平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
松木新左衛門始末聞書1 商売、住宅構え
「遠州濱松軍記」を読み終えて、次に何を読もうかと考えた。浜松を中心にした武張った軍記の後だから、今度は駿府の商家の話が良いだろうと思い、「松木新左衛門始末聞書」という文書を選んだ。
この聞書は駿河古文書会が原典シリーズ第二輯として復刻刊行されたもので、県立図書館に所蔵されているものを借りてきた。解読文が付いていないけれども、比較的読みやすいから、問題なく読めると思う。
さて、松木家は戦国時代に甲州から駿府へ移住して来て、商売の基礎を築いていった、駿府における商家の名門である。第五代新左衛門宗周に至って、絹布、木綿、米穀、材木、醤油の醸造まで行った。元禄十年、江戸寛永寺の造営工事を紀伊国屋文左衛門と共同で請負い、巨利を収めたといわれる。
この聞書はその第五代新左衛門宗周からの聞き書きのようである。往時の商売の様子、商家の暮らしぶりなど、知れるのではと思い、興味津々である。さっそく、解読を始めよう。
商売の事
一 駿府両替町壱丁目に松木新左衛門とて、往古より絹布、晒、麻等の問屋をして、東西の商人来たりて、ここにて取り捌いて帰りしよし。冨祐の商人にて有りしなり。
※ 冨祐(ふゆう)- 富裕。財産が多くあって、生活が豊かなこと。
住宅構えの事
一 居宅は両替町壱丁目、惣小間数は百拾間、但し折り廻しなり。北側西の角にて、間口弐拾九間半、これ住宅なり。外に扣家、同側東角に七間半、同側の北に呉服町の境より屋敷五間、ここは裏門なり。隠居屋として南側の東の角に拾壱間半、同所の南に上石町の境より屋敷四間半、これに隠居の裏門有り。間口合わせて五拾八間半。
※ 折り廻し - 道、建物などがかぎの手に折れ曲がっていること。
※ 扣家(ひかえや)- 控家。ふだん住んでいる家のほかに、必要に備えて用意してある家。
(破風と狐格子/島田市天徳寺)
丁役は十一軒役なり。内弐軒は手前丁頭を勤むるゆえ、丁役を除く。小棟作の杮屋根、破風に狐格子あり。二階は腕木の持出しにて、切日縁に高欄付きで、格子戸を立て、惣窓子は漆喰の塗り込め土蔵三棟、四間梁に弐拾五間ずつ。
※ 丁(町)役(ちょうやく)- 江戸時代、大坂の町人に賦課された町内の費用。
※ 丁(町)頭(まちがしら)- 町年寄・名主などの町役人の総称。
※ 杮屋根(こけらやね)- 木材の薄板を用いて葺いた屋根。文化財建築に多く見られる。
※ 破風(はふ)- 切妻造や入母屋造の屋根の両端の三角部分。
※ 狐格子(きつねごうし)- 入母屋破風の妻のところに格子を入れ、内側に板を張ったもの。妻飾りの一種。
※ 腕木(うでき)- 垂木・庇などを支えるために、柱または梁などから横に突き出させた横木。
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遠州濱松軍記 16 三方ヶ原の戦い(8) 浜松音羽ざざんざの松
「遠州濱松軍記」のいよいよ最終回である。八幡宮境内の小宴は続く。
その時、内藤三左衛門俊成申しけるは、本多平八郎殿、唐頭を甲州勢目に立ち候や、狂歌致し候と申せば、家康公御意遊ばされ候には、その狂歌難しきが、覚え候やと仰せられければ、渡辺半蔵、拙者あらまし覚え候と申し、
家康に 過ぎたる物は 二つ有り 唐の頭に 本多平八
