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「竹下村誌稿」を読む 228 行政改革 4

(女房実家の本家歴史稿)

昨日、女房の実家に、お盆のお参りに行った。そこで、前に頼んであった、本家の「吾ヶ家の歴史稿」と題した手書きの本を借りて来た。昭和二十五年当時の、当主が書き残したものだという。戦国時代から、戦後に至る本家の13代にわたる歴史で、楷書でしっかり書かれている。今やこれも古文書の範疇に入る文書である。ざっと内容に目を通すに、以前に牛尾の旧家から出て解読を頼まれた、大正時代の家系文書の内容を、一部裏付けるような部分が見られ、大変興味深く感じた。いずれ、しっかり解読してみようと思っている。

夕方、名古屋のかなくん一家が来る。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

(明治)四年七月、廃藩置県(三府七十二県)行われ、浜松県を置き、林厚徳県令となる。県下を三区に分かち、浜松、見附、掛川、三ヶ所に集会所を置く。本村は掛川集会所に属す。

同五年十月、地方行政区画を定め、県下を三大区八十小区に分かち、浜松、見附、掛川の集会所を大区扱所と改む。本村は第三大区二十五小区となる。本村及び高熊、福用、神尾、横岡、横岡新田、牛尾、嶋、番生寺、志戸呂、大代の十一村を小区の区域とす。

同六年三月、大区に区長一人、各小区に副区長一人を置き、区内の戸長を統轄す。大小区の事務所を役所と称す。

同九年八月、府県を合併し、三府三十五県となり、浜松県を廃し、静岡県に併合せらるゝに当り、県下を通じて十二大区となす。本村は第十大区に属す(小区故(もと)の如し)。この時、大迫貞清権令たり。
※ 権令(ごんれい)- 県令に次ぐ県の地方長官。明治4年(1871)、権知事を改称して置かれ、同11年に廃止された。

因って云う。この時の小区長は、判任官十二等より十五等にして、戸長は等外一等より六等なりし。
※ 判任官(はんにんかん)- 明治2年以来の官吏の身分の一。天皇の委任を受けた各大臣・各地方長官など行政官庁の長によって任命された官。高等官の下に位した。

同十二年三月、郡区町村編制法実施のより、大小区の制を廃し、各郡に郡役所を設くるに当り、榛原郡役所を静波に指定し、郡長を任ず。

十二月、榛原郡役所出張所を金谷町に置き、金谷以北町村の事務を所(処)理す。本村これに属せしが、尋(つい)で廃止す。

同十七年六月、県は戸長役場及び町村組合を定め、官選戸長を任じ、本村外十ヶ村(明治五年、区画したる二十五小区の各村)を組合い、竹下村外十ヶ村役場を置く。

同二十二年四月一日より、市町村制実施せられ、前記十一村(二十五小区の各村)を合せ、五和村を構成せり。


読書:「殺しの四人 仕掛人・藤枝梅安」 池波正太郎 著
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「竹下村誌稿」を読む 227 行政改革 3

(雷雲が覆う東の空)

夕方、雷鳴が轟き、久し振りの雷雨で、駿河の地は相当降ったらしい。各所に停電が発生しているとも聞く。遠州に属する当地は、それほど大雨にはならなかった。そろそろ秋の気配を感じる季節にはなった。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

元禄五年(1692)八月、代官野田三郎左衛門支配となる(島田)。同十二年まで、凡そ八年。

同十三年(1700)五月、青山下野守領地となる。同十四年まで凡そ二年。

同十五年(1702)七月五日、代官(窪島市郎兵衛、同作左衛門)支配となる(中泉)。正徳二年(1712)まで凡そ十一年。

宝永七年(1710)十月、本村の内、七十石四斗七升一合を分郷して、本田忠時(弾正少弼)領地となる(相良一万五千石)。
※ 分郷(ぶんごう)- 郷・村を分割すること。

