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藤枝、滝ノ谷不動峡の紅葉

(不動峡の吊り橋)

昨日、今週も紅葉を見に行こうと、ネットで調べた女房のメモを持って、お昼を回ってから出掛けた。時間的に遠出はできないから、行き先は近場にした。“みんくる”に期限の来た図書の返却に寄ると、図書館祭りとかで、表で餅つきをしていた。

行き先は「滝ノ谷不動峡」である。不動峡は藤枝の瀬戸川支流、滝ノ谷川の上流にある渓谷である。この日曜日には“もみじまつり”という情報があったが、今日出かけてきたのは大正解であった。不動峡への道はすれ違いに苦労するほど細く、渓谷にある駐車場は狭かった。今日は紅葉狩りの客は少なく、狭い駐車場に車も停められた。明日だったらシャトルバスも出るというが、渓谷のかなり手前で下ろされて、相当の距離を歩くことになっただろう。




(不動峡の紅葉)

地元農産品のお店を横目に見て、吊り橋を渡り、斜面を覆うように植えられたモミジの下の遊歩道を登って行った。残念ながら紅葉のピークは何日か前に過ぎている。それでも今日は斜面に日差しがいっぱい当たり、紅葉がひとしお映えていた。

遊歩道には大石を加工したオブジェが点々と置かれている。彫刻家杉村孝氏の作品だという。杉村孝氏は1937年に藤枝市の石材店に生まれ、不動峡に工房を持って石の作品を次々に生み出している。今日は紅葉が主であったから、石のオブジェはしっかりと鑑賞しなかった。氏はここから少し下った渓流沿いの岩壁に不動明王の磨崖仏をを刻んでいる。帰りに拝んできたが、日陰の対岸にあってしっかりとは拝めなかった。この地に工房を構えた氏は地元への恩返しに1981年から8年余の歳月を掛けて刻んだものであると案内板に書かれていた。

さて、遊歩道を登りきったところに駐車場があり、谷が見下ろせる。愛犬を連れてきている人も多く、犬は皆んな大人しい。大型の犬と小型の犬が出合って、犬以上に飼主同士の交流が始まっている。女房はムサシを連れてくれば良かったと言いたそうに、犬たちを見ていた。ムサシがこんなに大人しくしているだろうか。

同じ遊歩道を戻って、横目で見て通った地元農産品の販売店に寄った。お餅が欲しいというと、それを手始めに、リンゴ、白菜、梅干、里芋の小芋と親芋など、商品を並べてあった段ボールに入れてもらい、1850円も買ってしまった。店のおじさんに紅葉が盛りを過ぎてお祭りでは少し残念ですねと話すと、今年は遅れると思っていたのだが、急速に進んでしまったという。

同じ道を帰るのでは芸がないと、帰りは蔵田から伊久美を回って帰ったが、伊久美の道で後を振り返ったら、背後の山々が傾いた陽を受けて、真っ盛りの紅葉に照り輝いていた。
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長島ダム秋色

(長島ダム)

24日、寸又峡と接阻峡に行ったとき、長島ダムに立寄った。

長島ダムが大井川本流に出来る7番目のダムとして調査を開始したのは1972年(昭和47年)だという。完成したのは2001年で世紀を跨いで実に29年掛かった。高さ109メートル、長さ308メートル、総貯水容量7,800万立方メートルの重力式コンクリートダムで、他のダムと違い、長島ダムは電源開発はしない、治水、利水専用のダムである。計画が話題になった頃、同僚の一人が水没する集落から来ていて、故郷がなくなる話を聞いたことがある。いずれにしても会社へ入って3年ほどの頃だった。


(高架を登坂する井川線)

大井川鉄道井川線は大井川の川底に近いところを走っていたので、当然水没するため、山の中腹へ付替えを行った。ダムに向けて急な上りになるため、アプト式の登板鉄道を採用した。商業鉄道でアプト式が使用されているのは日本で井川線のこの区間だけである。井川ダムの手前で頭上はるかの高架上を井川線の小さな電車がアプト式で登板して行った。