と申しけると御答え申し上げれば、これは事なりと仰せられ、殊の外御機嫌にて、重ねて御酒召し上がらる。
その時、御籏本より物に心得たる者、恐れながら、この松風の颯(さつ)の声とのうた飛び出しければ、諸軍勢一同に三遍唄いければ、益々御機嫌よく、また御酒三献召し上がらる。
「この松風の颯(さつ)の声」との歌は、永享四年(1432)六代足利義教将軍が関東管領足利持氏を威圧するため、駿河国へ下向の際、野口村の八幡の森で宴を催し、浜松の音は射射牟射(ささむさ)と歌った故事に由来する。この故事は、「颯颯松(ざざんざの松)」の謂れでもあり、また「浜松」の地名譚でもある。
それより諸軍勢残らず御盃下さりけり。末代のためは、十八公のよそおい、千秋萬歳、飄(ひるがえ)伝う。この時より浜松音羽ざざんざの松と申すなり。
※ 十八公 - 松のこと。松の字を分解すると「十八公」。
家康公御立ち給う。諸軍勢御供仕り、松尾の城へ御入り遊ばされ、目出たく御代と納まりけり。
さて八幡宮の御社の楠に御馬乗り上らせ給う事、御馬の足あと、近頃まで有り。また音羽の松と申す所、松の後に音羽大明神と申す御宮有り。武士大いに太平の松のあとと立ち寄り、参詣致され候。これ浜松の古跡。
それより信玄公は、三州野田の城を責むべくとて、城主菅沼新八郎なり。野田において、菅沼家来、日下(くさか)太郎兵衛鉄炮に当り御落命なり。
家康公御籏の長さ、六尺三寸
文に曰く 厭離穢土 欣求浄土
利釼即是弥陀号
一称唱念羅皆除
武田信玄公御籏
文に曰く
天上天下唯我独尊
徳川家康公御誕生の事
天文十一年寅十二月廿六日、三州岡崎にて御誕生。御名を竹千代様と号し奉る。弘治二年松平治郎三郎元信様と号し奉る。後に蔵人元康公と号す。その後、徳川三河守内大臣家康公と仰ぎ奉り候なり。
時に安政五年孟冬、鳥居藤平直浩これを写す。
遠州豊田郡立野村
鳥居藤蔵所持なり。
どういう訳で鳥居家に「遠州濱松軍記」が写されて残ったかは不明であるが、鳥居といえば、軍記の三方ヶ原の戦いの初めに、物見に出て、合戦は無用と申上げ、腰抜けと罵られ、先陣で討死した、鳥居四郎右衛門忠廣を思い出す。想像をたくましくすれば、鳥居家はその子孫で、御先祖が描かれた軍記だったから、わざわざ写し残したのではないだろうか。もちろん何も根拠はない。
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遠州濱松軍記 15 三方ヶ原の戦い(7) 家康、八幡宮に御礼社参
「遠州濱松軍記」もいよいよ明日で読み終わる。三方ヶ原の戦いは家康の負け戦であったことは明らかで、この戦いでの家康は怒りから暴走に近い行動を起こし、忠臣たちに諌められていて、決して「鳴くまで待とう」の家康ではなかった。戦いに敗れて命からがら浜松城に逃げ帰った家康は、その時の憔悴しきった顰め面の自らの肖像画を描かせて、それを生涯手元に置いて、教訓としたと言われている。この後の家康は万全の準備を重ね、勝てると思えるまで戦をしなかった。「鳴くまで待とう」の家康は三方ヶ原の戦いの経験の成せるわざだったようだ。
「遠州濱松軍記」の解読を続けよう。犀ヶ崖で一矢を報いた家康は八幡宮に御礼の社参に詣でる。
家康公、先手の大将本多平八郎忠勝、普済寺に火を懸け、山際の甲州勢打構え、味方の相図を待ち居たり。さて不思議や、八幡宮現れ給い、備え立つ亀居山へ御告げ有ける。汝が軍慮の通り、甲州勢大方、犀ヶ崖へ落ちけるなり。早々欠け行き、残軍兵を打ち取れとの御告げ、八幡村御社へ御飛び行き遊され候事、有難き御事なり。