正徳二年(1712)まで凡そ三年、残高百八十二石五斗四升九合、窪島市郎兵衛、同作左衛門支配たる、故(もと)の如し。

正徳三年(1713)五月十九日、分郷(相良領)は代官大草太郎左衛門支配となる(中泉新貝)。八月五日残り高、同支配所となる。これに於いて、全村、中泉代官支配となる。享保十四年(1729)まで十七年。

享保十五年(1730)八月初め、正徳元年(1712)二月小笠原長熈(壱岐守)掛川(六万石)に封せられ(武州岩槻より入部)、ここに於いて、本村、その封内となる。延享三年二月二十二日、長熈の孫、能登守重恭(山城守長庸の子)、奥州棚倉に移封せらる。この間、凡そ十七年。

延享三年(1746)九月二十五日、太田資俊(摂津守)掛川(五万三千石)に封せられ、四年(1747)三月、上州舘林より入部す。本村その封内にあり。寛政元年(1789)四月五日、資俊の子、資愛(備中守)、京都所司代となりしにより、同二年(1790)三月、当分の内、領内十四ヶ村(東手と称す)を、代官野田松三郎(島田)へ預けとなる。本村またその中に在り。四年(1792)八月、資愛、所司代を罷(や)め、五年(1793)三月、十四ヶ村引き戻しとなる。この間、凡そ三年、島田代官所の配下に存す。初め資俊、掛川に入部せしより、七世、幕末まで凡そ百二十二年、本村を領せり。

明治維新の際、藩制行われて、元年九月、徳川家達の領地陸奥を以って、三河に代ふるに及びて、家達、静岡藩知事となり、駿遠三、七十万石を統治す。

同二年、島田に静岡藩島田郡方役所を置き、志太、益津、榛原、城東、及び佐野の一部、十万石を支配す。本村その支配となる。三年二月、郡方役所を郡政役所と改む。
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「竹下村誌稿」を読む 226 行政改革 2

(金谷会館近所のコウオウソウ)

朝、名古屋の孫、かなくん家族がやってきた。今夜はパパの実家へ行く。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

(慶長)十二年(1607)三月、家康江戸より再び駿府に移り、枢機を裁し、元和二年(1616)薨去に至るまで、凡そ十年、天下の事、一に駿府に決す。これらの沿革は、国の条参照を要す。
※ 枢機(すうき)- 重要な政務。
※ 薨去(こうきょ)- 親王または三位以上の人が死ぬこと。


同十四年(1609)十二月、浜松、横須賀、掛川の三藩を移封し、徳川頼宜(家康の十子常陸介)を駿遠五十余万石に封し、横須賀に治せしむ。称して遠江宰相と云う。頼宜幼年(八歳)なるを以って、父に従い駿府に在り。駿府老中安藤直次を伝(つて)となし、掛川三万石を賜う。また駿府奉行彦坂光政(九兵衛)を頼宜に付し、直次と連署して事を行なわしむ。本村は実にその封内たり。
※ 連署(れんしょ)- 同一書面に二人以上の者が署名すること。

因って云う。光政は徳川氏に仕え長久手の役に功あり。抜きて駿府奉行となり、美績あり。後、頼宜に属し、直次と共に国政を執(と)れり。
※ 美績(びせき)- 好成績。

元和五年(1619)九月、頼宜、和歌山に転国す。これより復た幕領となる。十月、代官中野七蔵(定辰)支配(中泉)となる。寛永三年(1626)まで凡そ八年。

因って云う。代官は、老中、京都所司代、京都奉行所、長崎町奉行に属するものゝ、すべて勘定奉行の配下に属し、任地に在留し、手付、手代などを属役とし、支配内の収納、聴訟、勧農などの民政を掌る。その俸禄は普通百五十俵高とす。俸禄以外に地租中口米口銭などと称し、所定の手当を受くるの制たり。その公務を扱う所を役所と云い、また陣屋と称す。蓋し、戦時の名残れるものならん。
※ 属役(ぞくやく)- 部下。属官。
※ 聴訟(ちょうしょう)- うったえをきいて裁決すること。


