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性懲りもなく、お遍路の本を購入


性懲りもなく、お遍路の本を2冊購入した。一冊は最近までNHK教育の「趣味悠々」という番組で放送していた「四国八十八ヶ所 はじめてのお遍路」のテキストである。もう一冊は大坪忠義著の「感動の四国遍路」である。

「はじめてのお遍路」は、おそらくこれから順次定年を迎える団塊の世代を照準にした番組だと思った。いわばお遍路のハウツウ本といったところか。事前準備から始めて、参拝の作法や、道中の楽しみ方、その記録方法、お遍路と人生との関わりなど13回にわたって放映された番組のテキストである。番組は時々見たくらいであるが、これで四国遍路を目指す熟年の人々がどっと増えることは間違い無さそうだ。

企業戦士たちは、会社を退職してもなお、新たな挑戦に踏み出すであろう。50日におよぶ非日常の世界に身を置くことで、人生の後半戦へどのように突入するのか、考える絶好のハーフタイムである。

NHKは平行してお遍路のドラマ「ウォーカーズ」を放映している。明後日が確か最終回だったと思う。お遍路に出た人たちが織り成す様々な人間模様は面白いが、これは作り物の遍路旅である。実際のお遍路ははるかに過酷なものだろうと思う。

団塊の世代より一年先を行く自分が念願の四国遍路に出発できるのはいつのことになるであろうか。最短では、出来れば来年の春、花粉症の季節が終った辺りに出発したい。1300km、通しで歩く自信はある。ただ50日のリフレッシュ休暇、取れないだろうなぁ。今まで取った人はいないから、後輩たちに道を開く意味で、強引に取ってみようか。

もう一冊の本は5年間の準備期間の後、62歳で四国遍路に出た、元郵便局員の記録である。まだ読んでいる途中であるが、どういう思いからか、真夏に歩いている。酷暑や台風といった最も過酷の条件下の遍路であった。自分は避けたい季節のお遍路である。
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マイリーフカップの事業所発足

(マイリーフカップの事業所)

マイリーフカップの販売がようやく始まった。第6回O-CHAフロンティアコンテスト金賞受賞のポスターやチラシも出来た。親会社の秋の展示会の記念品に、3000本利用してもらい、かなり多くの茶業関係者にマイリーフカップを知っていただけた。

あちらから50本、こちらから30本と注文が入ってくるようになった。しばらく物がなくて、中国からの入荷待ちであったが、11月20日過ぎに入荷してきた。これからの事業、少人数のソフト会社で扱うには荷が重い。そこで、親会社の空き事務所を借り、パートの奥さんたちを4人頼んで、マイリーフカップの最終検査と商品の発送を始めた。

今日で3日目、ようやく道具立てが整った。テーブルは空いていたCAD用の机を3脚並べた。椅子は安い事務椅子を5脚購入した。ファックスと湯沸しポットは新しい物を購入した。台車も一台購入した。冷暖房機、タイムレコーダー、洗濯乾燥機はもと利用されていたものがそのまま利用できた。

仕事に慣れてきて一日4人で5~6時間のパートで、かなりピッチが進む。現在の在庫の検査が一段落したら、次の荷が入るまで操業を一時休むこともあると、パートさんにもお話ししてある。この事業がどの辺までの仕事になるのか、不安定要素を抱えているからである。

中には大型商談もあるが、現在のところお茶の流通業者の引き合いが主で、当初描いていた、お茶をあまり飲まない層のコンピューターを使って仕事をする人達に、マイリーフカップを利用させてお茶を飲ませたいという思いの部分は、まだ進んでいない。

12月には追加分が入ってくる。売れて忙しくなるのか、一時のブームで終るのか、今後の推移に注目したい。明日は日本食糧新聞の取材が入る。
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故郷の家のそばの小公園


写真は、名前が付いているのかどうか知らないが、故郷の家のそばの小公園の現在の姿である。今年の夏、帰郷した時に撮った。

円山川の支流が故郷の街を西から東へ横切って、円山川の廃川に流れ込んでいる。直前に、その支流はわが母校の小学校の校庭を暗渠になって潜るため、一度姿を消す。再び現れるのが写真の公園のそばの川である。かつては公園を区切る宵田橋の先で廃川に合流していた。