※ 軍慮(ぐんりょ)- 戦術などを考えめぐらすこと。また、そのはかりごと。軍略。戦略。
さて家康公御勢、勇み進みて、陣鐘、陣太鼓相鳴らし、数千の松明を灯し出で候えば、甲州勢残軍兵ども、仰天して逃げ散りけり。本多忠勝、相図の鐘太皷打ち鳴らせば、井伊、酒井、榊原の勢出向き、無二無三に切り懸かれば、甲州勢も死にもの狂いに火花を散らし、戦いけり。
中にも山本勘介は主君の先途も覚束なしと罷り越したるを、奥平九八郎追いかけたり。勘介逃げ延びければ、味方ヶ原の信玄の出張りし陣所を、見当に打ち懸かりけり。また甲州勢の中へかけ入り、敵二、三千騎討ち取りたる勢い、天晴れ勇士と恐れぬ者なし。
※ 先途(せんど)- これから進む先。行き先。前途。
家康公勇み給うと、敵壱人も残らず討ち取れと下知し給う。武田方には下知する者なし。戦いければ、運つきて、先陣、後陣にせめ来たる軍兵、残らず討ち死にする。
家康公、諸軍に向いて仰せけるは、この度信玄の大敵亡ぼす事、偏えに八幡宮の御加勢なり。これより直ちに八幡宮へ社参仕らんとて、御籏本残らず御供にて、八幡宮へ御朱印五拾石御寄付、御社東方に古びたる松の百間余りも這い延びて、龍のわだかまりたる様に成る松の根に御腰掛させ給い、諸将の面々に御意遊ばされしは、皆々の働き、今ぞ誠に安心の時節なり。一献くまんと仰せられ候えば、八幡宮神主、降りて、三宝に土器(かわらけ)、銚子取り添え、御前へ差し上げ候えば、三献召し上がられ、忠勝に下さりけり。忠勝戴き、それより軍将へ順盃す。
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「遠州濱松軍記」の舞台、犀ヶ崖を訪れる
浜松城の北西1キロの地点に犀ヶ崖という陥溝がある。現況で東西に長さ116メートル、幅29~34メートル、深さ13メートルの切り立った溝であるという。
11月19日朝、現地を訪れた。犀ヶ崖の南側に、宗円堂というお堂があり、現在は犀ヶ崖資料館になっている。前に一度訪れたことがあるが、遠州大念仏関係の文物が展示してあるだけのところであった。現在は内装が施され、りっぱな資料館になっていた。
資料館の前を通ると、管理している老人に呼び止められ、堂内に誘われた。三方ヶ原の戦いと犀ヶ崖、さらに遠州大念仏との関わりについて、浜松出身の女流講談師・田辺一邑の講釈に乗せたビデオが流された。冷え冷えとする床に座って最後まで視聴した。武田軍の遠州での行動が良く理解でき、信玄が軍を進めるに、徳川軍では大きな抵抗も出来なかったようだ。そんな負け戦の三方ヶ原の戦いで、唯一一矢を報いたのが犀ヶ崖であった。家康方の計略に掛かり、闇の中、多くの武田軍兵が、犀ヶ崖に落ちて死んだのは確かな史実であるらしい。
戦いの後、翌々年ごろより、夜更けに犀ヶ崖の谷底から、人馬の呻き声が聞こえたり、数々の崇りがあらわれて、人々に恐れられるようになった。家康は三河から了傅という僧侶を招いて、七日七夜、鉦とと太鼓を鳴らして供養すると、崇りはようやく鎮まった。家康は、三葉葵の紋付羽織を着ることを許して、念仏踊りを奨励した。了傅の後を継いだ宗円がさらに布教に勤めたため、遠州各地で大念仏が盛んになった。最盛期には280の村々で大念仏が行われ、現在でも70組の念仏団が遠州大念仏保存会に所属して活動している。各村々では、その年に初盆を迎える家々の庭先で、念仏踊りを行っている。宗円堂は長く遠州大念仏団の本部として使われてきた。(遠州大念仏の様子は、YouTubeで色々見ることができる)
