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「地震取調集」の地を踏査 その3

(八幡宮)

(昨日の続き)
「波除け地蔵」を後にして、「地震取調集」筆者の本寺である高岳寺を目指した。高岳寺はカーナビで見つけて、1キロ少々のところにあった。右手の塀の内側に高岳寺の本堂も見えていたが、入口を見つけない先に、広い駐車場の向こうに八幡宮が見えていたので、先にお参りしようと向かう。

「地震取調集」には「当所氏神は両社とも御別条無し、もっとも両社の御華表(とりい)大破、砕失」と記されているが、その内の一つなのだろうか。鳥居は石造りに見えたけれども、叩くとボコボコと合成樹脂製であった。今ではこんなものまで合成樹脂で造ってしまうのかと驚いた。軽いから地震などには強いのであろう。鳥居の背後には両側に2本、まっすぐな背の高い松の木が門柱のように立っていた。

案内板によると、大同元年(806)に創建というから、随分古く社殿も大きなものであった。秋のお祭りに大名行列に因んだ神輿渡御(3年毎)が行なわれ、途中、第一、二、三、四の御仮屋に駐輿し、御旅祈祭を行なうと書かれていた。先ほど松林の中に見たのは、この御仮屋の一つだったのだろう。我が故郷では御旅所と呼んでいたが、ここでは御仮屋と呼ぶ。一つ謎が解けた。


(吉永山高岳寺)

さて、目的の高岳寺であるが、入口は少し回りこんだところにあった。予想した以上に大きなお寺であった。吉永山高岳寺といい、曹洞宗のお寺である。吉永というのはこの辺りの地名であった。

次に末寺の正泉寺をカーナビで見つけて向かう。途中、行き先に「飯渕」と表示した路線バスが通った。飯渕(はぶち)には記憶がある。「地震取調集」に「近村飯渕村より猟船(漁船)にて積出し御城米船二艘、揺れ中、海上高浪に打ち込まれ、残らず御城米刎(はね)出し」と記された「飯渕」である。そこで家に帰ってからもう一度地図をよく調べてみると、大井川の河口の左岸、大井川港と大井川に挟まれた狭い地域に、「飯渕」の地名を見つけた。つまり御城米船が出たのは、現在の大井川港の辺りだと推測できる。


(正泉寺)

最後に訪れた正泉寺は高岳寺に比べるとはるかに小さなお寺であった。正泉寺は昭和20年海軍静浜飛行場用地として収用され、移転を余儀なくされた。戦後に新築された現在の堂宇が、元の土地と違う場所なのかどうかが、はっきりしない。海軍静浜飛行場は現在、その一部が自衛隊の静浜基地として使用されている。

これでほぼ、この日に回る予定にしていた場所を巡り終えた。最初の謎、「地震取調集」の筆者は誰かという疑問にはまだ答えられていない。しかし、おおよそ旧大井川町に在住していた誰かであるとの限定は出来たと思う。今後「地震取調集」を読み進めてゆく中で、謎を解明したいと思う。
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「地震取調集」の地を踏査 その2

(地蔵森の波除け地蔵)

(昨日の続き)
「前浜」から戻って、誰か地元の人に尋ねようと車を走らせた。あいにく工場地域で、日曜日とあって人影が無い。一人歩行者を見つけて聞いてみたが、出張で来ている人だった。松林の一画が残ったところを見つけて、車を乗り入れた。林の中に鳥居があって神社の様に見えた。しかし社殿が無く土台らしいものがあるだけだった。時分の故郷の遊び場だったところに、「おたびしょ」という場所があったのを思い出した。屋根とそれを支える丸柱だけで、屋根の下は乾いた土間であった。お祭りに御神輿が渡御の途中で仮安置される場所だと聞いた。ここもそのような場所ではないかと思った。(後で、訪れた八幡宮のお旅所だったようだ)

