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「事実証談巻4(人霊部上)」 5 第1話の四

(幼稚園年中のお遊戯)

午前中、孫のえまちゃんの幼稚園の運動会を見に行く。今日は曇りで、身体は楽であった。写真のどこかにいるはずだが、皆んな同じ服装で、孫がどこか分からなかった。後で靴に注目すれば、区別できたと思った。

午後は「郷土の歴史講座」のフィールドワークで伊久美の犬間地区へ行く。久し振りに半日歩いて、膝ががくがくした。筋肉がすっかり落ちてしまったようだ。詳しい話は後日。

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「事実証談巻4(人霊部上)」の解読を続ける。

かくて伴い行きければ、その日は主(あるじ)、他に物し(出掛け)、娘のみありて、かくと告げれば、養母喜び、病の床より転(まろ)び出で、さめ/\゛と歎きつゝ、良節の袂にすがり、不思儀の縁にて親子となり、産みの子よりも親しみ深く、千代もと思いし甲斐もなく、飽かぬ離別となる事は、如何なる因果なるぞやと、人目も恥じぬ悲しみに、しばし詞(ことば)もなかりしが、
※ 飽かぬ(あかぬ)- 満ち足りない。名残惜しい。

両人ともに涙を払い、歎き給うも理(ことわり)ながら、今更返らぬ前世の宿縁、かゝる歎きは御身の障り、何時までかくて有りとても、尽きせぬ名残となだむるを、なお取り縋り歎きけれども、果てし無ければ、両人ともに、袂(たもと)振り切り立ち出でるを、養母はなおも耐え兼ねて、転(まろ)びながらも、門先遠く慕い出で、取り縋りて歎きければ、

二人もとこう詮方なく、立ち煩(わずら)いて有りけるを、(このとき養母、別れを悲しみ、道遠く付き添い行きし者、物語りにて、その歎き深かりしこと記し)隣家の人々立ち出で、なだめすかして、家に伴い抱き入れければ、二人も泣く/\立ち帰りしとなん。
※ とこう -(「とかく」の音変化)あれこれ。何やかや。

さて多仲は寺に帰りしより、尋常ならぬ顔ばせにて、物思わしげに見えけるを、住僧見咎め、汝こゝに帰りしより、顔色常に変れり。かくて有りなば、身の為、悪(あ)しかりなん。我が所縁(ゆかり)あれば、江戸に下り保養し、快気あらば医学を励みてよ、と住僧の進めに随い、多仲は江戸にぞ下りける。
※ 多仲(たちゅう)-「良節」の養子行く前の名前。元の名前に戻ったのであろう。
※ 顔ばせ(かおばせ)- かんばせ。顔つき。顔のさま。


かくて所縁(ゆかり)の方に客居して、日毎に上野、浅草、山下、両国の辺(ほとり)に遊びて、興を催し、日々の保養怠らざりしかども、その験(しるし)なくて、終に労瘵の病となり、同年十一月、十九歳を一期(いちご)として、客居の方にて病死せり。
※ 客居(かっきょ)- 旅ずまい。客として、仮ずまいすること。
※ 労瘵(ろうさい)- 漢方で、肺浸潤・肺結核のこと。
※ 一期(いちご)- 死に際した時。臨終。最期(さいご)
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「事実証談巻4(人霊部上)」 4 第1話の三

(秋らしい夕空/昨日撮影)

秋らしい夕空になった。ただし、今日は雲一つない秋晴れだった。

夜、金谷宿大学、要綱部会。

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「事実証談巻4(人霊部上)」の解読を続ける。

住僧、不審の顔色にて、さるにても、養母の寵愛深き故、住み憂きとは甚(いと)いぶかし。汝じ不義の心なくとも、養母の迷いに誑され有るに耐えかね来りしか。養母の親しみ、他に異にて住難き由は如何なる事、と糺しければ、
※ 誑される(たらされる)- うまいことを言ってだます。たらしこむ。

良節、重ねてその由は、我ら常に他に出る度毎に、養母門出を見送り、その帰るさ、遅き時は立ち居につけて待ちわび給い、また夜な/\寝所に入りては、稚子(おさなご)を寝しむる如く労(いた)わること、産子(うみのこ)の寵愛にも勝りて、深く恵み給ふ故有るに耐え難し、と歎けるまゝ、
※ 帰るさ(かえるさ)- 帰る時。帰りがけ。

