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震災後の中国へ行く

(ホテル内の震災の募金を求める立看板)

二泊して、昨夜、中国から帰って来た。中国といっても、いつものように杭州である。四川大地震の震源地からは千数百キロも離れている。

杭州蕭山空港で入国審査も終わり、荷を受け取ると、外に出る手前で再度トランクのX線検査が行われた。今まで行われたことのない審査で、トランクを開けられている人もいる。自分の番になってバッグをX線装置に通すと留められた。何もないはずなのにと思っていると、図書館から借りて読もうと持ってきたハードカバーの本が3冊ほどあり、女性係員がその本の表紙をさっと見て「ご協力有難うございました」と日本語で言って無事に入国できた。

おそらく、チベット問題に関連する書物の流入を水際で防ぐために、特に書物を調べているのだろうと思った。今の時代にこんなことで情報の流入が防げると考えている当局の時代錯誤ぶりがこっけいである。もし日本で同様のことを行ったら大問題になるだろう。この国は経済的には開かれたようでも、まだまだ社会主義国家で、言論・報道・集会などの自由はない。しかし、協力に対する感謝の言葉を日本語で言うあたり、今までなかったことである。オリンピック前の中国は変わろうとしているように見える。そういえば、入国審査をしている間に日本語の音声で、入国審査中ですので、しばらくお待ち下さいとか、よい旅を、というような言葉が流れた。これは各国語で流れるのだろうか。ずいぶん気を使っていると思った。

通訳の女性に地震は揺れたかと聞くと、高層ビルの上ではゆっくりとした揺れを感じて避難するようなことがあったらしいが、会社では全く気付かなかったという。友好飯店ホテルのフロント脇に、震災の募金を求める立看板があった。「震痛四川 祈祷平安」「抗震救災 募捐緊急行動」「一方有難 八方支援」など、さすが漢字の国で文字が躍っている。現地の模様を伝える写真には、救助される人たちの感動的な写真に混じって、道端にシートも掛けないで置かれた沢山の死体の写真もあった。日本では決して使われない写真である。

R氏は四川省の成都の出身で、今は両親ともに杭州に移り住んでいるが、親戚などが成都にいるらしい。彼の話では震源地とは距離があるから、成都は大丈夫ですという。その一方でまだ連絡は取れていないともいう。日本で見ていても、とても成都が大丈夫とは思えないが、中国では報道も偏っているのかもしれない。そういえば震災被害者への追悼の三日間は、どのチャンネルを回しても地震の話ばかりであったという。


(募金に出てきた子供たち)

帰国の朝、西湖の周りを散歩した際、湖畔の道の外側の道に、小学生くらいの生徒が延々と数百人、たむろしていた。遠足にでも来ているのかと思っていると、どうも震災の街頭募金を学校を上げてやるため、人出の多い西湖の畔に出てきたようである。大半の子は道端に座ってお菓子を食べたりしている中、時々人通りの多い方へ募金箱を持って出てきて、通行する大人に張り付いて募金を頼んでいるようだ。一列に並び、声を揃えて、募金の呼びかけをする日本の街頭募金風景とはずいぶん違う。あまりそういうことには慣れていないのだろうと思った。

中国政府の姿勢は、四川大地震については世界の報道機関の取材を認め、救援の門戸も広げるが、チベット問題については断固拒否しているようだ。
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「田分け」と日本農業の再生

(庭の色とりどりのペチュニア)

日本農業の再生について色々な動きが出てきた。

今こそ真剣に食糧問題に取り組むときである。幸いに日本には4割の休耕田がある。それを復活させればたちまちお米の40%の増産が可能である。がしかし、本当にそうであろうか。生産調整をするために休耕田を割り当てた当時は、休耕田を中止すればすぐにでも増産に戻れたかもしれないが、すでに休耕田も長くなると水田は荒れ果ててしまい、生産農家がどんどん弱体化して行く。号令を掛けてもどうにもならない状態になっているかも知れない。

今こそ国策として生産主体の整備を急ぐべきであろう。そのためには全国隅々まで農業会社を立ち上げ、農家から土地を出資してもらい、ワーキングプアと言われる人々をその農業会社で雇い入れて、会社組織で農業を行うというシステムを構築するべきである。土地を集めることが大変ではあるが、兼業農家のような、財産として農地を所有している場合は宅地並み課税にするなどの税制で、農業会社への土地の出資を促進することが出来る。

