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島田に三重塔があった!

(蓮花院別院の三重小塔)

午後、名古屋の娘夫婦に留守番を頼み、今年最後の買い物に、島田のアピタに出掛けた。途中、車の中で、そういえば島田には塔と名のつくものは何もないと話した。静岡県でも数えるほどしかないのだから、島田に無いのは不思議ではないと女房は言う。どうしてこの暮れに思い出したように塔の話をするのだと言わんばかりである。どうしてと聞かれても、不意に思いついたことを口に出しただけで、理由があるわけではない。

アピタを出て女房は、本通りの文房具店で、ペン習字のペン先を買いたいという。本通りにまっすぐ出るべく、車がやっとすれ違えるほどの道を進んだ。「あれっ、三重塔!」少し前に話題にしたばかりの、無いはずの三重塔が左の小さいお寺にあった。この暮れの忙しいときではあるが、見えてしまったものは仕方が無い。(そういえばそんな風に言い訳して、罪を問われた人がいたよなあ。)引返してデジカメを出して撮影してきた。

三重塔といっても小塔である。高さは4メートルぐらいであろうか。細かい部分までしっかり作られている。最上層の屋根には唐破風が付いて重厚な雰囲気を出している。屋根は銅版を重ねて葺いてある。立派な小塔だった。門柱には高野山蓮花院別院と出ていた。かなり網羅されていると思っていた、ネットで調べた資料に載っていない三重小塔である。年の終わりにラッキーであった。

立て看板よれば三重塔に祀られているのは大日如来など、密教の仏4体だと書かれていた。ちなみに大日如来の真言は「オンバザラダトバン」という。念仏のように唱えるとよいのだそうだ。他の3体にもそれぞれ真言が書かれていたが看板が一部不鮮明で判読を諦めた。

今から思うと、直前に島田に塔が無いと話したのが、まるでこれから起こる未来の出来事を予見したようで、自分でも不思議である。


(当家自慢の「とろとろ丼」)

帰宅すると下の娘夫婦が来ていた。入れ替わるように名古屋の娘夫婦は島田の亭主の実家に帰った。下の娘夫婦は夕食をして帰るというので、息子が暮れにたくさん買ってきたつぶしたマグロの身を使って、ご飯の上にマグロ・とろろ・アボガドを載せるトロトロ丼を作って夕食にした。これは名古屋のレストランで食べたのが旨かったので、ぱくって、当家取って置きの料理にしたものである。マグロもとろろもアボガドもとろとろしていて、わさび醤油をかけていただくとけっこう旨い。下の娘夫婦にも好評であった。
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年末寒波で大雪らしい

(今日の金谷の空-裏日本は雪らしい)

この年の暮れになって、全国的に寒波が襲来して、裏日本は大雪らしい。故郷でも30cm~40cmの積雪が予想されているようだ。当地でも風が強く寒いが、空は明るく、雲が忙しく西から東へ移動している。

故郷での年末年始は昔は雪の中が多かったような気がする。

餅つきは29日を避けて、その前に行われた。前もって洗米されたもち米を、蒸すのは “かまど” に “こしき” を何段にものせて行う。 “こしき” 一つが一臼分である。臼の数は多いときは10臼もあっただろうか。炊事場の土間に木の臼を据え、父親が最も多く搗き、兄貴たちがそれに次ぎ、自分は一臼搗くのが精一杯であった。ペッタン、ペッタン搗く前に、ばらばらのもち米を一つにまとめるために小搗く作業があり、それに全パワーをかけてしまい、一臼搗き終わると畳に大の字になってぶっ倒れてしまう。鏡餅やお供え用の丸餅のほかはすべてのし餅で、黒豆の入った豆餅もある。

大晦日に、まだのし餅を菜切包丁で切る作業が残っていることもあり、主に父親の仕事だったが、自分も切るのを手伝った。

故郷では自分が居た40数年前には、テレビは無くて裏日本ではラジオもNHKぐらいしか聞けない。大晦日は紅白に耳を傾ける位しかない。お袋は遅くまでお節料理に手間取っている。今と違ってお正月には食料品店も休みになり、お餅やお煮しめなどのお節料理が無ければ食べるものがなくなってしまう。

やがて蛍の光が流れて紅白も終わると、除夜の鐘がラジオから流れ始め、それに合わせるように、近くのお寺からも鐘が聞こえ始める。故郷は町名を「寺町」と呼ばれたように、お寺が間近にある。初詣でに出かけるには冬の装備が必要で、氏子である山王さんの日吉神社には20分ほど歩いていかなければならない。そのまま初詣に行くことは少なかった。