住僧も詮方なくや思いけん。とてもかくても、離別と思い定めなば、その由包まず、媒(なかだち)に物語り、決せよと言いて、住僧不審も解けし躰なれば、良節やがて媒の方に行き、つぶさに語りければ、

媒も詮方なく、養家に至り、その由を談じけるに、思い設けぬ離別なりと歎けれども、さまで思い定めなば、思い返す事あらじと、詮方なく離別とは定めつれども、養母これを深く悲しみ、媒に乞いけるは、かくなる上は詮方なきことは侍れども、親子となりしは深き縁にてこそ有りつらめ。去年(こぞ)の春まで見ず知らず、過ぎし昔の偲(しの)ばれて、浅からざりし親しみを、何時の世にかは忘るべき、離別の上はまた逢う事も、計り知られねば、親子の別れも今一度、逢わせてたべとさめざめと、泣き口説きてぞ頼みける。
※ たべ -「給え」の変化したもの。

媒も詮方なく、かくまで名残(なごり)惜しませ給う離別にて、人に恨みの有らざれば、などかは否み申すべき。伴ない来たり申さんと、養母の歎きを慰めつゝ、またかの寺に至りて、養家の歎き、養母の悲しみを、具(つぶさ)に語り伝えけるに、

住僧はただ黙然として居たりしが媒に向いて言いけるは、実(げ)にや親子となりしは、前世の因縁、今また養母の歎きをふり捨て、離別するも皆これ前世の契約、如何なる宿縁にてか、親子とはなりつらん。かくまで離別を悲しみ、身退(しりぞ)くを疎(うと)む心もなくなど、対面をば乞いやらん。暫しの間、親子となりしも深き因縁、飽かぬ別れとなりゆくも、さるべき因果の報(むく)いなるべし。寵愛深き養母の歎き、聞くに耐えざることなれば、離別は離別、今一度、報恩のため伴ひ給え。愚僧が礼謝も、良きに伝えて給われよとて、また養家へぞ遣しける。


読書:「果断の桜 沼里藩留守居役忠勤控」鈴木英治 著
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「事実証談巻4(人霊部上)」 3 第1話の二

(紅白ヒガンバナの競演 その2)

午後、掛川図書館に、「お茶と文学者」講座に出席した。今日は「第3回芥川龍之介とお茶」であった。事前に作品を読んで来るように連絡があり、ほぼ50年ぶりに「羅生門」「鼻」「芋粥」「蜘蛛の糸」を読んで参加した。

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「事実証談巻4(人霊部上)」の解読を続ける。

さて、それより心地(ここち)例ならずして、日を経(へ)て重病とはなりしとなん。かくて、良節密かに思いけるは、養母の病い尋常ならず。まさしく労瘵にて全快すべからず。娘は若年なり。養父の気質並々ならざれば、行末遂(と)ぐべくも覚えず。とく離別せばやと思いて、常に出入りする老婆に、しかじかの由を密かに語りけるを、老婆とかく(あやな)て、さる事あるべからずと諌めければ、その沙汰なくて過(すぐ)したりしを、
※ 労瘵(ろうさい)- 漢方で、肺浸潤・肺結核のこと。
※ 操す(あやなす)- 巧みに扱う。あやつる。


五月の頃(こは田方の植付過し頃なる由聞けり、月日未詳)、良節俄かに引馬野の方へ行かんとて、出(いで)さまに、門前近き道にて、かの老婆に出逢いたり。何方(いづち)へ行き給うにかと尋ねければ、良節ふと離別せんことを語るに、

(うば)驚き、袂を控えて言いけるは、いつぞやより、然(しか)のたまう事有りしかども、かくばかり親しみ深き中にて、戯(たわぶ)れかと思いしを、実(まこと)(しか)思い給うにや。何事か御心(おんこころ)に叶わずして、かかる事をば言い給うぞや。思い留まり給え、となだめけるを、
※ 嫗(うば)- おうな。老女。老婆。
※ 袂を控える(たもとをひかえる)- 袂をとらえて引き止める。
※ 然(しか)- そのように。さように。