寛永元年(1624)八月十一日、徳川忠長、駿遠濃五十五万石に封せられ、駿府に治す。(横須賀、掛川の二藩を転封す)本村、その封内にあり。中野七蔵代官、故(もと)の如し。三年(1626)八月、忠長、大納言に任ず。世に駿河大納言と称す。

同四年(1627)、代官福村長右衛門支配(中泉)となる。(忠長の代官)凡そ一ヶ年。

同五年(1628)、代官福村市左衛門支配(中泉)となる。(同上)同九年まで凡そ五年。

同九年(1632)九月五日、忠長故あり、領地を収めらる。これよりまた幕領となる。

同十年(1633)三月、代官遠山六左衛門支配となる。同十五年まで凡そ六年。

同十六年(1639)、代官長谷川藤兵衛(長勝)支配となる。(島田町在野田)長谷川氏は父子三代、藤兵衛と称し、元禄四年(1633)まで凡そ五十三年間、本村を支配せり。
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「竹下村誌稿」を読む 225 行政改革 1

(散歩道のピンクのキョウチクトウ)

暑さに強いはずの夾竹桃も、この暑さには、ややしおれ気味に見える。

午後、「駿遠の考古学と歴史」講座に出席した。ST先生に、南部センターの次回の解読文を渡す。まだ2ヶ所ばかり解読出来ていないが、あと二週間あるから、何とか解読したいと思う。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

      第六節 行 政 改 革

往昔、磐田の国府(和名抄、磐田郡豊国郷、訓、止与久爾とよくに)と称し、今の見附町に遠江の国府ありて、この国を統轄したりしが、政権武門に移りし以来、幾多の変迁(変遷)をなし、室町時代の末葉に至りて、中央の政令行なわれず、天下の鼎沸して殆んど統一する所なく、永禄、天正の間(1558~1593)、武田信玄、徳川家康、この国に対戦し、国内寧日なかりき。
※ 鼎沸して(かなえふっして)- 鼎の中の湯が沸き返るように、物事が混乱して騒がしいさま。
※ 寧日(ねいじつ)- 穏やかで無事な日。安らかな日。


天正十年(1582)、武田勝頼の滅ぶる。本国、徳川氏に帰す。同十八年(1590)、北条氏政の亡する。豊臣氏、徳川氏を関左八州に移し、堀尾、有馬、山内の三氏をこの国に分封す。山内氏、東遠六万石を領し、掛川に在り。本村及び付近の村落、志戸呂、横岡、大代、金谷など、皆なその領内たり。
※ 関左八州(かんさはっしゅう)- 「関左」は関東のこと。関八州。江戸時代、関東の八ヶ国の称。相模、武蔵、上野、下野、安房、上総、下総、常陸をいい、現在の関東地方に当たる。

この時、中村一氏、駿河十四万石を賜り、駿府に治す。牛尾山を切り開き、大井川を山東に通したるは、同氏の手に成功せりと云う。その後、竹下、牛尾、嶋、番生寺、横岡新田、及び金谷河原の開拓あるに至れり。

慶長庚子(慶長5年、1600年、関ケ原の戦い)後、天下の実権徳川氏に帰するや、堀尾、有馬、山内三氏を転封し、親しき所を浜松(松平忠頼五万石)、横須賀(松平忠政六万石)、掛川(松平定勝三万石)に分封す。これより先、中泉に代官所を置き、伊奈忠次代官たり。

この年、忠次、国命を請けて、田圃の境界を丈量し、本郡の図藉を修せりという。因って云う。忠次は熊蔵と称し、徳川氏に仕え、専ら民政に任じ、循吏の称あり。従五位下に叙し、備前守に任ず。子孫相継ぎ代官となり、令名を伝う。
※ 丈量(じょうりょう)- 田畑などの土地の広さを測量すること。
※ 循吏(じゅんり)- 規則に忠実で仕事熱心な役人。
※ 令名(れいめい)- よい評判。名声。
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「竹下村誌稿」を読む 224 竹下村 84

