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ボロネーズと藤田まさと

(榛原郷土資料館前の藤田まさと銅像)

静居寺の牡丹を見たあと、牧之原市榛原の「東光寺の長藤」を見に行くことにしていた。その前に、女房のお勧めで、はなみずき通りのパスタのお店「Long Reef」に行って昼食を摂った。パスタを頼む段になって、カタカナのメニューでは想像が付かなかった。もっともスパゲティで知っているのはナポリタンとミートソースぐらいだから、解るはずがない。「このボロネーズというのはどんなもの?」と聞くと「ミートソースを炒めたもの」との返事。なんだか判らんが、ミートソースならお馴染みなのでそれを頼んだ。出てきたスパゲティはほぼ想像通りだが、上に乗ったソースがミートソースほど赤くなかった。

帰ってからネットで「ボロネーズ」を検索した。イタリア北部の都市ボローニャのパスタ料理で「ボロネーゼ」ともいう。後にアメリカへ渡ってミートソースになる。ミートソースとの違いは幾つかあったが、自分に判ったのはトマトの量が少ないこと。だから赤くなかったのであろう。とにかく美味しく頂いて店を出た。

牧之原市榛原に向かう途中で「東光寺」を探したが判らない。牧之原市榛原庁舎近くに榛原郷土資料館があったので、「東光寺」の情報を求めて入ってみた。

建物脇に藤田まさとの銅像と石碑があった。案内板によれば、「旅笠道中」「明治一代女」「麦と兵隊」「岸辺の母」「大利根月夜」「傷だらけの人生」「浪速節だよ人生は」などのおなじみの歌の作詞で知られる、作詞家の藤田まさとは、明治41年、榛原郡川崎町細江(現在の牧之原市細江)に生まれ、昭和57年74歳で亡くなっている。

榛原郷土資料館の建物は、元は旧専売公社の事務所だったという。館内に入ると、遺跡からの発掘品と並んで、先日見た勝間の観音堂の経石や勝間田城跡の発掘品が展示されていた。経石については勝間田会館で見た写真と説明文だけで、現物は展示されていなかった。新築がなった観音堂に戻されたのであろう。経石のことを幾つか質問をしてみたが、係りの男性から満足する話は聞けなかった。めったに見学者がいないのかもしれないが、一番最近の話題なのだから、もう少し情報を持っていてほしいと思った。勝間田城跡については、これから調査が進めば国の史跡になると話してくれた。
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静居寺の牡丹

(静居寺惣門)

今日は祝日、「緑の日」改め「昭和の日」である。4月29日は昭和の時代には「天皇誕生日」であった。平成になって「緑の日」になり、今年から「昭和の日」に改まった。「緑の日」は5月4日に引っ越した。この事実は昨日、初めて知った。

昭和の人である自分が「昭和の日」の制定に反対な訳ではないが、国会で自民党と民主党が賛成すると、国民に周知されないうちに新しい法律が出来てしまう。せめて民主党が反対して、自民党が強行採決にでもなれば、いやがうえにも周知されるのだが。

昨日午前中、甘夏の収穫後、女房と出かけた。まずは島田の静居寺(じょうこじ)に牡丹を見に行くことにする。島田バイパス旗指インターを降りて山側に入った所に静居寺はある。十七世紀後半に京都から移建されたと伝わる、静居寺惣門は県の有形文化財(建築物)に指定されている。参道にスギの巨木が2本あり、この寺の歴史を示していた。山門を入った参道の両側に牡丹が植えられ、花はやや盛りを少し過ぎていた。

立てば芍薬 坐れば牡丹 歩く姿は百合の花

昔から美人を称える慣用句である。先日クイズ番組を見ていて、この慣用句の意味をはじめて知った。(この歳になって初めて知ることが多い)まず芍薬は草で、牡丹は木であること。芍薬は縦に真っ直ぐ茎を伸ばして花を付ける。牡丹は横に広がって葉群を成し、豊かに花を付ける。一方、百合は風にゆらゆら揺れるさまが美しい。つまり、三つの花の特徴をそれぞれ美人の立姿、坐り姿、歩き姿にたとえて称えたものであった。


(静居寺の牡丹)