撤退した工場跡地や人の住まなくなった住宅地など、どしどし農地へ戻していくことで、広い農地を確保していければ、現在よりも格段に生産性を上げることが可能で、値上がりしてきた海外の農産品とも十分競争力が確保できると考える。

顧みれば、戦後、占領下の日本では、アメリカの理想主義的な若手官僚によって、大きな実験として、アメリカ本土では到底実現不可能な政策が実施されてきた。財閥の解体、所得税、相続税、固定資産税などの税制などの制度改革による富の分散化、そして、農地解放という占領下という状況でしか出来ないような大鉈を振るった。その結果、日本の社会は世界でもまれな格差の少ない社会になったといえる。

昔から、「たわけ」というのは「おろかもの」「ばかもの」という罵りの言葉であった。漢字は「田分け」と書く。子供が何人かいると、一人一人に田んぼを分けて与える。一見、親心としてやさしい親だと思われるかもしれないが、田んぼは財産ではなくて生業のもとである。それを分けてしまったら、どの子も生業には足らない。つまり共倒れになってしまう。だから、田を分けることは愚か者のすることだという意味である。

農地解放はある意味でその田分けをやってしまったことになる。日本の農業の国際競争力を奪ってしまったのは、この農地解放であった。

三人寄れば土建会社だと云われたように、戦後の日本は土建国家であった。しかしもう金喰いの土建事業は必要なくなった。それらの土建会社がいっせいに農業会社に衣替えすればよい。日本の農地をそこに再度集約化して生産性を上げれば、品質が良い安いお米が作れるはずである。米作りに欠かせない水資源が日本ほど豊富な国も少ない。お米の生産性はどの穀物よりも高いのだから。穀物を油に替えてしまい、穀物が高騰することは必定である。世界の多くの人が飢えるようになる時代が近付いている。日本でお米が余ったらどんどん輸出すればいい。

農水省は及び腰だが、すでにそういう潮流が起きている。
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奈波はるか氏講演会

(奈波はるか氏講演会)

日曜日、“みんくる”で、本の輪の会主催の、奈波はるか氏講演会があって、午後出掛けた。奈波はるか氏は金谷在住の小説家である。京都を舞台にした「少年舞妓千代菊」という女子高生の読者層をターゲットにした、シリーズ化した小説を書いている。

女房は着付け教室で知り合ったとかで、奈波はるか氏のうわさは聞いていた。偉ぶらない気さくな人で、女房は家まで遊びに行ったという。小説だけでなく、学習塾や書道塾の先生をしながら、書道、絵画、ピアノなど、何にでも興味を持って始めると、たちまち玄人はだしになってしまう多才な人である。ただ、免許取りたての車には乗せてもらうのに勇気がいると話していた。

講演が始まると、いきなりどじな失敗談から始めて、笑いを誘って、これでつかみはOKである。演題が図書館の講演会らしく「私の愛読書」。小学校から社会人までの時代々々の一番の愛読書を取り上げて話すというスタイルで進めた。

小学校では少年文学全集の中にあった「ネバダ号の少年」。中学校では「栄光の星はるかに」という海外のSF小説の児童読み物への翻案小説で、少年雑誌に連載されていた。掛川西高時代ではヘルマンヘッセの作品、特に「車輪の下」と「知と愛」は繰り返し読んだ。「知と愛」は現在も毎年繰り返し暮れから正月にかけて読んでいる。

京都府立大学では「バナーエンドスカイ」というマッターホルンに初登頂した物語を英語版で読んだ。ただ日本語訳は出ていない。高校教師のときは「カラマーゾフの兄弟」。京都大学院では医学部の友達から薦められた「寄生獣」というシリーズ漫画。しかし小説を書くようになってからは資料として読むだけで愛読する本はここしばらくない。

このとりとめのない読書経歴を聞くと、まだ読んだことはない「少年舞妓千代菊」という小説の内容が判るような気がする。このシリーズはこの7月1日に第28巻が出るが、初めて京都から外へ出て、この島田・金谷を舞台に書いた。千代菊が島田で行われる島田髷のコンクールに出るために当地へやってくる設定だという。