長島ダムの直下へ降りてダムを見上げると、人間の営みのスケールの大きさに圧倒される。ピラミッドを見ても万里の長城を見ても感じるもので、機械化が進んだ現代であっても、これだけのものを作ろうとする発想に圧倒されるのである。渇水期にも関わらずダムの下部からわずかに放水していたのは、大井川の水枯れ状態の解消のため、電力会社と地元住民で話し合いの結果、実施している河川の維持放流で、大井川の他のダムと連携して実施しているものであろう。


(旧井川線のトンネル)

女房が先に行くのについていくと、直下に井川線の旧トンネルが遊歩道として残されていた。それを見せたかったらしい。トンネルを抜けると大樽広場の方に行けるようであったが、我々はそこから引き返した。


(季節外れのシバザクラ)

底の大樽広場に至る斜面には、平成15年に斜面の保全を兼ねてシバザクラの植栽を行い、平成18年頃には春に斜面がピンクに染まり観光客にすばらしい景観を見せていた。ところが、鹿の食害を受けてほとんど全滅状態になってしまった。今年の春にボランティアを募集して、その一部を植栽したと聞いたが、現在、植栽した部分に鹿除けのネットが張られて保護されいた。その中にちらほらと花の残っているものがあり写真にとって見た。

ダムの上に出て、昔のダムのようにコンクリートの打ちっ放しの部分が無くて、建築物の壁のように化粧壁が施されているのに気付いた。今時のダムは建設現場のような荒々しさを残していない。


(紅葉の接阻湖)

渇水期のダム湖(接阻湖)と対岸の山の紅葉を見ていると、とうとう雨が降ってきた。
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明治の金谷宿新助火事

(森町大洞院の紅葉-今月24日)

前回の「古文書に親しむ」で先生からお借りした「歳代記」の全文をコピーして来て、少しずつ読んでいる。文字の判読が難しくて、なかなか沢山は読めないが、それでも「歳代記」の筆者の癖はわかってきたので、独学でもかなり判るようになってきた。講座で読んだところから、段々と昔に遡って行くような読み方をしている。

32年にわたって一人の人が記した記録で、筆跡は同じのはずだが、最初と最後では別の人が書いたかと思われるほど違う。時代を遡るように読んでいけば、書き癖の違和感が少ないだろうと思ったからである。

今日は金谷で明治11年に起きた「新助火事」を取り上げる。読めない文字が数ヶ所あったが、大勢に影響ないので、適当に推定して読んでいる。読み下して以下へ記す。

明治十一年十二月三十一日午前二時三十分頃、上本町大塚新助の物置より出火。その前およそ一ヶ月も天気が続いて、西風烈しく、もっとも火の番の儀は同番人斉藤源兵衛を本町中にて頼み置いた。夜に相廻り候ところ、同人早速手前へ駆けつけ、火事、火事と相叩き候に、驚き表口を明け、火元へ駆けつけ候ところ、最早大火にて火元へも行き難く、家内一同荷物を片付けおり候。

行年八十四歳の老母にはとくと申し聞かせたために、驚くこともこれ無く寝所に御出になるよう申し上げる。またまた、村松ちと、年7、8歳に相成り、打ち驚いて一人にて天王前へ逃げて行く。(※【行年】これまで生きてきた年数、死んだ歳ではない)

家内三人にて荷物を運び居り候ところへ、一番に黒田彦七駆け付け、二番に土屋為吉駆け付け、三番に柴田米三郎殿が下男実吉を引き連れ駆け付け、それより牛尾鈴木孫左衛門・後藤唯次駆け付け、定七駆け付ける。鈴木孫左衛門は最早拙屋は焼失と心得、横町山田誠一殿宅に働き居り候に付け、余程遅れ駆け付ける。牛尾の定七に老母を背負わせ横町田中屋へ逃す。それより八軒家小柳喜左衛門同人および乙吉、仲田惣次郎、大塚政平、小野清兵衛、山田喜助、嶋村大工若村文次郎、薮屋町秋山互助、右人数にて荷物を残らず土蔵へ詰め、または井戸端へ運ぶ。それより右の人数にて二階または軒下へ水を廻し、小桶下桶まで持出し、屋根より水を打流していた。