(散歩道の、水を張った田んぼにタニシ発生)

このタニシはジャンボタニシだろうか。近くに早くもピンク色の卵が見られた。

夜、一瞬どんと来た。地震と思いテレビを点けると、震源は静岡県中部で震度3と出た。我が家では、震度はせいぜい1くらいであった。地震を感じるのは久し振りである。今夜は大井川花火大会で、花火の音が遠雷のように連続して響いていた。

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「竹下村誌稿」の「竹下村」の項の解読を本日で終える。残りは、あと三分の一ほど。途中で、いったん区切りを付けようと思ったが、少人数ながら読んで下さる方もいると聞き、もう一頑張りしようと思う。何とか年内に解読が終るだろうか。

また五人組の制は、徳川時代、町村の自治機関として、寛永中(1624~1645)設けられ、隣保相助けしむるものにして、その由来最も久しく、大宝令の遺物にして、戸数五戸を以って組織したる者にて、組合内の一人を組頭、または組親と呼ぶ。組内の関係は最も密接に、吉凶相扶(たす)け、災害相救い、互いに徳義を尚(とうと)び、分限を守り、法に違うものあれば、組合員は共同の責めに任じたるものにして、町村より五人組帳を製し、組合員の遵守(じゅんしゅ)すべき法度(はっと)を記し、これに背かざる誓詞をも載せ、記名調印して領主へ提出せしものなり。
※ 徳義(とくぎ)- 人として守るべき道徳上の義務。
※ 分限(ぶんげん)- 持っている身分・才能などの程度。身のほど。


その組帳に記載せる概項は次の如く、組合員相互の義務に関する最重要なるものなり。

一 組合は親戚と同じく組中の婚姻及び養子縁組、相続、遺言、廃嫡などに立ち会うこと。
一 組合中の幼者の後見をなし、後見人の鑑定に干与し、または幼者の財産を管理すること。
一 組合中、耕作、収穫に助力すること。
一 組合員不動産書入れ、質入れ、売買などの証書に連印すること。
一 組合員互いにその品行を監督し、善を勧め悪を抑えること。
一 組合員の外泊旅行、または願い、訴訟をなさんとするものは、その旨を組合に届け出ること。
一 組合員中、租税滞納者ある場合は、これを代納するなどの義務を負うこと。
※ 廃嫡(はいちゃく)- 民法旧規定で、推定相続人の家督相続権をなくすこと。
※ 書入れ(かきいれ)- 江戸時代、抵当物件名が書かれた借金の証文。また、その抵当。
※ 品行(ひんこう)- ふだんのおこない。身持ち。行状。


組頭の職務は、庄屋または他の組より受けたる通知を組合員に伝達し、外に対しては組合を代表し、その他組内共同の事務を掌(つかさど)るものなりといえども、組合員の共同責任に関しては、他の組合員と異なりたる特別の責任なきを通例とす。

以上は竹下村に関する沿革の大要を叙したるに過ぎず。由来、本村は草創年代の浅きを以って、治乱興亡の跡、見るべきもの多からず。しかも、江戸時代、泰平の時運に属し、封建制度に制肱せられ、何ら目新しき記事を見ざりしは、甚だ遺憾とする所なり。然るに、嘉永中(1848~1855)、浦賀の砲声は三百年の惰眠を破り、戊辰の剱光は立憲帝国の基礎を固め、今や国民皆な、その慶に浴するに至れり。
※ 制肱(せいこう)- 制肘(せいちゅう)。わきから干渉して人の自由な行動を妨げること。
※ 惰眠(だみん)- 何もせずのらくらと日を暮らすこと。
※ 戊辰の剱光(ぼしんのけんこう)- 戊辰戦争のこと。
※ 慶に浴する(けいによくする)- 恩恵をうける。


読書:「山と山小屋」 小林百合子 著
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「竹下村誌稿」を読む 223 竹下村 83

(散歩道のハマユウ)