小説家になろうと思ったのは、ワープロが出始めて、小説を書くのも安直になったとき、自分ならもっといいものが書けると思ったことがきっかけである。同人誌に所属して、ある日突然にひらめいて小説が書けるようになった。

小説を書いていると、全然違う自分になれる。書きながら鏡を見たら、とてもいい表情をしていた。おそらく書きながら癒されているのだと思う。この小説に触発されて舞妓さんになってしまったなど、舞妓さんにも読者が出来て、初めは外から見た舞妓の世界を想像で書いていたが、今ではお座敷にも安く上げてもらえるつても出来た。

終わりに、他の純文学のような小説は書かないのかという、一見随分失礼な質問に、自分は深刻にはなりたくない。楽しい小説が好いと思っている。だから今の路線を変えるつもりはないとさらりとかわした。

金谷にも探してみれば面白い人がいる。
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災い転じて“赤福”となす-甥の結婚式

(八坂神社の西楼門)

(昨日の続き)
平安京へ遷都される794年以前から、東山一帯は渡来人である八坂造(やさかのみやつこ)一族が住居としていた地である。

八坂神社の社伝では創祀を652年としている。同じ年に高句麗の使い伊利之(いりし)が来朝し、この人物は八坂造の祖先である意利佐(いりさ)と同一人物と考えられているから、社伝を間違いと決め付ける理由はない。「八坂の塔」の法観寺とともに、平安時代以前の創建だと考えられている。

かつてこの地に観慶寺(別名を祇園寺)があり、その寺域にあった「天神堂」が八坂神社の前身である。観慶寺の衰退後、八坂神社は「祇園社」と呼ばれるようになった。そして、明治初めの神仏分離で、「八坂神社」と改称された。

高句麗からの渡来人は祇園精舎の守護神である牛頭天王を信奉しており、この地にも牛頭天王を祀ったのであろう。神仏習合の結果、牛頭天王に当るのは日本の神様では素戔嗚尊で、さらに神仏分離の結果、素戔嗚尊が御祭神となった。

さて、舞殿の結婚式のあと場所を常盤新殿に移して、親族固め杯と親族紹介があった。乾杯の音頭を媒酌人が取るが、ここの乾杯は「弥栄(いやさか)!」と発声するようにと言われその通りにした。あとで考えると「八坂」と「弥栄」はほぼ同音であることに気付いた。何とも縁起のいい神社名である。

披露宴は八坂神社の常盤御殿で行われた。常盤御殿は、もと光照院門跡の寝殿であった建物で、江戸幕府の寄進により再建された。寛政元年、光格天皇より『常磐御所』の名を賜り、明治後期、三井邸に移築され『御殿』と称され、その後、昭和31年に八坂神社に移築されたものだという。


(常盤御殿の披露宴)

古い木造の建物だけに、大人数が入らず、両家の親族だけの披露宴となった。高砂席の背後の床の間には、文化財級の調度品などがある。違い棚の天袋の鶴の絵など、普通ならガラスの中に入れて見せるような美術品だと聞いた。

料理は京都の「吉兆」のあつらえで、兄貴の話では船場吉兆とは関係が無いという。何はともあれ、量は年寄り向けで一つ一つの料理に細やかな気遣いが感じられ、完食出来たことが喜びである。日本のお年寄りの多くは、食べられないほどのご馳走を出してもらうよりも、ちょうど食べ切れるだけの量を出してもらう方が嬉しい。料理を賞味できた上に完食の喜びが加わるわけだから。


(赤福の内箱の製造年月日)

伊勢の兄が赤福を土産にくれた。伊勢土産には赤福と決めていた長兄は、しばらくは適当な土産が無くて難儀したという。何が変わったかと見ると包装紙を外した箱にも製造年月日がしっかりと記されていたことであろう。これで包装紙の包み変えはほぼ不可能である。赤福の人気は恐るべしで、伊勢神宮のお参りに来た観光客はまず赤福を購入し、その後で参拝に行くという流れに変わってしまったという。もちろん売り切れを恐れてである。「災い転じて“赤福”となす」である。
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好事“まあ”多し-甥の結婚式