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夕方、名古屋も娘夫婦も帰ってきた。夫婦で今夜はこちらに泊まるといい、急ににぎやかになった。
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世代交代した町医者

(玄関正月飾り)

写真は女房力作の玄関正月飾り。大きなミカンは頂いた温州みかんの本物である。

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内科で主治医のように考えて掛かっていた町医者の大先生が12月初めいよいよ引退した。そして何年か前から一緒に診察してきた若先生が全面的に引き継ぐことになった。そんな話を聞いてきた女房が、今までとは診察方針が変わりますから、他の医者に代わられるようでしたら代わって下さってけっこうですといわれたと帰って来た。

そんな言い方はないだろうと思った。事務の女性が物の言い方を知らないのだろう。普通なら「若先生に代わりますが、大先生とは診察方針も少し変わりますけれども、今後ともよろしくお願いします」というのが普通であろう。誰にも同じように言っているらしく、会社の人が医者を代えなければならないと言って、いい医者は居ないかと総務に聞いてきたという。

この暮れに、若先生に一度診察を受けておかねばならないと思い、予約して出掛けた。開口一番、今までとは診察方針が変わります。しっかり検査をしながら、余分な薬は出来るだけ出さないように考えていますという。立派な診察方針で何も異議はない。大先生は健康診断で数値が出るとどんどん薬を出す先生で、首を傾げたくなるところもあったから、若先生の診察方針には大賛成である。ところが次の言葉に耳を疑った。

「そういうわけで、医者を代えられるようでしたら代えて下さってけっこうです。(薬をどんどん出す)医者も紹介させていただきます。」

事務員さんの言葉と考えていたが、何のことはない、若先生がそう言うように指示をしていたことが知れた。

帰り道で考えた。何が彼をしてそんな風に言わせたのであろう。そして思い至ったのは、多分診察方針について親子で対立があったのだろう。親父は薬を出すのは患者さんが望むからだというような言い方をしていたのかもしれない。だから親父が診てきた患者を受ける際に、薬を出さない方向で診察すると言うと皆んな反発するに違いない。それならば先回りして、医者を代えてもらってけっこうだと言っておくほうがよい。そんな風に考えたのだろう。しかしそんな言い方は随分失礼になるという点に気付いていない。「血圧ぐらい測れます」と言われてしまった大先生に、若先生がまだ敵わない点があるとすれば、そんなところであろう。
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レバノン杉は残ったが

(レバノン杉の森-濃い緑の部分)

夜、NHKの新シルクロードでレバノン杉を扱っていた。中東の真ん中のレバノンに奇跡のように残る森があることは知っていた。レバノン杉の最後の森である。現在は世界遺産になり保護されている。

この地域は、古くから北のキリスト教、南のイスラム教のシーア派やスンニ派の勢力が交互に勢力下に置き支配されてきた。その結果、世界でも稀な各宗教宗派がモザイク状に点在する地域となり、今も紛争が絶えない地域である。昨年の夏にはヒズボラとイスラエルが衝突したばかりである。

レバノン杉はその硬い材質から古代よりガレー船の建造や建築資材に使われ、ピラミッドの建設にも大きな役割を果たしてきたといわれる。レバノン杉は深く根を下ろすため、この乾燥地帯にも長い年月をかけて生育し、この地帯はかつてはレバノン杉で埋め尽くされていた。

紀元前15世紀から紀元前8世紀にかけて、この地を拠点にしたフェニキア人は、レバノン杉を主産品として、地中海全域を舞台に海上交易をして繁栄した。カルタゴなど地中海沿岸に植民地を建設し、勢力を広げていた。彼らが用いていたフェニキア文字はアルファベットの元になっているという。

しかし、レバノン杉は生育に長い年月を要する上に、切り出すだけでレバノン杉を再生することを怠っため、土壌が流れ出し港を埋めて使えなくし、レバノン杉も切り尽くしてしまうと急速に勢力を失って、アレキサンダー大王の遠征によって滅ぼされることになる。


(レバノン杉の巨樹)

かつては豊かな森であった一帯には、土壌がむき出しになった荒涼とした風景が広がり、ぽつんと緑が残っているのが不思議である。キリストを神と考えるキリスト教マロン派が、迫害から逃れて、周囲から容易に入れないこの地に来て隠れ住んだ。そして、敬虔なクリスチャンである彼らがこの森を守って来たという。この森を用材として切ろうとした兵が金縛りに遭い、逃げ帰ったという伝説も残っている。直径300メートルほどの面積にすぎないレバノン杉の最後の森には、樹齢数千年の巨樹が30本ほどあり、最大のものは樹齢6000年、直径5メートルあるという。

