goo

「四国邊路道指南」を原文で読み終えて

(焼山寺奥の院 2012.4.8撮影、焼山寺山標高938m)

「四国邊路道指南」を読み終えるのに、32日掛った。原文はネット上で見つけて、手元に印刷し、そのテキストが状態が良くなくて読めない部分もあり、松山のマメ名人さんに頼み、稲田道彦氏の読み下し文の本のコピーを手に入れた。その本には鮮明な影印もあり、大変に助かった。

自分が、解読する上でいつも留意しているのは、単に活字化し、あるいは読み下すだけではなくて、よく読み込んで、自分が理解出来るまで、まさに「解読」することである。稲田氏の読み下し文は、さらりと読み下しただけで、不明を曖昧なままで読み飛ばされた所も多く、結果的に誤読も何ヶ所か見つかった。

解読する上で意味の解らない言葉は片端から辞書を引き、同じ言葉が何度も出ることも恐れずに、くどい位に「注」を付けた。また、原著には札所ごとに御本尊の像の絵が載せられているが、自分にはどれも同じように見えたので、代りにお遍路で頂いた御影(すがた)を載せた。ついでに納経印も添えた。いずれも2012年当時のものである。

地図も無く、現代のように道路標識や、遍路シールなども全くない江戸時代に、どんな風に88ヶ所のお遍路を案内したのか。読む前にはその点に大いに興味があった。読み進めるうちに、なるほど、このようにすれば確かに案内になると納得した。お寺からお寺の間に、通過する村々の名前が克明に記されている。村と村の間に○印が付けられ、次の村へ移ることがはっきり分かるように意識されている。

江戸時代は、現代のように合併、合併が繰り返されて、大きな行政単位になっておらず、今でいう町内会程度が一つの村になっていたから、お遍路さんは「指南」に記された村を追って歩けば、次の札所へ着けるのである。村の名前のほとんどが、かな表記になっていたから、それを声に出せば、村人の誰からでも、隣り村へ行く道ならば尋ねることが出来たと思う。文字が読めない村人でも大丈夫である。

解読に当って、かな表記では現代の人には読みにくいだろうと、地図帳と首っ引きで、現代の地名と符合する漢字名を拾って置き換えた。一部、かなのまゝで残したのは、符合する地名が現代の地図帳で見つからなかったものである。

八十八の札所には、阿波、土佐、伊予、讃岐の四つの国にそれぞれ配置されたお寺がある。15番国分寺(阿波)、29番国分寺(土佐)、59番国分寺(伊予)、80番国分寺(讃岐)と、それぞれの国の国分寺が入っている。また、関所寺として、19番立江寺(阿波)、27番神峯寺(土佐)、60番横峰寺(伊予)、66番雲辺寺(讃岐)が決められている。さらに、それぞれの国の一の宮が入っていることに、今度初めて気付いた。13番大日寺(阿波一の宮)、30番善楽寺(土佐一の宮)、55番南光坊(伊予一の宮)、83番一宮寺(讃岐一の宮)がそれである。明治の神仏分離で、お寺に名前を変えているので、今まで気付かなかった。

読み終えて、次にお遍路に出るなら、「四国邊路道指南」を手に、江戸時代のお遍路を出来るだけ再現してみたいなどと考えている。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「四国遍路・外国人差別貼り紙」のニュースに一言

(富士宮の上井出歴史広場のスズランスイセン、4/13撮影)

今朝の静岡新聞の朝刊に、「四国遍路・外国人差別貼り紙」という見出しで、遍路休憩所など30ヶ所に貼られていた「貼り紙」のことが出ていた。遍路経験者として、「気持ち悪いシール」というのに、あゝ、あのことかと思い当たるものがあった。

歩き遍路にとって、歩くコースに貼られた赤矢印で方向を示すシールは、大変貴重なもので、それを頼りに歩けば誰でもお遍路ができる。ルールさえ覚えれば、日本語は判らなくても、進む方向は理解できる。多くの外国人はそれで十分お遍路が出来ている。貼られた機関のご苦労には頭が下がるばかりである。

