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助郷備え金の出入(3)- 駿河古文書会

(葵大橋から安倍川上流、10月30日撮影)

(つづき)
かつ去る夏以来、助郷村々小前のもの騒ぎ立て、当御役所様へ願い出候義も承知仕り候えども、右は助郷村々一同の儀にこれ無く、有東村、八幡村小前百姓の内には、助郷備金の義、太郎兵衛方、初発事立て骨折り候儀、承知これ有り候者も御座候由にて、外村々小前一同へ相断り、荷担仕らざる程の義にこれ有り候えば、外村々の者ども、申し伝えにも、承知これ有るべしやに存じ奉り候、

左候えば御下げ金の節、無沙汰に取り計らうべき謂われこれ無き儀を、右様致され候ては、私ども両人とも、先年と違い極々困窮に落ち入り、眼前退転の義と誠に以って歎かわしく途方暮れ、よんどころなく今般取調べ願い上げ奉り候は、右助成元金、九百四拾両の内、金弐百八拾四両余は、私ども先代より出金上納の元利金に御座候、この利金去々丑年まで御下げ頂戴仕り、村々へ高割合に致し候分、惣金高、弐千七百七拾七両余の内、八百参拾九両余は私ども両人へ、請け取るべき候処、残らず高割りにて取り込み候義に相違御座なく候間、何とぞ御憐愍(れんびん)を以って先代の勤労、かつは私ども両人難渋の始末、前書聞こし召し訳させられ、格別の御慈悲を以って、助郷村々役人ども召し出され、これまで割り取り候分、八百参拾九両余、私ども両人へ割り戻し候様、仰せ付けられたく願い上げ奉り候

左候上は、私ども両人、安堵と百姓永続仕り莫大の御仁恵と有り難き仕合せに存じ奉り候、これにより、別紙取調べ書付、差し上げ奉り候間、その余、御下げ不足、並び以来御利足御下げの節は、私ども両人立合いの上、相当に割り渡し候様、恐れながらこの段伏して願い上げ奉り候、以上
※ 退転(たいてん)- 落ちぶれて他の地へ移ること。
※ 去々年(きょきょねん)- おととし、一昨年

 天保十四年卯二月
                駿州有渡郡
                 上足洗村
                   百姓  庄左衛門
                同州同郡
                 八幡村
                   組頭  太郎兵衛
  紺屋町
   御役所
前書、組頭太郎兵衛、百姓庄左衛門、願い上げ奉り候に付、
奥印仕り、差し上げ奉り候、以上
 卯二月
                八幡村
                 名主 助右衛門
                上足洗村
                 名主 久右衛門


助郷村々に掠め取った金を返せという、過激なこの訴状に対して、助郷備え金は助郷村々のもので、個人に帰するものではないとして、お上から叱責の沙汰が下り、両名は恐れ入り、訴状を取り下げることになったという。
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助郷備え金の出入(2)- 駿河古文書会

(安倍川を渡る新東名、下段は一般道の橋、10月30日撮影)

昨日の続きである。

かつ又、曽祖父与左衛門義も、享和三亥年中、死去致す、祖父与左衛門は至って病身者にて、百姓などの出来難く、追々身上不如意に相成り、是を以って所持高売り払い、困窮に迫り候間、御屋敷奉公も永々相勤め、村方へ立帰り候ても、病難にて心痛致し候内、同人忰八十八義死去仕り、その後、私聟養子に罷り越し候処、最早田畑、家屋敷は跡形も御座なく、誠に以って途方に暮れ罷り在り候えども、先代の義は旧来名主役相勤め候身元に付、種々出情仕り候えども、田畑作付手段これ無く、当時にて借地に住居致し、漸々その日を暮し候程の仕合わせにて
※ 身上(しんしょう)- 財産
※ 仕合わせ - めぐり合わせ。運命。


両人とも年来困窮いや増し、或いは病難に逢い、かたがた以って必至と難渋至極罷り在り候故、去る頃、太郎兵衛義、親類老人も承知仕り居り候は、先年養父勤役中、助郷備金の義に付いては、一ト通りならず、丹情を以って相企て候
備金の由に候えども、聢(しか)と致し候証書などもこれ無く候間、種々相尋ね罷り在り候