子供の頃は、公園のあった辺りは周りを石垣で囲まれた低地で、細い川が流れていた。次兄と川を堰き止めた先の網に小鮒を追い込んで、バケツ一杯取り、家の裏で飼っていた鶏の餌にしたような記憶がある。まだ小さかった自分は見ていただけだったか、話に聞いただけだったのか。しかし戦後間もなしのその当時は街中の河川もそれほど汚れていなかった。

間もなくその低地には周りから垂れ流しの下水が流れ込み、たちまち子供たちを寄せ付けないどぶ川と化してしまった。低地にはゴミが捨てられ、ゴミの中に草が生えた。水が出たとき、低地の中の一ヶ所、土砂が捨てられ高くなったところへ、草地の蛇が避難して集り、何十匹も重なり合った光景を見たことがあった。だから、水の出ていない時でも、そんな低地にボールが落ちると、水辺まで取りに降りるため、恐々草地を通った。

低地が公園として整備されたのは、故郷を離れてしばらく経ってからであった。真ん中の水路が整備され、荒地が3分の2ほど埋め立てられ、樹木が植えられて木陰のあるいい公園になった。親父たち近所のお年寄がボランティアで植木の整備をしたり、子供連れの母親たちが子供を遊ばせる姿も良く見かけた。

ところが何年かして帰郷してみると、現在のように、幾何学模様のコンクリートで固められた公園になっていた。住民には大変不評の公園で、夏はコンクリートの照り返しで暑いだけ、植木の剪定をするお年寄の姿も消え、無人の公園になってしまった。

確かにお役所的には草取りの必要もなく管理が大変楽になったかもしれない。しかし、利用者を追い出してどうするの、と当時無性に腹が立った。予算が有るから使わなければならない。事業を実施する前に、住民の声を聞いてみようとする気すらない。こんな行政が一昔前までは主流であった。

今は財政が苦しくなって、やりたくても出来ない。ほんとうに必要なものは何か、住民の意見を少しは聞くようになった。貧することで健全になった。ホリエモンが拘置所から随分スリムになって出てきた(今はリバウンドしている)ようなものか。違うか。
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コウノトリと松島興治郎氏



(放鳥を見つめる松島興治郎さん)

昨日の夕方、女房の友達から「コウノトリがSBSテレビに出ているよ」と電話があった。すぐにテレビを切り替えると、「夢の扉」という番組で、松島興治郎さんが出ていた。高校の先輩で、確か故郷の兄貴と同級生だと思った。

松島さんは高校の生物部に所属していた。当時、生物部にはガンマー先生とあだ名の付いた名物先生がいて、絶滅寸前のコウノトリの保護に取り組んでいた。それがきっかけで松島さんは社会に出てから、絶滅したコウノトリの復活計画に一生を掛けることになった。

それから35年、今年は昨年に続いて9月23日、24日の両日に合計7羽のコウノトリが放鳥された。昨年はコウノトリの郷公園で放鳥したが、餌が豊富にある公園にもどって来てしまい、よそへ生活の場を移すことが出来なかった。今年はその反省から、コウノトリの郷公園から離れた円山川河川敷(23日3羽)と河谷拠点(24日4羽)で放鳥された。これでゲージの外で自由に活動するコウノトリは、放鳥12羽と、同公園前の囲いで生まれ、今年7月に巣立った幼鳥2羽、野生2羽の計16羽となった。

番組は2年目の放鳥までの一部始終を追いながら、松島さんを取材した番組であった。番組恒例の「自分の夢をMAIGOALに記す」で松島さんは「2010年にはコウノトリの野生復帰を目標に、共に生きる豊かな環境の再生を目指したい」と書いた。「野生復帰」は放鳥したコウノトリが野生の状態で繁殖するようになった時点になるだろう。

松島さんには何年か前に帰郷した時、兄貴の縁でコウノトリ文化館の案内をしてもらったことがある。
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男子バレー8強入り

(チュニジアを破り8強入り)

昨日、風邪気味でパソコンの前に座ったが、全く書くテーマが思い浮かばなかった。314回目にして初めて、出張等の理由以外でブログを休んでしまった。一日休むと終りになってしまうとの強迫観念もあって、頑張って続けて来たのであったが、途切れてしまった。しかし、本日、またパソコンの前に座ることが出来た。そんなに深刻にならずとも継続できそうである。