良節嘲笑(あざわらい)て、離別と言いしは戯(たわぶ)れにて、汝じを驚かさん為なり。とく帰り来(こ)んと欺きければ、嫗(うば)も戯事(たわぶれごと)と思い、笑いを催して、別れて家に帰りしとなん。

さて良節はそれより媒(なかだち)の家に立ち寄り、また引馬野に至りて、住僧に離別のことを談じけるを、いと怪しみて、汝じ養家の親しみ浅からずと聞きつるに、何とてかくは思い定めしぞ、と尋ねければ、

良節答えけるは、何事も不足(あかぬ)ことなく、親しみ深くは、し侍れど、その中に養母の寵愛、実母の親しみにも勝りて、余りに寵愛深き故、有るに耐えずと言いけるを、

住僧聞きて、そは汝じ、養母と不義の密事せしよな愛深く、住み憂き由やある。包まず語るべし、と責め問えども、

良節さらに驚き、色なく答えけるは、我ら若年には候(さぶ)らえども、親子のちなみを結びし人となど、交わさる事の侍らん。神仏に誓いて不義の覚えさらになし、と顔色正しく答えければ、
※ ちなみ(因み)- 関係。縁。つながり。
※ 交わさる(かわさる)- 思いをかけ合う。情愛を交わす。
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「事実証談巻4(人霊部上)」 2 第1話の一

(大代川土手のイヌキクイモ)

散歩道の大代川土手の河原側に、草叢の中に大きな黄色い花を見付けて、デジカメの機能を確かめるべく撮ってみた。10メートル以上の距離があって、ズームして写したら、結構きれいに撮れた。

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「事実証談巻4(人霊部上)」の解読を続ける。

事実証談巻の四     中村乗高
                    天宮 中村乗高 撰集
                     男 中村真幸 校正
人霊部上の一


○帯山を源として流れ絶えせぬ小川、二た瀬有りたり。背より流れ出るをば背川と称(い)い、腹より流れ出るをは腹川と称(い)えり。こは知り人稀れなれど、昔よりの言い伝えなりと、そのわたりなる老人の物語りなり。

頃は安永年中、引馬野のわたりなる或る寺の僧、故郷、三河国田原という所より、甥子(おいこ)なりとて、十五、六歳ばかりなる総角の男子を伴い来たり。医師(くすし)になさんとて、手習い学問、怠りなく学ばしめけるを、その近きわたりなる人々、かの男子の生(お)い立ちに愛でゝ、さるべき家も有りなば、媒(なかだち)せん心にて、こゝかしこと言い試みけるに、
※ 総角(そうかく)-(「まえがみ」とルビあり)子供の髪形。あげまき。

かの腹川近きわたりの神職、その頃、引馬野のわたりに物学びして有りければ、その事を聞きて、或る医師の家に十三歳になりける一女(ひとりむすめ)ありければ、その医家の聟養子に媒(なかだち)せんと計りけれども、娘未だ年少なれば、今暫く養子となし置き、十五歳にもなりなば、娶(めあわ)すべしと約し置いて、同じ六年という年の春の末に、かの神職の媒(なかだち)にて、医家の養子になして、初めの名は多仲と云しを改めて、良節とは名乗りしとぞ。
※ 同じ六年(おなじむとせ)- 安永六年(1777)。

さてかの良節、世に優れたる美男にて、心も和(やわ)らかなりければ、家族は言うもさらにて、人の交(まじわり)睦まじく、養家の親しみ浅からざりしに、同七年と云いし年、養母の齢、三十二歳になれり。

すべてそのわたりにては、男は二十五歳と四十二歳、女は十九歳と三十三歳を厄年とて、その前年より萬(よろづ)慎しむ習いにて、法多山の観音を厄除観音と称して祈願する故、二月初午の日、遠近(おちこち)の諸人、あまた参詣し群集しければ、その年の二月初午の日、かの養母も近きわたりなる人々と共に、厄難祈願の為とて、法多山へ詣でたりしに、その帰るさより、風邪の如く熱気起りて悩しかりしを、伴ないし人に助けられて、家には帰り着きぬ。
※ 帰るさ(かえるさ)- 帰る時。帰りがけ。
※ 熱気(ねっき)- 病気などによる発熱。
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「事実証談巻4(人霊部上)」 1 はじめに