折柄、この度、宿々御取調べの為、御役人中様方、御通行、御先触れ御雛形にも、備え金の内、町人百姓出金の者これ有り候わば、その名前、巨細取調べ、書き上ぐべしの御触れに候間、助郷方古帳面、尚又穿鑿仕り、漸く尋ね出し候処、前書三拾両金の内、金拾九両三分余は、私ども先代両人にて、出金仕り候に相違御座なく、それより年々刎ね銭を以って積み立て候内、重立ち世話仕り候太郎兵衛義、病死仕り候に付、その翌年より積み立ての義も相止め候と相見え、これにより初發目論見の仕法にて、元金何程積立の上、御利下げの分金子とも何程、助郷助成に何程と、割合の仕法も御願済にて、太郎兵衛死去仕り候に付、規定等も取極めこれ無し
※ 初発(しょはつ)- 初めて発すること。物事の起こりはじめ。しょほつ。

以前古帳面、見当らざる儀を幸いに、取り工(たく)み、去る文化三寅年より、右御利足御下げ候節は、私ども両人へ一円無沙汰に割り取り、剰え古帳面を押し隠し、新帳を仕立て、村々へ割合い候段、その節
の惣代どもを始め、村々役人どもまで右躰の恩金を忘却致し、不実意の取り計い致され候ては、私ども先代致し成し候出情の甲斐なく、心外至極存じ奉り候、右は畢竟、後代まで家相続のため、出金致し置き候義を、今更掠(かす)め取られ候ては、先代の勤労に対し、何分捨て置きがたく、重々歎かわしき次第

※ 剰え(あまつさえ)- そのうえ。おまけに。

この訴えは「掠め取った」と表現するほど、厳しく糾弾するものとなった。
(つづく)
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助郷備え金の出入(1)- 駿河古文書会

(裏の畑に出来た落花生)

10月19日の駿河古文書会で解読した文書は、助郷備え金の出入の文書であった。

「助郷備え金制度」とは、助郷人足の賃銭を一割はね、まとめてお上へ預けて高利で運用してもらい、将来の助郷に備える制度である。最初に30両でスタートする際に、約20両を当時2人の助郷惣代が出して、積立をスタートさせた経緯があった。その後、2人の助郷惣代の子孫は落ちぶれ、難渋して、当初の出資の割合で、高利で運用された備え金への権利を主張した訴えであった。

少し難解であるが、以下へ読み下し文で示す。

恐れながら書付をもって願い上げ奉り候
駿州有渡郡八幡村、組頭太郎兵衛、同郡上足洗村、百姓庄左衛門、願い上げ奉り候は、私ども家の義は、数代村方名主役相勤め、別けて養父太郎兵衛義、並び庄左衛門曽祖父与左衛門義は、旧来名主役相勤め候に付、御役所様の厚い御懇命を蒙り奉り、御手近へ罷り出で、御支配中、公事、出入などの儀は、万端取り扱い仰せ付けられ、誠に以って有難く、その上両人とも、府中宿助郷惣代相頼まれ、そのみぎり、天明五巳年以来、助郷助成利倍御積立の義、伺い上げ奉り候処、惣代どもより願書差し出すべき旨、仰せ渡され畏み奉り、助郷村々惣談の上、右助郷備え金、利倍積立の願い書、差し上げ奉り候処、早速御取り上げに相成り、江戸表御勘定所へ御伺い下し置かれ候
※ 利倍(りばい)- 利息が利息を生み、元金がふえること。また、高利で貸して元金をふやすこと。

願いの通り、御下知相済み候に付、天明五巳年(1785)七月より同六午十二月まで、助郷人足勤め賃銭壱割刎ね、金拾両銭百六拾壱文、これ有り候に付、養父太郎兵衛、曽祖父与左衛門重立ち、村々へ相談の上、金拾九両三分、銭壱メ三百三拾九文、右両人出金の上、足し金仕り、都合金三拾両に償い、その節の御代官、柴村藤三郎様御支配の節上納奉り、その後、年に人足賃壱割、刎銭を以って相納め来たり候処、格別の御慈愛を以って、御貸付に成し下し置かれ、利倍御積立に相成り、有り難き仕合わせ、存じ奉り候 