もっとも柏屋家作は屋敷東ヘ建て、隣家西沢清八家作までは、およそ十三四間も明き屋敷に相成りおり候に付き、右清八にて北列は鎮火に相成り、南列は追々焼け下り、またまた北列の石沢庄作へ火が移り、鎮火致し難く、庄作の隣家浅井万吉宅が漸くに潰し候いて、鎮火に相成り、先々安心致す。もっとも中村儀八宅も半潰に致し、それより東へ両列とも清水橋の元、二三軒潰し、午前七時頃火鎮まる。

西の焼け境は北列山城太助、南列堤多左衛門にて鎮火、類焼戸数、田町十一戸、上本町残らず、西請寺門前入口五六戸、上小路十三戸、本町五十一戸、十五軒町残らず、清水八九軒、中町残らず、都合二百四十二戸程、もっとも借宅同居までは二百七八十戸、外大覚寺一軒焼失。南町残家は河村八郎次、松浦幸蔵、河村羊太郎、小沢市郎右衛門、小沢市左衛門、松浦十右衛門、佐塚半三郎、学校、山田治三郎、山田薮助、村松作右衛門持ち村松作平、中村儀八、中嶋忠左衛門、松浦伊兵衛、〆て十四軒、焼け残り候は全く神仏の御守護にて相残り候。


火事となると皆んなが手伝いに来てくれて、火の備えをする様子がよくわかる。また当時は破壊消防だったことも知れる。このあと焼けた家や壊した家へは焼け残った人達から多額の見舞金が贈られて、その明細も記されている。宿内での相互扶助の関係がよく判る記事である。

この火災に県から再建のために、一戸当たり5円、無利息5年返済でお金が出ることになった。また翌日の元旦に警察によって火元が大塚新助裏物置と特定され、火の気がない所ゆえ不審火(怪し火)ということで報告された。
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朝比奈氏の懸川-小和田哲男氏講演会

(小和田哲男氏講演会のあった掛川市中央図書館)

(昨日の続き)
北条早雲率いる今川軍が掛川の国人の原氏を滅ぼし、掛川が今川氏の領国となって、文亀2年(1502)に今川氏親の重臣の朝比奈泰熙が掛川へ入り、懸川城(掛川古城)を築城している。同時期に同じく今川氏の家臣の福島(くしま)助春によって高天神城も築城されている。

懸川城(掛川古城)は現在のお城の北東400メートルの、国道1号線と第一小学校の間の龍華院のあるあたりに築かれた。国道に沿う様に本丸、二の丸、三の丸と並び、連郭式城郭という形式であった。

その後、手狭になって、新たに現在の掛川城のある龍頭山に城を築く。泰熙の時代に築城を始めて、その子の泰能の永正10年(1513)頃には粗方、築城が成っていた。連歌師宗長の「宗長手記」にはこの懸川城の築城の様子が書かれているが、水を得るのに大変苦労した様子がわかる。

平成の掛川城再建の事前発掘調査で、中世の墓地が出てきた。寺院跡こそ発掘できなかったが、懸川城は中世に寺院とその付属墓地があった跡に建てられたものと想像される。

懸川城主、朝比奈氏の出自は岡部町朝比奈というのが通説である。今川義忠の時代にはすでに駿河の朝比奈氏と遠江の朝比奈氏の2系統に分かれていた。懸川に入ったのは遠江の朝比奈氏であった。懸川城主としては、朝比奈泰熙-泰能-泰朝の三代続いた。今川義元が桶挟間に討たれて敗走し、今川氏は急速に勢力が衰えた。信玄と家康は今川氏を挟み撃ちにし、その領地を大井川を境に分割するとの密約をした。