(大島蓼太句碑)
宗円堂の周囲は小公園になっていて、犀ヶ崖を覗くことが出来る外、本多忠真の顕彰碑、夏目吉信の顕彰碑などがあり、また、江戸中期の俳人、大島蓼太(りょうた)の句碑があった。いわく、
岩角に 兜くだけて 椿かな
その日の靜岡新聞夕刊に「犀ヶ崖資料館の閉館案浮上」という大見出しが出ていた。見学したばかりの犀ヶ崖資料館だけに、びっくりして読んでみると、浜松市は、宗円堂を耐震強度不足で危険との理由で、建物自体に文化的価値はないとした上で、閉館し立入禁止にすると地元に示唆した。後の計画も無しに一方的に立入禁止にするとは、随分乱暴な話で、地元関係者からは大ブーイングが起きているという。
犀ヶ崖資料館は浜松市が整備した「家康の散歩道」の一つになっている。浜松市は最近職員の不祥事が相次ぎ、市が強力に進めた、ゆるきゃら「出世大名家康くん」も、本命といわれた「ゆるキャラグランプリ」を逃し、最近ちょっとおかしくなっている。
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遠州濱松軍記 14 三方ヶ原の戦い(6) 信玄勢、犀ヶ崖へ落入る
遠州濱松軍記の解読を続ける。余計な解説は不要であろう。
信玄公、味方ヶ原出張(でばり)を構え、大将信玄仰せけるは、この度の合戦勝利なり。浜松勢大方討ち取り候なり。明朝押し寄せ、残る軍兵討ち取り申すべし、と仰せければ、山本勘介申し上げけるは、御定めに背くにはあらねども、如何(いかが)間を御延し候ては、用意手強わく相成るべし。今晩押し寄せ候わば、討ち落し申すべしと申し上げる折りから、南に当り大きに火の手相見え候を、山本勘介急度見て、さては家康、城に火を掛け落城と相見え申し候。早々御出馬遊され候と申し上げる。
その身乗出しければ、軍勢我先と乗り出し/\けり。山本勘介、小豆餅と申す所、馬をとゞめ、軍勢に申しけるは、さてはこの火は城より西に有り。察するに家康公、在家へ火を懸け、落城と見せ、敵を引き寄せ討ち取る手立てなり。早々御出馬遊され候と申し上げ、家康が手立ての内返し、この方より城へ押し寄るべし。軍勢火の手より東の方へ乗り掛け、よく下知しければ、我先にと東方へと乗り出し、真っ先に白御装束に緋おどしの鎧を着し、ぬけがけと見えて、武者壱騎飛び行きけるを、甲州勢急度見て、さては味方の先陣と心得、我先にと飛び行きける。信玄籏本残らず、犀ヶ崖へ落ち入りける。
※ 在家(ざいか)- いなかの家。いなか。
然る処、山本勘介、後陣に下知せんとて、その身は小豆糯と言う所に待ち合いける。後陣、追々欠け来たり。勘介申けるは、火の手は城より西なり。東方へ乗れと下知して、勘介乗り出しける。軍勢我先と飛び行ける。勘介申しけるは、あら不思議や、味方押し寄せし声もせざる事、不審なり。心を付けよと申しける。
(犀ヶ崖を覗いてみる、
昔はもっと深く、90メートルもあったという)
軍勢申しけるは、一円行き先見え申さず。如何致すべきやと申す処に、心強きものありて、道の薄に火を付け候えば、道明るくなりと乗り行く所、犀ヶ崖へ落ち入り候なり。軍勢泣く声聞えければ、勘介驚き、さては味方、闇ゆえ崖とも知らず落けるゝぞ。残念なりと歯噛みをならしけり。
※ 歯噛み(はがみ)- 歯ぎしり。