然る所、寛政七卯年(1795)十二月中、太郎兵衛病死仕り候処、子供幼少にて、親類ども方にて、万事世話致しくれ候えども、御役所様拝借金、並び他借なども多分これ有り、その上品々不仕合せ打ち続き、所持高売り払い、微録仕り、その後、実子太郎兵衛義も同様、不仕合せ引続き、所持高は申すに及ばず、家、蔵、諸道具残らず売り払い、それのみならず永煩いにて、病死仕り、よんどころなく妻、子供儀も、親元富士川通り中之郷村伝次郎方へ引渡し、養育致しくれ候内、右親元にて亭主死去致し、老人子供計りに相成り立ち行き難く候間、親類一同相談の上、私義聟養子に罷り越し、拾弐ヶ年の間、右方後見仕り候処、先方忰成人に付、相続相渡候、文政八酉年より、八幡村へ家作仕り、太郎兵衛家相続仕り候処、天保二卯年(1831)中、村々より相頼まれ、助郷惣代相勤め、罷り在り候内、去る午年出火にて焼失仕り旁(かたがた)連々難渋相嵩む

※ 微録(禄)- おちぶれること。零落。
(つづく)
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「第七回小川港さば祭り」に行く

(焼サバの列)

土曜日の朝、「小川港のさば祭りに行くよ」と女房に起されて、日曜日でなかったのかと聞けば、今日だという。焼津小川港の漁獲水揚げ高ではマグロやカツオと並び、サバが大きな部分を占めているという。さば祭りでは何と10000食の炭火焼きのさばが振舞われるという。

9時過ぎに出掛けて、おおよそ解っているつもりの小川港に向かう。港にもう少しのところで、車が渋滞の中に入ってしまった。我慢強く待って、小川港の北の広い空き地に駐車し、さば祭りの会場に向かった。

大変な人出で、行列の最後尾について、ボール紙の皿と箸をもらう。こんな人が寄る場所に来るのは、いつ以来だろうか。何とも苦手であるが、焼さばの煙に釣られて人波の中に入った。コンクリートのU字溝の中に炭火を入れ、網を渡して、たくさんのさばが焼かれている。U字溝が延々と並んで、焼手と客が向かい合わせのように焼けるのを待っている。客は3重にも5重にもなっている。その客の少ないところに入り込んで待った。さばは3枚に下し、その片身が一人前だから、10000食というと、さば5000尾である。下拵えは済んで焼くだけになっている。

待つこと15分ほどで、ようやく焼きさばの配給を受けた。片身でも随分大きく、とても食べきれないと思った。人ごみの外れまで行き、コンクリートの基礎に腰掛けて、片身を半分に分け食べ始めた。これが誠にうまい。秘伝の垂れにでも漬けてあるのだろうか、塩味が適度の聞いて、箸が止まらず、二人でさば一尾分を、ぺろりと食べてしまった。

イベント会場では熟年のおばちゃんたちが、フラダンスを踊っている。コンクリートの上で素足が少し痛々しい。踊りながら送られる流し目が少し恐い。様々なファーストフードが売られている。今はB級グルメと呼ぶのだろう。お目当てのゴマサバとジャガイモのコロッケ「さばじゃが君」はもう終わっていた。


(はためく大漁旗)

調査船「駿河丸」や実習船「やいづ」が一般公開され、列に並べば中に入れるようであったが、そばのたらいで泳ぐサバを見てよしとした。ゴマサバの背の模様は細かい唐草模様のようで、興味を引かれた。こういう魚の背の色は、海鳥や大きな魚から身を守るための保護色である場合が多いが、この背はそんな役割を果たせているのだろうか。

焼きさばは美味しくいただけたし、人ごみは苦手で草臥れてしまったので、会場を後にした。その頃には、10000食のサバも終っていた。自分は、人ごみよりも、前の週末に訪れた山奥の縁側カフェの方が、のんびりして気疲れもなく好きである。帰り道で、リュックを背負った人々の列が、会場から四方に散っていた。昔は両手に買い物袋を幾つも持って帰るところであろうが、今は皆んなリュックに入れて背負っている。戦後の買出しに近い風景が再び見られるようになってきた。
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59大林寺、60安西五丁目地蔵堂 - 駿河百地蔵巡り 7回目