ところが所々にハングルの書かれたシールが張られていた。韓国人のお遍路さんも多いから、貼ってあるのだろうと思って見すごしてきたが、遍路道にハングルは、違和感を感じながら歩いてきたことも確かである。四国の田舎道に意味が分からないハングルが書かれたシールを見ると、「気持ち悪いシール」の感覚もわからないわけではない。

「差別貼り紙」は論外であるが、「日本の遍路道」にハングルのシールをペタペタ張る感覚が、日本人にはよくわからないのは確かである。貼った人は日本で公認された韓国人の先達だというが、そんな感覚を理解しない人に、先達の資格はないと思う。

赤いシールだけでこと足りるものを、わざわざハングルのシールを貼る必要は全くない。四国の人たちは優しいから、そんな些細なことに目くじら立てる人はいない。しかし、お遍路も国際化して、たくさんの国からお遍路に来るようになっている。それぞれの国の人々が、それぞれの母国語でシールを貼りだしたらと考えると笑ってしまう。

赤いシールに案内地図があれば、だれでも安全にお遍路できる。もし迷っても四国の人たちは放っておいてくれない。言葉は通じなくても、目的が分かっているから、方向を示してくれる。雲辺寺のそばで迷った韓国の女性お遍路さんを、30分ほど離れた宿まで車で送ったという話も聞いた。そんな中で、中途半端なシールは見苦しいだけのものと思う。

ここまで書いてから、ネットで少し詳しく見てみた。何か、思っていたのと随分違う方向へ話が進んでいるようである。火を付けたのは、マスコミが韓国人の女性先達が遍路シールを貼っているという、プラス思考の記事に、「差別貼り紙」側が反応したようにみえる。最近のシールからはハングルは外しているようだ。

遍路シールは先に歩いた人が、後に続く人のために、自然発生的に貼られたもので、思い思いに貼られて、今では景観を害するほどになっている。本当に欲しいところには少なく、もういらないというところにべたべた貼られている。どこかで共通マークを決めて、すっきり出来ないかと思う。共通デザインを皆んなに配って、貼る作業だけをボランティアでやればよい。本当にお遍路さんのためというならば、それぞれの機関が独自デザインにする必要はない。そうすれば、今回のような問題の起こる余地はない。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

「四国お遍路まんだら 再び」第一稿脱稿

(寒さの中でもビオラが次々に花を付ける、ビオラ/オレンジ)

昨夜から朝にかけて、季節風が吹き荒れて、当地は晴天なれども、この冬一番の寒さになった。風音に夜中に何度か目が覚めて、その分朝寝になった。

午前中に、「四国お遍路まんだら 再び」の、第一稿をようやく脱稿した。ほとんど書き終わっていながら、長く停滞していた。進まなかった理由は、自費出版する資金の見通しが立たず、気持が乗らなかったためである。昨年暮れより始まったアベノミクスのおかげで、その位の資金は出せそうな雰囲気になってきた。そこで再び気持が乗って、ようやく今日、最後の20ページほどをまとめて、脱稿にこぎつけることが出来た。

ページ数は「四国お遍路まんだら」が173ページだったが、今回は本文で193ページ、写真を取り込むとさらに20ページほど増える。今回はカラーアルバム部分を省く予定だが、予算的には前回並みに掛かるだろうと思う。前回は遍路日数41日、今回は52日で、日数も2割以上増えているから、ページ数が増えるのは止むを得ないところであろう。

内容をまとめながら、今回は八十八札所の記述が少ないことに気付いていた。書けば一回目のくり返しになるため、避けてきた。その分、奥之院、別格20札所、番外霊場などについて、詳しく書き込んでいる。八十八札所と別格20札所を同時に巡りたい向きには、コース取りなど、参考になるのではないかと思う。

たくさんの人たちとの交流で、少しは話を面白く書きたいと思ったけれども、書き上げてみると、結局、事実を淡々と書き連ねたものになってしまった。読む人には退屈をさせて申し訳ないが、性格だから止むを得ない。慎重に、真面目に巡っていても、この程度の事件は毎日起きる。もっと大胆に歩く人たちは、事件、トラブルなどエピソードだらけになると思う。