ピンク、黄、赤、紫、白と、色とりどりの牡丹の花が咲いていた。牡丹ほど豊かな花は無いのではないか。中に何本か芍薬の株があったが、まだ蕾が固く、牡丹よりも花期が遅いようだ。木である牡丹は去年の幹の途中から今年の芽が出ているが、草である芍薬は地面から茎を真っ直ぐに伸ばし、そのてっぺんに蕾をつけている。木と草の違いが良くわかる。

牡丹の花を堪能して静居寺を後にした。
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「はりねずみの道」を読む

(青木奈緒著「ハリネズミの道」)

先日、図書館で書棚を見ていて、「青木奈緒」という著者名に引っ掛かった。この著者はたしか幸田文の孫に当たるのではないかなと思い、一冊借りてきた。「ハリネズミの道」という本であった。

明治の文豪、幸田露伴を曽祖父に持ち、随筆家の幸田文を祖母に、母親の青木玉もエッセイストである。曽祖父-祖母-母-娘と面々と続く作家の血筋である。

曽祖父の幸田露伴は明治の中頃から大正・昭和の初めに活躍した文豪で、尾崎紅葉とともに「写実主義の尾崎紅葉、理想主義の幸田露伴」と並び称され、「紅露時代」と呼ばれた。といっても、幸田露伴の作品は「五重塔」ぐらいしか読んでいない。

幸田文は父露伴のことを書いた随筆が始まりで、その後「流れる」「黒い裾」など、小説家として活躍した。といっても自分が読んだのは晩年の「崩れ」とか「木」といった随筆だけである。

青木玉は代表作の「小石川の家」など身辺のことを書いた作品が多い随筆家である。実は手には取ったことがあるが、まだ作品を読んだことがない。

青木奈緒は学習院大学文学部ドイツ文学科・同大学院修士課程卒で、1989年オーストリア政府奨学金でウィーンに留学し、以後、通訳、翻訳などの仕事をしながら約8年間、主にドイツ・フライブルクに滞在した。

「ハリネズミの道」は最初の一年間の留学の体験を書いたエッセイである。ドイツの小さな町の留学生用の寮での日々が書かれている。日本と違って男女が混成の家庭的な寮ながら、節度をもった留学生たちの生活を冷静に記している。

この本を中国へ飛ぶの飛行機の中で読んだ。印象に残った部分として、唯一の日本人として、心に神を持たないことを聞いて「神様がいなくて寂しくないか」と聞かれるところとか、動物保護団体に所属している女性に「日本人はお金持で食べるものは何でもあるのに、どうして鯨を食べるのだ。鯨がそんなに好物なのか」といわれなき詰問をされるところなどである。

若い女性が一人異郷にいながら、これほど覚めた目で対象を観察できるのはやはり才能なのであろう。文筆の才能は遺伝的なものなのだろうか、それとも家伝のように脈々と伝えられるものなのであろうか。
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藤枝に居たナガサキアゲハ

(ツツジに止まるナガサキアゲハ)

藤枝の蓮華寺池公園に藤の花を見に行った先週の土曜日、サンドイッチを食べた藤棚のそばに、ツツジが咲いていた。そこに黒いアゲハチョウが飛び交っていたので、蝶を写真に撮るのは難しいんだと女房に話しながら、何枚か写真に撮ってみた。

帰宅後、写真を見てみる。余り上手に撮れてはいないが蝶の姿は確認できた。クロアゲハなんだけど何か少し違う。クロアゲハにしてもカラスアゲハにしても、後翅(うしろばね)に尻尾のような尾状突起がある。ところがこのアゲハチョウにはその尾状突起がない。翅が傷ついて取れてしまったことも考えられるが、翅の他の部分はきれいで傷ついているようには見えない。

日本に生息する黒いアゲハチョウは、クロアゲハ、オナガアゲハ、モンキアゲハ、カラスアゲハ、ミヤマカラスアゲハで、いずれも尾状突起がある。日本に生息して唯一尾状突起のない黒いアゲハチョウに、ナガサキアゲハがいる。

ナガサキアゲハの名前は、1823年に来日したドイツの医師で博物学者のシーボルトが長崎で最初に採集したことに由来し、生息域が長崎に限られているわけではない。図鑑によると、生息域は日本でも近畿地方以西から南西諸島であり、幼虫がミカン科の植物、とくに栽培されているミカン類の葉を好んで食べるという。しかしミカンの産地ながら、静岡県は生息域には入っていなかった。