その密約に従って攻め入った武田軍に破れて、今川氏真は敗走して朝比奈泰朝の守る懸川城に入り再起を図ろうとした。そこで家康の出番となり、懸川城に籠城する今川軍と戦ったが、なかなか落とすことが出来ず、武田信玄のプレッシャーもあって、講和交渉の結果、懸川城は無血開城され、氏真は遠州掛塚から、海路で妻の実家である小田原に落ちて行った。

無血開城に際して多くの家臣が帰農して行った中で、朝比奈泰朝は今川氏真に小田原まで付き従い、氏真のために奔走した。行き所の無い氏真はやがて家康に引き取られ、家康の下で天寿を全うすることになる。朝比奈泰朝は今度は氏真には付き従わず、その消息はここで切れてしまう。後に泰朝の子、泰基が召し出されて、徳川四天王の一人酒井忠次に預けられ、庄内藩主となった酒井の子孫に付き従い、泰基の子孫もその重臣となって、現代まで家系が続いている。

講演の終わりに質問時間が取られた。会場には地元の歴史に興味を懐き、熱心に研究している人も多いのだろう。幾つも質問が出た。「家康が氏真を最後まで殺さなかったのは、駿府で人質として暮らした家康を、ほぼ同年代の今川家の跡継ぎ氏真が厚遇した恩返しではないか」とか、「家康が隠居して終の棲家に駿府を選んだのはどういう訳か」という、戦国武将の心の中まで及ぶ質問が出た。小和田氏の回答は「家康は無血開城時の約束を守っただけなのだろう。」「家康は人質とはいうものの、教育もしっかりと受け、預かり物として大切に育てられたから、駿府は家康の第2の故郷だった。」というものであった。
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今川時代の懸川-小和田哲男氏講演会

(小和田哲男氏歴史特別講座)

午後、会社を引けて、掛川市立中央図書館の歴史特別講座、「今川時代の懸川(謎の今川時代を探る)」を受講した。講師は静岡大学教育学部教授で、歴史学者の小和田哲男氏である。小和田氏は日本中世史が専門で、中でも戦国時代の第一人者である。掛川市史の編纂や掛川城の再建計画にも参画されている。半月ほど前にネットで講座のあることを知って、電話予約してあった。

掛川市立中央図書館は新装なって、もう何年も経つが初めて入った。古い図書館にはカードも作って何度も図書を借りた。地下に会議室があって、参加者は200人もいただろうか。男性が圧倒的に多いのは、戦国時代という専門ゆえであろうか。

小和田氏は今川氏の時代の掛川がどうであったのかについては、資料が大変少ないので、まだ判らないことが多い。そんな前置きをして講義が始まった。

今川氏は足利氏の流れを組む吉良氏からさらに分かれて、愛知県西尾市今川町あたりが出だとされる。六代目の今川義忠の時に、駿河と遠江の守護だったが、遠江は斯波氏に奪われていた。義忠の遠江への進出の第一歩として、文明5年(1473)に普広院領だった懸革(掛川)荘の代官に任ぜられた。当時応仁の乱(今は「応仁・文明の乱」と呼ばれるようだ)が続いており、細川勝元の東軍に組した今川義忠を、遠江の守護の斯波氏の撹乱に投入したものと考えられる。今川義忠は伊勢新九郎(のちの北条早雲)の妹(姉?)を娶り、懸革荘に入り、文明7年(1475)には横地氏(横地城)や勝間田氏(勝間田城)へ侵攻した。しかし、今川義忠は横地氏の残党に討たれてしまった。

義忠の子、龍王丸(後の氏親)は6歳で、家督争いが起るが、北条早雲が仲裁に入り、龍王丸の元服まで、義忠の従兄弟である小鹿範満が家督を継ぐことで決着した。ところが元服を過ぎても家督を戻さないため、北条早雲はひそかに焼津の石脇城に入り、範満を討って龍王丸に今川氏親として家督を継がせた。