松林の隅で車を洗っている人を見付け、「波除け地蔵」の場所を尋ねた。その男性は確か写真に撮ってあったと、バンの後部ドアを上げて探し始めた。写真が趣味で、あちこちの景勝地やお祭りなどを撮った四つ切の写真がたくさん出てきた。それを片っ端から、時々これが何の写真と解説を入れながら、確認して行った。写真も尽きる頃にようやく目的の写真が見つかった。「波除け地蔵」の案内板を撮ったもので、背後に古いお堂が写っている。今はお堂も新しくなって、看板も移動されていると話す。場所は、これを出て橋を渡り最初の信号を右に渡り100メートルほど行った左側で、すぐに判るという。言葉で簡単に説明できるなら、あの写真は何だったのだろう。単に写真を見せたかったのかもしれない。


(波除け地蔵のお堂内部)

「波除け地蔵」の真新しいお堂は道路端ですぐに判った。海からは500メートルほど入ったところであった。お堂が元々この地にあったのかどうかは知らない。地蔵森と呼ばれた森は見当たらず、工場に囲まれた場所であった。地蔵森は開発されて無くなったのだろうか。格子戸の中をのぞくと、小さな石仏が赤い前垂れを掛け鎮座されていた。

脇の案内板によると、むかし大井川は度々氾濫し、多くの人命を奪い、家屋や田畑を流した。ある洪水のおり、多くの村人の命を救ったお坊さんが、自らは地蔵森浜に死体として打ちあがった。その夜、村人の夢枕に立ったお坊さんはその地にお地蔵さんを祀ってくれるように頼む。村人たちがお地蔵さんを祀るようになってからは、その地が大井川の洪水に遭うことは無くなり、津浪に遭うことも無くなった。

安政の大地震では津浪が免れたというが、東日本大震災を目の当たりにした我々の眼で見ると、開発された工場地帯に津浪が揚って蹂躙するのは確実のように見える。あるいは深い駿河湾の中では波の動きが複雑で、微妙に助かる地形があるのかもしれない。(続く)
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「地震取調集」の地を踏査 その1

(旧大井川町の海岸〔前浜?〕)

日曜日、防災訓練も早く終わったので、一休みの後、大井川河口の北側に位置する旧大井川町に女房と出掛けた。土曜日に出掛けた吉田公園の、大井川河口を挟んだ対岸である。

「地震取調集」という、安政の大地震を取材した古文書を金谷の講座で読んでいる。ところが、この古文書はどこの誰が書いたものであるのか、解らなくなってしまっているという。解らないと聞くと俄然解明する意欲が涌いてきた。ヒントは「地震取調集」の古文書の中にあるはずだと思った。

今まで読んだところで、全体の半ば位であろうか。このブログで書いたこともあるが、いくつか解ったことがあった。「地震取調集」の筆者の檀那寺は、本寺が高岳寺、その末寺が正泉寺という。今でもそうであるが、末寺は本寺の出先のような関係で、檀家は末寺を通じて本寺とも関係しているらしい。いずれにしても、この二つのお寺は「地震取調集」の筆者を探す上で大きな手掛かりになると思う。この二つとも、道路地図で旧大井川町に存在する事は確認していた。

もう一つ、「波除け地蔵」と呼ばれる地蔵森のお地蔵さんのことである。この大地震で駿河湾を囲む各海岸が大津波に襲われて大きな被害を蒙った。ところが、この地域は奇跡的に津波の被害を免れている。北の焼津や南の吉田、相良などは甚大な被害を蒙っており、引いて行った津波は駿河湾の向う岸の伊豆半島にぶつかり、エコーのように跳ね返って、くり返し襲って来ている。しかし、津波は左右に分かれて、この地を避けるように打ちあがった。この奇跡はまさに「波除け地蔵」のご利益と考えられた。その「波除け地蔵」もネットで調べると、旧大井川町の利右衛門という地名のところに現在もあって、年に一度お祭りも催されるらしい。

つまり、この「波除け地蔵」と高岳寺、その末寺、正泉寺が確かに旧大井川町に現存することを確認して来るというのが目標であった。

女房の運転で旧大井川町の利右衛門という町を目指した。カーナビには「波除け地蔵」は無いから、まずは利右衛門を適当にセットした。(利右衛門が地名だから何とも書きづらい)