(式場の八坂神社舞殿)

土曜日の朝、八坂神社での結婚式では頼まれて女房と媒酌人を務めた。自分としては3組目で、今の時代、媒酌人を置かないことが一般的になり、これが最後でもう媒酌人をすることも無いだろう。

結婚式は本殿前の舞殿で行われた。一段高い舞殿の三方は開けていて、下で観光客が見物している。日本の結婚式風景として、外国人もカメラに収めただろう。

神主さんの神社の案内、祝詞、舞いの歌詞、そのいずれも、この神社の御祭神が素戔嗚尊と櫛稲田姫命のご夫婦で、「八雲立つ」の歌が使われた。

実は媒酌人挨拶の中で、二人の紹介に続いて、次のように話す予定にしていた。

「京都の八坂神社で結婚式と聞きまして、八坂神社のことを少しネットで調べてみました。八坂神社の御祭神は素戔嗚尊と櫛稲田姫命のご夫婦であります。
皆さんもご存知の通り、荒ぶる魂の素戔嗚尊はその乱暴ゆえに高天原を追放され、その後、八岐大蛇を退治して、それが縁で櫛稲田姫命と結ばれます。出雲の地へ留まり、社を建てて
    八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を
と詠みました。最も古い和歌だといわれております。素戔嗚尊のマイホームを築いた喜びが溢れていると思います。荒ぶる魂がこの結婚で一転して、家庭を築き、子孫繁栄につながっていきます。

〇〇君がこの八坂神社を選ばれた中には、無意識の内にもたぶんそんな望みがあったのではないかと勝手に想像しました。〇〇君の魂を〇〇さんの力で上手に鎮めることが出来るかどうか、皆さんとともにしっかりと見守って行きたいと思います。


ところが、御祭神が素戔嗚尊と櫛稲田姫命であることや「八雲立つ」の和歌まで先に使われてしまって、少しあわてた。書いた文章をしっかり読めば間違いがないと思っていたところ、少しアドリブを入れて自分の挨拶に繋がなければならなくなった。

式のあと、女房からチェックが入った。言葉の間に頻繁に「まあ」が入って、はらはらしたという。自分では全く気付いていない。まあ、人の前で話すのは苦手で、まあ、昔、会社で話し方教室にも出してもらったが上手くなれなかった。だから、まあ、書いたものを読もうと思ったわけで、まあ、アドリブにさえならなかったら、まあ、出なかったのだろうが、まあ、それが自分であれば仕方がない。「好事“まあ”多し」ということわざもある、ないか。(明日へ続く)
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花見小路から八坂の塔

(八坂の塔)

(昨日の続き)
祇園散策の最初は花見小路を覗く。このあたりは祇園甲部といわれ、上七軒、島原、祇園、宮川町と並んで、京都の五花街の一つである、とは案内の兄のうんちくである。角に“一力”という料亭が格子と高い塀に囲まれていた。一見さんお断りの格式の高い料亭だと聞く。「花見小路」は電柱がなくなって、きれいな町並みになっている。昼間は観光客が絶えないようだ。少し入ったところに歌舞練場がある。ここでは春には芸妓・舞妓による都おどりが行われる。花見小路を建仁寺の角まで行って四条通りまで戻った。女房は京都のこういう小路には来たことがなく、気に入ったらしく、またゆっくり来てみたいという。

南座を左手に見て賀茂川に出た。南座は暮れの顔見世公演では役者の名前を勘亭流で書いた“まねき”と呼ばれる白木の看板が出てにぎやかだが、今は目立たず、言われなければ通り過ぎるところであった。

賀茂川縁に出たところに、出雲阿国の銅像があった。案内板によれば1603年、出雲阿国は四条河原で「かぶきをどり」を披露。関が原の戦後のすさんだ世にあって、絶大な喝采を浴びたという。歌舞伎の元祖だと云われている。賀茂川の対岸にはずらりと木組みの床が設けられている。夏場に岸の料理屋から料理が供せられ、床の上で涼しさと料理を同時に楽しむことが出来る。