北条早雲は氏親の懇請で、幕府申次衆の職を捨て、駿河に残って東の興国寺城を拠点に明応2年(1493)には伊豆国を手中にする。翌年には氏親の名代で掛川の国人の原氏に攻め入って討ち取り、掛川は今川氏の領国となった。

その後、今川氏は守護大名から、駿河・遠江の戦国大名へと成り上がって行く。守護大名から戦国大名になるには、まず一番目に検地を行って一元支配を行うこと、2番目に分国法(戦国家法)を作ること、つまり、中央政権から独立をすることが必要である。今川氏の分国法は東国では初めてのもので、大永6年(1526)今川氏親の最晩年に制定された33条からなる家法で「今川仮名目録」と呼ばれる。

このあと講座は今川氏の重臣として懸川城を築いた朝比奈氏の話に移っていく。それは明日書き継ごう。
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奥大井、大樽沢の大樽と不動の滝

(岩瀧不動の滝)

24日朝、明日小学校の時の先生を連れて行きたいから、奥大井の紅葉の下見に行きたいと女房が言うので付き合った。午前中はお天気は持ち、雨になるのは2時ごろからで、ちなみに明日は良い天気になると、女房はこの頃はインターネットで細かく検討している。

練習だからと、運転は女房がすることになる。はじめに向かったのは寸又峡である。途中何ヶ所か片側交通に規制されていた。行き違いに時間を掛けるよりも、交互に通行を止める方がはるかに早く走れる。紅葉の時期の休日にはこんなサービスが有り難い。観光バスとすれ違いを思うとうんざりする。女房は明日も規制があるかどうか、ずいぶん気にしていた。もちろん規制があって欲しいのである。寸又峡にはたくさん車が入って賑わっていた。下見だったから、紅葉の様子を見て、そこでUターンして戻った。紅葉はかなり進んでいるように見えた。


(大樽沢の大樽)

次に向かったのは接阻峡である。長島ダムを前方にして大井川の左岸に渡ると、右前方に長島ダムを見て、左手頭上の高架をアプト式の井川線が通っている。その左側の岩壁を滝が落ちていた。気付いて、車を少し先に停めて見物に戻った。人影に驚いたのか、滝の落ちる岩壁の灌木を揺らしながら、サルの群れが鳴き声を上げて登っていく。およそ20匹ばかりの群れのように思えた。

この沢を大樽沢と云い、ダムに堰止めされて水量の無い大井川にそのまま注いでいる。この滝の名前は付いていないようだ。大樽沢だから「大樽」といえばよいのか。ちなみに「樽(たる)」は「垂」で、「垂水」の省略形で、つまり「滝」のことである。落差30メートルで二段になっている。バスで通れば見える滝だから正式にネーミングすればいいと思う。


(岩瀧不動堂)

そこから接阻峡に向かう途中に道路を挟んで巨木とお堂と滝がセットになっている。この巨木は針葉樹であることは判るが樹種が判らない。お堂は「岩瀧不動堂」といい、真新しい由緒の案内板があった。由緒を要約すると、「文久(1861年頃)のはじめ、犬間村に疫病が流行し、日正坊と名乗る修験僧が疫病退散を祈祷した。そして疫病が鎮まったら川の上流に不動明王の宿る石があるから滝のそばに運んで供養するように告げた。やがて疫病が治まり、村人はその石を滝のそばにお迎えした」という。

滝の落ちる沢を不動沢と呼ぶ。この滝は「不動の滝」と名付けられた。他の不動の滝と区別して、「岩瀧不動の滝」と呼ぼう。落差が20メートル滝つぼ近くまでコンクリートの階段があり、見上げる位置まで降りられる。まっすぐの滝だが良い滝である。