大井川港周辺の大きな工場の間を抜けて、住宅地の中にカーナビに導かれてやってきた。これから先は、ひたすら聞いて回るしか手はない。最初に見つけた農作業するお爺さんに聞いたところ、確かにここは利右衛門という地名だが、地蔵森の「波除け地蔵」は橋を渡った向こう側だと教えてくれた。車を進めるが、工場地帯に入ってしまい、海岸に出てしまった。

この辺りは「地震取調集」で「前浜」と呼んでいた海岸になるのだろう。百数十年の様子を想像するのは難しいけれども、現在の前浜には松林があって、土手状になっている。しかし、海抜10メートルにもならないのではないかと思った。これで大津波が防げたとはとても信じがたい。台風の前触れの浪であろうか。やや高い波が海岸に打ち寄せていた。(続く)
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今年は予知なしの、区の防災訓練。

(散歩道のモミジアオイ)

今朝、8時30分に突然に地震が発生したという想定で、町の防災訓練があった。今までの防災訓練は地震の予知情報に従って、粛々と避難するという形であったが、東日本大震災を受けて、地震発生がスタートの不意打ち型の防災訓練となった。

班長として少し早めに班の集合場所に行くと、すでに10人ほど集っていて、サイレンが鳴った8時30分には20名を越す人になった。サイレンが鳴りすわ地震発生!と、まず身の安全を確認、家族の安否を確認してから集ってもらうように伝達してあったから、集るのが少し早いなあと話す。40分ごろには44名の人が集った。これから区の集合場所の五和小学校に行くが、放水訓練などがあって11時まで掛かる予定である。仕事の方もいるだろうし、今朝は日差しがきついから、無理をしないで、訓練参加はここまでにしていただいてよいとことわる。結果、35名の人が区の集合場所まで避難経路を通って五和小学校に出向いた。

放水準備など訓練の準備はしっかり出来ていて、1時間ほどで訓練終了、解散になった。暑さの中、早く終わるのは悪くないけれども、区の防災委員が8時半のサイレンと同時に集合して、皆んなが集る前に準備をすると聞かされて、真面目に8時半のサイレンを聞いてから急行したところ、準備はすべて終っていたとぼやいた。主だった人たちで早めに出て準備をしたのであろう。本音と建て前があって難しいところである。昨年も同じようなもので、時間に行くと大体準備が終っていた。

実際に、不意打ちに地震が起きたとき、自分や、我が班の人々はどんな風に行動するだろうか。建て前が優先する区の防災訓練とは別に、班として考えておく必要があると思う。家が潰れることは無くても、家財ががたがたになる位の地震が起きたとき、自分はどうするであろう。自分の身の安全をはかり、火の元はしっかり消す。家族の安否を確認し、近隣の様子をうかがう。潰れ家があるようなら、近隣の人たちと協力して閉じ込められた人を助けることが優先されるであろう。そういうことが無ければ、集合場所に集る。班の人たちの安否情報を集めて、不明者があれば人手をかけて確認と救出に出向く。

集合場所の五和小学校への避難路は、住宅の密集地を通り、被災時はかえって危険になるから、避難場所に出向くのはかなり後のことになるだろう。当面は伝令を出して、我が班の状況を伝えるぐらいであろうか。津波の危険性は無いけれども、もし高いところに逃げる必要があれば、農協の建物か、消防署に避難するのがもっとも安全だろう。

防災訓練を機会に、そんな想定をして準備をしておくことが大切だと思う。
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地震取調集 その4 - 古文書に親しむ

(吉田公園のオミナエシ)

昼間、ムサシを女房と吉田公園に行く。オミナエシが花盛りというニュースをどこかで目にしていたからである。くもりで暑くないだろうと思ったが、海のそばの公園では日が差して、まだまだ暑い。ムサシの散歩もほどほどに帰ってきた。帰り道、金谷方面は黒い積乱雲が覆っており、金谷では雨が少し降ったようであった。もっと北へ行けば激しい雷雨だったかもしれない。