賀茂川から再び東の山際へ戻った。知恩院である。知恩院といえば、法然上人の浄土宗の本山である。故郷の家が檀家であるお寺の本山である。


(知恩院のムクロジ)

東山新門を抜けて参道の両側の築地上には太い樹木が植わっていた。京都にはお寺は多いけれども市街地に巨木が少ないと感じていた。しかし、この辺りには多くの大木があって気持が良い。その一樹に「知恩院のムクロジ」があった。京都市の天然記念物に指定されている。ムクロジは暖帯性の落葉高木で、果皮はサポニンを含み石鹸の代用になり、硬い種子は念珠に加工される。築地が築かれたのが400年前といわれ、樹齢も400年と推定されている。

正面に巨大な三門が迎えてくれたが、知恩院は参詣は4時まで、警備員が早く閉まって申し訳ないと謝っていた。今の時期はまだ明るく確かに早すぎる。残念だが仕方がない。

あとは八坂の塔である。東へシダレザクラで有名な円山公園を横切り、横丁を進み、土塀の美しい小路を行く。振り返ると不思議な塔があった。祇園祭の山鉾をかたどったような塔である。どんないわれがあるのか判らない。上層部分が民家の上に見えるのを目指して狭い路地を入った先に八坂の塔があった。


(小路から八坂の塔)

正式には法観寺五重塔で、室町時代の1440年建立、一辺6.20m、総高36.4mの大きな五重塔で、国の重要文化財に指定されている。西の東大路通から小路を入ってくると細間を埋めるように正面に常に五重塔が建って見える。その道を振り返り振り返りしながら帰った。
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伊勢うどんと新東名

(収穫した甘夏)

金曜日、甥の結婚式で媒酌人を務めるため京都に行った。式場は京都の八坂神社である。10時に車で出発して、島田の貸衣装でモーニングを借り、ムサシを初倉のペットホテルに預け、吉田インターから東名に乗る。車の後ろには昨日収穫した甘夏が六つのレジ袋に別けて入れてある。4組の甥、姪の家族と2組の兄の家族へのお土産である。美味しいかどうかより、無農薬、無肥料(?)が自慢である。


(極太の伊勢うどん)

東名の豊田ジャンクションより、伊勢湾岸道に入り、四日市で東名阪に入る。昼食は御在所岳のサービスエリアで、極太の伊勢うどんが付いた定食を頼んだ。その太さと溜まり醤油だけの素朴な味が口に合わない人もいるようだが、伊勢に来て食べれば悪くない。

亀山からは新名神へ進む。新名神高速道路は亀山から草津まで、旧東海道のルートに近い所を行く。利用するのは初めてである。眼下に茶畑が広がるところもあって、牧歌的な谷間を進む。まだすれていない景色である。

草津で名神に合流、京都東で降りて三条を進んだ。山を越して京都に入る辺り、女房と旧東海道を歩いた記憶が懐かしさとともによみがえった。京都市街の入り口の蹴上で左折したら、ほどなく朱色も鮮やかな八坂神社が見えてきた。カーナビと故郷の次兄が寄越した案内図で、八坂神社の有料駐車場まで、全く迷いなく入れた。

到着が2時半、走行距離が298km、東名・名神を通るカーナビの距離数は318kmであったから、このルートの方が少し近いかもしれない。(ネットによれば34km短いとあった)このコースは関が原の豪雪地帯を回避できるというのが売りだという。今回は名神の集中工事もあったようで、それも回避できた。車の量も少なく、予想していたよりも1時間ほど早く着いた。帰郷の時も使えるコースである。

ホテルは祇園ホテルという、八坂神社のすぐそばの修学旅行生も泊まるホテルである。入り口に「歓迎 靜岡竜爪中学校」という札が出ていた。ちなみに次の日にも静岡県の東部の中学校の校名が書かれていた。修学旅行も今ではこんなホテルに泊まるようだ。

伊勢の長兄はもう着いていた。伊勢道から同じように新名神を通り、京都東から五条を進んで来たようだ。八坂神社は四条だから三条、五条どちらから入っても変わらないように思うが、三条からのほうがスムースに来れたようだ。次兄の到着を待ってから、夕食までの間、近くを散策することになった。長兄は学生時代を京都で過ごしいて、案内役をしてくれる。長兄夫婦と女房の4人で出掛けた。行きたい所はあるかと聞くから、「知恩院と八坂の塔」とリクエストした。(明日へ続く)
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中国からインドへ

