「蒲生の大クス」が倒れたという情報を得ていた。鹿児島の人に聞いてみたがそんなことはないはずだという。確認できずに今日まで経った。空港へ向かう途中になお時間があったので、確認するために同行者に頼んで寄り道してもらった。

結果としては、「蒲生の大クス」は無事だった。ガセネタだったのか、大風に一部大枝が落ちたというようなニュースだったのかもしれない。過去に2度見に来ているがその当時と比べて、少し枝振りが寂しくなっていると見えるのは気のせいであろうか。


(日本一の巨樹、蒲生の大クス)

「蒲生の大クス」は鹿児島県姶良郡蒲生町の蒲生八幡神社の本殿左に根を下ろしている。案内板によると、幹周囲24.22m、根回り33.57m、樹高30m、樹齢1500年で、国の天然記念物に指定されている。内部には4.5m(約8畳敷)の空洞がある。日本一の巨樹と云われている。1123年、蒲生八幡神社が創建されたとき、すでに御神木として祀られていたというから、樹齢1500年も大げさではない。

日本一かどうかを検証してみると、平成11、12年に実施された巨樹・巨木林フォローアップ調査報告書(昭和63年調査のフォローアップ)によると、第1位「蒲生の大クス」24.22m、第2位「来の宮神社の大楠」(熱海市23.90)mで32cmの差で「蒲生の大クス」が依然一位を保っている。高知県大豊町の「杉の大杉」が25.60mで最大のように見えるが、このスギは根元で二又に別れていて、両方合わせての太さである。片方だけだと15.00mである。この3本の巨木はいずれも見に行っている。

手元の記録では最初に「蒲生の大クス」を見たのは1997年3月4日、2度目は2001年12月1日で、今回3度目になった。回を追うごとに「蒲生の大クス」の周りの整備が進んでいる。最初は回りに柵がしてあるだけで、台風で折れた枝の補修工事をやっていた。2度目には周りに見学者が歩く板張りの通路が出来ていた。根の周りを見学者が踏むのを防止するためである。そして今回気付いたのは洗い流された根っこに土をかぶせて、土留の柵が造られていた。これで「蒲生の大クス」の養生まで万全である。

久しぶりに会った親戚のお年寄りが大切にされていて一安心、というような気持で蒲生八幡神社を後にした。
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