とあるお宅の庭に咲くハマユウに気付き、無断で写真を撮らせて頂いた。暑さ大好きといった花である。そういえば、この御宅は、老夫婦が引っ越してしまい、時々は見えているようだが、今や無人の家である。この頃は御近所にもそんな家がちらほらみえるようになった。

午後、掛川古文書講座へ出席する。台風13号が東へ逸れて、雲一つなく、太陽が容赦なく降り注いでいる。お昼の外気が、車の温度計によると、37度を示していた。当地ではこの夏の最高気温ではなかったか。会場は冷房が気持ちよく利き、ほとんどの席が埋まる盛況であった。講師のKT先生に、先日、菊川図書館でお話した古文書のコピーを進呈した。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

元和元年(1615)より元禄十六年(1703)まで、凡そ八十九年
 庄屋   八左衛門(初代、在職年数不明、以下同じ)、八左衛門(二代)、忠右衛門
 組頭   甚右衛門、三右衛門、惣兵衛、勘左衛門、忠右衛門、半兵衛、喜平、半三郎、次郎馬
 百姓代  八郎右衛門、源左衛門、彦三郎、金右衛門、佐次右衛門

宝永元年(1704)より寛延三年(1750)まで、凡そ四十七年
 庄屋   八左衛門(三代)、善八(四代八左衛門)
 組頭   五左衛門、彦三郎、忠右衛門、勘左衛門、助左衛門、彦八、彦五郎、三右衛門、惣左衛門、吉兵衛、善右衛門、彦兵衛
 百姓代  彦三郎、善右衛門

宝暦元年(1751)より文化三年(1806)まで、凡そ五十六年
 庄屋   八左衛門(五代)、八左衛門(六代)
 組頭   彦八、忠右衛門、権右衛門、善右衛門、五左衛門、栄助、卯之右衛門
 百姓代  又右衛門、権右衛門、斧右衛門

文化4年(1807)より慶応三年(1867)まで、凡そ六十一年
 庄屋   善右衛門、八左衛門(七代)、栄助、忠兵衛
 組頭   栄助、権右衛門、忠兵衛、林八
 百姓代  斧右衛門、喜八

明治元年(1868)より同三年(1870)まで、凡そ三年、庄屋を置かず、組頭に於いて代勤す。
 組頭   権右衛門、為三郎、彦市、勝次

明治四年(1871)より同五年(1872)まで、凡そ二年
 戸長   渡辺権次郎(組頭兼務)
 副戸長  八木為三郎(同上)

同六年(1873)より十七年(1884)まで、凡そ十二年
 戸長   八木為三郎
 副戸長  杉山彦市、金原三吉

同十八年(1885)より二十二年(1889)まで、凡そ五年、竹下村外十ヶ村組合となり、本村に村民惣代あり。
 戸長   渡辺真一
 村民惣代 八木為三郎


読書:「レインコートを着た犬」 吉田篤弘 著
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「竹下村誌稿」を読む 222 竹下村 82

(散歩道の胡麻)

意識して初めて、胡麻という植物を見た。胡麻の実は緑のさやの中に育っているのであろうか。

南部センターの「天澤寺殿三百年記録」の食事の献立の部分の解読、漸く解読に目途が立った。まだ完璧とまではいかないが、この土曜日にはもう資料を渡さねばならない。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

今、庄屋以下、各職につき簡述すれば、

庄屋は村内の治安公益を図り、現時の町村長に比すべきものにして、上司の命令を村内に伝達し、執行し、村民の争論などは努めて和解に尽力し、訴訟を避(さ)かしむ。また、上司に対して、一村を代表して、戸籍、収納、勧農、用悪水、道路、堤防、その他一切の行政を所(処)理し、村民はこれを尊重して、その命令に違背するものなく、要するに事大小となく、悉く自治の姿にて、法度に背かざる限りは、上司も干渉することなかりし。