ネットで調べていて、大きな発見をした。このナガサキアゲハは温暖化の影響を受けてその生息域を広げているというのである。静岡県にも2000年頃からナガサキアゲハ発見の情報が相次いでいる。

そこでもう一度写真をよく吟味すると、翅の模様がナガサキアゲハのオスの特徴を示している。特に前翅の肩の赤い斑点はナガサキアゲハ雌雄共通の特徴である。ナガサキアゲハのメスは前翅全体に白っぽく、後翅に白い斑点がある。

当家の裏の畑にもミカンの木が数本あり、無消毒でアゲハチョウの幼虫を見つけたこともあるから、ナガサキアゲハもいつかやってくるかもしれない。
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静寂な西湖の午後

(静寂な西湖湖畔)

月曜日の朝、成田空港で杭州の気温が摂氏10度と標示されていた。午後到着した杭州も、天候は曇り、気温は摂氏17度にしか上がっていなかった。この季節にどういうことだろう。一ヶ月前に訪中したときは摂氏29度まで上り、上着を脱ぎたいほどの気候であったのに、季節が戻ってしまった。話に聞くと前々日は摂氏30度だったのが、前日大雨が降り、急に冷えたという。まあしかし一番心地よい気温である。

杭州にて、商談の場所に、西湖のほとりの浙江西子賓館の庭が指定されていた。車で浙江西子賓館に入ろうとすると、軍服に誰何された。茶館の庭で約束があると断われば、別に咎められることもないのだが緊張する。通訳兼運転手のR君が話すに、自分もここに来るのは初めてだ。中国の要人が使うホテルで、警備する制服は軍人だと言う。なるほど建物前で立哨する軍服は直立不動であった。

浙江西子賓館は、ネットで調べたところ、かつて毛沢東の別荘だったといわれるホテルである。中国首脳や外国の要人もここで接待を受けた場所だという。現在は少し料金が高いが誰でも泊れるホテルになっている。しかし軍服が立哨する敷地には訳知りの人しか入ってこないため、敷地内に人影はほとんどなかった。


(雷峰塔と浙江西子賓館)

浙江西子賓館の軒が反り上がった特有の建物の背後には、山上に西湖十景の一つ「雷峰夕照」で知られる雷峰塔がそびえている。昔の雷峰塔は1924年に崩壊し、長らく廃墟だったが、2002年に現在の雷峰塔が再建されて新しい観光スポットとしてにぎわっている。一度、雷峰塔には登ったことがある。

湖畔の芝生には白いテーブルと椅子があり、そばの茶館からお茶を運んでくれる。何時行っても人々々の西湖の湖畔に、こんな静かなところがあった。しばらく戸外で打合せをしたが、風が冷たくて堪らず茶館に移動した。
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音、六景

(蓮華寺池公園のタンポポと綿毛)

24時間、耳は閉じていることはないから、色々な音が聞こえている。ただどんな音も意識しなければ、右から左へ通り過ぎるだけである。ある時ふと音が心に引っ掛かった。それから注意して聞いていると、音の不思議さ、面白さに気がついた。

藤枝蓮華寺池公園では、藤枝ダンスフェスティバル会場の野外音楽堂に鳴り響くダンス音楽に、女性が連れてきた愛犬が反応してしまった。犬の遠吠えは人と暮らす前、野生時代の習性の残滓である。普通は仲間の遠吠えに呼応して長く吠える。今でも近所の犬やお昼のサイレンに反応するのはよく聞く。しかし、この犬は激しくリズムを刻む音楽に反応してしまった。いつもの遠吠えでは対応できず、短い吠え方で対応するがリズムが合わない。止めれば良さそうなものだが、本能が目覚めてしまったから止まらない。引き付けを起こしたように鳴き騒ぐ様子に、飼い主は観客席から離れた場所に連れ出して、何とか落ち着かせようとした。犬も辛かっただろうが、静かになるまでにしばらくかかった。

日曜日の明け方、雨音で目が覚めた。雨が激しく降っていた。女房はもう起きたようだ。枕もとのすぐ外で、雨だれの音がせわしなく落ちる。その音がときどき不思議な響きを立てる。これは水琴窟の響きである。どこに落ちた雨だれがどこで響いているのか、雨が止んでも確認は難しいだろう。確かに聞こえているのだが。

