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OEさんの来宅



(散歩道の紅白ボケの花、昨日撮影)

午後、「緑十字機決死の飛行」の著者、OEさんがご夫妻で来宅された。聞けば、このコロナ下、半年も入院されていたという。それでも退院されて半年、ようやく健康を取り戻されたのであろう。ご夫妻は何れも70歳前で、家では、こたつを挟んで、郷土史とケルトというそれぞれの趣味に励んでいるという。そんなご夫妻を見て、理想的な年金夫婦だと思った。

OEさんは、今、戦国時代、磐田市を中心に起きた、「一言坂の戦い」に焦点を当てて、一冊の本にまとめようとされている。武田信玄が遠州に侵攻して、浜松城の徳川家康と、磐田の一言坂で一戦に及んだ。その後に続く、二俣城の攻防、さらに三方ヶ原の戦いへと続く、家康VS.信玄の戦いの前哨戦ともいうべき戦いである。ところが、「一言坂の戦い」は諸文献をみるに、ごく簡単にしか触れられていない。磐田を故郷としているOEさんには、何とも残念なことである。戦いがあったことすら、地元でもあまり知られていない。この地で壮絶な戦いがあったことを、後世の人に伝え残したいというのが、OEさんの思いである。

一言坂 ➜ 二俣城 ➜ 三方ヶ原と続く戦いは、圧倒的な兵力を擁する信玄を前に、家康軍のいずれも負け戦であった。後に家康が開いた江戸時代にはあまり触れられたくない戦いだったのだろう。江戸時代に書かれた各種戦記も言葉が少なくなる。政権におもねて、明らかに歪曲された戦記もある。OEさんはそれらを徹底して分析し、「一言坂の戦い」の真実をあぶりだす、というのが、この本の目的のようだ。その戦記などの参考文書の解読に、自分が協力してきた。どんな本になるのか、その一端を話してくれたが、それは云わぬが花であろう。いずれにしても、来年の末までには稿を纏める目標のようだ。

今日は追加の2資料の解読を依頼された。短いものだから苦にはならないであろう。初稿が出来たら一番に読ませてくれるという。昨夜は磐田市内で20人ほど集まり「一言坂の戦い」について、3時間も講演をしてきた。本を書くことも広言してきたという。OEさんはたくさんの人に広言することで、自分をのっぴきならぬ所へ追い込み、行動する質(たち)の人のようだ。それで、今まで2冊の本を書き、「一言坂の戦い」で三部作が終るという。何だか生き急ぎのような気がしないではないが、大病されてそんな思いを持たれるようになったのだろうか。

帰りに、自分が作った干柿をお土産に持って帰って頂いた。コロナ封じのおまじないである。これは北国で作る干柿とは異質の、いわば「静岡干柿」というべき干柿で、天候が良くて暖かい当地で工夫した干柿である。

読書:「七人の刺客 隠密船頭 2」 稲葉稔 著
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「のんき夫婦」のO氏の逝去

(掛川城公園のケヤキの紅葉、昨日)

昨日の能「融」の話、本日ふたたびIさんから電話をいただき、昨日の補足として、葬式に能をと話したが、実際には謡いを供養として捧げることが、現代でも同好の士の間で行われるという。演目としては「融」の外に「江口」「卒都婆小町」「海人(あま)」三演目で、一演目せも謡えば、ゆうに40分は掛かる作品だから、一演目を選んで、その一部を謡う。謡う部分も凡そ定まっているようだ。婚礼の際の「高砂」のようなものであろう。この事は、どこかに書きものとして残っているものではないという。いわば、慣習のようなものであろうか。観世大夫が、12年後の本能寺の変を予測したわけはなく、Iさんの話では、戦国の世で、多くの武将たちが亡くなっているから、その内の誰か、あるいは、それら部将のすべてに追悼の意で、最後の演目に選んだのではないか、との話であった。

ところで、信長を不快にしたことについて、Aさんから、コメントで、その主催は誰で、観世大夫はその後、どうなったのかと質問を受けた。「義昭御所室町に於いて」と書かれているから、主催は、足利幕府、第15代将軍、義昭だったと思われる。ただ、演目の指示が義昭からあったのかどうかは分からない。信長不快の記事のあとに、「姫小松と云う香炉を義昭へ、信長より進上」の記事が続くから、信長と義昭の間が気まずくなったわけでもなさそうだ。また、読んだ中に、観世大夫が責めを受けたとの記載はない。