(散歩道のコスモス)

数日前、夜、帰宅した息子が今すぐそこでイノシシを見たと話した。いよいよ近くまでやって来たか。大代川の川向うは西原を背負っているので、イノシシは珍しくないのだろうが、大代川はなかなか越えられないだろうと安心していた。情報を集めると、足跡を見たとか、サツマイモを掘って食べられたとか、そんな話に接した。しばらくは、夜間は要注意である。

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「富士日記」の解読を昨日で終えて、今日より、「事実証談巻4(人霊部上)」の解読を始める。「事実証談」は、巻1~3はすでに解読していて、のこるは巻4と巻5で、それほど難しいものでもないので、一気に読み終えたい。一ヶ月半ほどかかるだろうか。

   事實証談巻之四 人霊部の首(はじめ)に言う      中村乗高
怪しきが中にも殊に怪しきは、亡霊、生霊の浮かれ出て、現(うつつ)に形容(かたち)をあらわすことにぞ有りける。

(しか)はあれども、かかる説には虚談(そらごと)のみ多くて、実(まこと)に然るは、いと稀なるを、徒然の慰め草に、何くれと可笑しく作り出でたる草紙どもの類いに目馴れて、実(まこと)に、しか奇霊(あやしき)ことのあるをも、賢しだちたらん人は、狐狸など様のものゝ、人を誑(たばか)る業(わざ)なりと言い消つめれど、悉(ことごと)あとなき事を言い立つるものにも有らざれば、百千が中には実(まこと)なるもなどかは無かるべき。
※ 賢しだつ(さかしだつ)- 賢そうに振る舞う。りこうぶる。
※ 言い消つ(いいけつ)- 悪く言う。けなす。
※ あとなし(跡無し)- 根拠がない。
※ などかは - どうしてか。なぜか。


おのれ年来(としごろ)、この事に心を入れて、事実を見聞きまゝに、辛(かろう)じて聞き糺(ただ)し、なお疑しきは、その里々に行きて、密に問い聞きて、いと慥(たしか)なるを撰びて、国内近辺の正しく見聞きしことどもを、主(むね)と記し、また稀々(まれ/\)には、隣の国のも、遠き国のも、書き載せたるは、その国人に確かに聞き明らめたる事どもにて、更に浮説にはあらず。
※ 明らめる(あきらめる)- 確かめられる。
※ 浮説(ふせつ)- 流言。風説。


さればこの人霊部は、かのはかなき作り草紙の類いにはあらで、いと正しき事どもなれど、皆な近き世のことのみにて、誰も/\秘め隠すこと多ければ、その地名、人名などを露わには記し難くて、洩らしつるはいと本意なき業なれど、如何はせん。

これはこの人霊部のみにあらず。妖怪怪異変化異病の部なども、これに同じ。それが中にそれと言わずして、物に寄えて打ち掠めて記せるもあれば、見ん人、その心して覚(さと)りねかし。かくてその里の名、家の名、人の名などの、詳しきことは、石室秘録に残し留めたり
※ 妖怪怪異変化異病の部 -「事実証談」は「人霊部」上下で終り、妖怪怪異変化異病の部は計画はあったが出版されなかった。
※ 寄える(よそえる)- 他の物事にたとえる。なぞらえる。
※ 打ち掠む(れい)- ほのめかす。それとなく言う。
※ 石室秘録に残し留めたり -「お墓まで持って行く」の意であろう。
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「富士日記」 41 跋の読み下し

(紅白ヒガンバナの競演)

家の脇の土手で、紅白ヒガンバナが咲き競って、ちょっとした見ものである。どうやら、白のヒガンバナは、数年前、女房が庭に生えていた球根を掘り出して、土手に捨てて置いたものが増えたらしい。

夜、金谷宿大学、教授会。

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「富士日記」の解読を続ける。「跋」の読み下しである。幾つか疑問点はあるが、凡その意味は間違っていないと思う。