昔、レバノン杉を産出して潤った中東地域は、現代は石油の産出で莫大な収益を上げている。しかし、そのお金も今のように打ち続く地域紛争で消費していれば、石油が枯渇したときにはフェニキア人がたどった運命の再現になるかもしれない。
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クリスマス雑話

(クリスマス電飾1-今年)



(クリスマス電飾1-昨年)



(クリスマス電飾2-今年)



(クリスマス電飾2-昨年)

クリスマスイブの一昨夜、フィンランド、ロヴァニエミ市の「サンタクロース村」から、サンタクロースがプレゼントを届けるためにトナカイのソリに乗って、世界に向けて出発する光景をNHKで生中継していた。

架空の人物、サンタクロースがこの村に実在する(?)ようになったのは、1927年、フィンランドの国営放送の子供番組の「物知りマルクスおじさん」 が、子供たちの「サンタクロースはどこにいるの」という質問に対して、ついつい、「サンタさんは、お耳の山に住んでいるよ!」と答えてしまったのが始まりである。

ラジオ番組だから「耳」と連想したのだろう。ところが、「お耳の山」がフィンランドの東部国境付近に実際にあったからややこしい。フィンランドに伝わる、子供たちの行状に聞き耳を立てている「トンットゥ」の物語が加わり、サンタクロースのお話が膨らんでいく。サンタクロースは山では不便だからと、サンタクロース村に事務所を構えることになる。そこへ世界から手紙が届くようになり、訪れる人たちも増えて、その村ではサンタクロースが子供たちの話を聞いてくれる。雪に埋もれる村にサンタクロースアミューズメントが出現することになった。見方を変えれば、壮大な村興しになったわけである。今年も村の郵便局に世界の子供たちから70万通を越す手紙が届き、そのうち日本からも10万通の手紙が届いているという。

サンタクロースが出発した後の話。

ことの起こりはアメリカのデパートがサンタクロース電話としてチラシに掲載した電話番号が間違って、ノーラッド(北米航空宇宙防衛司令部)に掛かってしまったことによる。機転を効かせた司令官ハリー・シャウプ大佐は、「レーダーで確認したところ、確かにサンタが北極から南に向かった形跡がある」と答えたという。1955年のことである。それ以後、サンタクロースの追跡がノーラッドのクリスマスの恒例の行事となった。元々冷戦時代に対ソ連に向けた防衛司令部で最新鋭機器を使って衛星や核ミサイルの監視などを24時間体制で行なう組織だから、サンタクロースの追跡ぐらいお手のものである。近年はウェブサイトを使って、サンタクロースの現在地が刻々と表示され公開されているという。まじめにそんな遊びが出来る平和が喜ばしい。

今年も女房にせかされて、昨夜クリスマス電飾ツアーに出かけた。昨年見たお宅を今年も見学したのだが、どこも去年より一層派手になっていた。写真を比べてみると、年を追って電飾が増えているのが分かる。
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市場経済のまぼろし

(庭のマンリョウ)

開かれた市場、需要と供給のバランスで自然に正当な価格が決まる市場経済、市場経済こそ平等な経済運営であると言われ、日本も世界に向けて市場を開いてきた。ところが、市場を世界に開いてみると、開かれた市場など、幻影ではないのかと判ってきたように思う。

需要と供給のバランスで相場が決まると考えていた中に、投資という要素が入ってきて、相場が需給バランス以外の思惑で動き出した。生産者や消費者にとっては投資は市場取引に関係のないもので、それで相場が上下するのは不合理極まりない。生産者や消費者にとって、相場はある程度安定していなければお互いに困ってしまう。ところが、市場を投資の場と考える投機筋にとっては、相場は激しく上下するほど利益を生むチャンスが増える。しかも投機筋には大きな資金量があり、相場を動かす力がある。投機筋が収奪して行けば、その付けは生産者と消費者に行くことは必定である。

たとえば重油である。相場がどんどん高騰し、消費者にその付けが回っている。当然発展途上国がものすごい勢いで成長をしていて、需要が急増し価格が高くなることは市場原理で仕方がない。価格高騰分がそのまま生産国の収益になっているならやむをえない。しかし、その何割かが投機筋に入っているとすれば、納得できるものではない。