男子バレーの植田ジャパンが、現在行なわれている世界バレーの2次ラウンドでチュニジアを破り、早くも決勝ラウンドへの進出を決め、目標であった8強入りを果たした。

男子バレーをテレビで見なくなって、どのくらい経っただろうか。力でも技でも世界に水をあけられ、オリンピック出場さえ出来なくなった。テレビ放映もなくなり、見たくても見られなかった。

今度の世界バレーは女子に続いて欠かさずテレビを見てきた。日を追って観客も増えているように見える。やはり強くなければ人気は出ない。

強くなった理由は、エース山本が人が変ったように自信に満ちている。エース対角に石島という元気印が出来た。斎藤、山村という世界と比べても高さで劣らないセンタープレーヤーが絶好調である。その外の選手もそれぞれ特徴を持ち、交替しても見劣りしない。流れを変える役割を果たせるタレントが揃っている。しかしメダルに手が届くにはもう一つ足らないものがある。それはセッターである。

昔、中学校のクラブ活動でバレーボールをしていた。当時は9人制でセッターだった。弱いチームで勝った記憶は少ないが、バレーボールを見ていてセッターが一番気になる。

植田ジャパンではセッターは朝長と阿部の併用であるが、朝長では身長が低く、阿部なら身長では負けないが、まだセッターとして成長過程にある。かってはコンビバレーが出来るセッターであれば身長の低いというハンデイは問題なかったが、現代はどの国もコンビバレーが普通に出来る。セッターのブロック力、攻撃力がないと、チームに大きな穴が空き、その部分を集中して攻められる。日本がメダルに手が届くためには、セッター阿部の成長が欠かせないと思う。
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台所がなくなった

(何と応接間に冷蔵庫が!)

自宅の地震対策工事がダイニングキッチンに及んで、台所が無くなった。流し台セットも運び出し、天井、壁、床をすべて取り去り、不足している筋交を何本か入れ、増築部分にシステムキッチンを入れ、床、壁、天井を張り直す。

ダイニングキッチンにあったすべての物は、玄関の廊下に食器棚が並び、炊事道具は2階の小さい流し台に移り、食卓と椅子、それに冷蔵庫はなぜか応接室にある。炊飯器は昨日は2階で湯気を立てていたが、今日は1階の階段下で焚けていた。朝は応接間の食卓で朝食を摂り、夜は2階の卓袱台でカセットフーを囲む。当分こんなややこしい生活が続く。女房は一日1階と2階の階段を行ったり来りで、疲労困憊し機嫌が悪い。

ダイニングキッチンは当初床の張り替えをするだけで、土台までやり直す予定ではなかったが、北東隅の基礎が2cmほど下がっていたため、レベルを合わせるために土台まで変えてしまうことになった。女房は、零した水が北東方向へ流れていくので、おかしいと思っていたという。壁にひびが入ったのもそのひずみがあったからであろう。

長い期間、縦樋から出た雨水を北東隅の土台辺りにそのまま染み込ませていた。それが地盤沈下の原因であろうと大工さんの言である。現在は、縦樋の雨水は排水溝に導かれているから、今後は大丈夫だと思う。

大工さんは息子と二人で来ている。ダイニングキッチンとお風呂場の境にブロックが積まれ、その部分のキッチン側にタイルが張ってあった。そうとは知らずに、その息子はタイルを剥しに掛かって、23日、一日がかりでマスクをし騒音を立てて大苦労していた。

29日にシステムキッチンが入る。それまで、少なくとも今月いっぱい、ダイニングキッチンの工事は続き、不便な日々に女房の機嫌の悪い日々も続くことであろう。
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童子沢で熊が捕獲された

(静岡新聞11月23日朝刊記事)

2ヶ月前の9月23日にすぐ近所の西原に熊が出た話を書き込んだ。その後目撃情報もなく、もしかしてガセネタだった?と思い始めていた。

ところが昨日の夕刻、島田市役所から同報無線で、大代の童子(わっぱ)沢付近の農道脇で、イノシシの捕獲のために仕掛けたワナに熊が掛かり、許可を得て猟友会により射殺された。近くにまだ熊がいることも考えられるので、山に入るときは鈴などを鳴らしながら入ってください。また熊は夜行性なので、夜間の外出には十分に注意してください、と放送された。放送は翌日にも何回か流された。