   *    *    *    *    *    *    *

「古文書に親しむ」講座の続きである。近辺の海及び海辺地方の様子を記録した部分である。

一 伊州下田辺、在とも大揺れ、それゆえ颶(つなみ)押上り家潰れ、一円押出し流され、夥(おびただ)しく男女死したること数知らず、(まこと)に獄中の有様にさも似たり、同所湊沖中に於いて、その節アメリカ異国船来朝着岸にて、殊に大船ことゆえ漂着、懸り居(かかりい)遂げ、並び漂船を隣りとして、浦々の船、駿州城の腰、柳津(焼津)辺、遠州は川、相良辺の船、または遠国の大船数多(あまた)残らず懸り遂げず、それに続き、猟船なども残らず破船に及び、人多く死したること数知れざる事、異国漂船の長さ凡そ六拾間余、横幅は拾七、八間余、帆柱は三本立て並べ、帆綱のこと、笹蟹の糸を配るにさも同事なり、船中の人数六百余人乗船なり
※ 城之腰 - 焼津の地名、質問に受講者から教わった。質問はしてみるものである。
※ 猟船(りょうせん)-漁船。
※ 笹蟹 - くもの異称、蜘蛛を笹蟹とは面白い発想である。


安政の大地震のときに、下田にいた異国船は、ロシアの使節、提督プチャーチンの乗ったディアナ号のことで、アメリカの船というのは間違いである。ディアナ号は修理のため、伊豆の戸田に回る途中に沈没し、帰国のためロシアと日本の船大工が協力して、日本で初めての洋船ヘダ号を建造し、翌年に帰国した。日本はこの事件で洋式造船の技術を習得し、後に同型の船が量産されたという。

一 駿州清水湊辺、これをもって大揺れ津浪押上り、男女死す、続き三穂(三保)辺通り、颶(つなみ)押揚り右同様の事、同所沖中颶に逢いて、何国の大船や壱艘、塩荷、諸荷物積み入り、大浪に巻き込まれ、そのまま海底に沈み入りぬ、一人も死骸相見ず候事

一 駿遠浦々海岸通り、当浜東方より駿久能山沖中に大立雲の如し颶、高浪、凡そ高草山の如し見るに斉(ひと)しく、その颶は沖々ヘと左右に打ち返し、当浜は格別の浪立ちもこれ無く、もっとも相応高浪、前浜地蔵森林中まで大浪打揚り、よき仕合わせに以って、豆州岬表へ右の津浪は打ち揚り、それより同国住吉村浜辺より、西浦辺通り高浪押上り、川崎相良辺残らず家潰れ大荒れに及び候事


地蔵森と呼ばれたところは、ネットで調べたところ、旧大井川町利右衛門字地蔵森の地で、大井川港のすぐ北にある。そこに祀られたお地蔵さんは「波よけ地蔵尊(地蔵森のお地蔵さん)」と呼ばれている。この地蔵尊は、焼津市小川の海蔵寺から歓請され、以後、大井川の洪水やつなみから地域を守ってくれているという。民話も残っている。

地震取調集の筆者は不明というが、地蔵森の位置からして、どうやら旧大井川町(現焼津市)の海寄りの地域に住居があったのだろうと推測される。

一 近村飯渕村より猟船(漁船)にて積出し御城米船二艘、揺れ中、海上高浪に打ち込まれ、残らず御城米刎(はね)出し、漸々空船にて陸地へ走せ着き、水主(かこ)自命摝(ひろう)計りなり、人数無事にて帰宅致し候

一 同国横須賀西尾殿御城、並び諸家中とも大破に及び、町衆までも残らず潰れ委(ことごと)く大破に相成る事
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地震取調集 その3 - 古文書に親しむ

(散歩道の深紅のカンナの花)

先週の土曜日午後、金谷の「古文書に親しむ」講座に出席した。先月に引続き、安政の大地震を記録した「地震取調集」を解読した。

一 大井川辺西東両側(べり)とも、堤落ち崩れ為す事、平地同様に相成り、地震後即刻御普請これ有り、又々去ル安政二乙卯年の孟春にて、御普請残らず先規の通り出来栄えこれ有り候
※ 孟春(もうしゅん) - 春の初め。初春。

季節の表わし方に、「孟春、仲春、晩春」という言い方がある。「孟春」が春の初めで「仲春」が春半ば、「晩春」は言うまでもない。同じように各季節で、「孟夏、仲夏、晩夏」、「孟秋、仲秋、晩秋」、「孟冬、仲冬、晩冬」と呼ぶ。手紙の冒頭などで使用されているのを見る外、「仲秋」は「仲秋の名月」などという使われ方がされる。