帰りも女房が運転して帰り、明けて今日、朝から本番に出掛け、迷うことなく帰って来た。
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大洞院と小国神社の紅葉

(大洞院のモミジ)

三好達治の「茶の花十里」詩碑について、夕方、図書館に調べに行った。金谷のみんくるに無くて、島田図書館まで足を延したが、結局「茶の花十里」の詩には行き当たらなかった。三好達治には阿蘇を「草千里」と詠った有名な詩があり、「茶の花十里」では余りに安直である。「これくらいなら自分でも書けそうだ」と講師も余りいい詩だとは言わなかった。三好最晩年で、ほんの挨拶詩のつもりだったのだろう。茶農家にとっては、肥培管理の悪さを示すお茶の花盛りを詠われても、少し辛いところがある。いずれにしても三好達治全集を見ればあるだろうから、引き続き調べてみよう。


(銀杏の落ち葉)

さて、昨日、紅葉を求めて遠州の山の手のほうへ車を進めたのであったが、袋井まで来て、目的地を森町の大洞院と小国神社に決めた。両方とも、遠州では紅葉の名所である。

大洞院は次郎長の子分の森の石松の墓があることで有名だが、本堂への参道の広い斜面に年月を経たモミジがたくさん植えられて、モミジの名所としても有名である。一斉に色付けばすばらしいのだが、何回行っても早かったり遅かったりで、最高潮に行き当たらない。だからまた行ってみたくなる。で、今回はまだ少し早かったのであろうか。これからさらにあでやかになるかどうかは天候次第で、こんなもので終ってしまうのかもしれない。本堂では琴の演奏をしていて、境内に拡声器で流されていた。銀杏の落ち葉がきれいだから撮れと女房がいう。ならば二人で影法師で入ろうと並んでデジカメに収めた。


(小国ことまち横丁)

小国神社は大賑わいであった。随分遠くに駐車して、遅い昼食にしようと、小国神社の鳥居前に最近出来た「小国ことまち横丁」に行く。伊勢神宮の「おかげ横丁」を小規模にしたような商業施設である。この日は七五三のお参りやら、新嘗祭のお祭りやら、紅葉狩りやらで、大賑わいであった。

掻き揚げうどんを頼んだら、順番待ちで三十分も待たされて、出た掻き揚げの冷凍がまだ解け切っていなかった。中のエビが桜海老の倍くらい体長の、殻ばかりのエビで、食べるとその殻が喉に引っかかって往生した。掻き揚げは客の前で揚げるくらいでないと満足を得られまい。まだ客さばきが下手で、このままでは客が逃げるであろうと要らぬ心配をした。

拝殿前の行列に並んで参拝した。行列が出来るなど初詣の時だけかと思っていた。その後、神社右手の川沿いのモミジを見に回ったが、2時半にもなるとモミジも日陰に入って鮮やかさを失っていた。時期としてはまだ少し早いのかもしれないと思った。
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三好達治、牧之原茶園の詩

(榛原せせらぎ公園フリーマーケット)

榛原の友達がフリーマーケットに出すから覗いて行きたいという、女房のリクエストに応えて、初倉から空港トンネルを通って榛原に向かった。会場のせせらぎ公園は既視感があると思った。そのはずで隣りの榛原郷土資料館には一度来ていた。前に作詞家の藤田まさとの記念碑と銅像があった。

フリーマーケットを後にして、紅葉を見ようと、遠州の山の手のほうへ車を進めた。榛原から菊川へ最短で抜けようと登って行くと、サイレンを鳴らした救急車とすれ違い、登り道に赤い乗用車が半損で道を半ば塞いでいた。そこから液体が流れ出て坂に少しばかりの流れを作っていた。パトカーもそばにいて、事故調査をしていた警察官も注意しなかったから、ラジエーターでも破損したのだろう。ガソリンなら大変である。


(三好達治の詩碑)