八葉青蓮三峰白雪、上の九天を挿み、下の三州に跨るは、人未だ嘗てこれを観ざると雖も、而(しか)るに、皆それ富嶽たるを知るなり。
※ 八葉(はちよう)- 富士山頂部にある「八葉」と呼ばれる八つの峰。
※ 青蓮(せいれん)- 青蓮華。青色の蓮華。仏・菩薩の目にたとえる。
※ 三峰(さんぽう)- 下から見た富士は山頂が三峰に分かれていると見られ、三峰型富士の描写法が確立していた。
※ 九天(きゅうてん)- 古代中国で、天を九つに区分した称。中央を鈞天、東方を蒼天、西方を昊天、南方を炎天、北方を玄天、北東方を変天、南東方を陽天、南西方を朱天、北西方を幽天という。


賀茂季麿縣主の国歌においてや、殆(はじ)めて類(たぐ)えん人、未だ嘗て見ざると雖ども、而(しか)るにまた、皆その名望たるを知らざる莫きなり。縣主、弱冠にして江戸に遊ぶ。十九年留り、以って和歌を善くし、世に有名なり。
※ 国歌(れい)- 和歌。やまと歌。

寛政壬子、予、象田禅師を天龍の寿寧精舎に訪(とぶら)い、坐して一客、禅師、予に謂う。曰く、この人、和歌を以って江戸に遊び、頃日、京に還る。予、未だ姓名に詳しからずと雖ども、而して、必ず縣主たるを知るなり。既にしてこれを問い、果然爾後交驩情誼を得る。
※ 寛政壬子(かんせいみずのえね)- 寛政4年(1792)。
※ 寿寧精舎(じゅねいしょうじゃ)- 天龍寺の寿寧院。
※ 頃日(けいじつ)- 近ごろ。このごろ。
※ 果然(かぜん)- 思った通り。果たして。
※ 爾後(じご)- それ以後。
※ 交驩(こうかん)- 互いに親しく交わり楽しむこと。
※ 情誼(じょうぎ)- 真心のこもった、つきあい。


日熟して、今に二十余年、なお一日なり。属者、縣主、書肆請刻に応じ、その所、嘗て富士日記を著し、すなわち、予その末に跋を便ず。予、文辞にあらざるを以って、一閲のその文辞に因るべからず。
※ 一日(いちじつ)-「十年一日の如く」長い年月の間、何の変化もなく同じ状態であること。
※ 属者(しょくしゃ)- 近頃。この頃。
※ 書肆(しょし)- 書物を出版したり、また、売ったりする店。書店。
※ 請刻(せいこく)- 出版申し込み。
※ 文辞(ぶんじ)- 文章。また、文章の言葉。
※ 一閲(いちえつ)- ざっと目を通して調べること。


富膽考據精該、又何を待ち、予、喋々たり。唯この書のなり。その名望の弥(いよいよ)高く謂い、青蓮と白雪の光を争う。また奚(なん)ぞ、べからざるや。謹跋。
※ 富膽(ふせん)- 文才などが十分あること。また、文章の言葉。
※ 考據(こうきょ)- ある事をよりどころとして考えること。
※ 精該(せいがい)- くわしく備える。
※ 喋々(ちょうちょう)- しきりにしゃべること。
※ 行(こう)- 刊行。


  文化十一年(1814)甲戌、孟夏 瀬尾文 拜撰
                   研齋書
※ 孟夏(もうか)- 夏の初め。初夏。陰暦4月の異称。


以上で「富士日記」の解読を終る。

読書:「思い孕み ご隠居さん6」野口卓 著
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「富士日記」 40 あとがき 跋

(歴史講座会場の伊久身農村環境改善センター)

午後、郷土歴史講座「今川氏と伊久美犬間城」と銘打った講座が、島田市伊久身農村環境改善センターであり、犬間城のことが知りたくて参加した。講演は看板に偽りありで、犬間城のことは全く何も分からないというし、伊久美の歴史には最後の15分、それも今川と武田が戦い、伊久美は戦乱に荒廃したが、徳川の時代になって大開発が行われた話と、今川の時代にすでに年貢にお茶と紙が納められたという古文書があった話のみであった。