成田に向かっている。総武線の加速する音に線路の切れ目の振動音が重なって、蒸気機関車の加速時の音に似ている。多分地下から地上へ出る坂道を登っているのであろう。頑張れ、頑張れ。

一泊した成田のホテルで、本を読んでいて、何かの気配音に気付いた。やばい、お風呂にお湯を溜めていたのを忘れていた。バスタブからお湯がひたひたと溢れていた。バスタブのすぐ外側に排水溝があるから、洪水にはならなかったが、ひやひやである。

中国の空港で中国語の放送が頻繁にされる。意味は判らないが、中で「とんちん‥‥」という言葉の響きがそこだけ目立って聞こえる。昔から気になっていたが、今回、通訳に聞いて見た。「とんちん」は東京のことでしょう。なるほど東京のことであれば何度も出てきて不思議はない。

中国の宴会、「乾杯(かんぺい)」とコップを上げられても、酒が弱い自分に乾杯は無理。「随意(ついい)」と言い返す。「ノーノー乾杯」、「随意、随意、随意」。悔しいけれど酒が弱いのだから仕方がない。「随意」は、飲む量は意のままでいいという表現だが、「ついい」を繰り返していて、先日無くなった植木等の「スーダラ節」を思い出してしまった。「♪ついついつい~たららった、♪つらつらついついつい~」もちろん元は「つい」ではなくて「すい」だが、「随意」は歌の気分にぴったりだ。

土曜日から火曜日までの4日間で聞こえた音から拾ったものである。無意識に聞き流している音も、意識して聞くと面白い。
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Y社の超微粉末茶

(Y社の超微粉末茶)

昔、静岡県の中小企業指導センターで、若手経営者の経営研究会が組織され、何年か継続されて、自分も会員の一人であった。経営研究会の会員が段々社長になっていき、組織はやがて終了したが、そのときの会員で、浜松で自動車(主に二輪車)用の部品を製造しているY社の社長Kさんに、先日書き込んだ銀行支店長歓送迎会のパーティ会場でお会いした。

お互いに歳を取ったと話しながら、銀行の担当からベニフウキの話を聞いていたので話題を向けてみた。うん、そうそう、ベニフウキね、あれはいいよ、とベニフウキの話になった。K社長は多分花粉症歴が長いのであろう。花粉症に効くと聞いて、静岡のネクト(ベニフウキに早くから取り組んでいるお茶工場)からベニフウキをもらい飲んでみたら、30分で効果が出て大変良く効いた。これはいいと思い、さっそく三方ヶ原(浜松近郊の茶生産地)の茶農家に頼んで、ベニフウキを作ってもらった。

自分もベニフウキを鹿児島の会社の茶園で作ってもらっている。それを子会社のお茶屋さんで販売している。巷には他のお茶を混ぜて増量するような紛い物が多くて、ベニフウキの評判を落とすのが心配だと話す。

K社長は、自分もそれを心配しているが、自分で作っているから間違いがない。さらに、粉末にしたほうがいいだろうと、試験場の山本万理さんにも相談して、粉末にする機械まで設計して作った。最小200ナノメートル(0.2ミクロン)の微粉末にまで出来て、冷たい水にもさっと溶ける。舌にざらつくこともない。粉末茶の販売もしているので、一度、お茶を送るから評価してみてほしい。

さすがに優良企業の経営トップで、良いと思ったら行動が早い。お話の中にあった粉末茶のサンプルが20日のお昼前に4種類送られてきた。

    超微粒子粉末緑茶 メチル化カテキン含有 ベニフウキ スティックタイプ0.6g×25包

    超微粒子粉末緑茶 スーパーミクロン健康緑茶 1.5g×20包

    スーパーミクロン プラスSOD 無添加 50g

    スーパーミクロン プラスSOD DR 無添加 50g


さて、これから飲み比べて評価してみなければなるまい。

  *  *  *  *  *  *

3日ほど中国に行って、今夜帰ってきた。その行き帰りに上記の超微粒子粉末のベニフウキを飲んでみた。中国には花粉症は無いので、前後の日本移動中に水に溶かして飲んだ。もう花粉症も終わりに近いから、もう一つはっきりしたことが言えないが、症状は出なかったから、効いていたのであろうと思った。
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今、考えている その14