(第60番安西五丁目地蔵堂)

(昨日のつづき)
玄忠寺から600メートルほど西へ進んだ、三番町小学校の西側に、第59番大林寺がある。仁王門には表側は阿吽の仁王像であるが、内側は、風神雷神の二神が守っていた。変わった仁王門である。境内にはそれらしい地蔵尊も無く、「駿河一国百地蔵尊」の板も、どこにも無かった。ここも戦災を受けて、明治40年に再建された七堂を焼失している。おそらく、地蔵尊もその折りに失われたのであろう。

安西通りに出て、安西橋の橋詰の第六十番安西五丁目地蔵堂に至った。この川除延命地蔵も、戦災でお堂も地蔵尊も失われ、昭和二十六年に再建されたという。「駿河一国百地蔵尊」の板も見当たらなかった。堂内を覗くと、正面に川除延命地蔵の石像が立ち、その左右にも石の地蔵が並んでいる。向かって右側の地蔵は、裏面に「昭和廿二年八月之建」と刻まれ、空襲の際に近くに墜落して死亡した、米国爆撃機B29の搭乗員を弔う地蔵であった。死体がこの地蔵堂のそばに埋められたという。川除延命地蔵との間に大きな木製の位牌があり、「靜岡市戦災横死者B二十九搭乗□□霊位」と墨で書かれていた。□□は供花に隠れて見えなかった。


(地蔵堂脇の秋葉燈籠)

地蔵堂脇に、嘉永元年(1848)に建てられた秋葉燈籠があった。安西から羽鳥、藁科と通じる道は、川根を経て秋葉山に通じている。江戸時代には安倍川に橋が無かった。秋葉山参詣者にとって、安倍川の徒渉は大変危険を伴った。この川除延命地蔵は、江戸時代、旅の途中で倒れたり、安倍川の徒渉中に流された人を弔うために祀られた。また、地元の人々は、この地蔵に、暴れる安倍川の川除け、水害除けを祈った。

地蔵堂の縁側に腰掛けて、昼食のおにぎりを食べた。現在、安西橋の拡幅工事が行われており、伴って、周囲の道路の付替えの必要から、近いうちに、安西五丁目地蔵堂は移設されるらしい。

昼食の後、安西橋を渡る。次回安倍川の右岸を歩いて、足久保口の第四十四番新光明寺へ参る予定でいる。今日は安西橋を渡ったところまで歩いておいて、バスで駅まで戻り、次回はそこまでバスで行く。そこからでも新光明寺までは10キロほどある。少しでも足を延して置きたいと思った。さらに、今日は、たくさんのお寺に寄ったけれども、歩いた距離としてやや不満だったので、ネットで調べて、羽鳥の見性寺まで往復しようと思った。


(山崎延命地蔵堂)

安西橋を渡ってすぐの、国道362号線の右側道路沿いに、番外の山崎延命地蔵堂があった。石に線彫りされた地蔵尊で、両側に一体づつ、都合三体が並んでいる。風化が進んでいて、線彫りがあまりはっきり見えなかった。

このあと、3キロ歩いて見性寺まで行った。ネットで調べたときに、「ぽっくり地蔵」があると思い、行く気になった。人は誰も、生きているうちは元気で、死ぬときは周囲に迷惑をかけずに、ぽっくりと逝きたいと思っている。それを叶えてくれるお地蔵さんがあるというのである。ところが、自分の勘違いで、見性寺の「ぽっくりさん」は弥勒菩薩であった。ぽっくりを願うにはまだ早いし、地蔵の旅にはそぐわないから、お参りもしないで、3キロ戻り、山崎のバス停から帰途についた。戻りの3キロでは、右足の甲が痛くなって難儀な歩きになった。本日の歩数35,934歩で25キロ弱くらいの歩行距離になった。
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3浄元寺、2長善寺、62善然寺、61玄忠寺 - 駿河百地蔵巡り 7回目

(第三番浄元寺の地蔵堂)