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昨日、送られてきた喪中葉書の中に、千葉のO氏の奥さんからの葉書があった。O氏が今年4月に亡くなられたという。しばらく、その葉書に釘付けになった。享年71歳。ガンが見つかったと聞いたのは、何年か前であった。昨年、年賀状が来なくて気にはなっていたが ‥‥‥

O氏夫妻とお逢いしたのは、11年前、一回目のお遍路中であった。高知県の足摺へ向う途中、第37番岩本寺の宿坊だったと思う。御夫婦でうらやましい位のことを言ったのだろう。奥さんのいないときに、「お遍路へ行くと言ったらついてきてしまった」と話されていた。次の日から足摺の第38番金剛福寺、第39番延光寺と、決して一緒に歩いたわけではないのだが、同じ道を歩いているわけだから、あちこちで出合いお話しをし、遠くから御夫婦の姿を目の隅に入れることも、たびたびであった。その姿に「のんき夫婦」とあだ名をつけて、「四国お遍路まんだら」と銘打った遍路記に登場していただいた。夫婦でのお遍路の理想と感じていた。

延光寺を打った後、ご夫婦とは、その夜、同宿で再会した。延光寺で区切って、一度、帰郷されるご夫婦から、接待で受けたものだがとお菓子を頂いた。そこでご夫婦とは別れたが、その後、結願されたと聞いた。自分はその後、二度目のお遍路も結願し、「四国お遍路まんだら」「四国お遍路まんだらふたたび」と二冊の遍路記を自費出版し、ご夫婦にも送らせて頂いた。喪中葉書には「旅立つ時まで『四国お遍路まんだらふたたび』と地図をベットに置いていた夫でした」と書かれていた。「四国お遍路まんだらふたたび」は88ヶ所に20寺を加えた108寺を廻るお遍路記である。おそらく、最後まで元気になって、108寺の遍路を目指されていたのではないかと思う。旅立つ方角が違うよ、Oさん! 合掌。御冥福を祈ります。

読書:「すっとび平太 はぐれ長屋の用心棒 25」 鳥羽亮 著
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お袋七回忌の法事に帰郷(3)

(城崎温泉、大師山のかに塚

城崎ロープウェイ山頂駅そばにかに塚がある。城崎は観光客の多くが冬の松葉がにを目当てにやってくる。供養の碑が出来るのは当たり前と云えば当たり前である。

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故郷の実家には、すでに長兄が伊勢から到着していた。家を継いだ次兄は子供が5人、その三男が家に入り、その子供が小一を先頭に3人、すでに大いに賑やかであった。中でも、一番下の三つの女児は、見違えるようにおしゃべりになり、人見知りせず、ぺちゃくちゃとしゃべり、取り留めもなく聞こえるが、時々ぐさりと来るような疑問を投げかけてくる。

三男は、同郷の俳優、今井雅之氏にあこがれて、役者になろうと、大学は東京に出た。小さな劇団に席を置き、今井雅之氏の舞台にちょい役で出たこともあった。その後、アルバイトに励んだ料理店で、料理に興味を持ったのだろうか。役者の夢を捨て、縁あって、城崎の老舗旅館の調理場に入り、今、五年経った。その間に、憧れていた今井雅之氏も早世した。京都の八坂神社で挙げた、同郷の女性との結婚式では、自分が仲人役を果たした。

夜、帰って来て、自分が今、江戸時代の料理の古文書解読に、大苦労していると話したら、参考になるかどうかと、数冊の料理本を貸してくれた。頼んだわけでもないのに、自分の蔵書から見繕ってくれたのである。料理についても、勉強している様子が窺えた。10年かかるといわれる、料理人の修行を、5年経ったところで、新設される割烹料理店に出ることになったという。ある程度、任されるようになるのだろうか。