(庭のベコニア)

今夜、雨の中、京都から帰って来た。今日、甥の結婚式が京都の八坂神社であり、媒酌人を勤めて来た。その話は明日に以降にしよう。

    *    *    *    *    *    *    *

大地震に見舞われた中国、それでなくても、繁栄も北京オリンピックまで、上海万博まで、などと言われてきた。世界最大級といわれる四川大地震、はからずも中国の繁栄が脆弱な基盤の上に築かれたものであることを露呈してしまった。今後、中国では四川の復興を最優先に、中国全土の社会的な基盤の充実に全力を傾けねばならないだろう。経済的繁栄を謳歌している状況ではなくなったと思う。

先日、証券会社の担当が来て話して帰った。その話によると、中国はさておいて、今はインドが買いだという。中国は人民元高が進んでいく中、人件費も年々に上昇し、人件費の安さだけが取り得で中国に進出してきた韓国や台湾の企業では、早々と中国からの撤退が始まっている。それと共に、一部の地域では失業者が出始めていると報道されている。中国の内需をターゲットにした投資は今後も続くと思われるが、世界の工場としての役割は頭打ちになるであろう。

そして次のターゲットとして、注目されているのがインドである。今インドでは海外からの投資がうなぎのぼりに増えている。インドは英語が準公用語で、言語の壁が無く、今まではカーストという身分制度が壁になって、実力が発揮出来なかったけれども、本来優秀な人材が多い。インド哲学、インド商人は有名であるし、インド式算術は日本の「算盤」の上を行っている。一方、人口は現在11億人、2025年には一人っ子政策の中国を追い抜くと予想されている。

現在、インドの株式はまだ一般の人は買えないが、それを取り込んだファンドを買えば、インドの株式を買うことになり、つまりはインドを買うことが出来る。証券会社はそういうファンドの新商品を紹介して帰った。

最近のインド情勢はほとんど知らない。かつては貧困と混沌(カオス)の中に様々な人種、宗教、カーストの人々が牛と一緒に生活しているという印象しかない。インドの魅力に惹かれて何度も訪れる人は多い。しかし喧騒や混沌が嫌いな人は二度は行きたがらないであろう。だが今は随分様変わりしているようだ。インドを知るために少しだけ証券会社の誘いに乗ってみようかと思った。
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四川大地震-愛国的ボランティア

(八高山林道脇のヤマアジサイ)

四川大地震が起きて、大災害の情報に接して、中国国内では特に若者を中心に被災地のために何かをしたいと、四川へ四川へとボランティアが詰めかけているという。それはまさに阪神淡路大震災のときにも起こった現象で、当時、現代の若者たちも捨てたものではないと見直したことを思い出す。ところが今、ネットで情報が飛び交い愛国心の発動として四川にボランティアにやってくる、若者たちの行き過ぎた活動ぶりが当局を困惑させている。

連日繰り返し放送される救助隊の活躍や奇跡の生還劇が、テレビを通じて中国の若者のナショナリズムを刺激して、現地の災害ボランティア登録所には、中国各地からこれまでに6万人あまりの申し込みが殺到しているという。

チベット問題を巡る中国批判、聖火リレーでの抗議行動、それに対する反仏デモと不買運動などで、火が付いた中国青年の愛国心の発露が、今度は大地震後の愛国的ボランティアに向けられたのであろう。被災地では何が必要とされているのか、偏った報道ではなかなか判らない。何が求められているか判らないまま、煽られるように被災地を目指して行く。被災地では当局が関知しない「救災」と貼り紙した自家用車が走り回り、交通や通信に障害になっている。そして、とうとう、地元当局は愛国的ボランティアの自粛を求める異例の新聞広告を掲載したという。

一方、中国国内では四川大地震救援の募金活動が過熱し、職場や個人のカンパ額を競い合い、個人が拒否できない現象が広がっている。金額で人の良心を測る風潮は海外から見ると異常な動きである。