(勝間田城跡のヒメハギ)

宗教的な修行もスポーツのハードな練習に通じるところがある。修行は悟りを開くために行う。30年座禅をして手足が萎えてダルマさん状態になった達磨大師、インドでは横になって休むことを一切絶った行者もいる。断食を何日も行う行者もいる。

ここでは比叡山の千日回峰行のことを取り上げよう。7年間で一千日、一日30km以上の山道を走るようにして回る。平らな道を30km、歩くだけで6、7時間かかる。登ったり下ったりの山道を、天候や体調がどんな状態であっても、駆けるように巡る行である。その7年間の予定を書くと、めちゃくちゃに厳しい行であることが判る。

    1年目 1日30キロを100日

    2年目 1日30キロを100日

    3年目 1日30キロを100日

    4年目 同じく30キロを200日

    5年目 同じく30キロを200日、9日間の“堂入り”

    6年目 1日60キロを100日間

    7年目 1日84キロ“京都大廻り”を100日、1日30キロを100日

        以上で満行となる。


満行すると行者は大阿闍梨の称号を与えられ、生き仏とあがめられる。一種根性スポーツの練習のも通じる荒行である。

どうしてこんな荒行を敢えて行うのであろうか。それは悟りの境地に入るためである。悟りとは何なのか。哲学的な難しい話はここでは避けて、こんな風に言ってしまおう。悟りとは一種脳内物質を出して、法楽を得ることである。一度そういう境地に達することが出来れば、人は脳内物質の出し入れが自由に出来る。つまり悟りの境地とはそんな状態のことだと考える。

信長が、甲斐の恵林寺を攻めたとき、焼討ちに遭いながら、快川国師は「心頭滅却すれば火もまたすずし」と豪語して、従容と火中に没した。生きながら地中に埋めてもらい、お経を唱えながら、お経が途絶えたときが入寂した時となるとして、仏となった高僧もたくさんいた。つまり悟りの境地に入れば、火中も地中も法楽の中で、あらゆる苦痛から超越できる。

悪名高きOという宗教法人があった。彼らが目的としたことも、修行により悟りを開くことであった。悩める若者たちが群れを成した。ある時期まで、まじめに修行をしようとしたのだと思う。しかし、指導者の中に誰一人、本当の悟りを開いた人は居なかった。いわば危ない素人集団で、無意味な荒行に人が死んだ。彼らは修行に本来そぐわない、洗脳や麻薬などを取り入れてしまった。半端な科学知識をもてあそんで、オカルト教団を作ってしまった。

宗教的な修行には、経験豊かな指導者がいないと、大変危険なことになる。
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「国家の罠」を読む

(「国家の罠」佐藤優著)

「国策捜査」という言葉がある。国の進む方向を変えたり、旧体制を排除しようとするとき、最も影響が効果的な政治家を血祭りに上げて、国の進むべき方向を国民に示す。具体的にはその政治家を逮捕し、とにかく罪状を作っていく。もちろん冤罪や違法捜査は法治国家には許されない。法律は変えなくても、今までは罪にするほどの違法性はないと目こぼししていたものを、違法性の基準を下げることで網に引っ掛ける。「国策捜査」に引っ掛かったものは、どんなに抗っても逃れることは出来ない。

小泉政権が出来て、論功行賞として、田中真紀子外務大臣が成立した。「人間には、敵か、家族か、使用人の3種類しかいない」と公言する真紀子女史だから、自立性の高い外務官僚とうまくいくはずは無い。外務官僚との確執に加えて、政治家としては珍しい外務に活動の中心を置き、外務大臣の頭越しに活動していた鈴木宗男代議士とも犬猿の仲となり、田中真紀子、鈴木宗男両氏の影響力を同時に排除しようとする、外務省中心の勢力によって、田中真紀子外務大臣は更迭され、鈴木宗男代議士は背任の疑いで逮捕された。折しも、相手国の政治家との個人的な関係を築いて外交を推し進める手法が行き詰まり、方向転換が目指されていた渦中に、その権化ともいうべき鈴木宗男代議士に司直の手が伸びた。