城崎温泉は、街中には大きなホテルを建てさせず、小さな旅館がたくさん集まって成り立っている。しかし、近年は、個々の旅館がそれぞれに料理人を抱えて、料理を出すことが難しくなり、夕食は外でというケースも増えて来たという。どうやら、そういう観光客が狙いの店らしい。超高級な料理ではないけれども、一般の食事処よりも、高級な料理が狙い所なのだろう。開店したら、ぜひ、客で食べに行くと話した。

今、料理人はどんな仕事ぶりなのか、聞いてみた。とにかく今、客が増えていて、料理人の手が足らず、土地柄、海産物が多いが、魚を三枚に下すなどの下作業は、済んでいるものを仕入れざるを得ないという。その他の食材も、自ら食材選びをしている時間的な余裕がなく、業者任せになってしまうとも話す。

彼も料理人の顔になってきたと感じた。(つづく)
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お袋七回忌の法事に帰郷(2)

(法事の会場、浄土宗来迎寺)

故郷で頼まれたベニフウキの注文に、お茶問屋K園に行き、会社の経理、G君に逢う。会社で長年部下だったSY氏、腰を痛めたのがきっかけで、会社を退職したと聞いた。早速、家に電話し、積もる話もあるだろうから、遊びにおいでと誘った。

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(昨日の続き)
病院に運び込まれて、意識を取り戻すまで4日間掛った。治療の理由はよく判らないが、早く目覚め過ぎないように、睡眠剤が投与されていたらしいという。4日目の目覚めは、ぐっすりと寝て朝を迎えるようなもので、夢さえ見た記憶がなかったと話す。

目覚めて、リハビリに入ったが、身体のどこも不自由な所が無く、後遺症は
皆無であった。車いすでリハビリに行ったが、リハビリの必要もなく戻ってきたという。山の上で倒れるなど、不運中の不運に見舞われながら、これ以上ない幸運に恵まれた。街で群衆の中に居ても、これだけ早い処置が出来たかどうかは疑わしい。

KY氏は、あの世の入口まで行った来たのだから、どうしても聞きたいことがあった。意識を失っている間に、何か見たかということである。それは看護師さんにも聞かれたが(やっぱり彼女たちも気になるのどろう)、ぐっすり寝たあとの目覚めで、残念ながら、どんな記憶もないという。余りにも処置が早かったので、そこまで行く前にこちらに戻って来たのだろう。

自分が思うに、人間は死に直面したとき、脳内にモルヒネのような物質が出て、自然に、死の恐怖を和らげるように、プログラミングされているようだ。そして、その経験が、奇跡的な生還者からは、光に包まれた自分がいた、明るい花園を見た、阿弥陀仏の来迎を見た、など、記憶の断片として語られるのであろう。

クライマーズハイという言葉がある。登山者の興奮状態が極限まで達し、恐怖感が麻痺してしまう状態のことである。かつて登山を趣味としていたが、頂きまで登り切ったとき、恍惚とした至福の時間が訪れる。そんな辛いことをわざわざしなくてもと思いながら、一度登山をすると、また登りたくなるのは、その時間を味わいたいからだと思う。

クライマーズハイも、登頂時の至福の時間も、おそらく、脳内モルヒネのせいだろう。ランナーズハイもしかり。お遍路にも「お遍路ハイ」があるなどと、誰かに話したことがある。確かに、30キロの道のりを歩いて来て、遍路宿に着き、風呂に入ったときの満足感、達成感は格別のものである。

KY氏とは湯葉尽くしの昼食を食べ、その後、喫茶店で話し続け、おかげで福知山からの連絡特急もなくなり、福知山からは各駅停車の電車で故郷に着いた。(つづく)
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お袋七回忌の法事に帰郷(1)

(お袋七回忌法事、浄土宗来迎寺にて)

一昨日、法事の会食の席で隣り合わせになったKH氏に、「四国お遍路まんだら」正続2冊を郵送した。

午後、島田に楽水会の水彩画展を見に行く。会社の同僚だったⅠS氏から案内をもらったからである。月一、二回スケッチに行き、家で仕上げるのだと聞いた。夕方、ⅠS氏より礼の電話があり、少し話をした。

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昨夕、二泊三日のお袋の七回忌の帰郷から戻ってきた。女房はムサシの世話で、留守番で、一人で行った。三日間であったが、たくさんの人と会って話をした。