こういう状況に批判的な一部企業家が反発する動きに出た。中国の代表的な不動産会社「万科」の王石総裁は、理事会で決めた200万元を募金に応じたが、自分を含め社員個人のカンパ額を10元以内とした。また、有名IT企業の「アリババ」の馬雲会長は自らは1元しか出さないと宣言した。両氏は、企業も個人も多額の納税をしており、災害救援は政府の責任で個人が生活に響くような負担を負うべきではないという。非難はごうごうであるが、両氏は引き下がる気配はない。バッシングがエスカレートするようだとまたまた国際的に顰蹙を買う。

愛国的行動も過熱すると異常な状況を引き起こす。特に情報が長年統制された国ではなおさらである。次の愛国心の発露はおそらく北京オリンピックに向かうのであろう。大変困難な中で開かれるオリンピックだからこそ、中国青年の愛国心は頂点に達する。あくまでもスポーツ観戦のマナーを守って、応援が過熱しないようにといっても無理かもしれない。来週、そんな中国にまた行って来る。
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四川大地震-脆弱な政府

(大日山金剛院の満開のトキワマンサク)

12日、午後に中国四川省で大規模な地震が発生した。最初に地震の報に接したのは帰宅して見たネット上のニュースであった。

中国での地震と聞いて最初に思ったのは30年前に起きて24万人が死亡したと言われる唐山地震である。30年経った一昨年、中国政府は唐山地震による被害を初めて公式に認めた。唐山地震はマグニチュード7.8の直下型地震であった。

四川大地震の震度は7.8あるいは7.9と発表されたが、その後8.0と訂正された。120キロとも300キロとも言われる逆断層が動いたといわれる。被害状況がわかってくるにつれて、地震対策のないレンガ積みの家屋は一溜まりもなく倒壊して何万という住民が倒壊した建物に埋まったことが判ってくる。死者・行方不明者合わせて7万人を越すと言われている。

本来どこよりも安全であるべき学校が500人も1000人も学童を飲み込んだまま、瓦礫の山と化している映像に戦慄を感じた。地方政府の記者会見で、ある女性記者が「どうして政府の建物だけが被害も無く健在なのか」と質問した。おそらく皆んなの思いを代表した疑問だと思った。それに対して地方政府の役人は、政府の建物も倒壊している例を述べて弁解した。日本でも県や市の庁舎は念入りに耐震建築に心がけている。そこがつぶれてしまうと救援対策すら出来ないから当然のことである。

中国の建築関係の元研究者が、中国には“おから工事”という言葉があると、中国の建築事情を話していた。中国では役人のピンはねが横行していて、支払われる公共工事代金が大きく減額する。工事業者は労働者の賃金を最低限に抑えて対応しようとする。労働者は極限まで手抜き工事をする。この悪循環で出来た建築物は、表向きは立派に見えるが、おからのように崩れやすい建物になってしまう。このような建物を“おから工事”あるいは“おから建築”と呼んでいる。

ピンはね、賄賂、リベートなど、中国では官民を問わず、自分の地位や権限などを最大限利用して私腹を肥やすことが横行している。富を得て伸し上がっていく人々の大半が私腹を肥やしてきた人々だと言っても過言でないかもしれない。中央政府もそれらの状態を野放しにしている。腐敗の防止をスローガンにして掛け声は何度も掛けるけれど、全く取締りの出来ない中央政府の政権基盤は大変脆弱なものだと言える。

政権の自信の無さは地震対策中の色々な部分に現れている。

1.温家宝首相がいち早く現地へ駆けつけ、陣頭指揮を取っているようにパフォーマンスに努めた。
2.党中央宣伝部はテレビメディアに対して救出に懸命な様子や救出された感動的な場面を繰り返し流し、国家が全力を上げて対応し、万全を期していることを伝えるように指示した。
3.当初、外国からの人的支援を一切受け付けなかった。時期を失してから一部申し訳のように人的支援を受けることにした。

何を言われようとまずは人命の救助を優先させるという姿勢がどうしても感じられない。脆弱な政治基盤を守ることに汲々として、人命が二の次になっているように思える。こんな状況下で北京オリンピックが出来るのであろうか、また決行していいのだろうか。
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