これからまだ数回の推敲を重ねる予定だが、出版は何とか今年六月にしたい。

書き出しの部分を少しだけ、以下へ示す。

再び四国へやってきた。三年ぶりである。正確には二年四ヶ月、ずいぶん待ち遠しかった。様々な世間の義理で出掛けられなかった。
平成二十四年四月五日午後〇時二〇分、JR高徳線板東駅に降り立った。お遍路への着替えは普通列車の中で行った。といっても、ジャンバーを脱いで白衣を着、帽子を菅笠に替えただけである。背には重さ八キロ強のザックを背負い、手には一〇センチ以上磨り減った金剛杖を持ち、格好はすっかりお遍路さんになった。しかし、気持ちが変るにはしばらく掛かる。足慣らしの今日は、半日で、第一番札所霊山寺、第二番札所極楽寺、第三番札所金泉寺を巡り、ばんどう旅館に入る予定である。


こんな風に淡々と書き進んで行く。
コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )

久し振りに、お遍路の話題

(鬼コーチさんの奥州街道道中記)

駿河古文書会の会員で、同年輩のAさんが先週の土曜日から区切り打ちで最終回のお遍路に出かけると言っていた。香川県の第80番札所の国分寺からスタートで、第88番大窪寺で結願して、第1番霊山寺まで戻るという。女性二人で、ゆっくりのお遍路のようだから、1週間ほどかかるだろう。金曜日の例会の前に少し話した。土曜日が雨で、五色台の山中歩きが心配らしく、様子を聞かれた。また、女体山への登りのコース取りについても聞かれた。

   *    *    *    *    *    *    *

区切り打ちでのお遍路も、何回にも分けて、毎年のようにお遍路に行けるので、悪くない。松山在住のマメ名人さんも10日ほどの区切り打ちで出掛けたと一月ほど前に書き込みをくれた。最後の書き込みに、コメントを返さなかったので、ここで触れる。

自分のリクエストで、マメ名人さんが泊まった宿を書き出してくれた。

「17日ホテル土佐路たかす、18日高知屋、19日山陽荘、20日民宿あわ、21日岩本寺宿坊、22日民宿ビックマリーン、23日民宿久百々、24日民宿夕日、25日民宿叶崎、26日ホテルマツヤ、27日観自在寺宿坊、28日三好旅館。」

聞いたような宿が並んでいる。山陽荘、民宿ビックマリーン、民宿久百々、観自在寺宿坊、三好旅館の5宿は自分は泊まっていない。

「印象に残った宿は、高知屋、山陽荘、久百々、夕日、叶崎、三好旅館。特にきつい旧遍路道を歩いた後たどり着いた、民宿夕日からの夕日は、すべてを帳消しにするほど感激でした。」

民宿夕日からの夕日は自分も印象に残っている。「すべてを帳消しにするほど感激」と書かれていたが、そのすべてが何なのか、少し気になる。歩くのが嫌いと、お遍路を泊める宿らしからぬ女将さんであったけれども、気取りのない応対は嫌いではなかった。

   *    *    *    *    *    *    *

ついでにもう一つ、鬼コーチさんから1ヶ月ほど前に手紙を頂いた。街道歩きをされていて、仙台から青森までの奥州街道の道中記を送っていただいた。鬼コーチさんの道中記は小さいカラー写真を並べたもので、A4で20枚にも及ぶ。歩きながら大変に小まめに写真を撮られている印象が、お遍路で同行した時も感じられた。

鬼コーチさんは、昨年春、4月1日に日本橋を出発し、仙台まで歩く計画だったけれども、震災で大変なことになり、中止した。来年春には、昨年中止したコースを歩く予定だという。鬼コーチさんのペースにはとても付いて行けそうにないが、一度お会いしたいとは思っている。

   *    *    *    *    *    *    *

2度目のお遍路の記録は、「四国お遍路まんだら ふたたび」とタイトルまで決まっている。原稿もほぼ出来上がっている。ただし、年金生活に入り、自費出版したいけれども、予算が付かない。それで考えてしまっている。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

5月22日、北条から今治へ、遍照院と別宮大山祇神社

 
(遍照院山門の鬼瓦)