(昨日のつづき)
本通りまで戻って、第三番浄元寺を探す。本通10丁目から、交差点ごとに1丁づつ減っていく。浄元寺は9丁目の一筋北側の通りにあった。本堂の左側に新しい地蔵堂があり、厄除地蔵尊が子育地蔵や六地蔵とともに安置されていた。

案内板によれば、家康が府中在城の頃、猟に出かけた藤枝の葉梨盤脚院で休息し、天越和尚に禅話を聞き、また囲碁を楽しみ、深く帰依した。老僧が往復に悩むを見て、東海道の一里塚のそばに一宇を建立して、和尚の隠居所とし、一里山浄元寺と号した。(その後、山号は萬吉山と改称)戦災ににより、境内の堂塔を焼失した。お堂も台座も新しいものであるが、地蔵尊は往時のものかどうかはわからない。


(第二番長善寺、漆喰造りの子育地蔵尊像)

そのまま裏道を進んで、本通り6丁目に第二番長善寺がある。珍しい時宗のお寺である。右手突き当りの建物の右端が地蔵堂で、右手に錫杖を持ち、左腕に幼児を抱いた半跏の子育地蔵尊が祀られていた。伊豆長八の弟子と作と伝わる漆喰作りで、彩色されてわかりやすい地蔵像である。元の石の地蔵尊は戦火で壊れ、その破片が地蔵の体内に納められているという。

安倍川から中町交差点まで、真っ直ぐの広い道を本通りといい、その一筋南側を新通という。昔、最初に聞いた頃は、広い道が新通で南の細い道が本通りだと勘違いしていた。第六十二番善然寺はその新通1丁目にある。本通りで聞いた男性から赤い門のお寺だと教えてもらった。


(第六十二番善然寺の延宝七年の地蔵尊)

第三番浄元寺、第二番長善寺、第六十二番善然寺と、何れも「駿河一国百地蔵尊」の板は見つからなかった。御墓参りから帰る女性に、地蔵尊のことを尋ねたが、ここは浄土宗でご本尊は阿弥陀様で、地蔵尊は知らないという。すぐそばに、僧侶のお墓が集められた中央に、地蔵尊石像が立ち、その光背に延宝七未年六月吉日の表示があった。1679年、随分古い地蔵像である。このお地蔵さんが百地蔵との確証はないが、境内にはそれ以外、地蔵像はない。


(西福寺の子育地蔵)

善然寺の本通りを隔てて向かい側に、地図を見るといくつかお寺が連なっている。その筋に入ると、まず「南無地蔵尊」の赤、青、白のたくさんの幟が見えた。これかなと寺名を確かめると、西福寺であった。第六十一番玄忠寺ではないから、百地蔵ではないけれども、番外として参った。最近の子育地蔵石像であった。

すぐ先に第六十一番玄忠寺があった。境内に保育園が併設されて子供たちの声が聞こえる。本堂はお寺らしからぬ建物で、ここに百地蔵の日限地蔵はある気配が無かった。古い建物も残っておらず、戦災ですべて破壊されてしまったのだろう。もちろん、百地蔵の板も無かった。あきらめて次へ進んだ。(つづく)
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6東林寺、4心光院、63興禅寺 - 駿河百地蔵巡り 7回目

(第六番東林寺)

(昨日のつづき)
第六番東林寺は手越旧東海道の通りから左へ入り、小さな山(桜山)を時計回りに回りこんだ西側にあった。

東林寺は「手越の灸」が有名で、かつては「駿河の人に、東林寺の灸痕なき者なし」といわれたほどの人気であったという。子供の頃に、家庭で灸をすえられた経験のある年代も、我々の年代が最後だろう。自分も探せば背中の上と下にお灸の痕が残っているはずである。

東林寺の御本尊は「オハラゴモリ地蔵」別名、延命子安地蔵である。木像で地肌に金箔が施され彩色されているらしいが、本堂内に安置されていて、拝観はしなかった。七夕豪雨で土砂崩れに埋ったが、厨子に守られて無傷で掘り出されたといわれる。「駿河一国百地蔵尊第六番」の板は門外の掲示板に張られていた。


(第四番心光院)