原を登りきって茶畑を走っていると、「三好達治!」と女房。通り過ぎてから「碑のようなものがあった」という。ピンと来るものがあって、車を返して停めた。なるほど、三好達治の詩碑であった。

     茶の花十里
   牧の原 茶の花十里
   露じもに ぬれて咲く日は
   茶畑は もう用すみし 日あと
   何を見んとて 咲く花か
   刈りつめられし 丘の波
   そのうねを出て また波に入る
   ちんちろ
   しべ長く 花粉豊かに
   葉がくれに
   牧の原 茶の花十里(文芸春秋 昭和38.1)


先日、第2回の文学講座で、三好達治が牧の原茶園を書いた「茶の花十里」という詩があることを知った。三好達治といえば「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ」という有名な詩は教科書などで見たことがある。しかし、詩碑があるとは聞かなかった。

どういうつてがあったのか、榛原高校で校歌の作詞を三好達治に頼もうという企てがあった。「茶の花十里」は、依頼を受けた三好達治が榛原を訪れた折に、牧の原の茶園を見学して書いた詩で、当時の文芸春秋に載った。翌年、三好達治は亡くなり、校歌の作詞は宙に浮いたが、その後、三好の友人の詩人丸山薫によって作詞されたという。

詩は詩碑からそのまま写した。「うね」「しべ」はそれぞれ「畝」「蕊」という文字を使っていたと思われるが、当用漢字に無いからであろうか、ひらがなに変えられている。詩人は一語一語考え抜いて書くはずである。ひらがなに変えたのでは肌ざわりが変わってしまうと思う。読めないと思えば振り仮名をつけておけば良い。最も気になったのは「ちんちろ」である。文学講座でもらった資料には「ちろちろ」となっていた。「ちんちろ」はないだろうと思った。文学講座の資料にも何ヶ所か明らかな間違いがあるから確かなことはいえないが、「ちんちろ」では情景が浮かばない。「ちろちろ」なら「ちらほら」と花が咲いているさまが思い浮かぶ。原典に当たれば判るから、明日でも図書館に行って来よう。
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満観峰、第25回社内ハイキング

(満観峰かた富士山)

快晴のもと、恒例の社内ハイキングが開催された。今年は第25回となり、目的地は焼津から登る満観峰である。参加者は41名となった。満観峰は社内ハイキングでは2度目で、前回は何年前だったか、調子を崩していた故郷の母を見舞いに行っていて、参加できなかった。25回の社内ハイキングの内で唯一自分が参加出来なかった社内ハイキングであった。

社内ハイキングは、25年前、自分が初代会長で発足した会社の山の会が、毎年1回開催するように始めたもので、会長が参加しないでは始まらなかった。会長を降りてからも、後輩たちが続けてくれて、続く限り参加すると決めている。四半世紀経って、一つの歴史となった。始めたころに子供連れで参加してくれた人も、今年は孫を連れて参加してきた。25年とはそれだけの年数なのである。

満観峰については2006年5月8日の書込みで詳しく書き込んでいるので繰り返さない。

山頂からは富士山がよく見えた。その右に愛鷹山系、駿河湾の向こうには伊豆半島が随分間近に見えた。昼食後、全員写真を撮って下山した。計画では日本坂峠から法華寺に降りる予定であったが、登山道が荒れていて、子連れでは危険だとの主催者の判断で同じ道を戻った。41人の参加者を全員事故なく連れて帰るために主催者は大変気を使う。

下りに通る予定であった「日本坂峠」は、その下を東名の日本坂トンネルが通っている。昔、トンネル内の交通事故で、大トンネル火災になって、たくさんの車が燃え、多くの人が死傷したことで有名になった。

大昔、日本武尊(ヤマトタケルのミコト)の東征があった時代には、関東に向かう古道は、「焼津辺(やきつべ)の道」と呼ばれ焼津の花沢の里から日本坂峠を越えて静岡市小坂へ通じていた。「日本坂峠」という大それた名前も、日本武尊から取られた名前である。