お茶も市場でやり取りされている商品である。最近、お茶の消費行動がペットボトルなどに変ってきて、需要が減ってきている。当然、市場での取引で年々お茶の価格は下がっている。値が下がり安くて美味しいお茶が消費者に提供できるようになれば、お茶の消費も増加に転じることも考えられる。しかし、価格が安くなった分、消費者に渡るお茶が安くなったと聞いたことがない。一方お茶の問屋さんは売上高が年々落ちているにもかかわらず利益はしっかり出しているところが多いと聞く。どこかおかしい。この状態が続くならお茶の市場は健全とはいえない。お茶の地盤沈下がどんどん続いていくことになる。

市場は放っておくと、資金力のあるところ、情報をよりたくさん持つところが有利になり、決して売り買いが平等に行われる場所ではないことを理解するべきである。
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不機嫌ムサシとご機嫌ムサシ

(知らぬ顔のムサシ)

毎日帰ると庭のゲージの中に「ムサシ!」と呼びながら近寄り挨拶をする。大半は近付くと眼をすえて歯をむき、さらに近付くと激しく吠え立てる。さらに近付くとそばにある空気の抜けたドッジボールを咥えて振り回すことで怒りのデモストレーションをする。それでも離れないと、吠えるのに疲れてしまったとでもいうように吠えることを止めて、身体をぶるぶると震わせ、水を飲みに行き、出来るだけ離れた場所に伏せをする。こちらを無視する風を装うが、神経を集中させているのは見え見えで、こちらが少しでも動くと反応する。飼い主を何と心得ているのであろうか。ゲージの中は自分の領分だと思っていることは確かだ。

出張に何日か行って戻ってくるときは反応が違う。そばに寄ると柵に跳び付いて喜びを露わにする。この違いは何なのだろう。しばらく姿を見ないことがムサシにとってどう映っているのだろう。良くわからない。

最近は、ゲージの外の芝生に、長いリードに繋がれて出してもらっていることが多い。その時も声を掛けながら近付くと、唸って歯を見せ吠える。知らん顔して芝生に入り、眼を合わせないで石のベンチに座って本を見ていると、少しずつ近付いてきて、やがて跳び付いて顎をペロペロと舐める。舌べらが意外と硬い。それもひとしきりやると満足して、足元に座りリラックスの様子である。

ムサシのその時々の反応が違うのは、一見気まぐれに見える。しかし、ムサシの頭の中は至極単純で、おそらくは支配しているのは恐怖感だけなのだろう。最近見たコマーシャルで吠える犬の気持を人間が人間の言葉で表現するというものがあった。犬にとってすべてのことが恐怖の対象である。変な音がする、異様な影が近付くなど、身の回りに起こることにすべて吠えて反応するのは、その恐怖感の表現である。それを見事にあらわしたコマーシャルであった。

女房はムサシを怖がらせるから吠えるのだという。まあ、当っていないことはない。
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「まがに漬」は旨かに?

(柳川の名産、まがに漬)

21日、鹿児島からの帰り、九州新幹線は初めてだというS氏に勧めて、JRで帰ることにした。時間は少し掛かるがJRの方が5000円以上安上がりである。新八代まで新幹線、リレーつばめに乗り換えて博多まで出る。いつものようにどちらもよく空いている。現在工事が進んでいる新八代から博多まで新幹線が繋がったら、飛行機からJRに客が移ってくることになるから、席が少しは埋まるようになるだろう。それとも来年は篤姫ブームで混み合うことになるのだろうか。

博多駅でS氏が「まがに漬」というお土産を探している。どんなものかと聞くと、カニの塩辛のようなものだという。好きで博多に来ると買うという。カニといってもシオマネキで、全部砕いて加工してあるという。この歳まで食ったことがない。ならば試して置かなければ悔いが残る。S氏に続いて買い込んだ。1瓶630円だからそんなに高価なものではない。

箱書きを見ると、原材料名などの表示ラベルがあった。箱のデザインを無視して張られた表示ラベルは、最近の騒動で貼り付けたものだろう。そこに「原材料原産国 しおまねき(中国)」の表示があった。これで、これを食べるのは自分だけになった。女房も息子も「中国」の表示を見ると箸を出さない。

水郷の町、柳川のふるさとの味だといい、柳川出身の北原白秋が歌に詠んでいる。箱にもしおりにも記載されていた。
    どうせ泣かすなら / ピリリとござれ
    酒は地の酒 / かにの味噌
    臼でかに搗き / 南蛮がらし
    どうせかに味噌 / ぬしゃ辛い