この山本勘介と申すは、智仁勇三徳の勇士なり。軍法、日本に隠れなければ、籏本軍兵犀ヶ崖へ落ちけるも、余り方角をよく見取りて、火の手方に押し寄せずして城方へ乗り行きし事、家康公御運強く、信玄公御運弱き道理なり。さて犀ヶ崖に乗り行きし先陣者に見えしは、八幡宮にて有りしなり。
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遠州濱松軍記 13 三方ヶ原の戦い(5) 八幡宮社参と犀ヶ崖の秘策
「遠州濱松軍記」の解読を続ける。いよいよこの軍記のクライマックスである。
家康公、諸軍に向いて仰せけるは、信玄の大敵、中々太刀先にては及び難し。城より東に八幡宮有り。社参致し軍の勝利を願うべしと仰せ出だされ、井伊、本多、酒井、榊原御供にて、密かに御社参遊ばされ、御神前にて御祈願有りければ、不思議や、社中光り輝き、白御装束召し給うて、御馬に乗らせられ、地中に大木の楠あり。これへ乗り上らせ給うと見えしに、犀ヶ崖(さいががけ)の方へ、御飛び行き遊ばされ候を、家康公仰せ遊ばされしは、誠に以って、犀ヶ崖にて戦えとの御誥(つげ)なりと思し召し、三拝遊ばされ、御下向遊され候なり。
※ 下向(げこう)- 高い所から低い所へおりていくこと。こゝでは八幡宮から城へ帰ること。
(雲立の楠/浜松八幡宮)
家康公仰せけるは、信玄勢、犀ヶ崖へ落す軍法無きかと給いければ、本多平八郎申しけるは、所々合戦信玄勢勝利に候えば、勝ちに乗り責め来たるべし。その時は普済寺大伽藍なれば、火を懸け、敵に落城と見せ候えば、いよいよ追い来たるべし。味方半分山際へ廻り、残る勢亀居山へ備え、両方よりせめ候わば、敵両方より責められて方角を失い、犀ヶ崖へ落ちるべし。その時、味方一と手に成り責め候えば、御合戦御勝利成るべしと申し上げる。
※ 軍法(ぐんぽう)- 戦争の方法。戦術。兵法。
家康公御喜悦にて、然らば普済寺住寺を呼べと仰せ出され、御使者遣され候えば、則ち住寺御招き、右の段、御物語遊され候えば、住寺も悦び、御受け申し上げ、また住僧申し上げ候は、御代納候わば、七堂伽藍に御建立下されと相願いければ、家康公仰せられけるは、その方望み次第に建立致すべしと、御墨付住僧に下され候。住寺、殊の外悦び、御前を立ち帰り寺に有りしなり。
この普済寺と申すは、御朱印地にて、御開山尊、御入り候ゆえ、拾三ヶ寺の番持寺に御座候。この時の住寺は、入野村宗源院、番持に御座候。この住寺、平僧の時、岡崎に罷り在り候節は、家康公御帰依僧にて御座候。浜松へ御入城の節も、御案内申し奉り候。普済寺御朱印七拾石に御座候。この宗源院も大寺に成るべく候所に、御代納候節、くだんの如く仕り候えし無住ゆえ、御朱印拾六石御座候事。
※ 御開山尊-普済寺の開山が順徳天皇の皇子、寒厳義伊禅師なので、「尊」を付けている。
※ 拾三ヶ寺の番持寺 -13ヶ寺が一年交替で普済寺の番をしていた。
※ 帰依僧(きえそう)-在家信者が信じてその力にすがる僧。
家康公御勢二手に分け、先手の大将本多平八郎なり。普済寺を出馬致しあり。犀ヶ崖と申すは、松尾の城後ろを取り巻く、巾壱丈程有る、深き事千尋とも知れず。
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遠州濱松軍記 12 三方ヶ原の戦い(4) 家康浜松城帰城まで
「遠州濱松軍記」の解読を続ける。