一日目、往路の京都駅で、途中下車。子供の頃からの最も古い友人、KY君と待ち合わせ、昼食をとりながら、5時間近く積もる話をした。考えてみれば、前回会ってから10年以上会っていないと思う。城崎温泉での小六の同窓会以来のようだ。その辺はKY君の話を聞いて思い出した次第で、自分はすっかり忘れていた。このブログで検索してみると、それは2005年だったから、13年になる。

55歳で仕事を終えたKY君と、65歳まで会社に係わった自分に、10年の差があるが、それぞれに色々なことがあり、様々な思いがあったようだ。共に高度成長期に職場に入り、順調な会社人生を送ってきたけれども、最後の最後に、マイナス成長の時代に突入して、会社がそれぞれ厳しくなり、辛い経験してきたようだ。それでも、今から思えば、お互いに幸せなゴールであったと思う。

第二の人生では、会社人生とはきっぱり縁を切り、KY君は何もやらないと心に決めたと話していた。付き合いも極々限定的に、隠遁生活に近い暮らし方に聞こえた。一方、自分は、同じように会社人生と縁を切り、第二の人生は全く別のことを始めようと思い、お遍路へ2度行き、本も2冊自費出版した。古文書解読は、先生と呼ばれるところまで来た。会社とは別に、色々な友人知人が出来た。

KY君の何年か前の体験に話題が進んだ。退職してから始めた、ほとんど唯一の趣味、山登りでのこと。ロープウェイ駅まで下山したところで、心室細動を起し、心臓が止まって倒れた。ところが、KY君のために用意されたように、そのロープウェイ駅にはAEDが設置されていて、客の中から医者が名乗り出てくれ、すぐに処置された。再び、心臓が動き出すまで10分と掛からなかったという。まるでAEDのコマーシャルに使えそうな、奇跡的な生還であった。(明日につづく)
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古稀同窓会 城崎温泉 招月庭にて(5)

(家山川の河川敷の大聖牛の原寸大見本)

この土曜日、今月の「古文書に親しむ(経験者)」講座で、川除けの文書を解読する。講座終了後、古文書に出て来る大聖牛(おおひじりうし)などの原寸大の見本が展示されていると聞いた家山川河川敷に、皆んなで行ってみようと思った。自分も行ったことが無いので、見学に足るかどうか、午後、下見に行ってみた。あるにはあったが、大聖牛、一基だけで、わざわざ見学するほどのものでもなかったので、見学は止めにしようと思った。見学会は出来れば、別のテーマで改めて実施したい。

古稀同窓会の続きである。随分だらだらと書いてしまった。今日で終わりにしようと思う。

二次会も終って、部屋に戻った。ホテル案内図で温泉があるのを見付け、出掛けた。無色透明の食塩泉で、癖のない温泉であった。露天湯にも浸かって上がった。部屋は古希の男5人で、さぞやいびきの大合唱と思ったが、信じられないほど静かであった。これは奇跡だと思った。もっとも、その中には、自分のいびきはかいていたとしても入っていない。

昨夜、U氏が、まだ由利氏のお墓に参っていないというので、朝、一緒に参ることにした。バイキングの朝食後、ロビーで待っていたが、中々降りて来ない。

待つ間に、同窓会には欠席だった、大阪のK氏へ電話をしてみた。昨夜、誰に聞いても、全く音信が無く、年賀状も帰ってこないから、最近の様子を知る人はなかった。一度三途の川端まで行ってきたK氏だから、元気にしているかどうか、心配であった。電話口に本人が出て来て、元気そうな声に安心した。同窓会に出るかどうか迷っているうちに、返事の期限が過ぎてしまったようだ。自分が出席と決めた時、電話をすれば良かったと思う。

この頃、乗鞍に登ってきたと話す。乗鞍はほとんど車で登れるけれども、駐車場から山頂まで、2時間ほどかかり、けっこう大変だっただろうと、自分の経験から話す。さらに、近く氷ノ山に登る。山仲間が居て、計画はお任せで、ついて行くだけだ。音信がないから、皆んなどうしているか心配していたよ。そろそろ年賀状を再開した方が良いかなぁ。近いうちに京都辺りで会おうと約して、電話を切った。