遍照院は、別名、厄除大師と言い、参拝客が多い。瀬戸内沿いの菊間は瓦製造で有名な町で、遍照院山門には仁王像の代りに菊間で製造された大きな鬼瓦が置かれていた。この鬼瓦も当然あ・うん一対の鬼瓦であった。どうも自分はご利益(りやく)を前面に出したお寺は苦手である。バスが来て参拝客がたくさん降りてきたので、トイレだけ借りてお寺を後にした。

青木地蔵の先、海辺の国道を歩く。日差しが強くなって、気温も上がってきた。前方を女性のお遍路さんが行く。足がなかなか速く、追い付けそうで追い付けなかった。空も瀬戸内海も青さを競うような素晴らしいお天気である。海辺にトイレを見つけて入っているうちに、青年お遍路に追い抜かれ、女性お遍路は視界から消えていた。星の浦海浜公園では余りの好天気に休憩所に横になって目を瞑った。10分も眠っただろうか。遍路中に寝てしまったのは初めてであった。それほど今日の天気は穏やかであった。

大西の町を通り抜けたところで、延命寺へ向かう右へ曲がる道を通り過ぎて、少し大回りをしてしまった。

延命寺から里道を遍路シールに導かれて右へ左へと進み大谷霊園を越えて今治の町へ入る。大谷公園の出口、街から見ると入口に、遍路休憩所があった。向かいの店の自販機で、清涼飲料を買って、休憩所で休んでいると、店からおばあさんが出て来て、宿は決まっているのか、皆んなここで泊って行くよと話しかけてくる。宿は南光坊のそばにとってあるから、と答えた。

今治の街に入って、南光坊を打つ前に、隣りの別宮大山祇神社に参拝した。別宮大山祇神社は大宝3年(703)、文武天皇の勅命により、瀬戸内海の大三島にある、大山祇神社の大山積大神をこの地に勧請し、別宮としたのに始まる。鎌倉時代の初めの正治年間には、大山祇神社の24あった僧坊のうち8坊が別宮に移され、別当寺・大積山光明寺を称した。

それに伴ない、四国八十八ヶ所の55番札所は大三島の大山祇神社から、参拝の便利な別宮大山祇神社(光明寺)が札所となった。8僧坊は天正年間、長曾我部軍により焼き払われ、後に南光坊だけが再建され、明治の神仏分離によって南光坊は独立し、55番札所も南光坊に移された。

別宮大山祇神社の社務所で御朱印を頼んだ。女性が受け付けて、奥へもって行き、見ていると墨を摺り、一文字一文字を楷書で書いて御朱印を押すまで、ゆっくりと時間を掛けてやってくれた。南光坊は観光バスが来て賑わっているが垣を隔てた別宮大山祇神社は人影もなく、静かな午後であった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

5月22日、北条から今治へ、花へんろ一番札所「鎌大師」

(鎌大師ヘンロ小屋)

ロンドン五輪が始まって、観戦に忙しい。お遍路記録の整理やブログも中断したいところだが、アスリートたちの頑張りに負けないためにも、続けるべく頑張りたい。

   *    *    *    *    *    *    *

5月22日、北条の宿を出て、今治まで歩いた。前回は雨に降られて、途中で宿に逃げ込んだけれども、今回は快晴で、前回のリベンジが出来ると思った。前回は寄る気にもならなかった、番外の霊場も立寄ってみる予定だった。

同宿だった宿修行さんは、再就職の日程が迫ってきたから先を急ぐようで、一足先に出かけた。あちこち道草をする自分も続いて出発した。宿を出て北条の町で最初に探した霊場は養護院である。行過ぎて、立岩川まで出てしまい、尋ね戻って養護院を打った。養護院は別名「お杖大師」と呼ばれているが、寺内に紺地金襴の袋に入った杖があり、この杖を拝み、願い事をすれば、願いが叶うという。お遍路には関係の深いお寺である。

北条を出て、田圃の中に道を真っ直ぐに行くと、山の間を越す峠のふもとに、「鎌大師」がある。弘法大師がこの地に行脚のみぎり、悪疫が流行しているのを哀れんで、鎌で刻んだ大師像を与えたところ、疫病は平癒し流行も治まった。その大師像を本尊にこの地に堂を立て深く信仰されたという。