榊原康政、城方へ引かずして、高林村、中澤村の間を引き、馬込方にて敵に追い詰められ危きなり。酒井左衛門尉忠次は中澤村の尾先にて、甲州勢と相戦い、源目口をば、鳥居彦右衛門尉元忠、固めける。敵短兵急に追いかけ来たる故、源目の木戸を開き、渡辺半蔵、同半十郎、桜井庄之助、脇尾五兵衛、右四人名乗り出で、鑓を合わせ、甲州勢を突き崩し、驚かしける。
※ 尾先(おさき)- 山裾の突端、ここでは中沢村のはずれ。
※ 短兵急(たんぺいきゅう)- 刀剣などをもって急激に攻めるさま。
また石川伯耆守、侍大将なれば、目立つ鎧を着し、甲州勢はこれを家康公とおもい、我も/\と追いかけ来たる。石川取って返し戦いけるに、大敵なれば、明光寺口を破れける処へ、酒井左衛門手立てにて、坊主首を上げるとて、刀の切先に突き懸け/\勇みければ、敵これを見て大きに驚き、山手へ直ちに散り/\となり引き退く。忠次は明光寺門の貫抜き堅めて、暫し息をつきけるこそ、酒井左衛門が手立てなりと。
※ 坊主首 - 信玄は剃髪していて、徳川の武将は「信玄坊主」と呼んだ。坊主首を信玄の首かと思い、武田方は大いに驚いたのであろう。
また家康公には名残木戸にて信玄公と合戦、その時、本多肥後守勘ヶ由左衛門、河合源五郎、長谷川紀伊守、加藤次郎九郎、信長公加勢、平手、長谷川橋之助、代脇藤八郎、山口飛騨守、加藤弥三郎討ち死にす。
それより家康公、名残口を御引き退き、鴨江村へ落ち延び給う。又々追いかけ来り、危い所へ平手家の組子どもかけ来り、相戦いて討ち死にす。鴨江村と伊場村の間、平手の墓印有り(上の写真)しなり。平手勢戦う間に、家康公、伊場村へ落ち延び給う。何とかしたりけん、御乗馬、歩行兼ねけり。それ下りさせ給う所へ、夏目藤四郎乗り来たり、我馬を差し上げ、敵と戦い討ち死にす。また柴田小兵衛火花を散らし相戦い、武田勢数多討ち死ぬ。誠に稀なる働きゆえ、この場を落ち延び給う。
伊場村名主権兵衛宅へ御入り遊され、暫く御休息遊され候内、また甲州勢七軒町の方より責め来るを、名主権兵衛、村中の百姓百余人にて討ち散らし、稀なる働きなり。その日も暮ければ、名主権兵衛御供にて、密かに鴨江小路より榎御門へ御入り遊さる。
また翌日、権兵衛召し出でさせられ候て、御手自ら、国増の御刀下し置かれ候。甲州勢、また榎御門へ押し寄せ来たるを、石川伯耆守数正、大久保七郎左衛門、言い合わせ、鉄炮を揃え打ちければ、敵散り/\に逃げにけり。
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遠州濱松軍記 11 三方ヶ原の戦い(3) 小豆糯の合戦
いよいよ三方ヶ原の戦いが始まった。「遠州濱松軍記」ではこの戦いを「小豆糯の合戦」と称して、家康公が自ら鎗をたずさえた活躍を描いているが、この戦いの結末は、「小豆餅」と「銭取」の地名由来の話として、家康が敗走した情けない話が残っている。話の中身はこゝでは触れないけれど、ネットで検索すれば簡単に出てくる。
渡辺馳せ戻り、これも中々大事なりと申し上げ、急ぎ先手を呼び返し言いける所、柴田七九郎重正、大久保治郎右衛門忠信、弐頭、勇み進みて駈け来たるを、渡辺立ち塞がり、平に止れと制しければ、これは不覚の留め立てなり。かくの如く勇み進み、敵様躰を見んと、悪し径を懸け、甲州小山田右兵衛が手勢、せめ合い負けて引きけり。石川伯耆守数正、只一手にて返し戦い、既に日暮れければ、石川手にては、外山小作と申す者、壱番鑓合わせ高名す。