随分待たされて、U氏と由利氏のお墓に参った。K氏と電話をした話をすると、京都へはよく来るから、皆んなで逢いたいという。U氏が京都に出て来る時に、後、何人かに連絡を取って、ミニ同窓会をしようかと思った。結局音頭は自分が取るしかないか。(古稀同窓会の話は以上である)
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古稀同窓会 城崎温泉 招月庭にて(4)

(散歩道のキダチチョウセンアサガオ)

午後、「駿遠の考古学と歴史」講座へ出席した。今日のテーマは「高天神城・馬伏城と長浜城・三枚橋城 -駿遠と甲相の戦国史-」。講座の中で、講師から頼まれて、解読した「今川氏真誓状」(9月12日書き込み)が桶狭間後の今川氏の状況を説明する資料として使われた。その際に、解読者として名前を挙げられて、恐縮した。講座については後日触れる。

古稀同窓会の続きである。

二次会の席は、フリーになった。色々な人と話したと思うが、S氏とは、印象的な再会だった。仲が良かったのは小学校の頃で、小学校のそばの豆腐屋さんであった。向うから氏名を述べて声を掛けてくれたから、すぐに解った。家が近くだったこともあり、よく一緒に遊んだと記憶している。その後、接点は無かったが、子供の頃の遊び仲間として、フルネームが浮かぶのは、S氏以外には数人である。聞けば、高校卒業後、故郷出身の実業家の家で、もう一人と、書生をしていたという。明治に世ではなかろうに、虚を突かれた思いである。その実業家はそんな形で若者の学業支援をしていたのだろう。その後、市役所に永年勤めていたという。

M氏は当地の金融機関の要職にあり、未だに第一線にいるという。息子はまだ30代で引き継げないから頑張っているのだろう。自分も長く企業の資金担当だったから、金融機関の実態はよく知っている。話を合わせようと、若い頃は金融機関の宿直室で、麻雀など囲んだものだが、今では考えられないと、話を向けたが、少し話が生々しくて敬遠したようで、会話は弾まず、席を移って行った。後に遠目で見れば、両側へ女性陣(もちろん古稀)を抱え込むように話し込んでいた。まだまだ現役で、古稀になっても枯れる境地には至らず、日々ピリピリするような激務に身を削っているのであろう。

自営業の人は自分が線を引かない限り、仕事に切りがつけられない。その点、サラリーマンは年齢が来ると、きっちりと職場から退場命令が出るから、否応なく第二の人生に踏み込める。第一線のままゴールを迎えてしまったり、老いてから陥穽にはまり、晩節を汚す人を見ていると、早く引退していれば、かような困苦を受けることもなかっただろうと思う。

城崎のM氏はこのブログの熱心な読者でもある。何年か前に首の筋が骨化するという、症例がほとんどない珍しい病気に罹り、手術を受けて、後遺症もないけれども、モルモットとして医者が手離してくれず、今も年に一回、術後の経緯を観察されていると話した。M氏とは、クラスが一緒だったこともなく、どんなきっかけで親しくなったのか、忘れてしまったが、付き合いの中で、そんな話は初めて聞いた。

Kさんとは最後になってお話した。名前は母や兄からいつも聞いていたが、初めてですねというと、姪の結婚式でお話したという。後で確認すれば、花婿の叔母さんで、顔を合わせていた。あの結婚式は、全国展開のレストランチェーンの社長さんやら、但馬の作家などが参列して、度肝を抜かれたことはよく覚えているが、Kさんと話したことは上の空だったのか、記憶していなかった。失礼を誤って、近況を話した。
(つづく)
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古稀同窓会 城崎温泉 招月庭にて(3)

(散歩道のキバナコスモス)

午後、駿河古文書会に出席する。若き古書店主T氏が、久し振りに出席された。この夏は多忙を極めたが、漸く余裕が出来たので、近いうちに連絡するとの話。掛川で、珍しい武家の古文書が新たに手に入ったと聞く。駿河古文書会では、最近は知り合いがたくさん出来て、数えてみると、今日は9人の人と、挨拶だけではない実の有る話をした。これは自分にとって凄いことである。初めのころは、出席しても、誰とも話すことなく帰ることも珍しくなかったのだから。