その任免は地頭にありて、常に村治(村の治政)の善悪を監視し、若し庄屋に不当のことあれば、これを糾明し、適宜(てきぎ)進退処分せしものなり。その給料は村高によりて一定ならず。或るは村高の内、十石、または八石位の引き高あり。或るは俗謡に、「あすは旦那の稲刈り」と云うが如く、田植え、稲刈りなど、農繁の時期に、村民相互に庄屋の手伝いをなす例もありといえども、本村は、高一石に付、米一升を給せる定めなりし。

また庄屋の交替あれば、代官所へ、左の如き書面を届け出でたりと見えたり。

       恐れながら書付をもって御届け申し上げ奉り候
私父、八左衛門儀、これまで庄屋役相勤め罷り在り候処、病身に付、御願い申し上げ、当丑正月、則、退役仕り候。後役として、同月私へ仰せ付けられ候に付、この段、書付をもって御届け申し上げ候、以上。
  寛政五年丑二月        竹下村庄屋    八左衛門 ㊞
      新村伝五右衛門様(渡辺氏記録)


組頭は庄屋を輔(たす)け、村政を行なうものなり。元五人組の筆頭なりしが、後には村民中淳良にして材幹あるものを推撰(推薦)して地頭より申し付けたるものなり。組頭は年貢米の桝取りをも兼帯し、給米は高一石に付三合五勺の定めなりし。
※ 淳良(じゅんりょう)- すなおで善良なこと。
※ 材幹(さいかん)- 物事をてきぱきと処理する才能。
※ 桝取り(ますとり)- 江戸時代、年貢米を廻米して納入する場合に、呼ばれた枡廻し業者。


百姓代は百姓の総代にして、村内の高持の内より、一人もしくは二人を選挙し、常に庄屋と村民の間に立ちて、村治の円滑を計り、また村費の割付などに立ち合いたり。給料の定めなきにより、年末に至り、鼻紙代として、村費より多少の手当をなせり。
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「竹下村誌稿」を読む 221 竹下村 81

(散歩道のランタナ)

和名を七変化(シチヘンゲ)と呼ぶ。花の色が次第に変化することに由来する。中南米が原産で、帰化植物として世界中に定着し、世界の侵略的外来種ワースト100に選定されている。

夕方、洗濯機の修理(ギヤモーターの取替)終る。メーカーのサービスセンターから派遣されてきた人だったが、聞けば、個人経営で、いわば個人タクシーのようなもののようだ。ここからなら、新東名で静岡へすぐに帰れるが、この後、まだ藤枝に寄るから、今日は遅くなると愚痴る。新東名が出来て、距離感覚がまた変わってしまったようだ。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

(明治)二十二年二月十一日、国家統治の根本法則たる、帝国憲法を発布し、明年十一月、帝国議会開会せられ、立憲政治の緒(ちょ)に就くに至れり。四月一日より、地方自治の原則たる市町村制実施により、施政の一大革新となり、行政区画を定めて、本村外十ヶ村(十七年組合の十一村)を網羅し、五和村と改め、従前の村名は大字と称せしめ、役場を本村に置き、村長及び村会議員を公撰す。これに於いて自治政、始めて行わる。

按ずるに、元和元年(1615)、本村開創より、明治二十二年、自治区成立に至る、松風村雨二百七十五年、その沿革の大略は前に叙するが如し。而してその村治に参与せし庄屋、組頭、百姓代などは、何れも皆な名誉職にして、村内由緒あるもの、若しくは名望あるものゝ中よりその撰に当り、或るは一代限り交替する事ありといえども、概して草分けの功あるものによりて、庄屋を世襲せしものゝ如し。

庄屋は古え庄園の事務を執りし、庄司、庄官などの遺構にして、江戸時代に於ける一村の長なり。組頭は五人組の制により、組内を代表したるに過ぎざりしが、世の推移に伴い、別に専門の組頭、及び百姓代各一人、若しくは二人を置きて、庄屋を補佐し、庄屋事故ある時は、組頭、百姓代その職務を代勤す。庄屋、組頭、百姓代、所謂村方三役、人は略して村役人と云う。総て人民より出す。書付、宗門帳などには、必ず連印する規定なり。