※ 渡辺 - 渡辺半蔵守綱。鳥居四郎右衛門忠廣とともに、敵情偵察に出ていた。
この時、向坂彈正、信玄公御前にて申しけるは、一合戦成られ候わば、敵に軍を始めさせ申さんと、三千ばかり、新らてを以って討ちかかる。その先手は中務なり。大敵乱れかゝるより、小山田横合いよりこれを打つゆえ、平手が先手くずれて引きけり。
※ 中務(なかつかさ)- 平手中務。平手監物汎秀(けんもつひろひで)。織田信長の武将。
家康公、殊の外怒り給うて、御自身鑓をたずさえ、遠州山家三宝衆を突き崩し給う。この御威勢見る者、引帰さぬはなく、これ小豆糯(あずきもち)と申す所の御合戦とは申すなり。この御威勢にて第二の御働きには、小山田勢御手始めの合戦に、柴田、大久保を追い崩し、勝に乗り、備えを立てしを追い立て給う。遠州山家にて、武田方侍、数百余人御討ち取り給う。この御働き世上に隠れなき事なり。
※ 山家三宝(方)衆 - 作手の奥平貞勝、田峯の菅沼貞忠、長篠の菅沼満直の勢のこと。信玄はこの時期、山家三方衆を味方にして、三河・遠江の平野部へ進出を計った。
家康公、諸軍兵に息もさせず、山縣三郎兵衛政景が手勢を追い立て、三、四丁程追いかけ給うて、兜首八つ御取り遊ばされ候。それより、酒井左衛門尉忠次、加勢を討つ。また浜松へ武田勢、小山田、小幡、真田、土屋、武田佐右衛門、高坂、内藤、入り乱れ、殊の外、乱軍見えしかば、家康公御人数並び信長公より加勢、打ち負け、戦場を引き退き候なり。
結局は家康勢が敗北したと、最後の一行に書いている。
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遠州濱松軍記 10 三方ヶ原の戦い(2) 鳥居四郎右衛門の討死
「遠州濱松軍記」の解読を続ける。
日暮れと成り、この時、家康公、鳥居四郎右衛門忠廣を物見に遣わされ候。鳥居は馳せ帰り、申し上げ候は、勇み掛け候とも、御合戦は御無用に候なり。如何なれば、ただ信玄大勢に相備え、味方山の際に相伺い罷り在るなり。早々御先手へ使いの者を遣わされ、御人数を引き上げ給うべし。若し戦わんと思し召し候わば、敵、祝田坂登り候処、上打ちくずし候わば、御合戦御勝利成るべしと申し上げ候へば、家康公聞こし召し、殊の外御気色悪しく候て、御用にも立つべしと、大事の御使いに遣わされけるに、左様に臆し候ては、何の用にも立ち申さずと、人々打ち笑い、甲州勢を見て腰の貫けたるかと、御意遊ばされ候。
※ 鳥居四郎右衛門忠廣 - 三方ヶ原合戦が始まるとき、渡辺守綱と敵情偵察に出る。
※ 祝田坂登り候処、上打ちくずし候わば - 実際には武田勢は祝田坂の上の三方ヶ原台地に陣を張っていたから、そういうチャンスは無かった。
信玄が常に慎重に軍を進めて、山本勘介に機会を失しない進軍を度々進言されていたのに対して、家康は鳥居などの自重の進言を聞かずに戦端を切った。三方ヶ原の戦いでは、信玄と家康の間には格の違いがあったようだ。家康はこのあと、大敗北して、命からがらに浜松城へ逃げ帰り、そのことを生涯の教訓とすることになる。
目前の敵をおめ/\と帰さん、口惜しき事なりとて、御立腹有りければ、鳥居また申しけるは、日頃御用にも立たんと、随分目をきかせ候て、合戦の勝負を見立て、御負け候わんとも、御掛け候とも、これは御心ままなり。勝負を知らぬ者、臆病とは申さんとて、立ち出でける。