古稀同窓会の続きである。

テーブルは一年の時のクラス別に分けられた。50人の9クラスで、一年次はまだ進路別のクラスではなかった。一年の時、何ホームで、担任が誰であったかも覚えていなかった。9ホームで担任はU先生、U氏の御母堂だった。テーブルを囲んだ人の、誰をも認識できなかった。今浦島の危機だった。それぞれ、こちらについては知っている風で、それらしい視線を向けて来る。ピンチだった。

テーブルの向いに居たY氏が一年の文化祭の話をし始めた。文化祭ではクラスごとにテーマを出して、審査に残れば、教室に展示して発表できる。自分たちのクラスは、「深海」を取り上げた。「人々の眼が宇宙に向いている現代、地球の一部でありながら、看過されている「深海」に目を向けてみよう。」コンセプトは良かったのだろう、見事に選ばれて、教室内に深海の様子を実現することになった。しかし、結果は散々だった。

半世紀経った現代でこそ、深海の様子は随分と分って来たけれども、人々の関心が向いていないということは、参考にすべき資料も極端に少ないということで、そこに気付いていなかった。海は真っ暗で、アンコウのような魚がちらほらといる、その程度の情報で、デコレーションしたのだから、結果は明らかであった。暗幕で囲い、作り物の海底生物を並べてみたが、何だか訳が分からなかった。いったい誰の発案だったのだろう。自分も良いテーマだと思ったのだが。

Y氏は、今日欠席のK氏(自分の小学校の頃からの友人)の家で、紙粘土などを作ったと語る。自分はクラブの展示にかまけて、9ホームの展示にはほとんど出なかった。色々思い出してきたが、このテーブルでの思い出話はそれだけであった。

舞台では、U氏の乾杯前の小スピーチに始まり、お土産抽選会、ホーム別のコーラスなどが進んでいた。トイレに立ったのを機会に、招月庭の厨房に勤める甥のK君に、厨房が一段落してからで良いから、顔を見せてほしいと伝言を頼んだ。中締め前に、K君が顔を出し、明朝の約束をした。
(つづく)
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古稀同窓会 城崎温泉 招月庭にて(2)

(台風一過、秋の夕空)

古稀同窓会の続きである。

城崎温泉駅頭から、送迎バスで、招月庭に向かう。大谿川に沿って遡った、町の一番奥に招月庭はあった。受付で部屋割りを教えられ、先に荷物を置いて来ようと、ホテルはどこかと聞けば、怪訝な顔で、「そのエレベーターで5階です。案内しますか?」と聞く。宿泊は近くのビジネスホテルとばかり思っていたので、そんな質問になったのだが、後で案内状を見直すと、どうやら一人部屋を希望する人だけ、ビジネスホテルに直接交渉するようにとの但し書きであった。他の人は招月庭の階上にある和室の部屋に泊れるらしい。案内状の記述で勘違いをしていた。

ロビーにはそれらしい人たちがたむろしていたが、案の定、知らない人に囲まれた感じであった。呼び掛けて、自分の名前を言う人がいるけれども、名前を聞いても、イメージが湧かない。同じクラスでも、何か印象的なイベントが無ければ、記憶に残っていない。今浦島は、ほとんどが自分の所為なのだろうと思う。高校時代の日々、何を考えて日々をおくっていたのか。一握りの友人とつるみ、他のクラス仲間には、ほとんど興味を向けていなかったように思う。

U氏がいた。ソファに座って話している姿が、カメラのピントが合うように、記憶にピントが合った。T大に進んで、そこの数学の教授になった。頭が少し薄くなった程度で、雰囲気は昔と変わらない。高校時代、ライバル視していたが、どうしても勝てなかった。範囲の決まったテストであれば、何とかなったが、実力テストでは届かなかった。飄々と話す姿は、昔と変わらないけれども、昔の方がシャープだったように思う。

同窓会が始まり、その最初に物故者の最終クラスと名前が読み上げられた。そしてみんなで黙祷を行なった。同窓会では当然ながら、相手の年齢に触れる必要が一切ない。しかし、物故者たちの時間は、死んだ時の年令で止まっている。450人の学年で40数人、70歳で一割は多い方なのだろうか。