初め、幕府、諸侯を目するに、大名、小名と云い、寛文以後には国主、領主と云うと云えり。而して、幕府の直轄地を公領または大領とも云い、諸侯の封土を私領と云い、旗下の采地を知行と云う。
※ 旗下の采地(きかのさいち)- 旗本の領地。

地方の行政は、諸侯の領地にありては、各藩任意に法度を定めしを以って、その制度も区々(まちまち)なりといえども、大抵、幕府直轄地と大同小異にして、即ち、町に町奉行ありて民政を掌り、郡村に代官を置き事を監せしめ、村に名主、組頭、百姓代(町に年寄、町頭あり)ありて、町村一切の行政を処分す。

この名主は一に庄屋と云い、古昔の名主とは同じからず。或るは関西に庄屋と云い、関東に名主と云い、西国に別当と云いしが如く、その称呼、一定ならずといえども、要するに町村の長(おさ)でありしは、同一なりとす。庄屋の上に大庄屋あり。また数村を組み合わせ、目付、郡奉行、郡代官など置くもあり。その職権に大小こそあれ、皆な江戸時代、村役人の一なり。これらは地頭より苗字帯刀を許され、士分の資格を与えられたるもの多し。
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「竹下村誌稿」を読む 220 竹下村 80

(散歩道のタカサゴユリ)

洗濯機が故障し、今日、メーカーのサービスセンターから来たが、モーターの型式が違ったと言い、明日また来ると、帰った。

「天澤寺殿三百年記録」の解読を、一日していた。いよいよ難物の、年忌に出す食事の献立に入り、悪戦苦闘している。全てを解読するのは難しいかもしれない。ただ、この解読をもとに、来年再現をしてみるらしく、誤読をすれば、とんでもない料理が出来てしまいそうで、怖い。しかも、テレビ取材も入るらしいから、なおさら責任重大だ。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

(明治)十三年十月二十六日、榛原、佐野、周智の各郡に亘り大雹(ひょう)あり。秋獲(秋の収穫)皆無となる。この日午前三時より轟々(ごうごう)たる雷鳴とともに、閃電止まず。四時より、東北の烈風を起して、。降雹十五分間、甚大なるは直径一寸五分、重さ五十目、小なるも直径五、六分あり。堆積すること二、三寸、瓦を破り、枝を折り、野禽(たお)れ、農産物の被害少なからず。黄熟せる稲穂は悉く打ち落し、一粒を残さず。本村被害もっとも甚だしく、地主としては殆んど小作米を収めたるもの少なくて、依て田租は十ヶ年分納となる。
※ 閃電(せんでん)- ひらめく電光。稲妻。
※ 野禽(やきん)- 野原や山にすむ鳥。野鳥。


されど、小作人中には落穂を拾い取りたるものは、非常の手数を要したれども、平年に譲らざる収穫ありしものもありしと云う。童謡に、

  お雹さん、私の代にも、もう一度、孫子の代にも、二度も三度も

と云うにても知るべし。按ずるに、昔より大なる雹の降りしことは、太平年表に、慶安二年(1649)五月十三日、川越に大雹降る。その重さ、二、或るは四十目とあり。また徳川十五代記に、明和六年(1669)九月二日、京都に大雹あり。大きさ拳(こぶし)の如しとありて、その例に乏しからずと云うべし。
※ 斤(きん)- 一斤=600グラム。

この年、諸物価大いに騰貴し、米一石の価、拾円余となる。蓋し西南の役、不換紙幣の増発に原由せしものなり。依って政府はこれを救正せんとし、年々紙幣の銷却に務めしかば、同十六、七年の頃に至りては、金融必迫を感じ、物価旧に復し、米価の如きも、一石五円五拾銭内外となる。
※ 原由(げんゆ)- 事の起こり。みなもと。原因。
※ 銷却(しょうきゃく)- 償却。借金などを返すこと。