早坂暁脚本のNHKドラマ「花へんろ」の舞台となってから、地元ではドラマに因んで「花へんろ」の札所を制定した。その一番札所が鎌大師堂で、二番が昨日歩いた粟井にある粟井坂大師堂、三番札所が高縄寺、四番札所が先程打った杖大師(養護院)である。

この「鎌大師」には、「花へんろ一番札所から」等の著書で有名な手束妙絹尼が庵主をしており、多くのお参りがあった。高齢を理由に平成15年に引退され、そのあと若い意欲のある僧が入って、お遍路さんをたくさん呼ぶべく、活動していた。境内に立派なヘンロ小屋があるが、これも若い僧が運動して建てたという。しかし、なかなか生活していくほどの檀家も無く、地元のおばちゃんが言っていたように、花へんろ三番札所の高縄寺へ引き抜かれて行ってしまった。高縄寺は北条から東へ10キロほど入った山中にある。

鎌大師を過ぎて、鴻の坂(峠)を越えて、浅海(あさなみ)の集落に下る。途中の遍路道には、案内板によると、阿弥陀堂があり、昔はお遍路さんの接待所になっていた。また国道に合流する角に「原のおじのっさん」(お地蔵さん)があるが、そこはかつて原の番所があり、関所になっていたという。現在は海に沿って国道が通っていて、前回は雨に中、海岸沿いを歩いたが、往時は鎌大師から鴻の坂を越え、浅海に至る道が唯一の街道で遍路道だったようだ。(続く)
コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )

5月19日、桃李庵へ向かった日

(於久万大師)

桃李庵で手打ち蕎麦が待っている日、歩く距離は13キロで、3時間も歩けば着いてしまう。だから、出来れば道草をしていきたいと思った。住吉神社までの遍路道は、勝手を知った道で、少しづつ下っていくから楽な歩きである。

住吉神社に参拝して、遍路道をたどると河合休憩所に至る。前回は同じコースながら車の道を通った。案内板によれば、ここ河合の集落には、往時15軒の遍路宿があり、一晩で300人もの泊り客があったという。ここへ泊ったお遍路さんは河合の宿に荷物を預けて、45番岩屋寺を打ち終わると、来た道を引き返して河合に帰る「打ちもどり」が行われたという。休憩所の近くには、かつては遍路宿ではなかったと思われる古い家がいくつが残っていた。

遍路道を登って車道へ出た。やがて峠御堂トンネル前から、再び遍路道になって、峠を越えて44番大寳寺に至る。その峠道を下ってきたおじさんお遍路二人組みがいた。後に「同行二人」さんとあだ名を付けたコンビで、今夜の桃李庵で同宿となる。車道の途中から下る遍路道がある、途中にトイレの付いた河合休憩所があると、遍路道の情報を伝えた。

峠を下って大寳寺を打った。納経所へ行くと、受付のおばさんは電話中であった。話を聞いていると、来年の3月の宿坊の予約である。その季節ではまだ雪が残っていると話している。檀家の人たちを住職が連れてきて、この宿坊に泊まろうというらしい。長電話で自分を先頭に数人のお遍路さんが並んだ。ようやく電話を終え、納経帳を受取り、電話をしながらでは失礼だから、と待たせた弁解をいう。そして書いたスピードがめちゃくちゃに速かった。一丁上がりとばかりに寄こして、もう次の納経帳に掛っている。後で見たところ、とても字とは言い難い筆跡で、もちろん読めたものではなかった。いくら待たせているとはいえ、これほど心の籠らない納経印は初めてであった。

三日後の青木地蔵のおじさんに聞いた話では、どこの納経所であったか、テレビを横目で見ながら、乱暴に納経印を打ち、納経帳をポイと投げて寄こした若い男性係員が居て、温厚そうな男性お遍路が怒ってしまった。中から住職が出て来て謝っていたが、本人は奥に引っ込んだまま出て来なかった。そばで見ていて、青木地蔵のおじさんは、お遍路にとって、納経帳は大切なもので、扱いには十分気をつけてもらいたいと、口を出したことがある。

納経帳を乱暴に扱うのは、お寺として八十八札所のシステムを自ら否定することになることを、慣れた係員はつい忘れてしまう。納経所を開ける前に、納経印作業留意マニュアルを復唱するくらいのことはするべきである。お寺は宗教施設であるが、納経所係員はサービス業であることを忘れてはならない。