「国家の罠」の著者はロシアと個人的な関係を築き、ロシア外交を裏で操るとして、外務省のラスプーチン(注)と称されていた、佐藤優という外交官である。鈴木宗男代議士にくっ付いてロシア外交の一端を担っていた著者は、鈴木宗男代議士に連座して背任の罪で500日を越す勾留生活をしてきた。

    (注)ラスプーチン(1872頃-1916) 帝政ロシアの宗教家。シベリアの農民出身で、各地を巡礼し、皇太子の病気治療によりニコライ二世と皇后の信任を得て政治に関与し、権力を振るう。反対派貴族に暗殺された。怪僧の異名をもつ。

担当検察官も、もともと検察がハードルを下げて作り上げた国策捜査だから、個人的に罪を問うという意図は少なく、起訴することでほとんど目的は達成する。判決も執行猶予が付いて終ってくれればよいと考えられていて、変に突っ張られたり、傷ついて自殺されるようなことがあるのが一番困ることなのだと語る。

「国家の罠」は検察の特捜の活動に関して、自分が抱いていた幾つかの?に答えをくれた。もう一つの大きな?は誰が特捜の活動を操っているのかという点である。時の官邸なのか、主流の役人なのか、検察の上層部なのか。
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蓮華寺池公園、藤まつり

(藤まつりの蓮華寺池公園)

今日土曜日、蓮華寺池公園の藤まつりを見に行った。天候はくもり、今朝方は雨がザーと来て、女房が急いで洗濯物を入れた。島田のOさんに自園の甘夏を届けた後、今日は藤枝の蓮華寺池公園に藤を見に行こうと女房が言う。もちろん反対する理由は無い。

途中でサンドイッチを買って、蓮華寺池公園には12時半に着いた。公園脇のもと西高校があった空地が駐車場になっていて、駐車料を500円払った。女房はすぐに「高い~」と反応した。

蓮華寺池公園周辺では今日から“藤まつり”で、様々なイベントが催されるようだ。藤枝市が藤を市の花にするのは当然のようだが、藤の花が目立ったから「藤枝」という地名がついたのか、「藤枝」の地名にちなんで藤の花を町興しにしているのか、もう一つはっきりしない。しかし現在は町じゅう、藤の文字や絵だらけである。中でも「藤まつり」の幟りが目立つ。

蓮華寺池公園を今まで訪れたときは時計と反対回りに巡っていたから、今日は気分を変えて時計回りに巡ることにする。散り始めた八重桜の下を歩きながら、女房は逆回りに少し違和感があるようだ。人間の習性って、よく調べると面白いかもしれない。


(静かな蓮華寺池公園の藤棚)

紫の藤、白い藤は満開に近かった。しかしたくさん植えられている見栄えのする長藤は咲き始めたところであった。一番奥まった藤棚の下に石のテーブルとイスがあり、そこまで足をのばす人は少なく、エアポケットに入ったように静かだった。そこで持参したサンドイッチを食べた。その間に厚い雲から陽射しが出てきた。ゆっくりと時間が流れた。


野外音楽堂の藤枝ダンスフェスティバル

少し先の谷間にある野外音楽堂では、藤枝ダンスフェスティバルが行なわれていた。この大音響が一つ山を隔てた藤棚の下では全く聞こえてこなかった。滝の広場前のテントの中では、3人の藤の里観光大使の「藤娘」たちが背中を見せて軽食中であった。蓮華寺池公園は花いっぱいの昼下りであった。

その後久しぶりに川根温泉「ふれあいの泉」に行った。いつも混んでいて敬遠していたが、今日は比較的空いている方で、この位ならもっと来てもいいと思った。お湯は赤錆色に濁っていて、かなりしょっぱい。掛け流しでどんどん溢れ出ているのが豪勢であった。

4時に露天風呂のそばをSLが通る。低い塀に並んで大の大人が両手を上げてSLに手を振る。ついつい自分が向うからどう見られているか忘れてしまうのだ。川端康成の「伊豆の踊り子」で、踊り子が川の向うの温泉場から手を振る様子に、主人公がまだ幼いのだと思う場面を思い出す。幼いためでなくても、向うに知った人を見つけると手を振りたくなる気持は解る気がした。
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