講演としては、今川、武田、徳川、北条、上杉といった戦国大名が、志太郡でどのように戦ったか、話はそれなりに面白く聞いたが、それは何も伊久美まで出掛けて聞く話でもなかった。参加者は40名ほど、プロジェクターに映すだけで、レジメも無く、パイプ椅子だけで、机がない講演は何とも疲れる。

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「富士日記」の解読を続ける。日記は昨日分で終り、今日と明日の解読は「あとがき」と「跋」である。

賀茂季麿縣主の、富士に登られし時の日記を写し終えて、返し侍るとてと有りて、

                 浜田の殿
   富士の嶺に 攀じ登りつゝ 見るが如(ごと)
        思ほゆるかも 美(うま)しこの書(ふみ)

同じ文を返し参らすとて、

                 書博士 賀茂保考
   上もなき 言葉の玉は 富士の嶺の
        雪の光も 沿うにや有るらん


仰嶽の額のことを思いやりて、

   書付けし 筆の姿も 富士嶺の
        上なきものと さぞ仰
(あふ)ぐらし

春の山踏み、秋の露原を分けし日記は、世になれど、この一巻はかの高嶺を天雲の余所(よそ)にのみして、過ぐめるあたりの、慰め草にもなすべく、束の間の徒然(つれづれ)、登り見ん人の道の枝折(しおり)にもなしてんと、愛(め)足らへて、書屋(ふみや)の某が摺り、巻にすとて、引き歌や何や、雪臣に物せよと、そそのかすれば、大蛇(おろち)に足の類いなる筆を添ふるにこそありけれ。
※ 沢(さわ)- 物が豊かにあること。
※ 足らう(たらう)- 資格や力量などが十分に備わっている。
※ 大蛇(おろち)に足の類い -「蛇足」のこと。

                          菅原雪臣


以下に、跋(漢文)を原文のまま示す。明日、跋の読み下しにチャレンジする。相当、手ごたえを感じる。

  八葉青蓮三峰白雪上之挿
  九天下之跨三州者人雖未嘗
  之觀而皆知其為冨嶽也
  賀茂季麿縣主之於國歌也
  殆弖類焉人雖未嘗見而亦
  皆莫不知其為名望也縣主
  弱冠遊于江戸留十九年以
  善和歌有名于世矣寛政壬子
  予訪象田禅師於天龍之
  壽寧精舎坐弖一客禅師
  謂予曰是人以和歌遊于江戸
  頃日還京予雖未詳姓名而
  必知為縣主也既而間之果
  然爾後得交驩情誼日熟于
  今二十餘年猶一日也属者
  縣主應書肆之請刻其所
  嘗著冨士日記乃便予跋其
  末予以不文辞不可因一閲
  之其文辭冨膽考據精
  該又何待予喋々乎唯此
  書之行也其名望之彌高謂
  與青蓮白雪争光亦奚不
  可哉謹跋
     文化十一年甲戌孟夏瀬尾文拜撰
              研齋書
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「富士日記」 39 (旧)八月十一日(つづき)、十二日

(墓地から見える富士山)

お彼岸で、女房の実家のお墓参りに行った。見上げて気付いたら、千葉山の陰から、富士山が顔をのぞかせていた。当地の旧五和村からは、山に登らないと富士山は見えない。ちょうど千葉山の陰に入るからである。最近、伊勢の義姉さんの葬式に参列して、そろそろ自分も墓地を手配して置かなければと、思い掛けていたところで、富士山が見えるなら、この墓地もいいかなと思った。曹洞宗観勝寺の墓地である。

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「富士日記」の解読を続ける。

酉の時を限るものから、暫しはなど呟けど、軍防令に、凡そ辺城の門は、遅く開きて、早く閉じよ、とやらん見えたれば、関守を恨むべくも無し。
(原注 関市令にも、凡そ関門は日の出に開き、日の入に閉ず、と見えたり。)