久万の町に出て、於久万大師に寄った。小さなお堂ながら、屋根が銅板で葺かれた立派な造りであった。弘法大師がこの地を巡錫のとき、この地でおくまさんというおばあさんに手厚くもてなされた。お礼に何か願いがないかと聞くと、何も無いこの山中が後の世まで栄えることが望みだという。以後、この地が栄えるようになり、話を伝え聞いた人々は老女の名を取って、この地を久万(くま)と呼ぶようになった。地名由来のおくまさんを記念して、この地に大師堂(於久万大師)を築いたと伝わる。

「でんこ」という食堂で、軽くざるうどんを頂いた。食後のデザートに、久万高原で採れるトマトを使ったトマトソフトを頂いた。トマトの味がする何とも不思議なテイストであった。




(仰西渠)

桃李庵まで、国道33号線をあと3キロの仰西という地区に、仰西渠(こうさいきょ)と呼ばれる江戸時代の用水路が残っている。元禄年間に山之内彦左衛門(仰西は雅号?)が私財を投じて完成させた、農業用水路で「青の洞門」のように手彫りで造ったといわれる。川に降りる遊歩道を行くと、川の端に岩を掘り抜いた水路があり、水が流れていた。一分はトンネルにくり貫かれている。長さ57メートル、幅2.2メートル、深さ1.5メートルの水路は現在も当時の姿のまま利用されている。

こんな道草をしながら午後1時過ぎには、桃李庵に着いた。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

5月3日、前半最後の日、宇和島まで

(馬目木大師)

ロンドンオリンピック開会式前のサッカーの予選リーグで女子がカナダに2対1で勝ったのに続いて、男子がスペインに1対0で勝利した。歓喜、歓喜! 幸先よい日本チームのキックオフである。

   *    *    *    *    *    *    *

5月3日、小雨の降る中をてんやわんやの大畑旅館を出た。宇和島までの今日の行程は、真っ直ぐに行けば15キロほどしかなく、午前中早い内に着いてしまう。そこで昨日雨で断念した満願寺へ往復してくることにした。

満願寺は岩松から岩松川を遡って東へ3キロほど入った所にある。雨が降る境内は人気(ひとけ)がなくてひっそりとしていた。勤行を済ませ、納経印はもらえそうに無かったので、早々に後にした。

案内板に県指定の天然記念物「二重柿」があると記されていた。弘法大師が巡錫(じゅんしゃく)の途中、杖を立てられたものが根を下したと伝わり、柿の実の中に柿の実が、柿の種の中にも柿の種が出来る、変わった柿で、別名、「子持ち柿」と呼ばれている。子宝に恵まれるという縁起物として、干し柿の希望者が多いというが、今では柿の実はわずかしか実らないらしい。境内にあるはずの柿の木は見つけられなかった。

国道56号線まで戻る岩松川沿いの道は、雨混じりの風があり、菅笠を手で押えながら、大変歩き辛かった。そんな中を、先を行く男性を見かけた。傘を差し手ぶらだから、お仲間ではなく、地元の人だろうと思った。足はなかなか達者のようで、追い付けそうで追い付けない。自販機へ寄ったから、何か買うのかなと見ていると、お釣りの返却口を探り、何事も無かったように道に戻り歩き続けた。そんな風体には見えなかったのに、本人は当然の権利というように堂々として、見ている方がショックな光景であった。

国道に戻ってコンビニに入った。パンと牛乳を購入して、レジに持って行くと、若い女店員が勘定をしながら、何も聞かないのに、トンネルの手前に遍路小屋があって休憩が出来る、と案内してくれた。これは、コンビニのローカルマニュアルなのだろうか。いつか誰かに聞かれて、彼女なりに考えたお接待だと思いたい。いじわる爺さんは、コンビニで、時々マニュアルに無いことを聞いて、マニュアル崩しをすることがある。

松尾トンネルの手前、左手上に、壁にマンガが描かれた遍路小屋があった。この遍路小屋は周囲に壁があり、扉がついていて、宿泊も出来るようだ。遍路小屋の脇を抜けて標高220メートルの峠を越える遍路道があるが、今日はトンネルを歩いた。トンネルの先に、3年前には、トイレ付の休憩所があったはずだが、痕跡すら無くなっていた。