東林寺とは桜山の反対側(東側)に、第四番心光院がある。一度街道まで出て、再度左へ入った所にあった。山門を入ると、狭い境内には白砂利が敷き詰められ、箒の模様が付いていた。ちょうど本堂に消毒業者が入っていた。百地蔵の盗難除地蔵は、本堂に納められているらしいが、覗いてみたけれどもよくわからなかった。落ち着かなくて、早々に退去した。「駿河一国百地蔵尊第四番」の板は山門左側に張られていた。


(焼場跡の地蔵堂)

安倍川橋のたもとまで来ると、手越の観光地図があった。回ってきた寺々がある中で、立ち寄らなかった地蔵堂の表示を見つけた。番外の地蔵堂であるが、650メートル戻って、寄ることにした。旧街道の途中に1本の楠が立つ、手越原のバス停の角を東へ入った先に、その地蔵堂はあった。別名、焼場跡の地蔵堂といわれ、無縁仏を祀ったお地蔵さんだという。焼場跡とは何ともひどい命名であるが、昔は人家の無い野原の中だったのだろう。おそらく野焼きだったのではなかろうか。堂内には石の地蔵尊立像が安置されていた。


(第63番興禅寺、子育地蔵尊)

安倍川橋を渡って対岸の土手を南へ下る。国道1号線に出る手前に、土手から町へ下ると、第63番興禅寺がある。興禅寺は元は常盤町にあったが、靜岡の大火や戦災に遭い、その後の都市計画によって、現在地に移転してきたという経緯がある。昔のお地蔵さんは失われてしまったのだろう。本堂右手に、そんなに古くない子育地蔵尊があった。脇に「駿河一国百地蔵第六十三番 子育地蔵尊霊場」の表示と、御詠歌が刻まれた石碑が立っていた。

この後、靜岡の町中に入って行くことになるが、靜岡市街地は、昭和15年1月15日、約5000戸が焼けた大火と、昭和20年6月19日の靜岡大空襲で26900戸余りが焼失し、焼け野原になっている。百地蔵の地蔵尊がどんな運命になっているのか、大変に気になるところである。
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11細工所地蔵堂、7泉秀寺、5高林寺 - 駿河百地蔵巡り 7回目

(第11番細工所地蔵堂)

安倍川駅で下車、前回見つけられなかった、第11番細工所地蔵堂に行く。場所は長田西小学校のすぐ西、丸子川の土手下である。細工所地蔵堂はすぐに見つかった。立派なお堂の中に祀られていた。「駿河一国百地蔵尊第十一番」の板も地蔵堂の右柱に張られていた。御詠歌が「細工所の辻におわせし地蔵尊、わたらせたまへ弥陀の浄土へ」と読める。草書で変体仮名が何文字か入っているが、古文書を学んでいると難なく読める。堂内に石仏が三体並び、中央が地蔵尊なのであろう。

昨日の雷混じりの断続的な激しい雨から、一夜明けて、朝から快晴であった。めっきり涼しくなって、歩きやすくなってきた。昨日の雨で空気が澄んでいるから、丸子の通りの先に雪を頂いた富士山が良く見えた。


(主不在の、第7番泉秀寺の延命地蔵堂)

国道の手越原の交差点から、旧道へ入り、最初に寄ったのが、通りから左手に少し入った、第7番泉秀寺の延命地蔵尊であった。境内は工事中で、地蔵堂にお地蔵さんが不在であった。お地蔵さんを剥いだようなコンクリート痕が残っていた。主不在の地蔵堂に「駿河一国百地蔵尊第七番」の板が空しく張られていた。そばにいた女性(大黒さん?)が地蔵堂は新しくするので、お地蔵さんは今石屋さんに預ってもらっている。せっかく来てもらって申し訳ないと恐縮する。地蔵堂は庫裏と合わせて新築するようで、地蔵堂の位置も変わるかもしれない。新築が成って戻ってこられるのは、来年の8月以降だという。こういうこともある。鉄筋コンクリートの本堂は五年ほど前に建てられたものだという。


(第五番高林寺の松根子育地蔵)