若くして死んだ山口氏、死に顔が悔しそうだったなぁ。由利氏も50代初めでは心残りだっただろう。八街の少年院の副所長で、次の転勤時には所長が約束されていたという。葬式に出た同級生は自分一人だった。彼との往復書簡は今もどこかに残っている。長岡氏は女子大生に囲まれた写真を自慢げに話して、男どもをうらやましがらせていた。青山氏は高校時代、突っ張っていたが、自分とは素直に付き合ってくれていた。岩本氏はキャリア官僚になったばかりに、命を縮めたのだろう。医者嫌いで、最後はほとんど医療ミスに近い形で死んだ、本家の務君の名前もあった。

名前の読み上げとともに、様々な思いがよみがえった。良い奴から先に死ぬように感じるのは、彼らの時間がそこで止まっているからであろう。死者たちとの同窓会が出来れば、必ず出席するのだが。(つづく)
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古稀同窓会 城崎温泉 招月庭にて(1)

(同窓会のために用意した名刺 / 裏面)

台風18号が今夜日本海側を通るという。夕方、雨が降りそうだと、少し早めに、ムサシの散歩にでた。散歩の間は天気は持つだろうと、傘も持たずに行く。途中で大粒の雨になり、茶工場の軒下を借りて雨宿りをしたが、茶工場に生葉を納める農家の軽トラが来て、邪魔になりそうだったので、雨の中を家へ急いで帰った。玄関に傘を持った女房がいて、「雨宿りをしておれば、迎えに行ったのに。ムサシがびしょ濡れだ」という。本来、第一声では、こちらの心配をすべきだろう。ムサシはぶるっと振えば、雨は飛ぶ。

この日曜日、高校の古稀同窓会に出席した。その話を少し書こうと思う。

故郷を離れてから半世紀、会場で、今浦島状態になっては辛いと思った。だから、今日のために、息子に頼んで、名刺を作ってもらった。特に裏面に、今、何に興味を持っているのかを書き、それを話題にしようと思った。話題をつかんでしまえば、こちらのものである。そのメインは、70歳にもなって、初めて人を教える立場になった話。今年から「教授」と呼ばれるようになった。金谷宿大学で講座を持っただけのことであるが、たぶん「つかみ」はこれでいける。

京都で山陰線に乗り換える。目的地と時間が一緒だから、ひょっとして、特急で、同級生に会うかもしれないという期待はあった。一人旅も嫌いではないが、時間の過ぎるのが遅い。それとなく周囲に見ながら、山陰線ホームに向った。最初の待合室に、同級生、小学校のN学級でも一緒だった、顔なじみのGさん(女性)が見えた。向うもすぐに気付いたようで、待合室に入った。

名刺を渡す最初がそのGさんということになった。すんなりと会話に移行出来た。特急電車に乗り、引続きお互いに近況を話した。「四国お遍路まんだら ふたたび」も、持参した一冊を渡した。Gさんの場合は、名刺がなくても会話は出来たはずで、名刺の効果は同窓会会場まで持ち越しである。

案の定、あっという間に一時間が過ぎた。福知山駅で乗車してきた中に、同級生と思われる女性がいた。Gさんはよく知っているようで、挨拶している。隣り席をその女性に譲って、通路を隔てた隣に席を移した。記憶をたどって、たぶんTさんだろうと思ったが、50年のギャップに、もし間違っていてはと思い、口を閉ざし、聞き耳を立てた。「R寺の‥‥」と故郷の旦那寺の名前が出た。「Tさん!」県境を隔てた隣町から籍をR寺に移しての、越境入学であった。学区が厳格に決められていた当時には、よくあったことである。

Tさんとは、卒業後、一度故郷の駅でばったり会い、京都まで汽車旅をしたことがある。話すと、Tさんも覚えていた。当時、どんなことを話したのか、記憶に無いが、色が黒くて丸顔(失礼、当時の記憶にあったイメージである)と思っていたから、随分イメージが違った。「もっと丸顔の印象があったもので」と、印象の片方だけを、すぐに気付かなかった言い訳に使った。(つづく)
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