国道沿いのセルフのうどんで昼食をとり、宇和島の町に入った。国道から遍路シールに導かれ、遍路道をたどる。逆打ちのお遍路がすれ違いながら、タクシー会社の角を右手に行くようにと、この先の遍路道を教えてくれた。

目標にしていた馬目木大師の大師堂は、住宅地の中に身を縮めるようにしてあった。馬目木(まめき)はウバメガシのことで、マメの木ではない。案内板によると、弘法大師が開かれた九島鯨谷の願成寺(鯨大師)は、40番観自在寺の奥之院とされたが、離れ島で巡拝に不便であった。弘法大師は九島へ渡る渡し場に遥拝所を設け、これに札を掛けよと、馬目木(ウバメガシ)の枝を立てた。それが根付いて葉が茂るようになった。

現在もそのウバメガシが残っているというが、脇に立ったイチョウの木ばかりが目立って、見逃した。九島は宇和島港を出てすぐの島で、往時は馬目木大師の所まで海が入り込んでいたようだ。

最後に別格6番龍光院を打った。駅のそばで、宇和島城の山に対面する山の中腹にあった。天気はすっかり回復して日差しが強く、勤行の後、小さな木陰で休んだ。年配の夫婦や、二人の幼児を連れた若い夫婦がお参りに来るのを見ていた。世の中は、今日はゴールデンウィークの真ん中の祝日である。

龍光院は元和元年(1615)宇和島藩の初代藩主、伊達秀宗が、宇和島城の鬼門に当たるこの場所へ、鬼門の鎮めとして建立した。寛永8年(1631)九島の願成寺は巡拝に便利なようにと、先ほど通った馬目木大師の地に移され、元結掛願成寺と呼ばれ、観自在寺の奥の院とされていたが、明治になって龍光院に合祀され、大師堂だけが、馬目木大師として地元に残された。従って、現在は龍光院が観自在寺の奥の院である。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

5月2日、雨の柏坂を越えた日

(暗い愛南町の内海)

ようやく孫たちに占拠されていた我が家は解放され(孫たちが帰った)、静かな日々が戻った。いよいよロンドンオリンピックが始まる。心がざわざわし始める。今日、イチローがヤンキースへ電撃トレードされた。

   *    *    *    *    *    *    *

5月2日、愛媛県愛南町の国道56号線を、八百坂を越えてひたすら歩いた。こんな雨の日は休憩がなかなか取れない。バス停の小さな待合所が貴重な休憩所となる。内海の暗い海を眺めながら、小降りになった柏の町に入った。

それより山手に入って柏坂を登ることになるが、その途中で、農家のおばさんからお接待で夏みかんを頂いた。山で食べて、皮は山に捨てれば自然に帰るからという。そう言われても、皆んながそうすれば山は汚れてしまう。もちろん皮は宿まで持ち帰る。そんなやり取りの後、行く道が正しいかどうか、急に不安になった。あたりに遍路シールも見当たらない。一度遍路シールのあるところまで引返し、得心が行ってから先に進んだ。

柏坂も2度目だと気持ちが楽である。最初の目標は柳水大師の休憩所であった。しかし、そろそろ休憩所だと思いながら、なかなかそこまで至らない。どうしても気持ちの方が先へ進んでしまうからだ。柳水大師の休憩所は雨に煙って薄暗かった。ゆっくり休憩を取り、あと一登りで稜線まで出れば、楽な尾根歩きが待っている。清水大師はその稜線よりわずかに下る寄り道である。

清水大師の案内板によれば、昔、娘巡礼が喉の渇きに意識を失い倒れていると、通りかかった弘法大師が揺り起こし、側らのシキミの木の根元を掘れと言い残して姿を消した。言われた通りに掘ると真清水が湧き出し、飲むと持病の労咳まで治ってしまった。その清水を「大師水」と呼び、お遍路さんの喉を潤してきた。現在は清水らしきものは見当たらず、小さな祠があるだけだった。昭和15年ごろには、年一度の祭礼に市が立ち、奉納相撲が催されたという。その説明が信じられないほど狭い空間であった。