今日はとにかく10ヶ所以上のお地蔵さんを回らねばならないので、けっこう忙しい。次の第5番高林寺は通り沿いの右側にあった。境内はさながら日本庭園に入ったようであった。本堂の左側に、樹齢200年の松の根元に、六角の祠がある。板に「駿河百地蔵第五番霊場 子育地蔵尊」と書かれていた。この子育地蔵が「松根子育地蔵」と呼ばれるのはそのためである。寺の記録によれば、西国三十三ヶ所の第一番札所、那智山青岸渡寺の地蔵を写したものといわれている。大正6年9月17日に安置された。その僧衣で赤子をくるんで抱いているように見える。


(高林寺の木馬堂)

境内右手には木馬堂があり、ガラス張りの中に白馬像があった。「文政八年(1825)酉九月作立、駿府下傳馬町橘屋鉄藏三拾五歳、新通六町目(本通九町目出)濱名屋吉五郎四拾二歳 作」と書かれていた。安永二年(1773)の駿府大火の際に、浅間神社から逃げ出したといわれるらしいが、時代が合わない。色は随分鮮やかな白で、近年に塗り替えが行われたのかもしれない。東海道の沿道らしい奉納物である。(つづく)

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磨墨伝説の福養の滝を見る

(福養の滝、上の段)

(昨日のつづき)
「縁側カフェ」の砂さんに、元大学教授の御宅のツリーハウスカフェを教えてもらい、茶畑の斜面を横切る道を少し登って立寄った。階段を昇ったツリーハウスに、砂さんの縁側でも顔を合わせた、掛川から来た女性二人が先客でいた。コーヒーはセルフサービスと書かれている。


(ツリーハウスカフェからの景色)

声を聞きつけて、御亭主の小桜元教授が昇ってきた。三年前の静大の講座でお話を聞いて一度来たいと思っていたと話しかけると、皆んな年寄りだから年々少なくなって、今はここを含めて5軒になってしまった。しかも、その内1軒はおばあちゃんが弱くなって休んでいると話す。コーヒーは暖めてあるから、ケーキも今朝自分で焼いたものだから、自由に取って食べるように話して、そそくさと降りて行ってしまった。山村生活のお話でも少し聞けるかと思ったが、残念であった。

帰りに、大間の集落のすぐ上にある「福養の滝」に寄った。県道を3分ほど登ると、閉鎖されている「駿墨庵」の建物の横に、福養の滝の駐車場があり、それより200メートルほど遊歩道を歩いた先に「福養の滝」はあった。


(福養の滝、下の段)

遊歩道の入口に「熊出没注意!」の看板があり、瞬間緊張する。遊歩道の最後で、沢のレベルまで下ったところが滝見の場所であった。高さ100メートルの上から急斜面の岩を這うように水が落ちてくる。良く見ると滝は二段または三段になっているようで、すべてを同時に視界に入れることは出来ないようだ。紅葉にはもうしばらく掛かると思うが、周囲の緑の具合では、紅葉の景色も見てみたいと思った。

案内板によると、昔、この滝に毎年5月5日の午後10時頃、一頭の馬が滝つぼにつかり毛並みを整えていた。この馬は後に米沢家で飼われ、宇治川の先陣を争った駿馬「磨墨(するすみ)」となった。その謂れからこの滝は「お馬が滝」と呼ばれていたが、明治43年、当時の安倍郡長、田沢義輔が郡内踏査に来た折り、岐阜県の養老の滝に似ていることから「福養の滝」と名付けたという。

「宇治川の先陣争い」とは、寿永3年(1184)、木曽義仲と源義経が宇治川で相対したとき、義経方の佐々木高綱と梶原景季が、源頼朝から与えられた名馬、いけずき(池月)対、するすみ(磨墨)で、先陣を争った故事である。

帰りの車で、女房が思い出して笑う。砂さんでツリーハウスカフェではコーヒーとマドレーヌが出ると聞いて、皆んなが聞いているところで「マドレーヌとは何だ」と自分が尋ねたことが滑稽だという。お菓子の名前だとは思ったが、そんなカタカナを言われても解らない。だから聞いたのだが、黙っていれば恥を掻かなくてすむのに、大恥を掻いたのだそうだ。今もって何が大恥だったのか、解らない。