同十七年六月、県の達しにより、町村組合を定め、七月本村及び、高熊、福用、神尾、横岡、横岡新田、牛尾、嶋、番生寺、志戸呂、大代の十一村組合役場を、本村に置き、竹下村組役場と称し、幾らもなく竹下村外十ヶ村役場と改む。この時、渡辺真一戸長(官撰)を拝命せり。

同年九月十五日午後四時、暴風雨あり。村内半潰家数戸ありて、備蓄儲蓄法により小屋掛け料の救助を受くるに至る。田畑の作物約二割を減ず。
※ 備蓄儲蓄法(びちくちょちくほう)- 明治13年(1880)に出来た、災害救助法。政府が財源を拠出して、災害時の食糧供与、小屋掛け料、農具や種もみ料などの救助を行う。
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「竹下村誌稿」を読む 219 竹下村 79

(土手のヤブマオ)

花が少ない今、地味な花である。ヤブマオを見た土手は、我が家のすぐ隣りの大代川との間にある細い川の土手である。この川が「竹下村誌稿」にいう、長田川だと聞いた。長田川は、この先、代官町で大代川へ合流する流れと、さらに金谷河原の方へ続く川(新堀川)に別れる。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

(明治)十二年三月、郡区町村編制法実行せられ、町村に戸長を置く。四月、八木為三郎本村戸長申し付けらる。

同十三年四月、大代川逆水防禦のため、長田川尻へ圦樋を再設せり。上司へ差し出したる願書案は、
※ 圦樋(いりひ)- 水を引き入れたり出したりするために設けた水門の樋。

      圦樋再設願い
 字長田川尻                      榛原郡竹下村
一 圦樋一艘木造    但し、長さ三間   内法   高さ 四尺、橫壱間

※ 内法(うちのり)- 容器・管・構造物や2本の柱の間などの内側のさし渡し寸法。

右は、大代川に接続致し居り候、川筋にこれ有り。往昔より圦樋取り設け、大代川の逆水を防禦仕り、破損の節は時々修繕を加え、保護致し来たり候処、去る慶応二丙寅年(1866)、大代川大水にて、右圦樋流失仕り候処、その節、多分の堤防費など賦課相成り候に付、圦樋再設の儀、行き届き兼ね、逐年民費相嵩(かさ)み候に付、自然、等閑(なおざり)に打ち過ぎ罷り在り候処、爾来、大代川屡々(しばしば)大水これ有り、為に砂礫を押し出し、川床益々高張り、従って逆水増加致し、長田川の水脈は流るゝに所なく、逆水とともに満漲し、遂に堤防を潰決するもの数十回これ有り。
※ 逐年(ちくねん)- 年がたつにつれて。年を追うごとに。年々。
※ 爾来(じらい)- それからのち。それ以来。
※ 潰決(かいけつ)- 堤防などが切れて水が流出すること。決壊。


昨年の如き、已に十数回の堤防を破損し、数町歩の田方を害し、今に堤防修築仕らず居り候。縦令修築をなすも、大代川の逆水を防禦せざれば、夏時に至り、一朝大代川大水の節は、又々破損するは必然の事にして、徒労に属するのみ。目今に於いては、冬期といえども、降雨あれば、逆水滔々として田園に侵入し、これがためにその損害を被るもの、村中その半ばに居り。
※ 目今(もっこん)- ただいま。現今。

若し、今これが再設を怠ることあらば、本年の如きは、田方植え付け方出来難きほどに立ち至り、勢い黙止し難き場合に差し逼り候間、村中協議の上、圦樋再設相成り候様、御許可成し下されたく、これにより別紙絵図面相添え、流域村保証を以って願い奉り候なり。(絵図略す)
   明治十三年四月 日           右村々民惣代名 ㊞
右願いの赴き、至急御許可相成りたく、副(そ)え願い仕り候なり。
                       右村戸長名   ㊞
                       右流域村戸長名 ㊞
                          (渡辺氏記録)


右の如くその筋の許可を経て再設せしが、大正二年、腐朽せしにより、石水門に改築せり。


読書:「あやかし草紙 三島屋変調百物語伍之続」 宮部みゆき 著
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