集落まで下ってきたが、雨宿りできる休憩場所が見付からないまま、国道56号線を横切って、畑地の集落を歩いた。畑地小学校前に公民館があり、その軒下にベンチがあった。ベンチを借りて休憩する。そこへ、公民館の職員らしい女性がやって来た。昼時だから食事に自宅へ帰っていたのだろう。軒下を借りることの了解を取り、昼食用に買ってあったパンを食べ、側らの自販機で購入したコーヒーで流し込んだ。柏坂の山中で小降りだった雨は、ここへ来てまた雨脚を増していた。

この先、鴨田のヘンロ小屋の所から、峠道に入り、峠を越して番外の満願寺を打つ計画だったが、雨の中、1時間以上の回り道になる。満願寺は取りやめて、今日はそのまま、岩松の大畑旅館に入ることにした。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

4月30日、月山神社のイメージ戦略

(月山神社の大師堂)

「ひとり歩き」地図で月山神社あたりの遍路道を確認しながら、なぜか、背景に太平洋が広がる岡の上に建った神社を想像していた。潅木が生えているだけの荒涼とした台地に、潮風にさらされて風化の進んだ小さな社が建っている。夜になると、それらが白い月の光に照らされて浮かび上がる。そんな月山神社のイメージだった。

3年前のお遍路の時、足摺岬から月山神社へ廻った「鬼コーチ」は、宿をつないでも歩くのは難しいから、途中からバスを利用するつもりだと話していた。しかし「マメ名人」さんは、自分と分かれた後で、この道を歩いたと聞いた。距離を確かめてみると、叶崎の民宿に泊まれば、宿毛までは30数キロで、歩けない距離ではない。その日に延光寺まで行き着くのはさすがに厳しいから、宿毛に泊って、翌朝、延光寺を打てばよいと考えた。

それでも、道中人家は少ないし、雨模様の天気であったから、何が起きてもよいように、朝は早く出て来たのである。海に沿った国道321号線から別れて、月山神社へ2キロ手前の大浦という漁村から、遍路道は山道の登りになった。遍路道の標識は忘れない程度にしか付いていないから、旧林道の草道を時々不安になりながら歩いた。イメージした岡の上には出ないで、林間の車道に出た。車での参拝者はこの道を来るようで、やがて道沿いに月山神社の社殿があった。

自分が抱いた風景は「最果て」というイメージから想像したものであった。来てみれば日本のどこにでもある、山間の古びた神社であった。森の中に、それほど離れていないはずの、海の気配は全く無かった。

雨の中、打ち終えてから、案内板などをゆっくり読んだ。神仏分離令の影響がここにもあった。縁起によると、元は月山霊場、守月山月光院南照寺と称せられ、神仏習合の霊場であった。明治の神仏分離令により、月山神社と改称され今日に至る。伝承によれば遠く白鳳の世、修験道の開祖といわれる役小角が初めてこの山に入り、「月影の霊石」を発見し、月夜見尊を奉斎したのが開基といわれる。サンゴの名産地で知られた大月一帯の護り神として栄えたというから、サンゴが採れていた時代に社殿も整えられたのであろう。

弘法大師はこの霊石の前に二十三夜月待の密供を行い、四国八十八ヶ所番外札所として参拝者も多かった。かつての南照寺のお堂は神社の隣りに大師堂として転用されている。
※ 密供(みっく)- 密教で諸尊を供養する修法。


(月山神社の月影の霊石)

案内板の下に月影の霊石が置かれていた。三日月型の石で、もっともこれはレプリカで、実物は社殿背後の山腹にある。

月山神社一帯には、様々な月のイメージが存在している。すべては役小角が山中で「月影の霊石」を見つけたことに始まる。案内板にあったものだけでも、祭神の月夜見尊、月山霊場、守月山月光院南照寺(山名、院名、寺名ともに月のイメージ)、二十三夜月待の密供と並ぶ。さらに、ここの地名が、大月町月ヶ丘、目の前の海を月灘。参拝者は月のイメージに引かれてこの地を訪れたかもしれない。そんなところに、往時のイメージ戦略が感じられる。

自分も、そんなイメージに惹かれた。月山神社が無ければ、こんな大回りな遍路道を歩くことは無かった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