その後、街道は「日本坂峠」より4kmほど北の「つたの細道」に移っていく。元々この山地は南アルプスの南端が太平洋に沈む地点で、すぐ南の大崩海岸は山が直接駿河湾に落ち込んでいて、昔はとても人の通れるところではなかった。関東へ行くのにこの山地を越えるのが難所の一つであった。

帰ってから、すぐに風呂に入って汗を流した。汗をかいたままでいると、風邪を引く。女房は土手の草刈をしていたので、食材を買ってきて得意のカレーライスを作った。今日のカレーライスには100%オレンジジュースを買ってきて、400CCだけ水の変わりに入れてみた。入れ過ぎだと女房がいう。息子は入れたことに話すまで気付いていなかった。まあ、不味くは無かったが、効果も無かった。
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高校生のための靜岡県文学読本

(「高校生のための靜岡県文学読本」)

昨日に続いて、第2回文学講座の講義から書き込む。

水島講師は、20年ほど前に、静岡県の高校の国語教師10数人と手分けして、「高校生のための靜岡県文学読本」という本を書いて、副読本としたと話す。その本には静岡県を舞台にした古今の著名な文学作品が紹介されているという。その中で、担当したのは、「太平記」と「野ざらし紀行」で、改版の際に追加された「朝顔日記」を書いた。このいずれもが静岡県でも島田市が舞台になっていて、水島講師から解説があった。

「高校生のための靜岡県文学読本」は見たことがあると思って、帰宅後確認したところ、昔、古本屋で購入したものを見つけた。見ると、「太平記」と「野ざらし紀行」はあったが、「朝顔日記」は無かったから、初版のものである。

「太平記」からは、日野俊基が鎌倉幕府の倒幕計画に加担したことが露呈して、処刑に鎌倉へ送られる際、菊川の宿で、100年前、自分と似た運命で菊川に泊まり漢詩を残した宗行卿を偲んで、一首の歌を詠んで宿の柱に書いたという部分を取り上げた。宗行卿の漢詩は、

  昔南陽県菊水   昔、中国の南陽に菊水が流れ、
  汲下流而延齢   下流でこれを飲む者、長寿を全うす。
  今東海道菊川   今、日本の東海道、その名も同じ菊川ながら、
  宿西岸而終命   その西岸に宿って、逆に命を終えんとす。


それに対して、日野俊基の歌は、

  いにしへも かかるためしを 菊川の 同じ流れに 身をや沈めん

「野ざらし紀行」については、芭蕉はその出立に際して、

  野ざらしを 心に風の しむ身かな

と詠んで、「野ざらし」つまり「野にさらされた髑髏」を覚悟の旅だと宣言している。また富士川のほとりで三つばかりの捨て子を見て、わずかな食べ物を投げて通り、

  猿を聞く人 捨て子に秋の 風いかに

と詠んで、「汝の性(さが)のつたなきを泣け」と行って通り過ぎる非情ぶりであった。このあと昨日書いた馬上の2句が続く。「野ざらし紀行」には芭蕉が在来の俳諧から脱却し、独自の境地を開こうとする、悲愴なまでの覚悟が綴られているという。

「朝顔日記」は、「生写朝顔話(しょううつしあさがおばなし)」という五段の浄瑠璃で、山田案山子が書いた。島田宿と大井川の渡しが舞台で、かつてこのブログで取り上げていた。水島講師が「生写朝顔話」のクライマックスを読んでくれた。「ヤアナニ川が留まった。ハゝア悲しや。」とか、「エゝ聞こえませぬ、聞こえませぬわいなァ」と気持を込めて読むのが何とも気持が悪かった。浄瑠璃語りならここで涙を戴ける所なのだろうが。


(龍月堂の「朝顔日記 深雪最中」)

昨日も水島講師からお茶菓子を頂いた。龍月堂の「朝顔日記 深雪最中」であった。お茶菓子持参の講師は初めてである。
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