術なくて、関の此方に人々宿りとる。入り日を招くことは難(かた)ければ、今宵、つとめて(早朝)鳥の空音をこそなど、言いしろいつゝ枕を取る。
(原注 源氏、橋姫巻に、入り日を返す撥(ばち)こそありけれ。)
(原注 淮南子覧冥訓に云う、魯陽公、韓と難を構う。戦い酣(たけなわ)にして日暮る。戈(か)を援(ひ)きて、これを撝(さしまね)けば、日これが為に反ること三舍なり。)

※ 三舎(さんしゃ)- 昔の中国で、軍隊の3日間の行程。1舎は30里。
(原注 韓非子内儲篇に云う、虞公と夏戦い、日落ちんと欲す。剣を以って日を指し、日還って落ちず。)
※ 鳥の空音(とりのそらね)- 鶏の鳴きまねをすること。
(原注 鳥のそら音、史記、孟賞君伝に見ゆ。)
※ 孟賞君伝(もうしょうくんでん)- 秦を脱出時、鶏が鳴くまで開門しない函谷関の関所の役人を、鳥の空音をして、開門させて関所を越えたという故事。
※ 言いしろう(いいしろう)- 言い合う。


十二日、昨日の山路に困じたりしげにや、味寝して明くるも知らぬを、主に驚かされ(起され)て、起きてみれば、昨日のごと(如)、空掻き曇り、雨降り出でたり。
※ 困じる(こうじる)- 疲れる。
※ 味寝(うまい)- 気持ちよく熟睡すること。


今日は山中の習いと言わん、頼みもなければ、蓑笠設け(準備し)て、卯の時過ぐる頃、関を越え、八王子、日野など過ぐるほど、雨弥増(いやまし)に降りたり。府中にて、昼の餉(かれいい)(た)うべて、高井戸、四谷に至れる頃、暮れ果てたり。
※ 頼み(たのみ)- 頼る人。案内人。

道連れとなりし人々は、甲斐の国の人なれば、夜深く行き着かんこと、如何にぞや侍らんとて、四谷に宿りたり。我どちは家路なれば、よしや更けぬともとて、別るゝ比(ころ)は、やゝ雨も小止みて、戌の時ばかり、家には帰り着きにたり。
※ 我どち(わがどち)- 自分たちどうし。仲間どうし。
※ 小止み(おやみ)- 雨・雪などが少しの間降りやむこと。
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「富士日記」 38 (旧)八月十日(つづき)、十一日

(散歩道のマルバルコウ)

よく見る花だが、小さい花なので、ここに取り上げるのは初めてだろう。

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「富士日記」の解読を続ける。

さて鶴瀬を立ちて、駒飼を過ぎ、笹子峠に掛れるほど、暑さも汗も、大方同じものから、水欲しみせぬぞ。さは云えど、秋の半ばのしるしなりける。峠に暫し憩いて行く駅は、黒野田と書いて、くろぬだとぞ云う。野をと読めることは、日本紀、萬葉集などの歌には珍らしからぬことなれど、上つ代のこととのみ、思いけるは、浅かりけり。

こゝを過れば、初雁里(はがり)というに出ず。東鑑に波加利(はがり)と云える所なりとぞ。時しもあれ、里の名いと面白ければ、

   何時の世に 誰れ聞き初めて 名付けしむ
        あら山中の はつかり
(初狩)の里

里の名を我が身に知る人の有り気にもなしや。この沢の里を花咲と云えると聞けば、必ず萩の花なるべしと思い続けつゝ、山路分け行くに、
(原注 源氏、浮舟巻、
    里の名を 我が身に知れば 山城の 宇治のわたりぞ いとど住み憂き)


日暮れにたれば、大月と云える駅に宿らむとて、聞かするに、甚く荒れたる家なるが、殊に昨日の水にて、この里中に懸れりける掛け樋、落ちたれば、湯の設けも難しと聞けど、猿橋まではいと遠ければ、術なくて、宿れる物柄、草の枕に異ならず。荒れたる軒端を見ても、里の名はしるかりけり。
※ 物柄(ものがら)- 物や人などの質。
※ 里の名 -「大月」は「大漬き」にもつながる。
※ しるかり - ぬかっている。


   故郷の 軒漏る月は 秋ごとに
        住み荒してぞ 澄み勝りける


と我れ、早う詠みしを、ふと思い出されたり。
※ 早う(はよう)- 早い時期。(かつて、詠んだことを)