童子沢といえば、家から2kmほどの所で、親水公園があり、夏にはキャンプをしたりバーベキューを楽しんだりする施設もある所だ。

9月の目撃情報はガセネタではなかったようだ。今朝の静岡新聞には射殺された熊は体長1.25メートル、体重80キロ、ツキノワグマの3、4歳のオスだとあった。オスであれば、はぐれた1頭で近くに仲間がいることは少ないだろう。島田市内で熊が捕獲されたのは30年ぶりだという。

夕方、犬の散歩から帰って来た女房は、熊の射殺を目撃した人から聞いたと言って、ワナにかかった熊は、ワナから逃れようと大暴れして、回りの木に爪を立て、半分ほど幹を削り取ったり、細い木は倒してしまったりした。可哀想なことであったが射殺もやむを得なかったのであろう。

夜のニュースでも、全国に出没する熊の話が取り上げられていた。街中に熊が出没する町もあるようで、処分された熊は全国で4000頭を越しているようだ。

処分された熊は一体どうなっているのだろうか、ちょっと疑問になった。

子供の頃、どの家にも「熊の胆(い)」という小さな黒い板状の塊があり、お腹が痛いというと母親がほんの少し鋏で切って飲ませてくれた。噛んだりするとたまらなく苦いので、水で流し込んだ。効果てき面で子供ながらよく効く薬だと思った。山から売りに来る人から買うのだと聞いた。「熊の胆」は広辞苑には「胆汁を含んだままの熊の胆嚢を干した物」とある。

射殺した熊から「熊の胆」は採ったのだろうか。今の季節、もっとも脂ののった熊の肉は誰かのお腹に納まるのだろうか。「熊は死んで皮を残す」とは言わないが、皮をはいで利用するのだろうか。ただ射殺して穴を掘って埋めるのでは、野生動物を無駄に殺生したことになる。使える部分はすべて利用することが殺した熊の供養になると思うがどうなのだろう。
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「豊文堂」と読書趣味

(故郷の駅前通り「大開通」)

自分の読書好きはどこからはじまったのだろう。若い頃からこの歳まで約3000冊の本を読んでいるから、かなりの読書好きと言えるであろう。どうして判るかというと、大学の頃から今までに読んだ本の題名がメモしてあるからである。いつから読書をする習慣が付いたのかと考えていくと、「豊文堂」に行き当たる。

戦前、実家は故郷の駅前通りの角で「豊文堂」という古本屋をしていた。生まれる前でその店のことは写真でしか知らないが、親父が戦争に行っている間、お袋が苦労して店を守ってきたという話はよく聞いた。

戦後は店を閉めて、親父は勤め人になった。家には「豊文堂」の頃の売れ残りの本が壁一面の書棚にぎっしりとあった。系統だった蔵書と違って、売れ残りだから脈絡がない。子供時代、書棚からアットランダムに本を出して読むことを覚えた。しかしそんな事情だから、読書にも系統だったものがない。どんな本を読んだのか、まだその頃はメモをとる習慣もなく記憶も定かではない。

戦前の本は旧仮名遣いだった。学校で習うことはなかったがすぐに慣れた。読み慣れれば違和感がなくなる。今でも旧仮名遣いの本を読むことはあるが、たいていそのことに気付いていない。

戦前の本は旧漢字や難しい漢字が使われていたけれども、すべてにルビが振ってあって、意味は判らなくても読むことができた。平仮名さえ覚えれば、どんなに小難しい本でも、子供にも読める。ルビを振る本作りのやり方は今の出版物でも大いに参考にして欲しい。本離れがいわれる現代、手にとっても読めない漢字があることが、本離れの一因になってはいないだろうか。

とにかく意味も十分理解できないまま本を読んでいた。家の本はすべて古本で、時には開くと紙魚(しみ)が走り落ちるような本だったけれども、本を読む楽しさは十分味わえた。

故郷の兄貴は今も「豊文堂主人」を雅号にしている。
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マイリーフカップを商工会で紹介する

(商工会工業部会交流会-背景の緞帳の図柄は広重の版画「掛川」)