一 東海道駿府中駅、御城内大破に及び落城の事、並び市中は凡そ三分一程も破落に相成り、是を以って焼失し、男女多く死す、同国田中本多殿御城大破に及び、諸家中ども数多(あまた)潰れ、町家は白子町より上伝馬町辺は軽き揺れ入り、それより下伝馬町裏通り揺れ込み荒く、家作潰れ、即刻焼失致す事

一 遠掛川太田殿御城委(悉-ことごと)く大破と相成り、残らず諸家中ども破落に及び、並び町家も残らず潰れ、剰(あまつさえ)大火と相成り、即刻焼失致す、少々男女死す、それより上へ海道筋五十三驛の内、右同様宿々川の渡船場に至るまで大揺れ、数多潰れ家焼失し、人多く死す事、数知れず候事
※ 剰(あまつさえ)-(別の物事や状況が、さらに加わるさま。多く、悪い事柄が重なるときに用いる。)そのうえ。おまけに。


掛川宿の惨状は、「当国諸国大地震(3)-喜三太さんの記録」及び「当国諸国大地震(7)-喜三太さんの記録」でも、もっと詳しく知ったところである。

一 甲州信州辺、美濃路辺は格別の揺れもこれ無く、総て北国路辺は右同様の事なり
一 当国より東は相州箱根辺を極(き)して大揺れ入り、それより関東江戸方は少々の地震にて、当御在城は勿論、洛中並び在方とも別条無き事
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百姓町人共、宮、堂上方入りのこと- 駿河古文書会

(ミョウガの花、昔、畑の隅に植えて絶えてしまったと思っていたミョウガが花を咲かせた)

朝から公報無線で、大井川の花火大会再延期の放送が何度も行なわれている。当初、10日の予定が大井川増水のため、25日に延期され、同じ理由で再び延期された。延期されて、何時になるのかは未定だという。江戸時代、大井川の川越しもこんな形で川止めがされたのであろう。もっとも昔は公報無線を利用して知らせるというわけには行かなかったけれども。

このところ、秋雨前線が日本列島に停滞して、あちこちで雷が発達して豪雨を降らせている。まるで梅雨前線末期の豪雨が戻ってきたようで、秋雨前線の雨ではない。おかげであの熱中症を起こしかねない暑さは去って、有り難い天候ではある。長期予報ではこの秋、暑さが長引き、本格的な秋になるのはまだ先だという。

   *    *    *    *    *    *    *

駿河古文書会の続きである。今日の文書はいま一つ何のための御触れであるのか理解できない。

百姓町人ども聊(いささ)かの由縁を以って、宮、堂上方へ入り込み、用達または舘入などと唱え、提灯などに御用と記し、或いは紋付け置き、権威がましく振るまい致し候は、往々これ有るやに相聞く、かねて御布令の趣も弁へ趣き、右様の所為は不届きの至りに候、右以来相改めざるものは見付け次第召し捕り、御詮議これ有るべく候間、きっと相心得候様、仰せ出され候事
 八月 太政官
※ 所為(しょい)- しわざ。振る舞い。
右の通り仰せ出され候間、村々その旨相心得申すべく候、以上
 八月十日
  安部町役所        柳新田始め   
               浅畑村々   名主
                      組頭


この文書も慶応4年8月に出された文書で、出したのは太政官とあるから、明治新政府である。8月9日には徳川家達が駿府に向けて江戸を立って、その道中であった。その受入準備を進めている駿府の村々に出された御触れで、受入準備を進める上で、特に注意を喚起したものなのだろうか。

四民平等の明治でも、江戸時代の権威が貶められることは、新政府も許さなかったという事なのであろう。明治維新そのものが、フランス革命のような自由平等を旗印に掲げた革命では決してなかったことを示している。

最初解読したとき、維新に便乗して、錦の御旗を掲げて、狼藉をなした輩の摘発をはかった御触れかと考えたが、どうも穿ちすぎであったようだ。
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徳川家達御着城の御触れ - 駿河古文書会

(秋と夏の空が同居)