十一日朝、とく宿りを立つに、空曇り、雨もいささか降れば、奥山の倣(なら)い、明日のほどはかくこそあらめと、蓑笠も取らで行くに、思いしに違わず、猿橋、犬目など過ぎる頃は、いとよく晴れたり。

かの来し折りに、鶴脛にて渡りし川も、水嵩勝りたりとて、舟にて渡りて、上野原、諏訪など、もと来し道を過ぎて、小仏峠(たむげ)に掛かれるは、苦しかれど、やゝ故郷の近付く嬉しさに慰めつゝ、
※ 鶴脛(つるはぎ)- 着物の裾が短くて、すねが鶴の脚のように長く現れていること。

峠に行き至れる比(ころ)は、申の半なれば、駒木野の関越えむ事、覚束なしなど云えど、関の此方(こなた)に宿りては、明日とく出で立ち難ければ、いざ例の益荒男心をとて、道連れとなりし人々語らいて、二里ばかりの坂路を、息も継がで、ただ下りに下りて、関路に近付きて、道来る人に聞けば、只今閉ざしたりというに、皆人あえなき心地す。


読書:「信義の雪 沼里藩留守居役忠勤控」鈴木英治 著
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「富士日記」 37 (旧)八月六日(つづき)~、十日

(散歩道のイタドリの花)

散歩道に、クズと共に目立つ草であるイタドリ、それにも地味であるが今の季節に花が咲く。

午後、掛川文学講座に出席した。11月の沼津への文学散歩はくじに漏れて、参加できないことになった。残念!

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「富士日記」の解読を続ける。

かくて人々の強いて望めば箒木の巻の、雨夜の物語りを講じたれば、御居屋には、今宵鵜使わせて、見せ参りせんとて、その設けしたり。
※ 居屋(いや)- 住居。住む家。

日暮れ果てゝ、いざやと言えば、川辺に出て見るに、いと興あり。去年、玉川にても見しかど、その折りは昼にて、篝(かがり)もなく、使う様も違(たが)いて、去年に比ぶれば、こよのう勝りて、いと面白しと思うも、かつは、いさわ川の名にも因れるなるべし。

   庭清く 照らす篝(かがり)に いさや川
        いざと答うる いろくづやある

※ いろくづ(鱗)- 魚。うろくづ。

(かがり)をこの里人、たいとも云わず、かんばと云えれば、如何にと聞くに、(かば)もて調じたれば、しか云うとぞ。暫しありて、川田の家に帰りて、この集える人々も、共に団居(まとい)して、夜更くるまで物語りしつゝ、枕をとる。
(原注 かんば 倭名鈔云う、玉篇云う、樺(和名加波、又云う、加仁波)、木皮名が思えらく炬)
(原注 万葉集に樺皮をかにわと読めり)


十日、空もいとよく晴れ、水嵩も引きたりと聞けば、旅装いして出るに、笛吹川の岸まで、人々送りせり。懇(ねもご)ろに別れを告げて、舟にて渡る。

   浪の音も 秋の調べに なりにけり
        笛吹川の 水の朝風


と口遊(くちずさ)びて、石禾(石和)の駅(うまや)も過ぎゆくに、萩原元克が家は左の方に見えて、いと近けれど、急げば、え立ち寄らで、栗原、勝沼など云えるをも跡になして、鶴瀬の駅(うまや)に憩いて、昼の餉(かれいい)(た)うぶ。

勝沼は、勝頼のいくさ(戦)に負けて打ち死しける所と聞けば、名にも縁らぬものなりけりと、ふと覚ゆ。ここは葡萄をいと多く作りて、生業(なりわい)とせり。
(原注 天正十年三月十一日、武田勝頼自殺。)

この道の片方(かたえ)に、柏尾山と額うちたる寺あり。真言宗にて、寺を大善寺と云うとぞ。こは、元正天皇の養老二年に、行基僧正営みて、今の堂は、後宇多天皇の弘安年中建ちしまゝなりとぞ。いと古き文書ども多かりと聞けば、見まほしけれど、仮初めに見すべきことも覚えねば、空しく過ぎぬ。
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