女房は購入したラッキョウ漬と梅干漬がそれぞれ150円だったことにえらく感激していた。自分は、何につけても、浮世離れした雰囲気が心地よかったので、縁側カフェにはもう一度来ても良いかなと思った。帰りに湯ノ島の玄国茶屋でお蕎麦を食べて家路に着いた。
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大間の縁側カフェに行く

(大間の縁側カフェ、手前が縁側)

三年前に静大の講座で話を聞いてから、靜岡市葵区大間の「縁側カフェ」に興味を持っていた。この日曜日、起きたら女房によって大間の縁側カフェに出かける予定が出来ていた。縁側カフェが開く日は、第1、第3日曜日の月2回である。今日はその日に当る。女房の話ではホームページが閉じられているといい、年齢の高いおじいちゃん、おばあちゃんが中心になっての活動だけに、もう終わってしまったのではないかと心配しながら向かった。

新東名が開通して、靜岡の藁科川奥に行くには大変便利になった。新東名を東へ走るのは始めてである。金谷インターは自宅から直線距離で500メートルほどで、ETCによってノンストップで新東名上を走っていた。藤枝IC、新靜岡ICと続くが、新靜岡ICまで行くと行き過ぎで、途中の靜岡SAにあるスマートICで降りると、藁科川を遡る入口へ降りることになる。ここまで10数分しか掛からなかった。藁科川を渡る高速の橋直下に一般道の橋が出来て、それを渡れば早かったが、見過ごして安西橋まで戻る遠回りをしてしまった。それでも、国道1号線を行くより、断然早く行けた。因みに料金は400円でお値打ちである。


(大間からの景色)

しかし、それから大間までは途中に道草もあったが、1時間ほど掛かった。大間の集落は10数軒の農家が藁科川沿いの谷間の斜面に点在している。お茶、椎茸と林業が主産業の村である。斜面には茶畑が広がっているが、斜面での農作業は大変だろうと思った。それでも放置された茶園はほとんど見かけなかった。今や過疎を越えて限界集落になってしまった。以前に、大間のおばちゃんたちが開いていた「摺墨(するすみ)庵」という、山家の産物の直売や食堂を営んでいた施設も、おばちゃん達が年取って、営業を中止してから久しい。そこへ、静大を退官された先生が移り住んできて、アイディアを出し、自宅の縁側に町の人を迎えて、お茶と一寸した田舎のお茶請けを出す、月に一日のイベントが始まった。それが「縁側カフェ」である。

「縁側カフェ」の小さな看板と緑の幟に誘われて入った農家が砂(いさご)さんのお宅であった。座敷と縁側が広く開けられて、秋の日差しが縁側に入っていた。座敷の広さは10畳+4畳で、外されているのか、二間の仕切りは無い。中には4組10人ほどのお客が上り込んでいた。一組の家族と入れ替わりに、自分たちも座敷に上がり、空いた縁側に坐った。

老夫婦が生活しているままの座敷だから、仏壇もあれば神棚もある。御先祖の写真や幾枚もの御札、自宅の航空写真や藁科奥の山々の写真、さらには賞状の類いまでも、鴨居の上に掲げられていた。天井は貼られておらず、かつてあった囲炉裏の煙で、黒くなった太い棟木などの骨組みが見えた。

しばらく待つ内に当家の主人であろう、背の高いおじいさんが、おぼんに、お茶、汁粉、煮た里芋、蕪の浅漬け、さやいんげんなどの田舎の惣菜を、それぞれ器に入れて出してくれた。汁粉にはお餅まで入っている。(お代はすべてのカフェ同じで300円)おばあさんが裏でその準備をしているようで、お客さんの面倒は、おじいさんの係りである。もともと農家で、客商売ではないから、口は重いけれども、こちらが色々聞くと話してくれる。

昔はどこかの山が切り出すというと、村総出で材木を切り出し、ケーブルを張って川まで下し、川に流して材木を町まで運んだものだけれども、林道が出来てからは、運び出しは業者任せになり、トラックで運ばれるようになった。筏流しはここでは無く、雨が降って水量が増えたときに材木を流すのだという。


(砂さんの立派な臼)

土間に立派な臼が置かれていた。聞けばお餅はこの臼でついたという。臼の材料はケヤキだと聞いた。(つづく)
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