午後、掛川商工会議所の工業部会主催の部会員交流会で、マイリーフカップの商品紹介をする機会が与えられて出向いた。参加者は20数名、6社の会社がそれぞれの会社案内的なPRを20分間づつ行なう。

茶業者以外の人たちにマイリーフカップの話をするのははじめてであった。一流企業の工場のPRから、中小企業のPRが続く中で、我々のマイリーフカップの商品紹介はとっつきやすい話であったと思う。

話を最初に商品紹介から初めて、マイリーフカップにお茶を淹れて出し、試飲もしてもらった。そのあと、マイリーフカップがコンクールに金賞を得るいきさつまでを話した。しかし、茶業者以外の人に理解してもらうには、20分では話が半端になって、十分伝わらなかったのではと少し悔いが残る。話のあとでどこで手に入るかとか、値段はいくらかなどと質問もあったからよしとしよう。

発表のあと交流会があり、参加者の中で唯一のお茶関係者の、お茶屋さんのN製茶の社長さんやその息子さんと話をした。リーフ茶の振興という点では話が合うのであるが、その方法がマイリーフカップという点には自分の店舗に並べてみようというような積極的な賛成意見は出なかった。もっともそれならどうすればよいのかという答も持ち合わせていない。皆んなで色々な工夫をしていくべきだという話で話題を収めた。

中国製品で1000円では高いという人もいた。なかなか品質が安定しなくて徹底した検査をして歩留まりが随分悪いので、どうしても高くなってしまうと弁解していた。中間に落すマージンを考えると1000円でも余裕がないというのに、中国製品の見方はまだまだその程度のところにあるようだ。
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ファーブル昆虫記を読む

(ファーブル昆虫記)

ファーブル昆虫記の新訳がいま順を追って出始めている。フランス文学者にして作家、自宅に「ファーブル昆虫館」を開館するほどのファーブルファンで、日本昆虫協会会長をするほどの昆虫好き、昆虫学者の奥本大三郎氏の翻訳である。

現在、第一巻(上)を購入して少しずつ読み、四分の三ほど読んだところである。ファーブル昆虫記は子供の頃にを読んだつもりだったが、今読んでいる昆虫記は全く初めての内容であった。読んだのは子供向けの昆虫記か、ファーブルの伝記のような本だったのだろうと思う。

我々が子供の頃は男の子は皆んな昆虫少年だった。夏休みには昆虫を追いかけて野山を駆け巡った。夏の終わりには、親父からYシャツの空箱をもらい、一夏の成果を昆虫標本として収めて大事に学校へ運んだ。

ファーブルの昆虫記を読んでいると彼の昆虫への興味は全く別のところにあったのだと思った。彼の関心は昆虫の生態観察にあった。採集や分類、解剖学的興味ではなかった。何を食べ、どのように子孫を残して行くのか。それをひたすら観察して記録する。30年間の観察の記録をまとめたものが全10巻の昆虫記なのである。

冒頭を飾るのがスカラベである。別名糞虫とか糞ころがし、草食獣の糞を丸めて持ち帰り食料にする虫である。糞虫の名に似合わず、古代エジプトでは天地創造の神や、太陽神の象徴として、印章や首飾りにつける護符として用いられた虫である。

糞を転がすスカラベに、時々応援するようにもう一匹スカラベが付いていることがある。一匹で運ぶに手に余るとき手伝いを呼ぶという説に、ファーブルは徹底した観察からスキあれば横取りしようとする招かざる客だと看破する。

ツチスガリやアナバチなど狩り蜂の仲間は、穴を掘って餌になる虫を用意し、卵を産んで孵った幼虫がその餌を食べて育つ。その餌となる虫は狩り蜂ごとに決まっている。しかもその虫は狩り蜂の針に神経の要所を刺され、全身が麻痺しているまま卵が孵るまで生きている。だから幼虫は干からびた虫ではなく、生きた餌を食べて育つことができるという。

まだ一冊も読み終わらないうちに、初めて聞く話が次々に飛び出してくる。訳者の専門知識が随所に生きていて、正確な翻訳になっていると感じた。いい大人がファーブルにはまっているという話をよく聞くが、この新鮮な知識の宝庫に自分もしばらくはまりそうである。
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