この合戦の前に藤蔵は、はや高名して討ち死にすと聞きければ、安からずと思い、一文字に乗り込み、晴れ成る働きして、藤蔵は鳥居を尋ね、また鳥居は藤蔵を尋ね、両人ともに討ち死にしけるなり。この藤蔵とは成瀬藤蔵なり。武功の者なり。
※ 藤蔵 -成瀬藤蔵(正義)、家康の御使番兼旗奉行、三方ヶ原の合戦で弟正成に家康を浜松城まで案内することを頼み、戦場に踏み止まって討ち死にする。
※ 高名(こうみょう)- 手柄を立てること。特に、戦場での手柄。武功。功名。
成瀬藤蔵は鳥居の籠城の進言を腰抜けとあざ笑った張本人であったらしく、鳥居と喧嘩になるが、後に仲直りし、ともに三方ヶ原の戦いで討ち死にした。二人ともそれぞれ武士の意地を通したように見える。
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遠州濱松軍記 9 三方ヶ原の戦い(1) 信玄軍、祝田坂の陣構え
午前中に、藤枝と靜岡市追分の果物屋で、またまた渋柿を買った。今日買った数は48個、うち靜岡で買った27個は四国産の大きい柿だった。これまでに合わせて、143個になった。最初の分は干し始めて10日経ち、一つ食べてみた。十分甘くなり、ほぼ完成した。これ以上干すと固くなって美味しくなくなる。ただ、常温で長く保存は利かないから、冷蔵庫で保存する。長期保存には冷凍すると、軽く一年は持つ。昨年作り置いた最後のものを、先日食べた。解凍すると柔らかく、随分甘くなっていた。
「遠州濱松軍記」の解読を続ける。
家康公は先陣は味方ヶ原を越え、放田坂に甲州勢を待ち居る。祝田坂にて出向く軍(いくさ)大将、鳥居四郎右衛門、岩城を引き戻り、この事、家康公御聞き遊され、甲州の大敵、中々小勢にては及び難しと思し召し、尾州信長公の加勢、乞い受け給う事、櫛の歯を引くが如く、これに依り、加勢には柴田、毛利河内守、佐久間、明智、遠藤、水野、林、木下など、都合八千余騎加勢着陣す。
※ 放田坂 - 祝田坂(ほうだのさか)のこと。当て字。祝田坂は三方ヶ原の根洗松から細江方面に下る旧道。
※ 岩城 - 浜松城のこと。
※ 櫛の歯を引くが如く - 人の往来や物事などがひっきりなしに絶え間なく続くことのたとえ。櫛の歯は次々とひくようにしてけずり作るところからいう。
信玄公には祝田坂に陣の構え、人馬を休め、諸大将に向いて仰せられけるは、家康公こと、東海道壱番の良将なり。その居城近くより押し寄りせめる事、これ一つの規模なり。我軍勢は長路を越し来たり、人馬殊の外つかれたり。一両日も相休め、またせめ寄り申すべしと仰せければ、山本勘介申しけるは、御定めに背くにはあらねども、先ず家康には、信長よりの大軍の加勢、急に押し寄せ申すべしと申し上げる。
然る処、小山田右兵衛尉、大原登と言う者連れ来たり、敵を見透しその造(つけ)有りければ、信玄籏本物見、穴山伊豆守入道馳せ向かいて、これを見定むる由、家康勢いを加わり、八頭の加勢の備えは、籏本集りて見え候。そこもと軍(いくさ)の時なりと申し上げる。小山田は唯今の忠、これにより軍始め仕り給うなり。浜松をば押し出し、相戦い給う。
※ 八頭の加勢の備え-武田軍の魚鱗の隊形に対して、徳川・織田軍は中央に家康の本営を置き、右に酒井忠次・滝川一益・平手汎秀・佐久間信盛を、左に小笠原長忠・松平家忠・本多忠勝・石川数正を配した横隊の鶴翼の陣を引いた。
いよいよ、三方ヶ原の戦いの軍始めが迫ってきた。
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