先週金曜日、駿河古文書会の続きである。

慶応4年(後に明治元年)4月、江戸城無血開城の後、5月に徳川家の家督を継いだ徳川家達に、駿河城主70万石が下賜され、その8月9日に家達は家臣を引き連れて江戸を出立、15日には駿河へ到着している。以下の文書は受入側の駿府での大騒動の様子がうかがえる触れ書き類である。

来る十五日、着御あらさせられ候節は、御多人数に付、市中近辺寺院とも御宿割(やどわり)致し候えども、行届き兼ね候に付、御城内御役人様、別段仰せ渡され候は、もはや余日もこれ無く差し支えこれ有り候ては、相済みがたく候、これにより在方寺院外、村方へも御宿割致すべき旨、仰せ渡され、この段相触れ申し候、以上
 辰八月十一日       町会所
※ 着御(ちゃくぎょ)- 天皇や貴人を敬って、その到着・着座をいう語。

急廻状を以って御意を得候、しかるは当十五日御着城あらさせられ候については、御人数多くに付、市中近辺御宿割いたし候のみにては、何分行届き兼ね候に付、その御筋より御沙汰御座候間、別紙町会所添書の通り、もはや余日もこれ無く、御差し支えに相成り候ては、相成りがたく候義に付、村々寺院または農家にても、御宿御触れ当てに相成り候に付、明十二日、寺院並び農家とも、銘々間数相調べ早々申し出候様、取り計らうべき旨、仰せ渡し候間、則ち町会所、別紙相添え、この段取り急ぎ達し申し上げ候、早々御取り調べ、明十二日七つ時までに相違なく、私共方へ調書御持参成らるべく候、且つこの廻状昼夜とも御順達、留り村より私共方へ御返却成らるべく候、以上
 辰八月十一日      (廻状元として郷宿5軒の名前が並ぶ)
             (廻状先として9つの村名が並ぶ)
              右村々御役人中

     覚え
上様来る九日江戸表御発途、十五日当府へ御着城在らせられ候旨、江戸表より御達し有り候間、右の趣、相心得べきものなり
 辰八月十二日
  府中御役所
 
    添え書き
御触れ書御渡し遊ばされ候間、承知の旨、宿村請印致され、刻付けを以って早々順達留り村より駿府町会所へ御返却成らるべく候、以上
 辰八月十二日
   駿府 町年寄

なお以って、この御触れ書留り村より最寄宿方へ差出し、宿継ぎを以って早々御返却成らるべく候、請印帳にこれ書き有り、御触れ書き拝見の上、別紙帳面へ請印成らるべく候事、継ぎ送り方より順ならざる義、これ有るべく候間、利宜しきを弁え、村方へ御継ぎ送り成られ、村名など付け落ち候わば、最寄より御返し下さるべく候、以上
 辰八月十二日
       村役
         安部郡村々
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阿片煙草御制禁の布告 - 駿河古文書会

(夕方、西の空の入道雲、ムサシの散歩を急いだが、雨になるような雲ではなかった)

先週の金曜日、故郷を朝9時前に出て、何とか靜岡で夕方5時より開かれる駿河古文書会へ出席するために、高速道路を昼食もおにぎりとサンドイッチで済ませながら、金谷まで戻って来た。家まで帰らずに金谷駅から電車に乗り、いつも通りのコースで会場まで余裕でたどり着けた。

今日の課題は先週に続いて、「御触面書留帳」よりの文書である。最初に読んだ文書は明治新政府から慶応4年7月4日出された阿片煙草御制禁の布告である。

  御布告写し
阿片煙草は人の精気を耗(こう)じ命数を縮め候品に付、かねて御條約面にこれ有り候の通り、外国人持ち渡る事、厳禁の(ところ、近頃ひそかに舶載の)聞こえこれ有り、万一世上に流布致し候ては生民の大害に候間、売買の儀はもちろん一己に呑み用い候儀、決して相成らず候、もし御制禁相犯し、他より顕るゝにおいては、厳科に処せらるべく候間、心得違いこれ無き様、末々に至るまで堅く相守るべきものなり
※ 生民(せいみん)- たみ。人民。国民。
※ 一己(いっこ)- 自分一人。自分だけ。