さて、家に帰ってどんなものかと舐めてみた。「タイのナンプラー(魚醤)のようなものか」と息子が横目で見て、舐めても見ないでいう。そのナンプラーを食したことがないが、カニで作った醤油といえないこともない。唐辛子が入って少しピリッとする。S氏は鍋のときに付けて食べると話していた。これから冬に向けてうどんを作ったときに少し加えると旨いかもしれない。さっそく試してみよう。カニの殻が砕いて入っているが、気になる人はすり鉢で砕けと記載されている。うどんに入れるならそうしたほうが良いだろう。
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韓国岳登山の思い出

(鹿児島空港から見える霧島連峰)

20日、快晴の鹿児島空港から滑走路をはさんだ向かい側に霧島連峰がくっきりと見えた。これだけくっきりと霧島連峰を見るのは久しぶりであった。左から一番高いのが韓国岳で新燃岳と続き、もっとも右に高い山が高千穂岳である。霧島連峰の縦走路もある。

霧島連峰の韓国岳に登ったのはもう10年以上前の9月だった。鹿児島出張の用件を終えた後の休日を利用してY氏と登った。出張の荷の中にハイキングの簡単な装備をして出掛けた。当時の記録を見てみよう。

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前日はふもとの新湯温泉「新燃荘」に泊まった。硫黄分の多い白濁した温泉で、肌にぴりぴり来るような濃厚な温泉であった。確かに水虫やアトピーなどに薬効があり、ファンも多いと聞いた。温泉に浸かりながら、定年退職後、日本中車で回っているというおじさんに会った。ほとんどは車に寝るから、今日は久しぶりの宿だと話していた。自分は定年などまだまだ先だと思っていたから、悠々自適で優雅なものだなあと感じた。

翌朝早く、ふもとまでタクシーで送られ、韓国岳の山頂を目指した。途中、蒸気の上がる硫黄山大地獄を通り、火山礫の積み重なった比較的緩やかな斜面を登って、約2時間掛かって海抜1700メートルの山頂に着いた。前方に尾根が連なり、もっとも手前に大きなお鉢を見せる新燃岳、もっとも遠くに高千穂岳が見えた。時間があれば縦走できそうなほど間近に見えた。霧島連峰には23の火山があるといわれているが、見下ろす山麓にも緑の中に火口と見える丸い池がいくつか見えた。しかしその景色もしばらく休んでいるうちに湧き上がってきた霧に隠れてしまった。

お昼には新燃荘に戻り、温泉と昼食後、飛行機に乗って帰った。何度もきつい温泉に入ったためだろう。帰る途中に身体の置き所の無いような気持ち悪さを感じた。

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なかなかチャンスがないから、思い切って登っておいてよかったと今は思う。
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鹿児島空港の午後

(鹿児島空港の足湯)

20日、鹿児島にS氏と出張する。最近、鹿児島へは新幹線で行くことが多かったため、久しぶりの国内便の搭乗である。しばらく来ない間に名古屋国際空港「セントレア」での国内便の搭乗手続きが変わっていた。まずは、コンピュータで予約決済時の確認メールに印刷されている2次元コードを機械にかざすと、eチケットが出て来る。そのeチケットにも2次元コードが印字されている。手荷物検査では、eチケットの2次元コードをかざして搭乗者確認をして、手荷物検査をする。終わるとレシート状の「搭乗口案内」をくれる。「搭乗口案内」は検査の終了の確認用紙にもなっているのであろう。搭乗時にもeチケットの2次元コードをかざすと搭乗券が印字されて出てくる。このように、すべての流れに2次元コードを取り入れたシステムになっていた。

鹿児島までは一時間20分ほどで着いた。快晴で少し風の影響を受けたがまずまず順調なフライトであった。着陸の少し前にS氏が桜島は噴煙を上げていないという。窓からくっきりと桜島が見えた。噴煙は無く、北岳の北側斜面に消え残った雪のようなものが見えた。(後に地元の人に聞いたが今年はまだ桜島に雪は降っていないという。)

空港のレストランで昼食に久しぶりの薩摩ラーメンを食べ、バス停に行った。次のバスまで30分ほど待ち時間があった。バス停のそばに足湯が出来ていた。これも初めて見るような気がする。タオルを持っていなかったので、足湯に入るのは遠慮した。S氏はすぐに乾くだろうと足湯に浸かってみた。何か感想が聞けるかと思ったが、しばらく両足を浸けて上がったS氏から感想は聞かれなかった。

足湯のそばに「篤姫観光まっぷ」というパンフレットが出ていた。来年のNHK大河ドラマは、幕末に島津から嫁いで第13代将軍家定の正室となり、江戸城無血開城にも尽力した「篤姫」が放送される。来年の鹿児島は「篤姫」ブームで観光客が増えるのであろうか。
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