右御達し書き(を)、府藩県一同、高札に掲示いたすべき様、仰せ出だされ候事
右の通り御触れこれ有り候間、村々その旨相心得申すべく候、以上
 七月四日             浜通り村々
  宮ヶ崎役所           浅畑村まで


慶応4年というのは微妙な時代で、1月に戊辰戦争が始まり、すぐに新政府が立ち上がる。4月には江戸城無血開城が行なわれ、9月8日に明治と改元される。新政府からは早くから様々な文書が出ている。この布告は民衆に知らしめるために高札にして出すように指示している。高札に出すあたり、まだ江戸時代からのやり方を変えていない。

文章は型にはまって読みやすい江戸の文書と違って、新政府には国学の士が多いだけに、文章に見慣れぬ漢語が多く、民衆たちは戸惑うと同時に、新しい風を感じたであろう。「府藩県一同」となっているのは、廃藩置県が完了したのは明治四年で、この時点では西日本では早くも府や県が出来ていたが、東日本ではまだ追いついておらず、府県と藩が混在する状況がしばらく続いたためである。

新政府には、阿片戦争のことが頭にあって、戊辰戦争がまだ終結していないこの段階で、その禁制の布告を出したのであろう。布告文書は布告を出した側の控え(ほとんどが研究者の手で解読されて本になっている)と、この文書のように受けた側の控えの両方が残っている。手書きで写しているから、両者に写し間違いが多く見受けられる。この文書でも下線を引いた青文字部分が抜けていた。
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亡き親父と伊藤清永画伯

(故郷でよばれた兄嫁さん手作りのご馳走)

故郷の夜、次兄に聞いた話である。親父が亡くなる半年ほど前、思い残していることがあるという。その一つは、戦時中に二度目の召集で、鳥取第40部隊で新兵教育の教官をしていた時の話である。恐持ての評判とは全く異なり、親父は兵を殴って従わせることなど一度も無かった優しい教官だった。新兵教育の教官といえば、恐い教官ばかりかと思うが、多くの教官は普通の人だったはずである。だから、戦後、何度もあった戦友会の集まりに、教官として呼ばれてゆくことが度々あった。新兵にはすでに色々な職業の人が徴集されて来て、一定の教育のあと、配属されて戦地へ行った。

親父が思いを残していた人はその中にいた。出石出身の画家伊藤清永氏であった。隊で絵が上手いとの評判になり、戦友たちから絵をせがまれて、何枚も書いているのを見ていて、教官として絵を描くことを禁止したことがあった。
「あなたも将来ある人なのだから、軽々しく絵を描くものではない」と、画家の手が荒れることを心配して、禁止したはずであった。しかし、その思いはどこまで伝わっていただろう。人間関係を良くする絵が禁じられたと、悪意に取られたのではなかったか。60年間、時折思い出して、いつか禁止の意味をもう一度説明して、誤解を解きたいと、ずうっと考えていた。いつかいつかと思いながら時が過ぎてしまった。

その間に、伊藤清永氏は画家として大成し、偉くなって遠い存在になって行った。略歴を見ると、出石町(現豊岡市出石町)下谷の曹洞宗吉祥寺の三男として生まれ、東京美術学校油絵科卒業。終戦復員後、軽井沢にアトリエを構え、本格的に裸婦を描く。1991年文化功労者、1996年には文化勲章をもらうまでになっていた。

次兄は親父の思いを遂げようと、伊藤清永画伯がイベントで出石に来ると聞いて、面会を申し込んだ。事情をはなすと、宿泊先のホテルで10分だけならと承諾していただいた。当日、親父は誤解を解くべく話したらしいが、画伯には嫌な思い出として残っていなかったばかりか、当時の思い出が次々に飛び出して、二人の間で話が弾み、10分の予定がいつしか40分も経っていたという。

思いを遂げた翌年、親父は旅立って行った。画家も2001年、90歳で後を追うことになった。二人の年齢差は今計算して見ると10歳、伊藤氏の入隊が27歳、教官の親父は37歳であった。自分が生まれる8年前の出会いであった。

伊藤清永画伯については、豊岡市バーチャル美術館で詳しく知ることが出来る。
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